夜の帳が降り切った頃。
それは闇夜に乗じて人間の本性が顕現される魔の時間でもある。
時には暴力的な破壊衝動として、または情熱的で動物的な愛欲となって溢れ出す。
そしてそれは、全米でも指折りの経済都市でありながら、最悪レベルの犯罪率を誇るこの街では一際に顕著だ。
今宵も街の何処かで無慈悲な銃声と誰かの悲鳴が轟いている。
「ゴッサムの夜は相変わらずね。相変わらず……。騒がしくて下品だわ。」
大都心の中心部に聳えるタワーマンションの最上階。明かりが灯らない薄暗いペントハウスの寝室。そのベッドの上で蠢く影が二つ。
消え入りそうな呟きを漏らしたその女性は、窓から差し込む淡い月明かりと、それとは対照的に騒がしいダウンタウンのネオン灯の光を受けて艶やかに輝くプラチナブロンドの髪をかき上げ、自身の身体を優しく包む“逞しい腕”からスルリと抜けて上体を起こした。
激しく熱く情熱的な時間を経て、すっかり落ちてしまった唇のルージュを彼女は人差し指でスッと撫でつつ、ベッド脇に腰を掛けながらカーテンの隙間から垣間見える大都会の景色に目を向けた。
「だが、情熱的でもある。……お嫌いかな?」
芸術的とすら思える女性の美しい横顔。その美貌に視線を向けながら、ベッドの中の“もう一つの影”は彼女に遅れて上体を起こした。
鍛え抜かれた彫刻のような肉体は、まるで冷たい鋼のように不気味な程に洗練され、妖しい熱量と存在感を誇示している。
暗闇にぼんやりと浮かぶ女性の真っ白で華奢な背中に掌を当てる“彼”は、まるで背中越しに彼女の心音と存在を確かめているようだ。
「ふふ。どうかしら。」
女性は艶っぽい笑みを含ませながら、床に乱雑に散らばった衣服の一つずつをゆっくり拾い上げ始める。その一挙手一投足を見つめながら彼はゆっくりと彼女の背中から掌を離した。
「なんだ。もう行くのかい?寂しいな。」
「心にも無い事を言わないで。」
「ひどいな。本心さ。」
スルリと流麗な動作で下着を着用した彼女はブラジャーのホックを器用に閉めてベッドから立ち上がり、数歩先のローテーブルへと足を進める。
火照った身体を冷ますために、机上のシャンパングラスに口をつけた彼女だったが、その中身がすっかり温くなっている事に露骨に顔を顰めた。
そしてその渋い表情のままソファに腰掛けた後、ベッドに寝転がった彼に再び視線を向けた。
「本心……。そう?。嘗て敵対していた組織の女にもそんな感情を抱くの? “闇の守護者”は随分と物好きなようね。」
「………。」
ベッドに横たわりながら、天井をぼんやりと眺めていた彼の視線が一瞬厳しくなったように見えた。
ベッドから少し離れたソファに腰掛けながらも、彼の雰囲気が変わったことに気付いた彼女は、得体の知れない緊張感に鳥肌を立たせながら、机上のタバコへと手を伸ばす。
「あら怖い。ゴッサムの蝙蝠は獰猛で困るわ。……安心して。今すぐに組織がゴッサムに手を出すことは無い。」
“組織”にとって、ゴッサムシティという場所は酷く魅力的だ。全米トップレベルの経済環境を持ちながら、犯罪が横行する腐敗ぶり。
当然、司法・行政共に汚職が横行し、犯罪者が姿をくらますには最適な場所でもある。
その価値は国際的な大規模犯罪組織にとっては計り知れないものがあるだろう。事実、組織はこれまで秘密裏にゴッサムの掌握を何度も試みていた。
そして、その何れも失敗に終わっている。その最たる原因こそ、今彼女の眼前でベッドに寝転がっている“彼”なのだ。
「そうかい?それは嬉しいね。けど何故だろうか。君が現れる時は決まって何かの予兆の気がするんだ。」
「ふふ。随分な物言いね。傷つくわ。」
上品なゴールドの装飾が施された限定モデルのZIPPOライターを手に、彼女はスラリと伸びた足を組みながら、口に咥えたタバコに火を灯した。
婉曲的に疫病神扱いされた事に苦笑を漏らしながら、フッと穏やかに煙を吐き出す。
彼女が煙を吐き切ると同時に、いつの間にかベッドから抜け出していた彼が、バスローブをその身に羽織りながら彼女の横に座るようにしてソファに腰掛けた。
「なぁに?疫病神に近づきすぎると、不幸が伝染るわよ?」
「こんなに美しい疫病神なら喜んで。」
「ふふ。」
そして再び、逞しい腕が彼女の華奢な肩を捉える。
点けたばかりのタバコを灰皿端に置いた後、彼の分厚い胸板にトン、と小さい頭を預けた彼女は、喧しく鳴り響く鼓動の音を直に聞きながら、彼の歯の浮くような台詞を鼻で笑って見せる。
「…………“パシフィック・ブイ”。」
「インターポールの新拠点か。世界中の監視カメラを統合し、個人を特定する新システムも実装しているとか。」
「そう。如何なる犯罪者も、この地球上にいる限りは逃げ場を失う究極の“神の目”。そしてそれは、場所だけでは無く“時間”に於いても。」
「“老若認証”か。」
彼女の細い腕が、後ろ手に彼の頬を撫でた。優しく、そして時折、鋭利な爪を立てながら。
「流石に耳が早いわね。そう。それこそ、今組織が最も欲しい“ビッグ・ジュエリー”。」
ドンっと逞しい胸板を押し返された彼はソファ上で仰向けに倒れた。彼女はそんな彼の上に馬乗りになり、バスローブの襟元を掴んで強引に顔を引き寄せる。
「……なるほど。システムの掌握さえすれば、君達の足跡は過去に遡って綺麗に消せる。」
「えぇ。そして、それを欲しがるのは決して組織だけでは無い。そう、例えばゴッサムに住んでる“貴方のお友達”とか。」
それを聞いて彼の目付きが再び鋭くなる。それを見た彼女は愉快そうに口角を吊り上げ、より一層顔を近づけた。
「…何を企んでいる。“ベルモット”。」
「言葉の通りよ。“バットマン”。神の目を以てすればあなたの監視すら欺ける。そう、“今は”何もできない我々も、貴方の愉快なお友達連中が大暴れしている混乱に乗じて、本格的にゴッサムを掌握できる。」
「させると思っているか。」
「えぇ。簡単では無いでしょうけどね。」
そこでベルモットは掴んでいたバスローブを開放して彼の上から離れた。鏡台に向かい、先ほどまでの緊張感をそのままに、剥がれた口紅のルージュを引き直した。
「……質問だ。シャロン。君はいつも僕に情報を漏らす。その上で、いつも全力で僕を阻む。……何故だ。」
「……それは貴方自身で考えるのね。それと、今の私は“クリス”よ。女性の名前を間違うのは失礼ではなくて?。ブルース・ウェイン?。」
スラックスとニットを着直した彼女は、見る者全てを魅了するような笑顔を見せて机上のバッグとコートを手に、ソファに腰掛けるブルースの前に立った。
「あぁ…あと、これは私の個人的な雑談だけど……。"プラーミャ"が引退するらしいわ。」
「"プラーミャ"……。」
それは世界中で殺しを実行する死の爆弾魔。特殊な液体火薬を用いた爆弾は非常に凶悪な破壊力と殺傷能力を誇る。
数年前、ここゴッサムシティでも、その凶行により、罪無き善良な市民が何人も犠牲になった。
ブルースの拳に自然と力が入り、表情が強張る。
ベルモットは彼のその姿に嗜虐心を擽られ、身体に怪しい熱が灯るのを感じた。
「そ。組織の情報網でも、プラーミャの正体を暴くことは出来ていないけど……、今は日本に潜伏しているって情報がブラックマーケットで流れている。」
「情報源は?」
「さぁ。だけど、割とメジャーな情報になりつつあるわよ。例えば……"民間組織"でも簡単に知り得るくらいにわ。」
そこでブルースの顔が一層強張った。ベルモットはソファに腰掛ける彼の顎に手を沿えて上体を屈め、顔を近付ける。
「そう。貴方のお気に入りの、あの"火傷顔の女"。彼女達も日本に向かうでしょうね。逃げ隠れの得意な標的が表舞台から引退すれば、その後のリベンジは実質不可能。それこそ、
そしてベルモットはブルースの唇に、触れるような軽やかなキスを残す。
「もし彼女に会ったなら…キスでもしてあげたら?。私が貪った、その唇で。」
「ハロウィン前に……穏やかな話ではないね。」
ふっと笑みを溢したベルモットは、そのまま踵を返して歩を進める。
「もう行くのかい?迎えを寄こそうか。」
「結構よ。…じゃあね。」
“また直ぐに会う事になるでしょうけど。”その言葉を最後に、クリスは振り返る事もせずに寝室を後にした。
「………。」
組織の者が寄こしたハイヤーの後部座席に座りながら、クリスは窓の向こうに流れていくゴッサムの街並みを見つめている。
自分を強く抱きしめる逞しい身体と、情熱的な視線、そして自分と別の女の名前に繊細に動揺する純朴さ。
自分の胸中で渦巻いた愛憎の感情は、思い出すだけで体に妖しい熱を灯した。
そして、自分達を敵と定めるあの冷たい視線もひどく魅力的で、ベルモットは一層心音が高鳴った。
もしかすれば“組織”の心臓を撃ち抜くもう一発の“銀の弾丸”かもしれない彼。
組織の幹部としても、一人の女としても、あの“ブルース・ウェイン”という男は実に憎くて愛おしい。
だからこそ、ベルモットはバットマンの正体を明かさない。彼を独り占めしたいから。
「相変わらずね。ゴッサムの夜は。」
――相変わらず情熱的で刺激的だわ――
To be continued………???