ロストメモリィ   作:Y.West

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風祝

 冷たい風を感じて、目が覚める。布団が捲れていて、そこには誰も居ない。隣で眠っていた筈の大切な人を探そうとして、寝惚け眼のまま身体を起こした。

 ぼやけた視界の向こうで、緑色が揺れる。やがて、焦点が合う。――巫女服に身を包んだ早苗が、そこに立っていた。長い緑髪が、闇に溶けていくようだった。

 

「早苗?」

 

 声をかけると、早苗はゆっくりと振り返る。明かりのほとんどない部屋では、彼女の表情を窺うのは難しくて。ただその双眸が、しっかりとこちらを捉えているのだけが分かった。

 

「何してるんだ? 巫女服なんか着て」

「……少し、外を見てこようかと」

「外って……今、何時だよ。ていうか、こんな雨の中、何処に――」

 

 問答をするうち、次第に脳が冴えてくる。思い至る、早苗の『役割』。彼女がこれから何をしようとしているのか、察してしまった。

 早苗はおれの問いに答えず、無言で扉へと向かう。おれは布団を飛び出して、咄嗟に彼女の腕を掴んでいた。

 

「放してください」

 

 早苗は腕を振り払おうとするが、おれは放さなかった。このまま行かせてしまってはいけないと、心の何処かで確信していた。

 

「奥宮に行くんだろ。この雨を鎮めるために。……『風祝』。それが、早苗の……守矢神社の巫女の、役目だから」

 

 口を衝いた、その言葉に、早苗はぴたりと動きを止めた。月の光も届かないような室内の暗がりが、よりいっそう深くなったように感じられた。数秒の、沈黙。まるで、時間そのものが停止してしまったかのように。

 やがて、肩の力を抜き、早苗は振り返った。その瞳には、もう逃れられないものを受け入れたような、悲壮な覚悟が宿っていた。そして彼女は、穏やかな笑みを浮かべながら、言葉を紡ぎ出す。

 

「……誰から、その話を?」

「去年の秋だったかな、神社に来たお婆さんが教えてくれたんだ」

 

 早苗は少し目を伏せる。そして、再びおれを見据えた。

 

「知ってるなら、どうして止めるんですか? 一刻も早く行かなきゃいけないんです。わたしは『風祝』だから」

「行くなって言ってるんじゃない。早苗が行かなきゃいけないのは分かってる。でも、独りで行かせたくないんだ」

「光く――」

「おれも一緒に行くよ」

「駄目です! それは……駄目なんです」

 

 早苗は俯き、唇を噛みしめている。おれは黙って、彼女の言葉を待った。やがて彼女は顔を上げ、ぽつぽつと話し始めた。

 

「この大雨の所為で、山が崩れるかもしれないと。神様が、そう云っていました。わたしには、起こり得る災いの全てを抑えることなんてできません。それでも、少しでも被害を少なくするために、行かなきゃいけないんです。……この神社だけは、何があっても絶対に守ります。だから、あなたを呼びました」

「……」

「“わたし”の意思で、誰かだけを救おうなんて。……風祝、失格ですかね。守らなきゃいけないのは、この地で生きる総ての民……なのに」

「……早苗」

「光くん。どうか、ここに居てください。お願いします」

 

 早苗はおれの胸に頭を預け、縋るように身体を寄せる。その背中に、そっと手を回す。彼女の震えが、直接伝わってくる。この小さな身体に、どれだけの重荷が圧し掛かっているのだろう。おれがするべきは、早苗の背中を押すことだと分かっていた。早苗を信じて、彼女を送り出す。それがきっと正しい選択で、彼女もそれを望んでいるのだろう。

 でも。

 大好きな人を、独りにさせたくない。どんなに小さい力であっても、少しでも早苗の助けになりたい。それがおれの意思。抱きしめる力を、強くする。彼女の体温が、心臓の鼓動が、伝わってくる。

 

「ごめん。そのお願いは聞けない」

「……危険だって、分からないんですか?」

「分かってるつもりだよ。だから、早苗を独りで行かせたくないんだ。おれが行ったって、何も変わらないかも知れない。それでも、早苗の傍に居たいんだ。たとえ何があったとしても……ここでただ待ってるだけよりは、絶対にマシだから」

「そんなの、勝手すぎます」

「かもな。でも、決めたんだ」

 

 早苗はおれに抱きしめられたまま、動かない。暫くして、彼女は諦めたように小さく息を吐いた。

 

「危なくなったら、あなただけでも逃げてください」

「それはできないよ。逃げるなら、早苗も連れてくし。早苗が逃げないなら、おれも残る」

「どうして」

「今夜はずっと一緒だって。約束しただろ」

「……」

 

 ぎゅ、と早苗が自らの身体を押し付けてくる。おれの存在を、全身で確かめるように。互いの体温が溶け合って、ひとつになる。早苗が抱える、不安や恐れ。それらをおれが、少しでも和らげることができたら。おれに与えられている全ての、持てる限りの力で、早苗を支えてあげられたら。そんなことを思う。

 

「……ばか。大ばかです、あなたは」

 

 早苗はおれの胸に顔を埋めて、少し泣いていた。やがて顔を上げると、その瞳には強い光が灯っている。

 

「怪我なんてしたら、許しませんから」

「ああ」

「玄関で、待ってます」

 

 早苗が部屋を出ていったことを確かめて、寝間着を脱ぎ捨てる。枕元に置いていた、ここに来る時に着ていた服を再び身に着ける。姿見に映る自分の顔は、少しも眠気が残っていない、澄んだ目をしていた。

 窓の外では依然として強い雨が降り続いており、建物を叩く音が響いている。

 深呼吸をひとつしてから、おれは部屋を後にした。

 

 おれを待つ早苗の表情からは、笑顔が消えていた。そんなものは、きっと必要なかった。レインコートを掴み、羽織る。目線が合う。ひとつ頷いて、早苗は雨の中へ飛び出した。木々が雨風に激しく揺れる音。ぬかるんだ地面。月明かりすら厚い雨雲に遮られ、足元さえ満足に見えない。おれを導くのは、雨に濡れる緑色の髪だけ。滝のような登り坂を、彼女を追って駆け上がる。靴の中に、雨水と泥が混じったものが流れ込む。肌にまとわりつく不快感。息苦しさと胸のざわつきが、募っていく。早苗と手を繋いで歩いた道程は、こんなにも長かっただろうか。雨音が覆い尽くす、冷たい世界。闇に溶けそうな背中を、必死に追いかけた。

 石段を登り、古びた鳥居を抜けて、ようやく奥宮へ辿り着く。ひと足先に着いていた早苗は、社殿の前で、こちらに背を向けて立っていた。夜明けの予兆すら見えない深い宵闇の中、稲光が一瞬だけ辺りを照らす。雨に濡れた巫女服が肌に張り付き、彼女の輪郭を露わにしている。守矢神社の深奥に立つ早苗の姿は、まるで別世界の存在のようだった。――本当に、そうなのだろう。おれなんかとは、異なる世界で生きる存在。彼女が背負うものの大きさを、改めて思い知る。

 

「光くん」

 

 おれの名を呼ぶ早苗の声が、いやにはっきりと聞こえる。

 

「ひとつ、お願いがあります」

「帰れってのはナシな」

「信じてほしいんです。この地をずっと見守ってくださっている、“神様”のことを」

 

 彼女の目は、真っ直ぐにおれを見つめていた。“神様”。自らが仕える、超常の存在。何処かで聞いたことがある。神の力は、人々の信仰が、その根源であると。

 

「……もちろん。信じるよ」

「ありがとうございます」

 

 早苗は、ひとつお辞儀をしてから階を登り、普段は固く閉ざされている社殿の扉を開く。この世でただ一人、早苗のみが立ち入りを許される領域。中へ入った彼女の手によって行灯に火が灯され、御神体の姿がぼんやりと窺える。早苗はその前に立ち、祝詞を上げ始める。雨音の向こうから耳に届く早苗の声。それが何を意味しているのかは、おれには理解できない。ただ、これまで幾度か聞いたことのあるそれとは、明らかに違う。懇願にも似た、切実な叫び。雨は勢いを増し、風は哭く。雷鳴が轟く。

 

 ――おれは、守矢神社に祀られる神様を知らない。疑っているわけではない。旅のついでに、これまで色々な寺社を訪れた。鳥居や山門を抜けた瞬間に感じる、俗世と隔絶された清浄な空気。神聖なものに対する畏怖。確かに、そうしたものはあると思っている。ただ、神様とか、仏様だとか、そういう存在をはっきりと自覚したことはなかった。祈願する事柄も、世界が平和でありますように、といった、あまりに漠然としたものばかりで。御神籤の吉凶で一喜一憂する、皮相浅薄な来訪者。それがおれだった。

 おれは、守矢神社に祀られる神様を知らない。しかし、早苗が、おれの大切な人が、その役目を全うしようと尽力しているのであれば。おれは、そんな早苗を信じよう。今はこの世でただ一人、おれだけが、早苗が神様のような力を持つと知っている。そんな彼女は、おれにとって神様みたいな存在だから。

 いつしか、おれの手も祈りの形を取っていた。目を瞑る。雨音も、風音も、遠ざかっていく。滝のような雨に打たれながら、耳に届くのは、早苗の声だけ。それ以外のすべてが、世界から消えていく。

 

 不意に、早苗の祝詞が途切れる。そして、何かが倒れたような音。思わず目を開いた。滝のような雨が、ちっぽけなおれを押し潰さんとする。視線の先に、社殿の床に横たわる早苗の姿が映る。

 

「早苗っ!」

 

 愛する人の名を叫ぶ。返事はない。彼女のもとへ駆け寄ろうと、階へ足を掛け、一瞬躊躇う。そこから先は、神のためにある領域。ただの人間如きが足を踏み入れてよい場所ではないことは知っていた。それでも、神より大切な早苗のことが心配で。胸中の葛藤を振り払い、社殿へと駆け上がる。

 レインコートを脱ぎ捨て、早苗の身体を抱き寄せる。衣服は少し乾き始めていたが、その身体はとても冷たくて。最悪の事態が脳裏を過ぎる中、か弱い息がおれの耳をくすぐった。ほんの少し安堵して、意識のない彼女を抱く。雨に打たれたおれの体温も高いわけではないけれど、独りで居るよりは、幾分も良いだろうから。雨と風の音だけが響く空間で、ただ早苗を抱きしめていた。

 

 明かりのない狭い社殿の中、早苗だけを感じて。そうして、どれだけ時が過ぎただろう。空が僅かに白み始めた頃、おれは山の嘆きを耳にした。何が起きたのかは、容易く想像がついた。巨岩の崩れ落ちる音。樹や枝が砕ける音。そして、大量の土砂がずれ動く音。地震にも似た強い揺れに、本能が命の危機を感じ取る。

 しっかりと早苗の身体を抱き、その手を固く握りしめる。瓦礫に埋もれても、濁流に呑まれても、離れないように。ずっと一緒に居ると、約束したから。決して放さない。放したくない。

 永遠に続くと思われたその揺れは、数十秒ほどで収まっていった。やがて世界を満たす静寂。早苗の息遣いが、はっきりと聞こえるほどの。外の様子は分からないが、少なくともこの社殿に限っては、無事だった。安堵の溜息が零れる。守矢神社だけは、何があっても絶対に守ると、早苗は言っていた。その祈りは、通じたのだろうか。おれは、彼女の身体を抱きしめる力を、ほんの少しだけ緩めた。

 世界が、仄かに色を取り戻す。雨はもう止んだようだった。厚い雲の切れ間から射す一筋の光が、早苗を優しく照らす。暖かな陽光に包まれて、彼女の表情が、少し和らいだような気がした。

 

「そろそろ起きて。朝だよ」

 

 頬に手を添えて、声を掛ける。彼女の薄桃色の唇に、吸い寄せられそうになる。童話の姫君のように、口付けをしたら目を覚ますだろうか。そんな妄想をしていると、早苗が少し、身動ぎをした。ゆっくりと瞼が開いて、翠色の瞳におれが映る。

 

「本殿の中は、入っちゃいけないんですよ」

 

 早苗は静かに言う。その言葉は、神社の巫女として当然のことだった。

 

「ごめん、すぐに――」

 

 言いたいことも言えぬまま、おれの口は、愛しい女神さまのそれに優しく塞がれる。彼女は、ゆっくりとおれから離れると、にっこりと微笑んだ。

 

「戻りましょうか」

 

 差し出された手を取る。おれはもう、何も言えなかった。

 

 早苗と一緒に、社殿の外へ出る。鈍色の雲に覆われた空の下。山の上に位置する奥宮は、不思議なほどに静かだった。周囲を見渡せど崩落の痕跡はなく、湖には黎明の霞がかかる。おれは早苗の手を握りながら、社殿の階段を一段ずつ慎重に降りた。横から伺う彼女の顔には、疲労が透けて見える。雨上がりの風は、まだ冷たい。泥濘んだ斜面に足を取られぬよう、ゆっくりと歩を進めた。

 道を下りる最中、不意に早苗が立ち止まる。山に沿って走る高速道路の向こう、彼女の視線の先には、明滅する赤色がいくつか認められた。恐らく、何らかの緊急車両の赤色灯。風に乗って、土の匂いが流れてくる。早苗は、何かを言おうとしては噤み、唇を微かに震わせている。おれはただ、彼女の手を強く握った。

 山の麓にある神社は無事だった。見る限り、周辺の住宅などにも、これといった被害は見受けられない。「神社だけは絶対に守る」という早苗の祈りは、きっと届いたのだろう。

 社務所の扉を開ける。点けっぱなしの灯りが、おれたちを迎えてくれる。腰を下ろして靴を脱ぐ。帰ってこれた。そう思った瞬間、全身から力が抜けた。身体が倒れていくのが分かる。そうして硬い床の感触を背中に感じて、おれは意識を手放した。

 

 

 

 目を開く。見憶えのある天井。早苗の部屋。彼女の布団。おれは夢でも見ていたのだろうか。柔らかな日差しが、カーテン越しのおれの顔に当たる。隣には、一緒に眠ったはずの早苗の姿はなく。着ているのは、驟雨の中へ飛び出した時の服。視界に入った時計は、10時の手前辺りを指していた。

 記憶が定かならば、今日は水曜日。夏休みにはまだ早く、当然授業がある日。早苗はどうしたのだろう。おれが起きないから、学校へ行ってしまったのだろうか。半ば浮かれていたとはいえ、学校を休んでデートしよう、なんて言った自分を殴りたい。

 重い身体を起こして、ひとまず部屋を出る。洗面所で口を濯ぎ、居間へ向かうと、鼻腔を擽る味噌汁の香り。早苗の背中が視界に入る。彼女が見つめているのは、テレビのニュース。昨晩のことが、ただの現実と知る。映し出される光景は、惨憺たるものだった。山肌の半分ほどが崩れ落ち、道路も寸断された様子が見て取れる。レポーターは、この土砂崩れで行方不明者が出ていると告げる。場面が変わる。濁った水に浸かった街。空中からの映像だが、映っているのは恐らく、上諏訪駅の近く。

 

「早苗」

 

 声を掛けると、彼女はびくりと身体を震わせた。テレビの画面が消される。そうして彼女は、こちらを向いた。

 

「……おはようございます」

 

 早苗の目元には、涙が伝った跡。恐らく、無理やり微笑んで見せているのだろう。

 

「おはよう」

 

 努めて、平静を装って挨拶をする。

 

「そうだ、学校は――」

「しばらく休みになると、連絡がありました」

「……そっか。そうだよな」

 

 テレビを通して僅かに触れた現実の衝撃が抜けず、おれも上手く言葉が見つからない。何か話題を切り出そうとしたその瞬間、早苗がおれに抱きついてきた。薄いシャツ越しに感じる彼女の柔らかさと、その温度。心臓の鼓動が伝わってくる。

 

「光くん、わたし、わたし……っ」

 

 早苗の嗚咽が、おれの胸に響く。悲痛な雫が、おれの服に染みていく。その熱が、おれの身体に沁みていく。何と声を掛ければいいか、分からなかった。おれにはただ、彼女の身体を抱きしめることしかできなくて。そっと頭を撫でる。しなやかな髪が、指に絡む。早苗はおれの背中に手を回し、きつく抱きしめ返してきた。

 胸の中が、切ない痛みでいっぱいになる。おれは、早苗の悲しみを、少しでも背負えるのだろうか。早苗の苦しみを、肩代わりしてあげられるのだろうか。――分からない。分からないけれど、その涙を受け止めることが、受け入れることが、きっと、おれに課せられた役目だった。だから、ずっと。彼女が泣き止むまで、抱擁を続けた。やがて嗚咽は止み、早苗は顔を上げる。涙に濡れた目が、おれを見る。

 

「……すみません」

 

 早苗の目尻に残る涙を、そっと拭う。彼女は困ったように眉を下げて、小さく笑った。その顔を見て、おれも自然と笑みが零れる。

 

「朝ご飯、食べますか?」

「うん。お腹空いた」

「すぐ用意しますね」

 

 早苗は背を向けて、台所へ向かう。

 

「愛してるよ。何があっても」

 

 小さく呟く。その声が届いたかは、分からなかった。

 

 

 早苗の作ってくれた朝食が並ぶ。ご飯と味噌汁、ハムと目玉焼き、そしてほうれん草のお浸し。食卓に向かい合わせで座り、手を合わせる。美味しいご飯に、早苗との談笑。何でもないような朝が、ひたすらに幸せだった。テレビを消した居間は静かで、早苗の声がよく聞こえた。

 食事を終えて、早苗が淹れてくれた緑茶を啜る。おれの横に座った早苗が、凭れかかってきた。甘えるような仕草。肩を抱き寄せて、二人きりの時間を満喫する。緑色の髪が、おれの首筋をくすぐる。柔らかな身体の重みを感じながら、彼女の体温と鼓動を分かち合う。そっと早苗の手を握る。細い指に、力が込められるのを感じた。おれは、こうして早苗と一緒に居られるだけで、十分だった。

 

「光くん。これからのこと、なんですけど」

「うん」

「どれほどの被害が起きてしまったのか、自分の目で確かめたいと思います。これは、『風祝(わたし)』の責務、ですから。……あなたが一緒だと、悪く言う方もいるかもしれません。だから、その、昨日言っていたデートというのは……ごめんなさい」

「いいんだよ。やるべきことがあるなら、優先して。デートは、いつでもできるんだからさ」

「…………はい。ありがとうございます」

 

 早苗の手が、おれの背中に回される。彼女の温もりと匂いに包まれて、心地良さに目を細める。

 

「ずっと、こうしていたいです。悲しいことが、全部溶けていくみたい」

 

 おれの腕の中で、微睡むように安らかな早苗の表情。彼女の頭をそっと撫でると、額をおれの胸に擦り寄せてくる。

 

「ありがとうございます。昨日、無理を言ったのに、神社へ来てくれて。……わたしと一緒に、山へ行ってくれて」

「おれは何もしてないよ。早苗に会いたかったから来ただけだし、一緒に居るって約束を守っただけ。雨はちょっと強かったけどな」

「あなたが傍に居てくれたから。……だから、最後まで祈り続けることができたんです」

 

 早苗は顔を上げて、真っ直ぐにおれの目を見る。その瞳は潤んでいて、言葉以上に彼女の気持ちを伝えてくれる。

 静かに近づく彼女の唇。おれはそれを受け入れる。短いキスだったけれど、全身に熱が回るようだった。

 

「そろそろ帰るよ」

「……はい。どうか、お気をつけて」

「早苗も。無理しないで」

「分かってます」

 

 早苗の表情は、少し曇っていて。それでも笑顔を作って見せてくれる。そんな彼女を見るのが、辛かった。

 乾いたレインコートをリュックに詰め、社務所の玄関を出る。見送るために外まで出てきた早苗が、おれを見つめている。振り返ると、彼女は小さく手を振っていた。おれもそれに応えて手を振り返し、自転車に跨る。

 ペダルを漕ぎ出し、守矢神社を後にする。早苗と過ごした時間が、まだ胸の中に温かく残っている。空は少し晴れ間を見せ始め、木々の隙間から零れる陽光が眩しい。雨上がりの清涼な夏の風が、頬を撫でていった。

 

 高速道路の下を潜り、天竜川沿いに諏訪湖へ向け走る。その流れは、今にも溢れてしまいそうな勢いで。市の職員と思われる人が、川に面した側から離れるよう、数少ない通行人へ呼びかけていた。

 湖岸の道路は、濁った水に濡れていた。そこを走る車は、緊急車両のみ。特に制止されることもなく、そのまま進んでいくと、道が泥で埋められているのが見えた。山が崩れたのだというのは、すぐに理解った。泥濘に沈む自動車が幾つか見える。学校の校庭は、ただの水溜まりにしか見えなかった。自転車を漕いで進めそうになく、降りて押していくことにする。怖いもの見たさで、交差点を通る度に山の方を見てみるが、ただ無事な――そう言っていいかは不明だが――家々が在った。

 泥水まみれの、道だったかも定かでない場所をしばらく歩くと、足下にアスファルトが覗く。幸いにも、おれの家の近くは、土砂災害を受けていないようだった。

 

「……護ってくれたのか」

 

 早苗と、“神様”への感謝を呟いて、再び自転車に跨った。家までの数百メートルを、さっと走り抜ける。ガレージに自転車を停め、玄関に入り靴を脱ぐ。

 相も変わらず、静寂に包まれた家。早苗の隣の次に、安心する場所。洗面所で手を洗い、台所で水を一杯飲む。

 何事もなく帰宅できた旨を、早苗へメールする。返信は期待しない。彼女は、彼女のやるべきことで手一杯だろうから。

 それから、きっと仕事中の父親へ、自分も家も無事だとメールする。これも返信は期待しない。今日は平日なのだから。

 

 ベランダから望む諏訪湖は、美しくなかった。この向こうでは、総てが水に浸かっている。もう一度同じような雨が降れば、ここも無事では済まないだろう。

 テレビを点けると、見慣れたはずの街の、見慣れぬことのない状況が、カメラを通してつぶさに伝えられる。守矢神社から見て西にある、川岸という場所で、大規模な土石流が発生していたらしい。そして、おれの家のすぐ近く、先刻通ってきたばかりの道が映る。レポーターが山の方へ歩みを進めると、流れてきたのであろう太い樹々が住宅に引っ掛かり、その上に大量の泥が堰き止められていた。崩れてしまえば、あの一帯は泥の下に沈む。

 震える手で、テレビの電源を切った。もし早苗の祈りがなければ、被害はこれより甚大だっただろうか。ソファーに身体を預け、目を閉じる。脳裏には、先刻見た惨状がこびり付いていた。

 

 翌日の夜、早苗からメールが届く。

 内容は、しばらくの間――少なくとも1週間ほどは、連絡を取るのが難しくなる、というものだった。

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