読みにくかったらごめんなさい……。
ドラコは箱を見つめる。
その中身はタイムターナー。父のコレクション一つ。誰にも知られていないマルフォイ家に残る禁断の魔法具だ。
これのせいで大切な息子は幼いころから苦しめられてきた。在りもしない噂話を信じる愚民たちのせいで。真実かどうか、なぞ彼らの前では意味がない。そこに、金持ちを堕落させる面白おかしい噂話があればいいのだ。特に、ブラック家が機能していない今。マルフォイの名前は格好の的だ。
父を恨んだことがないと言えば嘘になる。ただ、同時に。圧倒的な闇の力を前に父に何ができたというのだ。祖父の代から続く例のあの人との関わりを退けて守れるものなどあったのだろうか、と。
良くも悪くも、マルフォイ家というのは蛇の家系だ。どうしたって内側にばかり目を向けてしまう。その結果があれだから、せめて、とスコーピウスの育て方をアストリアと話し合ったのは記憶に新しい。
手をかざして、箱を開ける。中から現れたのは叡智の結晶。黄金色に輝く回転時計。ルシウスが規制前に手にしていたハイエンドモデルである。優れた魔法具を収集する癖を持った稀代のコレクターである彼の父はそれを手元に置いておくことをこよなく愛していた。見栄や悪意ではなく純粋にこれらを美しいと思う、ある種の悪趣味だ。
マルフォイ家の当主を退いた彼からドラコが受け継ぎ、持て余していたこれが、ついに役に立とうとは。思ってもみない事だった。
十四年の長きにわたり息子を苦しめてきたものが息子を救うかもしれない。因果とは不思議なものである。何度壊そうと思ったか。何度手放してしまおうと思ったか。その回数は最早思い出せないほどである。
けれど、この道具に杖を向けるたびに後悔が浮かぶ。一目会いたいあの笑顔がもう二度と手の届かないものになってしまう気がして。
これがありさえすれば、もう一度が叶う。戻りたい日を幾度思い浮かべたか。際限ないシミュレーション、それでもただの一度も実行に移すことはできなかった。
もし、それが露呈して、自分が過去に戻った事実のみが民衆の耳に入ったら。今度こそ自分は最愛の息子を深く傷つけるだろう。それを考えては手が止まってしまうのだ。
自分もレイのことをとやかく言えないではないか、とドラコは呆れる。結局、死者に縛られてしまうのが生者の常だ。叶わぬ、いいや決して叶えてはいけない願いの切れ端を手放すことすらどうしたってできない。
掌の上にのせれば目の前に時が立ち上る。宇宙は、ラズベリーの香りがするというが、時はどんなものだろう。
ドラコにとってそれは甘い砂糖菓子の匂いがした。アストリアが好んで食べていたもの。スコーピウスからも時折香る子供の香りだ。
「どうすればいいだろうか」
高貴な者ほど、先のことを考えなくてはならない。後れを取るのはもってのほかで、瞬きの差で勝機の逃すのは愚か者のすることだから。
ドラコは今、自分がこれを彼らの前に提示することで起こりうる最悪を考える。それと同時に、その逆をも。
未来というのは結局、選択の末に巻き起こる結末のことだ、とドラコは思っている。経験の浅い子供のために選択肢のその先を考えるのが親の務めであり、周りまわって自分のためにもなると本気で信じているのだ。
物思いにふけるドラコの意識を現実に引き上げたのはノックの音だった。部屋に入る許可を出すと、空気を割く音とともに現れたのはマルフォイ家につかえる屋敷しもべ妖精。彼は恭し気にドラコに頭を下げると用事を伝えた。
「ご主人様、お客様がお見えです」
「客?」
「はい、ハセオ様にございます」
客間にお通ししますか?と問われたため、今いる書斎へ案内するように伝えた。レイ相手に取り繕うものも今更ない。それに、だ。幸運薬の薬効が出ている彼がここに来るのは必然だろう。ここには逆転の一手があるのだから。であれば、早くにキングまで詰めさせるのが礼儀だ。
ドラコがタイムターナーの箱に手をかざすと眩さはすっかり箱の中に閉じ込められてしまった。
そして数十秒。運命論の外側から世界で一番幸運な人間がこの場に訪れる。
「はぁい。重要情報を携えて僕が来たよ」
「スコーピウスの居場所か!?」
「残念ながらそれじゃない。デルフィーニについてなんだけど、これは、うーん、あとで!にしても相変わらず圧巻の書斎だね。今度本を読みに来てもいい?」
「今のレイがそういうのであれば今は聞き時ではないという事だろうな。読書はいいが、そんな暇あるのか」
「あはは、あんまりないねぇ」
教職って鬼のように忙しくって。そう笑うレイは頭に葉っぱを乗せていた。もしかするとタヌキが化けているのかもしれない。もっとも、ドラコもレイの口からしかタヌキ、なる生き物の生態を聞いたことはないので見極める方法などは知らないのだが。
「あー、君は薔薇の下でも潜ってきたのか?」
「へぇい……?もしや何か疑われている?いつも通り綺麗なお庭を抜けてまいりましたが、ってあ!そうだ!そろそろ秋薔薇の季節だね!僕、四月の日本と同じくらい好きだよ、秋のイギリス!」
アストリア肝いりの企画だったもんね、週刊、イングリッシュガーデンを作ろう。
レイの無邪気な言葉にドラコの胸が甘やかに痛む。アストリアはあれでいて芯の強い女性だった。
ダフネのことは同級生としてよく知っていたが、アストリアは彼女よりも少々お転婆。貴族の女だと油断していれば菫のボンボンより爆発ボンボンを選び取るような人であった。一度、食わず嫌いはいけないと思うわ、と口にねじ込まれたのは忘れていない。
良くも悪くも彼女はスリザリンという社会では浮いていた。そこがまた可愛らしいところではあったのだが。今考えてみるとグリーングラス家の人間は早い段階でアストリアの運命を知っていたのかもしれない。彼女は貞淑が美徳の世界でのびのびと、それでも礼儀正しく、純血の血族の娘として育てられていた。
おしゃまでわがまま。なにより、それが許される環境。闇から少し離れた位置にいたアストリアは幸せそうに暮らしていた。
思えば、子供の時分から彼女には好意的な視線を向けていた気がするドラコである。それはスリザリンにしては珍しい子供っぽさが彼女にあったからだろう。体も弱く、周囲に気遣われる彼女が少しだけ羨ましかった。
だからこそ、彼女は純血の一族の中でも柔い雰囲気の家に嫁ぐのだと勝手に思い込んでいた。ああいう女の子女の子した子がマルフォイ家に嫁ぐなどありえない事なのだ、と。
しかし、時代の趨勢はマルフォイ家に牙をむいた。かかっていたはずの梯子が次々と外れる。闇が途絶えた世界において、自分たちに向けられる目はあまりに厳しかった。
それでも、外交力は確かだった父はマルフォイ家を没落させてしまう事だけはなかった。美しいプラチナブロンドに混ざる苦労の白髪を嘆いてはいたが彼は見事にかじを取り続けた。
家のことで手一杯になっているうちに結婚の話も上がっていたダフネは彼女の父の意向もあってほかの家へと嫁いでいった。正直、ドラコもその方がいいと思ったのだ。この家の名前は聡明な彼女にとっての重荷になる。
とはいえ脈々と受け継がれていた尊い血を絶やすわけにはいかない。純血であることを貴んで生きてきた人生が、ドラコに都落ちを許すはずがなかった。そこでマルフォイ家にやってきたのがアストリアだった。
洗練されたカーテンシーに華やかなほほ笑み。暗く落ち込んでいるこの家にふさわしくないほどに彼女は愛くるしかった。
「お久しゅうございます。マルフォイ様、とお呼びするにはふさわしくないですね。私も今日からマルフォイ家の人間ですし。なんとお呼びしましょう。旦那様?ドラコ様?」
「あ、あぁ……ドラコ、でいい。様はいらない」
礼儀に則って手を差し出せばきゅうと握り返される。その掌に小ささに驚いてしまう。そして、その僅かな震えにも。仮にも闇の帝王に仕えていたことが明白な家柄だ。恐ろしいに違いない。
「すまない、アストリア」
「何をおっしゃいますの。私のようなお転婆にマルフォイ家との婚姻話があった方が奇跡というものです。どうぞ、末永くおそばにおいてくださいな」
彼女は最初こそ借りてきた猫みたいだったのに、あっという間に環境適応した。ある意味ではスリザリンらしからぬ天真爛漫さで、ルシウスやナルシッサさえも徐々に絆されていった。
彼女のたった一つの問題は、嫁いで長く後継ぎを腹に宿すことが出来なかった、その点だけ。純血貴族の女として着いて回るその責任がルシウスやナルシッサの視線に混ざるのだ。
そしてなにより、彼女には特大の秘密があった。二人の仲が深いものになった頃。彼女はその想いをドラコに打ち明けた。
「ドラコ。私ね。本当は純血主義なんてどうだっていいの。誰にも言ったことはないけれど。私たちがいる社会ではそれを口にしたらそっぽを向かれてしまうから。それは家の名に泥を塗ることになる。だから、心にしまっておくわ。それでも、私は、これからの時代を生きる子達には堂々としていて欲しい、それでもいい?」
その言葉の一つ一つ、発することにどれほど勇気のいることか、ドラコにはわかる。家族の期待を裏切ることへの不安。それでも、自分にその心の内をさらけ出してくれたことが何よりも嬉しかった。
彼女の冷たい指先を温めるように、その手で包んで引き寄せる。もちろんだ、なんて口に出さなくてもきっと分かるだろう。ドラコは彼女を守ってやりたかった。
危なっかしさは確かにあるのに、しっかりと芯が通っている。礼儀作法は完璧で、ドラコの前以外では逸脱をしない。彼の手の平の上で彼女は学生時代と変わらず過ごしていた。
そんな中で、ドラコの中で勝っていた申し訳なさが彼女の散財にぴったりと嵌まったのだ。
「限定のお菓子が食べたいわ」と言われれば取り寄せてやったし「フランスでやってるサーカスが見たい」と言われれば仕事の合間を縫って一等席を確保し、二人で観に行った。どんな我儘も聞いてやる、それがこんな家に嫁がせたせめてもの償いのつもりだった。
人生で初めて誰かに振り回された。けれど、それは悪い気はしなかった。何せアストリアはずっと笑っていたから。談話室で友達と笑うみたいに、屈託なく。
彼女は血の繋がった家族以外でドラコが初めて、笑っていて欲しいと思う人間になった。ドラコにとってアストリアは初めての言葉が通じる親友であり、守るべき存在であり、傷ついた心を癒してくれた愛しい人だった。彼女だけが唯一、ドラコの人生を寂しいと言ってくれた。
やがて、スコーピウスが生まれてドラコが守らなければならないものが世界に二つに増えた。このまま、愛しいものたちと死ぬまで共にあれるのだと思っていたのだ。彼女の家系を蝕む血の呪いが彼女に襲い掛かったと知ったその瞬間すら。
血の呪いは、若い女にのみに現れる不治の病だ。グリーングラス家が過去に起こした咎により血を繋ぐことを呪われる。ダフネには兆候が表れなかったため、本来であれば彼女がマルフォイ家に嫁ぐことになっていたのだ。
生まれながらに体が弱いのも。月夜に透けるような美しい肌も。姉とは違う、流星の尻尾を紡いだような淡い色の髪さえも。星の光を煮詰めたみたいな美しい人。ドラコが愛した何もかもが、アストリアにとっては病の証明となる。
彼女の発病を知り、今にも泣きそうな顔でダフネがマルフォイ家を訪ねてきたときのことは昨日のことのように思い出せる。彼女もまた愛しているのだ。体が弱くても笑顔で過ごしている可愛い妹のことを。
ダフネが嫁いだのは多少格は落ちるが解呪の法に詳しい家だったのだ。魔法界貴族には様々な得意分野がある。マルフォイ家は外交。グリーングラス家は薬草だった。二人は結託し、アストリアを救う可能性があれば何でも試した。レイが作り出した未認可の薬だって。
それでも、ほんの少し運命の時を遅らせただけ。アストリアにはわかっていた。自分の命の炎がどれほどまでにか細いのかを。
だからこそ、また一つ。彼女はわがままを言う。嫁いできてからこっちドラコはアストリアのわがままを全て叶えてくれた。だからこそこれもきっと叶えてくれると信じて。
「この家の庭を薔薇園に変えましょう」
「薔薇……?」
「品種の選定は任せてくださる?薬草第一主義の家に生まれた娘として一家言あるの。そうと決まったらお庭に出て土の質を見なくちゃいけないわ」
「そんなことしなくていい。薔薇園にはしてやるから、だから」
「あら。本当に?香りの高い種類が、美しく咲く白薔薇の違いが、ヴィンテージローズとハイブリットローズの違いが分かって?薔薇の一輪もないこの家に生まれたあなたに?」
気取った言葉でアストリアは紡ぐ。一分一秒が愛しい人に残せる全てになる。いなくなっても残るものを、残せるものを。本当は寂しいこの人にこの世の全てだってあげたい。でもそれは叶わないから。アストリアは最後まで笑うことを決めた。
「じっくり選定するの。大きくなったらスコーピウスにも選んでもらいましょう。そのために区画は空けておくから。そうしましょう。全ての薔薇を姉様やレイが生薬として欲しくてたまらないくらいの品位にしてみせるわ」
彼女が嫁いできたときには幾分か陰気だった庭に大輪の薔薇が咲く。その美しさたるやドラコすらため息をついてしまう程だった。スコーピウスの世話をしながら、薔薇の花を愛でながら、そしてドラコとともに笑いながら彼女は日記を書く。決して長くはない時間を懸命に、一つたりとも忘れてしまわないように、と。
「薔薇は、手をかければかけるほどあなたのために美しく咲くわ。一年をかけて手を入れないといけないの。嘆いている暇がないくらいに、ね?」
「僕にそんな時間があるだろうか」
「ないなら作るの。スコーピウスと一緒に。土いじりをしろ!までは言わないわよ。でも、きっと楽しいわ」
そこに君がいないなら、と言いかけてドラコは口をつぐむ。その代わりに薔薇のジャムが溶けたロシアンティーに口を付けた。
「紅茶にジャム、なんて邪道だと思っていたんだがな」
「あら!今やうちの薔薇から作るローズペタルジャムはスコーピウスの好物よ。これがなくっちゃきっとスコーピウスが悲しむわ。うちの妖精もグリーングラス家の屋敷しもべ妖精に引けを取らないくらい薔薇の扱いが上手くなったんだから」
ドラコが思い出せる幸せな瞬間に、彼女はいつもいた。手を伸ばせば触れることができる距離に。秋になれば花の女王が咲き誇る庭の中、彼女こそが一等可憐な薔薇だった。
それでも、やがて彼女はレイの作った特別製のローズウォーターしか口にできなくなり、丸かった頬はゆっくりと柔らかさを失った。これならお姫様抱っこだって軽々よね!と彼女は何度もドラコに二人きりの散歩を強請る。相変わらず彼女は底抜けに明るく、ドラコのことを王子様、だなんて呼んだ。
そして、花が盛りへと向かって、庭が美しくなっていく八月の末。
マルフォイ家で一番の薔薇は運命を受け入れてしまった。
秋へと移ろう風が優しく頬を撫でるのに。香しい芳香が心を喜ばせるのに。彼女のための薔薇園にもう一度、彼女が降り立つことはなかった。
彼は彼女を奪う死神に呪詛を吐いた。それでも、彼女は笑っていた。だから、ドラコは彼女に落ちる影にすら憎むことを許されなかった。全てが過去形になる運命なんて受けれたくはないのだ。触れるぬくもりがまだここにあるから。
それでも、この現実にドラコはきちんと向き合う。
ゆっくりゆっくり、鼓動が遅くなって。彼女はけだるそうに目を瞑る。まるで昼寝をする子猫のまどろみだ。あふり、と小さくあくびをして両の手を包み込む温かさに溶ける。
「スコーピウス。世界で一番可愛い子。どんな赤薔薇よりも強い蠍の心臓を持っているもの。誰よりも幸せに生きるの。だってあなたは私の子供なのだから」
ママ、と声を上げることもできずスコーピウスは頷くしかなかった。自慢じゃないが、優しい子に育ったと思う。誰よりも美しい至高の薔薇、その蕾。この後、どんな大輪の花を咲かせるのか、側で見ることができないのが何よりも惜しい。
それでも、アストリアには後悔はなかった。渡せるものは全て託した。それに、スコーピウスにはドラコが、ドラコにはスコーピウスがいる。もう誰も一人ぼっちじゃない。
「ねぇ、ドラコ。泣かないで」
「泣いてない」
「うふふ、見えるもの。目を瞑っていたってあなたのことは何でも知ってるんだから」
緩く握られた手。初めてこの手を取った日のことを鮮明に覚えている。小さくて、震えていたこの手を。
「私、あなたの笑顔が見たいの」
「あぁ、勿論。僕は君の願いを何でも叶えてやると決めてるんだ」
「そう。嬉しい」
アストリア最後のわがままを、ドラコは初めて叶えることができなかった。
それは、夢みたいに幸せだった頃の話。
ドラコはレイの頭についていた葉っぱをとってやった。上から落葉するタイプの樹木の葉ならまだしも、薔薇の葉をつけるという逆に奇跡的な状態である。一体何をどうやったらこんなことになるのか。それもまた幸運薬の思し召しなのだろう。少なくとも、ドラコに彼女のことを思い出させている。
今、彼女が隣に居たらどんなことを言うだろうか。そんなの一つしかない。
「レイ。ここで約束を使う」
「一度だけ、の約束?」
「もし。もしもだ。世界が変わっても君だけは変わらないでいてくれるか」
「なぁにそれ。僕はいつだって僕だよ」
「それが聞ければ十分だ」
ドラコは再度タイムターナーの箱を開いた。
きちんとしたタイムターナーは基本的に純金で作られる。これは金という金属の特性によるところが大きい。純金が一等抵抗少なく、流した魔力の有効活用ができるのだ。
それも、一等良いのはゴブリンたちによって精練された無垢砂金だ。一切の妥協を許さない職人技で精製されるそれらは完璧な黄金。それに魔力を流すことでこの世の摂理さえ超えてしまうほどの逸品だ。
元はと言えば金は魔法族の持ち物ではない。ゴブリンたちの宝であり、日用品だった。土に生きる屈強な彼らは土地を耕し、岩を砕き、自然から得ることのできる素材を精練して武器を作った。そのやり取りに自慢の無垢金を用いたのだ。
そのうちに、各々の腕を競うかのように豪奢なデザインの金貨が作られるようになるのは自然の流れだろう。
その上でその品位を確かにする機関が必要となった。それが原初、彼らの金品位査定ギルドの起こりである。十四世紀に頭取として立つグリンゴットが現れ、きちんと名前がつくまではゴブリンの金ギルドとして君臨していた。
元はと言えばその金の質の高さにいち早く気付いた魔法使いとゴブリンとの細々とした平和な取引だった。砂金と交換されたのは早く多く収穫できる植物の種。魔法族が彼らのために調整した薬の類など。互いの世界に関しては不干渉を決めて、小さな市を開く。互いの能力を尊重して特産物を交換した。その程度のやり取りだったはずなのだ。
丁度このころだった。魔法界のみならずマグルの世界でも錬金術が隆起したのが。
自然に存在する元素であれば、己の手で生み出せるだろうという傲慢もあった。とはいえ、マグルに魔法は扱うことはできない。ゆえに、ほとんどの実験はのちの科学へと発展してゆく礎となった。
ただ、マグルの王宮で働くような錬金術師の中にも少数本物の魔法使いがいた。彼らにとっての黄金は反射、反復、共鳴。一を千にすら変えるまさに革命的な力だ。彼らは今でいうところのエネルギー開発に明け暮れたというわけである。
しかし、今に至るまで。マグルは勿論、魔法族の望んだ、金を生み出す技術は得られていない。
結果が出なければ、出資は打ち切られる。打ち切られれば研究者として生きていくことは難しい。王宮から研究費を引き出していた錬金術師たちにとって結果が出ないことは文字通りの死活問題だった。
ゆえに、錬金術師であり魔法使いであった者たちはゴブリン製の金をマグル界へと流し始めた。あたかも無から有が生まれたかのように、質のいい金がマグルの権力者の手中に収まる。それによって地位と金をせしめて名家へと成り上がったものも多かった。
元はと言えば、魔法族が魔法をさらに効率よく使うための素材としてゴブリンと交換していたはずの金。それが富を生み出した。
人というのは愚かしいもので、簡単に手に入ると理解してしまえばそれ以上を欲する。魔法族と土に生きる彼らは共生関係にあったはずなのだ。けれど、いつしかその均衡は崩れた。
魔法界への金の流入量が少なくとも、問題はなかったはずなのだ。元来魔法族はエネルギーに困ることはないのだから。
細々とした共生相手。それがいつしか金を生み出すガチョウになった。黄金を金貨に換えるしか能のない下等な魔法生物であると彼らを侮るようになったのだ。童話においてそのガチョウがたどった道を知らない者はいないだろう。
正しい使い方ができないのであれば我々が使うべきだ、というあまりに一方的な理論をもって魔法族はゴブリンから力を取り上げようと躍起になった。
それは一方的な侵略戦争。魔法というある種、超常的な力を持たぬ彼らはすぐに淘汰された。それでも、誇り高い彼らが魔法族に心まで折られることはなかった。幾度とない反乱と反抗。これらはピンズ先生の授業をきっちり受けているホグワーツ生にとってもなじみ深いはずのものである。
貴金属と魔法族とゴブリンの間に横たわる根深い因縁。一時はその権利さえ魔法族に奪われていたグリンゴッツをゴブリンが取り戻すためですら多くの時間を要した。
手を取り合う、という事は決して難しいことではなかったはずだ。けれど、それ以上に容易く行われた蹂躙。人というのは何も考えなければ楽な方へ、より富が生まれる方へと舵を切る。多くを求めればそこに諍いが生まれてしまうことを承知していても止まれない。
魔法族は己の魔力を燃やして暖炉に火をつけマシュマロを炙ることだってできた。清潔な飲み水が足らなくばバケツにアグアメンディを唱えるだけでよかった。それでも黄金に目がくらんだ。
ほかの種族から取り上げた力を何倍にも、何万倍にも増幅させて。その傲慢さで時の流れさえ弄んでみせた。
この完璧なタイムターナーは、ゴブリン製の無垢砂金を大量に使ったありえない物体だ。正直、これが壊されるくらいならレイですら存在を秘匿したいものである。美術品としてあまりに素晴らしいものだった。ミダスの王がその美しさに囚われたように。事物の奥に潜む陰惨な物語さえも魔法族はすぐに忘れてしまうのだ。
「まって、何この綺麗な魔法道具。欲しい~……タイムターナーとしてはどうでもいいんだけど、綺麗……。お部屋のインテリアに欲しい……」
「君にもわかるようだな。マルフォイ家の美的センスが」
「ひゅ~、ってことは、これルシウスさんの趣味?まったく、本当に趣味がいいんだからぁ……!」
レイに触っていいですか、と問われたので許可を出したドラコである。何の力をかけていないにもかかわらず回り続ける円環。それは時が流れを止めないことの証明になる。
レイの目がガリオンと同じ輝きを帯びたころようやくドラコの方を向いた。
「よし、じゃあまず試しにタイムトラベルだ!二人で白亜紀とか行こうか!」
「何を言ってるのかわかってるのか」
「向こうでたまたま踏みつぶした蟻の子孫が俺の先祖って可能性があるけど問題なし!行きたい行きたい!俺もタイムターナー使いたい!」
「せめてもっと身になることに使え」
「生徒にダメって言っちゃった以上、セド先輩のために使うのは違うかなって……」
だから間をとって白亜紀、と笑っていた。それが何と何の間なのか聞いてみたかったがレイのことだ。特段意味もなく口にしたのだろう。彼にはそういうところがある。
意外とさらっと嘘をついたり、適当なことを言ってはぐらかしたりするのだ。本人が意識してやっているかどうかは知らないが、幸運薬の効き目が明確に出ている状態でこうなのだから、無意識である可能性が高い。
「にしても、どうして君はそう、友情に関して向こう見ずなんだろうな」
「やー、ね。そんなつもりはないんだけど。僕にとったら全部大切だよ」
全部大切で、愛おしくて、優劣なんてつけられないくらいだ。そんな風に言ってみせるけれど、その実、セドリックが一番という揺らがないものがある。なんだかんだと二人は付き合いが長いが、ドラコにはわかってやれないのだ。一般的なそれとは明らかに質が違うレイの他者に対する感情というのが。
いつものドラコであれば決して口に出して問うたりしないだろうに、今は幸運薬の薬効の渦中。自然と巻き込まれてしまった。
「レイ、君にとってそれは愛なのか?」
「なぁに急に。恥ずかしいこと聞くじゃん」
「流石に、ただの、いわゆる普通の友達に抱く執念じゃない」
ドラコの言葉にレイは首をかしげる。彼に愛についてを問うたのはダンブルドア以来だ。あの時から状況は変わり、レイの思想さえも全くの同じではない。
もしも、ここで問われたのがレイの正しさであればレイはいつもの言葉を返しただろう。自分ではない誰かのための正しさ、に尊敬する先輩の笑顔を乗せて。
それでも、この問いは違った。レイが何を考えているか、それを問うているのだ。少なくとも、そう理解できた。
「鋭いこと聞くんだから、君は」
それはドラコも久しく見ていなかった表情だ。所在なさげでおぼつかない。それでも、目の奥には好奇心の宝石が揺らめいている。子供のままのレイの笑顔。
「流石にここまで重いと友愛でも親愛でもない。理解はしてんだよ。けれど恋愛でも、ましてや肉欲なんかじゃ絶対ない」
レイにとって愛は、結局分からないものだ。理解できる気がしないし、してやるつもりもない。なにせ、世界の全てに愛であると名付けてやれる心の広さなんてないのだから。
ゆえに、名前を付けない。形にしない。そうすれば無形の情はどれほど歪んでいようとも、友達と名付けたその枠からはみ出すことだけは、ない。
「巻き取られて欲しい。俺の人生に。もうそんなに長くもないからあとは楽しいだけがいい」
「それは、どういう」
「友情は愛情じゃない。先輩が俺のこれに友達って名前を付けてくれたから友達って呼んでる、それだけだよ」
はにかんだ彼がほんの少しだけ怪物に見える。けれど、ドラコはそんな自分を鼻で笑った。こんなまぬけなタヌキ顔が怖いはずなんてない。歳だけ取った、情けなくて危機感なんてこれっぽっちも抱いていないであろう表情に何を恐れることがあろうか。
「相変わらず偏愛のままか」
「なんの話だっけそれ」
「覚えてないならそれでいい」
愛の行く末を問うたというのに、出された答えは偏愛の上に妄執。いっそ、その情のことを認めてしまえば楽になれるだろうに難儀な人間である。けれど、腐れ縁。ここまで来てドラコはレイに頭がおかしいぞ、と言ってやる気はなかった。おそらく自分で感づいてはいるのだろうし。
「白亜紀、ダメかぁ……」
「生きて帰れる保証がないからな」
「なら、ドラコはどこに行きたい?」
レイはドラコの手元にあるタイムターナーを見据えた。何をいうか分かってますよ、という表情が実に腹立たしいが、何分それ以外に欲しいものはないのだ。ドラコにとってこの世は彼女以外はすべて手に入る世界。そうに違いないのだから。
「もう一度だけでいい。彼女に、アストリアに会いたい」
明らかに、幸運薬に言わされた。けれどそれは紛れもない本当の言葉。殊更寂しいドラコマルフォイという人生の中に差した光。彼女に会えるのであれば、この身なぞ、地獄の業火に焼かれてしまっても後悔はない。
「いいよ。会いに行っちゃおうよ。こういう奇跡って起こせるうちに起こしといたほうがいいもんだ」
きらり、と子供みたいに笑う彼はいつか見たダンブルドアの瞳と同じものを宿していた。近くを見ているようで何百年先をも見通すような賢者の目だ。
「まったく、レイはいつでも考えなしだ」
「心外!俺くらい周りが見える奴もいないのに!ドラコがスラグホーン先生に毒盛らずに済んだの誰のおかげだと思ってんのさ!」
「いつの話をしているのやら。それに、今ならまだしも学生時代の僕と君が話をしたときに誰が君の方を信じるかな」
「むっきーーー!」
レイはタイムターナーをドラコの手から取り上げるとにんまり笑う。ここ何年かホグワーツを賑わせた歴代のいたずらっ子たちに感化されたのか、子供のころ以上に子供っぽい顔だ。
「なんたって、スネイプ先生が作った完璧な幸運薬の効果が出てる俺を連れて行くんだからね。今ならどんな無茶苦茶だって丸く収まるよ」
さぁ、どこにいく?いつを見る?レイの指はタイムターナーを弄ぶ。彼に中てられているのは重々承知だ。マルフォイ家の家長がこんな危険を冒すのは最初で最後と心に決める。
「スコーピウスが生まれた日、その夜へ」
了解、と日付と時間をセットする。タイムターナーの準備は万端と親指を立てた。しかし、すぐに思いなおしたようでレイはドラコを引っ張った。
「ま、まて。どこに行くんだ」
「アストリアの部屋以外にあるか?」
「話が見えん」
「当時の書斎って誰の物?」
「あぁ、まだ父上がいたか」
「だーろ?流石に得策じゃなくない?」
アストリアの治療に足しげく通っていたレイにとって彼女の部屋は目をつむっていてもたどり着ける。おそらく、ドラコは滅多にその部屋に入らないのだろう。美しい思い出、というのは時として残酷な楔になる。
両開きの大きなドアを開け放つ。てっきり埃っぽいかと思っていたのだが、風に乗ってきた芳香にレイは頬を緩めた。これはアストリアが一等好いていた薔薇の香りだ。間違えるものか。
久しく入っていなかった部屋は清潔に保たれており、花瓶には彼女のために薔薇が活けられていた。主をなくした部屋なのに、いまだに妖精たちはこの部屋さえも愛の形として保存しているのだろう。
レイはベッドへと歩み寄るとそのサイドボードに手をかけた。中から出てきたのは一冊の日記帳。秘匿の魔法がかかっていないそれをドラコに投げ渡した。
「や、ほんとに今だけは許してほしんだよね!本気で薬のせいだから!人んちの奥さんの日記帳の位置知ってるとか気持ち悪いよね!?でも、まさかあると思ってなくって!」
ドラコが変な位置で掴んでしまったためにぱらり、と捲れてしまった日記帳。そこに記載されていたのはローズペタルジャムのレシピ。アストリアの文字に涙腺が緩みそうになる。
「俺はそれ知ってるけど見せるなって言われてないし。ってことはたぶん、見てもいいんだよ。見たくないなら強制はしないけど」
「まったく本当に。余計なことばかり」
「こういうことする俺のこと嫌いじゃないだろ?」
「何様のつもりだ」
「えへへ、ごめんて。調子にのりました!」
ドラコが日記帳を開けば、事細かに様々が記載されていた。今からドラコが向かう一夜のことも。ここに、自分が現れたという記載はない。
このままではすっかり読んでしまいそうだ。時間がないので後ろ髪をひかれつつもドラコは日記帳を閉じる。そして、サイドボードに置いた。
「戻ってきたときに、これがあれば変化の確認もしやすいだろう」
「流石!あったまいーね!」
レイは臆することなく部屋の奥へと進んでいく。そして、風を通すために開かれていたバルコニーへとでた。庭が良く見えるいい場所だ。
「さて、行こうドラコ!」
「部屋の中でいいだろうに」
「バルコニーとか窓からやって来る侵入者に親は気が付くことができない、のがお約束なんだよ」
ドラコにとっては意味の分からない理論だ。とはいえ相手は幸運薬の効能に酔っている状態。言う事を聞いておくに越したことはないだろう。
「法を犯す時には徹底的に、全ての抜け穴を考える必要がある。ただでさえ孫が生まれたことでルシウスさんあたりは過敏になってると思うし」
「父上がか?」
「息子の君さえ溺愛だったんだよ?一人しかいない跡取り息子の血を受け継いだ、どう見てもマルフォイって感じの跡取り孫ときた。多分、目に入れても痛くないどころか、今ならインペリオくらっても跳ね返せるだろうね。実際そうじゃなかった?」
「思い当たる節は、ある」
歴史に興味持ったスコーピウスのために家庭教師として今を時めく超一流歴史家を金に糸目もつけず複数名呼んだりしていたのだ。レイも一度その瞬間に出くわしたことがあるが、あのスコーピウスはほとんど聖徳太子だった。
バルコニーで風を受ける。太陽で暖められたそれには僅かばかり隠されていた夏の名残が香る。
ドラコはようやく覚悟を決めたようで手鏡で姿を整えていた。可愛いお嫁さんに会うのだから当たり前かもしれない。これもまた愛、だ。
「ドラコ、影は逃げ出してない?」
「は?」
奇妙な問いかけに思わず自分の影を確認した。太陽から逃れるようにいつも通りそれはある。そもそも、影が逃げ出す、という特異な状況に遭遇したことがないのだ。理解が及ばないが、間違いなくそこに存在するとしか言いようがなかった。
「逃げ出してはいないな」
「俺ってば今、最高にワクワクしてるんだけどさ」
「何故」
「このワクワクが純然たる魔法貴族のドラコには絶対に通じないってのが悔しいんですよ」
最近の子供の流行などであれば確かに自分の知り及ぶところではないが、そういうものではないらしい。貴族であるからこそ知らない、などと言われてしまえば侮られているようで不愉快だ。
「どうして決めつけるんだ」
「マグル界の童話ご存じ?ピーターパン」
「あー、すまない」
「でしょお?」
となると、やはり即座にピーターパンを理解したセドリックの方が特殊なのだ。そうに決まっている。運命です、これは。先輩と俺とは出会う運命だったのです!そんな風に脳内でハッピーがハレーションを起こした。その一方で、片隅で僅かばかり残った理性がドン引きしている感覚もあった。幸運薬、恐るべし。
「さぁ、て。バルコニーにでよう!そこからがいいよ!」
「夜、不審者がバルコニーにいたら目立つだろう」
「あっはっは!大丈夫!ナナはこの家に居ないからさ」
楽しそうなのはレイばかり。一つとして理解できない言葉たちにドラコはもうレイのことは掘っておくことにした。もとより何を言っているか分からあくなることが多い人間だが、今日は何もかも幸運薬のせい、という事にしておこう。
「待てよ……薬を飲ませるという点では、俺がナナ?」
「だからそれは誰なんだ」
「お利口メイド犬、セントバーナードが望ましい!」
「そうか……」
ブリムを付けた方が良いかなぁ!と、ドラコは一人でやたらとかしましいレイを無視することにした。先ほど話題に上がったマグルの童話の話なのだろう。だったら自分は明らかに門外漢だ。
「じゃあ、行こうか」
戻りたい過去、そこに時間を合わせてレイは真面目っぽい顔をした。勿論、わかっているのだ。ほんの一つ。何か間違ったことが起きれば今この足元は簡単に揺らぐと。その上で、ドラコはレイの手を取った。
タイムターナーに手をかざす。すれば、世界の理がぐらついた。初めての姿現しと比べれば随分とマシだが、中々に愉快ではない感覚が身を襲う。
先ほどまで自分たちを照らしていた太陽はすっかりと失せ、代わりに星の輝きが空を彩った。あれほど香しかった女王の花の囁きすらも遠のいて、庭は寂しくも静謐な佇まいの場所へと姿を戻していた。
レイの視線はバルコニーと屋内を隔てる窓へと注がれる。この物語はドラコの言葉で始まるべきだ。ドラコはこんこん、と開いていた窓にノックを二つ。招かれるための声を待っている。
「……どなた?」
不審でない程度に中を覗けば部屋には一人だけ。薄緑のネグリジェを身に着けた彼女はベッドにいた。
レースカーテンの向こう。影を纏ったドラコの顔が見えなかったのだろう。杖を携えたままに大きく丸い目を細めてこちらを伺っている。
「アストリア」
夜を甘く震わせる優しげな声。その持ち主を彼女はよく知っている。ゆえにそこで警戒を解いた。
「ドラコ、よね?」
「あぁ、僕だ」
その声色の深みに先ほどの問いへの答えが正しくも、そうでないことを悟った。少なくとも、彼は今を生きている彼女の旦那様ではない。
「嘘。貴方は私の貴方じゃないわ」
カーテンがひらめいて、部屋の中に影が入ってくる。その姿はアストリアもよく知っているドラコだった。けれどいつもの彼の何倍も疲れた顔をしていて、その瞳は歓喜と悲しみに濡れている。
彼の顔をまじまじと見る前に、アストリアは覚悟を決めた。元々わかっていることだっただろう。彼の人生から自分は瞬きの間に退場しなくちゃいけないことくらい。幸せだったから、今日があまりに幸福だったから忘れてしまっていただけで。
彼が来る、という事は。もうあの人の隣に自分はいないのだ。
けれど、アストリアは嬉しくなってしまった。それでも会いたいと思ってもらえたことに。愛されていた自分に。
だからこそ、その気持ちが漏れ出てしまわないようにドラコの後ろでこそこそしているレイにあえて話を振った。
「あら、レイさんも来てらしたの。また無理を言ったのね、きっとこの人が」
「いいやぁ。ドラコはいつでも立派だからね。帰りたくなくなっちゃわないように付き添っただけ」
ぱっと明るい表情を見せるレイは今とあまり変わりがないように見えた。東洋人は童顔が多く歳を取りにくいというが本当にそうなのかもしれない。レイとドラコが並んでいるのを見て、ドラコこそが年下であると言える人はほとんどいないだろう。
「それで。どんな御用かしら。夜更けに女の部屋に……しかも窓から訪ねてくるなんて」
「深い意味はないんだ」
「そう。てっきりスコーピウスに会いに来たのだと思ったわ」
それは彼女なりの意地悪。そうでないことなんて百も承知で微笑んでやればドラコは困って本音を漏らす。けれど、先に感極まってしまったのは部外者だった。レイはこういうのにひたすら弱い。
「ごめん、ごめんね。アストリア、俺がもっと立派な魔法薬学師だったら、ごめんね、ごめん、」
「あのねぇ。それやられちゃったらドラコがが泣けないでしょう」
「泣かないがな」
「もう、男の人ってこれなんだから」
ベッドの上で不満を漏らすアストリアにまるで跪くみたいにレイはベッドの枠へと崩れた。おいおい声をあげて泣いている。子供っぽい人だとは思っていたが、年を取った彼はより一層そうなっているらしい。ぺちぺち、と二度ほど頭を叩いてやれば下唇を噛んだ何とも言えぬ泣き顔がアストリアに曝された。
それの表情におかしみがあったもので彼女はくすくすと、小さく笑った。これくらい素直になってくれるとありがたいが、ここまでを夫に望むのは酷というものだろう。
「ねぇ、レイさん。どうして今日なんだと思う?」
「ぶぇ……?わかんない……」
「たぶん、だけれどね。今晩だけはスコーピウスが私の隣にいないからここを選んだのよ。今頃、妖精が面倒を見てくれているわ。もっと前の私に会いに行ってもいいけれど、ふとした拍子に息子の話をしてしまいかねない。かといって赤ちゃんとはいえ息子の前で情けない姿は見せられない。そういうちょっと狡い人なのよ」
「狡い、は言いすぎだ」
「本当のことよ」
「アストリアは、強いねぇ」
「今日から名実ともに人の親ですもの。お母さんになるって大変よ。スコーピウスもドラコもちゃんと躾けないといけないんだから」
疲れているだろうにアストリアは気丈にふるまう。それが無理をしているのではないとレイには分かるのだ。だって彼女の頬はつやつやで赤い、健康そのものだったから。
レイは何を思ったのかポケットの中から瓶を一つ取り出した。それはなんてことない、改良品の元気爆発薬。レイが最も得意としている調合の、一般的な薬だ。
「明日からいっぱい頑張ることあると思うから疲れたら飲んでね。それ以上でも以下でもない耳から蒸気が出ないタイプの元気爆発薬だよ」
「あら、いいの?過去を変えちゃって」
「変える、の範囲に入らないよ。ちょっとした出産祝いさぁ」
アストリアはそれを受け取るとサイドボードに置いた。夜飲むものでもないのは確かだ。代わりに、ボンボニエールを掴み、レイに差し出す。
「お礼、というのもでもないけれど。甘いもの、お好きでしょう?良かったら」
「そしたら、お言葉に甘えて!」
レイは差し出されたところから二、三キャンディーを受け取る。口にいれれば豊かな風味。まるで果樹園にいるみたいだ。
いつになく無邪気な様子のレイに満足したらしいアストリアは今度こそきちんとドラコに向き直った。本当は、自分の終わりを知っている人に答えを聞いてしまいたい。猶予が決まっているのであればできることをしたいから。彼は悲しむだろうか。それは、問うてみるまで分からない事だった。
「レイさん。少しだけ。ドラコと二人にしてくださる?」
「もちろん」
「でもその前に。一つだけ聞かせてほしいの。スコーピウスはちゃんとやれてる?」
「それに関しては心配に及びません!君の息子は僕の自慢の生徒だ。親友といつでも一緒に楽しそうだよ」
「そうなのね……。ありがとう」
レイは窓の外へと引っ込んだ。二人のために扉を閉じればカーテンがかかる。すっかり隔たれたこちら側で己の無力さを思い出して掌を見つめた。
久方ぶりに見た彼女の表情が明るくて嬉しくなったのは本当だ。それと同時に、後輩の女の子一人助けられなくて何が魔法使いだ、と自分に呆れる。
血の呪いを発症した者の平均寿命は三十前後だ。ドラコの頼みもあり、レイは彼女に何重もの魂を保護する魔法薬を処方している。体内を循環する呪いの苦痛から彼女を少しでも遠ざけるための処置だ。同時にそれは残り少ない時間を引き延ばす効能もある。自分にできる精一杯を彼女に渡したつもりだ。
それでもたったの十数年ぽっち。長い者では三百を優に超える寿命を持つ魔法使いという種族からすればほんの瞬きの間しか時間を得ることはできなかった。
人生においていくつもある消えぬ後悔。アストリアの件もレイにとってはそれだった。有り余る富を投じても彼女に間に合わなければ意味がない。それでも、レイは彼女が望んだから血の呪いを解呪するために絶えず研究を続ける組織に多額の出資をしていた。
無論、マルフォイ家やグリーングラス家からも少なからぬ金が動いている。それでもまだ、歴史の特異点には至れていないのが現状だ。
「本当は。全ての奇跡が手の内に転がってくればいいと思う。俺だったら何もかもを奇跡って呼べるに違いないって。でも、そうじゃない。ありえないから人は奇跡を願う。都合が悪いこともまた奇跡であるという事に目をつぶって」
突き詰めてしまえば、レイの願いというのは至極単純だった。好きな人の、大好きな人にもずっと笑って欲しいだけ。だってその方が幸せだから。
もしも、自分が本物の天才だったら。世界の理なんて簡単に捻じ曲げることができる薬を作り出すのだろう。物語の主人公だったら紆余曲折を経て、何もかもを救い上げてみせるだろう。
でも、レイはただの人間で、人よりちょこっと魔法薬学が得意な一般人だ。理からの逸脱なんて到底できやしない。
レイにとって最も尊敬する教師であり、一級品の学者であるスネイプが作った幸運薬。効果の渦中にいる自分が彼女の前に降り立っても何のアイディアも湧かない。これこそが、彼女の命運を変える力を自分が持ち合わせていないことの揺らがない証拠だった。
自分には決してできない事、というのが世界には山のようにあって、これもまたその一つ。けれど、いつか、いつの日か。誰かが届くかもしれないのだ。だから、レイは研究をやめない、出資をやめない。物語の数だけ、意味は強化される。想いの強さで、人は運命を引き寄せる。
魔法薬そのものは何の意味も持たない。気づかれていなかった可能性をたまたま誰かが取り上げただけ。だからこそ、伸ばす手は多ければ多い方がいい。
「あー、でも悔しい。悔しいったら悔しい……」
ハッピーエンドはおとぎ話の特権。それが悔しいからレイは魔法薬を使う。童話にも寓話にもなれない現実をどうにか欺いてやるために。
レイがキャンディをかみ砕くと同時、コンッと一つ。軽やかに窓が叩かれた。捲られたカーテンの向こうにはドラコ。彼はどことなく吹っ切れた顔をしていた。
レイは乱暴に顔を拭うとちょっぴり無理して笑顔になる。ここで一人、落ち込んでいるのは明確に違うと思ったのだ。
「もういいの?俺なら絶対ここに住むってわがまま言うとこだよ」
「僕は君じゃない」
「またまたぁ、素直じゃないんだから」
レイが部屋の中を伺えばアストリアがこちらへと歩み寄ってきた。ドラコがベッドに戻りなさいと言ってもこのお城のお姫様はどこ吹く風。聞き入れる様子はない。
「平気よ。だって今が一番元気だもの」
「まったく、」
薄着で夜風に当たるのは良くないと判断したらしいドラコは当たり前のように彼女に保温魔法をかけた。アストリアは少し驚いたようだったがすぐにほほ笑んでドラコへの感謝を告げる。その様子にレイの心まで無駄にポカポカしてしまうのはもう仕方のないことだろう。
「何だその癪に障る笑みは」
「人が人を想う気持ち、プライスレス」
俺はこれを栄養として生きていけるほどです。
そんなことを臆面もなく言うものだからドラコの方が戸惑ってしまった。レイが一般的な愛を解するタイプであるとは思っていなかったのだ。
「幸運薬の効き目はすごいな。レイに普通のことを言わせている」
「え?もしや俺は愛を知らない哀れな怪物だとか思われてた感じ?」
「本当に仲がいいのね」
アストリアに言われて顔を見合わせる。仲がいいかはちっともわからない。けれど、よそから見てそうだというのであれば、そうなのだろう。
「さて、とっても名残惜しいけれど時間だ」
レイはわざとらしく時計を見た。完品のタイムターナーを使っている以上、タイムリミットなんて存在しない。だからこそ、引くべき線がある。
名残惜しさに後ろ髪を引かれる。ここにいれば、彼女と言葉を交わせる。最後の言葉、を口から出してしまうのががあまりにも苦しい。
せっかく呼吸ができたのに、またゆっくりと沈む。海の底に月光は届かない。嘘偽りなく述べるのであれば、ドラコだって、ずうっとここに居たいのだ。
何かを感じ取ったかのようにドラコの頬に触れる小さな掌。まだどこかあどけなさすら残る丸い指先。笑った顔はどこか悪戯。お淑やかの対極にいる、それでも世界で一番柔らかい。ドラコの最愛。
「あの子の幸せは勿論。でもね、私はあなたを愛したの。貴方の幸せを何より願っているわ」
小さく華奢な体全部が愛でできている、砂糖菓子のお姫様。薔薇色の頬に月を煮詰めたジャム色の髪。どんな宝石も叶わぬドラコの宝物。彼女に抱きしめられればそれだけで、ドラコは崩れそうになってしまう。
それでも、彼女の熱を感じたから。ドラコはまた立つしかないのだ。この人が残した世界の全てに、いいや。愛しいスコーピウスのいる場所へきちんと帰らねばならないから。
「スコーピウスが、やんちゃで、僕の手には負えない」
「そんなことないわ。男の子ってみんな冒険が大好きでやんちゃなものでしょう?」
「僕は違った」
「私、知ってるのよ。お姉様に聞いたもの。ドラコも夜間外出でスリザリンから五十点も減らしたことがあるって」
「どうしてそれを」
「いろいろしたって聞いてるわよ。ほら、スラグホーン先生に蜂蜜酒を……」
「アストリア、なんでその話知ってるの?俺、誰にもドラコが先生に毒薬盛った話はしたこと、っあ……」
「レイ」
「ドラコはやんちゃだね、アストリア」
「ええ。本当に。女の子は男の子のやんちゃをすべて優しく許しなさい、がうちのお母様の言葉ですの」
うふふ、と謎の余裕を見せられた。確かに、ドラコのそれをやんちゃと呼ぶのであれば、スコーピウスのそれもまた些細なことだろう。
ドラコはそれは未遂だ、と言い訳をしそうになったがこれ以上は墓穴。更に余計なことをレイが漏らしかねない。
「やんちゃ、だけれど。帰れる場所があるから冒険だって怖くない。そうでしょう?ちゃんと帰ってきたら抱きしめてあげてね」
とっぷり、アストリアの目に涙が押し寄せる。それすら飲み込んで彼女はドラコから離れた。
「恥ずかしがらずに、しっかりと。私の代わりに」
「君の代わりなんてどこにもいない」
「私、あなたの笑った顔が好きよ」
誰かに笑顔を望むのであれば、自分が一番にそうあるべきだ。アストリアは感情の振幅を必死に抑えて口角をあげた。未来は悲しくない。だって、自分にはそれでも尽きぬ愛がある。誰かを想う心、その想いだけが死すら超えるのだ。
「アストリア」
「だめよ。レイさんを困らせないで」
「あぁ、」
背を向けたアストリア。ドラコの唇が別れなんて紡ぎそうになっているからレイは慌てて止めた。誰かに最後に向ける言葉が別れのそれだなんてあっていいはずがない。レイは少なくともそう思っている。
「ドラコ!この場合はさよならじゃないよ。行ってきますだ。だってここは君んちなんだから」
「……。そうとも。僕には帰る家がある。愛しいきみがいる。そして可愛いスコーピウスも。いってきます。必ず戻る」
アストリアは肩を震わせて一度だけ下を見る。可愛い女の子の一番の武器は涙じゃない。大好きな人に向ける笑顔だ。そう信じている。
顔をあげる。天井を見る。下を向いている時間が自分にはないから。前を見ていよう。あの人が思い出してくれる私がいつも笑顔であるように。
振り返れば彼が悲しい顔をしているから。やっぱり耐えられなくて側に寄る。手を握れば少し冷たい大きな手。いつの日にか震える私に差し出してくれた大好きな手だ。
「いってらっしゃい。お気をつけて!」
名残惜しいが指が離れる。握っていた手が夜風に吹かれて冷えた。彼女のぬくもりを逃してしまわないようにドラコはぎゅっと握りこむ。
そして、バルコニーに出て窓を閉めた。
「さて、スコーピウスを助けなくては」
「忘れ物ない?指ぬきとかさ」
「またわからん話を」
レイはふと空を見た。それは偶然。立派な帆船の形をした雲が空を悠々と航海している。流石、英国。ピーターパンの世界だ。
「ま、僕はね。君が影をちゃんと縫い付けてもらえたようで安心したんだよ」
二人はタイムターナーを操ると元の場所へと戻った。帰り着いたのは二人が時間を移動した一分後。サイドボードの日記帳を確認し何も変わっていないことを確認する。
あの日の日記にはドラコとのことは書かれていなかった。その代わり【いつか、夜の果てで会いましょう】と、だけ。誰にも分らぬ言葉で愛が紡がれていたのだった。
「思い残しはない?」
「何を言っている。思い残ししかない」
「あはは、だーよねぇ」
私欲でこれを使ってしまった。その罪悪感は確かにある。けれどそれ以上に。彼女の残したものを守らねばならないと強く思った。
「これ。持っていくの、ドラコ」
本当にそれでいい?と問うレイに数秒試案する。あのグレンジャーにこれを差し出せば、ただでは済まないだろう。外にこそ明かされないだろうが破壊処理を施されるに違いない。そうなれば、もう二度と彼女に会うことはできなくなる。
これはこの世界にあってはならない物なのだ。
彼は黄金の輝き、その文字盤に手をかけて表情を緩めた。そして、すぐさまいつもの彼の顔に戻った。
「当たり前だ」
アストリアに言われたのだ。大人になったスコーピウスとその孫、ずっとずっと続いていく、はてしない物語をいつか私に聞かせてね、と。
いつか、彼女に読む物語が夜を徹しても語り尽くせなくなるまで。千夜一夜と続くまで。ドラコは彼女のいない日々を紡がなくてはならない。
「僕は先に行く」
ドラコはタイムターナーを抱えて柔く笑みを浮かべる。彼女との約束を果たすために。必要なものはもうすべて、人生という大きなカバンの中に納まっている。マルフォイの名を持つ自分の手に入らない物なんてやはりありやしないのだ。全てが思うがまま。殊更孤独で、寂しいけれど、自分は今も昔も全てを持っている。
その大人びた表情にレイは感嘆のため息を吐いた。ドラコはレイでは想像がつかないくらい大人である。守るべきものを持っていて、未来をきちんと生きている。これこそが人間、という生物のあるべき姿だとすら思うのだ。
「所帯を持つってここまで人間を素晴らしいものにするんだねぇ」
「持てばいいだろう」
「俺は俺の人生で手一杯……」
比較的いつものテンションに戻りつつあるレイは幸運薬の味を忘れてしまう前にホグワーツに戻ることにした。二人の居場所が分かったという一報がない以上、出先で薬効がなくなるのは避けたかったのだ。
「それじゃ帰ろう。
真っ直ぐに伸ばされた手。らしくなさにドラコはため息をついた。自分の前でまで取り繕わなくてもよさそうなものだが、これが今の彼なのだろう。
彼が目指した完璧が薬の力で表層に圧着されている、その姿なのかもしれない。とはいえ、セドリックだってここまで軽やかではなかったはずだ。
ドラコから見たセドリックは真っ直ぐすぎるが故に多少、融通が利かないきらいもあった。彼は紛れもなく優秀だったが、パーフェクトであったなどとドラコは認識してない。レイはレイで彼を特別視しすぎなのである。
「俺の手を取って」
それとも、これこそが本来のレイの姿なのだろうか。彼は彼でいつの間にか本音を隠すのがとても上手くなってしまったから推測することが難しい。ある意味ではひどくスリザリンらしい厄介な幼馴染である。
「いや、レイ。姿現しだと玄関になる。いっそ君の部屋か準備室にフルーパウダーで飛んだ方が効率がいいだろう」
「……あぁっ!?その手があった!」
本気で気づかなかった、みたいな顔をするので呆れてしまう。出していた手を引っ込めてワニワニと動かしている様は中々に滑稽である。
それにしても、自分は彼の中でまだ未成年の年下後輩なのだろうか。学生時代に囚われているのは彼の勝手だが、こちらまで巻き込まないで欲しい。こちらは一児の父親だ。
「僕は君の中でいつまでティーンエイジャーなんだ」
「ん、んふーー、可愛い後輩であるのは確かなんだけどね、ね、レイ先輩って呼んでもいいよ?」
「子供の時だってそんな風に呼んだことはないだろう」
「そうでございましたね、坊ちゃん……」
「ともかくもう付き添い姿くらましが必要な歳じゃない」
「おっほ……えへへ、へへっ。学生さんと長く暮らしてるから全部そういう感じになっちゃってるってことで、ひとつ」
「どうだかな」
お恥ずかしや、と揉み手のレイを小突きたくもなるが、仮にも彼の言う通り自寮の先輩である。一応の敬意をもって接するべきだ。
とはいえ、彼は幼馴染でもある。しかも、このとんでもない違法な行いを見逃してくれるというのだ。
タイムターナーを所持していることは事実だった。幾度となく使ってしまおうと思った。それでも、それを許されないことであると戒めた。もういない彼女に焦がれることこそ過去の美しい光の中に、彼女を置き去りにする行為であると。
けれど、そうではなかったのだ。スコーピウスが生まれた日。その特別な時間。本当は、スコーピウスの成長を見届けたかったに決まっている。腕の中の我が子の行く末を。誰よりもアストリアが見ていたかったに違いない。
「薔薇のような男の子」
「何を突然」
「蠍の心臓は、赤いんだよドラコ。アストリアが言ってた、スコーピウスは真っ赤な薔薇だって」
「そうか」
薔薇は、手をかければかけるほど美しく咲く。嘆いている時間なんてない。その言葉の意味を噛みしめて、そうしてドラコも前を向くことを決めた。
「少し持っていてくれないか」
そう言われ、レイは木箱を受け取った。そして愛しげにタイムターナーの入った箱を撫でてみる。自分から大切な先輩の鮮明な記憶を奪うのは時間。一方でそれでもいいと思えるようにしてくれるのもまた時間だ。世界は押しなべて表裏一体。
その曖昧な表情を見てつい、ドラコは余計なことを言ってしまう。
「レイは、もう少しだけわがままを言ってもいいんじゃないか」
「え~?もう俺の人生がワガママみたいなもんだしなぁ」
「そうやって、」
「それを許される才能があったんだ。これ以上望めないよ」
だって、今の俺なら百年で天文学の大家にだってなってみせるぜ。
ドラコには意味の分からない例え話。それに関して深く聞くつもりはない。そのかわり、フルーパウダーの粉を手に取った。適当に掴んで袋をレイに渡す。そして、タイムターナーを受け取ると暖炉へと向かった。
「ちゃんと持っててね。手を離したらダメだよ」
「だから、私はもう子供じゃない……。ホグワーツ魔法魔術学校、魔法薬学準備室」
ドラコの姿が暖炉から完全に見えなくなったことを確認してフルーパウダーをひっつかんだ。そして、レイはある意味これも空飛ぶ妖精の粉だな、と笑う。物理的に飛んでるわけではないけれど、瞬間移動だったら叶えてくれる。
「よぅし、今度こそ。ホグワーツ魔法魔術学校、魔法薬学準備室!」