狛治さんが猗窩座にならず真っ当に生きる話(嘘は言ってない)

慶蔵と恋雪の運命は原作通りです。狛恋好きの方は不快になる恐れがあります。

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鬼の婚礼

 

穏やかな春の日だった。満開を迎えた躑躅が、素流道場の庭を鮮やかな色彩で飾っている。

母屋では今日、ささやかな婚礼の宴が催されていた。

「おめでとう、恋雨ちゃん」

「狛治、しっかりな」

近隣の者たちが次々とやってきて、二人の門出を言祝ぐ。

この辺りの住人は皆、先年素流道場を襲った悲劇を知っているからだろう。悲しみを乗り越えて今日という日を迎えた俺たちを、心から祝福しているのが感じられた。

「恋雨ちゃん、幸せになるんだよ……!」

花嫁を幼い頃から知っている向かいの老女などは、涙を流してそう言った。

「はい、きっと」

そう答える花嫁ーー控えめに白粉を塗り、紅を差した恋雨の横顔は、輝くように美しい。

 

初めて会った日、警戒心も顕にこちらを睨みつけていた少女との間にこんな未来が待っているとは、夢にも思わなかった。

 

「……狛治さん」

白い手がそっと俺の手に重なる。前を向いたまま、恋雨は静かに言った。

「この世は……優しい人が理不尽な目に合うし、悪人に天罰が下ることもない。極楽や地獄があるかもわからない。でも私は、今……幸せです」

「ああ、俺もだ」

万感の思いを込めて頷く。真っ当に善良に生きていれば報われるとは限らない。それでも彼女と二人なら、この理不尽で残酷な世界を、前を向いて歩いていけるーーそう思ったから、俺は彼女に求婚したのだ。

 

 

あの日の光景を思い出した時、恋雪の双子の妹である恋雨がどんな顔をしていたか、よくわからない。

筵の上に寝かされた二人の亡骸の横で、両手で顔を覆って俯いていたような気がするだけだ。

だから、いつ彼女が俺の後ろを通って井戸に向かったのかもわからなかった。

恋雨の行動に気づいたのは、師範と恋雪を看取った医者が、ぐったりとした彼女を背負って戻ってきた時である。

 

「狛治! 大変だ、恋雨ちゃんが毒を飲んだ! 早く手当を……手伝ってくれ!!」

 

 

「……恋雨さん、入ります」

あれから数日。師範と恋雪の葬儀は、毒を飲んで倒れた恋雨に代わって、自分と地域の世話役の采配で執り行われた。

初七日を過ぎた現在も、布団に横たわった恋雨は、暗い眼差しで天井を睨んでいた。朝持ってきた粥は、ほとんど手を付けられないまま枕辺にある。

「隣の剣術道場の息子が、今日処刑されました」

「……」

濃い隈の浮いた顔が、わずかにこちらを向く。

飲んだ毒の量が少なかったこと、医者による処置が早かったことから彼女は一命を取り留めた。しかし、父と姉を突然奪われた絶望は、死神のごとく恋雨の心身を蝕んでいるのが感じられた。

「どうして、あんなひどいことをしたんでしょう。狛治さん、なにか聞きました……?」

「……殺すつもりじゃなかった、と言い訳していたそうです」

「そう、ですか……」

呟くように言うと、布団を被って横を向く。かすかに、押し殺した嗚咽が聞こえた。

虚しい報告だった。

自分の罪を認めることすらできない糞野郎のせいで師範と恋雪は死んだ。あの男が裁きを受けても、二人は戻って来ない。

こんな報告で恋雨の心が救われるはずもない。

「その……せめて食事はちゃんと摂ってください。師範も恋雪さんも、あなたが後を追うことなんて望まない。もうあんなことは……」

虚しい説得だった。

俺は大事な人間が危機に見舞われている時、いつも傍にいない。きっと治す、助ける、守る――口先ばかりで、何一つ成し遂げられない。

こんな役立たずの言葉が恋雨の心に響くわけがない。

「……すまない、あなたの家族を守れなかった。誰よりも強くなって、一生恋雪さんを守ると約束したのに、俺は――」

「狛治さんが謝ることなんてない!」

がばりと恋雨が身を起こした。

「狛治さんは、何も悪くない……。狛治さんは、ずっと、姉さんを大切にしてた。私にはわかる……ずっとそばで、見てたから」

「こ、恋雨さん……」

急な動きに息を切らせながら、毒でただれた喉から掠れた声を絞り出して。昔から自分に対してどこかよそよそしい態度だった恋雨が、切々と訴える。

「自分を責めないで……。あなたに愛されて、姉さんは幸せだった……それだけで、充分なの……!」

「わかった、わかりましたから……もう休んでください」

なおも言い募ろうとする恋雨を、無理矢理寝かせて布団をかけ直す。寄る辺ない子供のように寂しげな眼差しが俺を見上げた。

「狛治さん……狛治さんは、どこにも行かない? 父さんも姉さんも死んで、狛治さんまでいなくなったら、私……っ」

涙が目の縁を越えて、枕に伝い落ちる。しっかり者の恋雨が、俺に見せた初めての涙だった。彼女が心に負った傷がどれほどのものか改めて思い知らされて、胸が痛くなる。

「どこにも行きません。俺はここにいます、約束です」

ひんやりとした恋雨の手を両手で包み込んで頷く。せめて俺の体温を分け与えられるように。

「……ありがとう……」

しばらくそうしていると、彼女の体の強張りが少しづつ解けるのが感じられた。

「それなら私も、もう死のうとなんてしない……約束します」

やつれてはいるが穏やかな表情で目を閉じる。恋雨の呼吸が深い寝息に変わっても、俺は枕元を離れなかった。

恋雨のそばにいること。それが役立たずの狛犬にできる、唯一のことだと思った。

 

陽の光が瞼を刺して、意識が覚醒する。

いつのまにか眠り込んでいたらしい。身じろぎすると、肩にかけられていた羽織が滑り落ちた。目の前の布団は空だ。

慌てて部屋を出ると、台所の方から、ふわりと味噌汁の匂いがした。

「恋雨さん……!?」

「ああ、おはようございます、狛治さん」

台所に駆け込んだ俺が見たのは、朝食の支度をする恋雨の姿だった。

「向かいのお婆さんがおむすびを作ってくれてたんですね。あとでお礼を言わないと」

「起きて、大丈夫なんですか?」

どうにかそれだけ問う俺に、恋雨は小さく頷く。

「いつまでもふさぎ込んでいるわけにいきませんから。無理にでも何かしないと。狛治さんも、食べてください」

促されて食膳につく。向かいに座った恋雨が、味噌汁をよそった椀を差し出す。

手のひらに伝わる熱。ネギと油揚げが入った、彼女が作るいつもの味噌汁。

あまりにも馴染みのある――なのに遠い昔のもののように感じる朝の情景だ。

恋雨は、半ば呆けていた俺をまっすぐ見つめる。静かで、強い光を秘めた眼差しだった。

「失っても失っても生きていくしかない、どんなに打ちのめされても。そうでしょう?」

「……はい」

恋雨が「いただきます」と箸をとるのに続いて、自分も椀に口をつける。

久しぶりに食べ物の味を感じた。彼女が作る、いつもの味噌汁の味だ。

「…………美味い」

 

 

 

「狛治さん、味見してもらえますか?」

恋雨が小皿に乗せた稲荷寿司を差し出す。油揚げは甘みを抑えて、酢飯には漬物を混ぜた、俺の好きな味付けだった。

「美味しいです」

「良かった、じゃあ残りも詰めちゃいますね」

手際よく酢飯を詰めては、重箱に並べていく恋雨。

……あの日約束したとおり、彼女が死のうとすることは二度と無かった。

恋雨は裁縫の腕を生かして家で仕立ての仕事を始め、自分は師範がしていたように便利屋の真似事をして。

そんな二人の生活が日常になった頃、気づけば季節が一巡りしていた。

春の彼岸も過ぎて、恋雨の仕事が一段落し、自分も珍しく用事のない日。久しぶりに二人で出かけることになった。

「ちょうど今が見頃ね、綺麗……」

町外れの一本桜を見上げて、恋雨は顔を綻ばせる。

去年はまだ自分も恋雨も、花見を楽しむような心持ちではなかったから、二年ぶりに見る桜は妙に懐かしかった。

「……一昨年は恋雪さんの体調が良かったから、四人で河原を散歩したんでしたね」

「そうそう。その前の年は雨続きで、父さんが花の代わりだって桜餅をいっぱい買ってきて……」

「ああ、そんなこともありましたね」

皿に山盛りの桜餅を前に得意満面の師範の顔を思い出して、つい笑ってしまう。

以前は、二人のことを思い出そうとすると、青ざめた死に顔しか浮かばなかった。しかし最近では、こうして過去の何気ない幸福な一幕が自然と想起されることがある。

「……ありがとう、恋雨さん」

「え?」

恋雨はきょとんとした顔で見返す。

「俺はあなたがいてくれたから、師範と恋雪さんの死に、本当の意味で向き合えたんです」

最初は、遺された恋雨を支えることが自分の責務だと思っていた。しかし、支えられていたのは俺の方だったのだと今ならわかる。

朝起きれば恋雨が「おはようございます」と笑いかけ、仕事から帰れば「おかえりなさい」と出迎える。

それがどれほど俺の心を救ったことか。

深い悲しみを背負いながら、毎日食事を作り、掃除をし、仕事をこなし、二人の位牌に手を合わせる。そんな彼女は、俺のように辛抱が足りず、すぐ自暴自棄になる人間よりずっと強いと思う。

あの男に二人を殺された恨みは消えないし、今でも、叶うなら自分の手で殴り殺してやりたかったと思っている。

けれどあの優しい二人は、俺が“守る拳”で人を殺し、修羅に堕ちることなど決して望まない。

そのことに考えが及ぶようになったのは、恋雨がいたからだ。

「あなたがいなかったら、こんな風に二人のことを懐かしく思い出せる日もきっと来なかった。だから……ありがとう」

「……お礼を言うなら私の方です、狛治さん」

俺を見つめて、恋雨はゆっくりと言った。

「不安で苦しくて押しつぶされそうなとき、私は狛治さんのことを考えると勇気が出るんです。狛治さんがいてくれたら、何でも出来るって思えた。狛治さんがいたから、今の私がいる」

「……」

自らの心臓の上に手を置いて語るその言葉は、恋雨の偽りなき心だとわかった。

「狛治さんは、私の心を照らす光なんですよ」

一陣の風が、眩しいものを見るように微笑む彼女に薄紅の花弁を降らせる。

 

(ああ……)

 

来年も再来年も、その先もずっと。

恋雨と桜が見たい。

 

「恋雨さん――」

溢れる想いが勝手に口をついた。

 

「俺と一緒になってください」

 

恋雨の双眸が零れ落ちんばかりに見開かれる。

「私で……いいの?」

「恋雨さんがいいんです」

消え入りそうな震える声音で問い返すのに、はっきりと答えた。

「恋雪さんを忘れるわけじゃない。でも俺は、この先の人生をあなたと歩いていきたいと思ったんだ」

決意を込めて、恋雨の手をとる。

 

そっと彼女の手が握り返してきた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「……狛治さん」

隣に座す青年の手に、自分のそれを重ねる。前を向いたまま、私は静かに言った。

「この世は……優しい人が理不尽な目に合うし、悪人に天罰が下ることもない。極楽や地獄があるかもわからない。でも私は、今……幸せです」

「ああ、俺もだ」

今日から夫となる人の返答は、短くも迷いない。

 

初めて会った日、腫れ上がった顔でむっすりと俯いていた少年との間にこんな未来が待っているとは、夢にも思わなかった。

 

 

四年前の初夏の日。

母が亡くなり、それまで私が引き受けていた家事に加えて、姉の看病もするようになっていた頃。喧嘩の仲裁に行った父が連れて帰ってきた少年が狛治だ。

その時の彼は顔も体も痣だらけ、おまけに腕には罪人の証の入れ墨が入っているのを目にして仰天した。

こんな奴に娘の看病を任せようとする父も、怪我の心配をしてやる姉も、お人好しがすぎると呆れたが――狛治は実に甲斐甲斐しく恋雪の看病に努めた。

姉に悪さをしようものなら叩き出してやると身構えていた私をよそに、彼は私が起きていられない夜中でもつきっきりで世話をし、厠に抱えて連れて行ってやり、しかも嫌な顔ひとつしない。

父も姉も、彼のそういう誠実で優しい内面を感じ取ったからこそ受け入れたのだと悟ると同時に、外見だけで狛治を警戒していた自分が恥ずかしくなったものだ。

 

そして……狛治が家に来てから一年後。あれが私の人生の転機だった。

 

隣接する道場の跡取り息子が、恋雪を無理矢理外に連れ出した挙げ句、発作を起こして苦しむ恋雪を放置して逃げるという事件が起きた。

これには温厚な父も怒って、隣の道場と素流道場は試合をすることになった。

相手の道場の門下生は六十人以上、こちらはたったの二人。ハラハラしながら見守る私の前で、狛治は一人で九人を倒し、最後は取り乱した跡取り息子が真剣で斬りかかったのを、刃を側面から拳で打ち叩き、真っ二つに折ったのだ。

狛治が一番得意な「鈴割り」という名前の技だと知ったのは後のことで、その時はただ、凄いと見惚れていた。

頼りになる姉の看病役としか思っていなかった少年が、ひどく眩しくて……心の中で、小さな声がした。

 

(どうして……)

 

狛治のあの美しい技は、恋雪を守るためのもの。狛治の“守る拳”は、恋雪のために振るわれるもの。

狛治は、恋雪のもの。

 

(どうして、狛治さんは私のものじゃないんだろう)

 

――なぜそんな風に思ったのかわからなくて、けれどそんな風に思った自分が恐ろしくて。その時の自分の感情に目をそらしたまま、さらに二年が過ぎた。

ある日。父が廊下を掃除していた狛治を呼び寄せて言ったのだ。

 

「この道場継いでくれないか狛治。恋雪も、お前のことが好きだと言っているし」

 

……その後の時間、何をどうしていたのか記憶に無いまま、気づけば夜、自分の部屋にいた。

ほつれた着物を黙々と繕いながら、心はひどくざわめいていた。

(どうして……私は姉さんと狛治さんが夫婦になるのを、嫌だと思ってるんだろう)

狛治が元罪人だから? 父も姉もそんなことは気にしない。……私だって気にしない。

姉と狛治は仲が良い、お似合いの二人だ。……私は狛治と二人になると、逃げ出したい気分になって、ろくに話もできない。

「あっ」

肘が裁縫箱に当たって、中身がひっくり返る。畳の上に、端切れで作ったお手玉が転がった。

「これ……」

姉の世話の傍ら、狛治が手すさびに投げていたお手玉だ。

最近では姉が臥せることが減ったので使われなくなったが、障子に凭れて、看病の合間に遊んでいた少年の姿を覚えている。

手を伸ばして拾い上げる。彼が懐に入れていたお手玉。

 

(どうして……)

 

あの日の心の声が、以前より大きくなった気がした。

狛治が姉を守るために繰り出す、美しい技。

真っ赤になってうつむく姉を見つめる、夏空のように美しい瞳。

(どうして、狛治さんは姉さんのものなんだろう。どうして、狛治さんは姉さんと結婚するんだろう)

 

――『恋雪も、お前のことが好きだと言っているし』

 

姉さんが、狛治さんを好きだから?

 

「……違う……」

 

握りしめたお手玉の中の小豆が擦れ合って音を立てる。

……あの日の狛治の眩しい姿は、私の心に影を生んだ。

私が気づかないふりをしている間に、その影はより一層大きく、熱く、ドロドロとしたものに変じて――今、はっきりと叫びを上げる。

 

(狛治さんのことが好きなのは、私……!!)

 

 

「それで、話ってなんだ?」

通された客間で向かい合った青年は、尊大に腕組みしてこちらを睨みつける。

およそ二年ぶりに対面した隣の道場の息子は、顔の作りは悪くないものの、以前と同じく乱暴で横柄な性格がにじみ出ていた。

「父が、狛治を姉さんの婿に迎えて道場を継がせると決めました。祝言は明後日です」

「そんなことは耳に入っている。どうでもいいがな」

どうでもいいと言いながら、眉間に皺を寄せてそっぽを向く。相変わらず、気位が高いくせに体面を取り繕う能力の足りない男だ。

そもそも、恋雪のことで内密に話があると言ったらすんなり家に上げた時点で、恋雪に未練があるのは明白である。……ほぼ同じ顔の私には洟も引っ掛けないあたり、女を見る目だけはあるのか、単に生意気な女が嫌いなのか。

なんにせよ、私は予定通りに仕掛けることにした。

「私、姉さんにはあなたと結婚してほしいと思ってたんです」

「なんだと?」

私の言葉に、男は虚を突かれたように問い返してきた。それに頷いて、大げさに嘆息してみせる。

「だって、狛治なんかどこの馬の骨ともわからない罪人ですよ。せっかくあなたのように立派な人が姉さんを気に入ってくれてたのに、馬鹿な父さん」

「――ふ、ふふん。お前、少しはものの分かる奴だったんだな」

嫌っている狛治と慶蔵を貶し、男を褒めてやれば、わかりやすく口角を釣り上げる。単純なものだ。

「ええ、本当に残念。あなたが姉さんを置いていったりしなければ……」

「! あれは突然のことで驚いたんだ、仕方ないだろう!」

狛治が見つけなければ姉は死んでいたかもしれないというのにそんな自己弁護をするあたり、全く反省していないようだ。……私の思ったとおり。

二年前の試合で、この男の父親である道場主が負けを認め、素流道場に嫌がらせをすることはなくなった。それで父はすべて解決したつもりでいたようだが、この男の中ではまだ火種が燻っている。

父親も亡くなって抑える者がいない今、わずかなきっかけで暴発しておかしくない状態だと改めて確信した。

父も姉も、とても心の美しい人たちだから。

それゆえに、どんなに恵まれた環境にいようと、ボコボコにしてやっつけようと矯正されない、腐った性根の持ち主のことがわからないのだ。私と違って。

「今からでも、祝言をやめさせる方法があったらいいのに……そうは思いませんか?」

そう言って男の表情を窺うと、僅かに目を見開いている。

「祝言をやめさせる、だと?」

案の定食いついてきた男に内心でほくそ笑みながら、持参した薬壺を畳の上に置く。

「たとえば、今姉さんが急病にでもなったら、祝言は中止せざるを得ませんね。私は姉さんの薬をよく買いに行ってたので少し詳しくなったんですが……世の中には健康な人間が口にするとしばらく具合が悪くなる薬もあるんですよ」

「……」

男は無言で薬壺を見つめている。その眼差しには、危うい意志の光が宿っていた。……これがその薬だ、とは一言も言ってないのに。

薬壺を“うっかり忘れた”まま部屋を出る直前、ダメ押しに言い添える。

「明日、狛治は朝から出かける予定なんですが、そんな時に具合が悪くなった姉さんをあなたが介抱したら……きっと姉さんも父さんも、あなたを見直すでしょうね」

 

 

翌朝。父親の墓参りに出かける狛治を見送ったあと、自分も買い物のために家を出た。

ゆっくりと市場で食材を選びながら、私の心には恐怖と期待が渦巻いていた。

あの男に、私の話を疑う賢さか、恋雪の体を気遣う優しさのどちらかがあれば負ける賭けだ。

狛治への想いを自覚して以来、幾晩も闇の中で一人、考えを巡らせてきた。

いくつも浮かんだ案の中から、このように決定打を他者に委ねる確実性の低い方法を選んだのは……「この恐ろしい企みを誰かに頓挫させてほしい」という、私に僅かに残った良心の叫びだったのかもしれない。

 

だが、やはりあの男は私が見込んだ通りの人間――相手を好きだと言いながら、己の都合しか考えられない屑だった。

そして私も、そんな男の同類だ。

帰宅して、医者から父と姉が死んだと知らされたときも。

道場の板張りの床に横たえられた二人の遺体と対面したときも。

慶蔵が恋雪を抱えて医者の家まで血を吐きながら走ったこと、恋雪はすでに息絶えていたが、慶蔵は亡くなるまで長く苦しんだことを聞かされたときも。

湧き上がった感情は悲嘆でも悔恨でもなく……総身が震えるほどの、歓喜。

自分がどんな表情をしているかわからなかったから、狛治が帰ってくるまで、両手で必死に顔を隠していた。

 

父の愛弟子の狛治。姉の想い人の狛治。

これで私だけのものだ。

 

だが、まだ策は全て終わっていない。

姉をかき抱いて泣き崩れる狛治を後目に、そっと庭に出る。

極楽や地獄が本当にあるのかはわからない。けれどあるとすれば、私は間違いなく地獄行きだ。

(それでも……)

狛治。あの日、私の心を照らした光。

暮らしが楽でなくとも、姉の看病が大変でも、不満なんてなかった。家族で助け合って生きていけたらそれだけで幸せだった。他に何もいらなかった。

そんな私が初めて欲しいと思った、他の誰にも譲れないもの。

それを諦めて極楽に行きたいとは、どうしても思えなかったのだ。

 

――『ハクジのハクはコレか。狛犬の狛かあ、なるほどな。お前はやっぱり俺と同じだな。何か守るものが無いと駄目なんだよ。お社を守ってる狛犬みたいなもんだ』

 

いつだったか、この井戸端で父がそんな風に言っていたのを覚えている。

その通り、彼は守るものがある間は、誠実で頼もしい狛犬だ。そして裏を返せば、守るものが失われたとき自滅するまで暴れ狂う狂犬なのだと、あの腕に刻まれた入れ墨が物語っている。

狛治を人殺しにはさせない。

井戸に桶を落として、毒に汚染された水を汲み上げる。

揺らぐ水面に、自分の顔が歪んで映った。姉によく似た、けれど雪のように儚く清らかな彼女とは全く違う女の顔。自らの欲望のために理不尽に命を奪い、反省もせず悔やむこともない女の顔だ。

――嗚呼、鬼がいる。

 

 

後追い自殺を図ったふりをしてからの数日間。“家族思いでしっかり者の妹娘”に疑いが向くことはあるまいと思っていたが、やはり隣の道場の息子が下手人として処刑されるまでは気が休まらなかった。けれどあの男は、自分が期待した以上に都合のいい存在だった。

ご丁寧に素流道場から出ていく姿を向かいの老婆に目撃された挙げ句、意図せず人間を二人――それも一人は、身勝手な形とはいえ惚れた女――を殺してしまった衝撃で、恋雪を放置して逃げたときと変わらず愚かで小心な男の頭からは、誰に焚き付けられてこうなったかも抜け落ちてしまったらしい。あの男の口から私の名前が出た場合に備えて用意していた言い訳も披露する機会がなくなり、布団の中で笑いを噛み殺すのが大変だった。

 

その後は、恋雪と慶蔵を失った狛治に、私という新たな首輪をかけて日常を再開させた。父と姉を偲びつつひた向きに生きる妹娘として、時に狛治に縋り、時に狛治を励まして過ごした一年余り。私はずっと待っていた。そして――

舞い散る桜の下で、ついに彼の口から私との未来を望ませたあの瞬間。

あの瞬間だけで、地獄の業火に永劫炙られる価値があると思えた。

 

「本当にきれいよ、恋雨ちゃん」

婚礼の支度を手伝ってくれた近所の女性が角隠しの位置を整えながら、鏡越しに微笑む。

「そういえば、この角隠しってどんな意味があるんでしょう?」

私の質問に、彼女は小首をかしげながら答える。

「そうねえ、たしか怒りや嫉妬でお嫁さんが鬼にならないようにってことらしいわよ。恋雨ちゃんには、あまり必要ないわね」

「――いいえ。とても大切だと思います」

鏡に映る自分に向かって、美しく微笑む。

 

私が鬼であることは、狛治には一生秘密なのだから。

 

 


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