「あら、鍵をかけ忘れてるわよ。祐一、紗由ちゃーん」
玄関の開く音がした。
「入るわよー」
リビングに入ってきた母さんは、床に転がる俺とその背後から首を細い腕で絞めつける紗由を見て足を止めている。
足を負傷していようとも、紗由は、どこまでも紗由だった。
鮮やかな手並みで俺を組み伏せると、背中側から見事なチョークスリーパーを決めてきたのだ。
こいつ、強すぎる……。
「あら、二人でなにやってるの?」
「いまちょっと、ストレッチに付き合ってるんです」
いやいや、どう見ても首絞めてますけど?
こら紗由! 当たり前のようにバレる嘘をつくんじゃない!
「相変わらず仲がいいわね~。でもご飯冷めちゃうから早めに済ませてね。おばさん車に戻ってるから」
はぁ!? ちょっ、母さん??
今まさに息子が〆られてますよ? これっていじめですよ?
「はーい。もう少ししたら行きます」
「ちょっ、助け──ぐぇっ」
◇
命からがらたどり着いた我が家は、いつも以上に愛おしかった。
ごめんね。もう壁が薄いなんて文句言わないよ。
今日の食卓はいつも以上に賑やかだった。
単に囲んでいる人数が一人多いだけでなく、浩二おじさんが置いていってくれた仙台土産の牛タンを始めとして、晩御飯がやけに豪華なのだ。
足を怪我して落ち込んでいる紗由を元気付けるためか、母さんはいつも以上によく喋り、紗由もそれに愛想よく応えていた。
「わたしも高校の頃に捻挫したことあるわよ。ランニング中にぐきっとやっちゃって」
「俺もあるな。いやぁ、惜しいことをしたよ。あの怪我が無ければ甲子園に行けてたのに」
「なにいってんのよ。あなたの高校、地区予選で負けてたじゃない」
「お母さん、それは言わない約束だろう……」
両親ともにガチガチの体育会系である北見家では、捻挫に対する理解がやけに深かった。
紗由と父さん母さんは、すっかり部活中の怪我とかいう、普通に考えて食事の場ですべきじゃない話題で盛り上がっている。
話についていけないのは、短期間でバスケ部を辞めた俺だけだ。
もっと俺にも気を使ってくれませんか?
「でも、試合中の怪我なんて紗由ちゃんも災難だったわね。ただでさえ、今は親が家を空けてるのに。何か困ってることない? 大丈夫?」
「大丈夫です。もう高校生ですし、一人でも困ることなんてありませんから」
「相変わらず紗由ちゃんはしっかりしてるわねぇ」
どこかの誰かさんとは違って……なんて言いたげな視線が母さんから向けられるので、抗議の意味も込めて無言で牛タンを口に放り込む。
「でもやっぱり紗由ちゃん一人だけなんて心配よ。あっ、そうだ。今夜はウチに泊まっていったらどう? 祐一は床に寝かせておけばいいんだし」
レモン汁を小皿に絞っていた母さんが、何気ない調子でそんな提案をしてくる。
思わず、箸を進めていた三人の手が同時に止まった。
危うくビールを吹きかけた様子の父さんが、息を整えてから口を開いた。
「おいおい、お母さん。紗由ちゃんも高校生なんだ。年頃の男女を同じ部屋で寝かせるなんて流石にマズいだろう。客間も掃除してないし、急に泊めるのは無理だよ」
「父さんの言う通り。俺、畳とはいえ床で寝たくないし」
「祐一、お前はすこし黙ってなさい」
何故か俺だけ父さんに怒られて、思わずしゅんとなる。
「そういう訳だ。ま、時間のある時に掃除しておくから、夏休みにでも泊まりに来てくれ」
紗由は遠慮がちに頷いて答えた。
一方の母さんは、まだ不服そうな感じで頬に手を当てている。
「ちょっと前まで二人で一緒にお風呂に入ってたのにねぇ」
いったい何年前の話をしてるんだ。それ幼稚園とか小学校低学年の話だろ。十年以上前だぞ。
母さんのとめどない不用意な言葉たちを前に俺と紗由は顔を見合わせたが、すぐになんだか微妙に気まずくなって同時にそっぽを向いた。
向かいの父さんはそんな母さんの調子にすっかり呆れた様子で、何も言わずにビールをあおっていた。
◇
夕食後、再び車を出してもらって有針家に戻った。
夜の鷹胡台はいつもと変わらず静かだった。車から降りると、初夏特有の少し湿ったぬるい風が頬を撫でていく。
等間隔に並んだ街灯の周りには小さな羽虫が群がっている。
昼間の熱を微かに残したアスファルトの向こうから、ジージーと鳴くケラの声や、カエルの合唱が僅かに聞こえてきた。
そんな夜を背景に玄関ポーチまで進んだ紗由は、ドアノブに熊のキーホルダーの付いた鍵を差し込もうとして……急に手を止めて振り返ってくる。
「また上がるつもり?」
玄関を照らす電光が不機嫌そうな紗由の横顔を照らしている。
「洗濯物、かごに入れっぱなしだし。あとほら、掃除もできてない」
「帰って」
「あと少しぐらい手伝わせろって」
「一人でできる」
玄関前でそんな押し問答を続けていると、背後ではエンジンの音が響いた。
「先に帰ってるからね~」
母さんは開いた窓から一方的に言い残すと車を出して、あっという間に赤いテールランプを残して走り去ってしまった。
それで紗由はようやく折れたらしい。露骨に大きなため息をつきながらカチャリと鍵を回してドアを開け放った。
あわててドアを開き、紗由が入りやすいようストッパー代わりに体を入れて固定する。
「……ただいま」
紗由はぼそりと呟きながら、俺の腕とドアの隙間をすり抜けるようにして中へと入っていく。
うまく肩は貸してやれないが、こういうことができるので、無駄にデカい身長も悪くないなと思う。紗由が中に入ったのを見届けて、ゆっくりと重いドアを閉めた。
それまで聞こえていた初夏の音や生暖かい風がスッと遮断された。
代わって、僅かにひんやりとした家屋の空気が包み込む。
「着替え取ってくる」
「階段大丈夫か?」
何も言わず、器用に手すりをつかって階段を上って行った。
リビングで待っていると階段を下りる足音が聞こえてきた。紗由は腕にはバスタオルと衣服を抱えていて、リビングに顔だけを出して声をかけてくる。
「シャワー浴びてくるから」
「風呂は洗わなくていいのか?」
「大丈夫」
「そっか。洗濯物畳んで待ってるからな~」
そう声をかけるが、やっぱり紗由は返事をすることなく、さっさと風呂場に行ってしまった。
他にこれと言った音もないせいで、リビングにまでシャワーの音が響いてくる。
なんだか雑念が湧いてきそうな気がして、首をぶんぶんとふって振り払う。洗濯物を畳み続け、とにかく手を動かすことで気を紛らわせる。
作業を終えたころ、少し大きめのルームウェアに着替えた紗由が濡れた髪の毛を拭きながら歩いてきた。
右足をかばうように歩く様子を見て、なんだかきゅっと心臓が締め付けられる感じがした。
「洗濯物。綺麗に畳んどいたぞ」
やっぱり紗由は答えず、無言のまま俺の隣にすとんと腰を下ろして足のテーピングを始めた。
「ほかになんか手伝うことあるか?」
「テーピングできるの?」
「できないです……」
「じゃあ、お茶とってきて。冷蔵庫にあるから」
指示されたので、さっそく立ち上がってキッチンに向かう。冷蔵庫の中を見てみると水出しタイプの麦茶が冷やしてあったので、グラスを二つ確保してソファーに戻る。
そのまま、さっさとローテーブルに麦茶を用意した。
「ほら」
「ありがと」
テーピングを終えた紗由は短く礼を言うと、控えめにグラスに口を付けた。
「いつもなら文句の一つでもいうのに今日はやけに素直ね」
「別にいいだろ」
「そうだけど……今日のアンタ、何かおかしい気がする」
麦茶をしばらくすすった後、紗由はゆっくりと顔を上げる。
かすかに聞こえる冷蔵庫のモーター音。壁掛け時計の秒針の音。窓の向こうから響く虫の音。
静まり返ったリビングでは、どれもやけに大きく聞こえた。
「今朝、浩二おじさんに『代わりを頼む』って頼まれてたからな。お前のことを放っておけないんだよ」
「それだけ?」
「いや、まぁ、他にもあるけど……」
紗由の瞳は俺の考えとか、罪悪感とか、そのすべてを見透かしているようだった。
そんな顔で見つめられると、つい声が続いてしまう。
「ずっと……考えてたんだ。お前が怪我したのは、俺が無理にイオンに連れ回したせいじゃないかって。俺のせいで疲労が溜まって、それで怪我したんじゃないかって」
「はぁ、何言ってんのよ」
紗由は大きく息をつくと静かに続けた。
「運動部に入ってたら普通に怪我なんて起こるって、おじさんとおばさんの話、聞いてなかったの?」
「いや聞いてたけどさ……」
「アレは私のミスなの。アンタは関係ないし、悪くない」
「頭では分かってる。でも、そう思わずにはいられないんだ」
「アンタは深く考え過ぎなのよ。こちとら中学からずっとテニスやってんの。前日に遊んだだけでコンディションが悪くなったりしないから」
人のことをなめすぎ、とジト目で指摘される。
「なんなら、昨日はいい息抜きになったぐらいよ。みんなで遊びに行くの、楽しかったし」
紗由はグラスに結露した水滴を指先でなぞりながら、少しだけ声のトーンを落として言った。
「それにお父さんの言葉だって、ただ観戦の代わりを頼んだだけ。それで変に気負う必要なんてないのよ」
水滴が、二つのグラスを滑り落ちてテーブルを濡らしていく。
その真っ直ぐな言葉たちを前にして、俺はすっかり言葉に詰まってしまった。
本当に、こいつはどこまでも強い。
俺の罪悪感なんて、あっさりと見透かして、こうやって簡単に拭ってしまうのだ。
「だから、もう、変な思い込みはしなくていいから」
「違うんだ」
でも、これはそういう話じゃない。これは今日の怪我だけの話じゃない。
保健室の時も、その前も。昔からずっと、俺は紗由に助けられてばかりだった。
一方的に頼り切っていたことが恥ずかしくて。一方的に負担をかけていたことがつらくて。
今更どうしようもないから、この瞬間だけは俺が紗由を助けたくて。
「俺がお前の傍にいたいんだ」
たまらず、紗由の方に身を乗り出していた。
これが冗談とかじゃなくて、本気であることをどうしても伝えたかったのだ。
紗由の方は大きく目を見開くと、その場で固まっていた。
まあ、突然こんなことを言われたのだから、困惑してしまうのも無理はないだろう。
「俺じゃあさ、あんまり頼りないかもしれないけど。それでも、一人よりは……マシだろ?」
言い切ってから、自分の言葉がなんだかひどく気恥ずかしいものに思えてきた。
でも、視線は外さず、まっすぐと紗由の目を見続ける。
夜の静寂の中で、俺はじっと返事を待つ。
ここで視線を逸らすのは、なんだか逃げているみたいで嫌だった。
「……ばか」
紗由はそっぽを向きながら小さく言った。
顔を逸らされたので表情は分からないが、怒っている訳ではなさそうだ。
黙り込んだ紗由はテーブルに手をついてゆっくりと立ち上がる。
「どうした?」
「いいから。アンタはそこに座ってなさい」
紗由は不器用に足を引きずりながら玄関まで行って、何かを手に握りしめながら戻ってくる。
そのまま俺の前に立つと、躊躇うことなく俺の右手を取った。
「これ、もってなさい」
「え?」
突然のことに驚いていると、手のひらを強引に開かせて金属の塊を押し付けてくる。シャワー上がりだからか、俺の手を包み込む紗由の指先は、いつもより少しだけ熱を持っていた。
「どうせ明日も来るんでしょ? この足じゃ、いちいち玄関まで行くのも面倒だから」
「あ、あぁ……」
柔らかな体温が離れた後、手のひらに視線を向ける。
紗由から渡されたのは熊のキーホルダーの付いた鍵だった。有針家の玄関の鍵だ。
「私は予備の方を使うから、そっちはアンタがもってなさい」
「つまりこれ……合鍵?」
いや、この場合は本鍵と言う方が正しいか。
「言っておくけど、いくら幼馴染だからって鍵を持ってていいのは足が治るまでだから」
俺の手からパッと離れた紗由は、再びソファーに腰を下ろして、麦茶のグラスに両手を添える。
そのまま、僅かに残った麦茶をぐいっと一気に飲み干す。
どういう訳か、紗由はグラスが空になってからも、しばらく同じ姿勢を崩さずにいた。
「あー、えっと。……もうカラだぞ?」
「わ、わかってるわよ!」
困惑しながら指摘してやると、紗由は慌てた様子でグラスから口を離した。
「あと! 無くしたら本気で許さないから!」
「人んちの鍵なんて無くさねぇよ」
俺ってそんなに頼りないと思われてる? なんて思いつつ、鍵をぎゅっと握りしめる。
少しの間、その硬い触感を手の中で感じていると、思わず笑みが漏れてきた。
嬉しかったのだ。
この鍵は、紗由が俺に頼ってくれていることの証明だったから。
「ありがとうな。大事にするよ」
俺が呟くと、紗由は俯いて前髪をいじりながら小さく息を吐いた。
「アンタってほんっとばか」