昔を懐かしむ、鬼の話   作:つも

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狼の章

 

 

 迫る死。

 内府に抗する備えはあれど、それは到底、今の状況に間に合うほどではなかった。無念のうちに討ち果てる。それだけが弦一郎の心残りであった───

 

 

 

 

 

 ───眼前を覆う、赤い残影。

 

 それは何かが通ったあとをなぞるように浮かび、そして消えていった。それに心当たりが無いわけではなかった。

 

 しかしながら弦一郎には、それが間に合うとは露ほども思っていなかったのである。

 

 

 

 

「遅かったな……御子の忍び」

 

 

 背中に、禍々しく赤黒い鞘を背負い、そしてその右手には刀身からじわりと発され続ける、血潮のようでありながらも黒く歪な()()

 

 満身創痍の弦一郎に迫っていた大太刀を弾き、楔を打ち込んだ武器。それこそ、弦一郎が探していた葦名の伝承に語られた古き刀の一振り。

 その刃は酷く刃毀れしており、まるで戦いに用いるものとは思えず、儀仗のような特別な用途にしか使えないようにすら思える。

 

 しかし、竜胤の御子と契約し、不死の契りを結んでいた忍びなればこそ、その力は御子の忍びにしか振るえぬものである。

 梟の大太刀を弾き返した後に、それを背の鞘に納刀して腰の刀を抜き、構える。

 

「倅よ」

 

「生きておいで、だったとは」

 

 双方にとって……倅と呼ばれた忍びにとっては殊更に、望まぬ再会であったろう。

 握りを顔の横につけ刃先を上に向け、そのようにして、互いに刃を向ける様は、血は繋がらずとも、かつての父子の繋がりを思わせ、だが今は既に敵対していた。

 

 なにより、倅の忍びには、梟の生存は驚愕に値する事実であった。三年前の平田屋敷の討ち入りの折に、梟は深い傷を受けており、そして死んだのを狼自身の目で見ていたからだ。謀によって育ての子さえ騙す、ある種最も忍びらしい男である。

 

 故に、純粋に他者を疑えない狼は、育ての親である梟と打ち合う弦一郎との姿を見、しかし親よりも弦一郎に味方をすることを選んだ。

 それは、忍びの仕える主が弦一郎に協力することを、死なずの忍びの力を以て約束したからであった。また、葦名の命運を救った暁には、竜胤の力を消滅させる、不死断ちに協力することを条件に立てて。

 

 

「忍びよ、梟の相手は任せる…」

 

「御意」

 

 

 弦一郎は天守閣の屋内へと身を翻した。流血の激しい左腕を抑えなければ、失血によって体力を損なう恐れもあったからである。

 

 そして、相対したのは血の繋がらぬ親子。

 

「伜よ。忍びの掟、忘れてはおらぬな」

 

 梟が刀を向けたまま、そう尋ねる。普段こそ無言であるはずの忍びであるが、親子の情ゆえか、口を開く。

 

 ひとつ。親は絶対。逆らう事は許されぬ。

 

 ふたつ。主は絶対。命を賭して守り通し、奪われれば必ず取り戻せ。

 

 みっつ、恐怖は絶対。一時の敗北は良い。だが手段を選ばず、必ず復讐せよ。

 

 

 それは、忍びとして育てられた、隻腕の男…忍び義手を己が武器として用いた『狼』が、親たる『梟』より叩き込まれた掟である。

 その第一項こそ、親に逆らうことなかれ、というもの。狼とて、戦場漁りであった身を梟に拾われ、薄井の森の忍びに育てられているからこそ、彼らを親や師として尊ぶという思いが無いわけではなかった。

 

「ならば、親として命ずる。主を捨てよ」

 

 しかしながら、狼とて表情は薄けれども、人の子である。たった数ヶ月仕えただけの少年であるが、主こそは絶対であった。

 

「…出来ませぬ」

 

 目を細め、梟の動きに対応できるよう、全身をその瞳に捉える。梟もまた、それは同じことであった。

 

「それは……なんという……」

 

 太刀の切っ先を僅かに下ろし、悲しそうに目を伏せる義父。狼は、なおも警戒の姿勢を崩さない。それが───

 

「儂は…お前を、信じておったというに……」

 

 

「……フンッ!」

 

 手裏剣が狼の目と鼻の先にまで迫り、だがそれを刀を振り上げ難なくいなす。

 

 ───それが、泣き落としだと理解していたからだ。

 

 狼が手裏剣を弾くと共に、鋭く振り抜かれる刃。対し、面の防御となるように左側面に構えた刀を、狼はそのまま突きとして放つ。それを梟が踏みつけ、首筋に刃を突き立てようと素早く斬り下げたのはほぼ同時であった。

 

 しかし、狼とて修羅場を潜り抜けてきた忍び。使えぬ刃は捨てる。それと共に手裏剣という暗器を絡繰腕に装填し、刃を受け止め、流すために抜き去った。

 そのまま二度、三度と左右に振り払う。その全てが致命となる首への一撃であったが、梟はそれも半歩ずつ後退して回避し、身を捩って勢いよく刀身を狼の脇に叩きつけた。

 

 だが、如何なる早業か、梟が僅かに視線を逸らしたその隙に、捨てた刀を拾い上げ、梟の剣撃に対応して見せた。

 

「む…」

 

 梟もまた、その狼の動きに脅威を覚え、そしてそう感じた自らに驚愕し、歓喜した。

 

「よくぞ育った、狼よ!」

 

 後ろに飛び去り、距離を離す。狼もまた床を蹴って素早く前進し、距離を詰めようと駆け寄った。左腕に組み込まれた忍び義手が、がちりとからくりの音を鳴らす。

 

 そこから手裏剣が取り出され、まだ空中を跳ぶ梟目掛け投げつけた。それを難なく弾き返す梟であるが、狼の攻撃はそれで終わりではない。

 義手の重みを支えに、身体を縦に回転させ、遠心力を以て刀を叩きつける。葦名の忍び衆の技、寄鷹斬りである。

 

 一気呵成に距離を詰め斬り付ける狼に対し、刀の背を合わせて軌道を逸らしていなすと、梟はもう一度来るであろう攻撃に注意を凝らした。寄鷹斬りには、二度目の斬撃…即ち、逆さ回しがあるからだ。

 

 ……しかしながら、そこにあるのは次なる刀ではなく────脚。

 

「むっ!?」

 

 力強く地を蹴り、飛び上がると共に二度の回し蹴りを放ち、一度目は梟の腹に、二度目は顔を打ち抜くと、鋭い蹴り落としが梟の頭を目掛けた。仙峯寺に伝わる拳法の秘伝がひとつ、仙峯脚である。

 

 梟は、蹴り落としをこそ弾くも、一撃与えられたという事実に驚いた。狼の育て方は、間違っていなかったのだ…と。

 

 喜びに打ち震え、雄叫びと共に浮き上がり、回転しつつ二度の斬撃を放った。その鋭さばかりは、如何に狼とて完全には弾けず、二撃目の斬り払いによって僅かな手傷を二の腕に負った。

 

 忍びの才こそ、秀でている程度のものであるが、戦いの才覚……とりわけ、人斬りの才は並のものではない。今しがた放った流派技とて、一方は葦名忍衆の技に、もう一方は仙峯寺の修行僧達が収める仙峯寺拳法。いずれも薄井の忍び衆が扱う技ではない。

 

 梟は、この才能に、喜んでいた。

 倅が、我が野望の礎になればと。

 

 

 

 

 

 しかし、狼とは、忍びらしからぬ忍びである。

 柿色の装束に、皺の寄った眉間。口を開けば御意しか返さず、甘いものを好み、米は炊かぬ。

 だからこそ、九郎は家族のような情さえ抱いていた。

 

「……狼よ」

 

 その声に、梟から目を離すことはないままに、耳ばかりを後ろへ注意した。狼の、主。

 

「九郎様、不死斬りを取りて参上しました。今暫く、お待ちくだされ」

 

「お主にばかり、苦労を押し付けてしまうな」

 

 まだ若い声が、狼と梟の、二人の耳に届いた。

 今は無き平田屋敷……葦名家の分家である平田家が当主平田正信の長兄・平田九郎である。齢十四にして竜胤の呪いをその身に宿す、不運の子であるが、故に梟は狼を宛てがい、忍びとした。

 その野望のためだと、今ならば理解できた。

 

 故に、負けられぬ相手である。

 

「主の忍びでありますゆえ」

 

「すまぬ……梟を、止めてくれ」

 

 その言葉と共に、向けた刃を鞘に仕舞い、そして深く腰を落とした。梟にも、その技の予測は利いた。そしてそれは正解し、来たる衝撃の為に刀を向かわせた。

 

 

 

 二度、凄まじく高速の連撃が跳ぶ。

 葦名十文字である。

 

 完全なる十文字は描けぬそれだが、、狼の十文字は特に速さを突き詰めた実戦的なものだ。そのために、梟の返す刀は狼の刃を弾き切れず、篭手を切り裂かれ、腕が僅かに血を吹く。

 

「むうっ……!!」

 

 そのまま、狼は素早く畳み掛ける。忍び同士の戦いともなれば、生半可な攻勢では決着が着かない事も多々ある。そのために狼は養父への情を捨て、ただ敵としてのみ、認識した。

 

 跳躍し、体を回転させて二度、斬りつける。行きと帰りの二連斬は、薄井の森に時折吹きすさぶ風をその名とし、旋風斬りとした。

 

 その出の速さゆえに、牽制、差し込み、とどめ、どの用途を取っても使い勝手の良い技であり、梟が狼に手傷を負わせるために先程用いたのも、これである。

 

 基礎を極めた忍びのそれは、致死の技となる。梟然り狼然り、この技を起点に多くの敵を屠ってきたのだ。

 だからこそ、弱点も知っている。跳躍し、斬りつけ、着地するまでの僅かな瞬間。そこだけは隙となる。そこを狙い暗器を握りしめつつ、逆手刀で迎え打つ。

 

 一度………二度!

 

「……!」

 

 二度瞬いた刀は、確かに弾き切った。

 

 だが、梟はひとつ誤算をしていた。旋風斬りの使い勝手の良いゆえに、己と同じように狼もまた、元の型を極めたものであると思い込んでいた事である。

 

 狼のそれは、正確には旋風斬りではない。

 葦名流ならぬ、一心流の薫陶を受けた()()の切り開いた技。我流のそれは、葦名流でも忍び技でも、まして薄井忍び衆の技でもない。

 

 言わば、狼流。

 

 

 

「が、ふっ…!」

 

 二度の旋回と斬撃の後、その勢いのまま放つ回し蹴りが、梟の胸部を叩きつけ、肺の空気を押し出す。如何に忍びとて、それは人。

 人ならば、肉体もまた人であり、動けなくなる点はいくらでもあった。

 

 苦しさのために一瞬防御の遅れた隙を逃さず、素早く斬りつけ、後ろに飛び去る。それは出し惜しみしていた寄鷹斬りのもう一振り、逆さ回しである。

 狼の放ったそれは、技の終わりではなく、むしろ決着をつけるための布石であった。

 

 跳躍した狼は、その背を向けたまま上半身だけを仰け反らせ、着地の寸前に空中にて手裏剣を投擲した。

 

 梟はそれを弾いたが、その瞬間にそれが狼の布石であり、己はそれにまんまと乗せられたのだと気付く。それはもう、遅かった。

 

 間合いを詰める高速の斬撃に、その勢いを乗せた重い背撃。そして二連続の斬り払いを繋げ、止めの一撃とばかりに、背中の大刀を素早く抜いた。

 不死を斬る大刀による重い斬撃は、骨を砕き、肉を断つ。

 

 不死斬りと、楔丸の、二振りの刀による蹂躙。その勢いを殺すように、梟を踏みつけ、後ろへと跳び立った。

 

 鮮血の飛び散る中、梟は己の最後に満足していた。

 

「影落とし、お返し致す」

 

 

「見事……なり……!」

 

 互いに背中を向け、だが狼が逆手に背後へと繰り出した刀は、正確に梟の心の臓を貫いた。

 眼前から消えるように跳び、回り込むと共に致死の一撃を与える忍び技。それは、梟が最も得意とした技であり、技を見て盗む狼が最も習得に難儀したもの。しかし、梟の今際にそれを振るい正真正銘の父の似姿であった。

 

 

 

 血に倒れ伏した梟の、静かな骸を、狼はただじつと見つめていた。それは戻らぬ過去への郷愁か、あるいは父への思いか、それは定かではなかった。

 

 ただ、静かに刀の血を拭い去り、鞘へと仕舞い、その場を後にした。狼は情を捨てきれず、非情になれなんだ半端な忍びであり、だからこそ親を真似ようとしたのだろうか。

 

 

 雪が僅かに差し掛かった床を踏みしめ、階段下を見る。忍びらしく狼は足音も立てずに降りるが、弦一郎と目が合ったのを機に、狼が仕える主である九郎の隣に向かった。

 

「終わったか……」

 

 天守閣の最上階、かつて葦名の食客であった巴の主、(たける)の祀られている祭壇を以て御子の間としており、今は天守閣上部にて九郎の匿われている寝所となっている。

 

 そこには傷を手当てされている弦一郎に、それを見守る九郎、そして治療をするエマの姿があった。弦一郎の言葉に触発される前に、九郎が狼に駆け寄り、狼はそれに膝を着いて礼をした。

 

「お待たせ致しました、我が主。御命が通り、不死斬りを手にしました」

 

「それが、不死斬り…」

 

 エマの驚く通り、背中から不死斬りとされる赤黒い刀を取り去り、抜いて見せた。九郎はそれが求めているものだとわかり、狼の肩に手を置いて労った。労いの言葉をかけてやるのが主の務めであると、少年ながらに理解しているためである。

 

「よくやってくれた、我が忍びよ。そなたのお陰で、不死断ちへの第一歩は成った。……弦一郎殿」

 

「ああ……狼、此度の件、相済まぬ。親殺しを押し付ける形になってしまった」

 

「……俺は、主に仕える忍び。親殺しもまた、本懐を遂げるためなればこそ」

 

 九郎は、狼の頬に手を伸ばし、その目を見つめ、そして眉間に視線を移した。口では強く決意を露わにする狼であるが、九郎の目にはそれが狼が逡巡した上での決断であったことは明らかだった。

 

「そなたは、優しいな。薄井の忍びの強さがよくわかる」

 

 慈しむように微笑みかける九郎の表情を目にして、狼は僅かに瞼を見開き、そしてすぐに閉じ、淡々と答えようとした。

 

「──義父もまた、強かった」

 

「…そうだな。そなたには、本当に世話をかける事になる」

 

「御意」

 

 

 

 

「おう、弦一郎」

 

 天守閣に新たに足を踏み入れた、第二の存在。傾国の美女にも思わしき容貌に、だが恐ろしき存在の証明たる角が生え、異国の女に見えるそれは、まるで親しき相手であるかのようにその名を呼んだ。

 

「童子か…随分と長いこと、外していたな」

 

「あぁ…そうか?」

 

「氏成を連れ回していたのは、寄鷹衆から聞いていた。俺の計画も、聞いたのだろう」

 

 星隈童子は、傷を受けた弦一郎を見て、僅かに目を見開く。葦名流、巴流共に高度な達人である弦一郎は、どのような対手であれ油断はしないだろう。それほどの男に怪我を負わせるような腕前を持つ存在が、ここにあったということである。

 

 

「おお、聞いたとも。死なずの兵たぁ、随分と大仰なことを練っていたものだ。そっちのはお前の女中か?」

 

「いや、薬師だ。エマと聞いたことはあるだろう。おじい様を診てくれていた」

 

「ああ、一心お付きの!」

 

 それで思い出した。それは確かに、童子が歳を食った一心に会った時、弦一郎の口から聞いた名だった。

 しかし、童子が天守閣の最上まで足を運んだのは、わざわざ顔を合わせに来るためではない。それこそ弦一郎が鬼である星隈童子を招来した最大の理由を果たしに来たためである。

 

「まっ、挨拶もそこそこにだ。これからの葦名の戦、お前はどんな異端の力でも従えるのだろ?面白いじゃないか」

 

「……面白い、だと。この葦名存亡の危機に…」

 

「ああ、面白いぞ。私も、内府を相手してやる」

 

 その言葉に、弦一郎もエマも、残る二人すら顔を見上げた。特に弦一郎

含まぬ三人は、いくら女が弦一郎から能力に関して全幅の信を置いているからといっても、内府方の勢力を相手取って勝てるほど強いわけが無い、と考えているからだ。

 

 しかし、弦一郎ばかりはそれに僅かな安堵の表情を浮かべて目を閉じ、息を深く吐き出した。

 

「漸く決めたか……もう少し早ければ、もっと助かったのだがな」

 

「遅かったぁ?確かに忍び連中っぽいのはいたけどさ、屋根伝いのやつらは皆、()()()来たよ。それに内府はまだ攻めてきちゃいないだろ?」

 

「いや、攻めて来る。エマ」

 

「はい、それは私の口から……」

 

 薬師が童子の前に立つ。弦一郎から童子について色々聞いていたために、説明役としても適任だったのである。何より、一心を診ていた本人であるからして、説明をするに最も適している人物であるのは明白だった。

 

 童子はエマからの言葉を待ち侘びたが、そこに待っていたのは童子にとって、再びとなり、そして二度と癒えぬであろう絶望であった。

 

「一心様は、つい先刻、眠られました。病によるものです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鼻息荒くメモを取り続けていた鴉天狗も、葦名流断絶の理由を聞くや否や、ペンと手帳を取り落としかけた。手元から離れたそれを並外れた手さばきで回収するが、動揺は隠せていない。

 

「それじゃあ、葦名流の途絶というのは…」

 

「完全なものは、一心の死で途絶えたろうねえ」

 

 ぐい、と盃の中身を飲み干した。勇儀が珍しく感傷に浸っているのを見て、先刻までは面倒臭いものに絡まれたと思っていた文は、既に目の前の苦手な鬼の語り口に魅了されていた。

 物語や御伽噺を聞いている時とは違う、そうした時代を知っていて、尚且つ自分達がそうした御伽の側の存在であることを理解しているが故の、その臨場感のある言葉に、途中まではするすると進んでいた筆も落とすほどに。

 

「んんっ……いやしかし、昔に風の噂で聞いただけの葦名の国盗り伝説、まさか本当のこととは」

 

「なんだい、私が嘘をついているとでも?」

 

 いやいや、と文は頭を振ってその意地悪な問いを否定する。本当だと言ったのはただの言葉の()()であり、鬼が嘘をつくとは思っていない。

 ただ、かの徳川家に抗する最後の大名たる豊臣秀頼のほかにもう一つ、東北に後の将軍と戦った国があるという話を、当時は話半分で聞き流していたというだけである。

 

 むしろ、そんな面白い話があるのなら、天狗の社会を嫌って遠い地に隠遁するのでなく、思うままに行動したら良かったと後悔の念が渦を巻いている。

 

「いえ…むしろ、羨ましいです。そんな体験、もう無いでしょうに」

 

「そうさな…」

 

 またもぐび、と酒を呑み込んだ。

 味わうのではなく、酒を喉に押し込むためだけの呑み方。こりゃ面倒なことに巻き込まれるぞ、と考える間もなく、首に腕を回され、肩を組む形になる。

 

「なあな、お前ももっと聞きたいだろう?」

 

 それは言わずもがな、葦名の最期のことを示していよう。喉を鳴らし、静かに、だが強く頷く。

 

「よぉし来た!それじゃあそこの宿まで連れ合いと行こうか!なあに、橋姫様もいるし、酒も乗ってきた!鬼狩り譚の終わりは近いぞぉ!」

 

 まるで鬼のように豪快に笑う星熊勇儀である。当然鬼であるが。

 

 

 

 

 

 

 して、射命丸文を連れ込んできた星熊勇儀に対する水橋パルスィの反応は、天狗の想定通り冷ややかで冷たいものであった。海よりも深く深緑より濃い嫉妬心の炎は、幸いにして文には向いていない。

 

「まぁまぁ、いいじゃないか!女三人、楽しく飲もうじゃないの。幸い、お前さん達には私の話っていう最高のつまみがあるだろう!」

 

「そういう問題じゃないの。あんたが鴉天狗を連れ込んできたっていうのが問題なのよ!」

 

「そう言うなって、な。お前もそう思うだろ、天狗!」

 

 突然に話を振られて、ええそうですね、なんて取り留めのない答えしか返せない。修羅場に鴉を持ち込むのはぜひやめて頂きたいところだが、流石は鬼。一見して昔とは違うような雰囲気を醸し出しておいて、酒が入ればあら不思議、いつもの姿に早戻りだ。やいのやいのと、まるで首を掴まれた猫のように縮こまるしか出来ない哀れな鴉天狗を恋人からの口撃の盾に用いられている気分だった。

 

 しかしながら、適当な相槌を返すしか無かった文に対し、水橋パルスィの反応は思ったよりも優しいものである。勇儀の悪酔いをしている時がどれほど悪質か、巻き込まれた側であるゆえの同情や憐憫の思いも、多分に含まれていたはずだ。

 

「貴女も災難ね…。鬼に肩組まされるなんて、怖くて仕方ないでしょうに」

 

「あの…同情は嬉しいのですが、早く勇儀さんをどうにかしていただけませんか?」

 

「無理ね。この人貴女の事お気に入りみたいだし、付き合ってあげてよ」

 

「そんなぁ…」

 

「おい、何こそこそ話してるのさ!いいから昔話を聞け、酒もあるんだからな!」

 

 ぱっと手を離され、自由になったと共に尻もちをつきそうになり、すぐに体勢を整える。隣の座布団にどかっと豪快に座り込んだ勇儀は、右脇に文を、膝の上にパルスィを座り込ませたあと、左手で器用に盃を傾けながら、微かに霞がかった記憶を掘り起こす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうか、死んだかよ、あの老耄は」

 

 葦名の城に足を運んでからこっち、一心とは一言たりとも言葉を交わせずじまい。いつ何時見に行こうが、寝たきりの姿を拝むばかりであったからだ。

 だから、弦一郎からその言葉を聞いたすぐは、ただ死んだのか、としか思えなかった。

 

 私は鬼だ。

 人の生き死になどどうでもいいはずなのに。勝手に死んだことに対して雑言の一つや二つ、喚いてもいいのに。心中で鎬を削った間柄のはずの男の姿は、今は遠かった。

 

 百年、二百年、五百年、千年を生きた鬼が、そう感じるほど遠くだ。どれほどのものか、只人には想像すらできまい。それ程一心との戦いはかけがえのないものであるのに気付いた。

 

 ……そして、もうそれが戻らぬことにも。

 

「あぁ……うぁあっ……!!」

 

 歯を食いしばっても喉の奥から零れ続けるもの。これはなんなのか、すぐにはわからなかった。鬼には無縁のものだったから。

 目頭を熱いものが通り過ぎていく。それで漸く気付いた。私は、葦名一心が好きだったのだ。

 

 あの、何者にも縛られぬ強さを。

 研ぎ澄ませ続けた剣の腕を。

 私をかつてなきまでの歓喜に導いた戦いを。

 

 その全てが愛おしかったのだと理解した。それは人が語るような軽率な愛ではない。私は、私を殺してくれる唯一の男だけが愛するに値すると、漸くわかった。

 

「一心……!」

 

 大粒の涙が木目を打った。私は鬼だ。やつは人間だった。鬼と人は本来は相互に理解し得ない存在。それが、鬼を斬る、ただその一点において分かり合えた男だったのだ。

 

 

 鬼の力を戦に使おうとする弦一郎ではない、彼に付き従う葦名衆ではない、ただ、一切の私利私欲なく、強さという我があるだけの男が、こんなにも愛しくあったことに気付いたのは、会えなくなった時でも、久しく顔を見た時でもない。

 死別し、二度と話すことの出来なくなった今、神仏は妖に、酷く残酷な感情を与えた。

 

 いたたまれなくなって、一人、また一人と消えていく。大声をあげて涙を零す鬼を、悲しく見つめ続けるのは、一人だけだった。

 

 床に座り込んで嗚咽に着物を濡らす童子を見つめ続けていたのは、眉間に深く皺を刻む無愛想な男だ。

 けれどその視線は、兎に角悲しそうだった。

 

「泣いているのか」

 

「じゃあ……逆に聞くが、お前は私を…殺せるのか?」

 

 男は、僅かに思案をして、頭を横に振った。

 

「…殺したくは、ない」

 

 敢えて否定をせず寂しそうに答える声が、夕暮れの光が差し込む天守閣に、酷く孤独に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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