【前回までのあらすじ】
タバサは特殊な読書法を発明していた。
部屋の机でクルトと向き合い、タバサは食前のお祈りをする。
皿に並んでいるのは、パンと
タバサはフォークを手に取り、
そういえば、クルトがリュリュのために作った代用肉料理は食べ損ねていた。タバサが席を外している間に、シルフィードが食べ尽くしてしまったのである。先日の東方風サンドイッチの意趣返しらしい。
食い物の恨みは恐ろしいというけれど、今後はもう少し、使い魔の食糧事情にも気を遣ったほうがいいかもしれない……と、そんなどうでもいいことを考えながら、フリットを口に運ぶ。
さく、と揚げ物特有の軽い食感。ほどよく効いた塩気、揚げた小麦粉の香ばしさ、代用肉の物足りない味に混じって、独特の苦味が口に広がる。
タバサの好きな味。
ハシバミ草だ。
どうやら、一口大に切った代用肉をひとつひとつハシバミ草で巻いてから揚げているらしい。
タバサはよく噛まないうちにそれを飲み込み、また次のフリットを口に運んだ。
そうしてふたつ、みっつと食べているうちに……視線に気づく。
まだひとつしか手をつけてないクルトが、そわそわと落ち着かない様子でタバサの食べっぷりを
「……ん」
タバサはもぐもぐと口を動かしながら、小さく頷く。
クルトは一瞬だけ瞳を輝かせたけれど、またすぐに不安な表情になる。
その姿に、タバサは奇妙に胸をくすぐられたような気持ちになった。口のなかのものを飲み込み、ナプキンで口元を拭いてからグラスの水を飲み、呟く。
「おいしい」
「よ、よかった。俺、作ってる途中に味見して、けっこう食べちゃったからさ。ここにあるやつ、ぜんぶ食べていいからな」
タバサは頷いた。
クルトの言葉は真実なのか、それとも彼の不思議な優しさなのかはわからないけれど。わからないからこそ、無防備に受け取りたいと思ってしまった。
タバサはフリットをもうひとつ食べて、小さく問う。
「ハシバミ草」
以前作ってくれた東方風サンドイッチでも、クルトはハシバミ草をたっぷり使っていた。
タバサがなにを言うでもなく、彼は当然のようにタバサの好物を選んでいた。
彼の前では……いや、誰に対しても……タバサは自分の食の好みを語ったことはない。
けれどもアルヴィーズの食堂ではキュルケとクルトと一緒になることが多かったし、舞踏会があるとタバサはハシバミ草のサラダばかり食べていたから、彼はタバサがこの苦味の強い野菜を好んでいることを察していたんだろう。
見られてたのだ。いままで、ずっと。
そう思うと、タバサはどうにも落ち着かなくなるのだった。
「リュリュさんに教わったんだ。フリットにするなら、香りの強い野菜と一緒に揚げたらもっと美味しくなる、って。それで試してみた」
しかし、クルトが照れたようにそんなことを言うので、タバサはいっそう落ち着かなくなった。
残照の空を飛んでいたシルフィードの背の上で、あるいはあの夜の散歩の別れ際で、タバサを襲った制御しがたい心のざわめきが、ふたたび顔を覗かせてきた。
タバサは知っている。
クルトはルイズが好きなのだ。恋しているのだ。
タバサはクルトを応援したい。なぜなら、彼に借りがあるから。任務に赴くタバサの身を案じ、怯えて、まっすぐな心配をずっとずっと向けてくれたから。学院に帰ってきたとき、いつも嬉しそうに迎えてくれるから。
そうしてあの誘拐事件の翌日、怖い夢を見て動けなくなっていたタバサを助けてくれたから。タバサが安心して眠れるまで……眠ってからもずっと、手を繋いでいてくれたから。
タバサが心を乱してしまうのは、クルトがふらふらしてるからだ。
彼はルイズを好きで、もっと一生懸命にならないとあの子をサイトに取られてしまうのに、まったく、一途じゃないからだ。
泣き出してしまったリュリュを慰めるとき、クルトは頬を赤らめていた。リュリュに抱きつかれたときなんか、彼は困ったような顔をしながら、だけど、笑ってた。泣きそうな、優しい目でリュリュを見ていた。
彼が好きなのはルイズなのに。応援したいのに。
だいたい、初対面のリュリュにそんなことができるなら、タバサにも同じことができるんじゃないか。
子どもみたいに泣きじゃくりながら彼に抱きついていたリュリュが、彼の手に髪を撫でられていたリュリュが、タバサは――、
「どうしたの? 変な味がした?」
こわごわと尋ねられて、タバサは首を振った。
まばたきをして、いつの間にか険しくなっていた表情を、いつもの無表情に戻そうと努めた。
タバサは残り少なくなったフリットを食べる。
目をつむってその味に集中しようとするけれど、脳裏に浮かぶのはリュリュのこと。ヴェストリの広場で、彼女がクルトに抱きつく光景。帰りの道中、シルフィードの背でクルトに話しかける彼女の姿。頬を染め、はにかんだように微笑む横顔。熱っぽく潤んだ、その瞳。
どうしてこんなことばかり考えるんだろう。
ばかばかしい。
そもそも、リュリュとクルトを引き合わせたのはタバサ自身なのに……。
リュリュを魔法学院に連れてきたのは、代用肉のヒントになるかと思って話した『錬金』で調理する同級生に、彼女が強い興味を示したから。
彼女の夢が、いつかタルブで聞いたクルトの考え方と近いところにあると思ったから。
そして何より、タバサにとって、リュリュは命の恩人だから。
火竜山脈で初めて火竜と対峙し、意識を失ったとき、リュリュは火竜の気を逸らしてタバサとシルフィードを救ってくれた。
そしてシルフィードを囮に極楽鳥の巣からタマゴを獲ったときも、リュリュの代用肉が火竜の群れを引き寄せてくれたおかげで、タバサたちは命が助かった。
リュリュがいなければ、タバサはイザベラの命令を完遂することはおろか、生きて山を降りることさえできなかっただろう。
そんなリュリュだからこそ、秘すべき身分を暴かれかねない危険を冒しても、学院に連れてくるべきだと判断したのだ。
借りたものは、返さねばならないから。
恩には報いねばならないから。
そうして実際、クルトの発想はリュリュに大きな刺激を与えたようだった。ふたりは、タバサには理解し得ないところで共感しているように見えた。
だからふたりの距離が近かったのは、彼らが同じ夢を持っているからであって、それ以上の意味はない。クルトが赤くなってたのも、仕方ない。彼は
それが気に入らないなんて、どうかしてる。
してるけれど……。
パンもフリットも食べきって、すっかり空になった皿をじぃっと見つめる。
クルトが不安そうに、
「足りなかったかな?」
なんて訊いてくるけれど、タバサは答えない。
彼は放っておいても勝手にタバサの都合の良いように解釈しようとがんばってくれるので、かまわないのだ。
自分でも制御できない心のざわめき、不可解な苛立ちは、もうひとつの記憶を呼び覚ます。
夜の散歩で聞かされた話。
モンモランシー。
タバサが火竜山脈に籠もっている間、クルトは、彼女とふたりっきりでラドグリアン湖まで遠乗りしていたという。
なにか用事があったらしいけれど、
ああ、そうだ、クルトが熱を出したとき、モンモランシーが妙に優しく薬なんか差し入れてたのも、彼がそうやって口説いていたからかも。
でも、それじゃいけない。
クルトはルイズに恋していて、タバサはその恋を応援したい。
――けど、もし彼がいろんな女の子に手を出すような男の子だったら、わたしにも、
タバサは首を振った。
ばかじゃないの、と思った。
最近、タバサはおかしいのだ。
タバサには、やるべきことがある。やり遂げねばならない目的がある。ふつうの女の子みたいな夢はいらない。抱いちゃいけない。
もし彼の気持ちが
ほんとうは、一途にルイズに恋しているのだ。
そうに決まってる。
じゃないと、タバサは受け取れない。
彼のくれるものを、気持ちを、拒絶しないといけなくなる。
「リュリュとは」
タバサは呟いた。
自身の意思とは関係なく、口が勝手に動いているようだった。
「火竜山脈で知り合った」
タバサの処世術の基本は、喋らないこと。心を氷の如く閉ざして、誰とも深く関わらないようにするのが彼女の世界との接し方だった。
けれどもこのところ、タバサの口はよく動く。
休暇の前、タバサだけが気づいたとっておきの秘密をキュルケと共有したとき然り。夜の散歩の別れ際、クルトに子どもっぽい暴言をぶつけたとき然り。この学院の友人たちと一緒にいると、タバサは
「この時期の火竜山脈は、とても危険。ハルケギニア中の火竜が繁殖のために集まってる。繁殖期の雄の火竜は興奮しやすくて、攻撃的。雌はもっと危険で、子育てのために気が立ってる」
つらつらと語っていくにつれて、クルトの顔がこわばっていく。その鼓動の音が恐怖に早まっていくのが、優れた『風』の使い手であるタバサには聞こえる。
タバサもまた心臓を早く強く脈打たせながら、しかし彼とは反対に、頬が緩まないように意識しなければいけなかった。
目の前の友人に心配されていることを実感するのは、ひとりの男の子が自分のために不安で頭がいっぱいになってることを確かめるのは、他に代えがたい充足感があるのだった。
「火竜に襲われた。何度も」
がたん、と机が揺れた。
クルトが立ち上がりかけて、なんとか堪えたのだ。
「怪我した」
タバサはクルトに右手を差し出した。
「折れた」
嘘である。
火竜の尻尾に吹き飛ばされて全身を打ったけれど、右手に怪我はしていない。どんな状況でも杖腕を庇えるように立ち回るのは、タバサが北花壇騎士として学んだ最も重要な教訓のひとつだった。
けれどもタバサの口は、得体の知れない衝動の命じるまま、うつろな言葉を続けるのだった。
「痛い。いまも。すごく」
いよいよ泣きそうな顔をしているクルトに、タバサは囁く。
「……許す」
一瞬間、クルトは戸惑った顔をして……我に返ったタバサは、恐るべき羞恥に襲われて……小さく震えるタバサの右手が、男の子の手に包まれた。
「ゆる、す。あなたの、望む……」
ぽそぽそという台詞は、最後まで続かなかった。
ひとつには、彼の目の前で『バタフライ伯爵夫人』の台詞を再現するのは恥ずかしすぎたから。もうひとつは、言う必要がなかったからだ。
大きくて骨張った男の子の手に自分の手を握られる安心感は、肉付きの悪い自分のお尻で潰すのとは比べものにならなかった。
「火竜と戦った」
けれども胸を疼かせる欲求は底なしで、満たされたと思うほどに、もっともっと欲しくなる。
タバサの口は、またしてもクルトの不安を煽り始める。
「火竜のブレスは強力。メイジの魔法じゃ敵わない」
クルトは目を伏せ、繋いだ手にじっと視線を注いでいる。
その視線を受けた場所から、触れあっている皮膚の境界線からじわじわ熱が広がっていくようで、お腹がくすぐったくて、タバサはもぞもぞと座り直した。
もうそろそろ、やめなきゃいけない。
この優しい、心配性な男の子を怖がらせるのは良くないことだ。
だけど、この気持ちは、受け取ってもいいのだ。欲しがってもかまわないのだ。
だって彼がタバサに向けている気持ちに、『かわいい』『すき』なんて浮ついた言葉は関係ない。彼の手から伝わる温かなものは、あくまでも、ただの……、そう、ただの心配。友人が危ない目に遭ったと聞いたら抱いて当然の、ありふれた感情なのだから。
「山を下りる前、火竜の成体に見つかった」
タバサが語る言葉に、今度こそ嘘はなかった。
雌の火竜に化けたシルフィードを囮に極楽鳥のタマゴを獲ったとき、タバサは老成した雌の火竜に見つかり、一対一で対決した。
タバサは全力の『ジャベリン』で灼熱のブレスを相殺し、火竜を追い払った。
もし、もう一度ブレスを吐かれていたら、タバサは焼け死んでいた。火竜がタバサを見逃したのはただの気まぐれ、神が与えた幸運にすぎない。
あのとき抱いた心底からの恐怖、そして火竜が目を背けたときの安堵を、タバサはいまだによく覚えている。
タバサを握るクルトの手に、ぎゅう、と力が籠もる。タバサの話に怯えたのか、それともタバサの震えに気づいたのか。
どちらでもいい。
ただ、その手の熱はタバサの胸の奥底にわだかまっていた恐怖心を柔らかく解かしていくような気がした。
「……でも、へいき。にらんだら帰った。わたしのほうが、上だった」
彼の手の心地よさを十分に堪能してから、タバサは呟いた。
それもまた嘘ではなかったが、しかし、とうてい信じがたい真実である。
もはや精神力が底をつき、次の一撃を防ぐ術もないという絶体絶命の状況で火竜と視線をぶつけあい……絶対に負けない。こんなところで死ねるはずがない。必ず生きて帰ってやる……と、ひたすらに念じていたら、火竜のほうが身を退いたのだ。
どうしてそんな奇跡が起きたのか、タバサ自身、いまだに上手く飲み込めていない。
けれどもクルトは素直に頷いて、
「そっか。さすがタバサだ」
と小さく笑う。
タバサの話を、ちっとも疑ってないらしい。
以前から、クルトには妙に素直というか、従順なところがあった。タバサの話を一切否定せず、『タバサが言うなら、そうなんだろうな』と受け止めてしまう。
しかもそれは口先だけじゃなくて、本心からそう信じ込んでいるようなのだ。
タバサなら、なんだってできる。タバサなら間違えるはずがない……、と。
まるで親の冗談を真に受ける子どもみたいな、タバサを物語に出てくる英雄とでも思っているかのような、無垢な信頼。
そんな無邪気な、まっすぐな賞賛を浴びるのは、心配されるのとは別種の心地よさがあった。
手をしっかり握りながら「やっぱり、タバサはすごいな」なんて呟かれると、背中がむずかゆい。見てるとタバサまで頬が緩んでしまうような、少しばかり幼さを感じさせる彼の笑顔は、なんというか、とても……、
「……かわいい」
「え?」
知らず口からこぼれていた言葉に、クルトが首を傾げた。
タバサはなんとか無表情を取り繕って、
「あなたが、いつも言うから」
と、言い訳のような何かを呟く。
クルトが『かわいい』と言うからってタバサまで同じことを言う理屈はないのだが、彼は「そうか」と真剣な顔。
それから微妙な間があって、彼は決意したように、
「ごめん、もう言わない。今後は気をつけるから」
「いい」
「でも……」
「いいって言ってる」
強い口調で彼を遮り、黙らせる。
べつに言われたくないわけじゃないのだ。言われたい、とは認めないけど。
タバサは困ったように頷いてるクルトを見つめて、深呼吸。
なんだか、また話がおかしな方向に進んでしまった。
『かわいい』も『すき』も、タバサは望んでない。そんなふつうの女の子みたいな欲求は知らない。
タバサが欲しいのは、受け取っていいのは、もっと純粋なものだけだ。
「死ぬかと思った」
だからタバサは、そんなことを呟く。クルトの不安をますます煽る。
彼の手にまた力が籠もっていくのを、心地よく感じながら。
「心配しないで」
嘘である。
まさしく、彼を心配させるためだけに、タバサは秘密の任務を打ち明けている。
「無理だよ、そんな」
と、クルトが泣きそうな顔で首を振る。
タバサの望んだ通りに。
望んでいた、以上に。
「俺は、怖いんだ。すごくすごく心配なんだ。タバサが……」
繋いだ手を痛いくらいに握られて、不思議と、満たされたような気持ちになる。
ほんの一瞬だけ、タバサはあのラドグリアン湖の夜を、彼に指を折られた瞬間を思い出すけれど、すぐに忘れ去ってしまう。
いまのクルトは、あのときとは違う。彼の目は
「タバサがいつか、し、死んじゃうんじゃないか。帰ってこないんじゃないか。今度こそ、もう二度と会えないんじゃないか、って。俺、ずっと、怖くて、俺の……で、タバサが、タバサ、が……」
自分のために声を震わせ、瞳に涙さえたたえている男の子の存在を感じるのは、ぞくぞくするような心地がした。
「死ぬかも」
ひゅっ、とクルトが息を呑んだ。
「次は、帰れないかも」
クルトはなにかを言いかけて、飲み込む。
けれども『風』のトライアングルであるタバサは、彼がなんと言おうとしていたのか、聞き取れてしまう。
『いやだ』と。
彼はそんな子どもじみた言葉をぶつけそうになって、しかしぎりぎりのところで
その事実にタバサは胸を震わせて……、彼に強く握られ、鈍い痺れを訴え始めている右手が、痛みのなかに
『バタフライ伯爵夫人』を読みながら自分のお尻で潰していたときと似た、しかしそれより何百倍も鮮烈な、甘い刺激を――
「ぅ、んっ」
タバサの喉奥が仔猫みたいな音を発した瞬間、右手が解放された。
突然、クルトが手を離し、椅子から立ち上がったのだ。
「す、すまない。痛かったよな。ごめん。怪我したって、言ってたのに。強くしちゃって。ああ、最低だ……こんな……」
タバサは首を振った。
そうする他に、応える術がなかった。
けれどもクルトが杖を取りだし、『治癒』のルーンを唱え始めたので、タバサは咄嗟に手を引っ込めた。
右手の芯まで痺れさせている甘い余韻を、そう簡単に消されたくなかったのだ。
しかしこの反応は、クルトにとっては強い拒絶に映ったらしい。
彼はふたたび謝罪すると空になった皿を片付け、タバサに背を向けた。
「こんな時間に急に訪ねて、悪かった。一緒に食事できて嬉しかったよ。それじゃあ、また」
と、足早に部屋を出ようとして……、できない。
扉の鍵が閉まっている。
フリットを食べ始める前、タバサが『
ルイズが学院を離れているいま、タバサの部屋を訪ねてくるのはキュルケくらいだけれど……だからこそ、タバサはしっかり『施錠』した。
こんな時間にクルトを部屋にあげているところをキュルケに見つかったら、きっと質問攻めを食らうから。
そうしてタバサが親友を締め出すために唱えた呪文は、いま、男の子を閉じ込めるのに役立っているのだった。
『イーヴァルディの勇者』を読んでもらった、あの日と同じように。
クルトはドアノブをがちゃがちゃと揺らし、助けを請うようにタバサに振り向いたけれど、すぐに目を逸らす。
やはりあの日と同じくタバサが
椅子に座ったタバサが微動だにしないで見つめているなか、クルトは片手にドアノブを握ったまま杖を取りだし、目をつむって深呼吸。精神を集中させて『
そして、
「……うそ」
がちゃ、と金属質の音がした。
部屋の扉が、あっけなく開いた。
タバサが彼女らしくもなく驚きの声を漏らしたのは、それがあまりにも意外な光景だったから。
なぜって、タバサはキュルケを締め出すために『施錠』を唱えたのだ。
自分と同じトライアングル・クラスのメイジでも手こずるような、しっかりと精神力を費やした、強力な呪文だったのだ。
それをライン・クラスのクルトに破られるとは、考えてもみなかった。
もしかして、彼はこの休暇の間に……、
「トライアングルになれたわけじゃないんだ。悔しいけど」
タバサの驚愕に気づいたのか、ドアを半分開けたクルトがこちらに振り返る。
ふう、と疲れたような息を吐く。
「でも、夏休みの間、俺もそれなりにがんばってたんだよ。鍵の構造をちゃんと把握して、力を入れるべき場所を理解していたら、『解錠』の効果を底上げできる。金物修理の経験が活きたってわけだ。タバサの『施錠』は、さすがに、ちょっときつかったけど……」
クルトはここで言葉を切り、壁に手をついて呼吸を整えた。
「また長々話しちゃってすまん。それじゃ、今度こそ帰るよ。おやすみ、タバサ」
タバサは首を振った。
クルトは、困った顔をした。タバサが何を否定したのか、掴みかねているのだ。
そうして、それはタバサもおんなじだった。
「用事は?」
だからタバサが呟いたのは、ひどく甘ったれた質問。
彼がこの時間に部屋を訪ねてきたのは夕食を食べ損ねたタバサに手料理を差し入れるためで、それはもう片付いている。
だけどタバサは、ふたたび彼に問いかけた。
なぜって、……ひとりになると、また変な本を読んじゃうから。
それだけだ。
もしキュルケに同じ質問をしたら、タバサの内にある甘えを察して、優しく抱きしめてくれるだろう。
ルイズだったら、『寂しいならはっきり言いなさいよ』と叱ってくれるかもしれない。
そうして、いま目の前にいる男の子は、タバサの気持ちを見抜くことも叱ることもしない。
どういうわけか、自分に落ち度があったばかりと思い込み、タバサの質問の意図するところを一生懸命に探しているのである。
「用事って言われても、夜食の他には……、ただ、会いたかっただけで……」
クルトはタバサの表情の変化には気づきもせず、慌てたように弁解する。
「あ、いや、すまん。またキモいこと言って。ほんとすまん。もう言わない」
タバサは首を振るけれど、床と半開きの扉の間で視線を彷徨わせていたクルトは見落としてしまう。
彼はそれから真剣に考え込み……、短い、しかしひどく焦れったい沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「本、貸して欲しくて。あの『イーヴァルディの勇者』。いいかな?」
タバサは頷いた。
本棚から、チクトンネの古本屋で買った『イーヴァルディの勇者』を取り出し、クルトに手渡した。
「ありがとう。大切に読むよ」
「この本、まだ読んでない」
嘘である。
この短い童話は、夏期休暇の間にタバサが自室で読み切ることができた数少ない本の一冊だ。
「そっか。なるべく早く返せるようにする」
「いい」
「でも、タバサも読みたいだろ?」
タバサは頷いた。
クルトは、ちょっと戸惑った顔をした。
タバサはわずかに
「……だから、読んで。あなたが」
――むかしむかしのお話です。
イーヴァルディは、ちいさな村のはずれのちいさな家に、ずっとひとりで暮らしていました。
お父さんもお母さんも、もう何年も前にいなくなっていたのです。
だけどイーヴァルディは、ちっともさみしくありませんでした。なぜって……
寝支度を整え、ベッドに身を横たえたタバサの耳に、クルトの朗読が心地よく響く。
幼い子ども向けのお話を読んでいるせいか、その声音はいつもより
火竜の棲む山に何週間も籠もり、小さな身体に降り積もっていた疲れが、彼の声につられて引き出されたみたいだった。
眠りたくなんかないのに。
かつてシャルロットと呼ばれていた日々と同じように、彼女は懸命に眠気に抗い……、結局、彼が一ページも読み終わらないうちに、夢の世界に落ちてゆく。
……ぱたん。
と、本の閉じる音がして、タバサは温かな夢想から引き戻された。
そうして突然、怖くなった。
以前、彼にこうして本を読んでもらった日。
手を繋いだまま眠ってしまったタバサは、血の臭いのなか目を覚ましたのだった。
タバサを安らげてくれた男の子は、あの日、ひどい怪我をしていた。女王アンリエッタの治療を受けたとはいえ、彼はまだまだ傷ついていた。すぐにでも休まなきゃいけなかった。
それなのにタバサは彼に甘えて、無理をさせて、胸の傷を悪化させたのだ。
心を預けられると思った相手が血の海に沈み、顔面も蒼白にしてぐったりと冷たくなっていたあの光景は、タバサの脳裏に焼き付いている。
彼の傷も、いまはずいぶん良くなったようだが……、あの日とよく似たこの状況で、タバサは胸の奥に潜んでいた恐怖を思い出してしまったのだった。
タバサが目を閉じたまま動けずにいる間に、クルトは椅子から立ち上がった。
おやすみ、と囁き声がして、髪を撫でられた。
それから彼は逃げるようにベッドから離れ、扉に手をかける気配がして、
「まだ途中」
と、タバサは呟いた。
お話の続きが聞きたかったわけじゃない。彼を帰すのが怖かったからだ。
はやく帰して、休ませてあげるべきだとわかってはいたけれど。このまま別れたらどこか知らないところで倒れてしまうんじゃないかと、わけのわからない不安に襲われたからだ。
「あ、た、タバサ、起きてたんだ。ごめん、変なことして」
変なこと? とタバサはわずかに首を傾げ……、遅れて理解する。
髪を撫でたことを謝られたのだ。
髪くらい、好きなだけ触らせてあげるのに。
タバサは頷き、
「続きは……」
「えっ?」
読まなくてもいい、と言おうとしたら、クルトが奇妙な声をあげた。
目を開けると、メガネをかけてないぼやけた視界のなか、彼は耳まで赤くなって、片手で鼻を押さえている。脈拍も、やけに早くなってるみたいだ。
どうしたのだろう。
「い、いや、なんでもないんだ。ちょっと変なこと思い出して。
クルトは『イーヴァルディの勇者』を片手にベッドの隣の椅子に座る。
そうして本を開き……、閉じた。
小声で謝ってから扉のほうを向いて、自身の顔に『治癒』を唱えた。
タバサは、心臓が止まりそうな気持ちになった。
「いらない」
「え?」
「読まなくていい」
「でも、途中だったろ」
「もういい」
やっぱり、彼はまだ治りきっていなかった。
タバサのために、無理させていたのだ。
それなのに、タバサはまた甘えてた。いじわるな『施錠』まで使って彼を閉じ込めようとしていた。
タバサはベッドから身体を起こして、クルトの胸に耳を押し当てた。
「うわ、ちょ、待って」
「うるさい」
呼吸の音は、悪くない。
これなら、以前のように血を吐いて倒れることはないだろう。
鼓動が早すぎるように感じるけれど、仕方ない。彼は
「クルト」
「はい」
なぜかかしこまった返事をするクルトにますます体を傾けながら、タバサは呟いた。
「あなたが心配」
それはタバサの本心の吐露であり、同時に、言うべきことを義務づけられた言葉だった。
恩には報いなければいけない。借りたものは、返さなければいけない。
クルトはあれだけタバサを案じてくれたのだから、タバサだって、彼を想わなければいけない……タバサはその理屈を自分に言い聞かせて、ぐちゃぐちゃとした、胸の奥にわだかまって扱いきれない気持ちを吐き出すことを正当化する。
「あなたはすぐ無理する」
「そんなことは、ない……、と、思うけど」
「ある」
「そうか。言われてみたら、たしかにそうかも」
あっさり意見を
それから、その笑い声と同じくらいにちいさな声で、囁く。
「怖くなかったの?」
「え?」
「この傷……あなたが、ルイズを庇ったとき。怖くなかった?」
タバサは傷の箇所を指し示すように、ガーゴイルに貫かれた胸のまんなかに、ぴったりと耳をあわせた。
「どうだろう、考えたことなかった。あのときは咄嗟だったから」
クルトは心臓が壊れるんじゃないかと不安になるくらい早く脈打たせながらも、ぽつぽつと答える。
声に緊張が滲んでいるものの、誤魔化してる様子はなさそうだった。
「避けようとは、思わなかったの?」
「うん。俺が逃げたらルイズが殺されてたかもしれないし、仕方ないよ」
「どうして」
どうしてあなたはルイズのために、そこまで身体を張るのか。
命を投げ出せるのか。
自分が殺されかけたことを、どうして、そんなにどうでもよさそうに話せるのか……。
タバサが投げかけた問いに、クルトはしばし考えて、穏やかに答える。
「俺が偶然、そこに立ってたから。ルイズの隣で、ガーゴイルを止められる場所にいたから。だからさ、仕方ないんだ。むしろ運が良かったんだ。言ってみれば、それが俺の『光る左手』だった、ってわけだ」
タバサは不意に、ラドグリアンの湖畔で聞いたサイトの朗読を思い出す。
サモン・サーヴァントによって付与される翻訳の魔法によって、サイトは本に書かれた文章とは違う言葉を読み上げていた。
彼の朗読は、文章全体の意味を要約し、整理し直したかのような印象を与えた。
そうして彼は(あるいは、彼のルーンは)、『イーヴァルディの勇者』に、独特の解釈を
『なぜ竜に挑むのか』と問われたイーヴァルディの、
――『わからない。なぜなのか、ぼくにもわからない。ただ、ぼくの中にいる
という台詞を、彼は、
――『わからない。なぜなのか、ぼくにもわからない。ただ、ぼくの中にいる
と読んでいたのだった。
当時は好きな物語をねじ曲げられたという不快感が先立って『情緒がない』なんて否定してしまったけれど、冷静になって考えれば、サイトの解釈は正しかった。
タバサの好きな『イーヴァルディの勇者』は勇気の物語だ。
イーヴァルディという少年のなかにいる勇気が主人公なのだ。
だからこそ、この物語は『勇者イーヴァルディ』ではなく『イーヴァルディの勇者』と名付けられているのだろう。
いまクルトが語った『光る左手』、イーヴァルディの手に突然あらわれた
ただ、イーヴァルディは困難に挑むとき、いつも『自分には光る左手があるから』と己を奮い立たせていた。
『光る左手』は、誰もが心に隠している勇者の
「あなたはイーヴァルディじゃない」
タバサは、静かに呟いた。
もし、彼が心のなかにいる勇者に従ったら、取り返しがつかなくなる。
そんな予感がした。
だけどクルトは、タバサの不安にも恐怖にもちっとも気がつかないで、くすりと笑う。
「そうだな。俺はせいぜい
そしてきっと、
ルイズを守るには、結ばれるには、彼はイーヴァルディにならなきゃいけない。
彼の恋を応援するタバサは、彼の勇者を後押しするべきなんだろう。
「……うん。あなたはシオメント。
だけどタバサはそんなことを呟いて、彼にすっかり体重を預けた。
そうすると、なんだかとても安心できるのだった。眠たくなってくるのだった。
クルトはなにやらぷるぷる震えて、「安全、安全、安全な男……」と繰り返しているが、タバサはもうどうでもよかった。
この気怠い、微熱のような安心感だけが、いまのタバサが求めるすべてだった。
「休もう」
とタバサは呟き、クルトから離れてベッドに倒れ込んだ。
半分眠ったような頭で毛布を掴んで、潜り込む。さっきまで彼に触れていた肌がやけに寂しい。毛布の端をめくって、彼のために場所をあける。
「寒い」
彼は縮こまって首を振るけれど、タバサは、
「まだ休暇中」
とだけ呟き、目をつむった。
休暇と同衾になんの関係があるのか、自分でもわからない。でも、なんでもいいから理屈をつけておけば、この男の子はタバサの都合の良いように考えてくれるのである。
彼は果たして隣で寝てくれるのか、それとも別のなにかを思いつくのか、そこまではわからないけれど……。
タバサは夢と
それから毛布に隠していた『バタフライ伯爵夫人の優雅な一日』の存在を思い出し、ベッドの端にこっそり蹴り寄せた。
なぜって……、やっぱり恥ずかしいから。
『あなたの望むやり方で』なんて告げることは、まだ、できそうになかったから。
第五章は以上です。
お付き合いいただきありがとうございました。
次章はアルビオンでの戦争編。
クルトがカトレアに叱られたり、タバサが寝不足になったり、ワルド&フーケが暗躍したりします。
書き溜めを作りつつありますが、原作の時間軸でいうと二巻分(『ゼロの使い魔6 贖罪の炎赤石』と『ゼロの使い魔7 銀の降臨祭』)の話になるので、また投稿の間が開くかもしれません。
でもエタることはない(はず)だから、気長にお待ちいただけると幸いです。
感想、お気に入り、高評価、ここすきなどなどもらえるとモチベになります。
よろしくお願いします。