無個性と呼ばれた提督   作:HYDRATION

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E1すらまだ攻略できていない作者です。丙なのに……難しい……。

シロマサさん、ニヒル少年さん、ひよっこ鑑定士さん、感想ありがとうございます。

sarkiさん、評価10ありがとうございます! ひよっこ鑑定士さん、評価9ありがとうございます!

非常に励みになります。

6日連続投稿だ……ッ!!


第四十一話

 実習2日目。約束どおり、その日から、本格的に海へ出た。

 

 朝、事務所の桟橋に立つと、ライフラインさんは、もう救助艇の点検を終えていた。

 

「今日は、沖へ出す。昨日の湾内で、足腰は分かった。──次は、本物の海だ」

 

 本物の海、という言葉に、胸の奥が小さく高鳴った。

 

 吹雪が、僕の隣で、そっとヒーロー服の襟を正す。今日も傍にいます、とでもいうように。

 

 朝の海は、凪いでいた。

 

 昨日の湾内とは、まるで違う。防波堤の内側は、言ってしまえば大きな水たまりだった。けれど、沖は別の生き物だ。艇が防波堤の切れ目を抜けた瞬間、足元のうねりが、ひとまわり深く、重くなる。

 

「司令官。……揺れます。掴まってください」

 

 吹雪が、僕の袖口をそっと支えた。艇の縁に立っても、彼女はまるで揺れていない。海の上でこそ、この子は本来の姿になる。

 

「大丈夫。……ありがとう」

 

 艇の後ろには、今日も朱地さんが乗っている。昨日と同じ、見学だ。「艇からは降りるな」というライフラインさんの言いつけを守って、彼女は舳先の陰に膝を抱えて座り、機嫌よさそうに潮風に髪をなびかせていた。白い髪が、光の中でほどけて散る。

 

 ライフラインさんは、舵を握ったまま、艇を沖へ向けた。振り返りもせずに、口を開く。

 

「海に出て、最初に覚えることを教える。──怖がれ」

 

「怖がる、ですか」

 

「なめた奴から死ぬ。凪いでる海ほど、そうだ」

 

 脅しの色は、なかった。30年この海と付き合ってきた人間の、ただの事実だった。

 

 ふと、視線が、水平線の一点へ引かれた。

 

 黒い構造物。あの要塞が、昨日より近い。その周りを、白い巡視船がゆっくりと回っている。

 

「司令官」

 

 吹雪が、僕にだけ聞こえる声で言った。視線は、まっすぐそこへ向いている。

 

「あの奥から……深海棲艦の、気配がします」

 

 3ヶ月前、あの黒い群れと斬り結んだ海だ。彼女が、それを忘れるはずがない。

 

 けれど、その声に、怯えはなかった。むしろ、静かに研ぎ澄まされている。艦娘にとって、あれは目を逸らして済む相手ではない。逃げ続けられはしないと、彼女は魂で知っている。

 

「……近づけば、戦いになります。今の私たちだけでは、まだ届きません」

 

「うん。……分かってる」

 

 僕も、同じことを考えていた。艦娘を預かる以上、いつかは、あの海の底のものと決着をつけなければならない。避けて通れる道じゃない。

 

 でも、今じゃない。

 

「今は、まだだ。……その時が来るまで、力を蓄えよう」

 

「はい」

 

 吹雪は、静かに頷いた。その横顔は、いつも僕の傍らでふわりと笑う吹雪のものではなかった。かつてあの海で、たった一人、黒い群れへ斬り込んでいった、艦娘の顔だった。

 

「──おい」

 

 低い声に、はっとした。ライフラインさんが、こちらを見ていた。

 

「難しい顔で、あんまり沖を睨むな。海に飲まれるぞ」

 

「……すみません」

 

「ふん」

 

 それきり、彼は前へ向き直った。けれど、その一瞥は、腹の底まで見透かすような目だった。この人は、勘がいい。気をつけないと。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 

「昨日の湾内は、遊びだ。ここからが本番だぞ」

 

 ライフラインさんは、オレンジ色の救助用ブイを、無造作に海へ放った。ブイは、着水したそばから、みるみる艇から離れていく。湾内とは、流れの速さがまるで違う。

 

「要救助者だ。流されてる。──碧海、指揮を執れ」

 

「はい。吹雪──」

 

 言いかけて、昨日の指摘が頭をよぎった。指示が細かすぎる。現場では、細かい指示が届く前に人が沈む。

 

 僕は、ブイの行方を目で追った。流れの筋を読む。あのままなら、20秒後に、あそこ。

 

「吹雪。あの潮目の先で、待ち伏せて」

 

「はいっ」

 

 それだけで、吹雪は海面を蹴った。白い航跡が弧を描き、僕が示した一点で、流れてくるブイを掬い上げる。無駄な動きは、一つもなかった。

 

「回収、完了しました」

 

 もう一度、ブイが放られる。今度は、二つ。流れの向きが違う場所へ。同時には、追えない。

 

 僕は、一瞬で決めた。遠いほう、岩場へ向かうブイが先だ。近いほうは、流れが緩い。あとでも間に合う。

 

「吹雪、遠いほうから。──近いほうは、僕が目を離さない」

 

 吹雪が、迷わず遠いブイへ跳んだ。その間、近いブイの位置を、僕は声に出さず数え続ける。潮に乗って、いち、に、さん……。

 

 二つとも、上がった。

 

「……悪くない」

 

 ライフラインさんは、それだけ言った。褒め言葉に慣れていない口ぶりだった。

 

「碧海。海を、当ててみろ。──どこが危ない」

 

 唐突な問いだった。目の前には、ただ、朝の光を弾く水面が広がっているだけだ。

 

 けれど、僕は目を凝らした。

 

「……あそこ。少し右の、色が濃いところ。たぶん、下に何か。急に浅くなっているか、岩か」

 

「浅瀬だ。──よく当てた」

 

 ライフラインさんの口の端が、わずかに上がった。

 

「素人が、実習の二日目でそこまで見えりゃ、上出来だ。……正直、驚いた」

 

 世辞を言う人ではない。だから、その一言は、素直に嬉しかった。

 

「──だがな」

 

 彼は、すぐに顔を引き締めた。

 

「その浅瀬は、今日はそこにある。だが潮が変われば、危ねえ場所も動く。色で覚えた海ってのは、地図と同じだ。いつまでも、そこで待っててはくれねえ」

 

 舵を、軽く叩く。

 

「地図は動かねえ。海は、動く。……『提督』。お前さんが背負おうとしてる名前は、動くもんを相手にする名前だぞ。よく見えてるうちに、動く海も見えるようになっとけ」

 

 その言葉が、胸の奥に、小さな棘のように残った。

 

 試しに、もう一度、水面を見渡してみる。色ではなく、動きを。うねりの向き、風の当たる角度、流れが撚れて生まれる細かな皺。……さっきまで一枚に見えていた海が、ほんの少しだけ、幾筋もの流れに分かれて見えた気がした。

 

 まだ、入り口だ。それでも、地図にはない見え方だった。

 

 少し、休憩を挟むことになった。

 

 ライフラインさんが、魔法瓶の茶を配る。揺れる艇の上で飲む温い茶は、意外なほど旨かった。

 

 朱地さんが、僕の隣へにじり寄ってくる。

 

「碧海くん、さっきの、すごかったね。ブイが流れる先、ぴたって当ててた」

 

「……ライフラインさんの受け売りだよ。まだ全然」

 

「ううん。碧海くんって、ほんとに海図の魔法使いみたい。頭の中に、海がまるごと入ってるんだ」

 

 朱い目が、楽しそうに細められる。それから彼女は、ひょいと吹雪のほうを覗き込んだ。

 

「吹雪ちゃんも、すごいよね。あんなに速く海を走って、ぜんぜん危なげないんだもん」

 

「……ありがとう、ございます」

 

 吹雪は、丁寧に頭を下げた。けれど、その返事には、ほんの少しだけ、隙のなさがあった。誰にでも人懐こい吹雪にしては、珍しいくらいの。

 

 朱地さんは、気づいているのか、いないのか。にこにこと、湯呑みの茶をすすっている。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 

 午後は、要救助者を確保する訓練だった。

 

 訓練用のダミーには、わざと沈もうとする仕掛けがしてある。水を吸って重くなった人形が、引き上げる力に逆らって、ぐらぐらと海中へ引き込まれていく。

 

「本物は、もっと暴れる」

 

 ライフラインさんが言った。

 

「溺れてる人間は、藁でも掴む。助けに来た奴の頭を、無意識に水へ押し込むこともある。……昨日言ったな。まず、自分が死なねえこと。だから、正面から抱きつかれるな。相手の後ろへ回れ」

 

 吹雪が、ダミーの背後へ滑り込む。両脇の下から腕を通し、顔を水面へ持ち上げる。危なげのない動きだった。

 

「……筋がいいな。艦娘ってのは、こういうのも習うのか」

 

「いえ」

 

 吹雪は、少し困ったように答えた。

 

「教わったわけでは、ないんです。ただ……こうすれば助かる、と、身体が覚えているというか」

 

 ライフラインさんは、それには何も返さず、ただ小さく頷いた。

 

 こうすれば助かる、と身体が覚えている。──吹雪の言葉が、静かに胸に残った。人を助けるための動きを、教わる前から知っている。それは、この子が海の上で在り続けた時間の、長さそのものなのだろう。

 

 僕は、桟橋の縁から、その様子を見ていた。

 

 この人は、僕たちを本気で鍛えてくれている。要塞へ近づくための扉として、僕はこの事務所を選んだ。その事実は変わらない。けれど、教わる以上のものを、この人に返したいと思う気持ちも、嘘ではなかった。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 

 港へ艇を返す途中、湾の外れにさしかかったところで、ライフラインさんが、ふと速力を落とした。

 

「……この辺りは、近ごろ、海が落ち着かねえ」

 

 それだけ言って、また舵を握り直す。深くは、語らなかった。

 

 ふと視線を感じて振り返ると、朱地さんが、その一帯をじっと見ていた。得意げでも、面白がっているのでもない。何かを確かめるような、静かな目だった。昨日、僕と吹雪の連携を見ていたときと、同じ目。

 

「朱地さん?」

 

「──あ、ごめん。……この海、深いなあって、見てただけ」

 

 ぱっといつもの顔に戻って、彼女は笑った。その朱い目が、ほんの一瞬だけ遠くを見ていたのは、揺れる光のせいだったのか。

 

 しばらくして、朱地さんは、また海へ目をやった。

 

「碧海くんと吹雪ちゃんは、いいなあ」

 

 ぽつりと、そう言った。

 

「二人でいると、海の上でも、全然ひとりじゃないんだね」

 

「朱地さんは、ひとりなの?」

 

 聞いてから、無神経だったかと思った。けれど彼女は、水平線を見たまま、小さく頷いた。

 

「うん。ずっと、ひとり」

 

 その声が、あんまり静かで、僕は次の言葉を継げなかった。

 

「──なんてね。じめっとした話は、なし!」

 

 朱地さんは、すぐにいつもの調子で笑って、海に手を振った。まるで、こぼれてしまった本音を、波の向こうへ返そうとするみたいに。

 

 

 

 ◇ ◆ ◇

 

 

 

 夕方。朱地さんと別れて民宿に戻ると、吹雪は、しばらく黙って窓の外を見ていた。

 

「吹雪。……昼間から、ずっと考え込んでるね」

 

 僕が声をかけると、彼女は、少し言い淀んだ。

 

「……朱地さんのことが、気になる、というのとは、少し違うんです」

 

 彼女は、自分の胸の、芯のあたりを、そっと押さえた。

 

「あの方が海のお話をされるたびに。私の中の、いちばん深いところが、ざわつくんです。……どうしてかは、うまく、言えません」

 

「無理に、言葉にしなくていいよ」

 

 僕がそう言うと、吹雪は、ふっと肩の力を抜いた。

 

「……はい。不思議です。司令官がそうおっしゃると、その、ざわついていた芯のところが──すっと、静かになるんです」

 

 それは、彼女が何気なく口にした一言だった。

 

 けれど、なぜだろう。その言葉のほうが、僕にはずっと、遠くまで届く言葉に思えた。

 

 その夜。灯りを消したあとも、僕は、なかなか寝つけなかった。

 

 昼間、吹雪が言った言葉が、耳の奥に残っている。逃げ続けられはしない、と。いつか、あの海の底のものと、決着をつけなければならない。その時、僕の隣には、この子たちがいる。

 

 焦るな、と自分に言い聞かせる。今できるのは、力を蓄えることだ。地図の目を、海の目に変える。ライフラインさんの言葉を、一つずつ、自分のものにしていく。それだけの時間だと思えばいい。

 

 隣の布団で、吹雪は、もう静かな寝息を立てていた。芯のところが静かになった、と彼女は言っていた。今夜は、よく眠れているのかもしれない。

 

 その寝息を数えているうちに、僕もいつしか、眠りに落ちていた。

 

 




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