「私は、あなたの自罰的なところが、美しいと思っている。薄青く輝くガラス片みたいで綺麗だと、いつも思っている。だから、もしあなたがそれを維持したまま、いつか死にたいのならば、ぜひそうしてください。だけど自罰は良くても他罰はいけません。破滅はよくても破壊はいけません。あなたはどこまでもあなたを抱えたまま、あなただけの地獄に落ちていくのが、一番綺麗だと、思いますから」
希死念慮を抱く私と、私はいずれ死ぬ人間だと言う東北。神様から見捨てられた私たちは、中途半端の中庸の人生を過ごす。死んだように生きるのが望ましい。即死が望ましい。――正解のない問は、いつだってテストの外にある、と私はふと思った。
1
小学5年の秋の初頭、現在の私は盲腸を患って病院で手術を受けることになった。盲腸の痛みというのは生理痛とは違ってずきずきと刺すように痛む。私はお腹を手で抑え、お母さんに連れられて、病院の手続きをしているお母さんを待ちながら、リノリウムの真っ白い床を靴で鳴らしてみたり、問診票を拙い字で書きながら消毒液のような特有の匂いを嗅いだりして過ごしていた。しばらくして、問診と検査に入った。血液検査のために抜かれた血の色がどす黒い色だったのが面白かった。人間外面をきれいに保っていても、一つ皮をむけばこんな色の血を流しているものだ。そんなことを考えてぼうっとしていたら、2日後に手術を受けることになって、それまでは入院とのことだった。
入院が決まり割り当てられた部屋は111号室で、私はその部屋を「牢」と名付けることにした。私は生まれついての罪人のため、そう名付けてしまってからは、すっかり居心地がいい気分だった。牢にいるということは贖罪しているということだからだ。盲腸で食欲が減退した私は、点滴を打って、それからひとしきり眠って起きてからは寝ることも飲むことも食べることもせず、ただ一人ぽつんと静かに過ごしていた。食欲や睡眠欲など、欲求のなくなった瞬間の人間というのは、どうにも体を置き去りにして心だけがぽつんとそこにあるような気がしていて、美しいと私は思った。それは同時に、肉体とは往々にして汚れきっている、という先入観の表れでもあった。
私が割り当てられた牢というのは個室ではなく、隣にもうひとり誰かが居るようだった。だけれど私はベッドから出たい気分にもそうそうなかったし、隣の誰かも私が起きている時間には外に出ないようであった。ベッドを隠す真っ白なカーテンには薄っすらと黒く影が映っていて、さながら生命の介在しない影法師のように、それは私の短いであろうこの場所の生活に寄り添っていた。一人になって、食欲も無いとすればあとにすることは心をひたすら見つめることしかない。私は自分の半生を振り返り、それから、自分の犯した罪を一つ一つ丁寧につまみ上げては、それを咀嚼して嚥下することにした。ここは牢なのだから、この行為をすることが、やはり一番正しいとも思っていた。天井を見つめながらそんなことを繰り返していたら、牢での1日目の生活が、私の眠りによって終わった。
翌日、誰かの声で目が覚めた。私はベッドの脇の小さい棚に老いておいた赤いメガネをかけてそばに置いていたデジタル時計をちらと伺うと、数字は午前10時半を指していた。声の主は私の知っている人間ではなく、影法師としてしか存在していなかった隣人の、家族か、もしくは近しい人間のようだった。
「調子はどう?」
「いつもどおりです」
「食欲は?」
「それも、いつもどおりです」
「そっか……」
隣人はその近しい人間の方に質問攻めにあっているようで、それに困惑しながらどっちともつかない返事を続けているようだった。なんとも煮え切らない上に覇気のない声が特徴的だった。
そしてその隣人は年端も行かない女の子であることが、その声色と影の大きさから推察できた。もしかしたら同じくらいの年齢なのかもしれなかった。
「今日はぶどうを買ってきたんだよ。食欲がなくても、これくらいなら食べられるかもしれないって思って」
そういった声の後、少し間をおいて、
「少し、いただけますか」
という声が聞こえた。その返事を受けた女性の声は若干のはずみをもたせつつ、いそいそと影が揺れた。そしておそらくぶどうを食べさせたのだろう、咀嚼の音は聞こえなかったが、ゆっくりとした時間を置いてから、
「美味しいです」
という言葉が牢に静かに響いた。
「良かった……」
それからしばらくの間隣人の歓談は続いていたが、1時間ほどで、2人の訪問者は帰っていったようだった。静かになるとすっかり暇になってしまった私は、なにか本でも持ってくればよかったなと思った。
そのときだった。
「う……」
という小さな呻き声が聞こえたので隣を覗くと、隣人のベッドの上には小さな器が置かれていることが見て取れた。さっきのぶどうの器だろうか、なんてことを思っていると、その影法師は前後に大きく体を揺らし、それから、本当に小さな声で「ごめんなさい」と言った。聞き間違いかと思った矢先、とても静かな、水の流れる音がして、それがその器に落ちた感触があった。非常に静かな、さらさらとした嘔吐だというのが私にはわかった。それと同時に私の背筋にびりびりと電流が走った。私は全て理解した。このカーテンの向こう側に居る、彼女の消化器官がとても弱いことを。そして、おそらく家族なのであろう、その人達を心配させたくなくて、食べたくもないものを食べて、不快感を我慢して、誰も居なくなってから独り誰へ向けたのかもしれない謝罪を述べて、力なく嘔吐したということを。そんな彼女の凄惨なまでの生きづらさを、私はどうしようもなく理解した。同じなのだ。その生きづらさは私も持っていたものだったから。
私はベッドから立ち上がり、影法師を覆っているカーテンを静かに空けた。
薄茶色の髪をした少女が、力の無い表情で私を見た。
それから彼女は私の表情を見て、少しの間を置いて、何故だか涙を流した。いや、何故なのかは私にはもうわかっていた。
私達は、自分が生まれてきてはいけない人間だと思っていることを、そんな残酷なまでの不幸を持った人間であるということを、お互いをひと目見てわかったからだった。私は、彼女につられてか、彼女と同じく涙を流していた。
2
彼女の名前は東北きりたんと言った。姉に可愛いからという理由で無理やりつけられた包丁の髪飾りで、目立たないがツインテールになっている、私と同い年の少女だった。彼女はもともと小柄である私より一回り体つきが小さかった。その人間味にあふれた情緒的な精神性を除けば、私より2つ年が小さいと言われても信じていただろう。
けれども彼女の心はその小柄な体躯に似合わないほどに、いびつに成長を重ねているようだった。その点は私と同様だった。生活の中で、自分の存在してはいけない理由を探るとき、また現実逃避を行う際、私達はしばしば本に逃げる習性がある。そんなささやかな共通点を、彼女は少し喜んでいるようだった。
私達の関係は私達がひと目お互いの表情を見た瞬間から、まるで生まれつきの幼馴染のように強固な絆で結ばれているかのように構築されていった。私も、彼女も、初めてだったのだ。それだけ、この世には幸せな人類が多すぎるということだった。同類はたった一度顔を見ただけでわかるということを私は初めて知った。
「あなたはどれくらいの間、ここにいる予定なのですか」
東北は私にそんなことを聞いた。1週間ぐらいだろうか、という返事を返すと、彼女は寂しそうに、
「そうですか」
とそれだけを残して、窓の外の風景を見やるのだった。これが年相応の少女だったら、たとえば寂しいなあとか、もっと一緒に居てよ、とかわがままをいったり、連絡先を聞いたりするのだろう。しかし彼女にはそれができないのである。そのやるせなさ、生きることそのものへの下手さが、彼女の人生を一筋の光が晒し上げている証左……いや、この場合の表現は逆だろうか。彼女の人生に、真っ暗な一筋の闇を、ありありと映し出しているのであった。
「東北は、いつまでここに居るの」
「死ぬまで」
彼女のその一言に、一体どれだけの言葉が詰められていたことだろうか。その言葉には、状況を説明するのに十分すぎるくらいだったし、また彼女の絶望も同時に表現していた。――絶望というのは、経験したことのないものには、もっともっと鮮やかで色濃く衝撃的な人生に対しての裏切りだと思うものも少なくない。たしかにそういった種類の絶望もあるのだろう。だがしかし実際は、絶望というのはいつでも、最初からそこに立ち尽くしていて、文字通り打つ手がなく、そして終わりもない。すべての望みが絶たれた状態で、死んだように日々を過ごすことが真に絶望なのだと思う。
「東北は、どこが悪いの」
「わかるでしょう。消化器官です。まぁ、内臓の全てが、人より大分脆いみたいですが」
「私は、退院してからもまたここに来るよ」
「そう……ですか」
東北は若干声色を変えて、返事をした。彼女は感情の発露がどうにも慣れていない印象を受けた。私は東北と友達になりたかった。知的好奇心の面もあったし、なにより、初めてなのだ。こういう人間と出会ったのは。
「いずれにせよ、終わらない関係になるのであれば、しておきたいことがあります」
東北がそんなことを言うので、私は相槌を適当にうった。
「あなたの手を、私の頬に当ててくれませんか」
そういって東北は目を閉じた。彼女は多くは語らなかったが、それが彼女にとっての人間の印象づけなのだろうと私は結論づけた。手の感触、体温、欠落しているものがあるぶん、彼女は副次的な効果でそれを補っているのだ。普通の人ならば握手などで済ませることを、彼女は頬でやっているだけなのだろう。
私はそれを了承して、しかし内心は氷のように冷たい気分だった。手汗はかいていないだろうか、指先や声は震えないだろうか。変に意識していることを悟られては、私の全てを知られてしまっては、と私はとても生きた心地がせず、しかし了承してしまった以上、私は彼女に触れるほかないのだった。私は意識的にそれをずっと避けてきたから、うまくできるかわからない。私は東北が羨ましく思えた。東北ほど、見た目で欠落が分かる人間ならば、ある種開き直ったりも出来るのかもしれないが、私はうまくやれば隠し通せる分、葛藤が多い。私はごめんなさいとひとりごちた。誰に謝っているのかもしれないそのつぶやきを、東北は聞き漏らさなかったようだった。
「あなたも、やはり、なにかが欠けているのですね」
安心したような言いぶりだった。その言葉に私はいくばくか助けられて、ようやく、私の手は彼女の頬に触れた。心臓がばくばくと鳴って冷や汗をかいているのがわかった。指先の脈の鼓動をいやに強く感じて、それが東北に伝わっていないか心配だった。どんなに同類の私達であろうと、すべてを知った東北は私を拒絶するかもしれないという疑念が、私を苦しめた。
「これくらいでいいです。ありがとう。あなたのことを忘れることはないでしょう」
それは別れの挨拶などではなく、本当に東北はこの儀式を挟めば人を忘れることはないのだろうというシステム的な説明だった。その言葉に、彼女に同情してあれこれ口をはさむけれど、一歩踏み込んだ仲にはならなかった者達がどれだけ居たかを察して、私は少し同情した。
なにか感づかれたりしただろうか。私はそんなことを思いつつ、東北の表情を伺った。彼女は感情が極めて薄く、何を考えているか傍目からは見えなかったが、嫌悪や疑心の色は見て取れなかった。私はひとまず安心して、話もそうそうに終え、自分のベッドへと戻った。そうして天井を見つめながら、ああ、私に友達ができたのだろうか。ということを考えた。彼女となら仲良く出来るような気がする。しかし、あぁ、彼女の存在があまりにも大切になってしまったらどうしよう、と、そういう考えばかりが浮かんできてしまって、一人ベッドの中でもじもじと身じろぎした。
手術が終り様子見の期間も終え、私が退院をする段階になったとき、私達は病室で1日に3時間程度の雑談をする仲になっていた。
病室から出る今際の際、東北は明らかに寂しがっているようだった。
「では、さようなら。生活の中で私を思い出して、来たくなったらまた来て下さい。私はいつでもここにいますから」
そんな後ろ向きなさよならを東北は淡々と吐くのだった。その彼女の言葉の裏には諦念がまぎれており、優しい言葉をかけてそれからもう来なくなった人も多いという経験が見て取れた。人の感情は移ろいやすいものだから、私にそれを非難することはできない。先週まで好きだったお菓子、友達、恋人。未来にどういう気持ちになるか、私達にはどうにも判別することは出来ない。しかし私が真の意味で心を通わせる人間は、今の所東北しかいないというのも事実だった。私がある種のトラウマを患っていなければ、彼女を抱きしめたりして安心させたりもできたろう。私は代わりに東北に手を振って、また来るからと言う言葉を残すことにした。それを東北が信じても信じなくても、私がもう一度ここに来ればいいという楽観的な思考だった。
私の振られた手に対し、東北は手を振らずににこやかに笑ってみせた。彼女が手を振らなかった理由は簡単だった。
東北には、両の腕がなかった。病院着の袖口、肘から先が、忽然と消えてしまっているのだった。
3
週が明けたので、私は学校へ行く。正直に言って、私は学校へ行く意味がなんなのかわかりかねている。学校で学ぶことの殆どは予め教科書に全て書いてあるし、それを先生の話によって無駄に修飾された情報を、私の脳みそにインプットされることに対しての意義がわからない。社会性を学ぶことも大事だとされているが、この5年間で私は私自身が社会に向いていないことをわかってしまった。それだけのことを、毎日毎日確かめ算のように覚え直させられる毎日だ。しかし、学校に行かなかったとて、他にすることもないのも事実だし、また学校へ行かない人生を送ったものはそこで人生のレールから外れてしまうらしい。小学校へ続く20段ばかりの階段は、私の夢想の世界を閉じて現実へと覚醒していく階段でもある。私は歩く。私は笑う。私は計算する。私は道徳をもっと学ばなくてはならない。
あるいは、はやいうちに死ぬべきなのかもしれない、と思った。私は自分の感情を閉ざすべく努力をした。
「ウナ」
教室、クラスメイトの女の子に呼びかけられて、私は返事を返す。
「なになに?」
「あの子がね、私のことをかわいくないっていうんだよー? ひどくない?」
そのクラスメイトの女の子は、されどもたいして気にしていないように、明るい顔のままでそんなことをいった。
「なんだそれは。全くひどいね、僕は、きみが一番かわいいと思うけどなあ。またなにか言われたら、そのときは僕も一緒になって、あなたの愛嬌をこれでもかってくらい話してやるのに。その場に僕がいなかったのが悔しいよ」
私は、「僕」という仮そめを使って、そんな言葉を返した。
「やさしいね、ウナは」
「優しくないよ。正直なだけさ。あなたは男子生徒にも人気があるときいたよ。もっとずっと、自分に自信をもって良い。僕が保証するよ」
「やだよ、男子なんて。私は、ウナがいいな。男子はどいつも走り回ったり、ふざけあったり、ものを壊したりして、子供っぽい。ウナは大人だから、男子より、ずっといい」
「ふふ。でも女の子同士だからね。そうもいかないよ」
「それでもウナは、王子さまみたいでかっこいい。こういっているのは私だけじゃないけどね。ウナは女子から、すごい人気あるよ。でも男子からも嫌われてないし、ほんと完璧。あーあ。ウナっていつか、本当にすごい人と一緒になっちゃうんだろうなって思うと、残念」
「やめてよ。照れてしまうから。本当に僕はそんなに好い人でもないんだから。でも、嬉しいな。そうやって人をたくさん誉められるあなたも、すごくきれいだと思うけどね」
「ウナと比べたら私なんて全然。あ、そろそろ授業始まっちゃうね。またね、バイバイ」
「バイバイ」
私は席について、誰にも気づかれないくらいに小さく息をはいた。優しくないよ、正直なだけ。か。なんて、あまりにもバカなことをいっているのだろう。私が作った仮そめの自分は、今日も絶好調だった。
仮そめの自分というのは、自己とは隔絶されているわりに、綻びがない。これが私が社会でなんとかやっていこうと考えた、その結果と感想だった。尊ばれる人格というのは、物語のキャラクターを社会に溶け込むようにねじ曲げられたものだ。特別な存在から、特別を抜き、愛嬌と弱みと謙遜をプラスする。その個性は一度作ってしまえば、あとは自動で会話が進んでいく。そのときそのときで必要な言葉がふいに出てきてしまう。これを私は社会性フィルターと名付けている。私のどろどろになっている抑圧された精神を、このフィルターに通せば、味のないきれいな水のような言葉が口から飛び出る。そうして周りはそれを信じる。信じないものがいたとしても、繰り返し繰り返し、根気よく接触すればいつか折れる。真心は届くのだ。たとえそれでなお信じなかったとしても、マジョリティは私を応援する。故に私は不沈艦だった。それで、うまい具合にこれまで私はやってこれた。
それもこれも、あの失敗があったからこそだと思う。すべては、私の人生が終わった日から始まっている。私はあの日確かに死んだのだ。精神が死んで、とうに冷たくなっているのに、私の体だけが不具合で生き延びてしまっている。今さら、人に何を言われたところで私はどうも思わない。生きていける社会性は身に付けた。
しかし。楽しく幸福に、平穏を感じながら人生を全うする道筋だけは、いっこうに深い霧に覆われていた。あるいはもう、道などないのかもしれない。私は死んだのだから、あとはもう、肉体があとを追う簡素な轍が残っているだけなのだろう。
退屈な授業が始まる。いや、そもそも退屈を感じない瞬間など、もうあまりないのだが。私はときたま思う。私のこの自我が消えてしまって、あとは「僕」にすべてを任せられたら良いのに。自分にとっても、世界にとっても、その方が自然で、素晴らしいように思えた。そのままの私を信じるものなど、後をついてまわるものなど、この世にはいないのだから。
私は死ぬべきだ。
私は死ぬべきである。
そういう言葉ばかりが頭の中に渦巻いた。あるいは私以外の全人類が死ぬべきなのかも知れないな、と、無茶苦茶な擁護を考えていると、放課後になっていた。
帰り支度をしながら、私を信じるものなどいない、と頭で思ったとき、ちらと東北の顔が浮かんだのを、私は少し気にしていた。彼女との熱もほどよく冷めた今、私はどうして、あのとき東北と出会って涙を流したのだろう、ということを考えた。私は彼女に心の底で、共感してしまったのだという結論に至った。死んだと思った精神が、あのとき胎動を再開したように感じられた。私は今はそれをいけないことだと考える。私は死んだように生きて、しかるべき鞘に収まるように死ななくてはならない。東北とはもう会わないようにしようと思った。おそらくその先の道は、私の人生の障害にしかならないと思ったからだった。
しかし、帰り道で、私は何度もその場で立ち止まり、夕焼けの太陽をなんども見つめるはめになった。彼女のことを忘れようとすればするほど、彼女に話したいことが苔むした岩の隙間から漏れる水のように湧き出した。彼女の落ち着いて虚空を見ている姿が、脳裏をよぎるたびに、経験のない不思議な感情が私を揺さぶった。彼女の、楽しいはずなのに悲しそうに笑う顔が見たくなった。
彼女への渇望が募るにつれ、そんなことを思ってはいけないという反発もおなじだけ強まり、私の思考を圧迫した。冷たい一陣の風が吹いて、私はコートの襟をたてた。ふと、東北はよく私に病室の窓を開けてくれと頼んでいたのを思い出した。私にとっての季節はこれしかないのだと。この40×80センチの窓から見える風景だけが、私の世界なのだと。その言葉を思い出して、私はとうとう歩いている方向を変えて、東北のいる病院へと歩き始めた。
4
私は受付のナースに軽く用件を伝えてから、東北のいる病室をノックした。返事はないが、東北は声が小さいだけで「どうぞ」と言っていることは経験から知っていた。私はスライドドアを音をたてずに開けると、東北は私の顔を見て、曖昧な笑顔のようなものを向けた。東北が座っている膝の辺りには大きめのタブレットが乗っかっていた。東北の生活の大部分を支えている大事なものだ。
「元気?」
「元気だったことがありません」
「それだけ言えるなら、悪くはなってなさそうでよかった」
私は東北のベッドの隣に備え付けられた椅子に腰かけると、「まだ他の患者さんは来ていないんだね」という適当な言葉を投げ掛けた。
「私の勝手なお願いを聞き入れてくれて、なるべくこの部屋には割り当てないようにしてくれているみたいです」
「どうしてまた、そんなことを」
「あなたは他人がいると本心を話さないように見えたから」
私は驚いた。東北はやはり、私に対しての洞察が鋭い。たった一週間ばかり本心を垣間見せたからというだけで、私が東北以外の人と話をしたがらないのを見抜いている。そんな素振りはあまり見せていないのに。
「姉さんたちは良く来てるの?」
「毎日か、少なくとも2日に1度は来ます。そんなに来なくても良いのに。今日はもう出払ったあとです」
「愛されてるね」
「行きずりの愛ですよ」
「……うん。家族の愛なんてものは、結局家族という鎖と、時間だけでできたものだから、あるいは本当の愛と呼べないのかもしれない」
「本当の愛とはなんですか」
東北はよくわからないところに食いついた。東北はいつもこうだ。適当に発した言葉の意味を知りたがる。分解して、解剖して、真髄を探ろうとする。
「なんだろう……家族愛でもなく、また性愛でもないんだろうけど」
「友愛ではないですか」
「友愛?」
「もともとなんの接点もなかった人間同士が、惹かれあって、互いを尊敬したり、大事にしたいと思うのが、本当の愛ではないのでしょうか」
東北は考えたさきをひとつ見落としているように、そんなことをいった。
「つまり、私たちのようなってこと?」
そう私が言うと、東北は顔を赤くした。
「忘れてください。私はそんなことを言いたくて、こういう話をしたんじゃないんです。ただ、思ったことを連ねただけなんです。会って一月もしない関係のくせ、私たちの関係を本当の愛だとか友愛だとかなんて恥ずかしいことを、言うつもりはないです。あなたは……いたずらが過ぎます」
「じゃあ、私たちは友達ではないんだね」
「音街。ふざけないでください。あなたの普段のからかい癖がわかってしまいますよ」
「ふふ、ごめん。でも私たちの関係って、なんなんだろうね。友達とはちょっと違う。と思う。もっとなにか、ビビッドで、深いものだった。長い年月で蓄積させるような関係を、私たちはすべてすっとばして、今ここにいる気がする」
「そうですね。私はあの日、何年ぶりかに泣いてしまいました」
「私もだ。あのときの感情はなんというか……いや、無粋かな。わからないほうが、曖昧なほうが、美しい気がする。わからないままでいいや」
「運命、なのかもしれませんね」
「東北。それこそ、本当の愛よりよっぽど詩的で恥ずかしい言葉じゃないか」
東北は顔を赤くして、
「忘れてください」と再び言った。
「どうにも、あなたといると調子が狂う。私は普段は、誰にも心を開かないんです。他人から、いや、家族からもですが、同情をもらっても、どうせ、私の心の20%も理解していないと思えるんです。そもそも同情なんていらないんです。私はどうせまもなく死ぬのですから、それはもうどうでも良いと思っていて、ただこの胸の中に立ち込める、どうしようもないほどの暗雲を少しでも晴らしてくれる方法を知りたいだけなのに、みんなこの先が無いことばかりを気にしていて、ちっとも今日を大事にしていない気がしてくる。なにも私が一方的にねだっているばかりではないのです。ただ、みんなは結局井戸の外にいて、私に手をさしのべるだけなのです。どうやっても届かないのに、一つ覚えのように手を伸ばしているんです。本当に私が欲しいのは、束のまでも良いから、同じ井戸のなかに降りてきて、少し話をしてくれることなのに。ただ、それだけでいいのに」
そういうと東北は咳き込んだ。東北特有の力のない咳で、その音を聴いたとき、私は奇妙な充足感に包まれていた。何故だろうか。東北と話しているとこれ以上なく気分が安らいだ。
「私は東北のもとへ、降りていっても良い」
「言われずとも、あなたはもう私の心へと触れています。なにかが……他の人と違うんです。なんでしょう……必死なんです」
「必死。私は結構冷淡に、日々を過ごしているつもりだったけど」
「普段はそう見えますが、しかし、ある一瞬だけ、あなたはひどくなにかを恐れているかのように取り繕う瞬間がある。その必死さが、信頼できる」
「なんで、そんなところを信頼できるの」
「当然なことです。必ず死ぬから、必死なのでしょう。あなたはすでに死の渦中にはまっているのだと思います。その点が、私と似ている。同じなんです」
私はなんだかひとつ隠したままにしていることを後ろめたく思った。それをずっと隠したままでは、近い将来禍根になる気がしてならなくなったのだった。
「私は、本来は今日ここに来ないつもりだった。今日だけじゃない。二度とここには来ないつもりだったんだ」
「だけど、結局来ましたね」
「うん。二人が会って調子が狂うのは東北だけじゃない。私もだ。私はこの人生を死んだように生きると決めていて、それが崩壊しそうだったから、もう来ないつもりだった」
「私も、あなたが面会に来ると聞いたときはじめは断るつもりでいました」
「そうなんだ。でも、私たちは結局こうやって会うことになった」
「感情は不思議ですね」
「やっぱり、運命なのかもしれない」
「忘れてくださいと言ったのに」
「忘れないよ」
「もう」
東北は怒ったようでいて、嬉しそうな表情をしていた。
「今日はいつまでいるんですか」
「放課後によってきただけだから、そろそろ帰らないといけない」
「寂しいですね」
「人生がかりの寂しさだからね。普通の人であれば、きっと、私たちのように飢えてはいないんだろうね」
「また来てくれますか」
「なんだろうな、来ないつもりでいても、結局私たちはまた会ってしまう気がする。もちろん、来るつもりだけど」
「それなら」
そういって東北はベッドに寝そべった。私は東北に親愛を込めて頭か、頬か、触れようとして、恐ろしくなって、そのまま帰った。
5
私はライターに火をつけた。数年前、東京からこの片田舎の賃貸の一軒家へと逃げてきた私達一家は、喧騒から逃れて慎ましく生き延びていた。この小さな家で、私には2階の少しばかり広い部屋が割り当てられた。1階にはもっと狭い部屋もあるのに、そこは父の書斎となっていた。私は2階の部屋を割り当てられたことを伝えられたとき、ああ、気を使われているのだな、と思った。無理もない。東京で起きたあの事件。それが我が家で語られることは無いが、それでも私の家族内には大きな影響をもたらした。
私はしばらくの間、じっと火を見つめていた。100円ちょっとで買える透明なプラスチックのライターから灯る明かりは、根本は青く、先端は黄色かった。開け放たれた窓から小さな風が吹いて、ライターの灯りを消した。私はすぐにヤスリをくるりと回して、再び火をつけた。火の匂いは無臭だった。外から吹いてくるキンモクセイの香りが秋の深まりを伝えていた。
私はポケットを弄った。ポケットの中には、まだフィルムの剥がされていないたばこが入っていた。
「実は、お世話になっている大人の人がいてさ、僕はその人にお礼がしたいんだけど……僕では手に入らないものでさ。その人は吸えるならなんでもいいというタイプらしいから、本当になんでもいいんだけど、もし良かったら、都合できないかな」
こんな言葉一つで違法なものが手に入る世の中が愉快だった。私はフィルムを剥がして、中身を見やった。白い小さな一本の紙巻きに、100種類以上の有害物質が含まれているらしい。私はひどく楽しくなってしまって、月光にそのたばこのパッケージを掲げた。『喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の1つとなり、心筋梗塞、脳卒中の危険性や肺気腫を悪化させる危険性を高めます』きらやかに輝く警告文が素敵だった。こんなにも手軽に、こんなにも気高く、たかだか数百円で、死のリスクが買えるのが、なんとも、美しい。
私は胸をどきどきさせながら、紙巻きにライターの灯火を近づけた。まもなく草が焦げる匂いがしたかと思うと、あのたばこ特有の、なんとも言えない寂しさの香りが部屋中に充満した。充満した大気は秋風に流れていく。煙もまた、たなびきながら、月光昇る外の世界へとくゆっている。そしてとうとう、私はたばこのフィルターを咥えた。平時、大人がやっていたことの見様見真似で吸い込んで見ると、喉がイガイガして咳き込んでしまった。これではいけないと、まずは口の中だけでその味を確かめた。確かめたとはいえ……私には、たばこの味というものは、いかんとも形容し難いものだった。煙い、味らしい味はあまりない。ものによってはキャラメルの味がしたり、香ばしさを感じるようだけど。そんなことを思いながら煙を吐いた。そうして口からふーっと吐き出された薄白い煙を見て、ようやく、私はたばこを吸ったのだという実感が湧いてきた。どうせなら、この感傷に似て、この煙の味もまた切ないものであればよかったのに。そう思いながらもう一度肺に煙を送り込んで、また咽てしまった。そうなったあとはすっかり飽きてしまい、私は適当な台座にたばこをねじ込んで火を消し、換気をして、布団に潜り込み、眠った。
6
たばこを吸ったあの日から一週間がたった。私はあの日から再びあのパッケージを開けることはなく、日々を過ごしていた。一夜限りの楽しさ、諸行無常の娯楽にしかならなかったあの非行は、思い出の中だけでは綺麗だった。私は学校へいく。もう11月も半分ほどで朽ちていくらしい。
水曜日の今日は道徳の授業があった。私は五時限目のそれにいくばくかの期待を寄せて、時間を過ごした。もちろん、周囲への偽装は怠らない。今日も私は王子さまだった。人に優しく、謙遜を忘れず、美しく、そして優秀すぎない。
のんびり待っていると当然のごとく道徳の時間はやってきて、今日の内容はバスの並び順のマナーについて話し合おうと言うものだった。私は失望して、それからはなにも考えずに放課後になるのを待った。
私は道徳に何を求めているのだろうと、よく考える。そのたび、結論がでないまま放課後を迎えることになる。私は道徳と言うものについて……たった1つの解で人生を導けるようなものではなく、ひとつひとつ積み上げては、トライアンドエラーで自己を確立していくもののようだ、ということを信じられないでいる。
ああそうか、と私は思った。私は明確な答えが欲しいのだ。
不具の私が、それでも生きることに希望が持てる、免罪符が欲しいのだ。
帰りの会が終わり、私は周囲の誘いを振りきって病院へと向かう。
雪が降ってもおかしくない寒い夕方だった。私はネックウォーマーを少しずらして風から身を守りながら、歩いた。私のひとり歩く姿は「とぼとぼ」という擬音がよく似合った。そう時間もかからず目的地について、いつものように受付を終え、東北の病室のドアをノックして、部屋にはいる。
「いらっしゃい」
「元気でやってる?」
「元気だったことが、ありません」。
この挨拶はもはや慣例となっていた。あまり冗談の言わない私たちの、数少ない笑いの文句だった。
「今日は何をしてた?」
「勉強と、読書と、音楽を聴いていました」
年頃の趣味だと思った。しかし……勉強。これは最近知ったことなのだけれど、東北は学力がずば抜けて高い、ようだ。11歳にして、中学生が習うようなことはもうほぼすべて網羅しているらしい。教師のもとで指導を受けていない東北に対して、よく独学でそこまでいけるものだね、と言葉を投げ掛けると、「教科書にすべて書いてありますから。読めば、全部わかります」と、それだけ答えた。教科書をめくることも面倒な体を持った東北は、タブレットに教科書のデータをすべていれて、暇な時間はそれを眺めているらしい。科学の発展はマイノリティに優しいようだった。
それと、読書。東北は純文学が好きだった。
「案外、昔の名著と呼ばれる本たちは、展開だけで言えばそこまで山谷あるものではありません」
そう語る東北の目が輝いていたのを覚えている。
「しかし、それが問題にならないくらい、文章だけで彼らは人を虜にする。1枚の絵でもそうでしょう。題材はただの草原だったり、女性ひとりが描かれただけ。しかし、その妙な色づかいから、私たちはふと立ち止まらざるを得なくなって、そうして私の世界以外の場所へ吸い込まれる。高度な文章で構成された小説は、それ自体が長い長い詩集のような韻律を持つ。意味しかない世界が存在する。私たちに夢を見させて、それで、全体を通して見ると話としてもまとまっている。やはり……芸術だ。私は、本を読んでいる間、体がなくなって、魂ひとつだけになっている。醜く、悪人で、性格の悪い私が、美しくなれる瞬間がある。救われる気がする」
東北は一息にそう語ってから、恥ずかしそうに口をつぐんでいた。東北は、人と関わる経験の薄さから、1回の会話における容量を把握していないようだった。だけれど、私はそんな東北の極端な人間性が好ましかった。
そんな記憶を思い返したのち、現実に戻った私は東北の言葉に質問を返す。
「東北、音楽とか聞くんだ」
「あまり好きではないのですが……」
「好きでもないのに聴くってことはないだろう。好きだから聴くんだ」
「好きなのかもしれませんが、認めたくないんです」
「それは、どうして?」
「音楽は論理がないからです」
「論理って?」
「あなたは、たとえば誰かに好かれたいとき、どんな言葉をはきますか」
東北の質問は私にとってわずかに傷をえぐる言葉だった。
「わからないよ」
私は言葉を濁した。
「そうですね。私たちは愛の言葉を伝えるとき……いいえ、愛に限ったことではないですが、強い思いを共有したいとき、必死になって言葉を探します。思考のなかで単語を何回も添削して、手紙だったり、会話だったり、小説だったりする媒体へと、思いを託します。そうしてできた言葉は、論理の塊でできている。これこれこういう過去があり、私はこう思って、だからこうしたい。そういったロジックで文章はできている。しかし、音楽は……それが足りていない。音には、魔力がある。人の悲しみに共鳴する音、喜びを喚起させる音、不安を思わせる音、そういうものが雑然と存在している。だから音楽の歌詞は意図的に意味を削って、音で修飾をする。そこには多量の解釈が含まれていて、真実などみつかりっこないのに、聞き心地がいいからというだけで、人々を熱狂させる。ずるいじゃないですか。なんで、空気の振動を感じただけで、私たちは嬉しくなったり悲しくなったりしてしまうんだろう。そんなの、洗脳と同じじゃないですか。言葉だけが、人を変えられる力を持っているはずだ。それを飛び越えてくる音楽は、卑怯だ」
開いていた窓から一陣の風が吹き込んだ。私と東北の生活のなかにはいつも窓からの風があった。ひゅうと音のなる強い風だった。その音の感触は、寂しさを感じるものだった。
「この風の音にも、論理がない」
「……ええ。そうです」
「もしかしたら、音楽というのは、もともと自然の力をもらってできたものなのかもしれないね」
「思いつきですか」
「うん」
「突飛なわりには、素敵な言葉だと思います」
すいません、寒くなってきました、と東北が一言謝ったので、私は窓を閉めた。東北は暖を取るために肩まで布団を被り、必然的に眠る姿勢になった。
「ねぇ、東北」
「なんでしょう」
「私たちは、このまま二人で会い続けて、最後にはどうなるんだろう」
「人生にあるのは、別れだけです。出会った喜びより、別れる痛みの方が強い。人生はそんな歪な感情でできている。私たちは、いつか別れる痛みに怖がって、一緒にいるだけでしょう」
そういって、東北は眠るようだった。疲れているのかもしれない。急に寒くなったから、体調が崩れてきているのかもしれない。私は東北に一言「大事にね」と残してから、病室のドアを開け、部屋を出ていった。
7
東北と出会って2ヶ月が過ぎた。私は自室のベッドの上で、自分が不幸な人間なのかどうかを考える。はたしてこの問答に意味はあるのか無いのか、しかし思考は取止めもなく、終わりもなく、続いていく。
自分自身が、あるいはある特定の誰かが幸福か不幸かを決めるのは、往々にしてその他の他人と比べる必要がある、と私は思う。自分がいくらできた人間でも、いくら金持ちでも――それで自分より劣っている誰かが存在しなければ、幸福とは言えない。人は、誰かの背を踏み抜かなければ幸せにはなれない。幸福感とは、優越と見下しで作られた感情だ。
それならば。逆説的に不幸であるという自覚は、劣等と嫉妬で作られたものなのであろう。
――だから、だろうか。東北があんなにも、人に対してひねくれていて、心を閉ざしていたのは。
東北は、誰からにも、ずっとずっと、『かわいそう』という感情を、生まれてから今まで受け続けてきた。それは言わば、不幸のレッテルに他ならないことであり、無意識的に、いや――善意の意識的に、彼女は誰からも見下されてきた。劣等と、嫉妬。彼女を作り込んだのはそういう感情である。
もっとも、東北はそういう意味で、末期なのだろうと思っている。彼女は心をほぼ閉ざしている。それは諦念に近い。嫉妬の心は昔は強かったのだろうが、彼女はもう、諦めている。諦める、という感情は、すべてを良しとして、すべての決定権を放棄する選択だ。おそらく生命にとってもっとも危険な感情だ、と私は考えた。
そこで私は気づく。私は東北のことを、幸福と不幸のどちらだと思っているのか、言うまでもないということ。私がいくら死にたいと思っていても、それは東北よりも? と聞かれると、答えに詰まること。私は東北を、やはり不幸だと思っているし、それゆえに、どうあっても彼女を見下してしまっているということ。
ならば、私は東北と相対したとき、やはり不幸ではなく幸福な人間として存在しているのだろうと思う。
ならば、東北は私のことをどう見ているのか?
それも言うまでもない。東北は私を哀れな人間だと思っている。それは、お互いが、お互いを一目見て、涙を流したときから決まっている。ここで一つの真理が生まれる。自分が幸福か不幸かを結論づけるには、他人と比べる必要があるが、それはあくまでも主観的なものであるということ。私は東北といると、幸福な人間としてそこに存在するが…東北もまた、私といると、幸福な人間として存在する。私は東北を見下しており、東北もまた私を――
いやいや、違うか。違うのか? 私は自分の答えに疑問を抱いた。東北が私を見下している……ようには思えない。哀れだとは思っても、不幸の比重が自分より私に傾いているようには思えない。どうしてだ? ならば何故東北は私のことを気にかけてくれるんだ。
……そうして私は、口当たりのいい答えにたどり着く。これが真実だとしたら、綺麗事すぎて、それはもはや詩の一つだ。
くだらない。と思って、私はベッドに潜った。
幸福も不幸も関係ない、ぴったり連なった平行線。対等な関係として、東北は私を見ているだなんて。
8
死はいつでも静謐のイメージを孕んでいる。
東北はいつだったか、私に「変わることは、死ぬことと同じではないですか?」と聞いたことがあった。
「それはどういうこと?」
「変わるということは、今までの自分をないがしろにする…捨てる…いや、もっと過激な言葉のほうがふさわしい。殺す、です。自分の変化を積極的に受け入れる姿勢は、自分を殺すことと、あまり変わりがない」
「つまるところ、自殺というやつ」
「そう、です」
「どうしてまた、唐突に。なんでそんなことを思ったの?」
「言い出したのは急でも、思ったのは急ではないんです。――なに、誰も彼も、私に向かって、変われ変われ、生きる道を見出してくれ、そうすれば、きっと楽になるはずだから、と、そういってやまない。そうした人たちに、私がいつも思うことなのですよ。私が心を一新して、さあ生きるか、とそういう人間になったとして、それならば、今までの私は一体何だったのだろう――そう思うんです。変わってしまったら、変わる以前のその人は間違いですか。私に変われ、と言う人達は、言葉を着飾らなければ『今のお前に価値はないから、さっさと死んで、また生まれて来てくれ』と言っているのと何が違うんですか。欺瞞が見える。私の怒りは、正当だと、思います」
私は東北の言葉になるほどと思いながら――また、彼女の精神を慮る気持ちを抱きながら彼女の言葉に頷いたのを覚えている。
しかし……私は東北のその言葉を、面白い考えだとは思いつつも、やはり賛同はできなかった。彼女には伝えなかったことだったが、それでも私の結論は揺るがない。
――変わるのを拒もうが、拒まなかろうが――そのどちらの人間をも見比べたとて、私はその人を生きている、と認識してしまうだろう。生きている限り、どんなに拒んでいても、人は変わっていくものだから。それはたとえば、誰にも心を開かなかった東北が、私と出会い、涙を流したように。私との会話の端々でよく笑うようになったように。諸行無常の精神は本来ここにあるのだろう、と私は思う。東北は、変わっている。それがまず第一の結論である。
次に、生死の境というのは、精神の変貌によって決められるわけではない、と私は決めている。命を命だと証明するのは……連続性だけだ。ただの受精卵が私を形づくり、身長140いかないぐらいの背丈にまで育った歴史があったように。昨日の私が今日の私へと繋いで行き、明日の私へと流れていく。その連続性。どこまでも連なる時間の流れに漂うことこそが、生きることなのだと思う。東北が変わろうと、変わらなかろうと、決断の材料が決心だろうと、痛みだろうと、薬だろうと。理由が存在し、その理由から選択をした東北へと連続していく。だから東北は生きている。
そう、私は思う。
東北は私に思ったことをなんでも話してくれる一方、私は東北に言い出せないことがあまりにも多すぎる、と私はひとり思った。どうしてこんなことを急に思い出したかといえば、その理由は唯一つ。
「――自殺者が出たんだってね」
私は東北と会って開口一番、そう切り出した。
「そんなに急だと、趣味が悪いように思われますよ。音街」
「そうかもしれないけど、」
私は言葉を一旦切ってから、
「――いや、なにも違わないか。私は趣味が悪いよ。噂を聞いてから、ずっと東北と話したかったんだから」
私は軽く息を吐いた。そこに自己嫌悪なんてものはない。私は元来、こういう人間だ。死人に対して…特別な思いがある。
「そうですか…」
東北は何かを言いたげにして、それでなお言葉をつぐんだ。その様子に私は何かを察して、彼女に問いかける。
「もしかして、知っている人だった?」
「ええ」
東北はそう返すと、なだらかに窓の外を見やった。私はつられて窓の外を見る。もう木枯らしを過ぎて、本格的に冬の訪れがやってくるようだった。もう2、3週間もすれば雪が降るかも知れない。
「彼女は、私と同じ病状でした」
「同じ病状……」
「簡単に言えば、彼女も未熟児でした。内臓が――私の場合は腕もですが、未完成のまま生まれてきてしまった。ですが症状に関しては彼女のほうが重かった。毎日毎日、胃部の不快感に苛まれて、吐くものもないのに嘔吐して。点滴がこの世にあって良かったって、お互いそう笑いあったこともありました。」
「仲、良かったんだ。東北はあんまり人と仲良くしないものだと思っていたから」
「そうですね。仲は、良好でした。ですが……彼女と私は、致命的な部分で、やはり違っていた」
私の疑問の表情を読み取ったのだろう。東北はわずかに微笑んで、私の顔を見る。
「なに。簡単なことです。命に到るから、致命的なのでしょう。彼女は、ずっと、死ぬつもりでその日を生きていたんです。なんども計画を聞かされました。いざというとき勇気が出ない、なんてことのないように、ネットで余すことなく調べ上げ、段階的に死に対しての恐怖を薄れさせ、偽悪を振りまいて周囲に悲しむ人間がなるべく少なくなるよう振る舞って。そうして、とうとう、目的を果たした」
東北は、少し誇らしげに――喋っていた。彼女のやったことが、この上ない栄誉だとでも言うかのように。……だけれど、東北の気持ちも、私にはわかったのだった。
「東北、私は、いつか死のう、いつか死のうって、そんなことを言いながら、やっぱり、死ぬのが怖い」
「ええ。それは私も同じです。生命にインプットされた本能ですから。死ぬのが怖いという感情が無ければ、人類は絶滅している。だからこそ、彼女は凄かった」東北は頷いた。
「そうだね。私たちは、そういうところでも中途半端だ。――死ぬべきだって、死にたいって思っていても死ねないのは、恐ろしいほどに滑稽だよね。生きることを諦めて、なお死ねず、せめて死んだように生きることを選んだ、ばかばかしい人間。死にたいと思った瞬間、死ぬのは怖いって、そんな矛盾した感情を抱えるのは、不具合だよ。そんなエラーが起きた時点で、神様はそいつに手を下して欲しいよ」
私は自分の語ることに夢中になっていることにきづいて、一旦言葉を切った。それから小さく呼吸をすると、取り繕うように、
「まぁ、神様なんて、居ないんだけどね。いれば、きっと不具合のある人間なんか、作ってないんだろうから」
と、そう言葉を締めた。
「神様ですか……ふふ、面白いことを言いますね」
「面白くないよ、くだらない」
「私はいると思いますよ。神様が」
「思ってもないことを言わないでよ」
「いえいえ。本心です。本気で、本当に、神様はいると思っています」
東北はまた笑う。彼女の目尻が和らいで、安らかな表情を浮かべる。
「神様は、存在してなお、私達のことを見捨ててるんです。そいつは私達がどんなに苦しんでようと、知らん顔で、やりたいことをやっている。そう考えると、だいぶ楽に感じませんか。何をしてもいい。どこまでだって行けるって、そう思いませんか」
東北の言葉には、たしかに安心の色が混じっていた。神様に見捨てられた私たちは、神様の戒律を守る必要がない。庇護されないからこその自由、悪徳。東北は暗に、私たちは悪人であり、それでいて、悪人で良いのだ、ということを言っているのだとわかった。なにをしてもいいというのは得てして犯罪を示しており、どこまでだって行けるというのは地獄の果てを指していた。
「それならば、どうしようか」
「音街はどうしたいですか」
「爆弾を作りたい」
思考を介さず、そんな言葉が口から飛び出た。私はバツが悪い気分で「いや、思いつき。心にもないことを言った」と、取り繕う。
「作りましょう」
と、東北は言葉を返した。
「爆弾を作ることは――そんなに難しいことでもありません。なんなら、理科室にあるようなありふれたものでも作ることができます。塩酸――亜鉛。作りたいなら、作りましょう」
「そんな。思いつきだって」
「音街、心にない言葉を口に出すことはできないんですよ。あなたがそう喋ったのなら、あなたのなかに、どこかそれに類した本心がある。そして、あなたはそれを、私に喋る必要があると思います」
「そんなこと言われても……」
と言いつつ、東北の言葉を咀嚼し終えた今、私の中にはたしかに一つの欲求があることを、私は感じていた。東北は、聡い。それだけでなく、どこか天性のセンサーみたいなものがあり、人の発言の真意や、真理を目敏く見つけることが多い。私は東北のそういうところが、好感触に感じてもいて、また少し怖かった。
「そう、だね。私は誰かを傷つけたい気持ちはないけれど……私が言う爆弾というのは、なんだかもっと、精神的なものだ。今気づいたんだけど――私だけじゃなくて、希死念慮のある大体の人において、死にたいっていう気持ちは必ずしも、本心とぴったり合致してないのかもしれない。本当は……『消えたい』が正しいんじゃないかな。例えば、私が死んだら悲しむ人は、残念ながら存在するわけだけど、仮にさ、私の存在自体はずっと生きていて、私の魂だけが消えてしまって。私はもうそこにいないのに、私の存在は人生を歩み続けるって、そういう魔法が生まれたとしたら、みんなそれに飛びつくんじゃないかな。私がいなくてもこの依代はうまく生きていく。誰も傷つけない。――話が脱線したけれど。私の言う爆弾は、建物や生命を破壊するものではなく、運命を破壊することが目的の爆弾……だった。本当に、たった今気づいたんだけどね。」
「運命を破壊する爆弾。ふふ、それは流石に作りようがありませんね。しかし、面白いことを言う。誰も傷つけたくなくて、でも自分はいなくなってしまいたいから、魔法みたいなものに縋る。……ねぇ、一つ質問ですが、あなたはたまにこういうことも思うでしょう」
「どんなこと?」
「不老不死の体になって、いつまでも生き続ける、という魔法を享受すること」
東北の言葉は、私の胸を鋭く刺した。
「……たまに思っているよ」
「ええ。だって、消えることと、死なないことは、真逆のようで似ていますから。それは何故かといえば、誰かと関わる必要がないから、という点で同じだからです。消えれば自分を傷つけなくていい。自分が死ななければ自分が傷つかなくていい。人は一人で生きていけないからこそ。一人のまま死ぬ方法と、一人のまま生きる方法を、夢想してしまう」
「でも、でも。なんでそんなに詳しいんだよ。それは、あれだろ。東北だって同じことを考えていたから、そんなにすらすらと言葉が出てきたんだ」
「いいえ。似ているかも知れませんが、違います」
「違わないよ」
「違うんです。だって私は、魔法の力があったら、すべて破壊してやりたいですから。建物も生命も奪う爆弾を、私は作りたいですから。私は音街ほど、優しくありません。私は生まれてから今まで傷ついた分、人を傷つけたい。人を呪う言葉ばかり言いたい。そういう醜い心を抱えて、開き直っているのが、私ですから」
東北は、満足したように言葉を締めた。私は返答に迷いながら――返答がいらなさそうな顔を東北はしているが――言葉を探す。
「私たちは似た者同士なようでいて、やっぱり、決定的なところで違っていたって、そういうことなのか」
「さみしいのですか、音街」
「さみしいよ。本当にさみしい。私達があの日、お互い泣き出したのはなんだったんだろう」
「でも、違っていたとしても、共感はできる」
だって、と東北は私の眼をじっと見る。
「音街は、私の破壊願望だってわからないわけじゃないでしょう」
それは……そのとおりだった。私は東北の言葉に驚きはしたが、そういうことを考えてしまう経緯はわかる。そして同様に……東北は私の信念にも、また共感を得ている、ということなのだろう。
「音街、ひとつお願いしてもいいですか」
私は内容を聞く前に頷く。東北はそんな私に笑顔を見せる。
「私は、あなたの自罰的なところが、美しいと思っている。薄青く輝くガラス片みたいで綺麗だと、いつも思っている。だから、もしあなたがそれを維持したまま、いつか死にたいのならば、ぜひそうしてください。だけど自罰は良くても他罰はいけません。破滅はよくても破壊はいけません。あなたはどこまでもあなたを抱えたまま、あなただけの地獄に落ちていくのが、一番綺麗だと、思いますから」
私は東北の言葉に、再び頷いた。断る理由も別になかったからだった。
9
一段と寒さが酷くなった。
季節とは過ぎゆくものだとみな言うが、それは間違いなのではないだろうか。と私は思った。暖かい春、生命の夏、死の秋、忘却の冬。季節は流れると誰もがいう。全くもって、見当違いだ。
季節とは、死にゆくものなのだ。春や夏に生命を感じるのは錯覚だ。秋や冬に生命が潰えると思うのは欺瞞だ。季節はいつでも……生まれることなく、それでいていつでも、死に向かっている。夏が死んだ後、結果的に秋になってしまっただけのことであり、秋が死ねば必然冬になる。世界における自然物のあらゆる死の連鎖を、人は季節と呼んでいるに過ぎない。そしてそれを知らせるのは風である。
私は秋の死を電報のように知らせる風を浴びながら、いつもどおり東北のいる病院へと向かった。薄手のコートは厚手のダウンになり、ネックウォーマーを装着している。季節は自然物であり、もし自然物が神性の力のようなものを宿しているとするならば、私達人間は神よりよっぽど長生きである。
病院前、小さな街路樹を通るとき、そこに植えられたキンモクセイの匂いはもうしなかった。もう木の葉も付いていないのだから、当然だ。そう思い通り過ぎた。
そうしていつも通りガラス造りの自動ドアを通り過ぎるとき、
「あの……」
と、後ろから静かな声を私は聞いた。声のトーン、周りの様子から、私を呼び止めているらしかった。その声にはもちろん聞き覚えがある。私は振り返った。
「……音街ウナちゃん、でしたよね?」
「はい」
その人は東北の家族の一人だった。名前を東北から聞いたことがある。イタコさん、というのだ。自分でも不思議だったが……私は東北と何度も会い、また言葉を交わしたけれど、彼女の家族と面と向かって話したことは、これまで一度もなかった。特別避けていたわけではない。また、向こうもそうだろう。単純に時間の都合で出会うことがなかったのかもしれないが、あるいは運命のいたずらが、今日のこの日に、私とイタコさんが邂逅すべきと判断したのかも知れなかった。
「なにか……用でしょうか」
私は判断に迷って、曖昧な態度を取ってしまった。迷ったというのは言うまでもなく――仮そめの自分で話せばいいのか、ありのままの自分で話せばいいのか、ということだった。
「いつも、きりちゃんと仲良くしてくださって、ありがとうございます」
「いえ……それは」
イタコさんは頭を丁寧に下げた。7か、8か…それぐらい私達には年齢の差があるはずだった。それなのにイタコさんは、馬鹿正直なほど丁寧に、このうえなく謙遜して、私にお礼の言葉をかけた。
「きりちゃんも、最近は落ち込んでいるときが少なくなりました。それもこれも、ウナちゃんが、きりちゃんのかけがえのない支えになっているからです。……本当に、ありがとうございます。二人で楽しく会話できることが、どれだけきりちゃんの心を癒やしていることでしょうか。私達には、どれだけのことをしても、それができませんでしたから。本当に、本当にありがとうございます」
イタコさんは何度も頭を下げた。その様子から――私はイタコさんの性格を大まかに把握した。彼女の、このうえない美徳、誰からも愛されるような善性を、感じ取った。
そして、そういう性格が故に、東北の苦悩を、一センチたりとも理解できない人なのだということが、断絶的にわかってしまった。
しかし私は、イタコさんを特に軽蔑するわけでもなく――見下すわけでもなく、不思議と穏やかな気持で彼女を見ることができた。彼女は東北を悩ませ続けるだろうが……間違ったことをしているわけではない。井戸の中で、脱出方法がなくもがくことすら諦めている東北に、意味もない手を差し伸べている。愚かだが、無知ゆえの純粋さがあり、それが美徳でもある。そうしてそういった鈍感さ故の一歩踏み出す優しさ、社会的な正しさは、私が欲しかったものの一つでもあった。
私たちは、病室にまっすぐ向かうことはなく、病院の近くにある小さな公園へと向かった。何故二人で病室に向かわなかったのかははっきりしている。東北が嫌がるだろうと暗黙にわかっていたからだった。
「ウナちゃんは、学校で人気なんですよね。明るい性格で、誰からも好きになってもらえてるって、評判ですよ――」
イタコさんは子供の扱い、どうすれば喜ぶかを知っているようだった。私くらいの年代だと、SNSを覚えはじめるものが居て、化粧を学ぶものが居て、それから見た目のいいお菓子類を好む。私達の年代のウィークポイントをわかっている会話が、彼女の言葉の端々から感じられた。もっと下の年代であれば、スマートフォンを持たせられない子供たちのために紙に書くタイプのプロフィール帳や、占いや呪い、駄菓子などが視野に入ってくるだろう。そこを混在しない話しぶりが、子供をひどく好いていて、また扱いを手慣れている印象があった。
だからこそわからないのだろうな、と思う。東北の人間像は、あまりにも一般からかけ離れているのだから。
私は立ち位置を曖昧にしたまま会話を続けた。その会話の不自然さにイタコさんは疑念を抱いているようでもあったが、言葉にして面と向かって問いただすほどではないようだった。イタコさんや私が喋るたび、吐いた息が白く凍りつき、分厚く光を通さない曇り空に混じっていった。
「ウナちゃんは、きりちゃんのどういうところが好きなんですか? とても仲良くしているようだから、気になってしまって」
ふいのイタコさんの言葉に、私は固まってしまった。曖昧な態度のまま、適当に会話を続けていた私は、ここにきて舵取りを決めなくてはならなくなった。
「東北は――彼女は――言っていいのかどうかわからないですけど――自分が井戸の中に居る、と言っていました。どうあっても外の世界に出ることはできず、いつしか干からびて死ぬだけなのに、みんなは手を差し伸べるだけしかしない、と。そんななか、ひょっこりと、同じ井戸の中に降りてきた者がいた。それが私だって、言っていました。そして、私も同じことを思っているんです」
「井戸の中……」
イタコさんは難しい表情をして、黙り込んでしまった。おそらくは、東北はこういった一歩踏み込んだようなことは、一切話さなかったのだろう、と思う。あるいは、多少陰りは見せていたけれど、その結果双方理解があまりにもできないと悟ったから、その時点で諦めたのかもしれない。
「……でも、きりちゃんは、あの子は本当にいい子なんです。とっても勉強ができるし、気づかいもできるし、優しい気持ちも持っています。本当に大事なのは、きりちゃん自身の気持ちなんです。歩く速度は関係ないんです。ただ、歩く向きだけは、重要なんです。破滅へ向かう道を向くのはやめて、光の射す方へ歩けば、長い道のりだろうと、いつかは――」
「……そんな時間、東北にはないじゃないですか。東北は長くないんでしょう。……あと、どれくらいの命なんですか、東北は」
私がそう問うと、イタコさんは心底心外そうな表情を浮かべて言った。
「とんでもない、あの子は、たしかに丈夫な体じゃないですけど、病院で安静にしているかぎりは、命の危険はないんです。だから、だからこそ、歩く向きだけは、と言っているんです」
「? 東北は、そうすぐには死なないってことですか」
「少なくとも、お医者様からそういうことを言われたことはありません。でも、きりちゃんは黙ってその言葉を聞いてましたけど、心のなかでは、信じてなかったのね……」
私は、バツが悪い気持ちになって……閉口してしまった。おそらくは、この事実というのは、東北にとって最も知られたくない、弱点だと悟ったからだった。聡い東北は、イタコさんの言っていることが本当だというのを、知っているはずだ。それでなお、自分はすぐに死ぬ、と、感情で事実を上書きしようとしている。その子供っぽさを、東北は私に知られたくなかっただろう、というのは簡単に想像ができたのだった。
「すみません。今日はちょっと、東北と話すと喧嘩になりそうなので、帰ります。お話、ありがとうございました。どうかお元気で」
「ぁ……ええ。ありがとうございました。今後とも、きりちゃんをお願いします」
イタコさんは最後まで私に対して丁寧な態度を欠かさなかった。私はそれに、東北の言う破壊願望がどうやって育てられてきたのかを、垣間見ることができたのだった。
10
冬が来る。初雪だということが私の部屋に備えられたテレビから知ることができた。天気キャスターは氷の粒にいささか興奮した面持ちで、落ちた気温の辛さなどを通行人から聞いたりしていた。楽しそうだな、と私は思った。知っているかい、君たちが一喜一憂しているその近辺で、秋は誰にも惜しまれず朽ちていったんだ。そんな思考を閉じて、私は窓を開けた。
外は世界が断絶したかのようにまっくらだった。私は東北の言葉を思い出す。
「私にとっての景色はこれしかないのです。この40×80センチの窓から見える風景だけが、私の世界なのです」
彼女がそう簡単には死なないとわかった今、私はその言葉の真意を改めて考える必要があった。
東北は、外に出ようと思えば外に出られるのだろうか――。単に行きたくないだけ? 強情でここにいることを決めたとか? いや、それは違うだろうか。この前、イタコさんは東北について、「病院で安静にしているかぎりは、命の危険はないんです」と言っていた。それは裏を返せば、外に出て風に当たり、走り回ったりするほどの行為は危険だと言うことなのか……それか、東北の見た目から偏見を受けることを恐れて、隔離しているのかもしれない……
思えば、彼女が悪くしているのは主に消化器のはずで、呼吸器官は悪くない。腕は無いが、足が悪いわけでもない。血行はそこまで良くないだろうから……体力には期待できないが、軽い運動、外を歩いたりするぐらいなら、できるのではないか?
それならばやはり、精神的な問題だろうか。抑圧された感情か、人目。家族関係。破壊願望。劣等感。ないまぜになった負の感情が、彼女の体に破滅の烙印を押しつけ、東北は誰に縋ることもせず、たった一人井戸の底から出ないことを選んだ。
そこへ、私がふと降りてきた。そこに、運命は合ったのだろうか。
わからない、わからないが、しかし今日の私は東北のことを考えすぎる場合でもない。
私はクラスメイトからもらった包み紙を開けた。中にはご丁寧に軽いメッセージまで添えられた、大きめの長方形の箱。仰々しい漢字がいかにもパッケージですと言った風に鎮座していて、私はおかしくなった。くだらないね、と思った。
大人はただの毒物に対し、「日々の楽しみ」だとか、「命の水」だとかのたまい、それなりの価値をつけ、文化にまでしたてあげた。
私は少し侮蔑の意味を込めて、乱暴に箱を開封し、外箱を放り投げた。鮮やかなべっ甲色の瓶が、私の机の上に鎮座した。
ウィスキー、と呼ばれるものだと言うのは私も知っていた。別にチョイスにこだわりはなかった。だって、贈り物だってことで手に入れるなら、ビールよりかは、日本酒――『僕』みたいなキャラクターなら、ウィスキーがそれらしいと思ったから。本当にそれだけだ。
瓶を数回傾けると、ちゃぷという音が何度か鳴った。緩やかに死に向かわせる毒薬でも、液体であるが故の水音は清楚できれいなものだった。
キャップをぱきりと開け、私は普段遣いのコップに中身を注いだ。ガラスでできたコップなどでなくていい。透明なものでなくていい。毒物のくせにきれいな体面を繕ったお前には、適当に普段遣いにしているマグカップがお似合いなのだ。そんなことを頭の中で呟きながら、私は匂いを嗅いだ。消毒液のようなツンとした衝撃が、私の鼻孔を刺激した。アルコール度数は41%。一般的な酒類が3%、5%、9%を主軸に売られていることから、このあたりの度数はおそらく、そうたくさんの量を飲むことを想定していないのだろうと思う。
私はいくらか期待に満ちた心を抱えて……マグカップを口元に持っていき、それを傾けた。瞬間的に襲いかかる灼熱のような感覚に、私はむせてしまった。毒だ。本当に毒だ。と、そう思った。心を落ち着かせて、ゆっくりそれを嚥下すると、焼け付くような感覚が喉を痺れさせた。気品のある香りだとか、美しい色だとか、そんなまがい物をすべて凌駕する――私の人生にまっすぐ敷かれたレールを、ありあまるほどの熱で捻じ曲げるかのような、圧倒的なほどの、純真な害悪の塊だった。
なるほど、なるほど。と私は思った。これは、ゆるやかに死に向かわせるような、そんな慈悲は持ち合わせちゃいない。私が思うのは、人間は思ったより頑丈であり、その頑丈さにかこつけて、逃げ道を探した人間が行き着く先が、ここなのだ、ということだった。
私は逃避のような気持ちで……そこに幾ばくかの期待を込めて、マグカップ半分ほど残ったそれを一気に喉に流し込む。焼ききれそうな異常、異常、異常。頭がくらくらして、血流がどっと早くなる感覚がした。視界が大きく揺れて、体中が悲鳴をあげているのがわかった。
もちろん、私だって急性アルコール中毒というものの存在は知っていた。それを踏まえてなお、リスクを取った。おかしいのはその先にリターンがないということだろうか。東北の言うことを私は守りたかったのである。私はどこまでも一人で朽ちてゆくべきだ。破滅はよくても破壊はいけない。
毒物の余韻はしばらく冷めることが無いようだった。視界がゆらゆら揺れていて、慣性が働いているかのように視線の移動がややこしく、思考は取止めもなく、体は言うとおりに動かないわりに静止することもできなかった。
しかし、これこそが、大人たちが面白がっている酩酊というやつなのだろうと、私は悟った。たしかにこれは面白いといえば面白い、と理解したのが悔しくて、惨めな気持ちになった。バカにしていたものの良さをわかってしまった瞬間。――とはいえ、これはドラッグのようなものだ、と私は考えなおした。それもそうである。ドラッグだから体に悪いのはあたりまえで、ドラッグだから面白い感覚になるのはあたりまえなのだ。
だから、こういったどうあってもよいと言うような気持ち、世は事もなし、感覚に溺れよう、という考えになっているのも、自然現象の一部である。人間は一粒の錠剤や、たった数百ミリの琥珀色の液体で、いともたやすく自己の哲学を捨てるものなのだ。
酔いがさめた後のことを考えた。私は二日酔いというやつになるのだろうか。もっとたくさん飲まなくてはいけないのだろうか。酔いが冷めた後は自己嫌悪がやってくるのだろうか。
――ゆるやかに死んでいくという私の希望は達成されているのだろうか。
思えば窓を開けたままだった。ひらけた外の暗闇に手を伸ばすと、漆黒を浴びた雪のかけらたちが、一つずつ私の手のひらに落ちていくのがわかった。冷たい。雪のかけらは私の手のひらに落ちると、たちまち熱でただの水分へと変化していく。これもまた、自然物の小さな死のひとつなのだろうか。そんなことを思った。
風が冷たいのが、火照った体と対照的で気持ちが良かった。なんだか、自然物の一つ一つの機微が、真っ暗な空の雄大さが、一瞬で死んでいく雪の儚さが、すべて愛おしい気持ちになっていた。この感覚は本当に久しぶりのことで、私は私の中にそんな感性がまだ生きていたことに驚いた。
同時に、この美しい気持ちのまま死にたい気持ちになった。ゆるやかでなくていい。即死が望ましかった。一瞬で、すべてをバラバラにするような――爆弾のような死に方がよかった。私はなにかないかと思ったが、目の前には窓から見下ろせるわずか3mほどの土の地面程度しか、ちょうどいいものはなかった。これでは死ねない。死ねても、即死ではない。即死じゃなければ美しくない、と私は思った。しばらくの間私は外を眺めていて、ある瞬間、とても体が凍えていることにきづいて、わたしは窓を締め、布団へと潜った。しばらくして、意識が外の世界のように断絶した。
11
非行というものが、どういった感情によって成されることなのかを私はもう知っている。たばこを吸ったり、酒を飲んだり、ドラッグをやる人間の精神を私は理解している。それはやはり――逃避なのだ。まともに人間社会で生きぬこうとした人間が、まともに人間生活に溶け込めず、そして人間生活のどこにも体重を預けられる場所がなくなり、だから非日常へと逃げ込む。有害な煙やトリップさせる飲料を体になじませて、現実世界の認識をずらす。幻想の世界へと色をにじませる。合法、非合法――種類はいろいろあるだろうが、そのどれにも依存性がきちんとあり、それが社会からの逃げ道の手段として信頼がおける決定的な裏付けになっているのが、おもしろおかしく悲劇的だった。
私は教室へと一歩足を踏み入れて、今日も僕を演じた。どうもこの頃、「僕」は「私」とは別に、日々学び進化していっている気がしてならなかった。より精密に、より集中して。「僕」は「僕」らしい人間としてアップデートされていき、昨日よりわずかに、愛嬌があり、丁寧で、誰からも愛されるような人間になっていく。そこに私の計算高さはあまりなく、私とは分け隔たれたまま、別の人格があるように思えている。
「おはよう。ウナ」
そうして教室でぼうっとしていると、クラスメイトの女子の一人から、声をかけられる。もちろん社会的な僕はそれになんなく返事をしなくてはならない。
「うん。おはよう」
「ここしばらく、放課後ずっと遊ばないでどっかにいってるけど、どこに行ってるの?」
「ちょっとね。大事にしている人が病院に入院していて、気になるものだから」
「そうだったんだ。大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。病院で安静しているぶんには、平気らしいよ」
本人は納得してないようだけど、と私は僕の言葉に心の中で横槍を投げ入れた。
「でも病院かぁ。しばらくいるみたいだけど、暇だったりしないのかな。だってそうでしょ。ゲームもSNSも、毎日ずっとそれしかやることないと飽きちゃうし」
「ゲーム、SNSか……」
残念ながら東北はゲームもSNSもしない。とそこまで考えたところで、ソーシャルゲームやSNSはドラッグに形質が似ている、とそんなことを思った。インターネットの娯楽たちは、人とのつながり、ゲーム内でのアイテムやキャラクターなどの価値、そういったものを――時間で縛る。誰かの発言にいち早く気づいたり、ログインボーナスや期間限定のピックアップがあったり。インターネットの娯楽は「執着」をすればするほど見返りが出るように設定されていて、SNSもソーシャルゲームもそれを逆手に取って、執着をさせようと自分自身を釣り餌にして、切り売りをして、人を依存させる。ずっと追い続けていないと、損したような気分にさせるように仕向ける。
たばこや酒が肉体に依存を呼びかけるものならば――SNSたちはいわば承認欲求に依存を呼びかけるものなのではないだろうか。
そしてその虚像のドラッグたちは、しかしある種の救いのあるドラッグでもある。だって、社会から逸脱したものたちが逃避として行う生産性のないものだったそれらが、SNSでは人とのつながりに発展する。依存者たちのコミュニティができる。あの人はいつもいいねしてくれる。あの人の育ちきったキャラクターにはとても助けられている。肉体に影響するドラッグには見返りがあまりないが、執着を価値とするそれらには、相応の見返りがある。がんばればがんばった分だけ――疲れ果てて、インターネットをやめることにならないかぎり――大体の場合努力が報われる。だから――インターネットにはびこるドラッグは善性のドラッグである。私はそう結論付けた。
「ウナ?」
ふいに呼びかけられて、私ははっとした。
「ごめん、ちょっと考え事しちゃってた」
「あはは、よっぽど大事な人なんだね」
クラスメイトの女の子は快活そうに笑う。僕はその言葉に笑顔で頷くと、そのあたりで教室中にチャイムが鳴り響いた。女の子は名残惜しそうに僕に手を振ると、自分の席へと帰っていった。私はひとつため息をつきたい気分で――しかしそれをぐっとこらえた。ここではすべて僕の独壇場である。私がそれを邪魔してはいけない。そんなことを考えた。
私は教室を横目に見回した。しかし……このクラスの中のなんと幸せそうなことだろう。このクラスは一般的に見れば本当に良いクラスである。個人個人の好き嫌いはあれど、いじめに発展したことはない。多少のすれ違いや喧嘩はあれど、軋轢や冷戦に至るほどではない。みながみなそれなりにからっとしていて、多少陰のある人ですら誰も、仲の良い友だちが2人はいる。話せばみな学校がだるいと口を揃えて言うが、それは建前の反発で、ちゃんと学校生活を楽しんでいるように見える。中間休みにドッジボールをしたり、クラス内で手紙を回したり、給食で余った食べ物をじゃんけんしたりするのを、ゆったりなごやかに楽しんでいるように見える。小さな楽しみ、幸福と呼べないほどごく僅かな幸福だが、こういったものを、人生の最上の幸福に敷いているものもいる。このクラスはそういった意味でよいクラスである。
先生が教室に入ってきて点呼を取る。担任の先生は明るく元気で、かといって体育会系でもなく、柔和さを兼ねた態度と表情で、クラスから支持を得ている。
私はこの空間を大事にしたいと思う反面――どうしようもなく、しらけた気分でもいた。彼らが正しいというのは理解している。こういったものが幸福だというのは理解している。だがしかし、この中で、生来の虚しさを抱えたまま日々を過ごすことになったものなど、一人もいないだろう。東北のように、いろんなものが欠落した体を持って、不完全な病室にひとり留まっている、そんな思いをした人などいないだろう。
このクラスが幸福だと言うならば――それはこの空間が幸福なのではない、と私は悟った。彼らがこの場所をいくら大事に見ていようとも、それはこの空間が根源にあるのではなく、こんな仮そめを本質だと思ってしまうほどの、無教養さに幸福が詰まっているのだと。つまるところ、不幸を知らない。彼らはいろんな諦念と慰めを押し付けられて、見下されながら生きて無駄に強くなった東北の感情を知らないのである。
私から見れば、すべて虚構だった。それはこのクラスに溶け込んでいる「僕」も含めて、そうだった。あるいは――子供、というのだろうか。クラスメイトも、教師も、女子も男子も全部まとめて子供だ。彼らは、逃避を知らない。生きるのに向いてないから死のうと思って、だけど死ぬのは怖いから死んだように生きている人間を知らない。死ぬのが怖いから死ぬリスクだけを接種している人間を知らない。「僕」を知っているものは――「私」を知らない。
だからこそ、私の中で2つの感情がせめぎ合っているのだった。社会でうまくやっていきたい自分と――そこから逃げたい自分。ここにいる人たちは幸福だし、尊い。だがしかし、その一方で東北や私という存在を、間違っていると認識することはできない。そして両者がわかりあうことはなく、その両者が邂逅を果たせばどうなるかと言えば、クラスが東北や私を排斥するか、東北がこのクラスを爆破するかのどちらかである。
中途半端の中庸の気持ちのまま、私は授業を受けた。今日もまた、道徳の時間に答えが見いだせるかな、という無意味な期待を胸に潜めたまま。
12
もうこれでこの病院に来るのは何度目だろうか。東北と出会って数ヶ月がすぎ、秋風は霜雪へと変わった。ブーツで薄く積もった雪をさくさく踏みしめて、目的地へ到着するといつもどおりの自動ドアになかにいれてもらい、いつもどおり受付に承諾を取り、いつもどおり病室のドアをノックする。
「おはよう、東北」
「おはようございます」
「元気?」
「元気だったことが――」
東北はそういいかけて、
「今日は特別、元気ではありません」
と言葉を変えた。
「なにかあった?」
「別段。いつもより体調がよくなくて、そのせいでいつもより精神が安定してないだけです」
「それはまた、生物的な視点だけど」
「私から生命性を取り除いたら、どれほど楽なことか。いつもいつも、生物であることが障害になっているのに、なにをいまさら」
悪かった、と私は謝ってから、東北の言葉を待った。東北がなにか話したいことがあるように思えたからだった。
だけれど私が黙って言葉を待っていても、なかなか東北は口を開かなかった。いつもどおり窓から流れる空気に体を預けながら、外の世界をじっと見ている。ちらちらと降りしきる粉雪がときおり病室に迷い込み、部屋の暖房に負けて消えていく。その光景はどこまでも流動的であるのに、私はこの病室という空間が、時間が止まったかのように思えた。
「最近」
しばらく黙ったまま東北と雪を見ていると、東北が口を開いた。
「あなたが、異様に覇気があるのが気になる」
「覇気?」
「あなたは、なにかを成し遂げたのではないですか。それもおそらく、非合法。おおっぴらに言えないことを、あなたは行った。それを行ったのは別にいい。だが、それを私に言わない、というのが、気にかかる」
「……よくわかるね、そういうこと」
「今だけは、私の言葉に真剣になってください。……ごまかさないでくださいね。つまり、あなたがあなた一人でなにかを成し遂げて――」
東北は言葉を探すようになにかをいいかけたあと、「いや、こういうことじゃないんです」と言葉を自分で遮って、一呼吸を置いた。そして少しばかり落ち着きを見せたあと、
「さみしいのかも、しれない」
と、東北は口に出した。
「東北からそんな率直な言葉を聞いたのは、初めてだな」
「もう、いい頃合いでしょう。私達は出会って、お互い衝撃を受けた。私はこれまでの経験から、なかなかおおっぴらに信頼を見せませんでしたが……これまでの幾度の面会から、会話から、価値観の共有から、そろそろ一歩、前に進んでもいいでしょう、と思いました。少し、素直になりたいのです。――あなたがなにか反社会的なことをしたのならば、それを私に教えてほしかった。同士として」
東北は一瞬迷った様子を見せて、少し怖気づいたような素振りも見せたが、わずかな間を置いてまた喋りだす。
「あなたにとっての私が、たとえ十把一絡げの存在であったとしても、私にとってそうではない。信じるというのは怖いものですね。裏切りに対してまったく耐性がなくなってしまう。ともかく、私にとってあなたはすでに、とても大切な人になっている。内臓が弱く、両腕もない私が――健常なあなたと同志でありたいというのは傲慢かもしれない。それでも、私はあなたと、対等に話せる存在でいたいのです」
東北は恥ずかしそうに、だが本来恥ずべきことではないのだといった態度で私に迫った。
「ありがとう、東北」
私はひとつお礼を言うと、次に言うべき言葉を見つけた。
「だけど、対等というのは、夢物語なんじゃないかな、と私は思うよ。それは、あなたを見下しているという意味ではなく――いや、そういう意味も含んでいるんだけど、それだけじゃない。たとえば……私は内臓も弱くはないし、両腕があることで、東北よりいろんな可能性があるのは事実だ。それによって、他人から受ける承認に差があるのは事実だ。その優位性を無視することは、人間にはなかなか難しい。そしてなにより……私より、東北のほうが本質を見極めるのが上手く、天性の目敏さ、度胸の強度に差があるというのも事実だ。そしてお互いが、お互いの足りないところを無視して対等だというのは、やはり無理がある、と思う。見下している部分があって、また劣等感を抱いている部分があって、それの天秤をかけた結果、お互いが平行になっているだけの現象を、対等というならそれが正しいのかもしれないけれど」
「対等じゃないというならそれでも構いません。見下し合っているというあなたの主張を通したいのならばそれでも構いません。今は本質が欲しいのではなく、仮そめの結託が欲しいのです。……あなたがそういう言葉を発したときに一抹のさみしさはありましたが。しかし、あなたが言ったことは決して間違いじゃない。人間は理性とは関係のない本能の部分で、他人と自分の優劣を区別してしまうというのは、いままでの人生でいやというほど思い知らされてきましたから」
ともかく、と東北は言葉を置いて、また新たに章節を作るかのように話題を切り開いた。
「あなたは、その一人だけの非合法を、一人だけで消化するつもりですか。他人には分け与えないつもりですか。あなたにとっての私は、所詮は他人なのですか」
「そういうつもりじゃなかったんだよ。話すほどのことじゃないと思ったから」
「だが、あなたの態度にはそれなりの誇らしさがある。社会に背を向けた者のみが発する、毅然とした姿勢がある。少なくとも、あなたにとってはそれなりに価値のある時間だったことはたしかだ」
「……まぁ、それは、そうかもしれないけれど」
「ならば、話してください」
「わかった」
私は少しばかりどきどきした気持ちで――東北の顔を改めて、覗き見た。東北も私と同じように、これから私から放たれるだろう言葉を待ちかねて、興奮を隠しきれないような面持ちだった。
「随分前、煙草を吸った。原色を扱ったパッケージが特徴の、変哲のない銘柄のやつね。あまり詳しくないけれど。たった一人で、自室で吸った。その日は秋の終わりだった。闇夜にかける木枯らしが、細いペンシルみたいな紙巻きの先からくゆる白い煙をたびたび吹き飛ばしていた。煙の味は――なんとも、有毒なものだ、と感じた。風景と、匂いと、感傷に似合わないくらい、情緒の無い味がした。また別日、飲酒もした。40何度のウィスキーを飲んだ。味わい深いとか、なんとか。大人はあれこれ宣ったけど、あれはただの詭弁だね。欺瞞だ。ただの毒物に、無理やりよさを見出してるだけだ。色はきれいだったけどね。それだけだった。ただ、腹の立つことに――量を飲むといい気分にはなった。私は――こんな文化、見下していたかったのに、丸め込まれた。しかし、まぁ、酒だってドラッグのひとつなのだから、こういう気分になるのはしょうがないと、考え直しもしたけれど」
私の言葉をじっと聞いていた東北は、私の発言が途切れてからしばらくたつのを待ってから、それから私の目を、目の中の瞳を覗いて、言葉をようやく発した。
「なぜ、そんなことをしたのですか?」
「社会的じゃないことをしたかったから。そしてもうひとつ――ゆるやかに死ぬのには、それがふさわしいと思ったから。東北、あなたが言ったように。破滅は良い。自罰は良い。ダメなのは、破壊と他罰だから。だから誰も傷つけず、私だけが傷つく方法を選んだんだ」
「なるほど」
東北は目を瞑り、考えをまとめているようだった。そして先程からの東北の態度、その表情の重々しさ、苦虫を噛んだような苦しい顔、あまり歓迎していない声のトーンから、私と東北の間には、溝ができているように感じた。
「正直に言って、少しがっかりしました」
「がっかり、ね。表情からなんとなくわかったけど。それはどうして?」
「音街。あなたのやったようなことは一般的すぎる。あなたはもっと……かけがえのない非行ができるはずだ。あなたがそれをやったからって、私は少しもそれを美しいとは思わない。だってそうでしょう。たかが喫煙、たかが飲酒。年齢で区別されるだけの違法を行って、それで、そんなに自信が持てるなんて、落胆を通り越して喜劇的ですらあります」
「ずいぶん、棘を刺すじゃないか。仮に一般的だったとして、それのなにが悪いんだ。私なんて、社会に向いてない木っ端な若い女にすぎない。しかも私は、それを胸にしまっていたのに。無理やり話せと言ったのは東北じゃないか。それで勝手に失望して、なにがしたいんだか、わからない」
「あなたは、もっと人とは違う破滅を持っているはずだ」
「曖昧な期待じゃないか。それに、箇条書きで示されるような、ただやったことだけ、事実だけを連ねて、一般的だとかなんとか、そんなことをいうのも失礼なんじゃないか。重要なのはなにを考えて行動して、そこからなにを感じたかじゃないか。同じキャンパスを見ていても、人によって感じる印象は千差万別なように。東北は、私がどういう気持でわざわざ非行を用意して、なにを感じて、どう思い出に残したまでかは知らないじゃないか」
私は自分を取り繕う言葉を必死に探していた。詭弁であることは理解していた。だけれど、言葉を喋らなければ、自分自身を保てないような気分になって、喋らざるを得なかった。そうして、会話は歪む。
「あなたの言うこと、自分が考えたことが重要なのだというのは、そうかもしれません。しかし、自己の精神だけで語るのであれば、全世界の人間が、それなりの哲学を持っています。あなただけではない。だから――これは私が勝手に期待をして、勝手に失望しただけなのですが……あなたの中に、他のただ鬱屈している者とは違う、なにか特異な価値観を感じていたのです。だが私から見れば、あなたは思っていたよりずっと子供だった。別に、珍しくもない、お手軽な非行に憧れただけの、年端もいかない少女だった」
私は東北の「子供」という言葉に、自分でも驚くほど、激高した。その一方で、自分を俯瞰してみているもう一人の私は、自分という存在を、「大人」として扱い、それ以外の、たとえばクラスメイト、「違法」を娯楽として扱う大人たちを、子供として扱い――馬鹿にしていた、という事実を冷酷に悟っていた。
そして東北は、私が子供として扱っていたその木っ端たちと――私自身が、まったく変わらない存在だと言っている。それをただ価値観の差異だと撥ね付けることもできた。明確な意識の分類などできないから、東北がそう思っただけ、と片付けることもできた。
それができなかったのは、図星をつかれたような気持ちになったからだった。
「違うよ。東北、あなたは何もわかっちゃいない。僕の感じたすべてを、なにも考慮に入れていない。だって――」
「「僕」とはなんですか。初耳ですが」
東北は耳聡く、私の過ちを聞き咎めた。
「あえて、一人称を変えたようには聞こえませんでした。とっさに出てしまったかのような――普段はそっちの人称を使っていて、今、焦ってしまって出てきてしまったかのような」
「うるさいな、気のせいだよ。気にすることじゃない」
「あなたは……わかりました。普段は自分を偽って生きてるのですね。おおよそ社会的ではない自分を偽って、仮そめの人格を作って生活をしている。なるほど。いままで不思議だったのが、ようやく合点が行きました。あなたがいつも、不幸そうな顔ばかりしているのに、精神がそれなりに安定していた理由が。あなたは、自分を隠して生きて、それなりにうまくやっている。だけどそれは本来の自分ではないから、満足することはない」
「いい加減にして!」
私は大声を出して、東北の言葉を遮った。
「知的好奇心ってそんなに大事なもの? あなたは私を解剖して、それで悦に入っているだけじゃない。触れられてほしくないことだって、人間にはいくらでもある。それは東北、あなたもだ。いずれ死ぬ、いずれ死ぬ、と言ったって、あなたはすぐには死なない体のくせに。私と同じなだけのくせに。それを信じずに、かといって本心そのまま信じてないわけでもないのに。私と同じなくせに、自分だけは悟っているみたいなことを言わないでよ!」
「……それを、どこで」
「どこでって、そんなのわかりきってる」
「姉さまですか。あれは、ただ希望にすがってそう言っているだけですよ」
「それは嘘だ。あなたが絶望にすがらないと生きていけないだけだ」
「そんなことはありません。私はいずれ死にます」
「そりゃ、立派だけどね。もはや信仰に近いよ」
「馬鹿にしているのですか?」
「そうだよ。怒らないの?」
「怒っていますよ。ただ、あなたほど感情の出し方を知らないだけです」
「自分だって子供みたいに盲信しているものがあるくせに、悟ったようなことばっかり言って」
「私は、そのうちに死にます」東北は目を閉じたあと、もう一度同じ言葉を噛みしめるように言った。「私は、そのうちに死にます」
「こんなの話し合いにならない」
「それはあなたもでしょう。お互い意固地になっているだけですから。そしてあなたは私の真意を知らない」
「もういい。これ以上話す意味も無いよ。帰る」
「ではさようなら。次はいつ来ます?」
「最後まで苛立たせるのがうまいね。二度とこないかもね」
そういって私は病室を出た。自然、速歩きになっていたために強く地面に打ち付けられるブーツが、リノリウムの真っ白い床をかつかつと音立てていた。その定期的な音ですら、今の私には煩わしくてしょうがなかった。
13
東北と喧嘩をしてしまった日から、一週間がすぎた頃。私はやることもなく、やらねばならない唯一のもの、登校だけを済ませていた。生活に張りがなくなってしまったのは事実だが、私は東北の言葉と態度をいまだに許せていなかった。東北の言葉は本質でできた槍のようなもので、あのときを思い出すたびに、その槍が私の横腹をいやらしく貫いた。彼女のことを考えようとすると、毎回辛く苦々しい気持ちになるので、次第に考えないように努めるようにしたが、それでも一日数回、彼女のことをふと考えてしまって、そのたびに怒りと悲しみがこみあげてきた。
それは、私が東北のことを大事にみていたということと、東北の言葉に自分の浅はかさを見抜かれた恥を、酷に物語っていた。
私は、感情を揺さぶられると考えすぎる傾向がある。未来の流れに託しておけばいいものを、事前に予め隅々まで決めておこうという思考に陥る癖がある。
私は東北とこれから未来永劫会わないという選択肢を取るか取らないか、という考えをずっと、頭の中で吟味しながら、授業を受けていた。仲直りできないのではないか、また会ったとして、また傷つけ合うだけではないか、それならばいっそ、もう会わなくていいのではないか、しかしそれはそれとしてさみしい気持ちもあり、また、東北もそれを望んでいないだろう……でも、あの発言に、私はまだ傷ついている。私の中身を知られたうえで、否定されるのはつらい。そういう意味で私の人生において一番危険な人物は他でもない東北だ。それならばやはり関係を絶ったほうが、のちの人生において、安泰なのではないか――
こういった行為を、反芻と呼ぶのだったか。そんなことが頭に浮かんできた。ストレスに直面した際、人はそのストレスの不快感を抑えるために、脳内物質を分泌する。ストレスを抑える効果のあるその物質は、依存性があり、結果として、苦しいはずなのにストレスになる物事を考えずにはいられなくなる――そんなことを聞いた覚えがある。
午前の授業が終わり、給食を恙無く食べ終え、昼休みになる。やることもなく図書室から借りた本を机の上にひろげ、その紙面の表面だけを目で追っていた私は、クラスメイトの女の子にいつもどおり声をかけられた。
「ウナ。なんか元気なさそうだけど」
「そう見えた? うん、最近ちょっと落ち込んじゃって」
「なにかあったの?」
「いろいろ。友達と喧嘩したりとか」
「喧嘩? ウナが? 絶対ないじゃん、そんなこと」
「それがね……あったんだよ」
クラスメイトの女の子は不思議そうに顎に手を当てると、それから私に「それって誰?」と聞いてきた。
「あんまり、人の名前を言うと相手にも悪いから、言わないよ。この学校の子じゃないしね」
「学校の子じゃないならいいじゃない。もしかしたら力になれるかもしれないし」
「うーん……」
「ずっと喧嘩したままなのも辛いじゃん? ちょっとだけでいいから、話してみて」
私は一瞬迷って――しかし、こういったところに解決の糸口はあるのかもしれないと思った。それにこの学校の人達はずっと病院で暮らしている東北のことなど知らないだろう。それならば、他人のことなのだから、あまり真剣に聞いたりはしないはずだ。一歩も踏み込まない、健常人の合理的解決が成されるかもしれない、と私は一縷の望みのようなものを感じながら、話すことにした。
「病院に入院してる、東北って子なんだけど」
「東北……って、あの! ?」
女の子はびっくりしたような声を上げて、まんまるの目を大きく開きながら私の顔を見た。
「知ってるの?」
「うん……だって、二年前かな。たまに学校に来てたから」
「学校に、東北が……?」
「うん。来てた。体の調子が良くて、お医者さんに許可をもらった日だけ来てたみたい」
「そうなんだ……」
「でも、ウナ、東北と仲良くしてたの?「あの」?」
彼女の言葉尻に、気がかりがあって、私は訪ねた。
「東北がなにかしたの?」
「なにかしたってわけじゃないけど……なんだろ、すごく変だった。成績はすごかったけど、大人しさが度をすぎてるのに……なんか、普通じゃなかった」
「普通じゃなかった、っていうのは」
「なんか、危ない感じ」
彼女の言葉は曖昧なニュアンスだった。
「東北が直接的になにかしたことはあった?」
「たぶん、ないけど。でもクラスの子と仲良くはしなかった。なんだろ、感情が無いみたいな。付き合いづらいから、やっぱり悪く言う人もいたんだけど。東北は頭が良いみたいだったから、うまく言葉でやりこめて、それがまたクラスの男子とか、怒らせてた」
でも、あの体だったから、先生もしょうがないとか言って、なぁなぁで済ませてた。と彼女は語った。
「ウナ。仲良くしてた友達って、東北のことだったんだ」
「うん、まぁ」
「正直……ウナは東北と仲良くしないほうが良いと思う。だって……東北は変だし。ウナはもっといい友だちっていっぱいいるでしょ」
「でも、僕にとってはいい友達だった」
「そんなこと無いと思うよ。だって、東北はきっと嘘だってうまいから」
「いや、東北は嘘が下手だ」
「でも――」
クラスメイトの彼女は少し言葉を濁して、
「東北って、当時お酒とか飲んでたんだよ。それってありえないじゃん。それで問題になって、学校には来れなくなったんだ。だから付き合わないほうが良いよ。ウナには、もったいないから。ウナまで悪い子になっちゃう」
と、そう言葉を閉じた。
その言葉に、私がどれほど動揺しただろう。私がこの一週間考えていた様々な葛藤より、はるかに大きい情動が、私の体を沸き立たせた。思えばクラスメイトの彼女を振り切って、ランドセルも置きっぱなしで、私は外に出ていた。広い校庭は雪が少し積もっていた。
私は雪を踏みしめながら、一点を目指して歩を進めた。さくさくさくさくと雪が潰れる音だけが響いて、だけど頭の中は戦争のようで、その一方で一つの伝えたい言葉だけが頭の中に芯として残っており、危険な静けさを孕んでもいた。
まもなく病院へと足を踏み入れた私は、受付を無視して東北の部屋へと向かう。2、3回ノックをしたあと、数瞬待ってから、扉を開ける。
「おはようございます」
「東北、ごめん」
「あなたが謝る必要はないと思います。あれは、私が悪かった」
「そうじゃないんだ」
私は東北のベッドの傍らに備え付けられている椅子に座り、それから東北の顔を見て、その表情に罪悪感を感じて、目を逸らした。
「なにかあったのですか?」
「あった」
「なにがあったのですか?」
「正義ぶった悪意があった」
「どういう意味ですか?」
「学校で、東北の話をした」
「それで?」
「東北が学校に通っていた時期があったことを知った。そして……クラスと折り合いが悪かったことを聞かされた。飲酒をしていたことも」
「それがなにか?」
「私は、あのクラスを嫌いでもあったけど、同時に同じくらい好きでもいた。それなりに大切にするべき、社会規範のあるべき姿だと認識して、そこから外れたい自分と、それに沿いたい自分がいた。少なくとも、あの場所にいる間だけは、危険思想はなくして、健全な学生として生きるようにしていた」
私は溢れてしまいそうな言葉を必死にくいとめるように、一度頭を振ってから、言葉を続けた。
「――だけどね。クラスの女の子が、東北と仲良くするべきじゃないって言ったんだ。変だから。飲酒しているから。ありえないから、と」
「当然のことですね」
「でも、でもね」
私は俯いて、その言葉を紡いだ。
「私はそのときに、その女の子を、殺してやりたいって思ったんだ。東北を馬鹿にされて、本当に、心の底から嫌悪と怒りが湧き上がったんだ。それは、東北と喧嘩したときのような激情じゃない。氷のナイフみたいに、冷たくて、芯があって、するどく明確な殺意を、その子に感じたんだ。本当に、法が許すなら、あるいは私が理性を欠くことができたなら、私は本当にその子を殺したかった」
そういって私が言葉を切ると、東北は一つため息をついた。他人にはわからない私達の条約の違反に、東北はきづいたのだ。
「あなたは、悪い人だ」
そう言って、東北は身を乗り出して、私の体を抱きとめた。肘までしかない腕で私の頭をなでた。それは生命がかろうじて存在している暖かさで、彼女の希薄な生命と、薄青く燃えている確固たる信念を表現していた。
「本当に悪い人だ。自罰は良くても、他罰はいけない。破滅は良くても、破壊はいけないと言ったのに。本当に、本当に悪い人だ」
東北の言葉には不思議な温かみが感じられた。それは涙がかすかに混じった声だからというのもあっただろうか。私はわけもわからず、その声につられて、わずかに涙を流した。
「私達は、どこまでだっていける」
東北はそう言った。
「音街。いつか死のう、とそう思っているなら、考えていることがあります。死ねるかはわかりません。ですが計画の上では、それは美しいプランであることを保証します。私達の弱さと、無駄に鍛えられた強かさを、愚直に発揮できる計画。よければ、話だけでも聞いていきませんか」
私は涙を拭いながらその言葉に頷くと東北はすらすらと、その計画を話しだした――。
すべて聞かされ終わったあと、私と東北は逸った気のままにありふれた雑談で盛り上がり、あたりはすっかり暮れて、夜になっていた。
「そろそろ帰らないと」
「泊まっていけばいい」
「場所もないし、怒られるし」
「二人寝るだけのスペースはある。怒られるのなんて今更だ。どうせ神様に見捨てられた私達です。いまさら、数人に失望されることぐらい、なんてことはない」
東北の言葉に私はそれもそうか、とおもう気持ちで了承して、時刻が深夜をすぎるまで、東北と話していた。スマートフォンの通知がうざかったので、途中で電源を切った。
いよいよ二人のあくびが頻繁になってきたころ、私達は寝ることにした。あまりたいしたものを口にいれてなかったのに、不思議と空腹はなかった。私は東北のベッドに横になり、お互い背中合わせで眠る体勢になった。
「……あなたが、希死念慮を抱くようになった理由って、なんなんですか」
「内緒」
「なぜ?」
「嫌われたくないから」
「そうですか……それはいまでも?」
「うん」
「いつかきかせてほしいものですが。死ぬ前に」
「そのときが来たら言うよ」
「そうですか」
そういって、東北は言葉を切った。東北がどういう気持で会話を終えたのかはわからない。だけれど、背中越しに伝わるこの体温は、いつも冷たい肌をしていた東北には考えられないほど、柔和な温かみを感じられた。
14
決行は東北から計画を話された三日後だった。病棟の消灯が行われた後の病院はとても静かで、それはともすればここを死体安置所と勘違いするものが居てもおかしくないように思えるほどだった。それほどまでに、薄暗い光に覆われたしとやかな病室は死と生命の境目があやふやになっているように見えた。
「では出発しましょう」
病室の扉から人影を監視している私の背で、部屋で出かける準備、その最終確認をした東北が言った。
「わかった」
私は東北の手を引こうとして――それが無理であることに気づいたのち、せめてでも彼女の肩をそっと引き寄せ、久々であろう遠征に、体力を少しでも温存させようとした。東北もその意図を察してか、軽く私に体重を預けながら、ゆるやかに歩いた。
この病院は4階建てになっており、出発点、東北の病室は2階に位置していた。エレベーターが完備されているが、なるべく人目につきたくない私たちは、この病院内でひっそりと寝息を立てている人も死人も起こさぬように、階段を使うように決めていた。
「階段を最後に歩いたのは?」
「何ヶ月前でしょうか。まったく覚えてない」
「気をつけてね。足元は見えるけど、転んだら大変だから」
「ええ」
東北と一緒に階段を降りる。私は先に前を行きながら、すぐ後ろでついてくる東北がバランスを崩したときに真っ先に抱えられるよう意識を集中する。東北と私が階段を降りるたび、ぺたぺたと皮膚が清潔な床に接触する音が静かに鳴った。足音をなるべく小さなものにするために、私も東北も、靴をリュックに詰め込んでいるからだった。
「でも、1階の出口にはかならず受付の人が居る。あの人はどうしようか」
「1階の、012号室が空き部屋です。鍵も開いている。そこから外に出られるはずです」
東北が指を指した方向へ進む。もちろんのこと、出入り口が1階にしかない以上、上の階より下の階のほうが人に接触する可能性は高くなる。私たちは昆虫のように息を潜めながらゆっくりと歩を進めた。
次第に、前方に人影が見えた。遠く薄暗くてよくわからないが、衣服や背丈からおそらくは男性の患者のようだった。私たちは廊下に出っ張った柱の影に隠れる。
「こんな夜中に、どうしたんだろう」
「お手洗いか――もしくは、徘徊癖なのか――もしくは、この場所の閉塞感に嫌気がさしたのか」
そんなことを小声で喋りながら、患者の出方を待った。影法師として存在する彼は――私達の方へ近づいたり、遠のいたり、同じ場所をふらふらと行ったり来たりして私達を不安にさせた。彼の影が近づくたび、私は一旦退くかどうかを考えるはめになり、一旦下がろうと決心した瞬間、また元の位置に戻っていく。私達をやきもきさせるだけさせた彼は、しばらくして011号室、私達の目標の病室、その隣の部屋へと入っていった。
「あそこがあの人の部屋なのかな」
「わからない。ただ歩き回っているだけならば、またすぐに出てくる可能性もあるでしょう」
「どうする?」
「こんなところでこれ以上待っていられません。行きましょう」
勇猛な東北の決断に押されて、私はまたあるき出した。彼は――私達を必要以上に焦らせ、不安にさせるのに十分だった。正体が不明なその存在は、これからの受難を暗示しているかのようで、その印象に影響を受けた私はこの深夜の薄暗い廊下の、射し込む濃い影一つ一つが私達に襲いかかってくるんじゃないかと思うほどだった。ひたひたと進む私達の足音が、私達のものではないような気さえしてくる。それでも歩みは決して止めなかった。それは後ろをついてくる東北の、その決心に報いたかったからだった。
引火性の気体のような空気の中、私たちの不安とは裏腹に、なにごともなく012号室へと私たちはたどり着いた。私がドアを引くと、ドアはなんの抵抗もなくするするとスライドした。
「ここが、入り口ですね」
東北が言った。
「出口だと思うけど」
「病院からの出口ではあるでしょうが、外の世界、破滅の入り口でもある」
「ちょっと怖い?」
「かけらも」
ドアを締めてから、私は暗い部屋の中を照らすべくペンライトを掲げた。入り口の真正面。備え付けられた大きめの窓から空が見えた。正位置に鎮座する大きい月が、一枚の絵画のような出で立ちで出迎えていた。私は窓のクレセント錠を開ける。サビで建付けが悪くなっているが故の異音を小さく奏でてその微かな抵抗のあと、その錠はしずと外れた。
そのまま窓を開けると、びゅうと寒風が部屋の中へと入ってくる。
「靴を履きましょう」
「うん」
私たちは最後の逃避行のための、準備を始める。私は使い古したスニーカー。対して東北の靴は、何度か慣らしに履いたばかりの新品だった。
「じゃあ、私が先に出るよ」
「ええ」
健常な体を持っている私は、なんなく窓の桟を掴み、そのまま体を外の世界へと放り出すことに成功した。冷たい空気の中、病室の中を見る。
「なるべく引っ張るから、できるだけ体を前のめりにして」
「わかりました」
東北が身を乗り出したところを、私はなるべく支えながら引っ張る。東北の体はその白い体からは想像できないような熱を帯びている。東北の横腹を支えるようにして――痛みの出ないように慎重に、東北の脱出を手伝う。
そのとき、東北の後方、この部屋のドアががらっと開いた。そこには先程徘徊してたであろう男性のような影が立ち尽くしている。この距離であっても、暗がりでその姿はおぼろげにしか見えない。
「音街! 早く!」
私と東北はその異常事態に動転して、私は全力をあげて東北を部屋から引っ張り出す。部屋から抜け出した東北の体は受け身などとれるはずもなくそのまま地面を転がり、それでも東北はすぐに立ち上がり、駆け出す。
「逃げましょう! 音街!」
「わかった!」
私たちは薄暗い街灯と月明かりだけを頼りに走る。冷たい夜。雪がしんしんと降り積もっていた。足跡のない道をざくざくと音を立てて、私達がまだ生きてる証拠を、轍として刻み続けながら、私たちはどこまでも走った。
「っは、季節……空気! 冷たい雪の粒、刺す風の冷たさ、霜雪を踏む音! 体温が暖かい。生きている……生きているんだ、私」
いままでに見たことがなかったくらい東北は上機嫌で――空を高く見上げながら、私たちは次第に歩を緩めて、お互いの様子を窺いながら季節を確かめるように歩いた。雪が降りしきっている。東北のこんな顔を見たのは初めてだった。私もまた少し浮かれている気持ちだった。雪が東北の体をかすめる。
透き通った雪の結晶が、無限に空から落ちてくる。次の一秒は私が見たことのない一秒になる。その次も、その次も――永遠に新しい世界を、私と東北は味わうように通り過ぎた。
「そろそろ見えてきますかね――あ、ほら」
東北が肘までしかない腕で、先を示す。川沿いの桜並木。もちろん冬なので枯れ木……それでも、この降る雪によって、枝の一本一本が化粧をしたかのように真っ白い。
「ここが桜並木の端っこのはず……この桜並木は、千本桜とも言われていて――果てしなく長い道になっている。それを私達が超えられるかは、わからない。そうだよね? 東北」
「えぇ。私たちは無限に思えるこの道を歩いて……」
少し前を歩いていた東北が振り返る。
「歩いて、歩いて……歩けなくなったら、川に身を投げる。それが一番美しい」
月光を背にした東北の表情は、このうえなく、少女然としていて、こんなときになってから、東北は年端もいかない、生まれが違えば無邪気な子供だったろう、というのが感じられた。
「本当にできるだろうか」
「できます。一人だったら無理だったかも知れません。でも私にはあなたがいる。あなたには私がいる。死に対する恐怖を、美しさで塗り替えられる」
東北は楽しそうに歩いている。ときおり石に躓いたり、バランスの取れた歩き方がわからず転んだりしながら、それでも笑顔は崩さず、これから私達に起こる未来を、本当にいいものだと思って、行軍を続けている。もちろん――私も東北と同じ気持ちだった。今日という日が、私の人生の中で一番美しい日だと言っても過言ではなかった。同時に、今日死ななければ、残りの人生でどんな局面にあったとしても、今日以上に死がふさわしい日はないのだろうな、という確信もあった。
そのときにふと思った。病院内を徘徊していたあの影法師は――私達の逃避行を、頑なに決行させるための、運命的ななにかだったのではないか。今となっては、そんな気さえしてくる。不思議、不可思議。あの存在がなんであれ、東北のこんな表情が見れただけで、私はあのときの焦燥感を、すべて許してやりたい気持ちになった。
静かな夜だった。流れる川の小さな水音と、私達の足音以外はなにもなかった。春や夏や秋にうるさく鳴くカエルも蝉も鈴虫も、すべて息絶えている。雪の粒は周囲の音を余すことなく吸収し、音のない世界に月光だけが眩しい。
暫くの間歩いた。東北の体力の消耗は、思っていたより激しいということを私は悟っていた。もうすでに息切れが起きているし、ふらふらとした足取りをしながら、何度も躓いて転んでいる。私はそのたびに彼女を助け起こしながら、最終的には彼女の腰を支えて歩いた。
「不甲斐ない」
東北は自分の体にそんな言葉を吐いた。
「なにが、歩いて、歩いて……歩けなくなったら、なんでしょう。まだ1キロ半も歩いていないのに。世界はこんなにも美しく存在しているのに、私の体だけは、いっつも不具ばかりで――やりたいと思ったことが、なにもできない。どこまでだって行ける――そう思ったのに、どこにも行けない」
「東北」
私の言葉に、東北は頷いた。
「ここらあたりですかね」
「本当にここでいいの?」
「えぇ。這いつくばってから身投げするのではかっこがつかない。――それに、私の体力は、もう限界みたいです。息切れと――嘔気が増してきた」
「そっか」
そういって私たちは歩みを止めると、お互い向き合う。東北は、勢いが余ったように私を短い腕で抱きしめると――、そのうちに離れて、川へと身を投げた。私も後を追う。
ばしゃりと着水音。刺すような水の冷たさに、私の体は拒否反応を示した。冷たいというより、明確に命の危険を知らせるような温度。服が一瞬で水を吸って、体が重くなる。
しかし水深はとても浅いようだった。流れもゆるやかで、流されるような気配もない。立ってみれば膝ぐらいまでの深さだろうか――夜なのもあって、上から見ただけではわからなかったが。飛び降りたが最後、濁流に飲まれわけもわからずに死ぬ、ということではないようだった。
「冷たい」
隣で膝をついた東北が言った。
「この冷たさこそ、私が真に欲しいものだった」
「すぐに死ねるような深さじゃなかったね」
私がそういうと、
「しかし、この冷たさ。十数分もここにいれば、間違いなく死ぬでしょう」
と東北は返した。
「音街」
「なに?」
「聞かせてください。なぜあなたが希死念慮を抱くようになったのか」
「どうしても言わなきゃ、だめかな」
「どうしてもです」
「…………」
私は、怖かった。東北のこの信頼がなおさらに、もし失望されたら、という懸念を私に残した。少しの時間――膨大な逡巡ののち、私は口を開く。
「私は、同性愛者だ」
「――それが、なんだというのです」
東北は、そんなことか、といった雰囲気で、私の言葉にそう返した。
「あなたが女性を好きでも、私の信頼はなにも揺らぎません」
「違うんだよ、東北」
「なにが違うのですか」
私は、東北が私に軽蔑の目を向けないことに安心しながら、それでもまだ絶望は晴れず、そのうえになぜか言い訳がましいような気持ちになって、後ろめたさと罪悪感に埋もれながら言葉を紡ぐ。
「東北がたとえそう思ってたって、なにも関係ないんだよ。東北が今私を認めてくれても、もう全部遅いんだ。私が本当にさみしかったのは、あの日あのときの私であって、今の私じゃないんだ。私が一番不適格を感じたとき、さみしかったとき、自己嫌悪に落ちいったときに、東北がそばに居てくれたなら、そうはならなかったと思う。でもね。そうじゃなかった。本当にひとりぼっちの日があったんだ。自分のすべてが間違いだと知らされた日があったんだ。それはね、東北がどんなに私のことを慰めても、信頼しても、絶対に上書きできないものなんだ」
東北は私の言葉に黙って――それから、ざぶざぶと音を立てながら私の隣まで近寄る。
「本当にあなたは、死ぬべき人間なのですか」
「死ぬべきかどうかはわからないけれど、消えたいとは思ってる」
「死ななくても、よいのではないですか」
「人の痛みがわからないからそんなことを言うんだ。そんなことを言うなら、私から見れば東北だってまだ生きられると思う。――少しなら外に出られるし……東北は頭もいい」
「なんだって、今更になってそういうことを言うんです。……私は死ななければならないんです。もう私はどこまでもねじ曲がっているから。普通な人を見ると辛いんです」
「私は、自分は死んでもいいと思っているけれど、東北は、まだ生きていてもいいんじゃないかと思っている」
「それは私の台詞だ。あなたを少し――誤解していました。どこまでも破滅の道を歩むしかないような人間しか、死ぬべきではない、と思います」
「そんなことないよ。言った通り東北には私の辛さがわからない」
「あなただって、私の辛さを理解しているつもりで、なにもわかっていない」
私たちはしばらく平行線の言い合いをして――お互いが、自分は死んでもいいけれど、相手が死ぬべきではないといった主張を続けて、結論の出ないまま、私たちは麻痺した冷たさに意識が遠くなりながら、疲れてその場に座り込む。ざぶりと音がする。
「――この感情をなんと呼べばいいんだろう」
「美しい逃避行のはずでした。……しかし、お互いがの意見が一致しないまま決行してしまったのは、明確に過ちですね」
「でも、失望だけじゃないんだよ、東北。お互いが、美しい感情をぴったり揃えたまま死ねなかったのは残念だけど……」
「慮る気持ちですか。あるいは――そう、友愛なのかもしれない」
東北は、昔に本当の愛として例に上げたそれを、惜しげもなく言い切った。
「でも、ここでじゃあ生きるかって言ったら、それも全く美しくないんだよ」
「どちらに転んでも、わだかまりが残る、ということですね」
「そう。私たちは……生きるにしても、死ぬにしても、そこに破滅がないといけないんだ。破滅することが、私達の自由への、免罪符なんだから」
「…………」
東北は雪に打たれながら空を見ていた。彼女の表情にはやるせなさも、諦念も見えない。ただ漠然と空を眺めているかのように、じっと、風景の一部として、東北は存在していた。
「音街」
東北が私を呼ぶ。
「私は――迷っています。あなたは破滅への才能がある。誰も真似できないような地獄へと、あなたは突き進むことができる。その一方で、あなたが幸福に生きる道筋は、まだ残されているように感じる。ただ――それは、私が生き残るのが条件としてある。それは間違いがない」
「いまさら――幸せになんてなりたくないよ」
「私もそう思います。庇護されないゆえの自由だけを抱えて、私は生きていた。それをいまさら……健常な人間として生きるだなんて。壊れてしまう」
音街。と東北がまた私の名前を呼ぶ。しかしその言葉はいままでのどんな呼びかけよりも重みを増していて、これが最後の言葉であるかのような印象を私に植え付けた。
「――思えば、あなたは、私に対して、死ぬほどではないと思いつつ、私のわがままに付き合ってくれたのですね。判断を私に委ねていた。だからこそこの決断だけは、あなたがするべきだと思います。私たちはここで死ぬのか、死んだように生きるのか、また幸福の道を目指して生きるのか。時間はもうあまり残されていません。いままでの人生を鑑みて、あなたが感じたあなたの不適格を振り返って、私とあなたの友愛を思い返して、私達の破滅を追思して――あなたが、今ここでどうするべきか、決めてください」
東北はそういって、目を閉じた。いくら待っても、東北はそれ以上の言葉を紡ぐことはないだろう。東北があげた選択肢は――どれにでも転びそうなほど、拮抗している道筋だった。私たちは、どの終わりも始まりも、選ぶことができる。そういう意味で、この瞬間の私は、これ以上ないほどの自由を手にしていた。しかしその自由は、反面絶対に後悔がつきまとうものであることは確実なものだった。どれを選んでも――懸念や後悔がつきまとう。私は、ただちに決めなければいけなかった。喋らなければ。このまま悩んでタイムアップも、『また一つの選択』になってしまうのだから。
「私は――」
川のゆるやかな流れが、私の決断を見守っていた。水面にほどける雪の粒。正解のわからない私たちは、どれを選んでも間違いの問を出されて、世界に取り残された水中で、肌の冷たさばかりを感じていた。