桐藤ナギサという人は、物心ついたときから側にいるような女であった。
私、聖園ミカにとって彼女は、幼馴染であり、口煩い同僚であり――なにより親友であった。
私と彼女にとって、お互いの隣は常にお互いのために空いていた。
始まりこそ親に引き合わされての関係だったが、いつからか私たちは互いが当たり前の存在になった。
はっきり言って、その関係はこれから先も続くことに疑いようはなかった。
何をしても、何をされても許せるような関係。子供の頃からの延長線。
正直に告白すれば、許してもらうのはいつも私の方だったのだけれども。
ずっと、ずっと。これから先も続くような関係。そんな日々を、心から信じていたのだ。
本当に、そう信じていたのだ。
結局、全部を台無しにするのは私なのです。
滅茶苦茶にしてしまうのは、私なのです。
取り返しのつかないことを犯してから、気づくのです。
ああ、私という女の愚かしさよ。
何処までいっても、お前は魔女であると、私のどこかが叫ぶのです。
☆☆☆
今やティーパーティーの席は一つ分しかいらなかった。昔は三つあるのが当たり前であったが、伝統は打ち壊され、トリニティはその名の意味を失った。
報告に来た生徒を下がらせ、書類に向き合う。こういう仕事は柄ではないのだが、やれる者がいないのだから仕方がない。
仕事ができる人を探すのは急務だったが、そういう人たちはナギちゃんのフィリウス分派に集まる傾向にあり――あけすけに言ってしまえば、パテル分派にはそういう人間は集まらなかった。
溜息をつきながら、紅茶を飲む。他人が淹れたものであり、美味しくなかった。これなら自分で淹れた方がマシだったと心の中で悪態をつき、カップを遠くに追いやった。
口直しに茶菓子でもと思い、籠に手を伸ばすが空を切った。考えてみれば当たり前のことだった。私はいつも食べるばかりで、補充するということをしなかったのだから。
再び溜息をつく。私が望んだ現状だが、どうにもままならない。昔からやりすぎてしまうきらいがあった私は、そのたびに周りが止めてくれてきた。
室内を見回す。どうにも静かで、綺麗で、死んだ部屋だった。漸く部屋の静かさに気づき、一度気になるとどうにも居心地が悪く、私は勝手に切り上げた。
アリウス生徒たちを見かける。彼女たちは学がなかったが、言われたことは守り、勝手に行動することもなかった。確かに扱いにくくはあったものの、きちんと命令さえしてやれば手足の様に動いてくれた。
「ミカ」
「サオリじゃん」
錠前サオリがこちらに向かって来た。彼女はスタイルが良く、癪だが美人と言って差し支えなかった。私には敵わないけれどもね。
アリウススクワッドというチームのリーダーもやっていた彼女は、人の上に立つということに長けており、今も何かしらの指示を出していたようだ。
トリニティの生徒はなんとか私が統制できるが、アリウスの生徒とは接し方がイマイチ掴めていない。サオリがその役目を担ってくれるのは、ありがたかった。
「仕事の方は大丈夫か? ⋯⋯すまない、私たちも手伝えれば良かったんだが」
「大丈夫大丈夫。適材適所って言うでしょ?」
「そういうものか」
「そういうものだよ」
サオリは比較的頭が良かったが、それは知識があるというより、頭の回転が速いというたぐいのものだった。書類に埋もれさせるのは可哀想であり、また彼女の実力を考えれば勿体ないことであった。
「早く勉強させなきゃね⋯⋯」
「私も最近は勉強に励んでいる。しかし面白いな、知るというのは」
随分とサオリは勤勉なようで、トリニティのBDで勉強を進めているらしい。彼女に仕事を振れるようになったら、私が楽できる。頑張って欲しいものだと思う。
「⋯⋯そう言えば、彼女の容態は?」
「安定してるから大丈夫だよ⋯⋯ちゃんと伝えてあるんだよね?」
「ああ、決して近づけさせない⋯⋯アリウスも、トリニティも。ああそうだ、姫が花壇の世話を始めたんだ。顔を出してやってくれ」
「ふーん」
なんとなく、姫とやらとは馬が合わなかった。多分、会いに行かないだろう。
私は階段を登り、自室に向かった。ティーパーティー特権で、一般生徒とは比較にならないような部屋を私は昔から与えられていた。こうして生まれてから与えられ続けたからだろう、アリウスの生徒たちに部屋を割り当てるまで、私は他の生徒の部屋を見たことがなかったことに気がついた。
ドアの前まで行き、ドアノブに手を掛け、捻る。
開いたドアの先にはソファがあり、そこには一人の女が座っていた。
その女はドアが開いた音に気がついたようで、こちらを向いて、読んでいた本を伏せて立ち上がった。
しかし上手く歩くことができなかったようで、つんのめって転びそうになる。私は慌てて支えることができた。
「大丈夫!? 良かった⋯⋯」
今私の腕の中に居る女は、桐藤ナギサそのものだった。
「ナギちゃん、あんまり無理しちゃ駄目だよ」
ナギちゃんは少しだけ困ったような顔をして、軽く頷いた。随分と表情の変化が乏しくなり、幼馴染の私でもなければ分からないだろうと思わせる。
読んでいた本は、よく見てみると私が昔に買ったが読む機会を逸したものだった。彼女は時間を持て余して居るようで、本に囲まれた穏やかな時間を過ごしていた。
やはり、軽くなったと思う。私の知っている彼女に比べて腕が細いような気がしたし、腰回りも随分華奢になったように感じた。
ナギちゃんは私がこの部屋に閉じ込めている。できるだけ誰にも見せないように、必要な時以外誰にも見つからないように。
私の愛しい愛しい大切なもの。
鳥かごの中の鳥。何処にも行かないで欲しいのだ。
☆☆☆
私がアリウスを呼び込み、クーデターを成功させたとき、これ以上誰かを殺そうとは思っていなかった。
セイアちゃんを殺してしまったことに、私の心は耐えられなかった。これ以上の人数は背負えそうになかったからだ。
白洲アズサは本当に強かった。私の友人を殺した上で、それを自分が決めてやったのだと言い切ってすら見せた。その目には覚悟が宿っており、殺した以上は引き返すことはしないという力強さがあった。
セイアちゃんを殺した以上は引き返せない、というのは私も意見を同じにするところだった。アズサの手引きと私の裏切りは、クーデターをいとも容易く成功させた。
補習授業部での活動は本当に楽しかったらしいが、それはアズサが止まる理由にはならなかった。まさしく通り名の『氷の魔女』として、求められたことを、必要なことをやりきってみせたのだ。
ナギちゃんは裏切り者の存在を確信しており、補習授業部に疑わしいものを集めた。シャーレの『先生』まで巻き込む手腕は間違いなくホスト代理として相応しいものだった。
彼女は賢く、また自分の疑念を大切にしていた。
それだけ周りをよく見ていた彼女は、しかしすぐ隣の存在を疑うということをまったくしなかった。
ナギちゃんにとって、私は守る対象だったのだろう。
本来彼女を出し抜くのは簡単ではない。私でなければ、裏をかくことはできなかったと確信している。
彼女の信頼を裏切ったとき、私はしにたくなった。
セーフハウスで私から銃を向けられた彼女は、本当に理解が追いついて居ないという顔で、
『なんで』
とだけ言って私に撃たれた。私にとって理由はとっくに大切ではなく、失ったものを無駄にしないためだけの行動だった。
撃ったときの引き金の感触は今でも覚えている。最悪の感覚だった。
浦和ハナコは自力でトリニティの現状に気がついて何とかしようとしたようだが、事を起こすには人数が足りなさすぎた。『先生』に助けを求め、補習授業部の他の二人と何とかしようとしたものの、アズサ一人に時間を稼がれ失敗に終わったようだ。
私から言わせれば彼女は賢いのに頭が悪かった。
あれだけ頭がいいのだから、自分で派閥でもなんでも作れば良かったのだ。
友達とは対等であることが大切だ。彼女の能力では、これも認めるのは癪だが一般の生徒じゃあ話にならない。権力を得て、立場を盤石にしてから能力を持った気の合う人を探せばいい。
別にトリニティの権力者の全員が意地の悪い性格をしているわけではないのだ。むしろリーダーだとかホストだとかに媚を売ってすり寄ってくるような奴のほうが陰湿だ。
立場のある人間はそういう事をしない。そういう事をする人だと舐められてはいけないからだ。
トリニティに入学しておいて、友達と仲良しこよしの学生生活が無条件で手に入るという幻想を抱いたのが間違いだと、私は思う。
中途半端な彼女。気に入らないのは、彼女が私に似ているからだ。
認めたくはなかったが。
思考を打ち切りふと周りを見やると、考え事をしていたからだろう、意図せず庭園の方に歩いてきてしまっていた。不味いと思うまもなく、あちら側から声をかけられた。
「ミカ、来てくれたんだ。嬉しい」
「げっ」
「げって何」
「⋯⋯来るつもりなかったんだけど」
アリウスの生徒から姫と呼ばれる、秤アツコだった。年下のはずだが、私に対しての妙に馴れ馴れしい態度が気に食わなかった。
最初に会ったときは喋りさえしなかったが、今ではあの趣味の悪い仮面を外し、よく回る口でよく話す。
なんとなしにその理由を聞いてみると、
「余裕と時間ができたからね」
とだけ言った。詳しくは知らないが、あの『赤い女』との取引らしい。
「マダムが急ぐ理由はなくなったし、『ロイヤルブラッド』が生徒会長に成った時に顕現する神秘は計り知れない⋯⋯らしいよ?」
秤アツコはアリウスの初代生徒会長の系譜、『ロイヤルブラッド』なのだという話はサオリから聞いていた。その血には確かな正当性がある。
2年後のティーパーティーのホストは彼女だ。
それを確約するのが私とアリウスの取引の一つだった。
私たちの方から融和と言うのは傲慢だが、蟠りを解く象徴。それが秤アツコのホスト就任だった。
「綺麗でしょう? この花壇。ちゃんと勉強したんだ」
「⋯⋯そうだね」
ホストになろうという人間が喋れないのは些か不便だ。自由に話せるようになったのは喜ばしいことなのだろう。
彼女が手入れしているのだという花壇はそれなりに綺麗で、最近始めたにしては十分な出来栄えであった。センスがあるのか、昔から興味があったのか、どちらにせよ楽しんでやっているようだった。
昔から花だとかの世話はあまり得意でなかった。
放っておいたらすぐ枯れる。
アツコは見た目こそ儚げたが、中身は図太く、印象との差異が大きかった。繊細な花ではなく、アスファルトでも咲くような花。彼女の心が強いのか、私が繊細すぎるのか。
「さっちゃんも綺麗だって言ってくれてね、これから種類も増やすつもり」
「なら白い花がいいんじゃないかな?」
「白い花⋯⋯探してみるね」
楽しげな表情で、最近古書館で本を借りているのだと語った。あんまりにも楽しげだから、私は釘を刺すようなつもりで、仕事の方はどうかと問うと、
「ぼちぼちかな」
と言うので、説教しようという気が失せた。私も真面目ではなかったから、どの口がというのもあるのだが。
アツコにはティーパーティーとして仕事をさせているのだが、これが予想よりも飲み込みが早く、要領も良かった。サオリよりも早く吸収する彼女は、これなら将来も何とかなるだろうと思わせた。
ティーパーティーは無能には務まらない。覚えることも多く、気にしなくてはならないことも数え切れないほどにある。
「ミサキも手伝ってくれるし、ね?」
「⋯⋯まぁ、うん」
さっきからアツコの近くにいるのに一言も発していなかった彼女、戒野ミサキはしぶしぶといった感じに返事をした。
私が来るまでは二人で楽しく話していただろうに、うっかり迷い込んでしまったがために彼女はすっかり黙り込んでしまっていた。
嫌われているな、と思う。しかし、心当たりはない。こういう『なんか嫌』という感情は厄介である。
確かに私は私を好きにはならないだろうな、という確信がある。どちらかというと、好意的に接してくるサオリとアツコの方が異端なのだろう。
最近ミサキはアツコの側に居ることが多いようだ。忙しいサオリに代わっての護衛役であり、花の手入れだとか仕事だとかも手伝わされているようだ。
「ねぇ、手話、覚えないの?」
「いい」
「便利だよ? 私が教えられるし⋯⋯」
「いいから」
「⋯⋯そっか」
アツコは寂しげに笑った。
☆☆☆
「ただいまー」
ナギちゃんが書類の添削をしていた。アツコの作った書類で、ティーパーティーの先達としてアツコには色々なことを教えているようだった。
私の居ないところで直接会ったりもしているようで、正直いい気分はしなかった。それでも必要なことであり、私も会うことを認めてしまった以上、どうこうすることはもうできなかった。
一番こういう仕事に精通していたのは私たちの中でもナギちゃんだった。だからこうしてアツコは私を差し置いてナギちゃんに添削だったり質問だったりをするのだろう。アツコの成長のためには仕方がない⋯⋯本当に、何とも思っていないが。
「アツコの調子はどうかな〜」
後ろから覗いてみると、それなりの量修正されていた。私は思わず笑う。なんだ、ぼちぼちとか言っておいてまだまだじゃないか。
しかしナギちゃんにかかれば私もこの程度の修正を食らうかもしれない。あまり馬鹿にしないようにしよう。
私が笑ったからだろうか、こちらを向いて、少し怒ったような表情を向けてきた。まだ1年生なのに、ここまで書けるのだから十分でしょうと言わんばかりの表情だった。
「確かに、私が1年の時よりも凄いね。ごめん」
謝ると、ナギちゃんは満足したような表情を浮かべ、添削に戻った。どうやら楽しいようで、微笑をたたえていた。代わり映えのない部屋の中で、アツコから渡される書類が少しずつ良いものになっていくのは面白いのだろう。
覗き込むついでに、机の上に見慣れない花が花瓶に挿さっていたことに気がつく。
その花がアツコのいた庭園で見かけたものであることを気が付いた。きっと、どこかのタイミングで書類と一緒に持ち込んだのだろう。
「アツコから貰ったんでしょ? 水とか変えなきゃいけないと思うけどちゃんと自分でやってね⋯⋯私、そういうの苦手だから」
私がそういうと、ナギちゃんは頷き、花に手を触れた。知らない花だった。
「なんの花か知ってる?」
頷いた。
「私は知らないな」
☆☆☆
私がナギちゃんを撃った後、彼女には喋ってもらわなくてはいけないことがたくさんあった。
彼女は秘密主義とまではいかないが、私やセイアちゃんに知らせないことで私たちを守ろうとするきらいがあった。全ての情報を共有することはなかった。
今代のもともとホストはセイアちゃんだった。それでも、病弱だったセイアちゃんの代わりにナギちゃんが頑張ることも多かった。
つまるところ。
私が知らない、ナギちゃんは知っていることがたくさんあった。セイアちゃんが知らない、ナギちゃんは知っていることがたくさんあった。
だから、たくさん喋ってほしかったのだが、喋ってはくれなかった。
尋問を担当したアリウス生徒曰く、本当に強情だったらしい。
桐藤ナギサは義務を大切にし、また意志が固かった。生徒会長としての風格をその身に纏っていた。
だから、拷問された。
私が彼女をアリウス生に引き渡して、色々な根回しだとか、実権を握るための用事を終わらせるのに何日かかかり、戻ってきた時にはすべてが終わっていたのだ。
ナギちゃんが尋問を受けていると聞いた私は嫌な予感を抱えながら走った。
ドアの前まで行き、ドアノブに手を掛け、捻る。
開いたドアの先には木製の椅子があり、そこには一人の女が座らされていた。
その女はドアが開いた音に気づきもしなかったようで、拘束されていたから、立ち上がることも出来なかった。
拷問を担当したのはアリウス生二人と、血を全身に被ったような『赤い女』だった。
『ああ、遅かったですね。一通り終わってしまいましたよ。中々話さず強情で、少しばかりやりすぎてしまいました』
ナギちゃんの口には口枷が付いていた。
鞭で打たれ、棒で打たれ、銃で撃たれたようだった。絹のようなという表現に似合う綺麗な髪は見る影もなくぼろぼろになっていた。髪の手入れに気を遣っていたという話を思い出した。見る限り手の爪はすべてが剥がされて跡形もなかった。形良く整えられていた頃が見る影も無い、赤黒い指先が妙に目に焼き付いた。ふと下の方を見ると態々足の指の爪も剥がされていた。足下には血が溜まっていた。ティーパーティーの制服は無残にも破かれ、そこから見える肌は紫色に変色していた。戦いを知らず、銃も殆ど撃つことのない彼女のからだがぼろぼろになるのは痛々しかった。昔見た綺麗だったからだを想った。
気づくのが遅くなった。何か足りないとは思っていたのだが。
翼が、根元からもがれていた。
私は赤い女を押しのけて、ナギちゃんの拘束を外した。ころしてやりたかったが、それよりも先にやることがあった。
腕と腰と足とに巻き付けられていたベルトを外して、そうしてから口枷を外してやるために顔を覗き込んだ。
両目は残っていたが、その目に光は無かった。
蝶よりも花よりも丁重に抱えて、ナギちゃんのからだを持ち上げる。本当に軽かったので、風でも吹いたら飛んで行ってしまいそうだと思った。
椅子の背もたれには血がベッタリとついていた。
翼の分が、軽くなっていたのだと、漸く気づいた。
腕の中で未だに血を流す彼女を感じる。
その重みは、私の間違いを糾弾していた。
☆☆☆
アレからナギちゃんは声が出せなくなっていた。薬品で喉を焼かれたのだとセリナが言っていた。
ナギちゃんは喉を潰された上で、口枷をつけられていたということになる。
命があっただけでも良かったとも話していた。
私が、桐藤ナギサの声と翼をもいだようなものだ。
私のせいなのだ。
愚かしい私という女の。
☆☆☆
『先生』は銃で撃たれ、入院し続けているのだと、ニュースで報道されていた。
誘い込まれた先で建物が崩落し、信じられないことにそれは無傷で耐えきったものの、銃であっさり撃たれたらしい。
誰が撃ったのかは知らない。随分と混戦だったそうだから、撃った本人も気づいていないだろう。
あまり話さなかったが、いい人だと私は思った。話していて、いつかこういうことになるだろうなと思わせるような大人だった。きっと今回の件を乗り越えても、同じような結末を辿ったはずだ。
まぁ、もう少し話してみたかったが。
貧弱な外の世界の大人。銃で撃たれてたのに死なずに済んだのが奇跡だと聞いた。
情報は連邦生徒会の方で殆ど伏せられたので、一般生徒はいつ、どこで撃たれたのかも知らないだろう。
トリニティとゲヘナを取り持つ大人がいなくなり、桐藤ナギサも表舞台から姿を消したことから、当然のようにエデン条約は白紙になった。
それでもゲヘナと争いになるということはなく、小休止⋯⋯いや、冷戦のような状況が続いていた。
元来仲が良くなかったのだから、もう一押し何かがあれば始まってしまうと、そう思わせるような緊張感が漂っていた。
それでも、戦争が起きるのは私の本意でなかった。今は流石にちょっと忙しい。エデン条約がなくなったところで、その話が出てくる前に戻るだけ。それまではお互い仲が悪いなりに何とかやってきたのだから、望まなければ戦争は起きないだろう。
「⋯⋯正義実現委員会はこれからも治安維持に務めます。報告は以上っす」
正義実現委員会は頭が仲正イチカに変わって続いていた。何人かは辞めたらしいが、今まで以上の治安維持に務めてくれている。
剣先ツルギと羽川ハスミは、イチカに委員会を任せた上で、先生に協力した。
彼女たちは私とアリウスが新しいティーパーティーになった時点で従わなくてはならない事を理解していたが、それを拒否したのだ。
彼女たちは委員会のメンバーには危害が加わらないように、正義実現委員会を辞めた上で抵抗戦を始めた。
もう全てが手遅れだと気づいた上で、先生を学園の外に逃がすことを目的とした戦闘。
本当に強かった。彼女たちが居なければ、『先生』は死んでいたことだろう。
⋯⋯万が一私を殺してしまえば、殺さずとも動けないような重傷を与えてしまえば、頭を全て失ったトリニティは崩壊する。そのことを分かっていたからだろう。先生を逃がした後彼女たちは投降した。
私とて『先生』を害するつもりはなかった。言ってくれれば見逃したってよかったのだが、迂闊にも戦場に立つものだから、撃たれたって仕方がなかったようにも思う。
『これから大変だな。聖園ミカ』
トレードマークの腕章を外して来ていたツルギはそう言って、牢屋へと繋がれていった。
「うん、分かった。これからもよろしくね」
私はイチカにそう言って、退室を促した。
彼女はそれに従わず、私と目を合わせた。
「大丈夫ですか? ⋯⋯隈、凄いっすよ」
寝れているのか、と言外に尋ねられた私は軽く笑って見せながら、
「⋯⋯ん、大丈夫だよ」
と返した。少しの間目が合い続けたが、やがて諦めたらしく、溜息をついた。
「これからずっと大変なんですから、頑張って休んで下さいね。ミカ様」
イチカが退出した後、私は鏡を見た。確かにメイクが薄かったかなと、一人反省した。
アレ以来、ずっと悪夢を見る。毎日毎日毎日同じ内容の。やったことを考えれば、納得であるのだが。
今になって漸くセイアちゃんの気持ちがわかるような気がした。
最悪の未来も、悪夢のようなものだろう。
自分の死を知っていながら、毎日をちゃんと生きる意味は分からないが。
居なくなってから、その人の気持ちがわかることの意味も分からないが。
報告を受けて、今日の仕事もやっと終わった。
ホストとしての業務も、慣れてきたように思う。あの2人の大変さがやっと身に沁みた。もう少し我儘を自重すればよかったかな。
廊下を抜け、階段をのぼり、自室のドアの前まで行く。ドアノブに手を掛け、捻る。
いつもの通りの、変わらない動作。
開けるとナギちゃんが変わらずに居た。それに私がどれだけ安心したことか。
「ナギちゃん、何してるの?」
漸く爪が生えてきたからか、繊細な力加減が必要になる絵描きを再開したようだった。
そういえば昔はよく描いていたな、と思い出す。
「お絵描きしてるんだ⋯⋯アツコの花か」
そこはロールケーキじゃないのかと思いながら、描いている絵を覗き込む。
また新しい花を贈られたようで、白い花だった。
そういえば、白い花でも植えたら、なんて話したのだっけ。
「よく描けてるじゃん」
すっかり夜も更けたので、今日も何とか寝ようと思った。そうするとナギちゃんが私の服の裾を優しく掴んで、引っ張った。
どうしたのだろうとそちらの方を見やると、ナギちゃんが胸の前で手を動かしているのが見えた。
「⋯⋯は」
手話だと分かり、声にならない音が私の口から漏れたのが遅れて分かった。
私が呆けているのを見て、ナギちゃんは溜息をついた。私が手話を理解できていないと思ったのだろう。それは、その通りなのだが、今の私はそれどころでなかった。
仕方ないなと言わんばかりの表情で、ナギちゃんは私の手を引っ張り、私の手のひらに文字を書き始めた。
『ミ』
私の思考が加速するのがわかった。
やめさせなくてはならないと思った。
動悸がして、心臓の音ばかり煩かった。
今だけは部屋の静かさが気にならないほどだった。
ナギちゃんの翼があった位置に視線が向いた。
なにもない事はとっくの昔に知っていた。
伝えるために、彼女はゆっくり、丁寧に少しずつ書いていった。
『カ』
私は毎日毎日毎日悪夢を見る。同じ内容の悪夢。
ナギちゃんが喋れるようになる夢。
最悪の悪夢。
喋れるようになった口で、私に語りかけるのだ。
ナギちゃんは一緒に部屋で過ごすようになって、私に何かを伝えようとしなかった。
彼女が何も言えないことは私に心の安寧を与えた。
喋らない家具は、変わらないものに対する安堵感を感じさせた。
『だ』
私は、許されないことをした。
喉を潰し、翼をもがれた可哀想な鳥。それを、鳥かごの中に閉じ込めたのは、私のエゴなのだ。
加害者と被害者を同じ部屋に押し込めて、私は彼女を安心するための道具の様に扱った。
私は彼女の喉が潰れているという話を聞いた時、ひどく安心した。
人の心は誰にも分からない。伝えるすべがないなら、それは無いのと一緒だ。
喋れないナギちゃん。話せないナギちゃん。
本当に、そこにいてくれるだけで良かった。
居てくれれば良かった。
喋らないでほしい。話さないでほしい。
貴方に拒絶されたら、私はきっと生きていけない。
何も言うことなく、そこにいて欲しいのだ。
『い』
私は魔女なのだ。
愚かしい女なのだ。
浅ましく。
思慮が足りない。
自分のことばっかりの、誰もが認めるひどい魔女。
誰よりも優しい彼女。
私とでも仲良くできる、心のあたたかい人。
慈悲深く。
思慮深い。
他人を優先してしまう、誰もが認める私の親友。
翼をもがれたから、何処にも行かないでくれると。
声を出せないから、何も伝えないでくれると。
私はそう、思っていた。
彼女の回復なんて、ちっとも望んでいなかった。
部屋に戻れば、喋らない彼女がいる。
その生活は、どこか満たされていた。
表情だけなら、私の好きに解釈できた。
言葉で伝えられたら、間違えようがない。
もし、もし否定されたら、私の心は耐えられない。
あなたを信じられるほど、今の私には余裕がない。
これ以上はだめだった。
私はナギちゃんの細い手首を掴み、力を入れた。
いとも簡単に、砕けた。
ああ、また取り返しがつかないことをしたなと、どこか冷静な頭がそう言った。
私の中の身勝手なミカ像を出力した結果です。
小説、書くのって難しいですね。
評価と感想、よければお願いします。