狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~ 作:木下望太郎
――我々の知る歴史において。
元慶六年、西暦にして882年一月二日、陽成天皇元服。帝、このとき十五歳。
都には前日より大雪が降り、この日もなお
風はなく、雪は音もなく降りしきる。地の全てに
供の者らに前後を挟まれ、元服の儀に向かうべく大内裏の
それにしても妙だった。これほどにも雪が降っているというのに、そこに遊ぶ
昨日などは砂利粒ほどの黒兎白兎が、天より降り落ちてゆく雪から雪へと跳ね回って遊び、白い龍が紐のように細い体を地から軒、軒からまた軒へと巡らせて、大口を天へと開けて雪を喰らい。その背の上で子鬼どもがおっかなびっくり、落ちないようにゆるゆると足を踏み出しつつ追い駆けっこをする。そんな光景がどこでも見られて、元日の儀式に
思えば昨日は多忙に過ぎた。清涼殿の東庭にて天地四方の神々と祖霊を拝する
儀式に次ぐ儀式、それが終わればまた行事。元日から一晩経った今も疲れが抜けず、宴で口にした酒がまだ血の内に残って頭の中をたゆたっている、そんな感覚があった。
いくつかの
「どこへ向かっている」
前を行く者らが向かっているのは、聞かされていた元服の儀の場ではなかった。このまま行くと、
前の者らが頭を下げる。
「元服の儀以前に、御出席いただきたき儀ありと、陰陽寮より」
すぐ後ろを振り返るも、
知らぬは帝ばかりなり、か。いつもの事といえばそのとおりだ。
小さく息をつき、無言であごをしゃくる。
合図を受け、前の者どもがまた歩き出す。
着いたのは正に東の
それらへ向き合い、賀茂忠行が座していた。筋金を入れたように背筋を伸ばし、こちらに目もくれずに。何もかもを削ぎ落としてしまったかのような顔で、前を向いて。
「やあ、忠――」
お
あまりにも、忠行の反応が無かったから。貞明の声など聞こえていないように、いや、たとえ耳に入ろうが決して聞くまいとしているかのように。目に映ろうと、見まいとしているかのように。
身じろぎもせず座した忠行の後ろへ控えるように、陰陽寮の者らが揃って座していた。齢の頃からして、明らかに忠行より上役であろう者たちがほとんどだった。それでも一人先頭にいる以上、この儀式については忠行が主として執り行なうのだろう。
ようやく忠行の実力が認められたか。思うと顔もほころび、貞明は陰陽寮の者らへ、あえて明るく声を上げた。
「やあやあ、皆、年明け早々役目ご苦労。して、詳しくは覚えぬが。これはどういった儀式だったかな」
忠行はやはり、身じろぎもしなかった。真っ直ぐ、貫き通すように前を見つめていた。
誰も貞明の声に応えはしなかった。陰陽寮の者らは一斉に貞明へ向かって伏した後、体を起こすと同時に
貞明が軽く
何だ、と問う間もなく、その者どもは虫のように細かい足取りで下がり。座した忠行の下へと向かっていた。
張り詰めるような沈黙が満ちた中。忠行が低く声を上げた。
「畏れながら。不肖この賀茂忠行、検分
深く頭を下げる。
「陰か陽か、黒あるいは白か、
叩きつけるような音を立て、床を蹴って立ち上がる。
「今! 畏れながら主上が、今上の帝が! 御覧あそばすという
何を言っているのか、分からなかった。ただ、貞明の足元が揺らいだ。
音を立てて床を踏み締め、まっしぐらに外へと歩く忠行を見ながらも、貞明の内で未だ、耳から入った言葉が頭の中でゆわゆわと揺らいで、未だ意味を結びかねていた。
検分――空言――モノ。
――つまり、どうやら。私の言っていること、いや見ているモノ。それが、嘘だと?
――なぜそんなことを、なぜ忠行がここで口にする、疑う、嘘だと決めつけるかのように、いやっ、違うはずだ検分と言っていたきっと私の言が真実だと――
歩みを止めぬ貞明は履物も履かず、
火が焚かれていた。それを囲むように置かれた一抱えもある石、それらの上に据えられていたのは。
忠行は袖をまくり、右腕を掲げる。
「畏れながら臣、これより行なうは上古の
声を上げる間も、止める間も無かった。
ごぷ、と水音を残して、忠行は煮えたぎる湯に右腕を、肩近くまで突き込んでいた。顔色一つ変えず、歯を食いしばることすらせずに。血走った目を見開いてただ、ぶるぶると震えながら。
どれほどの時が経ったか――あまりにも長く感じたが、あるいは一瞬であったのか、そうではなかったのか――。忠行は表情を変えぬまま、飛沫を上げて湯から腕を抜き出した。湯気の外へ掲げたそれは、指先から肩近くまで真っ赤に腫れていた。
忠行の腕はひどく震えていたが、口調は静かだった。錆びたような声が辺りに響いた。
「
「な――、なっ」
声を詰まらせた貞明は辺りを見回す。腕を掲げた忠行も、周囲に控えた陰陽師どもも、貞明の視線を受け止めようとはしなかった。見えていないかのように、貞明がそこにいないかのように。まるで貞明の存在が、嘘であるかのように。
気づけば、波のような風のような音が周囲から低く聞こえた。いや、人の声が。
いつの間にそこにいたのか――
もはや顔も見分けられぬ人の群れから、どこからとなく、だがそこかしこから
――嘘とな――
――聞かれましたか、主上の御言葉が嘘とな――
――確かに、鬼だの
――さもありなん、私も常々そうではないかと――
――いやいや疑いもなく空言であろうと、思うておりましたことよ――
「な……」
辺りを見回す貞明にも構わず、密やかに、だが口々に声は上がる。
――普段から誰にともなく、お一人で喋られることの多く御座ったが――
――宙に何やらおるかのように、しきりに目で追うようなことも多くあらせられたが――
――陰陽寮が申すなら間違いはあるまい。主上は
「な、な……」
貞明が唇を震わせ、しきりに目を瞬かすことしかできずにいる間にも、風のように四方から
――しかし何故そのような嘘を――
――お寂しいのであろうか、いや……本当にそのようなモノがいると、思い込んでおられるのか――
――すれば、御覧あそばすモノは帝の妄念に過ぎず――
――それを見える見えると
貞明の頬がわななく。
「待て、お前たちっ、私の――」
――そうよ、先だっての成選
――おお、あのとき帝は
――儀をやめよとは前代未聞、あろうことか剣まで抜かれて――
――おおさ、あのとき振り回されたは
――
まるで耳元で囁かれたように、その密やかな声はひどく響いた。
――物狂いの帝――
一瞬静まり返った後、泡立つようにそこかしこから声がさざめく。
――正に正に、物狂いの帝よ――
――嘆かわしくも、物狂わしゅうおわすことよ――
――
――物狂いの帝――
――物狂いの帝――
「や……、め……」
貞明が耳を塞ごうとしたとき。
人の群れから進み出たその男は、押し通すような声を上げた。
「
深く一礼した後、常と変わらぬ固い顔で、規則を読み上げるかのように続けて言った。
「元服の儀が差し迫っております。いつまでもこのような所におられますな、さ、お早く」
再度の礼の後、きびすを返して歩み出す。
貞明はその背に声を上げた。
「ま……待て! 何だ、何だこの儀式は! 聞いておらぬ、だいたいっ、何故、私が――」
「畏れながら」
「主上の常々の御振る舞い、また先の成選
貞明へ向き直り、押し留めるように片手を向ける。
「いえ、決して責め奉るものでは御座いませぬ。
ただ、ほんのわずか目元が緩んでいた。目の奥が笑っていた。嘲笑うように。
「忠行!」
たまらず、貞明は声を上げていた。
「忠行っ、どういうことだ! 説いてやってくれ、
赤く
表情のないまま口を開く。
「
「な――」
貞明の足下が揺らいでいた。この世の全てが崩れていくような感覚があった。震えているのは地面ではなく、自分の足であり全身に過ぎないと遅れて気づいた。
人の群れの中でただ一人、貞明だけが震えていた。
唾を飛ばして叫ぶ。
「何を、何をっ! お前も見ただろう、同じモノを見ているだろう!」
忠行は押さえるように掌を向ける。赤く腫れ上がった手を。
「なれば。
「どこって、どこに――」
どこにでもいる、そう言おうとして、視線を辺りに走らせて。
気づいた。
そういえば今朝からそうだった、昨日あれほどいたはずの
まさか――
このために? 貞明の見ているモノが嘘だと幻だと、言い張るために? 陰陽師たちが――いや。あるいは、賀茂忠行が。
賀茂忠行は赤く
「さあ、御示し下さいませ。真にそのようなモノが在るなら、我が手に取らせ給いませ。さあ、さあ」
貞明はなおも辺りを見回す。モノはいない、どこにもいない。空にも庭にも
誰も目を合わせようとしない。貞明の視線が向くたび、風に草がなびくように誰も彼もが目をそらせていく。供の者らも、
頬を震わせ、貞明が後ずさったとき。
貞明はそれをつかみ出し、掲げ。忠行目がけて、力の限り投げつけた。
「これを! とくと見よ!」
龍。
ぶつかる直前、わずかにまぶたを震わせたのみで。顔面に龍を打ち当てられながら、忠行は身じろぎもしなかった。目を開けたままでいた。
「はて。どこに、何が」
忠行はゆっくりと辺りを見回し。慌てたようにびちびちと身を震わして逃げる龍には目もくれず。傍観する百官へ目を向け、また貞明へと向き直った。
「主上。ここにはなんのモノもおりませぬ。畏れながら、御覧になっているモノ――全て、幻かと」
笑っていた。忠行は笑っていた。満面の笑みといってよかった。嘲笑うのではなく、憐れむような、穏やかに慰撫するような笑みだった。
ただ。目の奥は、笑ってはいなかった。全てを削ぎ落とした刃物のような目をしていた。視線は真っ直ぐに、貞明へと向けられていた。貫き殺し、踏み潰そうとするかのように。
「な、ぁ……、ぁ……」
貞明は、震えることしかできずにいた。
やがて、
「さ、主上。申し上げたはず、元服の刻が迫っておりまする。
後半は百官へ振り向いてそう言うと、自ら貞明の前に立って早足に歩み出す。
供の者ども、さらに幾人かの貴族も加わって
陰陽寮の者どもが深く
忠行だけが立ち尽くしていた。振り向いた貞明、もはや何を言うこともできない貞明を、なおも貫き殺すかのような、突き落とすかのような目で見ていた。