狐人と物狂いの帝 ~二人で一人の安倍晴明、仇を探す旅路にて空海と出会い、暴悪無双の上皇と相対する事~   作:木下望太郎

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五十五話  物狂いと呼ばれた帝

 

 ――我々の知る歴史において。

元慶六年、西暦にして882年一月二日、陽成天皇元服。帝、このとき十五歳。

 都には前日より大雪が降り、この日もなお()まず、との旨が『三代実録』に記されている。――

 

 

 風はなく、雪は音もなく降りしきる。地の全てに綿(わた)を着せるように、ゆっくりと降り積もる。

 供の者らに前後を挟まれ、元服の儀に向かうべく大内裏の軒廊(こんろう)――渡り廊下――を歩みながら、貞明は天を仰いでいた。綿(わた)色の雪が綿色の雲のいったいどこから降ってくるのか、目を凝らしてもその始まりは見えなかった。

 

 それにしても妙だった。これほどにも雪が降っているというのに、そこに遊ぶ(モノ)どもの姿がまるで見えない。

 昨日などは砂利粒ほどの黒兎白兎が、天より降り落ちてゆく雪から雪へと跳ね回って遊び、白い龍が紐のように細い体を地から軒、軒からまた軒へと巡らせて、大口を天へと開けて雪を喰らい。その背の上で子鬼どもがおっかなびっくり、落ちないようにゆるゆると足を踏み出しつつ追い駆けっこをする。そんな光景がどこでも見られて、元日の儀式に()んだ貞明の慰めとなったものだった。

 

 思えば昨日は多忙に過ぎた。清涼殿の東庭にて天地四方の神々と祖霊を拝する四方拝(しほうはい)に始まり、屠蘇(とそ)と薬の献上を受ける供御薬(みくすりをぐうず)、百官からの拝礼を受ける朝賀(ちょうが)、特に上位の貴族が帝を拝する小朝拝(こちょうはい)、帝から群臣へと給う宴、元日節会(がんにちのせちえ)。他にも細かい行事がいくつか。

 儀式に次ぐ儀式、それが終わればまた行事。元日から一晩経った今も疲れが抜けず、宴で口にした酒がまだ血の内に残って頭の中をたゆたっている、そんな感覚があった。

 

 

 いくつかの軒廊(こんろう)を渡った後でようやく気づいた。

「どこへ向かっている」

 前を行く者らが向かっているのは、聞かされていた元服の儀の場ではなかった。このまま行くと、宜陽殿(ぎようでん)から紫宸殿(ししんでん)へとつながる東の軒廊(こんろう)に出る。神祇官(かみづかさ)あるいは陰陽師(おんみょうじ)らが卜占(ぼくせん)を執り行なう場所。

 

 前の者らが頭を下げる。

「元服の儀以前に、御出席いただきたき儀ありと、陰陽寮より」

 

 すぐ後ろを振り返るも、源益(みなもとのまさる)は取り澄ました顔でいるのみ。

 知らぬは帝ばかりなり、か。いつもの事といえばそのとおりだ。

 小さく息をつき、無言であごをしゃくる。

合図を受け、前の者どもがまた歩き出す。

 

 

 着いたのは正に東の軒廊(こんろう)だった。いくつもの円柱が立ち並ぶそこは、未だ雪を降らす曇り空の下にあって、妙に白く明るく見えた。吹き込んだ雪が床の上に薄く積もる中、米や酒、塩といった供物が置かれた棚と、赤青白黒黄、五色の旗が(しつら)えられていた。外では火が焚かれているのか、薪の爆ぜる音が時折小さく上がった。

 それらへ向き合い、賀茂忠行が座していた。筋金を入れたように背筋を伸ばし、こちらに目もくれずに。何もかもを削ぎ落としてしまったかのような顔で、前を向いて。

 

「やあ、忠――」

 お屠蘇(とそ)気分の抜けぬまま声を上げかけたが。途中で止めざるを得なかった。仮にも儀式の場であること、帝から臣下へかける声としては気安過ぎたことも無論あるが。

 あまりにも、忠行の反応が無かったから。貞明の声など聞こえていないように、いや、たとえ耳に入ろうが決して聞くまいとしているかのように。目に映ろうと、見まいとしているかのように。

 

 身じろぎもせず座した忠行の後ろへ控えるように、陰陽寮の者らが揃って座していた。齢の頃からして、明らかに忠行より上役であろう者たちがほとんどだった。それでも一人先頭にいる以上、この儀式については忠行が主として執り行なうのだろう。

 

 ようやく忠行の実力が認められたか。思うと顔もほころび、貞明は陰陽寮の者らへ、あえて明るく声を上げた。

「やあやあ、皆、年明け早々役目ご苦労。して、詳しくは覚えぬが。これはどういった儀式だったかな」

 

 忠行はやはり、身じろぎもしなかった。真っ直ぐ、貫き通すように前を見つめていた。

 誰も貞明の声に応えはしなかった。陰陽寮の者らは一斉に貞明へ向かって伏した後、体を起こすと同時に(しゅ)を唱え出す。全員で合わせるのではなく各々の口から別々の(しゅ)が上がっていた。高く低く入り混じったそれらはもはや言葉として聞き取れはせず、天井へ昇り床へと這い、ときに強くあるいは弱く波のようにうねり、鼓膜を通じて頭蓋(ずがい)を揺らした。

 

 貞明が軽く目眩(めまい)を覚えるうち、(しゅ)を唱えていた幾人かの者が立ち上がる。素早く近づいてくると一礼の後、手にした紙――人のような形に切り取られ、何やら(しゅ)らしき文字が書かれている――を貞明の腕に脚に、背に腹に頭に擦りつける。

 

 何だ、と問う間もなく、その者どもは虫のように細かい足取りで下がり。座した忠行の下へと向かっていた。

 軒廊(こんろう)に未だ響く(しゅ)の波の中、同じ紙が今度は忠行の全身へと擦りつけられる。それでも忠行は、前を見据えたままでいた。

 人形(ひとがた)紙が辺りに投げ散らされ、陰陽師どもが元の位置へと戻ったとき。ぴたり、と(しゅ)()んだ。

 

 張り詰めるような沈黙が満ちた中。忠行が低く声を上げた。

「畏れながら。不肖この賀茂忠行、検分(つかまつ)る」

 深く頭を下げる。

「陰か陽か、黒あるいは白か、鉄札(てっさつ)さもなくば金札(きんさつ)か……空言(そらごと)かはたまた(まこと)か、我が身を以て検分(つかまつ)る」

 

 叩きつけるような音を立て、床を蹴って立ち上がる。

「今! 畏れながら主上が、今上の帝が! 御覧あそばすという(おに)ども、神ども! 有象無象の(モノ)()ども! 果たして在りや無しや、(すなわ)ち――帝の御言葉、空言(そらごと)や否や! 我が身を以て検分(つかまつ)る!」

 

 何を言っているのか、分からなかった。ただ、貞明の足元が揺らいだ。地震(ない)も家鳴りもなく、揺らいでいた。貞明の内が。

 音を立てて床を踏み締め、まっしぐらに外へと歩く忠行を見ながらも、貞明の内で未だ、耳から入った言葉が頭の中でゆわゆわと揺らいで、未だ意味を結びかねていた。

 検分――空言――モノ。

 

 ――つまり、どうやら。私の言っていること、いや見ているモノ。それが、嘘だと? 

 ――なぜそんなことを、なぜ忠行がここで口にする、疑う、嘘だと決めつけるかのように、いやっ、違うはずだ検分と言っていたきっと私の言が真実だと――

 

 歩みを止めぬ貞明は履物も履かず、軒廊(こんろう)の外へと土を踏み締め向かっていた。やがて立ち止まった、その前には。

 火が焚かれていた。それを囲むように置かれた一抱えもある石、それらの上に据えられていたのは。

 (かめ)。忠行の胸近くまで届く大(がめ)。中に満たされた湯は泡を弾けさせて煮立っていた。

 

 忠行は袖をまくり、右腕を掲げる。

「畏れながら臣、これより行なうは上古の卜占(ぼくせん)、名を盟神探湯(くがたち)! 先の儀により帝の業、代わって受けしこの身は勿体(もったい)無くも主上の形代(かたしろ)なり! よって、主上に代わってこの儀、受け申す……天神地祇(てんじんちぎ)御照覧(ごしょうらん)あれ、この身に火の傷あらば偽! なくば真! ――いざ」

 

 声を上げる間も、止める間も無かった。

 ごぷ、と水音を残して、忠行は煮えたぎる湯に右腕を、肩近くまで突き込んでいた。顔色一つ変えず、歯を食いしばることすらせずに。血走った目を見開いてただ、ぶるぶると震えながら。

 

 どれほどの時が経ったか――あまりにも長く感じたが、あるいは一瞬であったのか、そうではなかったのか――。忠行は表情を変えぬまま、飛沫を上げて湯から腕を抜き出した。湯気の外へ掲げたそれは、指先から肩近くまで真っ赤に腫れていた。

 

 忠行の腕はひどく震えていたが、口調は静かだった。錆びたような声が辺りに響いた。

御覧(ごろう)ぜよ。偽――火の傷あり、偽。畏れながら臣、陰陽師賀茂忠行が申し上げまする。主上の(おお)せられたこと、偽。帝の(おお)せられし(おに)、神、(モノ)()――、全て、真実に非《あら》ずと、(ぼく)(あらわ)れたり」

 

「な――、なっ」

 声を詰まらせた貞明は辺りを見回す。腕を掲げた忠行も、周囲に控えた陰陽師どもも、貞明の視線を受け止めようとはしなかった。見えていないかのように、貞明がそこにいないかのように。まるで貞明の存在が、嘘であるかのように。

 

 気づけば、波のような風のような音が周囲から低く聞こえた。いや、人の声が。

いつの間にそこにいたのか――(しゅ)の響きや忠行の言に気を取られていた間にか――、貴族らが軒廊(こんろう)の外で遠巻きに、しかし辺りを埋め尽くすように詰めかけていた。

 もはや顔も見分けられぬ人の群れから、どこからとなく、だがそこかしこから(ささや)き交わす声が上がる。

 

 ――嘘とな――

 ――聞かれましたか、主上の御言葉が嘘とな――

 ――確かに、鬼だの(あやかし)だの、見えぬモノを御覧あそばしているとの噂は聞いたが。嘘とな――

 ――さもありなん、私も常々そうではないかと――

 ――いやいや疑いもなく空言であろうと、思うておりましたことよ――

 

「な……」

 辺りを見回す貞明にも構わず、密やかに、だが口々に声は上がる。

 

 ――普段から誰にともなく、お一人で喋られることの多く御座ったが――

 ――宙に何やらおるかのように、しきりに目で追うようなことも多くあらせられたが――

 ――陰陽寮が申すなら間違いはあるまい。主上は(あやし)のモノなど、御覧あそばしていたわけではない――

 

「な、な……」

 貞明が唇を震わせ、しきりに目を瞬かすことしかできずにいる間にも、風のように四方から(ささや)きが襲う。

 

 ――しかし何故そのような嘘を――

 ――お寂しいのであろうか、いや……本当にそのようなモノがいると、思い込んでおられるのか――

 ――すれば、御覧あそばすモノは帝の妄念に過ぎず――

 ――それを見える見えると(おっしゃ)っていたか――

 

 貞明の頬がわななく。

「待て、お前たちっ、私の――」

 

 ――そうよ、先だっての成選短册(たんざく)の儀、覚えておいでか――

 ――おお、あのとき帝は(おお)せであった、やめよ、お前たちやめよ、と――

 ――儀をやめよとは前代未聞、あろうことか剣まで抜かれて――

 ――おおさ、あのとき振り回されたは昼御座(ひるのおまし)の剣と聞いた。由緒ある剣を、臣たる我らへ向けて振り回されるとは――

 ――(はばか)りながら。いささか物狂わしゅうおわすような――

 

 まるで耳元で囁かれたように、その密やかな声はひどく響いた。

 

 ――物狂いの帝――

 

 一瞬静まり返った後、泡立つようにそこかしこから声がさざめく。

 

 ――正に正に、物狂いの帝よ――

 ――嘆かわしくも、物狂わしゅうおわすことよ――

 ――(はばか)りながら人主の器には()えぬ御方よ――

 ――物狂いの帝――

 ――物狂いの帝――

 

「や……、め……」

 貞明が耳を塞ごうとしたとき。

 

 人の群れから進み出たその男は、押し通すような声を上げた。

(おそ)れながら。臣、摂政たる藤原基経(もとつね)が申し上げます」

 

 深く一礼した後、常と変わらぬ固い顔で、規則を読み上げるかのように続けて言った。

「元服の儀が差し迫っております。いつまでもこのような所におられますな、さ、お早く」

 再度の礼の後、きびすを返して歩み出す。

 

 貞明はその背に声を上げた。

「ま……待て! 何だ、何だこの儀式は! 聞いておらぬ、だいたいっ、何故、私が――」

 

「畏れながら」

 基経(もとつね)は背を向けたまま、辺りを取り巻く貴族どもを手で示す。

「主上の常々の御振る舞い、また先の成選短册(たんざく)における挙。それらを(いぶか)しく思う声もあり申したゆえ。元服前にそれらの声を、廃しておく必要があり申した」

 貞明へ向き直り、押し留めるように片手を向ける。

「いえ、決して責め奉るものでは御座いませぬ。空言(そらごと)ならば空言(そらごと)()し、齢若きうちにはよくある(たわむ)れ……。ただ、はっきりしたならば結構で御座いまする」

 

 基経(もとつね)(いか)めしい表情は、力のこもった口元の様子は常と変わらなかった。

 ただ、ほんのわずか目元が緩んでいた。目の奥が笑っていた。嘲笑うように。

 

「忠行!」

 たまらず、貞明は声を上げていた。

 

「忠行っ、どういうことだ! 説いてやってくれ、空言(そらごと)ではないと、何かの誤りだと! 私の見ているモノは――」

 

 赤く(ただ)れた腕をさらしたまま。忠行は湯の煮えたぎる大(がめ)の前にいた。右腕がひどく震える他、何の表情もなかった。死んだような、そのまま岩にでもなってしまったかのようだった。

 表情のないまま口を開く。

(おそ)れながら申し上げます。主上の御覧になっているモノは。空言(そらごと)でないとするなら、もし本当に見えるとするなら。御自身の妄念に過ぎませぬ。真実、存在するものでは御座いませぬ」

 

「な――」

 貞明の足下が揺らいでいた。この世の全てが崩れていくような感覚があった。震えているのは地面ではなく、自分の足であり全身に過ぎないと遅れて気づいた。

 人の群れの中でただ一人、貞明だけが震えていた。

 唾を飛ばして叫ぶ。

「何を、何をっ! お前も見ただろう、同じモノを見ているだろう!」

 

 忠行は押さえるように掌を向ける。赤く腫れ上がった手を。

「なれば。只人(ただびと)の目に映らぬモノ司る陰陽師として検分いたす。どこにそのモノがおりますかな」

 

「どこって、どこに――」

 どこにでもいる、そう言おうとして、視線を辺りに走らせて。

 気づいた。(モノ)が、どこにもいない。

 そういえば今朝からそうだった、昨日あれほどいたはずの(モノ)が、どこにもいない。宙を舞う羽虫のような(モノ)どもも、地に遊ぶ小さな(モノ)たちも。

 

 まさか――(はら)っていたのか? 昨夜のうちに何らかの儀式を施し、大内裏の内から追い払ってしまったのか、(モノ)どもを? 

 このために? 貞明の見ているモノが嘘だと幻だと、言い張るために? 陰陽師たちが――いや。あるいは、賀茂忠行が。

 

 賀茂忠行は赤く(ただ)れた手を、促すように掌を上に差し伸べる。

「さあ、御示し下さいませ。真にそのようなモノが在るなら、我が手に取らせ給いませ。さあ、さあ」

 

 貞明はなおも辺りを見回す。モノはいない、どこにもいない。空にも庭にも軒廊(こんろう)の床にも。

 誰も目を合わせようとしない。貞明の視線が向くたび、風に草がなびくように誰も彼もが目をそらせていく。供の者らも、乳母子(めのとご)源益(みなもとのまさる)さえも。

 

 頬を震わせ、貞明が後ずさったとき。(たもと)の内で何かが動いた。

 貞明はそれをつかみ出し、掲げ。忠行目がけて、力の限り投げつけた。

「これを! とくと見よ!」

 

 龍。(うなぎ)ほどもない、小さく細長い龍。何かの拍子に貞明の衣に入り込み、出るに出られなくなったものか。それだけは(はら)われずにいたらしかった。

 

 ぶつかる直前、わずかにまぶたを震わせたのみで。顔面に龍を打ち当てられながら、忠行は身じろぎもしなかった。目を開けたままでいた。

 

「はて。どこに、何が」

 忠行はゆっくりと辺りを見回し。慌てたようにびちびちと身を震わして逃げる龍には目もくれず。傍観する百官へ目を向け、また貞明へと向き直った。

「主上。ここにはなんのモノもおりませぬ。畏れながら、御覧になっているモノ――全て、幻かと」

 

 笑っていた。忠行は笑っていた。満面の笑みといってよかった。嘲笑うのではなく、憐れむような、穏やかに慰撫するような笑みだった。

 ただ。目の奥は、笑ってはいなかった。全てを削ぎ落とした刃物のような目をしていた。視線は真っ直ぐに、貞明へと向けられていた。貫き殺し、踏み潰そうとするかのように。

 

「な、ぁ……、ぁ……」

 貞明は、震えることしかできずにいた。

 

 やがて、基経(もとつね)が一つ手を叩く。

「さ、主上。申し上げたはず、元服の刻が迫っておりまする。方々(かたがた)も急がれませい」

 後半は百官へ振り向いてそう言うと、自ら貞明の前に立って早足に歩み出す。

 

 供の者ども、さらに幾人かの貴族も加わって軒廊(こんろう)を歩き出し、人波に押し流されるように貞明は歩んでいた。

 

 陰陽寮の者どもが深く(こうべ)を垂れて見送る中。

 忠行だけが立ち尽くしていた。振り向いた貞明、もはや何を言うこともできない貞明を、なおも貫き殺すかのような、突き落とすかのような目で見ていた。

 

 

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