藤の屋敷の朝は、変わらず静かだった。
鳥のさえずりと、風にそよぐ藤の葉擦れの音。
珠世は縁側で茶を淹れ、うたは庭の小花に水をやる。
陽は縁壱の背中にぴったりとくっついて、読み書きの練習をしていた。
そんな朝の空気を切るように、タケシがのそりと立ち上がった。
「……ちぃと、歩いてみんか」
その一言に、縁壱が顔を上げた。
珠世もうたも、不思議そうに目を向ける。
「どこへ?」
うたの問いに、タケシはにやりと笑った。
「決まっとるやろ。……あの庵よ。わしらが昔、暮らしとったとこじゃ」
その言葉に、うたは少しだけ目を見開いた。
「……あの山の庵?」
「そうじゃ。そろそろ藤の花も咲き終わるころやし、なにか残っとるかも知れん」
縁壱は何も言わずに頷いた。
陽が「庵ってなに!?」ときらきらした目で食いついてくる。
「小さい家のことじゃよ。縁壱と、うたと、わし、そんで陽が産まれたところ。昔、暮らしとった場所じゃ」
「へえー! おうち? 見たい見たい!」
陽のその一声が決定打となった。
こうして、四人はひさびさに、あの庵を目指すこととなった。
道中は、昔と変わらぬ草木が迎えてくれた。
木の枝には山鳥がさえずり、川のせせらぎは涼しげな音を奏でる。
うたは歩きながら、何度も深く息を吸い込んだ。
「……変わらない匂いですね。草の香りも、土の感触も、あの頃のまま」
縁壱はその言葉に小さく頷いた。
タケシは「いやぁ、ちぃと木が増えた気ぃせんか? わしの背ぇが縮んだんかのう」と、いつもの調子でぼやいた。
やがて、木立の間から見えてくる――庵の影。
懐かしさが胸を突く。
だが、そこに見えたのは、かすかな炊煙だった。
「……誰か、おるのか?」
タケシが足を止めた。
煙は、庵の囲炉裏から真っ直ぐ立ち昇っている。
そっと近づき、茂み越しに覗くと、縁壱が小さく息を呑んだ。
そこには、一組の夫婦がいた。
男は質素な身なりの農夫。無骨な顔立ちだが、どこか穏やかな眼差し。
女は優しげな顔立ちで、髪をきちんとまとめている。
二人は囲炉裏に湯を沸かし、素朴な食事の準備をしていた。
「……住んどる、んじゃな」
タケシがぼそりと呟いた声に、男の耳がぴくりと動いた。
「……誰か?」
声を発して、男が立ち上がる。
その後ろで、女が「炭吉さん」と囁く。
縁壱が前へ出る。
茂みを抜けて姿を見せると、男の表情がぱっと明るくなった。
「お客さんかい? こんな山の上まで……!」
「驚かせてしまい、申し訳ありません。少し昔……この庵に縁がありまして」
縁壱の言葉に、女――すやこがにこやかに笑った。
「まあ、そうだったんですか。きっと、この庵も喜んでますよ。どうぞ、中へ」
タケシ、うた、陽も順に顔を見せる。
炭吉とすやこは少し目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みに変わる。
「ようこそ。わたしたち、竈門炭吉と申します。こちらは妻のすやこです」
タケシはしばしその名を反芻し、ふっと目を細めた。
「ほぉ……竈門、ねぇ。なんや……ええ縁の巡り方しとるやないか」
囲炉裏の湯がくつくつと音を立てる。
木造の庵は古びていたが、丁寧に手入れされていた。
床には布が敷かれ、干し野菜の香りが天井からゆるく漂っている。
タケシ、縁壱、うた、陽は四人並んで座し、竈門炭吉とすやこ夫婦に向き合っていた。
「ほい、たいしたもんじゃないけど」
炭吉が茶碗に熱い湯を注ぎ、湯飲みを皆に配ってくれる。
「このあたりは山が深いけど、水と薪は豊富でね。わたしらにはちょうどいい場所なんです」
すやこが、どこか恥ずかしそうに微笑む。
その腹元は、膨らんでいた。
布の奥にしっかりと命の形があって、少し動けば分かるくらいには張っている。
うたがふと目を留め、すやこの手をそっと取った。
「……もう、すぐですか?」
「はい。あと……たぶん、十日もないかと」
すやこはお腹に手を当て、優しく撫でる。
その仕草に、うたの目元がふっと緩んだ。
「……初めての?」
「はい。でも、不安はあまりないんです。炭吉さんがいてくれますし……それに、この山に来てから、ずっと穏やかですから」
その言葉に、タケシがふと目を細める。
「……穏やか、のう」
「ええ。風も、音も、人の気配も。ここに来る前は、村にいて……ずっと息苦しかったんです。でも、山に入ってからは、どこか懐かしいような、温かいような……」
すやこの言葉は、まるでこの庵そのもののようだった。
優しく、素朴で、そして“生きようとする”力が、そこにあった。
陽が目をぱちくりさせながら、すやこのお腹を見つめて言った。
「ここに、赤ちゃんいるの?」
「ええ。あなたくらいの子よ。元気に出てきてくれたら、きっとすぐ仲良しになれるわね」
「わー! 赤ちゃん、会いたい!」
陽の無邪気な声に、すやこはくすっと笑った。
うたの表情も、どこか懐かしさと切なさが混ざっている。
その横で、縁壱は言葉もなく、庵の隅をじっと見つめていた。
そこには、かつて彼とうたが使っていた織り機があった。
今は埃が払われ、すやこの手で新たな布がかけられている。
時間は流れ、命は継がれる。
ただそれだけのことが、こんなにも胸に沁みるとは思わなかった。
「……この庵が、誰かの暮らしに役立っていることが、うれしい」
ぽつりと漏れた縁壱の声に、炭吉が頷く。
「不思議なもんですね。何十年も経っているのに、この家が壊れもせず残っていてくれて。
……まるで、誰かが“見守っていた”みたいだ」
タケシがごく僅かに口元を緩める。
「まあ、そうかもしれんの」
「え?」
「ここは、わしらの“始まり”じゃったからな。
どこにも行けんくて、ただ生きとって、……けど、それが良かった。
おんしらも、よう似た顔しとるわい」
炭吉は少し驚いたような顔をして、照れたように頭を掻いた。
「……よく言われます。似てるって。特に……妻が、どこか昔の人に」
すやこが眉を上げて小さく笑う。
「わたしは気にしてませんよ。似ていても、似ていなくても。
今の私たちが、ここでちゃんと暮らしているのが、いちばんですから」
言葉が、芯に染みる。
新しい命を抱える母の言葉は、どこまでもまっすぐだった。
タケシは湯を啜りながら、ふっと呟いた。
「……こりゃあ、ええもん見たわい。まだ世界は、大丈夫そうじゃ」
それから暫く—
囲炉裏の火は、徐々に小さな橙を灯しはじめていた。
日は山の稜線に沈みかけ、庵の中には少しずつ夜の匂いが漂いはじめる。
湯気のたつ茶碗を手に、縁壱は無言で座していた。
すやこはまだ赤子を抱いてはいない。けれど、その腹の中にいる小さな命が、時折ぴくりと動くのが見てとれる。
そのたびに、静かだった空間に、誰にも聞こえぬ脈がひとつ、確かに打たれていく。
「……命がある」
ぽつりと縁壱が呟いた。
囲炉裏を囲む全員が、自然とその声に耳を傾けた。
「ただそれだけで、こんなにも安心するとは思わなかった」
その声には、どこか遠い自分への驚きが混じっていた。
今は剣を抜かず、ただ隣に座ることを選んでいる。
「守る、というのは……剣を振るうことだけではないのだと、今なら分かる気がします」
「ほぉ?」
タケシが低く唸った。
その声は咎めでも、茶化しでもなく、ただ純粋な興味だった。
「斬ることで、救えるものもあった。けど……剣を納めることで、守れるものもある。
この手で赤子を抱かずとも、こうして見ているだけで、命が灯るなら――」
縁壱はすやこの腹に、そっと目を向ける。
すやこもまた、その静かな視線を受けて、優しく頷いた。
「あなたのような方が、そう言ってくださるだけで、心が落ち着きます」
「わしにはわからん」
ぽつりと、タケシが言った。
その顔は笑っていたが、ほんのわずか、眉間に皺が寄っていた。
「わからんのじゃ。こうして目の前に命があって、こやつらがええ顔しとるのを見とってもな……“わしはここにいてええんか”って、時々思うんじゃ」
誰も、それを否定しなかった。
けれど、うたがそっと口を開く。
「……でも、タケシさん。わたし、思うんです」
彼女の声は柔らかく、けれどまっすぐだった。
「あなたがここにいてくれるから、安心できる人がいる。
縁壱さんが刀を置こうと思えるのも、陽が無邪気に笑えるのも――
あなたが今ここに、生きているからです」
タケシはうたを見て、それから陽の顔を見た。
陽は彼の大きな手を握って、無邪気に笑っていた。
その手は小さくて、けれど力強かった。
「……ほうか」
しばらく沈黙が流れたあと、タケシはぼそりと呟いた。
「ほんなら、わし……なんか、残さんとなあ」
「残す……?」
縁壱が尋ね返すと、タケシはぐっと背を伸ばして言った。
「そうじゃ。あの腹ん中の子にな、何かひとつ。わしらが“生きた”ってことが分かるような、な。言葉でも、物でもええ。けど、忘れられてまうのは、ちぃと寂しいわい」
「……それは、いいですね」
すやこが微笑んだ。
「もし男の子なら、いつかその子に話します。“あなたが生まれる前の日、こんな人たちが庵にいてね――”って」
その言葉に、タケシは唇を引き結び、ちょっと照れくさそうに鼻を鳴らした。
囲炉裏の火が、ぱち、と音を立てて弾けた。
その音に陽が軽く跳ね、縁壱がそっとその背に手を当てる。
赤子はまだ、母の腹の中。
けれど、そこに確かに“今を生きる”命があった。
“何もしていないのに、満ちている”――そんな夜だった。
タケシが火の向こうを見つめながら、静かに言った。
「命が繋がるっちゅうのは、ええもんじゃの……」
そして——
夜明け前、庵に微かな呻き声が落ちた。
うたが最初に気づき、炭吉を起こす。
すやこは汗ばんだ額を押さえながら、ゆっくりと浅い息を繰り返していた。
「……来ました、ね」
布団に横たわりながらも、すやこの声はどこか落ち着いていた。
うたがそっと手を握る。
タケシと縁壱、陽は囲炉裏の火を絶やさぬよう、少し離れた場所で静かに座していた。
庵には、蝋燭の火と、命の鼓動だけが灯っていた。
時折、呻く声。
それを支えるような、炭吉とうたの落ち着いた指示と手当て。
やがて――
「……おぎゃあっ……!」
甲高く、透き通った産声が庵に響いた。
その瞬間、すやこは静かに目を閉じ、涙をひとすじこぼした。
炭吉がその小さな命を抱き上げ、何度も頷く。
うたは震える手で、へその緒を拭った。
「元気な……男の子です」
誰も言葉を発しなかった。
ただ、皆の胸の中に、確かな熱が灯っていた。
縁壱は、その命を見つめながら思った。
剣を置いてなお、守るべきものはこんなにも近くにあるのだと。
タケシは腕を組んで、いつものように胡坐をかきながら、空を見た。
東の空が、うっすらと白んできていた。
「……そろそろ、わしらも帰るかの」
すやこと炭吉に礼を告げ、うたと陽を伴って一同は庵をあとにした。
山を下りる途中、縁壱がふと足を止める。
「……タケシ」
「なんじゃ」
「さっきの子を見ていて、思いました。……お前の名を、残してもいいと思った」
タケシは驚いたように縁壱を見て、それからふっと口元を緩めた。
「わしの名ぁ? そりゃ、あの子には重すぎるわい」
「そうかもしれない。けれど、お前は……生きていた。確かに、ここにいた。それを、誰かが覚えていればいい」
「……そんで、ええんじゃのう」
タケシは静かに頷いた。
そして一同を振り返り、唐突に言った。
「なあ、ちょっと寄り道せえへんか? ……わしが昔、封じられとった場所がある」
縁壱とうたが目を合わせる。陽は「行きたい!」と元気よく手を挙げた。
山道を外れ、さらに谷を下っていく。
木々が深くなり、空が狭くなっていく。
やがて、黒く滑らかな岩が連なる崖の奥――そこに、その場所はあった。
大地の裂け目。かつて封印の札が貼られていた、冷たい岩の洞。
誰も来ぬ、誰も知らぬ、静かな地。
タケシはしばし黙って、そこに立ったまま空を仰いでいた。
「……よぉ、寝とったのう。ここでずっと、黙って……」
彼の声は、懐かしむでも、憎むでもなかった。
ただ、“終わった”と、受け入れる声だった。
陽が岩のそばに寄っていくと、柔らかな風が草を揺らした。
その風が皆の間を吹き抜け、そっと肌を撫でていく。
タケシがぽつりと言った。
「……風が気持ちええな」
誰も言葉を返さなかった。
けれど、皆の顔にあたたかな光が差していた。
風が渡り、蛙が鳴いた。
岩にうつる影が、四つになった気がしたんじゃ。
わし、縁壱、うた、陽。
たったそれだけが、この世の全てのように思えた、あの日のことよ。
それは遠い、遠い昔のこと――
鬼が人を喰らい、夜が長く続いていたころ。
人の世にはまだ“理”が根付ききらず、禍と神秘が渦巻いていた時代。
その地に、一体の《鬼》がいた。
名を持たぬそれは、かつて岩より生まれし“真なる鬼神”にして、
神仏さえも恐れる膂力を持つ存在だった。
《大嶽丸》――と呼ばれたこともある。
彼は数多の戦を生き、やがて坂上田村麻呂に封じられ、
幾星霜の眠りについたという。
時が満ちたその先。彼は再び歩き出す。
目覚めた鬼は、人を見守った。
少年を見つけ、育て、時に手を貸し、笑い、怒り、そして戦った。
その少年の名は、《継国縁壱》。
この世に生まれし最後の“神の子”。
陽の呼吸を身に帯び、太陽の如き剣を振るった剣士である。
ふたりは時を重ね、やがて《偽りの鬼》――鬼舞辻無惨を討ち果たす。
人の形を成しながら、人を喰らうその怪異を。
赤き鬼の拳と、太陽の剣が斃したと伝えられている。
だが、それは終わりではなかった。
人の世はなお移ろい、恐れと争いを孕み続ける。
鬼は滅び、光が差し込んだ後も、闇は姿を変えて忍び寄る。
それでも伝えられているのだ。
《赤黒き肌を持ち、角を有する鬼》と、
《陽の剣を振るう若き剣士》のことを。
ふたりは名を欲せず、語られず、祀られず。
ただ、ひそやかに《人の傍ら》に在った。
――ゆえに、今も伝わる。
火急の地にて、子を守る者あり。
戦火の陰にて、闇を照らす剣あり。
その姿を見た者は言う。
「紅き鬼が、風に乗って現れた」と。
「眩い陽を背に、剣を構える男がいた」と。
名もなき《鬼》と、陽を継ぐ《剣士》。
彼らの伝承は風に溶け、炎に宿り、血の記憶となって今も残る。
やがて、人が再び“闇に触れる”とき――
ふたたび、鬼が歩き、太陽が降る。
《ただの鬼じゃ。けんども――守りたいもんくらいは、あるんじゃ》
――これは、名もなき鬼の、在りし日の記録である。
火は、まだ消えていない。
──終──
【大嶽丸(タケシ)】
太古、理の定まらぬ時代――
天より降る神に抗い、岩より生まれし鬼がいた。
名を持たず、呼ばれぬままに彷徨い続けたその鬼は、
やがて《大嶽丸》と畏れられ、神仏さえも忌避する“禍”となった。
その肉体は灼熱の血潮を巡らせ、
黒き肌の下に、炎の如き力を宿す。
角を戴き、声は雷鳴のごとし。
拳は山を砕き、足跡に雷鳴が響く。
人の世を彷徨い、鬼としての己を見失いかけたそのとき、
彼は出会う――《桃太郎》と。
《坂上田村麻呂》と。
そして、《継国縁壱》と。
鬼でありながら人に寄り添い、
“災い”でありながら“護り手”ともなった者。
かつては“封”じられし存在、
されど今は“在”る者。
その拳は怒りに震えるのではなく、
誰かのために振るわれる。
されば、問う者よ。
汝、鬼を恐れるか? 神を信じるか?
ならば知るがよい。
この世には、鬼より深く、神より古きものが在ると――
彼の名は《タケシ》。
されど、名は不要。
ただ、彼は《傍に在る》。
──「わしゃあ、ただの鬼じゃ。けんども……守りたいもんくらいは、あるんじゃ」
これにてお終いです。