暑いですね。生きていますか?

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少年

 

「おつかい?」

「そうだ」

「僕一人で行くんだよね?」

「おつかい如き由無しごとに二人で当たってどうする」

「それはわかるんだけど……何処まで行けばいいの?」

「オラリオ」

「…………本気で言ってる?」

「無論だ」

「……いいの?」

「ああ。寧ろ遅過ぎたくらいだ。まだ早いと言い続けた結果、ドが付くほどの世間知らずにお前が育ってしまったのだから」

「ひ、否定出来ない……」

「お前は世間も、世界も知らな過ぎる。数日、お前に時間をやる。自由に過ごして来い。おつかいは追々でいい」

「…………」

「不満か? それとも不安か?」

「わかってるくせに……」

「お前が気にしたって何も変わらんだろう」

「でも……二人の身体のこと……」

「俺もこいつも今直ぐどうこうなる身体じゃねえよ。わかってんだろ?」

「わかってるけど……」

「俺らの心配ばかりしていないで、ここにないものに意識を向けろ。気紛れで横暴なこいつがくれた折角の機会を不意にしてどうする」

「一言も二言も余計だお前は」

「いいか。俺たちを隠れ蓑にも、言い訳にもするな」

「…………」

「その男の言うとおりだ。それにお前だって、腹は決まっているんだろう?」

「…………お祖父ちゃん」

「なんじゃ」

「二人のこと、お願い」

「わかっとるわかっとる。お前こそわかっておるのか?」

「うん?」

「オラリオへ行くということはつまり、んぎゃわいいおにゃのこたちと出会っぐふぅっ!?」

「黙れ」

「流石に今のは沸点低くない……?」

「わ、わがっ……まごよ……ぐ、ぐっどらっく……っ……!」

「ま、小難しく考えないで、楽しんで来い」

「その目で、世界の中心を見てこい。いいな?」

「…………うんっ」

 翌日。

「行ったか」

「ああ」

「ここも静かになるのう」

「あとはお前たちを世界の果てまで吹き飛ばせば万事完璧と言えるな」

「拳を握るな拳を」

「……もうここには戻らないだろうよ、あやつは」

「ああ」

「だな」

「これでよかったのか?」

「あんたこそどうなんだクソジジイ。行って来いじゃなくて、もっと他に掛けるべき言葉があったろう?」

「あやつが生きてここに帰ってきた時まで秘しておく。それでええ」

「そうか……」

「質問に質問を返しおって。もう一度聞くが、これでよかったのか?」

「いいに決まっているだろう」

「静かに腐っていくだけだろ、いつまでもここで過ごしていたって。俺らに付き合わせて、あいつまで腐っちまうことはない」

「そうだ。これで良かったのだ。これで……」

「……ならばもう一度考えてみろ。お前たちに残された時間はそう長くない。その吹けば消えるような僅かな命を、お前たちはどう使う?」

「今更答えが変わるものか」

「私たちの命は、あの子の為に使い切る」

「とっくの昔にそう誓ってんだ」

「…………それで、どうする? 素直にここで留守をするつもりか?」

「「無論、行くに決まっているだろう」」

「あっはっは……! あのクソ生意気な冒険者共が……立派な親バカになりおって……!」

 心底愉快そうに笑う、恰幅の良い好々爺。

 かつての『覇者』二人が彼に届けた返答は、静かな笑み二つのみだった。

 

* * *

 

「わあ……!」

 聞きしに勝るとはこういうことなのだと、新鮮な実感を得た。

 写実で何度も目にしていた。村の人々や、一つ屋根の下で共に暮らす面々から何度も話を聞かされていた。

 意外と大したことないぞ。というか、直ぐに見飽きる。何なら無駄に高く作るなよ面倒臭えな。と思うようになる。

 なんて、ちょっと夢を壊されるようなことを言われた覚えもあった。台無しだよ! などと当時は憤慨したっけか。懐かしい。

「凄いっ……!」

 そのネガキャンも、杞憂に終わった。

 天まで届く白亜の塔の足元にまで歩み寄って得られた感動は筆舌に尽くせないもので、たくさんの書き込みを手ずから加えた見所案内図(ガイドブック)を右手に持っている少年は、その身をぶるりと震わせた。

「これが……バベル……!」

 バベル。

 摩天楼と評するに相応しい威容。巨大で壮大なこの建造物は、白い髪を揺らす少年が憧れ、同時に恐怖している世界。ダンジョンと呼ばれる摩訶不思議な世界の蓋の役割も兼ねているそうだ。

 バベル内には他にも、商業施設や冒険者たちが利用する簡易食堂やら色々と収まっているらしい。

「気になるけど……一旦後回し……かな……」

 少年は、この巨大な施設の探索を後回しにすることにした。見る所が多過ぎて中に入ったら想像のうん倍もの時間を消費してしまって観光どころじゃなくなりそうな予感がしたから。

「よしっ……!」

 そうと決めたら行動だ。両手の指じゃまるで足らないくらい、観光してみたい所があるのだから。

 大きめの背嚢を背負った少年は、右を見ても左を見ても冒険者ばかりが歩いている広大な都市オラリオを、興味の赴くままに歩き回った。

 最初に向かった場所は、冒険者墓地。オラリオを訪れる機会に恵まれたなら必ず行こうと決めていた場所だ。

 様々な感情が綯い交ぜになる中、広大な敷地を一人静かに歩いて回った。最後に、近くにあった花屋で購入した一輪の白い花を多くの英雄の名が刻まれた墓標に供えて黙祷を捧げ、偉大な冒険者たちが眠る地を後にした。

 次に足が向いたのは万神殿(パンテオン)。ギルド本部。

 職務に従事されている人々で溢れかえっている光景に気後れした彼は、中を覗くだけに留めた。

「冒険者登録の方でしょうか? ご案内出来ますよ」

 肩で揃えられたブラウンの髪とラウンドタイプの眼鏡が印象的なエルフかハーフエルフだろうとっても綺麗なお姉さんがご案内してくれると言うので心が揺れに揺れたがどうにか断りを入れ、ギルド本部を飛び出した。お姉さんのお名前だけでも聞いておけばよかったなあと少しの後悔を抱いたのも良い思い出に出来そうな気がする。また会えたらいいな。

 何の催しも行われていなかったことが少しだけ残念だったけれど、円形闘技場(アンフィテアトルム)を目にした時は気分の高揚を隠せなかった。時期が少しズレていたら怪物祭(モンスターフィリア)なる催しを見れていたらしい。残念。

 聖フルランド大聖堂は圧巻だった。女神祭なる催しの際ならば聖堂内を見て回れたらしいのだが、今日はその限りではななかった。それが心残りにはなるが、外から眺めているだけでも胸に来るものがあった。

 その足で、一本の橋へと向かった。

 その橋の名は、英雄橋。

 橋の上に並ぶ三十一体の彫刻。その全てが英雄の彫刻。

「…………」

 その一体。橋の中央に鎮座している彫刻に、少年の目は吸い寄せられた。

「大英雄……」

 アルバート。

 己の命と引き換えに、この地に這い出てきた黒竜を撃退した、誰もが認める最強の英雄。少年が憧れる一人だ。

 そのアルバートの彫刻の対面。多くの英雄たちが並ぶ橋に於いて、そこにだけは彫刻が置かれていなかった。

 その理由を少年は知っている。一つ屋根の下で生きてきた人物から聞かされたことがあったから。

 曰く。

 大英雄アルバートの前に収まる資格を持つのは、あの黒竜を討ち滅ぼした英雄。

 『最後の英雄』と呼ばれるべき、偉大な戦士のみだから。

「…………」

 大英雄アルバートに背を向け、空位になっている『最後の英雄』の座を見据える。

「そこ。いつか、座らせてもらいます」

 少年には、幾許の躊躇も、微塵の羞恥もなかった。

「そこは、僕だけの席だから」

 大胆不敵な呟きは、オラリオを撫でる風の中に消えていく。

 いつか。きっと。絶対に。

 それが夢だから。

 それが誓いだから。

 それが約束だから。

「もうここには来ません」

 次に自分がここに来る時は、銅像になって大英雄の前に飾られる時だけでいい。

「ふうっ……!」

 不思議と熱くなっていた目頭を豪快に拭った少年は、静かな笑みを絶やさぬまま、彼の生涯で最終到達点となるだろう場所を後にした。

「お腹空いたな……」

 妙に力んでいた所為か、お腹の虫が騒ぎ始めた。まだまだ観光したい気持ちはあるが彼らを黙らせることを優先することにした少年は案内図と睨めっこ。しかしなかなか決まらない。あんな店こんな店より選り取りみどり過ぎてひたすら迷う。

 手持ちにはそこそこ余裕はあるがここでの散財は避けたい少年は、高級感のある店全てを選択肢から外し、数店にまで候補を絞った。

「あ」

 少年の目は、とある店の紹介欄でぴたりと止まった。

 その店の名前に、覚えがあった。

「確か……」

 紹介文を読みながら、数ヶ月前に祖父から聞いたことを思い返す。

 祖父の元を時折訪ねてくる方々から色々伺っているらしく、オラリオの最新事情にもやたらと詳しい祖父はこんなことを言っていた。

「店主も店員もというか、店そのもののクセがクソ強い」

 だったか。

「ここにしよう」

 ここに記載されている店の中ではお値段も手頃な様子だし。

「豊穣の女主人、かあ」

 自身の興味を浚った店の名を呟きながら、少年は足を速めた。

 

* * *

 

「いらっしゃいませだニャー!」

「わあ……!」

 溌剌とした猫人(キャットピープル)の声に迎え入れられた先に広がっていた光景に、少年は瞳を輝かせた。

「こ、これが……酒場……!」

 彼の暮らしていた村には酒場などなかった。いざ酒盛りとなったら何処かのご家庭にお邪魔するか青空会議宜く青空飲み会ばかり。

 彼は、こんな光景に憧れていた。

 誰も彼もどんな種族でも、昼間であるにも拘らず楽しそうに杯を掲げ合う光景。しかもその多くが冒険者! 冒険に酒盛りは付き物! 酒盛りだって冒険の一つ!

 冒険者という生き方への憧れを幼い頃から抱き続けている彼には、目の前に広がるもの全てが眩しかった。

「見ない顔だねあんた! じゃんじゃん金を落としていってくれよ!」

「あ、あははは……努力します……」

 案内されたカウンター席に座った途端に特大の圧を掛けられた。このドワーフの女性が店主さんなんだろうな。

 それにしても、だ。

 うん。強い。

 この人、とっても強い。

「なんだい? アタシの顔になんか付いてるかい?」

「い、いえ! その……注文はどうしたらいいのかなって……」

「このまま聞くよ! さっさと言いな!」

 酒場に於いての客と店員の力関係ってこんな感じなんだなあと新鮮な学びを得ながら注文をした。お酒は頼まなかった。

 一つ屋根の下に酒豪の中の酒豪みたいな人がいたもので、お酒自体は小さい頃から何度も飲んで来たけれど、あまり自分の好みではないのが正直な所。

 それをそのまま我が家の酒豪に伝えたら。

「お前の好みなど知らん。俺の差し出す酒を飲まないとは言わせねえ。が、そこまで嫌だと言うなら選ばせてやる。飲めば地獄。飲まなきゃ煉獄。どっちがお前好みだ?」

 どっちも僕好みじゃないよ!? と叫びながら地獄を選んだ日が懐かしい。勿論差し出された酒を飲み干した後はちゃーんと地獄を体験させられた。

 具体的に言うと、装備も食料も全てを取り上げられた文字通りの裸一貫で住まいから遠く遠く離れた山に放り込まれた上で、二日以内に家まで帰って来い、というもの。

 いやー地獄地獄。めちゃくちゃ地獄だったなー。全裸でゴブリンやら狼やらに追い掛け回された光景を思い出したらちょっと涙出ちゃったヨ。山菜を取りに山に入ってきた人々に姿を見られた時のあの虚無感と死にたい感は今でも忘れられないなーあははのは。

 裸一貫にそこらで拾った布を巻き付け、二日の経過を時計が告げるギリギリ手前でボロボロもボロボロな姿で家に帰った時に、野郎二人が大笑いをして僕を出迎えてくれたこと。その二人を一人の女性が一瞬でボコボコにしていたことも、よく覚えている。

 ちなみに煉獄コースを選んでいたら、『大防壁』付近にて、ぴょっこっと飛び出して来た竜を裸状態で屠るまで帰宅不可能。なんて状況に放り込むつもりだったらしい。

 いやいや殺す気か。殺す気だったんだろうなあ。

 しかも後に本当にやることになったし!

 そのお陰で、大防壁の様子を見に来たらしい学区の方々に、全裸で竜と戦う白い髪のグラップラーがいたとか噂になったらしい。死にたい。っていうかよく死ななかったな僕。死に物狂い過ぎてどうやって勝ったかも覚えてないや。

 ま、僕みたいな無学な人間が学区に行くなんてあるわけないから大丈夫か! あっはっは!

 なんて、無理矢理に気分を盛り上げてみる。

「懐かしいな……」

 中身が中身なものでいい思い出と言うには今も昔もこれからも難しいだろうけれど、目を瞑れば瞼の裏に広がる光景に覚える愛しさは嘘にはならない。

 ずっと、僕を支えてくれる力になってくれるんだろうなって、そう思う。

 懐かしい光景を思い出しながら、セットだとお得な価格になるらしいステーキセットを待っていると、食欲を激しく煽ってくれる香りを放ったプレートを女性従業員さんが運んで来てくれた。

「お待たせし……」

 その女性はどうしてか、ぴたりと動きを止めた。

 薄鈍色の髪を揺らす少女は、髪の色に程近い色の瞳を大きくし、少年を見つめていた。

「あ、あのぅ……?」

「……あ! ごめんなさいお客様! ご注文のステーキセットです! お待たせしました!」

 立ち尽くしていた店員は少年の一言で再起動。手際良く配膳をする横顔には人好きのする、とても愛らしい笑顔が浮かんでいた。

 いやあ、可愛い。とっても可愛い人だ。

 やっぱ都会は凄いなあ! さっき出会ったギルドのお姉さんといい、このお姉さんを始め、従業員のみなさんもとにかく可愛い人ばかりだ!

 と、少年は胸を高鳴らせていた。

「来て良かった……!」

「このお店、初めてですよね?」

 眼福眼福と少年が喜びを噛み締めていると、さっきまでの神妙な顔を笑顔に変えた従業員が、少年に声を掛けた。

「あ、はい。このお店というか、オラリオみたいな都会に来るのも初めてで……もう見るもの全てが新鮮で……!」

「そうなんですね! 所謂、上京ってヤツでしょうか?」

「今回は観光で来ただけなので、もう暫く観光をしたら実家に帰る予定です」

「観光ですか! いいですねー。それでしたら、お客様さえ良かったらですけど、観光におすすめの場所、ご案内しましょうか?」

「えっ!?」

 お力になれると思いますよーと笑う従業員の前で、少年は戦慄を隠せないでいた。

 ま、まさかこれは……でぇと、ってヤツのお誘いでは!? いやいや違うか? もっと上の伝説的行為……ぎゃ、逆なんに当たるのではないだろうか!?

「はわわ……!」

「お昼の営業終わりで休憩に入れるので、お客様さえ良かったらと思ったんですけど、如何でしょうか?」

「ひ、ひえっ! あ! や! いえいえそんな! 僕なんかじゃ恐れ多いですっ!」

「恥ずかしがらなくてもいいじゃないですかー。あ。ところでお客様は、どちらの神様の眷属なのでしょうか?」

「ぼ、僕ですか? どのファミリアにも所属していませんけど……冒険者ですらありませんし」

「本当に?」

「は、はい……」

 藪から棒に不思議なことを問われた。少年は酷く困惑しながら少女の眼差しに正面から向かっていったが、少女の薄鈍色の輝きからは何も見通せなかった。

「いきなりごめんなさい。私、結構人を見る目には自信があるんですけどねー。勘違いだったみたいです」

「そ、そうですか……」

 朗らかな笑みと共に謝罪の言葉を口にする少女にベルが出来たのは、曖昧な笑顔を返すことだけだった。

 もしかしたら。

 今この瞬間。例えばここにどんな神が同席していたとしても、少年の内側を見透かすことは敵わなかったかもしれない。

 少年は、事実を口にしなかった。

 しかし、嘘を言っていない。

 勘の良過ぎる少女の言う通り。確かに少年には、とある神の血が宿っている。

 しかし少年は、神血(イコル)をくれた人物を神だと思ったことが一度としてない。

 少年とその人物にとって、生まれも育ちも血の繋がりも、何もかもが瑣末事。

 少年にとってその神は、ただの祖父。

 神にとってその少年は、ただの孫。

 それ以外の何かではない。

 だから、何も嘘ではないのだ。

 少なくとも、少年と祖父にとっては。

「あ、あの……」

「はい?」

「僕からも一つお聞きしてもいいでしょうか?」

「スリーサイズ以外でしたらお答えしますよー」

「き、聞きませんよそんなこと!?」

「あはは……! 大袈裟な反応をしてもらえちゃうとこっちが嬉しくなっちゃいますねー。話の腰を折ってしまいましたが、私に何か?」

「その……気分を害されたら申し訳ない限りなのですが……」

「何なりとどうぞ」

「お姉さんは……人間ですか?」

 突飛なことを口にした少年に、強い反応を示した人物がいた。件の少女ではない。

「…………」

 手を休ませないまま聞き耳を立てていた、酒場の店主である。

 しかし彼女は何も言わない。ただ黙って、少女と少年のやり取りに耳を傾けていた。

「えっ、と……どういうことでしょうか?」

「雰囲気とか、気配って言えばいいんでしょうか。そういうのが貴方とそっくりな人を知っているんです」

「その方と私の雰囲気が似ていたとして、それがどうして私が人間かどうかって話になるのでしょうか?」

「その人が、神様だったから」

 脳内に浮かぶのは、人懐っこい皺々な笑顔。

 まるで神様になんか見えない、何処か子供っぽい愛嬌すら感じるあのだらしのない笑顔が昔も今もこれからも、少年は大好きだ。

「貴方もそうなのかなって思いまして」

「……以前にも同じようなことを言われたことがありますけど……反応に困っちゃいますね……」

「で、ですよね……本当にごめんなさい……不躾に大変な失礼をしてしまいました……」

「そうですよー。あんまりな内容だったから、新手のナンパをされたんだと思っちゃいました」

「な!?」

「さあさあお前の正体を明かしてみろー! なんだと拒むというのかならば力付くでぐへへー! みたいなことが目的ですか!?」

「ち、違います違いますっ! 確かにお姉さんみたいなとても綺麗な人とお近づきになれたらとっても嬉しいですけどっ! というか想像力豊か過ぎじゃないですか!?」

「本当に素直な反応をしてくれる人ですね貴方は……!」

 仕事中であることも忘れからからと笑う少女。その笑顔が澄んだものであることを認めた少年は、ほっと息を吐いた。

「いやほんと……忘れてください……ダメだなあ僕は……」

「とりあえず、冷める前に召し上がってください! 味には自信しかないので!」

「はい……いただきます……!」

 しっかり手を合わせ、ナイフとフォークを少年が掴むと、少女も仕事に戻っていった。

 お口に合いますか? 追加でステーキもう一枚食べちゃうとか男らしくて素敵だと思いませんか? やっぱりお酒もいっちゃいましょー!

 とかなんとか、折を見て絡みに来る少女をどうにかこうにかやり過ごしながら、これは案内図に名前が載るのも納得だと思えるめちゃうまなランチプレートに舌鼓を打つこと暫し。

「ごちそうさまでした……!」

「綺麗に平らげてくれましたねー!」

 手を合わせてごちそうさま。ボリューミーな肉塊のおかげですっかり満腹である。

「いやあ、本当に美味しかったです! ありがとうございました!」

「そう言っていただけて光栄です。それで、この後はどうされます?」

「あー」

 さっきは別の話題に変わってしまったから明確な返事を返せていなかったか。

「その……ご提案はありがたいんですけど……もう少し、自分の意思と足で色々見てみたいと思いますので……ごめんなさい……」

「謝らないでください。私の方こそ悩ませてしまって申し訳ありませんでした。さてとっ。じゃあ次のご提案ですっ」

「て、提案?」

「お昼のデートはフラれてしまいましたけど、私はまだ諦めてませんよー? というわけで、夜の営業の際にまたいらしてください!」

「ええー!?」

「夜はもっとお店が盛り上がりますよー?」

「ぐ、ぐいぐい来ますね……」

「それは勿論! 私、貴方のことが好きになっちゃいました!」

「す!?」

 放り込まれたど直球な好意に、少年の動揺は急加速した。

 こ、これ……僕が頑張ってこのお姉さんと仲良くなれたら……お、お付き合いとか出来たり……いやいや待て待て! もしかしたら……つ、つつもたせってヤツ!? かもしれない! だってそうじゃない!? いきなりこんな上手い話なんてないでしょ!? あ! そう思うと怖い! すっごく怖い! 最初こそ素敵なお姉さんと出会えて嬉しいが圧倒的に勝っていたけど、今は怖いが勝ってるっ!

「お、お約束は出来ません! そろそろ行きますご馳走様でした失礼します!」

「あ! 待って! 名前!」

「へ?」

「私、シル・フローヴァと言います。良ければ、貴方のお名前を聞かせてくれませんか?」

 シルと名乗った少女の笑顔に、少年は文字通り、見惚れてしまった。

 少女の正体などもはやどうでもいい。

 裏がありそうなお誘いに乗るつもりもない。

「……ベル」

 それでも、先に名乗られてしまったなら、こちらも名乗らないわけにはいかない。

「ベル・クラネル、と言います」

 笑いながら自己紹介をした少年は、それ以上何も言うことなく、釣銭の出ないよう丁度の支払いを机に置いて、クセが強いと評判の酒場を後にした。

「おい馬鹿娘」

 白い髪の少年を見送ったばかりのシルの耳に、ドスの効いた声が滑り込んできた。

「さっきの坊主、あれはなんなんだい?」

「私にもわかりません。少し外しますね」

「おいこら! ったく……!」

 店主、ミアの声を背中に受けながら、シルは裏口から外へと飛び出して、ぱちんっと、指を弾いた。

「お呼びでしょうか」

 その途端。シルの目の前に、一人の猫人(キャットピープル)が姿を見せた。

「すいませんアレンさん。今出ていった白い髪の男の子を尾行してください。私のことは構わず。最優先です」

「貴方の護衛を廃してまで後を追う価値がある、ということでしょうか?」

「彼に、私の事情を見抜かれました」

「!」

 アレンと呼ばれた猫人(キャットピープル)は、元より鋭い目を更に細めた。

「多分、一目見ただけで。正体に勘付いているって風ではなかったですけど」

「……何者か心当たりは?」

「ありません。私も初めて見ました。一度でも見たら忘れられるわけがありませんから」

「と、申されますと?」

「魂が、とても綺麗でした」

「…………」

「見たことのない色をしていたんです」

「……行きます」

「お願いしますね。後で私も合流します」

「はっ」

 恭しく膝を付いたと思えば、アレンの姿は既に消えていた。

「……酒場勤めも続けてみるものですねー」

 少女以外に人の姿の見えなくなった路地裏。

「さてさて…………どうやって私のモノにしてあげちゃいましょうかねー」

 そこに響いた誰かの呟きは、静かな暗がりへと溶けて消えていった。

 

* * *

 

「お、お城だ……!」

 それが少年……ベル・クラネルが抱いた第一印象だった。

 ベルの前に聳え立っているのは、長大な館。高層の塔がいくつも建ち並んでいるその館は、ベル的には最早お城であった。

 その中央。最も高く伸びている塔には、道化師の旗が飾られていた。

「ここがロキ・ファミリアの……!」

 ベルには城にしか見えないその館の名は、黄昏の館。

 豊穣の女主人を出たベルはゆっくりとオラリオの北方面へと足を進め、あれを見てこれを見てとふらふらしているうちに、観光地と言うのはどうなのかなあと思うけれどどうしても気になる場所。都市最強派閥の異名を頂戴しているファミリア。

 ロキ・ファミリアの本拠(ホーム)。その正面にまでやって来ていた。

「あ! こ、これか……!」

 見れば、本拠(ホーム)の前に注意書きがあった。

 観光するのは自己責任。

「本当に書かれてるんだ……!」

 噂には聞いていたし、なんなら案内図にも観光は非推奨と記されているし、各ファミリア間と何か問題が起きても我々は一切の責任を負いませんからね、的なことも記されている。危険が保証されている観光ってなんだろうか。

「うーん……」

 ベルは迷っていた。

 黄昏の館を見れたことで主目的は達成出来たのだが、彼にはこの場所に、達成は難しいだろうと踏んでいる二次目標がある。それをどうしたものかと頭を捻っている真っ最中。

 会ってみたいとまで言わないが、一目でいいから姿を見てみたい人物が、ロキ・ファミリアに所属しているのだ。

 しかしどうにも難しそうな気配だ。

 そりゃあいきなり本拠(ホーム)に押し掛けた何の縁もない観光客に、おたくのファミリアの人間に合わせてくれー! なんて言われたって、門前払いが妥当なオチだろう。

「……よしっ!」

 とは思いつつも、行動しないことには何もわからない。少し声を張って自らに気合を注入したベルは、遠目に見ても屈強な体格をしているとわかる、それぞれ槍を手にしている二人の門衛が守る門へ向け、勇気の一歩を踏み出した。

「あ、あのぉ……」

 そんな勇気など即座に霧散。声は出ないし背中は丸くなるし。

 村の人々以外とまともに話したことがない人見知りの少年には、この状況は色々とシンドイものがあった。

「ろ、ロキ・ファミリアの幹部の方々はいらっしゃいますでしょうか……?」

「……あんた、冒険者か?」

 どうやら他派閥所属の冒険者だと疑われているらしい。なるほど、これだけ大きなファミリアだと規則や柵なんかもあるだろうし、他派閥の人間が門を通るだけでも苦労するんだろうなあと、一つ学びを得た。

「い、いえっ! 一般観光客です!」

「ただの観光客が何の用で?」

「僕の家族がお世話になった…………」

 というか、お世話をした。

 というかというか、ご面倒を掛けた。

 もっと言えば、ボコボコにした。なんならしまくった。

「みたいなことがありまして……ご挨拶がしたくて……」

「その家族ってのは一緒じゃないみたいだが?」

「身体を悪くしているのであまり外を歩かせられなくて……なので僕が代わりに……」

「ダメだな」

「へ?」

「あんた、胡散臭い」

「えぇ!?」

 どの辺りが!? 僕的にはこれ以上ないくらい筋の通った話だと思うんですけど!?

「まず一般観光客って言い回しの胡散臭さがヤバい」

「何処がですか!?」

「何処もかしこもだろう」

「そもそも、そんな安い理由であの人たちに会わせるわけにはいかないな。あの人たちは忙しいんだ」

「ひ、一目でいいのでどうにか……」

「ここを通すかどうかは我々に一任されている。その我々が認めないと言っている。お帰り願おう」

「観光なら他を当たりな」

「お話はわかりましたが……そこをなんとか……!」

「めげないねあんたも」

「はあ…………おい」

「ん? ああ……」

 何やら怪しげに笑いながら目配せを交わす二人の門衛。そのうちの一人が前に出て、ベルとの間合いを詰めた。

「な、なに……なんですか……!?」

「んー? 門の前でなんかやってるよー?」

 ベルが慌てふためいていると、自分のずっと後方から、よく通る明るい女性の声が聞こえた。ファミリアに所属している誰かが帰って来たところに出会してしまったみたいだ。

 こうなってくると長居するのはよくないか。仕方ないけど、ここは撤退するかあ。

 と、テンパりながらも、ベルは指針を定めた。

 のだが。

「ほいっ」

「はぇ?」

 誰かの間の抜けた声が響いた直後、ベルの口から、もっと間抜けな声が出てしまった。

 ベルとの間合いを詰めた門衛がなんと、ベルに向けて槍を振るったのだ。

 当然ただの威嚇。鬱陶しいベルを追い払う為の牽制。自称一般観光客の身体を傷付けぬようにと最大限に留意しているとはいえ、蛮行と称して差し支えのない行為。

「わっ!」

 無警戒どころか、テンパりまくっているベルの反応は酷く鈍かった。だから。

「なっ!?」

「はぁ!?」

 避けられず、止めることしか出来なかった。

「い、いきなり何するんですか!? 死ぬかと思いましたよ!」

 言葉通りなのか、ベルの顔は青くなっていた。半ベソにさえなっているくらいだ。

「なんだ……?」

「何がどうなって……!?」

 もっと青くなっているのは、二人の門衛。

 ベル目掛けて振るわれた槍の先端。

 その先端を、ベルの人差し指と中指が挟み、銀光放つ穂先は機能を停止していた。

「う、動かねえ……!」

 門衛は二人共Lv.2。彼らの所属ファミリアでは下っ端に位置するかもしれないが、一般人とは比較にならないほどの膂力は有している。

 だと言うのに彼は、観光客の二本の指に挟まれた槍を微塵も動かすことが出来ないでいた。

「や、やっぱり冒険者じゃないか!」

「ち、違います違います! さっきも言いましたけど一般観光客ですって! 冒険なんてしたことないです!」

「嘘つけ! 一般人にこんな芸当出来るわけがないだろう!」

「本当に本当なんですーっ!」

「何の騒ぎかな、これは」

 相変わらず槍を指で挟んだままベルが必死に弁明する前で、ベル以上に慌て倒して半狂乱状態になりながら詰問をする二人の門衛の耳に、澄んだ声が届いた。

「あ……!」

「だ、団長っ……!」

「うぇ!?」

 団長。その言葉に反応したベルは槍を解放し、くるりと反転。

「見知らぬ顔だな。ガレス?」

「知らんのぅ」

「…………」

「白い髪のヒューマン……?」

「可愛い顔してるねー!」

「こんなヒョロくせぇのほっとけっつの……」

「私たちのファミリアに何か御用でしょうか?」

 先頭に立つ、金色の髪の小人族(パルゥム)の青年。

 彼の背後には、翡翠色の長い髪と絶世の美貌と評していいだろう美しさを有するエルフ。

 その隣に、身体付きは小柄ながら、そこらの岩盤など目ではないくらい分厚い体躯を誇る、屈強なドワーフ。

「わ、わわ……!」

 ベルの目を引いた三人の容姿は、同居人から聞いていた特徴と見事に合致にしていた。

 フィン・ディムナ。

 リヴェリア・リヨス・アールヴ。

 ガレス・ランドロック。

 間違いない。

 名前だけではあるが、ベルの知っている人物で間違いなかった。

 更に後方には金髪金眼のヒューマンに、顔立ちこそ瓜二つだが肉付きがまるで違う二人のアマゾネスに、見るからに凶暴そうな狼人(ウェアウルフ)の青年に、山吹色の髪を揺らすエルフの少女と続く。

 強い。誰も彼もとにかく強い。

 いや待て。最後尾を歩いているエルフの少女だけは少し見劣りするかも。

「むーっ……!」

「ひえっ……!」

 な、なんか睨まれてる!? 思考が読まれた!? だからあんな不機嫌な顔に!?

「このヒューマン怪しいです! さっきからみなさんのことを下卑た目で眺めています!」

「そ、そんなバカなぁ!?」

 そんな目してないのに! っていうかそっち!?

 いやまあ確かに!? 綺麗な人か可愛い人しかいないのこのファミリアは!? なんて羨ましい環境っ……! 特に金髪金眼のお姉さんめちゃくちゃ可愛い! 

 とか思ったりはしたけど! そんな目はしてないよ! 多分!

「レフィーヤ、話が拗れる。控えてくれ」

「す、すいませぇん……」

 レフィーヤと呼ばれた少女は素直に引き下がっていったけれど、その間もずっとベルを睨み付けていた。

 ベルとレフィーヤ。

 お互いに、酷くネガティブな第一印象の交換であった。

「それで、この状況は?」

「こいつ怪しいんです! 自分は冒険者じゃなくて観光客だなんて言いながら、指二本で槍を受け止めるなんて芸当を」

「待ってくれ」

「は、はいっ!?」

「君は、観光客に槍を向けたのか?」

「はっ!?」

「どうなんだい?」

「…………はい……」

「彼の真実がどうであれ、君らの行いは許されるべきものではない。君らの処分は追って通達するが、派閥の品位が疑われるような真似を二度とするな。今はこれだけを胸に留めておいてくれ。いいね?」

「はい……」

「申し訳ありませんでした……」

「え、えっと……」

 間に自分を挟んで行われるやり取りにベルの動揺は増すばかり。今直ぐここから走り去りたい気分にまでなっていた。

「失礼。観光客である貴方に、うちの団員が無礼を働いたと聞きました。慎んでお詫び申し上げます」

「い、いえっ! その話はもう全然……!」

「そうかい? ならば遠慮なく話を変えさせてもらおうかな」

 硬めな雰囲気から一転。ベルに向かって柔和な笑みを向けたロキ・ファミリア団長、フィン・ディムナは、一度視線を落とし自らの右手。その親指を見据えた。

「…………」

 その指先が、小刻みに震えている。

「…………無礼を先に詫びさせてくれ。すまない」

「へ?」

 何故か飛んできた謝罪の言葉に驚きながら。

「うわっ!?」

 同時に飛んで来た拳打も、どうにかこうにかベルは回避してみせた。

「うん、やっぱり」

「や、やっぱりってなんですか!? っていうかいきなり何するんですか!?」

「いやあ、君は筋が良さそうだなと思って。僕の見立て通り……いや。それ以上かな」

「あ、ありがとうございます! って! この状況でする話ですか!?」

 低い所から迫るフィンが間断なく拳を繰り出し続け、その全てをベルが避け続ける。

 ベルの言うこの状況とは、そんな状況。

「何これ? どーゆー状況?」

「知るかっつの」

「フィンらしくない……かな……」

「確かに、団長にしては荒っぽいわね……」

「いやいや! 気にする所そこじゃないですよね!? 何者なんですかあのヒューマンは!? 団長から一撃も貰わないなんて!」

 フィンが圧倒している。謎の少年は防戦一方。

 しかし、下がらない。

 謎の少年は一歩も下がることなく、全ての攻撃に対応してみせていた。

「何者だ……?」

「観光客を名乗るには荒事に適応出来過ぎているのぅ」

 リヴェリアとガレス。フィンと最も付き合いの古い二人も動揺していたが、しかし努めて表に出さないでいた。

「それで、観光客である君がここを訪ねた理由を教えてもらってもいいかな?」

「フィンさんガレスさんリヴェリアさんの姿を一目でいいから見てみたかったんです!」

「手前味噌な言い方になるけれど、僕たちは名前も顔もオラリオで広く知られている方だと思っているのだけど、どうだろう?」

「名前はずっと昔から知っていました! でも顔は知らなくて! 僕の住んでいる田舎には新聞すらまともに届かないので!」

「なるほど。観光客という言葉に嘘はなさそうだね」

「そう言ってたんですよずっと! なのに胡散臭いとか冒険者だろとか言われちゃって……」

「それに関しては言われても仕方がないと思うけれどね」

「ど、どうしてですか!?」

「ありゃあ神連中が言う所の、ツッコミ待ち、ってヤツか?」

 と、狼人(ウェアウルフ)が囁いた。

 一般的な観光客では、第一級冒険者の攻撃を捌くことなど不可能。しかも雑談混じりでとか。もうアホかと。

「それはもういいから代わりに聞かせてほしい。君から手を出して来ないのは何か理由が?」

「戦う理由がありませんっ!」

「そうかい? ならば、僕が君を気に入った。是が非でも派閥の一員にしたいと思う。それこそ、この場にいる全員で君を再起不能にしてでもね」

「はいっ!?」

「これでもまだ、君の全力を拝むには足りないかな?」

「貴方はそんなことをする人じゃない!」

「うん?」

「貴方は生意気で気に食わないけど、芯にいいものを抱えている人だって、貴方のことを教えてくれた人が言っていました!」

「……僕自身に言わせれば……それは買い被りだと思うよ……!」

 フィンの回転が上がる。

 それでもベルは引き下がらず、全ての攻撃を身体の前で捌き続ける。

「フィン……?」

「ねえ、これ……!」

「団長っ……!」

 いよいよロキ・ファミリア団員たちの動揺が大きくなって来た。

 フィンと言葉を交えながら、苦戦も苦難も苦労も、彼の童顔からは滲んでいない。

 汗の一つも掻いていないのだ。

 確かにだ。フィンの全力はこんなものではない。全力さえ発揮したフィンならば負けることなどあり得ないと手放しで断言出来る。

 しかし。

 あの謎の少年がフィンに負ける絵も、不思議と見えてこなかった。

「仮にだけど、君を御すことが出来たなら、その時は君の来歴や、君に僕たちのことを吹き込んだ人物のことを教えてもらえるかな?」

「それは出来ません」

 きっぱりと断じる言葉を発しながら、ベルはぴたりと動きを止めた。

「!」

 ベルに追従するよう、フィンも急ブレーキを踏まざるを得なかった。

「……どうしてだい?」

 団員たちが驚愕の声を漏らしているのがフィンの耳にも聞こえて来た。

「その人たち……今は、静かに生きているんです」

 静かに語る少年の手は、フィンの拳を掴んでいた。

 ずっと弾いてばかりだったフィンの拳を、あっさりと掴んでみせた。

 最初から出来たのに、やっていなかった。

 団員たちには、そんな風に見えた。 

「空気の綺麗な山の中で、傷んだ身体を休めるよう、ひっそりと。だから、誰かに干渉させたくないし、されたくないんです」

「…………」

「静かで穏やかなあの人たちの日々に、少しでも罅を入れたくないんです。ですので、例えここで貴方たちにボコボコにされても、仮に拷問されたとしても、お話することは出来ません。ごめんなさい」

 皆が驚愕の余韻に焼かれる前でフィンの拳を解放し、ベルは勢い良く頭を下げた。

「…………いや、謝らないでくれ。そもそも君が謝ることなど何もないだろう。僕がひたすらに不躾だった。君には謝らないといけないことばかりだ。本当にすまない」

「い、いえいえ! 元はと言えば不躾なことをしたのは僕で……」

「ん?」

 慌てて首を横に振っていたベルの動きが、ぴたりと止まった。

「どうかしたかい?」

 フィンの問い掛けもベルの耳を素通り。気付けば、フィンに追われている時ですら流れていたなかったイヤーな感じの汗がベルの肌から滲み出していた。

 間違いない……見られてる……!

 というか、さっきの店を出てからずっと自分を尾けて来る気配があった。多分だけど、シルと名乗った可愛いお姉さんのお友達だろう。それ以外の可能性が浮かばない。

 けれど、違う。

 今気にしなければならないのは、そっちじゃない。

 この感覚を知っている。

 知らないわけがない。

「そんな……いや……まさっ、まさかっ……!」

「……大丈夫かい?」

「へあ!? えっ、あ…………ちょ、ちょっとすいません!」

「うん?」

 見るからに動揺しているベル。彼は何故か、フィンを抱き上げた。

「何してんだてめぇ……!」

 髪の長いアマゾネスがブチギレているのも目に映らないベルは、リヴェリアとガレスの間にすとんとフィンを下ろし、その場にいる全員から距離を取った。

「今のは一体」

「そ、それ以上僕に近付かないことをおすすめしますっ!」

 両手をババッと突き出して頭を振るベル。いきなり別人のようになった彼に殺到する訝しげな視線。

「すーっ…………はーっ…………!」

 そんな視線を気にしている場合じゃないベルは、大きく大きく深呼吸。

「っ……!」

 ぐっと歯を食い縛って、上空を仰いだ。

「僕には! 家族がいますっ!」

 なんだなんだーと、なだらかな肢体をお持ちのアマゾネスの少女が呟く。ベルの耳には届かない。

「お祖父ちゃんと! それにおじさんと! それと……お! おっ、お…………お……おば」

 弾けた。

「わっ!?」

「何ーっ!?」

 ロキ・ファミリアの面々の前で。謎の少年を中心にして、何かが爆発した。

 その衝撃たるや凄まじく、居合わせた全員がどうにかこうにか身を低くして後退する中、反応さえ出来なかった門衛二人は吹き飛ばされてしまい、頭から鉄門に仲良く突っ込み気を失ってしまった。

「何がどうなってんだこいつは……!?」

 軽い身のこなしで爆心地から退避した狼人(ウェアウルフ)の青年の見つめる先。謎の少年の立っていた大地は、綺麗な形に抉り取られていた。美しさすら覚える破壊痕の中には、肉片の一つすらも残っていない。

「やっぱり……!」

「へ?」

 間の抜けた声を出したのは、一人だけ反応が遅れていた、レフィーヤ。

 彼女の隣には、顔面蒼白とはこういうものを言うのだ、と言わんばかりの顔色になっている謎の少年の姿が。

「い、いつの間……に……?」

「く、うぅ……!」

 レフィーヤが目を丸くする横で、少年は震えていた。ガクガクブルブルと、みっともないくらいに。

 彼を震わせているもの。

 その内訳は、恐怖が八割。

「関係のない人たちに迷惑掛けて……!」

 残りの二割は、怒りだった。

「ま、また勝手なことして! 留守番してるって言ってたよね!?」

「わっ!」

 謎の少年がいきなり大音声を発した。直ぐ側にいたレフィーヤは飛び跳ねるほどに驚いて尻餅を付いてしまった。

「おつかいなんか一人でいい的なこと言ったのそっちなのに! こっそり着いてくるくらいなら最初から」

 再び何かが弾けた。

 先よりも範囲は狭い様子だが、生まれたての縦に深く伸びた破壊痕からは、力が凝縮されているのがアリアリと伝わってくる。

「な、何が……」

 本来なら、その中心の程近くにいたであろうレフィーヤは、少し離れた所からその破壊痕を見つめていた。

「一緒に来れば良かったのに!」

「へ? え? はいぃぃぃ!?」

 謎の少年の腕の中から。

「レフィーヤ……お姫様抱っこ、されてる……?」

「あぁぁああああ……!」

 謎の少年に身体の接触どころかお姫様抱っこまでされている事実と、金髪金眼の少女にその様を見られたことのダブルパンチ。

「いやぁぁあぁああぁぁあああ!」

 レフィーヤ、発狂。

「っていうか今僕、今は静かに生きてるんだから放っておいて欲しい的なこと言ったばっかりなんだよ!?」

 喧しいの極みのレフィーヤを抱えたまま、謎の砲撃を撃ち込んで来ているらしい誰かへ向けてベルが叫ぶ。

「離して! 離してくださいいいい!」

「どうして空気読んでくれないのかなあ!?」

「話を聞きなさああああい!」

「まずい! お願いします!」

「ふぇっ!?」

 なんとベルは、自らの腕の中でひたすら喧しくしているレフィーヤを、近くにいた金髪金眼の少女目掛けて放り投げてしまった。

「お、っと……」

 女の子の扱いとしては下の下過ぎる蛮行と言えるだろうが。

「ふぁぁぁあああぁぁぁ!?」

 金髪金眼の少女に抱かれたレフィーヤは余計に発狂。

「ふへ、ふへへへぇぇえへへぇ……!」

 からの恍惚を披露。

「う……」

 金髪金眼の少女は後輩の歪んだ笑みを直視出来ず、そっぽを向いてしまった。

 そんな少女たちの前では、もう少し近寄ってしまったら平衡感覚を破壊されるのではないかと思うほどの衝撃が少年に殺到していた。何度も。執拗に。何度もだ。

「っていうか撃ちすぎ! 身体に響くからもう使わないでってお願いしたよね!? そしたらわかったって言ったよね!? それなのに何事なのこれは!? 僕にはそっちの決め事ぜーんぶ押し付けるのに僕がお願いしたことは全然守ってくれないのはおかしいしズルいよ!」

「よ、よくわからないけどさあ! ケンカなら他所でやってよー!?」

 アマゾネスの少女が叫ぶ前で、進行形にて門前の地形が変わっていく。

「彼には見えている……?」

 フィンの声は誰にも届かない。

 何時、何処から放たれているかもわからない。軌跡も見えない。

 フィンに打ち込まれていた時と同じ。いや、それ以上の超反応。

 あまりに一方的で、あまりに理不尽な砲撃のような何かを、彼は全て回避していた。

「っていうかここには僕以外の人もいるんだから! 周りの迷惑も考えてよ! ここは僕たちの家じゃないんだから! あ! お、怒ったね!? 怒ると直ぐ出力上げるの本当に昔から変わらないんだから! しかも最近は昔よりずっと怒るのが早くなった!」

 しかし、それはそれ。

 彼が凄いのはわかった。もう充分理解した。

 だからいい加減に、ここでわちゃわちゃするのはやめて欲しい。

 と、一部の団員は考えていた。

 そんな折。

「そんなだからおじさんに、最近ほうれい線が目立つようになったよなあいつ、とか言われちゃうの!」

「…………止まっ……た……?」

 グラマラスな肢体を晒すアマゾネスの少女が静かに呟く。

 謎の少年目掛けて降り注いでいた何かは、ぴたりと止まった。

「…………や……やっちゃった……!」

「やっちゃった……? っ……!?」

 金髪金眼の少女が少年の呟きを掬い上げると同時。

「な、なんだ!?」

「何この音ー!?」

 思わず耳を覆ってしまうような低重音が、その場にいる者たちの耳を激しく苛んだ。

「空間が……歪んでいる……!?」

 リヴェリアの目は、遥か上空に謎の揺らぎが発生しているのを認めた。

 その揺らぎは悠々と。まるで見せつけるかの如く、ゆっくりと地上へと降りて来ているように見える。

 状況もこの破壊のタネもわからないが、ロキ・ファミリアの団員たちは皆一様に、逃してはならない気付きをちゃんと捕まえていた。

 特大の一撃。

 理不尽な暴。

 必殺の気配。

 あれを食らったら、終わる。

「いかんっ!」

「全員ここから退避!」

「あーもうっ!」

 ガレスが叫び、フィンの指示が団員たちに伝播する傍で、少年が声を上げた。

 癇癪を起こした幼児のような自分自身の叫びが聞こえていないかのよう、静かに瞑目する少年。

 彼が世界から目を離したのはほんの一瞬。

「よしっ……!」

 彼の紅い瞳が世界を捕まえ直した瞬間。

 鐘の音が鳴り響いた。

 優雅にして荘厳に響く大鐘楼の音色が、激しく揺れる道化師の旗の舞を彩る。

 見れば、少年の右手に、眩い輝きが収斂していた。

 揺らぐ世界。御伽話で聞いたような大鐘楼の音。この世のものかと疑いたくなるような世界の中で、一歩も臆さず仁王立ちをしている、白く輝く背中。

「綺麗……」

 その音に。その光景に。その少年に。

 世辞にも豊かとは言えない胸に手を当てたアマゾネスの少女は、知らない世界の入り口に広がる光景に、心を掴まれていた。

「十秒」

 降り注ぐ絶対的破滅に耳を塞ぐこともせず、目を逸らすこともしない少年が、握り込んでいた光り輝く拳を開き、掌を空へと向けた。

「…………ルト……!」

 大音塊の暴れ狂う世界の中。少年が、小さな声で何かを囁いた。

「わっ!」

 次の瞬間。

 レフィーヤの可愛らしい声も置き去りするような砲声を帯びた輝きが、広がる空へと駆け上っていった。

 炎を帯びた雷。雷のような炎。

 どう表現したものか迷う輝きが、音の塊と衝突。

 拮抗は、ほんの一瞬。

「! 全員穴に飛び込め!」

 フィンの叫びが聞こえると同時に、少年の身体を押し潰さんと降り注いでいた何かが生み出した地表の穴々に飛び込んでいた団員たちの上空。

「!」

 オラリオの何処までも届くような大爆音と、オラリオの何処からでも見える巨大な花火のような輝きが、黄昏の館の上空に咲き渡った。

「きゃーっ!」

「レフィーヤっ!」

 発生した衝撃に全身を撫でられ吹き飛ばされそうになったレフィーヤの華奢な体を金髪金眼の少女が無理矢理に抑え込む光景の上方。

 生じた衝撃波は遠慮も呵責もなく、黄昏の館の硝子の多くを粉々に砕いた。上層階の壁の一部は崩れ、内部が剥き出しになってしまった場所も。道化師の描かれた旗が吹き飛ばされることなく派手に靡くだけで収まっているのは奇跡と言えるだろう。

「くっ…………全員無事か……!?」

 全力で塞いでいた両耳を開放しながら、無惨な破壊痕より這い出て来たフィン。小さな彼の身体の下には、既に気を失っていた二人の門衛の姿。

 団員全員へと次の行動を促しながら、謎の少年との手合わせでも発揮することのなかった全速力を以て、二人の門衛を回収することにフィンは成功していた。

「無事です……」

「あ、頭が割れるぅ……」

「クソったれ……耳がイカれてやがる……!」

「大丈夫。レフィーヤもここに」

「あ、あいずしゃんにだきしめられ…………はふぅ……」

 団員たちが声を上げながら這い出てくる中。

「ガレス……リヴェリア……」

 ガレスとリヴェリアは既に立ち上がり、圧倒的破壊の残響が消えない上空を見据えていた。

「あの魔法……覚えがある……あるに決まっておる……!」

「生きていたと言うことか……!?」

「みたいだね……」

 動揺を隠さないでいるガレスとリヴェリアに合流したフィンが頷く。

 ガレスの言う、あの魔法。

 謎の少年が放ったものではなく、謎の少年目掛けて降り注いでいた魔法を指した言葉だ。

「仮に彼女の魔法だとしたら驚くべきことだ。しかし同時に、彼女の魔法を相殺してみせた人物がいることにも目を向けないといけないね」

「……おいおらんぞ! あの白髪の若造がおらん!」

「何っ!?」

「やられたね」

 フィンは真っ先に気が付いていた。大爆発の最中、身動きの取れない自分たちを置き去りにし、目にも止まらぬ速度でこの場から遠ざかっていく白い背中に。しかしそれ以上を目で追うことすら叶わず。勝手放題やってくれた少年をみすみす見逃すことしか出来なかった。

「あの少年は一体……?」

「さて、なんだろうね……うん?」

 リヴェリアの呟きに曖昧に返しながら、フィンの目は、自身の直ぐ近くに一枚の紙片が落ちていることに気が付いた。

「ん? なんじゃそれは?」

「館から飛び出して来た物か?」

「…………彼を追う」

 二人の質問に答えず、拾い上げた紙片に目を走らせたフィンは、その場にいる団員全員へ次の行動を促した。

「単独行動は厳禁。最低でも二人一組で行動するように。発見次第全体に共有。間違っても手を出すな。尾行するだけに留めることを徹底してくれ」

「び、尾行!?」

「これからー!?」

「フィン……どうして……?」

「彼は、ヘラ・ファミリアの人間、もしくは関係者である可能性が極めて高い」

「へ、ヘラぁ!?」

「あの!?」

「そうだ。その、ヘラ・ファミリアだ」

「だ、だってそのファミリアって」

「あくまで可能性の話だ。とにかく背景が読めない。僕、ガレス、リヴェリアよりLv.が高いということはなさそうだが、彼自身の力の底はまるで見えなかった。油断は出来ない。それに、彼の背後には僕らより強い冒険者が最低二人はいると見るべきだ」

「二人じゃと……?」

「どうしてそう言い切れる?」

「彼に僕たちのことを吹き込んだ人物のことを聞いた時。彼は、その人たち、と言っていた」

「あの『魔女』に比肩しかねん実力者がもう一人とは……」

「とにかく、迂闊な真似は絶対にしないように」

「わけがわかんねぇが……おいフィン。どうやってあのガキを探すつもりだ? 俺の鼻は使いモンになんねーぞ。バカになってやがる……」

「大丈夫、直ぐに見つかるよ。僕の読みが正しければ……」

 改めて謝りに伺います。後片付けもちゃんとやります。ごめんなさい。

「しばらくこの都市の話題を独占するのは、間違いなく彼になるからね」

 生真面目な文体の共通語(コイネー)の綴られた紙片を握り締め、先頭切って、フィンは駆け出した。

 

* * *

 

「終わった……」

 ベル・クラネルは気落ちしていた。激落ちしているまである。

「都市最大派閥の一角に僕はなんてことを……!」

 都市最大派閥にケンカを売った。成り行きとはいえ、そう思われてもなんら不思議ではない事態にまで発展してしまった。

 館のガラスは割っちゃったし門衛さんたちは気絶してたし可愛いエルフの女の子には親の敵を見るような目で睨まれたし……!

 しかし最低でももう一度、あの場所へと行かねばならない。それも早急に。自分と自分の身内のドタバタの所為であんな被害を出してしまったんだ。後片付けをしないなんてわけにはいかない。

 いや待て。言っても彼らは武闘派だ。そんな彼らの本拠(ホーム)までのこのこと後片付けをしに行ったならば、その時にボコボコにされてしまうのでは? だったら行かない方が良くないか?

「いやいやいやいや……!」

 それはダメ。絶対ダメ! 悪いことをしちゃったらちゃんと謝る! 当たり前のこと!

 あの人が誰かに頭を下げるなんて絶対しないんだから、その分僕がちゃんとしないと! 今までだってあの人の八つ当たりの後始末とかで何度あちこちに頭を下げたことか……!

 本当にすいません! うちの者が、あの山を消し飛ばしてしまいました! 本当にごめんなさい!

 こんな謝罪をしなきゃいけない僕の気持ちとか考えてくれないものかなあ本当にっ!

「はあ…………おつかい済ませよ……」

 今謝りに行ったって荒事になる予感しかしない。ほとぼりが冷めるまでおつかいをして、それから謝罪と後始末をしに行こう。それが済んだら家に帰ろう。直ぐに。早急に性急に全速力で。

「……そういえば……」

 とにかく逃げなきゃの一心だったベルは、ようやく現在地に目を向けることが出来た。

「北西のメインストリート……」

 今朝見学をした、ギルド本部のある通り。

「…………」

 肩を落としてとぼとぼと歩いていたベルは、表情を締め、顔を上げた。

 行こう。

 きっと、あそこだ。

「よし……」

 背嚢を背負い直したベルは、人気の少ない路地裏へと入っていった。

 初めての土地。案内図にも載っていないような路地裏。

 だと言うのにベルは躊躇なく進んでいく。

 その様はまるで、何かに導かれているようにも見える。

 ややあって。

「ここかあ……」

 ベルの足は、ある建物の前でぴたりと止まった。

 廃墟。いや、廃墟を名乗るにはもう少し年季と破壊が必要かなと思えるような、石造りの二階建ての建造物。

 壁面を構成している石材のほとんどが剥がれ落ち、割れている。きっと綺麗な造りだったのだろうステンドグラスも可哀想な有り様だ。

 歪みに歪んでしまいぴたりと閉じることを諦められてしまったかのような木製の扉が目を引く正面玄関の上では、顔も全身もとにかくぼろぼろになっているにも関わらず微笑みを絶やさないでいる女神の像が、ベルを歓迎していた。

 廃教会。

 地図を見なくとも身体が。記憶が。この場所へと導いてくれた。

 ある夜は酒の肴で。幼き夜には寝物語で。何度となく聞かせてもらった。

 ベル・クラネルを形成してくれた人々の多くにとって、両手なんかじゃとても抱えきれないくらいの思い出が詰まった教会。

 誰かと誰かが、心を通わせあった場所。

 誰かと誰かが、心穏やかに語らうことが出来た場所。

 誰かと誰かが、大きな声ではちょっと言い出し辛かった恋を育みあった場所。

 ベル・クラネルが産まれる以前から、この場所より、ベル・クラネルが始まっていた。

 市井の記憶から忘れられていても、ベル・クラネルを取り巻く人々の記憶から永遠に忘れ去られることのない場所。

 ここは、そんな場所だ。

「…………」

 ベルは何も言わずに扉に手を掛けた。立て付けが悪いなんてものじゃない鈍い重い音を立てながら扉が開いていく。

 ぴたりと閉まり切らない扉を閉められるだけ閉めたベルは、ぐるりと中を見渡した。

 当たり前と言うべきだろう。中も当然荒れている。

 床のタイルも並んでいる木製の長椅子も、原型を保っている物など一つとしてなかった。天井の其処彼処には穴が開き、雨など降ろうものなら敬虔に祈るなど馬鹿馬鹿しく思えそうな水の差され方をすることだろう。

 はっきり言って、酷い場所だ。こんな所呼ばわりされても仕方がないくらい。

 だから、ベル・クラネルは変わり者なのだろう、きっと。

「はぁ……!」

 こんなにも退屈な光景を見知ったことで、内側から張り裂けてしまいそうなくらい胸がいっぱいになり、息を詰まらせ、目頭さえ熱くしている、ベル・クラネルは。

「っ……!」

 目尻を熱く染めた何かを乱暴に拭い、並ぶ長椅子の最後尾の一つに腰掛けた。

 本来ならば祭壇が置かれているだろう場所には何もなく、目を引くのは荒れ放題な世界に於いて唯一素直に綺麗だと思える、損壊の少ない方であろうステンドグラスのみ。

「さっきのは何?」

 カラフルな輝きに視線を奪われながらベルは、独り言を呟いた。

「お前が逃げ仰せる為の隠れ蓑を用意してやった。感謝しろ」

 その独り言は、即座に独り言を名乗ることを許されなくなった。

「それにしては殺意高くなかった?」

「それなりにやらねばあの小生意気な小人族(パルゥム)らを出し抜くには不足だっただろう」

「本音は?」

「お前に苛立った。それと、あの男にも」

「うん。知ってた」

 素直な言葉を受け、ベルは苦笑した。

「どうしてなんて今更聞かないよ」

「であるならば口を閉ざせ。私は、この場所を堪能していたいのだ」

「…………ここが、その場所なんだね」

「そうだ」

 ベルの座る最後尾の長椅子から通路を挟んだ対角に位置する最前列の席。

「あの子が……お前の母が、愛した場所だ」

 その席に座っていた女性は被っていたフードを上げ、灰色の髪と心の一部を晒した。

「……ボロボロだね」

「ああ」

「でも、いい場所だね」

「ああ」

 その女性は目を瞑っていた。その様が見えているわけではないが、ベルも目を瞑り、静かな空間に意識を委ねた。

「でも……誰か住んでるよね、ここ。生活の匂いがするもの」

 教会の奥。隠し階段らしきものを既に目視していたベルは、この場に足を踏み入れた瞬間にそれを察知していた。

「殺すか」

「ダメだからね」

「消すか」

「ダメだって言ってるでしょ」

「注文が多いなお前は。誰に向かって口を開いていると思っている?」

「注文って言うかなこれ……っていうか。あれってさ」

「だろうな」

 瞼を持ち上げたベルの紅い瞳が、教会の隅。ガラス越しの光さえも届かない場所に向けられる。

 そこに、何かが立て掛けられていた。

 その何かは、分厚い布であった。

 ベルの身長を越えようかという長さを有するその布はあちこちが隆起している。中に入っている何かを包み隠すために覆われているのだろうか。

 それはかなりの重量を有しているらしく、それが置かれている床には真新しい多くの罅が刻まれている。少しでも加重を与えたならば床が割れ落ちてしまいそうだ。

「何のつもりだろ」

「本人に聞け」

「一緒に来たの?」

「まさか」

「相変わらずだね、二人は」

「訳知り顔をするな鬱陶しい。それよりも。尾けられたな、お前」

「うん」

 ベルは躊躇なく、浮かぶ笑顔を絶やさぬまま、はっきりと頷いた。

「尾けられていると気付いていて、どうして真っ直ぐここへ来た?」

「悪いことも出来る人たちみたいだけど、悪い人たちだとは思えなかったから」

「よく言う」

「僕たちのやり取りが聞こえるような距離には誰も配置してないみたい。獣人のお兄さんもいたけれど、流石に拾えてないと思う。凄く警戒されちゃってるみたい」

「そうか」

「んー捕捉されるのがこんなに早いとはなー。流石だなあ、フィンさんたち」

「戯け者め。お前がダラダラとメインストリートを歩いていたからだろう」

「だって、フィンさんたちじゃない方が気になってたから」

「その者の気配は?」

「ロキ・ファミリアの本拠(ホーム)から離れた時に感じなくなった。今も感じられないのが少し意外かなって」

「意外?」

「隠しきれないくらいの殺気を帯びていたから」

「お前を殺したがっているのかもな」

「オラリオに来たばかりなのにどうして命を狙われてるの僕は……」

「日頃の行いだろう」

「一番言われたくない人に言われた……」

「そちらの方は気にするだけ無駄だろう。恐らく何もして来ない」

「目星が付いてるってこと? 多分シルってお姉さんの関係者なんだろうけど、それ以外何もわかってないよ?」

「そういう意味ではない」

 何もして来ないのではなく。

 何も出来ない状況に陥っているだろうから。

 灰色の女は、その言葉を伏せた。隠そうと思ったわけではない。

「誰か来るね」

 自分に劣らぬ速度と精度で、ベルが第三者の到来に気が付いたから。

「この気配……神か」

「どうする?」

「何もしない。堂々としていろ」

「ここで暮らしている神様かもしれないよ?」

「こんな廃墟を根城にするような神など碌でもない神に決まっている。何れにせよ、私を不快にするようならば吹き飛ばす。それだけだ」

「いいのかなあ……」

 いやよくないに決まってるじゃん。

 とは思うも、まあそれくらいならいいかも。なんて思ってしまう辺り、自分を育ててくれた人、環境に染められ尽くしているよなあ。

「僕も大概かあ……」

 そんなことを考えながら、近付いてくる気配に意識を向けて待つ。

「あぁああぁ……づがれだぁ……!」

 扉が開かれるなり、騒々しい独り言が教会を満たした。

「やだ! もーやだ! やだやだやだーっ! 何で神であるボクがバイトなんてしなきゃならないんだよーぅ! 団員の勧誘もちーっとも上手くいかないしっ! なーにが、そんなにバイトをするのが嫌ならさっさと団員を見つけることね、だよぅ! あんなに厳しいバイト先を紹介しておいてよく言うよヘファイストスもっ!」

 羽を休められる所に着いたらしい神の独り言も、身振りでさえも、ひたすらに喧しかった。

 表情は勿論横顔さえ見えないけれど、ベルの前方に腰を下ろしている人の機嫌が抜群に悪くなるのがわかる。

 あーこれは吹き飛ばしコースかなあ。女神様にそんな不敬を働くわけにはいかないし、僕が割って入らなきゃだなあ。

 と、行動の指針を定めたベルは、自らが身を挺して守らねばならないらしい女神の姿に目を向けた。

 胸元の大きく開いた白いワンピースと、両サイドで結われた長い髪が生み出すモノトーンが目を引く。

 背は低く、いっそ幼い少女と言われても納得出来るような愛らしさが漂っているが、しかしそこは天界より降りてきた女神様。正しく尊顔と言えるだろう美貌を有している。

 それよりも何よりもベルの目を引いたのは。

「むっ……!?」

 胸。

 ロリ女神の胸である。

 お、大きい! 胸が大きい! すっごく大きい! あの小柄な身体になんてモノを抱えているんだ!?

 というか、紐!? 何あの青い紐!? 何目的であんな贅沢な場所にいるの!? 羨ましいんですけど!?

「す、すごっ!?」

 その時! ベルの後頭部に激痛走る!

「どごぉっ!?」

 受けた衝撃たるや凄まじく、座っていた長椅子を吹き飛ばしながら、ただでさえボロボロな壁面にベルの身体は突き刺さり大穴を開けてしまった。

「嘆かわしい。これもあの狒々爺の悪影響か。やはり早々に送還しておくべきだったか」

 その場から一歩も動くことなくベルの頭部に何ごとかを仕出かした張本人は、呆れたような溜息を吐いていた。

「……………………な、なんだあ!?」

 一応我が家と言っていいだろう扉を開くなり発生した諸々に理解が追い付くのに膨大な脳内処理を要求された女神の反応は鈍かった。

「す、すいません女神様っ。もしかしてこちらは、女神様のお住まいとかでしたか?」

「いやいやいやいやっ! 何さらりと会話してるんだ!? というか君たち何処から現れた!? っていうか血! 血が出てるよ白い髪の君ぃ!?」

「ああ、そのうち止まりますから」

「ひえぇ……!」

 額から血を流しながら歪み気味の笑顔を向けてくる謎の少年に女神は絶句。顔色を青くしてしまった。

「そこの女神。あまり騒いでくれるな」

「ひえぇ!?」

「騒ぐなと言った。私は雑音が嫌いなのだ」

「説明をしておくれよぉ! 何がどうなって」

「黙れ」

「ひっ……!」

 女神の喉から、掠れ切った音が絞り出された。

「三度も言わせるなチビ神」

 黒いドレスを纏う灰色の女が、幼女神の前に立っていた。女神の目には、宛ら瞬間移動のように見えていた。

「天に送還出来ぬギリギリのラインの責め苦を味わいたくなければ口を閉ざせ」

 閉じられた眼の先にいる者が神だと理解していながら、神を神だと思っていないらしい高圧的な殺意が、恐怖に震え始めたついでに胸も揺らしている女神に突き刺さる。

「はいかわかりました以外の返事を認めない。ん?」

「ひゃっ、ひゃい……」

「よろしい」

「なんて傲慢な……」

「お前もうるさいぞ」

「い、一体何なんだ君たちぃ……?」

「質問するのはこちらだ。幼き女神よ。貴様の名は?」

「へ、ヘスティア……」

「ここに何をしに来た?」

「その……ヘファイストスって名前の友達に当てがってもらって……ボクはここで暮らしているんだ……」

「やっぱり」

「ヘファイストス。久し振りに聞く名だな」

「えっ!? 君っ! ヘファイストスを知って」

「覚えが悪いなチビ神。喉を潰されたくなければ声を落とせ」

「申し訳ございませんでしたっ……!」

「ふむ……」

 恐怖に慄き縮こまるヘスティアを、瞳を閉じたままで見下ろす灰色の女。

 まるで、何かを測るように。値踏みをするように。見極めるように。

 この場に居座っていれば誰だって居心地が悪くなるような静寂が教会内に拡がっていく。その静寂を破壊したのは、静寂を要求していた、灰色の女自身。

「ヘスティアと言ったな。貴様、団員の勧誘がどうだのと言っていたな?」

「う、うん……」

「派閥を立ち上げたが、団員が集まらずに難儀している。そんな所か?」

「そう! そうなんだよっ! 子供たちときたらボクを見るなり鼻で笑ってぁごめんなさい声大きかったですよねすいませんホントえへへ」

「本能がこの人を恐れている……!」

 手を揉み合わせながら平身低頭する女神の有様に震えるベル。これじゃあどっちが神なのかわかったものではない。

「……ならば、テストをしてやる」

「テスト?」

「お前が、この子の主神になるに相応しい神であるかのテストだ」

「はいぃ!?」

「何それ!?」

「騒ぐな阿呆共」

 呆れたように呟く灰色の女の前で、女神と少年は驚愕に目を見開いていた。

「い、いきなりどうしたの!?」

「いきなりではない。前々から考えていたことだ」

「前々からって」

「お前こそ、その気がなかったわけではないだろうに」

「そ、れは……!」

「いつまでもあんな山奥に引き篭もっていていいのか? お前の夢は、あんな場所で叶うものなのか?」

「…………」

「お前の夢は、なんだ?」

「…………」

 それには答えず、ベルは俯いてしまった。

「き、君……」

「触れるな」

「はひっ」

 俯くベルの肩に手を伸ばそうしたヘスティアに飛んで来る鋭い文言。

 ここまでで一番怒っていたような……?

 慌てて手を引っ込めたヘスティアは、灰色の女の心の動きを正しく捉えていた。

「今は悩め。しかし悩むならばここで悩め。我々の家ではなく、この都市。英雄の集まる都、オラリオで、だ」

「…………いいの?」

「いいも何もない。まずは実践。何事も経験だ。死の概念を学ぶ為に何度も死ぬ思いをしてきたろう。それと変わらない」

「それはちょっとどころかだいぶズレているような」

「殴るぞ」

「ごめんなさいお姉様っ」

「お姉様……?」

「お前の肌に合わなかったと言うのなら、こんな女神など早々に放り捨ててしまえばいい」

「ちょ!?」

「生き方の選択肢を増やせ。お前の夢が如何なるものであろうとも、お前の人生は一度きりだ。夢に夢を見るのはいいが、夢に溺れるな。私たちは、お前のそんな姿を願っていたわけではない。わかるな?」

「…………うん……」

 灰色の女が白い髪の少年を諭す。

 その光景はまるで……。

「親子……」

「何か言ったかチビ神」

「何でもないですお姉様っ! いや待ってくれ! 色々待ってくれ! わからないことだらけで混乱しているけれど一つ聞かせてくれ!」

「だから黙れと」

「うるさいとか言われたってこれだけは聞かせてもらうぞっ! 絶対にだ!」

「……何だ?」

「君たちの名前っ! ボクに、聞かせてくれないか?」

 今度の静寂は、灰色の女ではなく、幼き女神が産み落とした。

「……ん」

 とんっと、灰色の女が、白い髪の少年の肩に触れた。それを受けた少年は、灰色の女の直ぐ隣に立った。

「ベル……僕の名前は、ベル・クラネル、って言います」

「ベル……いい名前だね」

「…………はいっ……!」

 自身の名を褒められたことがよほど嬉しかったのか、白い髪の少年が有している深紅(ルベライト)の瞳は輝きを増していた。

「そ、それでこちらの人は」

「アルフィア」

 本人の代わりに紹介をしようと張り切る少年の背中に手を置いて。

「この子の、母親だ」

 薄目の下に隠れていた右の翡翠、左の灰色の瞳で、幼き女神の姿を、アルフィアは見据えた。

 

* * *

 

 ベル・クラネルと名乗った少年がうらぶれた教会に入り、既に中にいたらしい誰かと語らい、ここを根城にしているらしい女神と語らい、更には教会周辺にロキ・ファミリアの面々までもが展開している状況下。

 ロキ・ファミリアと双璧をなすファミリアが、行動を開始していた。

 彼らの名は、フレイヤ・ファミリア。

 絶対的カリスマ、女神フレイヤの元に集った『強靭な勇士(エインヘリヤル)』たちにより構成されるファミリアだ。

 ロキ・ファミリアの動きを察知したフレイヤ・ファミリアの面々は、彼らとの不毛な衝突を回避すべく、教会より離れた地点に集結していた。

 団長であるオッタル。副団長のアレン。ヘディン。ヘグニ。アルフリッグ。ドヴァリン。ベーリング。グレール。派閥の幹部級が勢揃い。

 彼らの前には、女神フレイヤの姿も。

 件の少年を捕縛するだけならば幹部たちに任せてしまってもいいだろう。

 しかし彼女は、謎の少年を非常に高く評価している。

 とある酒場でベル・クラネルと酒場の少女が繰り広げた一幕が、彼女の警戒心を。

 それ以上に、途方もないほどの興味と関心と共に、独占欲を煽られていた。

 ロキ・ファミリアの動向を見ながら件の少年を抑える。と言っても、武力行使は避けたいのが本音。まずは女神フレイヤ自ら交渉に乗り出す。それでダメならば武力制圧。それでも話が上手く運ばないようならば、フレイヤの権能で以て、少年を手中に招き入れる。

 どう転ぼうとアドリブ力の要求される展開になるし、場合によってはロキ・ファミリア。ベル・クラネル本人乃至、彼の背後にいるであろう何者かとも一悶着も二悶着も起こるかもしれない。

 故に、ファミリアの最高戦力を惜しみなく投入した。万全も万全を期した。

「それ以上前に進んでくれるな。美しい女神さんよ」

 その万全は、一人の男の介入により、万全を名乗ることを許されなくなってしまった。

 ふらりと現れたその男は、丸腰だった。

 武具の類は何一つ持たず。2M(メドル)を越えている体躯を包むのは、年季の入ったシャツとワークパンツに分厚いブーツという飾り気も何もない服装。

「いい天気だなあ今日は……しかしどうにも空気が澱んでいていけない。相変わらずこの場所はプンプン匂いやがる。血と、悪巧みの匂いだ」

 女神たちの進路を妨害するようどっかりと屋根板に座り込んだ男は、フレイヤたちに背を向けていた。

「けど……懐かしいもんだなあ……」

 彼は、オラリオを包む空を見上げながら、微笑んでいた。

「お前……は……」

 そんな男を見て、瞳を震わせる男がいた。

「生きていたのか……!」

「ん? ああ、お前か。久しいなあ……しかしお前、まだそんなところで燻っているのか。見込みアリと見ていたんだが、どうやら見当違いだったらしい。俺を失望させてくれるなよ。なあ? 糞ガキ」

「っ……!」

「オッタル」

「…………失礼致しました……」

 女神フレイヤの一言を受け引き下がるオッタル。そのオッタルを止めたフレイヤ本人も、内心の動揺を隠すことに躍起になっていた。

「……貴方たちの派閥が倒れた数年後。暗黒期が始まった。闇派閥(イヴィルス)が跋扈し、それもようやく一区切りが付いて数年が経った今、いきなり表舞台に出て来るだなんて、一体何のつもりかしら」

 靡く髪を抑えながら、女神はその男の背中に微笑み掛ける。

「聞かせてもらえる? ザルド」

「散歩だよ、散歩」

 ザルドと呼ばれたその男は女神にも、既に臨戦体制に入っている眷属たちにも背中を向けたまま、のほほんとした口調を崩さない。

「散歩をするには足元が悪いみたいだけれど?」

「ここ数年、農作業以外にまともな運動をしてなくてな。これくらいがちょうどいいのさ」

「そう。どうして私たちの前に?」

「せっかちな女神様だ。そんなにあのガキが気になるのかい?」

「ええ。とっても」

「そうかい。なら、あんたがあのガキを気に入っちまうだろうって読みは当たってたわけか」

「あら? 貴方、私の男の趣味まで把握していたの? 洞察力。もしくは戦士の勘、とかかしら?」

「まさか。あんなションベン臭いガキにあんたが熱を上げるなんて欠片も思っちゃいなかったさ」

「じゃあどうして?」

「戦士の勘でも俺の勘でもない。喧しいのを嫌うあの女の勘だ。『才禍の怪物』のな」

「……まさか……!」

「女の勘っつーか、母親の勘って言った方があの無愛想な女も喜ぶか」

「…………生きているの?」

「死んでない、ってだけかもな。あのガキの面倒を見るというハリが出来たからなのか。あの女、回復の兆しなんてまるでないくせになかなか死にやがらねえ。母は強し、ってか。強いにしても限度があるだろうバケモノが。もちっと大人しくしとけ本当に……!」

「貴方にも色々な苦労がありそうね」

「お気遣いどうも」

「……聞かせて頂戴ザルド。あの子は何? アルフィアの息子なの?」

「急くなよ。もう少し化かし合いに付き合ってくれないものかねえ」

「ダメね。早々にものにしたいの。あの子を」

「…………まあいいか。どうせ隠すようなもんでもない。さっさとご開帳して道を開けるとしよう」

「理解が早くて助かるわ」

「どの道、行くだけ無駄足になることだしな」

「どうして?」

「教会の中に、あの女がいるからだ」

 形の良いフレイヤの眉がぴくりと揺れる。直ぐ背後に控えるオッタルの顔色が変わる。

「今もママの背中に隠れているだけの臆病なちびっ子たちが束になったって、あの女を椅子から立ち上がらせることも出来ないだろうよ」

「おい。もう一度言ってみろテメェ」

 ザルド的には事実を語っただけだか、それを挑発と受け取った男。アレンが、フレイヤの前に出た。

「お前は確か……ああ。あいつを尾行してた猫か。なあお前、尾行は初めてだったのか?」

「何?」

「あのガキ、店を出た瞬間からお前に気付いていたぞ?」

「あぁ……?」

「その上で放置されていたんだ。取るに足らない相手とでも思われたんだろうなあ」

 いやいやそんなことないから! なんでわざわざ敵を作るようなこと言うかなあ!? そういう所どうかと思うよ本当にっ!

 と、この場にいたら、何処かの少年は喚き散らしそうだ。

 この後、勿論アレンからの件の少年への心象は最悪なものとなり、彼は蛇蝎の如く嫌われてしまうのだった。スッゴイカワイソ。

「てめえ……!」

「抑えなさいアレン」

「あんな未熟者に悟られるなんてなあ。都市最大派閥の幹部だかなんだか知らないが、そんな程度の腕前でもなれちまうものなのか。女神のおつかいに精を出してぴょんぴょん飛び回るだけでそんな地位になれるような派閥なんだな、美の女神の派閥ってヤツは。気楽な世界でいいねえ」

「殺すっ!」

「アレン!」

「止まりなさいっ!」

「聞けません!」

 屋根板を吹き飛ばし、アレンの姿が消え失せた。文字通りの、目にも止まらぬ速度。

 オッタルの静止はまだいいとして、敬愛する主神の言葉にまで耳を貸さない怒れる戦車は、丸腰の元冒険者の心臓目掛け、躊躇なく槍を突き立てた。

「遅い。そして軽い」

「な……に……!?」

 槍は何処にも刺さらない。

 槍は、ザルドのシャツに触れる寸前でぴたりと止まっていた。

 ザルドの左手の人差し指と中指に、穂先を挟まれて。

「これは……!」

 比較的新しい情景がアレンの脳裏を満たす。

 彼が尾行していた少年も、同じ芸当を披露していた。

「ぐっ……!」

 苛立ち任せに槍を振るおうと試みるも、槍は全く動かない。

 第一級冒険者の自分の膂力で、たったの指二本の力に敵わない?

 ふざけるな。ふざけるな!

 なんなんだ! この男は!

「やれやれ……見るにお前は脚の速さがウリらしいが、ケンカっ速さがウリの間違いだろう。しかし自慢の脚もこんな程度。冒険者なんてやめて飛脚でも始めたらどうだ? 紹介してやろうか? 古いツテがあるんだ。いい所だぞ?」

「て、てんめぇ……!」

「いい加減にしなさいアレン!」

「!」

 槍から手を放し、目の周りに特徴的な傷を持つ男の顔を殴り付けようとしたアレンの拳が、ザルドの鼻先で急停止した。

「これ以上私の顔に泥を塗るつもりなの?」

「…………申し訳……ございません……!」

 ザルドから飛び退き、フレイヤの後方に着地したアレンは、怒りと屈辱に拳を震わせながら、俯いていた。

「貴方たちも武器を納めなさい。二度は言わないわ」

 言われるまま、手にした得物を納める眷属たち。そんな光景を見てや、ザルドは溜息を隠さなかった。

「はあ……揃いも揃ってお行儀がいいんだな。大好きなママの言うことは絶対、ってか? 流石、愛され慣れてる美の女神様のケツに群がるお子様たちは従順だねえ」

「アレンの無礼は謝るわ。ごめんなさい。けれどそれはそれ。貴方ほどの男が、あまり私を失望させないで頂戴」

「失望したのはこっちだ。都市最大派閥の一角だと言うからどれだけの腕利きが揃っているのかと思えばこの程度。あんたらに次を託したのは失敗だったかな」

「いい加減になさい。それ以上侮蔑の言葉を並べるようならば、その生意気な口を二度と聞けぬようこの場で貴方を魅了する。貴方を意のままに操りあの子を手籠にする、なんて展開も素敵だと思わない?」

「悪趣味もいい所だろう。仮にだが、もしもあんたがそんな真似をしようとするなら、あんたが俺の頭を弄るより速くその首を刎ねさせてもらう。その後、そこの木偶の坊たちはまとめて処分する。どうする? そのお子様共を盾にでもしてみるか? 悲しいかな、そんなヒョロっちい肉壁共じゃああんたのことなんて守れやしないだろうよ」

「出来るの? 貴方に」

「あんたこそ。やれんのか?」

 半身だけ振り返ったザルドとフレイヤの視線が重なる。

 本気と本気を隠さない睨めっこの勝敗は、あっという間に決した。

「わかった。悪かった。俺が悪かったよ。だからそんな情熱的な目で睨んでくれるな女神様。うっかり惚れちまったらどうしてくれるんだ」

「そんなの私の知ったことではないわ」

「それにひよっこ共。そんなに警戒しなくてもお前らの女神様の首をもぎ取ったりなんかしねえよ。多分な」

「一言余計よ」

 愉快そうに笑いながらアレンの槍を上空へ放り上げるザルド。アレンは即座にそれを回収し、フレイヤの背後に戻った。

「自分でもわかっているが、俺は以前より口が悪くなっているらしい」

「悪くなっているのは意地でしょう」

「ああそうだ……そうだな。そうに違いない」

 あの女と長く過ごした所為かな。

 そう付け足して、胡座を解いて両足を伸ばしながら、ザルドは笑った。

「いいぞ、女神様。なんでも聞いてくれ。答えられることには答えるつもりだ」

「なら遠慮なく。あの子は一体何?」

「ゼウスとヘラの系譜」

「系譜?」

「そのままの意味さ。あいつの父親はゼウス・ファミリア。母親はヘラ・ファミリア。両派閥の間に生まれたのがあいつ……ベルだ」

「その両親と言うのは? もしかして、貴方とアルフィア?」

「ぐっ……くはは……だっはっはっはっは……! おいおい勘弁してくれ女神様! 冗談にしても笑えねえよそれは!」

 そう言いながら、ザルドは笑った。心の底からの大笑いを披露した。

「笑っているじゃない……」

「俺があの女と? なんて拷問だよそれは! そもそもあいつを抱ける男なんてベルしかいねえよ! あ、抱くって言ってもそういう意味じゃないからな? 親子のそれ的な健全なヤツだからな!?」

「わかっているから続きを。つまり、アルフィアもあの子の母親ではないと?」

「あいつの母親はアルフィアの双子の妹。アルフィアはあいつの伯母に当たる。父親の方は俺の派閥の下っ端だ」

「ゼウスの眷属とヘラの眷属の間に子供が……」「二つの派閥に残された、正真正銘最後の子供。それがあいつだ」

「……貴方の仲間は?」

「しぶとく生きてるヤツもいたが、去年に入って俺を残して全員逝っちまった。ヘラの方もな。もちろん、あいつの両親もとっくに」

「そう……」

 三大冒険者依頼(クエスト)

 その内の二つを制した偉大な両派閥の顛末を聞かされたフレイヤは、自分が思うよりも気が落ちてしまっていることに気が付いた。

 多くの子供たちの希望となり、多くの子供たちを救ったことへの感謝。ヘラとの個人的な因縁こそあれど、感謝と尊敬の念を、彼女は忘れたことがなかったから。

「ゼウスとヘラ。両派閥で残っているのは俺とアルフィア。ああ、形だけではあるが、ベルも一応ゼウスの眷属になるか。と言っても、あいつがゼウスの血を貰ったのは一年と少し前くらいの話だがな」

 のほほんと放たれたその言葉は、尚も苛立ちを隠さないアレンの脳内を掻き乱した。

 甚だ気に食わないが、ロキの眷属であるあの勇者は強い。認めざるを得ない。

 野郎が如何に手を抜いていたとはいえ、あの勇者の拳撃を全て捌いていたんだぞ? 

 それに、あの魔法の威力。

 上空から降り注いだ鐘の音を帯びた魔法の破壊力は凄まじいものがあった。それを相殺してみせた魔法もまたとんでもない火力を有していた。

 自分のみならずロキの眷属たちの目を奪ったガキが『神の恩恵(ファルナ)』を貰って一年?

 何の冗談だ。常軌を逸した速度で成長出来たとしても、あの光景を第一級冒険者たちに見せ付けるには時間がまるで不足しているだろう。

「わけがわからねえ……!」

「彼にはゼウスの神血(イコル)が落ちている、と。そうだろうと思っていたけれど、ゼウスは今も健在なのね」

「今頃、ヘラの追跡を躱しながら下界を見て回っているかもな」

 表情を歪めながら呟くアレンに気付きながら、フレイヤもザルドも言葉を止めない。

「当然ヘラも健在、ね……」

「ああ、因縁アリだったか、あんたとヘラは」

「どうでもいい話よ、今は」

「そうかい。今やゼウスのガキは俺とあいつだけ。それも直ぐに一人だけになる。そして直ぐに両方いなくなる。あいつはこのオラリオで他の派閥に属することになるだろうから」

「それでいいの?」

「それはあいつが決めることだ。所属派閥まで含めてな」

 ザルドに牽制の意図はない。それでもフレイヤは微かに表情を引き攣らせた。

「貴方言ったわね? 貴方とあの子両方いなくなると。あの子の方はわかる。けれど貴方は?」

「俺もそろそろ逝っちまうからな。あいつらの所へ」

「!」

「ザルド……」

「栄光の代償、だとさ。何が栄光、何が代償。本当に成し遂げなければならないことは成し遂げられていないと言うのに。アホ臭い話さ」

 フレイヤが。それ以上にオッタルが感情の発露を静かに表す前で、ザルドは笑っていた。

 来る未来。目前にまで迫った死を受け入れているかのような、穏やかな笑みだった。

「今日までしぶとく生きちまったなあと思ってるくらいだよ。人間、その気になれば大概のことは出来るもんだと改めて思い知らされたよ。俺もアルフィアも、今日を越せれば儲けものくらいの命だったのにな。気が付いたらこんなにも長生きをしちまった」

「それは…………あの少年のお陰?」

「ああそうだ。絶対にそうだ。あんな夢見がちで危なかっしいガキ、放っておけなくてな。ふざけた話さ。いつ死んでもおかしくねえのに、簡単に死ねない命になっちまうなんて」

 ザルドは、白い歯を見せて笑っていた。

「剣を取らず、手にするのは鍋だ包丁だ農具だばかり。人も怪物も殺さず、誰かを生かす為のメシを作り、野菜を作って汗を流し、訓練教官の真似事なんぞやってみたり。しかしこれが存外悪くなかった。戦い以外を知らない俺にこんな生き方が出来るだなんて思いもしなかった」

 瞼の裏の懐かしい光景を見ているのだろう。

 ザルドは目を閉じて、静かな笑声を漏らしていた。

「そんな道もあったんだと気付かせてくれたあのガキに、俺は感謝をしている。だから……あいつの障害になると分かりきっている輩共を道連れにするのもいい…………なんてな。冗談だって。そんな顔しないでくれ。あいつの前に立ち塞がる障害は多ければ多いほど望ましい。あんたの後ろのひょっこたちでも、今のあいつにならそこそこの壁になれるだろうしな」

 ザルドは笑う。楽しそうに語る。

 満たされた日々を過ごしていたのだろうと、誰が見たってそう思えるような晴れやかな笑みを浮かべ、ザルドは笑い続ける。

「肩の力を抜いて、俺なりに意地を張って生きてきたがいい加減限界らしい。あいつに看取ってもらうつもりはないし、あいつを泣かせるのも忍びない。泣き虫だからなあ、あいつは。あいつの目の届かない所で野良犬よろしく野垂れ死ぬのもいいな。どっかの誰かと違ってこの身を灰に還す、なんて拘りもないし。さてさてどうしたもんかなあ……」

「……聞かせて欲しい」

「なんなりと」

「ファミリアが散り散りになり、表舞台から消した貴方はあの子の師となった。ザルド? これが、貴方の望んでいたことなの? 残されていた時間をこう過ごすと決めていたの?」

「まさか。俺はもちろんアルフィアだって、こんな命の使い方をするつもりじゃなかった。包み隠さずに言っちまうが、次の世代の踏み台になるのもいいか、なんて思っていたんだ。結局なり損ねちまったな」

「何故だ」

「あ?」

 フレイヤの言葉を奪いザルドへ質問を投げたのは、ザルドの言う、次の世代の先頭に立つべきであろう冒険者。オッタルだった。

「何故、その道を選ばなかった」

「…………やることもなく、やれることも碌にないと、半ば腐っていた。そんな折、行きたい場所があるとアルフィアが言い出した。あの病弱な女を一人にするのもアレだしと、強引に俺も付いて行ったんだ」

 妹の残した子の姿を、一目でいいからこの目で見ておきたい。

 旅中。アルフィアは言った。

 その子が自分の派閥の人間の血を引いたと知っていたザルドは、アルフィアと行動することを迷わなかった。

 会うつもりはないのか。

 と、ザルドは問うた。

 ない。

 アルフィアは断言した。

 その決断に、ザルドは口を挟まなかった。

 だから、いざ少年の姿を目にしたアルフィアが、ふらふらと頼りのない足取りで少年の前に姿を晒してしまったことも。

 困惑する少年をおもいっきり、アルフィアが抱き締めてしまったことも。

 ザルドは何も言わず、ただただ己の目に、焼き付けていた。

「何のことはない話さ。その道を選ぶより先にあいつに出会っちまった。それだけだ」

 それは、十年前の話。

 何も出来ず、ただ朽ちていくだけだと思っていたこの身体は、気が付けば十年もあの少年に生かされてしまっていた。

「アルフィアと俺は、それぞれの家族が残したガキ、ついでにゼウスと一つ屋根の下で暮らすようになった。それから三年くらい経った頃かな。あのガキが、アルフィアに向けてとんでもないことを口にしたんだ。何だと思う?」

「……強くなりたい、とか?」

「悪くない答えだが不正解。しかしすまないな。答え合わせをするつもりはないんだ。あの景色はあいつらだけのものであるべきだから。思わせぶりなことをして悪い」

「いいのよ」

 その景色は、とても眩しく、慈しみに溢れた、愛しいものだった。

 フレイヤにはわかる。ザルドが見せている穏やかな笑顔が、それを伝えてくれるから。

 その日。アルフィアに向け、何も知らない少年はこう言った。

 僕が英雄になる。

 僕が、最後の英雄になる。

 黄金色の景色の中。何も知らない少年は、かつての覇者の前で、そう言った。

 冒険者となり鋭敏になったザルドの耳は、その言葉を聞いてしまった。

 それは、終わりの瞬間だった。

 半ば引退状態だった冒険者を。

 自分には何も出来ないなんて、甘く優しい世界の中で、静かに腐っていくだけの自分を許すことも。

 全てが終わり、また始まった。

 ただ共に生きるのではなく。英雄になるだなんてクソ生意気を口走ったあのガキを、本当に英雄にしてやろうじゃないか。

 美しかった世界が、更に色鮮やかになった。

「あのガキの馬鹿な文句を聞いた俺たちは選んだ。次の時代のガキ共にじゃない。次の時代の全てを、あいつ一人に賭けることを」

 最後のチャンスをくれようとした男神の手を跳ね除けて、泣き虫な少年と共にいることを選んだ二人は、後悔を抱えていた。

 自分たちにまだ出来ることがあるのだとすれば、踏み台になること。

 それを、自分たちは放棄した。

 後悔は募るばかり。

 しかし。

 最後の英雄。

 それは、時代が求める存在。

 下界の悲願にして、ザルドとアルフィアの心残り。三大冒険者依頼(クエスト)の最後の一つを成し遂げた者に与えられるだろう称号。

 あの世間知らずの子供は、そういう存在になると。

 ザルドとアルフィアの抱える後悔を纏めて引き受け、禊まで果たしてやるだなんて、そんな馬鹿を言い出した。

 笑いが止まらなかった。

 幾許かの申し訳なさがあった。

 しかし圧倒的に嬉しさが勝った。

 嬉しくて堪らなかった。

 ザルドもアルフィアも、後悔に耽溺することをやめた。というか出来なくなった。そんなことに心を割いている時間はないからだ。

 後進に何も残せなかったと嘆いていたかつての覇者二人は、迷うことを諦めた。

「……極端な聞き方をするわ。貴方たちは選んだと言うの? 全てを……黒竜の討伐を、あの少年一人に背負わせることを」

「ああ」

「下界の悲願を?」

「そうだ」

「子供たちの未来を?」

「この世界の全てをだ」

「不可能だとわかっているでしょう?」

「不可能だろうな、あいつじゃあ」

「だとしたら」

「あいつは不可能を不可能だと決め付けず、やり遂げるまで走り続けるだろう。涙も鼻水も血反吐も撒き散らし、泥を啜りながら」

「だからと言って」

「不可能を可能に出来るのはいつだって自分の身一つ。違うか?」

「……その期待は、あの子の重荷になると思うけれど?」

「重くていいんだよ。軽くねえことなんだから。抱えた重みを理解出来てないといざって時に潰れちまう」

「しかし」

「なんだ? あんたのガキ共然り、この都市で冒険者を名乗っている連中は、揃いも揃ってあんな田舎もんのガキの背中を見ていることしか出来ない軟弱者しかいないのか?」

 フレイヤの背後に控える眷属たちの目付きが鋭いものに変わる。

「どっかのガキの哀れな背中を指差して笑っているだけの野郎しかいないならば。田舎上がりで右も左もわからないでフラフラしてるだけのガキすら御せないような間抜けしかいないのなら。あんな、夢に生きてるようなガキに現実も突き付けられないような弱者しかいないのなら、どの道下界に未来はない。本当に滅んじまうだろうな。実際、その時は遠くない。違うかい、女神様?」

「…………」

 フレイヤは答えない。肯定の意を内包している沈黙なのだと理解した眷属たちの目がフレイヤに集中。それを理解していながら、フレイヤはやはり何も言わない。

「それでもあんたら神々が神の力(アルカナム)を行使せず過度な介入をしないのは、ガキ共ならって期待を捨てきれない……いや。信じているからだろ?」

「…………私は、私の子供たちを疑ったことなどないし、下界の子供たちが秘めている未知の可能性に期待をしているし……信じているの」

「……傲慢な面が目立つけど、いい女神だよ、あんたは」

「上から目線でものを言わないで頂戴」

「はは……悪い悪い。あんたの子供然り、まだまだケツの青いガキばかりだが、この都市には面白いヤツがたくさんいる。そんな面白いヤツらが、あんなにも面白いガキを放っておくわけがない。面白いヤツってのはいつだって、新しい面白さに飢えている。だろ?」

 ザルドは期待している。

 あのガキは、劇薬であり、潤滑油であり、薪になれると。

 怯え、震える誰かに活力を注ぐこともあるだろう。

 立ち上がれなくなってしまった誰かの足を再び動かす力になることもあるだろう。

 燻っていた誰かの夢や願いに火を付けることもあるだろう。

 彼に感化された誰かに彼もまた感化されることがあるだろう。

 そうして一人。また一人と、終末の時計そのものをぶっ壊してやろうと息巻く馬鹿野郎たちが、彼の横に並び立つ。

 英雄になるなんて馬鹿を口にするヤツを、同じ馬鹿なら放っておくわけがない。

 況してや、その真ん中にいるだろう馬鹿野郎がとびきりの大馬鹿ならば尚更だ。

 まだあの馬鹿が幼い頃。寝物語にアルフィアが読み聞かせてやった物語があった。確か、とある道化が喜劇を謳った物語、だったか。

 その物語の一説に、こんなような言葉があったか。

 一人では何も出来ない。二人なら出来ることがある。三人ならもっと。みんなとなら、それこそなんでも。

 英雄は、一人じゃない。

 一人では、英雄になれない。

 馬鹿は来る。馬鹿だから。

 馬鹿は、馬鹿をやるヤツが好きだから。

 お人好しな馬鹿も聞き分けだけはいい馬鹿も返事だけはいい馬鹿も賢しいぶった馬鹿も己を馬鹿だと認められない馬鹿もあんな馬鹿もこんな馬鹿もどんな馬鹿だって。

 未来を。希望を。正義を。強さを。理想を。憧れを。夢を。誓いを。約束を。平和を。闘争を。野望を。信念を。大切な誰かを守ることを。

 馬鹿みたいに、求めているはずだから。

「時代は進む。あのガキが進める。その行く末を見ていることは出来ないだろうが、今なら満足して……安心して逝けそうだ」

「…………信頼しているのね」

「応よ。何せあいつは、あのしょうもねージジイと、あの気が狂ったようなババアの孫で。あのバカな男と、あのタフな女の息子で」

 微笑むフレイヤの前で。

「俺とアルフィアのガキなんだ。舐めんなよ?」

 ベル・クラネルの二人の父親。その一人である覇者は誇らしそうに、豪快に笑った。

「……ザルド」

「あん?」

「頼みがある」

 そんな無邪気な笑みは、一人の武人の言葉を受けた瞬間、霧散してしまった。

 

* * *

 

「合格だ、幼き女神よ」

「づ、づがれだぁぁぁ……」

「やっと終わった……」

 合格と言う言葉を頂戴したことよりも、長々とした問答がようやく一段落した喜びと安堵が圧倒的に勝っていたヘスティアとベルは、揃って大きな息を吐いた。

 やれ、趣味はどうだの貯金はどうだの交友関係がどうだのオラリオ内外の政治情勢の知識はどうだのなんだのかんだのと。

 それ聞く意味ある? と問いたくなるようなものまで含め、百以上の質問の嵐がようやく鎮まった。

「喜べ。貴様に、この子の主神になる許可をくれてやろう」

「は、はひがろーごふぁいまふ……」

「言えてませんよ女神様……っていうか、当事者の僕を差し置いて話が進みすぎじゃない?」

「そ、そうだよお姉様っ。そりゃあボクとしては団員が来てくれることはこれ以上ない喜びだけれど、無理強いはしたくないよ……」

 自然とお姉様呼ばわりをしている女神の疲れ切った横顔に戦慄を浮かべながらベルが頷く。

「それに……強いだろう、この子。それならボクの所じゃなくて、ロキやフレイヤの所の方が彼の為になるんじゃないかい?」

「強さだけを求めるならばな。しかしこの子は、ファミリアに多くの物を求めている。そうだな?」

「それは……」

「言わずともいい。お前自身が人を集め、ファミリアを大きくしろ。そうすれば、お前の願いの一つや二つは叶うだろう」

「…………」

「既に出来上がっているものではなく、まだこの世界に存在していない新しいものを。お前自身が望むお前の居場所を、お前自身が作り上げてみせろ」

「……ベル君、と言ったね? 君は……どうしたい?」

 俯き、アルフィアの言葉に耳を傾けていたベルの耳に滑り込んで来る女神の言葉。

 わかっている。

 何もアルフィアも、自分主導で全てを決めるつもりなど毛頭ない。

 気弱で奥手であるベルの願いや憧れを知り尽くているからこそ言葉を強くし、行動を促しているだけ。

 無理矢理に眷属を加入させられそうになっているヘスティアも、少年の心の揺らぎに。少年の母親の穏やかな祈りにも、ちゃんと気が付けていた。

 そういった側面が、合格とアルフィアに言わせたポイントの一つであったりする。

「……許されるなら……ファミリアを一から築き上げていきたいです。ヘスティア様と一緒に仲間を……家族を集めて……一緒にいろんなことをしてみたいって……思っています……」

「……口下手だね、君は」

「す、すいません……」

「もう一つ聞かせてくれ。ベル君。君は、ボクのファミリアで何を叶えたい?」

 女神と少年が向かい合う。

「君の夢は、なんだい?」

「最後の英雄になる」

 自分より低い所から見上げてくる女神の眼差しに真っ直ぐに応えながら、少年は言った。

「それが僕の夢で、誓いで、約束なんです」

「…………わかった!」

「え?」

「ベル君! 君は今日からボクの眷属! ボクのファミリア初の団員にして団ちょぅぐぅ!?」

「本当に学ばないな貴様は。もしかしてわざとやっているのか?」

「ず、ずびばぜんおでぇざま……!」

「だ、ダメだよ女神様にそんなことしたらっ!」

 お姉様に首を掴まれるロリ巨乳の図。に割って入ろうとベルが慌てふためく。

「まあいい。話は纏まった。さっさと神血(イコル)を背中に落とせ。愚図愚図するようなら手首を切り落としドバドバいくぞ、ドバドバ」

「は、はいーっ……!」

「もうちょっとこう余韻というか……船出らしさというかそういうのがさあ……」

「お前もさっさと背中を出せ」

「わ、わかったよお……」

 促されるままシャツを脱いで背中を晒すベル。着衣の上からではわからない筋骨逞しいながらも引き締まった背中にはわわはわわとしながらヘスティアが手を伸ばす。

「ん? ベル君? 改宗(コンバージョン)可能な状態になっているけれど、君には既に恩恵が……ってこれは……ゼ! ゼウっ」

「斬るぞ?」

「なんでもございませーんっ!」

 とかなんとかバダバタしながらも儀式は完了。もう少しこう、どらまてぃっくな感じになるものじゃないかなあ……と、ベルが表情を渋くする中、早速アルフィアから指示が飛ぶ。

「ベル。ギルド本部へ行け」

「ギルドに?」

「冒険者の登録を済ませてこい。それと、ヘファイストス・ファミリアにもだ」

「むむっ? ヘファイストスの所?」

「本当はゴブニュでと思っていたのだが、貴様とあの女神は知己なのだろう? ならば縁を作っておいて損はない。ベル。お前に託していた物全てを神ヘファイストスに渡せ。門前払いを食らうようならばこの女神の名前を出せ。それでも拒まれるなら私の名前を出してもいい。とにかく、それでお前のおつかいは済む。前にも言ったが、中身は見るなよ?」

「う、うん……」

「話は済んだ。さっさと行け。たらたらしているようならば今直ぐデコピンを」

「わ、わかりましたーっ!」

 デコピン一つでそこまで? と、ヘスティアが首を傾げる前で、不様なくらいに慌て倒したベルが背嚢を背負い直し勢いよく教会を飛び出す。

「どうした?」

 寸前で、足を止めた。

「…………」

 ベルは何も言わず、急ぎ足で、アルフィアの眼前にまで戻って来た。

 アルフィアを見つめる少年の紅い眼差しはどうしてか、不安の色を露わにしていた。

「っ……!」

「はわっ!?」

「……何をしている?」

 ヘスティアが目を丸くする前。

 ベルが、アルフィアの背に腕を回していた。

「なんか……こうしなきゃいけない気がして」

「馬鹿者。少し出掛けるだけだろう。何を甘ったれている」

「……予感がするんだ……」

「予感?」

「もう……会えなくなるような……そんな予感」

「何を馬鹿な……」

「ん……!」

 呆れたような息を吐くアルフィア。それを受けたベルは、より強く、アルフィアを抱き締めた。

「…………案ずるな。私たちはいつだって、お前のそばにいる」

 重力に流されていただけのアルフィアの両腕は、ベルに応えるよう、彼を抱き締め返していた。

「だから…………行っておいで。ベル」

 右手は白い髪に。左手はベルの背中に。ポンポンと規則正しいリズムで優しく叩いては撫でてやる様は、赤子をあやす母親のよう。

 きっと、この少年が幼い頃から、彼女にこうしてもらっていたのだろうな。

 いきなり抱き合い始めた二人に驚き、しかしその光景に目を細め、女神ヘスティアは微笑んでいた。

「もういいな?」

「……うん……」

「ならば行け。その歳になっておつかい一つ満足に出来ないなんて間抜けを晒してくれるなよ」

「うん……! いってきます!」

「ああ」

「い、いってらっしゃーい!」

 慌ただしく飛び出して行くベルの背中を送り出す。それに伴い、周囲にいた複数の気配が遠退いていくのがアルフィアにはわかった。

「散ったか」

「ち、ちった?」

「気にするな。では、これからの話をっ……ごふっ! っぐ、が、はっ……!」

「お、お姉様!?」

 血を吐いた。

 蹲って、何度も。

 女神ヘスティアの目の前で、いきなり。

 慌てて駆け寄り触れた女の肩は、ガタガタと震えていた。

「しまったな……あの子の愛したこの場所を汚してしまうとは……」

「君……もしかしてずっと我慢を……!?」

「あの子がいきなり抱き締めに来た時は……肝が冷えた……」

「な、なんで……!?」

「何のことはない……ただの意地だ」

「意地……?」

「あの子の前で強くありたい。それだけだ」

「…………肩を貸すよ……」

 咳と呼吸が少し落ち着いたのを見てや、ヘスティアがアルフィアの身体を支え、長椅子に座らせた。

「すまないが、掃除をしてくれないか? あの子に見せたくない」

「わかったから少し休んでいてくれっ」

 アルフィアの意地の痕跡を綺麗に拭い去り、アルフィアに水を持って来たり。だだっと駆け出したヘスティアは、日頃の怠惰っぷりは何処へやらな仕事を見せた。

「少しは落ち着いたかい?」

「ああ。感謝する」

「いいんだ」

「……話が途中だったな……」

「無理に立とうとしなくていいから、そのまま聞かせてくれ」

「……神ヘスティア。お前にも一つ、おつかいをしてもらう」

「おつかい?」

「ディアンケヒト・ファミリアのアミッドとか言う娘の元へ行ってくれ」

「ディアンのとこのアミッドって……」

「詮索は今は止せ。とにかく頼む。受け取った品を私に届ける方法はこちらで考えておく」

「そんなのここで手渡せば」

「いいから聞け。引き受けてくれるのならば、このおつかいで余った金は全てお前に」

「お任せください何処までも付いて行きますお姉様っ!」

「五月蝿いと言っている。あとそのお姉様と呼ぶのをやめろ。それを終えたら、後のことをお前に任せる」

「任せる?」

「あの子が戻る前に、私は姿を隠す」

 瞳を閉じたままボロボロになっている天井を仰ぎながら、アルフィアは囁いた。

「…………いいのかい?」

 どうして? そう問いたかった。

 けれどヘスティアは、多くを尋ねなかった。

 彼女と彼の事情などまるでわからない。彼女の身体のことなどもっとわからない。神だからとていきなり訳知りになれる訳もない。

 さっき見せたあの光景。

 親子だと言う二人が抱き合っていた、素敵な光景。

 二人が互いを思い合っていることが一目でわかる、愛に溢れた光景だった。

 あの光景から抜け出すことがどれだけ辛く寂しいかなどと、当事者じゃなくともわかる。

 アルフィアはもう、覚悟を決めている。

「いいんだ」

「……あの子には、君が必要だと思うよ?」

「そんなことはない。あの子の道に私はもう……いや。最初から不要だったのだ」

「最初から?」

「そうさ。糞爺と二人で生きていたあの子の前に私が現れたことで、あの子の人生は歪んでしまったのだから」

「……最後の英雄になる。あの子はそう言っていたね」

「ああ。それが、私の罪だ」

「罪?」

「あの子が戦うことを……英雄になることを選んだのは……私の為なんだよ」

 長椅子に深く腰掛けたアルフィアの唇が、微かに歪んだ。

「本当は……普通の営みを過ごさせてやりたかった。ずっとそうしていたようにあの糞爺と田舎でのんびりと過ごさせてやるのもよかった。もう少し大きな村、都市に越して、学校なんてものに通わせてやりたいと思ってもいた。同年代の友人を得て、益体のない話に花を咲かせる日々を過ごさせてあげたかった。あの子は人見知りをするから打ち解けるのに難儀するだろうけれど、気の合う友をたくさん作れたと思う」

「……そうか……」

「そういう可能性を……未来を。あの子が武器など持つ必要のない時代を……静かで穏やかな世界を……作ってあげたかった……」

 後悔。

 アルフィアが抱えた幾つもの後悔。その一番最後に加わったとっておきの後悔を吐露しながら、アルフィアは俯いた。

「あの子のお陰でこんなにも長く生きられた。あの子の成長、その全てに寄り添うことが出来た。嬉しかった。楽しかった。けれどもう、ここまでだ」

 口の端が高くなっている。瞼の裏に浮かぶ思い出の数々はどれも温かいものなのだと、アルフィアが浮かべる静かな微笑みが教えてくれる。

「あの子は英雄になる。最後の英雄になる。大言壮語も甚だしかった夢を妄言だと言わせないような身体と心の強さを得た」

「…………」

「あの子ならもう、泣かないで歩いていける」

「…………そうか……」

 空になった硝子のコップをアルフィアの手から預かりながら、彼女の隣にヘスティアは腰掛けた。

「君の身体のことも、君たち親子の事情もわからない。けれど言わせてもらうよ」

「ああ」

「甘えるな」

 アルフィアの口元から、笑みが消えた。

「ボクは、何かから逃げることを悪いことだなんて思わない。そういう選択が必要な瞬間なんていくらでもあるだろう。けれど、今の君が逃げたらダメだ。君があの子にこの生き方をさせてしまったと言うのなら、君にはあの子を見守る責任がある。大体、今のあの子の夢が自分の罪だどうだと言っていたけれど、ボクに言わせればそんなの罪でも何でもない。それを罪だと言うのは、君の為に英雄なりたいと願ったあの子の心を踏み躙っていることと変わらないじゃないか」

 アルフィアは何も答えない。

「あの子が胸に抱えているものを罪だなんて言わないであげてくれ。誰かの夢があの子の夢になった。誰かの夢が誰かへと続き、巡った。それだけじゃないか。素晴らしいことじゃないか」

 物言わぬアルフィアへと少し近付く間も、ヘスティアは閉じられたままの瞼から視線を逸らさない。

「あの子が夢を叶え、最後の英雄になった時。その姿を最初に見せたいのは誰か。一番に報告したいのは誰か。一番に喜んで欲しいのは誰か。わざわざ言われなくともわかっているんだろう?」

「その報告を、私ではもう」

「なんだい? 君の言う意地とやらは、そんな程度の軽いものなのかい?」

「何?」

 アルフィアが薄目を開いた。左右違う色の眼が幼き女神を睨む。しかしヘスティアは、微塵も臆さなかった。

「睨んだってダメだ。今の君なんてこれっぽっちも怖くなんかないやい! なーにが自分はもう不要だよ! ふざけたこと言っちゃってさー! それだったらボクたち神はなんなんだ! 立つ瀬がないじゃないか!」

 変なスイッチが入ったらしく、ぷんすかぷんぷん怒ってみせるロリ女神。

「ボクたち神々が君たちに寄り添い責任を負わなきゃいけないように、母親である君には君だけの子供のこれからを見守る責任がある! 自分の意地に拘る前に、君の為に今の生き方を選んだあの子の気持ちを汲んでやれ! こんな人生を歩ませてしまったなんて嘆くくらいならこれから先のことをあの子と一緒に考えてやれ! それが母親というものだろう!? その当たり前から見て見ぬ振りをしておきながら何が意地だ! それに、君はまだ生きたいと願っているじゃないか! さっきのおつかい! ディアンの所のアミッドって名前なら下界に来て日の浅いボクだって知っている! 君のおつかいの中身は君の身体の為のものなんだろう!? だったら意地だなんて格好の良い言葉に逃げないで、意地汚く足掻くんだ! とにかくっ! 母親は不要だなんて、君自身の心も、あの子の心も傷付けてしまうような言葉、二度と口にするなーっ!」

 アルフィアの内側で発生した揺らぎを見逃さなかったヘスティアが声を張る。五月蝿いと嗜めることもアルフィアはしない。

「ごめん、熱くなってしまった…………重ねてごめんよ。これはね、ボクのわがままでもあるんだ」

「わがまま?」

「ボクは、君たち親子を好きになった。これからもっと好きになる。絶対大好きになる。わかるんだ。だから一緒にいたいんだ」

「勝手なことを……」

「そうさ、勝手さ。いつでもそばにいる、なんて優しいことを言いながら姿を消そうしている君には負けるけどね。でもわかるよ。そばにいると言った君の言葉は嘘じゃなかった。嘘だったらボクには直ぐわかるもの」

「神だからか?」

「女だからさ」

「…………」

「女の嘘には敏感。ボクたち女って生き物はそうだろう?」

 怒りを隠していなかったヘスティアから怒りは既に消え、残るのは穏やかな笑み一つ。

「あの子にも君にも。君たち親子にはより良い未来が待っている。絶対にだ。神のお告げ、ってヤツさ。信じてくれていいぜ? 信じられないならそれでもいい。だったら、ボクっていうダメな親に騙されてみてくれよ。痛快に騙してみせるからさっ」

 瞼を閉じたアルフィアの前に、ヘスティアの満面の笑みが咲き渡る。

「…………生意気を言う……」

「生意気はそっちだろー? 下界に来たばかりとは言え、こっちはン億年も神様やってるんだぜ?」

「……まさか、初対面の女神に説教をされるとはな」

「ボクだって初対面の子供に説教をしたのなんて初めてだよ」

「…………ヘスティア」

「何だい?」

「私の答えは変わらない」

「なぬーっ!? ボクにしては神様らしいことをしたなーって」

「騒ぐな聞け。私は…………全てをあの子に賭けた。次の時代を。下界の未来を。そう長くは保たない身体だからと、とにかくありったけをあの子に叩き込んだ」

「うん」

「しかし、私はまだ生きている。あの子のお陰で、こんなにも長く生きることが出来てしまった」

「こんなにも長くって……」

「十年前には滅していておかしくない身だからな。充分過ぎるほどに長生きをしたさ」

 長椅子の背もたれに華奢な身体を任せながら、アルフィアは目を閉じる。

 だから、もう終わってもいいだろう?

 アルフィアは問う。言葉なく、ただ問う。

 ヘスティアにではない。

 ここにはいない誰かに。

 この場所を愛した、誰かに。

「…………」

「大丈夫かい?」

 生きることの尊さを忘れず。決して下を向かず。感謝を忘れず。『今』を、本人なりの全力で、笑って生きていたあの子ならば。

「……手厳しいな……お前は……」

 返って来るはずのない答えは、この場所を愛した少女を誰よりも知っていて、その少女を誰よりも愛していた女の脳内に響き渡っていた。

「お前? ボクのことかい?」

「違う。お前には教えん」

「何でー!?」

「騒ぐな。ここまで生きてしまい、お前という生意気で喧しい神に出会ってしまった。それもまた、私の果たすべきなのかもしれないな」

 縦に伸びたステンドグラスを眺めながら。

「……未来の為に。黒竜を討てる力を育てる為に。この都市で、遠くからあの子を見守りながら、出来ることを探すよ」

 アルフィアは、穏やかに微笑んだ。

「……そうか……」

「……頼みがある」

「うん」

「あの子が……仲間を。友を。家族を作れるよう、導いてやってほしい」

「ああ」

「世間知らずな子だ。何かとお前には迷惑を掛けてしまうだろう」

「子供は手が掛けるくらいの方が可愛いって、ボクよりも君の方が知ってるだろ?」

「……ヘスティア」

 ドヤるヘスティアの文言には答えず、アルフィアは席を立った。

「ベルを……私たちの子を……よろしく頼む」

 思春期の少年のような中途半端なものではなく。腰が折れてしまうのではないかと思ってしまうくらい深々と。

 アルフィアは、頭を下げた。

「任せてくれっ!」

 それを受けたヘスティアはサムアップを披露。頭を下げている為にその様は見えていないが、想像の容易い女神のドヤ顔に、アルフィアは一笑を落とした。

「……先に言っておくぞ、ヘスティア」

「う、んっ!?」

 アルフィアの想像通りのドヤ顔が、苦悶の表情に切り替わった。

「あの子にみだりに触れるな」

 頭を上げたアルフィアが、ヘスティアの頭を左手で掴んだから。

「あの子を誑かすな。その胸を見せるな。もっと露出の抑えた服を着ろ。あの子に交際や縁談の兆しが少しでも見えたならば直ぐに報せに来るように」

「か、過保護ぉ……!」

「黙れ。諸々はこれからその頭に叩き込むとして、今はこれだけを覚えておけ。貴様があの子の教育に悪影響を及ぼすと判断したら即時貴様を送還させる。いいな?」

「わっ! わかりました! お義母さまっ!」

「なんだそれは」

「お、お姉様はダメだって言うから……!」

「馬鹿め。お義母さまと呼ぶのはもっと認めない。認めるわけがないだろう」

 女神の頭を鷲掴みにするという不敬of不敬を働きながら。

「私を母と呼んでいいのは、ベルだけだ」

 ベル・クラネルの二人の母親。その一人である覇者は誇らしそうに、嬉しそうに微笑んだ。

 

* * *

 

「うん、似合ってるじゃないか」

「ありがとうございますっ」

「デザインも素敵だし、君の白い髪との親和性も高くてグッドだ!」

「ですよね! 僕も一目惚れしちゃって……!」

 中央広場(セントラルパーク)に、ヘスティアとベルの緩んだ声はよく響く。

 着替えは勿論、戦闘衣(バトルクロス)などオラリオに持ち込んでなどいなかったベルだが、現在彼は、白いライトアーマーに身を包んでいる。

 ヴェルフ・クロッゾ。

 恐らく製作者の名前であろうサインの刻まれた装備に一目惚れをしたベルは、全く悩まずに即購入。上から下まで同シリーズで装備を固めた。

 これらは、アルフィアから託されたおつかいの帰りにバベル内を散策している最中に出会った代物だ。

「これを作った子、面白い子よ。貴方さえ良かったらだけど、この装備を作った子を紹介しましょうか? 貴方たちはきっと、いい関係になれると思うのよね」

 おつかいで出向いた先で知り合った女神。ヘファイストスは、ベルにそう言ってくれた。

 その後話を詰めた結果、今日より数日後、顔を合わせることになった。

 正直、圧倒的に緊張が勝っているが、これもまたとない機会だ。

 兎にも角にも。

 まずは、今日を乗り越えてからだ。

「さてと。忘れ物はないかい?」

「大丈夫です! 準備万端です!」

「よしっ。いよいよ初めてのダンジョンになるわけだが、具体的な目標はあるのかい?」

「十八階層に行ってみたいなって!」

「い、いきなりかい!?」

「リヴィラってところを探検してみたくて! それと、出来ればゴライアスって名前の階層主とも戦ってみたいなーって。グレートフォールっておっきな滝も見てみたいし、アンフィス・バエナって階層主とも戦いたいです!」

「観光気分かっ!? 流石に無謀じゃないのかい!?」

「あの二人以上に強いってことはありえないので、なんとかなるかなって気がします」

「それ言われたらあーうんそだねーと言わざるを得ないけどっ……!」

 複雑な表情のヘスティアがツインテールを揺らす。

 ちなみに彼女の服装は、何処か野暮ったくも見える厚手のパーカー。それでも彼女の胸元に実っている果実は隠しきれたものではなく輪郭がくっきりと浮かんでいるが、深き渓谷は拝めなくなってしまっている。

 なんで……どうして! 胸を隠してしまわれているのですか!?

 と、ヘスティアの前でニコニコしているベルは思ったのだが、もっと露出の多い服を着てください女神様。などと生真面目なベルに言えるわけもなく、少年は一人静かに涙を飲んだ。

「目標が大きいのはいいことだけれど、無茶はいけないぜ? 安全第一だ。いいね?」

「はい!」

 背筋を伸ばしたベルが大きな声で答える。

 ヘスティアとベル・クラネル。そしてアルフィア。

 彼女たちが出会い、五日が過ぎた昼下がり。

 ヘスティア・ファミリア最初の活動。彼女の派閥唯一の団員であるベル・クラネルが、初めてダンジョンに足を踏み入れる日がやって来た。

「……結局やって来ていないみたいだね、お姉様は……」

「もうお姉様呼びが当たり前になっちゃってるんですね……」

 乾いた笑いを浮かべる少年を見送りに来たのは、主神であるヘスティア一人。

「いいんです、ヘスティア様。二人は今も生きてこの都市にいる。それはわかっていますから」

 ベルは笑った。

「……そっか……」

 その笑顔が無理矢理貼り付けられたものではないと理解したヘスティアも、穏やかに微笑んだ。

「ということは、君のお義父さん……ザルド君も、今頃?」

「ええ」

 そう言ってベルは、太陽輝く南の空を仰ぎ見た。

「何処かで、冗談みたいな無茶をやってますよ」

 

* * *

 

 同時刻。南の空の下。

「あいつのレベルは2。『神の恩恵(ファルナ)』を刻まれて一年ちょいなら随分と早い方ではあるか。しかし、あいつの戦力はランクで言ったら間違いなく5以上はある。何故だかわかるか?」

 その質問に答える者はいない。

「至極単純な話だ。今のあいつの力のほとんどは、ゼウスに恩恵を与えられる以前に身に付いたものだからだ。毎日毎日俺とアルフィアとそこらのモンスター共に殺されそうになりながら鍛えに鍛え抜いて得た、神の存在に依らないあいつだけの力だ。その点あいつの在り方は『神の恩恵(ファルナ)』なんてもんに甘えている冒険者というより、神の力を借りずに世界そのものとがっぷり四つで争っていた、古代の英雄の在り方に近いのかもな。流石に魔法とスキルは恩恵を得てから会得したものになるが」

 明かされたタネに誰もリアクションを返さなさい。

「それに、ステイタスなんて小賢しい数字は、あいつに天井を設けることになる。もしもあいつが幼い頃に恩恵を受けていたとしたら今ほどの力は得ていなかったろうよ。何故だがわかるか? 答えてみろ、猪」

 ザルドは、オッタルに質問を投げた。

「…………い、ぎょうの……達成……?」

 息も絶え絶えな声が、ザルドの足下から聞こえて来た。

「そうだ。ちょうど今、お前が直面している問題と同じだ、糞ガキ」

 オッタルの昇華を阻む物を正しく見通して、ザルドは笑う。

 オッタルの頭を、右足で踏み付けながら。

「手放しで古代を礼賛するつもりはない。神時代に産み落とされた冒険者という機構も素晴らしいものだと思う。この機構のお陰でそこらに転がる木っ葉のようなヤツらが最低限自分の身くらいは守れる時代になった。しかし、今の冒険者の在り方では時間がかかり過ぎるのも本当だ。天井があるからだ」

 下界の天井たる空を仰ぎながら、ザルドは語る。

「確かにランクアップをすれば一気に力は増す。しかし、ランクアップを果たせなければそれはただの枷となり、成長は極端に鈍る。早期にあのガキに恩恵を与えていればそうなっていたろうよ。何せあいつに訓練を付けていたのは、俺とアルフィアだからな。俺らを潰すなんてあんな弱虫に出来るわけがない。死なない為に強くなるしかなかったからただ強くなった。そんな程度のことが偉業としてカウントされるかは怪しいだろう? 面倒な機構を作ってくれやがって」

「作ったのは私ではないのだから、私を見ながら言うのをやめてくれるかしら?」

 ザルドの文言に反応した神がいた。フレイヤである。彼女は、今し方この場へと馳せ参じたばかりである。

「ま、竜の谷の直ぐそばに裸一貫で放り込んで竜種を潰させたりとあの手この手を尽くしたからな。早期に恩恵を与えていたとしてもそこそこのランクにはなっていたかもしれん」

「無茶をして……」

「そうだ。無茶だ。けれどその無茶も無理も、あいつは飛び越えてきた。ボロボロになり、何度も死に掛けて、その度に泣き喚いて俺たちへの恨み言を叫び、ションベン撒き散らしながら、それでもあいつは俺たちの課した無理難題の全てを跳ね返し飛び上がって来た。才能がないだなんて、産まれたその日から望まずとも抱えちまったくだらねえ不利の全てを精算して余りあるくらいにな」

 才能。

 持たざる負け犬にこそよく似合う、無機質で無慈悲で、残酷な言葉。

 そんなもの、今のベルには何の意味も価値もないと、ザルドはやはり笑う。

「俺とアルフィアと言う理不尽に踏み付けられ、死に物狂いで泥の中を泳ぎ続け、敗北の泥も痛みも屈辱も涙も己の血も全て飲み込んで吐き出して、何度もそれを繰り返し、それでもって足掻き続けた。実際大したモンだよ、あのガキは」

「貴方にそこまで言わせるとはね……」

「身内の身贔屓って言われたらそれまでだけどな。少なくとも、あんたの子供たちよりは見所があるだろ。何せ、この有様じゃなあ」

「…………」

 フレイヤは何も言わず、周囲を眺めた。

 オッタル。アレン。ヘディン。ヘグニ。アルフリッグ。ドヴァリン。ベーリング。グレール。

 彼女の眷属の中でも指折りの猛者たちが、血を吐いて広大な原野に倒れ伏していた。

 中でも、今もザルドに頭を踏み付けられているオッタルの傷は酷いものであった。

「治療してやらんのか? 小娘共」

 『満たす煤者達(アンドフリームニル)』と呼ばれる者たちは、震えていた。

 あのオッタルたちが、ザルドに傷一つ付けられず、一方的に叩きのめされている。

 全盛期をとうに過ぎているはずの元冒険者に、文字通りの子供扱いをされている。

 信じられない光景だった。

「まさかこうも惰弱な者しかいないとは……このガキの誘いに乗ったのは早計だったか」

「ぐっ、が、ぁ……!」

 ザルドが体重を掛ける。オッタルの頭蓋と喉から嫌な音が絞り出される。

「お前に残された時間。あの少年だけでなく、俺にも使ってくれないか?」

 五日前。教会近くの屋根上で。

「甚だ不本意だ。お前と言う男にこんな提案をしなければならないほど惰弱な己が恨めしくて仕方がない。その泥も、恥も屈辱も全てを飲み干し、血肉に変えてみせる」

 二つの拳を握り込み、今だに届かぬ高みで生きている男に向け。

「俺は、強くならねばならない。頼む」

 オッタルは、ザルドに頭を下げた。

 見れば、オッタルの背後にいた眷属の幾人かも、ザルドへ向けて頭を下げていた。

「…………はあ……お前たちの本拠(ホーム)へ案内しろ」

 大きな溜息を吐き出しながら、ザルドは重い腰を持ち上げた。

 オッタルの誘いに乗るに際して、ザルドは三つの条件を出した。

 一つ。ザルドを戦いの野(フォールクヴァング)に住まわせること。

 二つ。ザルドが死ぬまでベル・クラネルに手を出さないこと。

 三つ。ザルドがここにいることを完全部外秘とすること。

 フレイヤは悩んだ。一つ目と三つ目はいいとして、二つ目は受け入れ難いものがあったから。

 しかしフレイヤは飲み込んだ。ザルドへ頭を下げてまで強くなりたいと願った子供たちの意思を汲んだのだ。

 それから五日。日中の稼働時間が短いのは多めに見てくれと言いながら、ザルドは毎日オッタルたちの相手をしている。武具は全て手放したと言うザルドは、そこらの団員から武器種も選ばす適当に武器を借りて、その都度オッタルたちを叩きのめした。

 今日も今日とて、当然のように鎧など身に付けないザルドに、フレイヤの子供たちは蹂躙されていた。

「あんたも大変だな女神様。俺を殺さないとさっさとベルを手中にできないのに、こいつらがこの有様じゃあな。しかもあいつは乳のデカい女神と契約してるし。これじゃあ一年は改宗(コンバージョン)出来ないと。踏んだり蹴ったりってこういうことを言うのかねえ」

「わかっているから苛立たせるようなことを言わないで頂戴」

「安心しなって。どうせ俺は一年も保たない。それに、契約みたいな真似事しておいて悪いが、こいつらがこんな調子なら俺は出て行かせてもらうからな」

「どうして?」

「退屈だからだ。あんたも嫌いだろう、退屈なんて。それとも何か? 退屈凌ぎにあんたのことを喰わせてくれるってか?」

「!」

 今もザルドの足に痛ぶられているオッタルに加え、倒れ伏しているアレンたち全員の目の色が変わった。

「貴方ねえ……」

「こんな様子じゃ今日も何の成果もなさそうだし、今からでもベッドに」

「おおおおおおおっ!」

 ザルドの足下から、雄々しい声が上がる。

 その声に突き動かされたかのよう。揃って泥を舐めていた眷属たちの身体が震え始めた。

「フレイヤ様!」

 灰色の長い髪を揺らす侍従の少女が慌ててフレイヤを抱えて退避。

「お? ようやく起きる気になったのか? てめぇらが望んだことなのにいつまでも待たせるんじゃねえよ。だが……」

「がっ!?」

「まだ足りん」

 気合いの雄叫びを上げながら起きあがろうとするオッタルの顔の半分が、土に埋まった。

「お前らが俺に見せるのは威勢だけか? そこらのガキでも出来んだろうがそんなの」

「っぐぁ……!」

 オッタルが呻く上を目掛け、激しい怒りを纏って眷属たちが飛び掛かっていく。

「私を抱かせるのは考えものだけど、どれほどの感謝をしても感謝しきれたものではないわね」

 ヘルンと言う名の侍従に抱かれ高所へと退避したフレイヤが、早速大地に叩き伏せられていく眷属たちの姿に唇を噛み、即座に舌舐めずりを一つ。

「あの子たちは確実に強くなる。特にオッタル。もしもあの子がザルドを討てたとしたら、あの子は更なる高みへ届く。討てなかったとしても、心身共に今までにないほどの成長を遂げる。ベルのことは是が非でも私のものにしたいけれど、オッタルたちの為にもここでザルドに不義理を働くわけにはいかない」

 オッタルたちの成長を確信しているフレイヤの口の端が高くなる。

「本当……呆れ返るくらい見事な戦士ね、ザルド。貴方だからこそオッタルや、あの子もここまで来れたのでしょうね……」

 フレイヤの見つめる先で、どうにか立ち上がったオッタルを再び地面に叩き付けたザルドを見やりながら。

「ありがとう」

 気の早い礼を一つ溢して、とある場所へと出向くべく、侍従の少女に抱かれ、子供たちの元を離れて行った。

「おいおいまたお昼寝の時間か? 物足りねえ。あー喰い足りねえ。お前ら如きじゃ俺を満たしてくれそうにねえなあ」

「ざっ、ザル……ドっ……!」

「てめえも、いつまでも俺の足置きになってんじゃねえ!」

「ぅぐぅ……!」

 オッタルの頭を蹴り付けて、再び血を吐いて蹲っているヘディンたちの元へオッタルの身体を吹き飛ばすザルド。嫌々受け止めた眷属たちは、背中を殴ったり脇腹を蹴ったりしながらオッタルの巨躯を退けた。

「一つ言っておくぞ、猪」

 ゲホゲホと咳き込み血の塊を吐き出すオッタルに歩み寄り、オッタルを見下ろして。

「お前如きひよっこが泥の味を語ろうなんて十五年早いんだよ。糞ガキ」

 まだまだ天に還りそうもない偉大な英雄は、不遜な笑みを浮かべるのだった。

 

* * *

 

「う……」

「どうかしたかいベル君?」

「何処かで……お義父さんが無茶をしているような気が……ついでに僕の心象がボロカスになるようなことをやらかしている予感も……」

「い、一体何をやらかしていると言うんだい君のお義父さんは……」

「わかりません……わかりたくありません……けど……元気でいてくれるなら、それで」

「うーん……後に面倒なことになりそうな予感がプンプンするなあ……所で、そのマフラーは? 五日前は持っていなかったろう?」

「あーこれですか」

 ベルは、黒いマフラーを首に巻いていた。

 漆黒と評していいだろうマフラーには無数の色が散りばめられていた。赤。青。黄。紫。他にもたくさん。

「これ、お義母さんが着ていたドレスの一部を切り出して、精霊の護布と組み合わせて作った物らしいです」

「は、母親のドレスを装備する息子……なんというかこう……如何わしいね……」

「そ、それはヘスティア様の言い方一つじゃないですか!? 今更ですけど、五日前にお義母さんに会った時、違和感があったんですよ。なんかいつもと少し雰囲気違うかなって。ドレスの丈が違っていたんですね」

「気付くか! ってレベルの間違い探しだね」

「あはは……」

 笑いながら、ベルも引け越しになってしまうような装備品。母の温もり宿るマフラーに手を置くベル。

 実際この装備は、見た目からは想像も出来ないような極めて稀有な性能を有している。

 元になったアルフィアのドレスは、過剰なほどの魔力への耐性を帯びていた。外敵から身を守る為でもあり、元の装着者の規格外にも程がある魔力に耐え得る為に備えられたものである。

 そこに各種精霊の護布をこれでもかと注ぎ込んで編まれたこのマフラーは、持ち主へと襲い掛かる魔力や各種属性の全てに極めて高い耐性を有している。盾の形ではなくとも、盾としてこれ以上なく機能するであろう至極の逸品である。

 それだけに収まらない。矛盾しているようにも聞こえるが、このマフラーは強力な魔力耐性を帯びる為、強力にも程がある魔力を帯びている。

 例えば、拳に巻いて拳打に使えば魔力を纏った拳は一撃必倒となるだろう。

 例えば、鞭のように使えば持ち主を取り囲む全てを灰に返すだろう。

 正に攻防一体。

 ベルを助け、ベルと共に歩む。

 そんな母の祈りが込められた、息子の為だけに存在している装備品なのだ。

「そっか。お姉様の言っていたおつかいってそれのことだったのかー」

「これだけじゃないですよ。こっちも」

 ベルは、左右それぞれの腿に装備していたホルスターから、それを引き抜いた。

「それは……ナイフ?」

「はい」

 二本のナイフ。

 これもまた、おつかいの成果。

 ベルの戦闘スタイルと扱いに長けている武器を知り尽くしているアルフィアが、ベルの為に用意させた二振りのナイフだ。

 一本は白いロングナイフ。

 ベルとベルの母親の髪の色に似た、純白のナイフ。

 もう一本は紅いナイフ。

 ベルとベルの父親の瞳の色に似た、真紅のナイフ。

 マフラー然り、アルフィアが溜め込んだ財産を惜しみなく投与されて打たれた二本のナイフは、どちらも第一等級武装の評価を受けることは硬い。

 ちなみに。

「この注文を全て数日以内に用意しろってどれだけ無茶を言っているのかわかっているのかしら!? 椿! 貴方も手伝いなさい! 引き受けた以上納期を遅らせるなんて絶対にしないし完璧な仕上がりにしてみせる! それはそれとして、この依頼を持ち込んだ貴方の母親にいつか小言を言わせて頂戴ね! ベル・クラネルっ!」

 母から託されていたおつかいセット一式を手渡した所、物凄い剣幕で初対面の女神、ヘファイストスに睨まれた。その一方で、椿と呼ばれた凄い格好をしている鍛治師のお姉さんはとにかく愉快そうにしていた。どちらもとても綺麗だったし、とても胸が大きかった。

 今後もヘファイストス・ファミリアにお世話になろうっ。

 と、ベルは誓っていたりする。

「本当に過保護だね、君のお義母さんは」

「あ、あははは……」

「でも、そんな所も素敵だね、彼女は」

「……はいっ」

 陽の光に目を焼かれそうになったベルは、北の空に目を向けて微笑んだ。

 

* * *

 

 こちらも同時刻。北の空の下。

「お、おはよーございまーすお姉様ぁー! ってもうこんにちはでしたわー! 今日のお昼は」

「五月蝿いぞ道化」

「ひいっ!?」

「必要なことだけを粛々と報告しろ。それとこの部屋だが、内装の趣味が悪過ぎる。私が貴様の子供たちの面倒を見ている間にそこの悪趣味な絨毯やベッドを片付けておけ。いいな?」

「わ、わかりましたお姉様ーっ! って、この部屋、たくさん酒があったと思うんやけど」

「全て処分した」

「のおおおおおおおっ!?」

「騒ぐなと言っている」

 ロキ・ファミリアの本拠(ホーム)。黄昏の館の一室。主神であるロキの部屋……だったものの中に、ロキの痛苦が響く。

「あ、あんまりや……そこまでせんでもええやんお姉様ぁ……!」

「何を言う。私がここで身体を休めることを認めたのは他ならぬ貴様だろうに」

「それはそうやけどもっ!」

 五日前。

「僕たちは夢を見ているのかな?」

「夢なのだとしたら、間違いなく悪夢じゃのぅ……」

「どうしてお前がここにいる……!?」

 ベルがおつかいから戻る前に本当に姿を消したアルフィアは、まだ誰かさんらが作った真新しい破壊痕が残るロキ・ファミリアの正門前に堂々と姿を見せた。

「騒ぐな。先達への口の利き方のなっていない若輩共」

 その言葉と共にフィン、ガレス、リヴェリアの三人を、アルフィアは瞬く間に叩きのめしてみせた。

「な、何や!? 何が起きとる!?」

「貴様が主神か。ちょうど良い」

「っく……! 全員、ロキを守れっ!」

 フィンの指示に従い本拠(ホーム)にいた団員たち総出でアルフィアを抑えようと目論むも返り討ち。第一級冒険者であるアイズやティオナらも加わったと言うのに、アルフィアの目の色を変えることさえも叶わなかった。

「女神ロキ」

「な、なんや……?」

「私をここに住まわせろ」

「…………はぇ?」

「私が、貴様らの指南役になってやる」

「……………………はぁ?」

 嵐の如き破壊を振り撒き、立ちはだかる冒険者全てを薙ぎ倒してみせた暴君は、何事もなかったかのように、突飛な提案をした。

 当然揉めた。

「私がなると言ったらなる。それだけだ。貴様らに意思を尋ねたつもりはないし拒否権も存在しない。理解したら先ずは、私の部屋を用意しろ」

 アルフィアがこんな調子なもので余計に荒れたのだが。

「私に居場所を提供すると言うのなら、木端共に稽古を付けてやろう」

 続けてアルフィアは言った。

「私が把握している限りという注釈は付くが、貴様らがまだ辿り着けていない階層の情報も提供をしてやる。例えば、『氷園』の情報、などだな」

 リスクは計り知れない。この女傑をファミリアに置くことがどれだけ危険かなど、アルフィアという人物を知らなかった団員たちでさえわかる。

 それでも、アルフィアの提示したリターンはとても無視出来たものではなかった。

 特にフィン。ガレス。ロキ。

 誰よりも、リヴェリア。

 彼ら四人は、アルフィアの提案を断ることを早々に諦めてしまった程だった。

 結果。アルフィアは、ロキの神室を我が城としてしまった。自ら認めたこととはいえ、部屋を追い出されてしまったロキは眷属たちの部屋を転々として床を探す毎日となっている。

 もちろんトラブルばかりである。

 アルフィアがやって来たその日。

「あぁ? なんだこのババア」

 と、ダンジョンから戻ったばかりで何の事情も聞かされていなかった一匹の狼が、館内を見て回っていたアルフィアに向けて、そんな言葉を口走ってしまった。

 数十秒後。

「もっと気さくにアルフィアと呼んでくれていいぞ、野良犬。さあ、呼んでみろ。ん? 返事はどうした、犬」

 魔法も何も行使しないフィジカルだけで顔の形が変わっても尚ボコボコにされ続ける狼の姿に身体の芯まで震え上がらせた団員たちは、美しい来訪者に逆らうことを諦めた。

「おいババア! アイズをっ!?」

 その翌日。前日の苛立ちを引き摺っている狼が、リヴェリアへといつものように声を掛けた瞬間。黄昏の城に無数の穴が空いた。

「雑音が聞こえた」

 穴を開けた張本人は素知らぬ顔で紅茶に舌鼓を打っていた。

 その後。当然と言うべきか、犬呼ばわりされた狼の、リヴェリアへの呼称が変わった。

 同時に、おばさん。ババア。

 これらのワードは派閥内で禁句となった。

 リヴェリア、そしてアルフィアをどう呼称するようになったかは彼の沽券に関わる問題になるので割愛させて頂く。

 自身を横暴とも思わないアルフィアは、更に幾つかの条項を追加した。

 一つ。アルフィアが黄昏の館にいることを完全部外秘とすること。

 二つ。遠征等に参加している場合はその限りではないが、アイズ、レフィーヤの二人と訓練する時間を、週に一度は必ず設けること。

 アルフィア本人の口から聞かされたアイズとレフィーヤは揃って顔面蒼白となり、しかしその提案を受け入れた。

「学べること、多いと思うから……怖いけど……とっても……」

「死ぬ気で鍛えなければアイズさんやみなさんに追い付けないと思うから……私やります! 本当に死ぬかもしれませんけど!」

 悲壮な決意を抱えた二人は、実際目覚ましい成長を遂げることとなるのだが、それが顕著になるのはもう少しだけ未来の話。

 アルフィアという嵐の猛威がまだまだ収まらない夜。

「どうして今? どうして僕たちの所へ?」

 駆け引きも何もなく真っ直ぐに、アルフィアへとフィンが切り込んだ。

「私が想定していたよりも、今のオラリオの戦力は脆弱だ。若い者たちの台頭は認めざるを得ない。しかし、若輩共の成長を待つだけの猶予は下界に残されていない。違うか?」

 同席していたロキは何も言わない。

「私の息子は終末の時計を壊しに行く。誰に望まれなくとも。たとえ一人だとしても。一人ではどうにもならないことを知っていても、北の大地へと挑んで行くだろう。そんな時に、あの子と共に前を向ける愚か者を一人でも増やしたい。愚か者になれる者たちの超克を促し、尻を蹴り飛ばす。私は、私に残された時間をそう使うことに決めた、幸いなことに、お前たちの派閥には愚か者が多くいるらしいからな。ここが最適だった。それだけだ」

 ロキも、フィンも、ガレスも、リヴェリアも。静かに未来を願うアルフィアの言葉に口を挟むことはしなかった。

「それに、見返さなければならない者もいる」

「誰か尋ねてもいいかい?」

「教えるものか」

 見返してやらねばならない小憎らしい女神は今頃、ダンジョンデビューを控えた息子と慌ただしくしていることだろう。

 その絵を想像したアルフィアの口角が、ほんの少しだけ高くなった。

「先に言っておくぞ。私の魂はいつまで下界に留まれるかわからない。今日かもしれないし、明日かもしれない。限界など何度も越えてしまっていて、自分自身でも判別が付かないまでになってしまっているからな。限界を越えたはずなのに、限界を越えて尚も摩耗し続けているということだけはわかってしまう。限界など前向きにのみ越えたいものだが、どうにもな。困ったものだ」

 再会を果たしてからの僅かな時間の中で、聞いている方の胸が痛くなるような咳の音を何度か耳にしているフィンたちは、何の言葉も用意することが出来なかった。

「今の私にダンジョンへ赴くなど不可能だ。全力を発揮することも不可能。間違いなくこの身が耐えられない。全盛からは程遠く、今の私など残り滓のようなものだ。しかし、私は私なりに足掻こう。足掻けるだけ足掻いてやるから、私の命を上手く使え。貴様は得意だろう? 人を出汁にして利益を掠め取るのは。なあ、生意気な小人族(パルゥム)?」

「聞こえは良くないけれど訂正を求める気にはならないな」

「精々私を利用して、結果を示せ」

 疲れ切った身体を休めるよう、ソファに深く身体を沈めながら、アルフィアは瞼を持ち上げた。

「私と言う前時代の敗残者くらい軽々と踏み越えて、未来を切り開いてみせろ」

 次の時代の旗頭となり得る三人とその主神全員の顔を、左右それぞれ違う色の瞳に映した。

「言われるまでもないさ」

 フィン。

「黒竜との因縁など、儂らが生きとるこの時代で終わらせてみせるわ」

 ガレス。

「貴様の目の黒いうちに成し遂げてやる」

 リヴェリア。

「ありがとぅ。ほんまに」

 そしてロキ。

「礼を言うなら結果を出してからにしろ」

 四人の言葉を受けてもアルフィアはくすりとも笑わなかった。

「何にしても。方針を改める必要がありそうだ」

「方針?」

「そうとも。何せ、お前たちがこれほどまでに伸びていないと思わなかったからな。あの『ダンジョンの娘』や面白いエルフらを鍛えるのもいいが、若輩にテコ入れをする前に……まずはお前たちに思い出させてやるのも一興か」

 フィンもガレスもリヴェリアも。

 アルフィアが発し始めた静かな魔力に過剰な反応を示し、アルフィアと対峙していた席から飛び退いていた。

「お前たちの未熟も。蹂躙される屈辱も」

 全盛からは程遠いと口にした覇者から放たれる圧倒的な威圧感に、現オラリオ最高峰の冒険者三人は、冷たい汗を流した。

 

* * *

 

「うう……」

「あの……ヘスティア様……?」

「何処かで……お姉様が無茶苦茶をしているような気が……」

「わ、わかります……わかりたくありませんけどわかっちゃいます……元気でいてくれるならそれでいいんですけど……あの人の場合は加減とか常識とか色々意識して欲しい……」

「そのうち大問題を起こして潜伏している意味も失くしてしまいそうな気がする……」

「わかり過ぎます……っていうか、ロキ・ファミリアの本拠(ホーム)の片付けに行った時、大丈夫ですからの一点張りで本拠(ホーム)に近付くことさえ許してもらえなかったんですよね……」

「関係ありそう過ぎる……い、色々と不安は拭えないけれど……元気でいてくれるならそれでいい。そうなんだろ?」

「……はい」

 無沙汰は無事の便り、だ。

 それに、何だったらこっちから会いに行ったっていい。向こうが会わないようにしていたって、こっちがその意思を尊重するかはこっちが決めることなのだし。直ぐに雲隠れされそうな気はするけども。

「さて! そろそろ切り替えていこう!」

「はいっ」

「で!」

「はい?」

「その布。いつまでそうしているんだい?」

 ヘスティアの目は、ベルの背後にドンと置かれている、巨大な何かに向けられた。

 これは以前、教会の隅にこっそりと置かれていたものだ。

 ベルは今日までこれを開封していない。当然ヘスティアは中身を知らない。

 それでもベルは、そのまま持ち込んだら邪魔でしかないだろう謎の物体をしっかりと持ち運んで来ていた。

「あー」

「預かるよ?」

「……じゃあ……」

 ヘスティアに促され、留め具を外していく。はらりと布が落ちていくと、道行く人々の静かなどよめきが、ベルとヘスティアを包んだ。

「うん、やっぱり」

「そっ、それは……?」

「おじさん……僕のお義父さんの冒険を支えていた武器です」

 ベルは笑いながら、剥き出しになったばかりの黒い塊の表面をこんっと叩いてみせた。

 伝説の武器。

 ベルが軽く叩いた黒塊は、後にそんな評価をされても何も不思議でない武器だった。

 三大冒険者依頼(クエスト)の一つ。下界の全ての民に討伐を望まれた怪物。

 『陸の王者(ベヒーモス)』と呼ばれた怪物を、ザルドと言う名の覇者が喰い荒らしてみせた一振りに間違いなかった。

 ベルが旅立つ数年前。

 古いツテを頼り『陸の王者(ベヒーモス)』を討った現場に取り残されていたこの大剣を回収することに成功したザルドは、心に決めていた。

 自分のスタイルには合わないだの重くて取り回し辛いだのデザインが悪趣味だの愚痴愚痴と言いそうだが、かつて自分を支えた得物を、ベルに託すことを。

 と言っても、そのまま託したとてタッパの違うベルでは先端をガリガリと削るばかりで不恰好にしかならないだろうと見ていたザルドは、ベルの祖父へと定期的に近況を報告に来る者らにこの武器を託し、ベルでも扱えるよう調整を頼み込んでいた。

 あとはベルがやってくる前に堂々と教会に入って行き、受け取っていたそれを立て掛けておくだけ。

「しかもサイズの調整までされてるし……こそこそ何かやってるなーって思ってたけどこんなことしてたんだ……」

「君のお義父さん……ザルドくんも、クセが強そうだね」

「半端じゃないですよ、本当」

 黒い塊を撫でながら、ベルは笑った。

「……素敵なんだね。君の家族たちは、みんな」

「そこに、今ではヘスティア様もいらっしゃいますからね」

「え?」

「自慢出来ることが増えちゃいました」

「べ、ベルくぅん……!」

 照れ臭そうに笑う眷属の純真に触れた主神は、二つの瞳をウルウルと輝かせながら、ベルへと手を伸ばした。

「……はっ! い、いけないいけない……! みだりに君に触れようものならお姉様から天罰が……!」

「いやいや何言ってるんですか? いくら過保護なあの人でも、僕が女性と触れ合ったり仲良くしたりするだけで魔法をドーンなんてしませんよ! 面白い神様だなあヘスティア様は!」

「そっか……ベル君本人がそういう認識かあ……そっかあ……」

「?」

 きょとんと首を傾げるこの子にしつこく言い寄る誰かが現れたり、周囲に女の影が散見されるようになっただけで彼女は静かに魔法をドーンしてくると思うよいやマジで。この子を歓楽街に連れてく輩なんて現れようものなら間違いなく天に魂を還されるだろうなあ。

 彼女に課された鍛錬はどれもこれも相当にアレなものだったらしいから、この子は麻痺しているんだと思う。ドが付いて超が付いて究極が付いたって届かないくらいの過保護してるよお姉様はっ!

 とは言わず。というか言えず。

 あの御方の逆鱗に触れぬよう、ボクがしっかりしなければっ!

「頑張らないとっ……!」

「……ヘスティア様」

「なんだい?」

「大きくしましょうね、ファミリア」

 姿勢を正したベルは、ヘスティアの目を真っ直ぐに見据えた。

「友達も、仲間も、家族も。僕は、全部欲しいです」

「英雄の座もだろう?」

「はいっ」

「いいね! 欲深くて実にいい! けどっ、そこまで欲張るのなら、ただの業突張りじゃあないって証明しないとだね」

「もちろんです」

「君ならやれるだろう?」

「任せてください」

 気弱な子だと言うのに、こと未来の事象に関してはとにかく勝ち気。

 その様のなんとアンバランスなことか。

 しかし不思議と、不安が付き纏わない。

 誰より傷付くだろう。誰より苦しむだろう。誰にも涙を見せられない夜が何度もやって来るだろう。挫折など、それこそ何度でも経験することだろう。

 それでもこの子なら。

 不敵ながらも真っ直ぐな笑みは、女神にそう思わせてくれる。

「……そろそろ行っておいで」

「はいっ!」

 頷きで返したベルは、空を見上げた。

「すーっ……」

「ベル君?」

「……お祖父ちゃんっ!」

「うわっ!?」

 間近で炸裂した大声に、ヘスティアのツインテールがびくりと跳ねた。当然衆目を集めるが、ベルは何も気にせず口の端を釣り上げ笑う。

 祖父。

 農具を手にして汗を流しているか、それとも自分が帰らないだろうことまで見越していて、既に新たな刺激を求めて各地を彷徨っているかもしれない、お祖父ちゃん。

「おとうさんっ!」

 父。

 天の海からいつまでも見守ってくれている、愉快な愉快なお父さん。

 僕からは見えない何処かから、今までそうしてくれていたように、今も僕を見守ってくれているお義父さん。

「おかあさんっ!」

 はは。

 お父さんと一緒に笑っているだろう、優しい優しいお母さん。

 五月蝿いヤツだと顔を顰め、次には穏やかな笑みを浮かべてくれるだろう、今も僕を見守ってくれているお義母さん。

「ヘスティア様っ!」

「お、おうっ!?」

 巨大な黒塊を手に取り、ぶんっと、重々しい風切り音を掻き鳴らしながら豪快に振り回し、まるで英雄譚に出てくる雄々しき勇士のように背中に担いでみせて。

「いってきますっ!」

 偉大な一歩を、少年は踏み出した。

「うん! いってらっしゃーいっ!」

 ブンブンと手を振るヘスティアへ、大剣を担いだ背中はもう振り返らない。

 それは、新時代の到来を告げる号砲となった。

 彼の幼い叫びを、多くの者が聞いていた。

 同じ派閥の面々に金品を巻き上げられ失意に沈む小人族(パルゥム)の少女。

 打ち立てほやほやの武具に付けた名前を派閥の仲間に笑われて気が立っている青年。

 家族と言っていいだろう武の神らと共にはるばる極東からやって来た黒髪の少女。

 英雄の到来を夢見る狐の耳にも届いたことであろうか。

「私、一目惚れしちゃった!」

 晴れ晴れとした笑みでそう告げた同僚に無理矢理付き添って、自分が非番であった一日の間に知己の心を掴んだらしいその者の姿を一目見に来た疾風(かぜ)纏うエルフ。

 後に、彼の仲間になる者たちが。

「なんだあ!?」

「喧しいのがいるね」

「品のない声だ」

 後に、彼の壁になる者たちも。

 多くの冒険者の目が、まだ名前も知らない冒険者の出発に花を添えた。

「へへ……!」

 南の空の下。

 何かを察した父親が、地べたを這いずる当代最高峰の冒険者の背中に座りながら、口の端を釣り上げた。

「行っておいで」

 北の空の下。

 誰よりも息子の心に寄り添って生きてきた母親が、束になっても自分に土すら付けられないでいる、馬鹿な冒険者たちを束ねるだろう三人の英傑に泥を付けながら、静かに微笑んだ。

「うん……!」

 聞こえない返事と見えない笑顔に応える少年は、止まらずに進み続ける。

 その足が踏み締めるのは、誰かの夢の轍。

 夢を見た。

 誰かが、静穏の夢を見た。

 その夢は暖かかった。

 『悪』が、その夢に現れなかったから。

 二人の覇者が、ただ一人を選んだから。

 その決断は誰かに疎まれることもなければ憎まれることもない。責められるものなど本人たち以外に誰もいないだろう。

 全てを諦めず、その全てを一人に託した二人は、それでもと欲を出して、未来までをも選ぼうとしている。

 愚かだ。本当に愚かだ。

 そんな愚かな二人の後悔も。心までもを抱え。

 静かで穏やかな世界を蹴ってまで。

 終末の時計を壊しに行くのだと豪語する、もっと愚かな者が現れた。

 それでいいのだと。

 それがいいのだと。

 愚か者は高らかに笑い、馬鹿を晒す。

 愚者の行進は止まらない。

 馬鹿は馬鹿故に止まれない。

 時は流れる。時代は進む。

 神の到来を経て始まった神時代。

 その時代に記される、最後の英雄譚。

 最後の英雄を約束された少年が刻む、神時代に記される英雄神話、その最終章。

 それを余すことなく記すのだと、期待と興奮の奴隷となった多くの者が筆を取る。

 神聖譚(オラトリア)を記す誰かの筆先は。

「よーっし……!」

 最後の英雄の行進と共に、走り始めた。

 

 

 




小生意気にも、あとがきなんてものを少しだけ。

ベルとアルフィアたちが見た夢の先に広がる光景はどないなものかしら。

私の思う、都合の良い世界がこんな感じでした。

能力の数値化は難しいなあと思いながらふわりとしたのをでっち上げてみました。実際基礎能力がとんでもないヤツが神のお血々をピチョンされてランクアップとかしたら伸び幅がえらいことになりそうな気がする。総じて言えるのは古代の英雄すげー。

何やかんやあってベルがロキ達の遠征に付いて行くことになって穢れた精霊との縁が出来てエニュオ周りのドタバタにもそこそこ関わっていくとか。
ゼノスを淘汰しようとする面々全てを、最高ヒロイン極めてるアステなんとかくんちゃんとのツートップで薙ぎ倒してみせたりとか。
死ぬ死ぬ詐欺の達人のパパとママがベルの力になるべく黒竜戦で最後にドデカい花火を咲かせたりとか

とかとかとか。何とか愉快なことになりそうな予感。

英雄のお通りなんだから準主役も端役もみんなで盛り上げて飾り立ててあげてほしいものです。革命にも行進にも爆イケなBGMは欠かせないものですから。

英雄は色を好むものなんじゃよギャハハハ!とゼウスじいちゃんに英才教育されてる兎さんのことだからあの子が気になるこの子が気になるを散々しておいて最後には一人だけを選ぶんだろうなあ。
フラットな見地からぼんやりと考えると、正義系エルフがヒロイン最有力かなあ。次点で春姫とリリ。ロキキッズたちとは無理みな気がする。ママが目を光らせているので。

とか何とか書き殴ったのは、これ以上を書かないからです。

続きが気になるなら貴方自身の頭の中を探してみてください。そこになければ何処にもありません。なんならそれを文字に起こしてくれたら多くの人が喜ぶかと思いますわよ?わよわよ??

何より、他シリーズの進捗が今よりヤベーことになるので。しかしいい息抜きをさせてもらえた気分。脳死でカキカキ、楽しかった。

あちらの方も少しずつ、楽しみながら進めてます。ごゆるりとお待ちください。

暑い日が続きますね。ふぁっきんほっとの精神こさえて共に乗り切りましょう。

では。

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オラリオの冒険者の間で奇妙な現象が起きる▼突然、謎のスキルが増えているのだ▼それは冒険者の日常を変えたりあんまり変えなかったりする


総合評価:772/評価:8.7/連載:28話/更新日時:2026年02月18日(水) 08:08 小説情報


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