鱗滝の養子   作:松雪草

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42話

 小芭内君が期待した通り、次の日の空もすっかり晴れた。

 

 とはいえ、外へは出られないので、今日も小芭内君と一緒に部屋の中で立つ。

 

 鏑丸は小芭内君の首元に巻きついたまま、時々、こちらを見ている。

 

 ふと、かつては鱗滝さんの鎹烏に鍛錬を見張られていたのを思い出して、少しだけ口元が緩んだ。

 

 昼を少し過ぎた頃、廊下の向こうから足音がした。

 

 宿の人の足音とは違う。

 この音は、槇寿郎さんだ。

 

 足音は障子戸の前で止まった。

 

「入るぞ」

 

 槇寿郎さんの声だった。

 

 俺は立ち上がり、障子を開ける。

 

 槇寿郎さんは、羽織の裾に薄く土をつけていた。顔色は悪くない。けれど、目の下に疲れが見える。

 

「お戻りでしたか」

 

「ああ。少しだけな」

 

 槇寿郎さんは部屋へ入り、小芭内君の方を見る。いつのまにか、小芭内君は部屋の隅の方で小さくなっていた。

 

 俺以外の人が部屋に入ると、まだ怖いらしい。

 

 槇寿郎さんも、それに気づいたのだと思う。

 

 言葉を選ぶ間が、少しあった。

 

「えっと、外はどうですか」

 

 俺が聞くと、槇寿郎さんは一歩下がって廊下に腰を下ろした。

 

「落ち着いたとは言えん。だが、最初に考えていたよりは悪くない」

 

「そうですか」

 

「八十江がよく動いてくれている。島の者に顔が利くのは大きいな。こちらが何をしに来たのか、伊黒の家が何をしていたのか、すべて話せるわけではないが……それでも、話を聞こうとする者は増えた」

 

 伊黒八十江さん。

 

 チラリと小芭内君を見るが、その名前を聞いても特に変化はなかった。

 

 先ほどと変わらず、部屋の隅で鏑丸の頭を撫でている。

 

「伊黒家の蔵や金品に手を伸ばそうとする者も、島の者と連携できたおかげで、随分と落ち着いた」

 

「それは、八十江さんは大丈夫でしたか」

 

「あー、十分とは言えんが、本人も動いてないと落ち着かないらしくてな……。商人連中も声が大きいだけで、刀を持って押し入ってくるわけではない」

 

 槇寿郎さんは、「少なくとも明るいうちはな」と俺にだけ聞こえるような小さな声で言うと、少しだけ苦く笑った。

 

「もっとも、声が大きいだけの者を黙らせるのも面倒ではあるがな」

 

「槇寿郎さんは大丈夫ですか」

 

「俺か」

 

「はい」

 

 先遣隊の人たちや、八十江さんも心配だが、槇寿郎さんも疲れているのは、見れば分かる。

 

 槇寿郎さんは、しばらく俺を見た。

 

 それから、少し息を吐く。

 

「八十江のおかげで、ずいぶん楽をしている。島の者すべてが納得しているわけではないが、少なくとも、話の通じる者がいるというだけでもかなり助かっている。それに、今後のことは、お館様にお伺いを立てることになるだろう」

 

「今後、ですか」

 

「この島のことだ。伊黒家の財の扱い、関わった者の扱い、島の者たちの暮らしも変わるだろう。こちらだけで決めてよい話ではない。蔵から、いくつか書付も出ている。そちらは隠に預けることになるだろうな」

 

 槇寿郎さんの声は低い。

 

 俺は頷いた。

 

 聞きたいことは、いくつもあった。

 

 けれど今一番聞きたいことは、小芭内君のことだ。

 

 槇寿郎さんも、おそらく同じことを考えていた。

 

「それから」

 

 槇寿郎さんが小芭内君へ目を向ける。

 

 小芭内君の肩が、わずかにこわばった。

 

「小芭内をこの島に置いておくわけにはいかん。一度、お館様のもとへお連れすることになるだろう」

 

 小芭内君は、こちらを見なかった。

 

 ただ、鏑丸を撫でる指が止まっている。

 

 自分のことを話されていると、分かっている。

 

 俺は、小芭内君に声をかけようとして、やめる。

 

 今、何かを聞いても、小芭内君が自分の想いを正しく言葉に出来るとは思えなかった。

 

 槇寿郎さんは立ち上がった。

 

「少し休む。何かあれば呼べ」

 

「はい。ありがとうございます」

 

「……礼を言われることではない」

 

 そう言って、槇寿郎さんは襖へ向かった。

 

 その背中に、小芭内君が視線を向けている。

 

 襖が閉まる。

 

 足音が遠ざかってから、部屋の中が少し静かになった。

 

 小芭内君は、まだ襖の方を見ていた。

 

「あの人が、槇寿郎さんだよ」

 

 俺が言うと、小芭内君は小さく瞬きをした。

 

「槇寿郎様」

 

「うん。槇寿郎さん」

 

「槇寿郎様」

 

 言い直されなかった。

 

 大人相手だから、様をつけるのは自然なのかもしれない。

 

 もしくは小芭内君は、そういうふうに教えられてきたのだろうか。

 

 俺はそう思って、特に何も言わなかった。

 

「槇寿郎様は、宗右衛様のなんなんでしょうか」

 

 宗右衛様。

 

 今、自然に混ざった。

 

 あまりにも自然だったので、俺は一瞬、そのまま聞き流しかけた。

 けれど、耳に残る。

 

 宗右衛様。

 

 なんだろう。

 なんだか、背中のあたりがむずむずする。

 

「ええと」

 

 俺は少しだけ咳払いをした。

 

「槇寿郎さんは、炎柱……ええと、俺の師匠にあたる人だよ」

 

「師匠、ですか」

 

「うん。体の使い方とか、立ち方とか、いろいろ教えてもらってる」

 

「槇寿郎様は、宗右衛様の師匠」

 

 やっぱり、様付けが自然に混ざっている。

 

 小芭内君は真面目な顔をしている。

 

 当然、俺をからかっているわけではないだろう。

 

 だから余計に困るのだけれども。

 

「小芭内君」

 

「はい」

 

「……宗右衛様っていうのは、ちょっと、やめない?」

 

 小芭内君の顔が、緊張で強張った。

 

「何か、いけませんでしたか」

 

「ああ、いや、駄目じゃない。駄目じゃないんだよ?」

 

 俺は慌てて首を振った。

 

 もう少し言い方を考えるべきだったと反省して頭の中で言葉を探す。

 

「……なにか失礼、でしたか」

 

「失礼じゃないよ。むしろすごく丁寧なんだけど」

 

「けど?」

 

「俺が慣れなくて」

 

 小芭内君はよく分からないという顔をした。

 

「慣れない、ですか」

 

「うん。ちょっと恥ずかしい」

 

「恥ずかしい」

 

「そう」

 

 小芭内君は、口を閉じた。

 

 それから、とても真面目な顔で言った。

 

「では、どのようにお呼びしたらいいんでしょうか」

 

 そこまで考えていなかった。

 

 様をやめてほしいとは思ったが、代わりに何と呼んでもらうかとは考えていなかった。

 

 小芭内君の顔を見る。

 真剣に待っている。

 

「えーと、小芭内君の好きなように呼んでいいよ」

 

「宗右衛様というのは……」

 

「ゔっ、うん……やめてほしいかも」

 

 小芭内君が固まった。

 

 たしかに、様付けを止めてほしいといいながら、好きなように、というのは言葉が違ったかもしれない。

 

 そもそも小芭内君は好きに呼ぶということが、よく分からないのかもしれない。

 

「ええと、じゃあ、普通に宗右衛って呼ぶのはどうかな」

 

「そ、宗右衛……。さま」

 

 小芭内君は口の中で、その音を転がすようにした。

 

 けれど、どうにも出しづらそうだった。

 

 鱗滝さんも、錆兎も、義勇も、俺を宗右衛と呼ぶ。

 狭霧山ではそれが当たり前だった。

 

 煉獄家では、宗右衛殿と呼ばれることもあるが。

 

 いや、宗右衛殿は違うか。

 様よりはましかもしれないけれど、小芭内君に宗右衛殿と呼ばれるのは、それも違う気がする。

 

 もう少し記憶を遡る。

 

 パッと頭に浮かんだのは裏長屋の記憶。

 

 小さい子たちが、俺の袖を掴んでいた。

 腹を空かせて、寒がって、よく泣いていた。

 

 兄ちゃん。

 そう言いながら手を引かれたことを思い出す。

 

「あとは……兄ちゃんとか、呼ばれてたことはあるかな」

 

「宗右衛、兄ちゃん」

 

 小芭内君が繰り返す。

 

 声がぎこちない。

 

「兄様」

 

 少し変わった。

 

「宗右衛お兄様」

 

 もっと変わった。

 

 様付けよりも、余計に良くない気がする。

 

 宗右衛様から、宗右衛お兄様。

 

 どちらの方が良いのか悪いのかは、よく分からない。

 

 よく分からないけれど、どちらも呼ばれているだけで、俺の背筋がぞわぞわする。

 

 さすがにこれは、と言いかけて小芭内君を見る。

 

「だ……駄目でしょうか」

 

 小芭内君が、少し伏し目がちにこちらを見た。

 

 青緑と黄色の目が、不安そうに揺れる。

 

 駄目、とは言えなかった。

 

「い゛っ……いいよ」

 

 俺がそう言うと、小芭内君はほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 

「では」

 

「うん」

 

「宗右衛お兄様」

 

 もう一度呼ばれた。

 

 俺は少しだけ目を閉じた。

 

 背中か、腹の中か、身体の奥のよく分からないところが痒いような感覚。

 

 もはや、慣れるしかないと腹をくくるしかなかった。

 

 

 

 

 その日の夕方、槇寿郎さんがもう一度部屋へ顔を出した。

 

 今度は湯をもらいに来ただけらしい。宿の人を呼ぶ前に、俺が立ち上がる。

 

「俺が行ってきます」

 

「休んでいろ。謹慎中だろう」

 

「……それ、今も効いてるんですか?」

 

「効いていることにしておけ」

 

 槇寿郎さんはそう言って、廊下へ出ようとした。

 

 その時、小芭内君が俺を呼んだ。

 

「そ、宗右衛お兄様」

 

 襖の前で、槇寿郎さんの足が止まった。

 

 俺も止まった。

 

 止まってしまった。

 

 小芭内君だけが、何もおかしなことは言っていない顔をしているが、なにか雰囲気が変わったのを察したのか口をつぐむ。

 

「……ほう」

 

 槇寿郎さんが振り向いた。

 

 少し楽しそうな顔をしていた。

 

「ずいぶん懐かれたな、宗右衛」

 

「あの……違うんです」

 

「何がだ」

 

「何がと言われると困りますが、違うんです」

 

「ンフッ……そうか」

 

「全然分かっていませんよね?」

 

「分かっている。お前がそう呼ばせたわけではないことくらいは分かっている」

 

「ではなぜ笑っているんですか」

 

「笑っていない……ブフッ」

 

 笑っている。

 

 目元が明らかに笑っているし、こらえ切れず変な音が口から洩れている。

 

 どうにも顔が熱い。

 

 小芭内君は、俺と槇寿郎さんを交互に見た。

 

「なにか、いけませんでしたか」

 

「んんっ、いや」

 

 槇寿郎さんは、小芭内君へ向けては声を落とした。

 

「何でもないぞ、こういうのは本人が良ければ、構わんだろう」

 

 小芭内君は、俺を見る。

 

 俺は頷くしかなかった。

 

「……うん。なにもいけないことなんてないよ」

 

「はい」

 

 小芭内君はよく分からない顔をしながらも、どこかほっとしたように頷いた。

 

 槇寿郎さんは、やはり少し笑っている。

 

「頑張れよ、宗右衛お兄様」

 

「繰り返さないでください」

 

「良い呼び名ではないか」

 

「本当に思っていますか」

 

「…………思っているとも」

 

「今、間がありました」

 

「細かいことを言うな」

 

 槇寿郎さんはそう言って手を振ると、今度こそ廊下へ出ていった。

 

 俺はしばらく誰も居ない廊下を見ていた。

 

 小芭内君が、不安そうにこちらを見る。

 

「変、でしたか」

 

「変じゃないよ」

 

 たぶん。

 

「ただ、少し慣れないだけ」

 

「慣れませんか」

 

「うん。俺がね」

 

 小芭内君は、少し考えるようにしてから頷いた。

 

 

 

 

 

 翌日には、先遣隊の一人と少し話す機会があった。

 

 部屋に持ってきてもらった湯桶を返しに廊下へ出た時、ちょうど向こうから歩いてきたのだ。

 

 男は俺を見ると、あ、と声を漏らした。

 

「あんた、鱗滝宗右衛っていうんだって?」

 

「はい」

 

「炎柱様の継子じゃねえの?」

 

「え? はい、違いますよ」

 

「っだーーーー、なんだよ!! 緊張して損したぜ!!」

 

「緊張されてたんですか」

 

「するわ!! 柱ってのは怖えんだからよぉ」

 

 男は肩を回した。

 

 年は俺より上だ。二十になるかならないかくらいだろうか。

 先遣隊として来ているから、普通の人よりは鬼殺隊の仕事に慣れているはずだ。それでも、槇寿郎さんのことを話す時は少し声が落ちる。

 

「柱は、そんなに怖いものですか」

 

「いやそりゃもう怖いに決まってんだろ。俺たちみたいな隠とは天と地ほども立場に差があるからな。そりゃあ俺たちだって多少は動けるが、俺たちは後始末と連絡が主だし。あの人たちとは別物だ」

 

「そういうものですか」

 

「そういうものだよ。あんた、炎柱様に慣れすぎなんじゃねえの」

 

 慣れている、のだろうか。

 

 鱗滝さんも元柱だと言っていたし、槇寿郎さんも俺にとっては師匠にあたる人だ。

 

 勿論、二人とも怖くないわけではない。けれど、目の前の男の言う怖さとは違う気がした。

 

「そういや、お前さん、歳はいくつだ」

 

「十三です」

 

「十三?」

 

 男が目を丸くした。

 

「俺より七つも下じゃねえか」

 

「そうなんですか」

 

「そうなんですかじゃねえよ。ちなみに階級は?」

 

「階級、ですか」

 

「見せろって。ほら、手」

 

 そう言われて、俺は袖を少し上げる。

 

 階級を示すために、腕へ力を込める。

 

「階級を示せ」

 

 皮膚の下から、文字が浮き上がる。

 

 男はそれを見て、妙な顔をした。

 

「……おい」

 

「はい」

 

「十三で、庚か」

 

「高いんですか」

 

「高いよ。高いに決まってるだろ」

 

「そうなんですね」

 

「そうなんですねって……お前、いつから剣士になったんだ?」

 

「ええと、三か月ほど前からです」

 

「さ、三か月!?」

 

 男の声が少し大きくなった。

 

 俺は部屋の方を見る。

 小芭内君が部屋から少し顔を覗かせるようにしてこちらを見ている。

 

 男もそれに気づいたらしく、少し声を落とした。

 

「おま、いや、あんた、任務、何回目だ」

 

「えっと……多分、今回で十六か、そのくらいだと思います」

 

「三か月で十六……」

 

 男は俺を見た。

 

 それから、もう一度俺の腕を見る。

 

「やばいな、お前」

 

「や、やばっ……いん、ですか、俺?」

 

「やばいわ。継子じゃねえって聞いて、気を抜いたけど、全然気を抜いていい相手じゃなかった」

 

「え、いや、俺はそんな」

 

「ああ、いい。そういうのはいい」

 

 男は片手を振った。

 

「柱と一緒に来てる時点で普通じゃねえとは思ってたけどさ。十三で、三か月で、庚でって、そりゃ普通じゃねえよな」

 

 俺は返事に困る。

 

 それを察してか、男は頭をかく。

 

「ああ、別に褒めて困らせるつもりじゃねえんだ。ただ、俺たちみたいなのは、剣士になれなかったのが多いからな」

 

 剣士になれなかった。

 

 その言葉に、最終選別で出会った正岡のことを思い出す。

 懐かしさと、あの時は感じなかった苦さが胸の内に広がる。

 

 男はそこで、口を閉じた。

 

「悪い。喋りすぎたか」

 

「いえ」

 

「まあ、なんだ、その、炎柱様も助かってると思うぜ。口では言わねえだろうけど」

 

 どうしてそんなことを言うのだろうか、と胸の中で頭を捻る。

 

 少し考えて、そういえば俺は表向きは民間人に手を出した罪で謹慎と言うことになっていることを思い出す。

 

 この人は、もう何日も宿に閉じ込められている俺を励ましてくれているのだと気付いて、少し口元が緩む。

 

「ありがとうございます」

 

「なんで礼を言うんだよ」

 

「いえ、なんとなく」

 

「なんとなくって、変な奴だな」

 

 男は笑うと、廊下の向こうへ歩いていった。

 

 俺は湯桶を返して、部屋へ戻る。

 

 小芭内君は、雪見障子のそばに座っていた。鏑丸を膝に乗せている。

 

 こちらを見る。

 

「今の方は」

 

「先遣隊の人だよ。鬼殺隊の後ろで、いろんな仕事をしてくれる人」

 

「後ろ」

 

「うん。怪我をした人を運んだり、連絡を回したり、片づけをしたり」

 

「片づけ……」

 

 小芭内君は繰り返した。

 

 その声に、少しだけ何かが引っかかったように聞こえた。

 

 彼が片づけと聞いて想像した事は、おおむね間違っていないだろうと思った。

 

 俺は、言葉を重ねるべきか迷う。

 

 迷ったけれど、結局言わないことにした。

 

 しばらくして、小芭内君がぽつりと言った。

 

「僕は」

 

 俺は黙って言葉が続くのを待つ。

 

「僕は、この後、どうなるんでしょうか」

 

 小芭内君も昨日の話を聞いていたのだ。

 

 槇寿郎さんが言っていた、小芭内君をこの島には置いておけないこと。

 そして、お館様のところへ連れていく、ということ。

 

 小芭内君は、昨日からずっとそれを口に出来ないままで、持っていたのかもしれない。

 

「小芭内君は、どうしたい?」

 

 聞いてから、この質問はまだ早かったかもしれないと思った。

 

 どうしたい、と聞かれても、困るのだろう。

 なんと答えて良いか分からないのか、固まってしまっていた。

 

 俺は、言い方を変える。

 

「この島にいたい?」

 

 小芭内君は、すぐには動かなかった。

 

 しばらくの沈黙。

 

 何かを感じ取ったのか、鏑丸が膝の上で頭を上げる。

 

 小芭内君は鏑丸と何かを話しているかのように目を合わせたあと、こちらを見てゆっくり首を振った。

 

 小さく。

 けれど、はっきりと。

 

「そっか」

 

 俺は頷いた。

 

「それなら、この島の外に連れていくよ」

 

「島の外」

 

「うん」

 

 小芭内君は、雪見障子の方を見た。

 

 庭の木。

 空。

 遠くで光る海。

 

 小芭内君にとっては、この島だけでも広すぎるのかもしれない。

 

 座敷牢の外は、蛇鬼の座敷にしか出たことがないと言っていた。

 

 雪見障子の向こうに見える海の、その遥か向こうにある島の外というのは、彼の想像できる世界を飛び越えているのだろうと思った。

 

「海の向こうにね、本州っていう場所がある」

 

「本州」

 

「そこにお館様っていう、鬼の被害に遭った人たちを助けてくれる人がいる。まずはそこへ行くことになると思う」

 

「それは……宗右衛お兄様も、来てくれますか」

 

 俺はすぐに頷けなかった。

 

 俺は鬼殺隊士で、これからも任務がある。

 ずっと一緒にいることは出来ない。

 

 でも。

 

「お館様のところまでは、一緒に行くよ」

 

 小芭内君が俺を見る。

 

「その後は」

 

「その後のことは、お館様や槇寿郎さんとも相談して、小芭内君にとってなるべくよい形になるように―――」

 

 言ってから、それは少し、いや、きっとすごく無責任な言葉だと思った。

 

 でも、今の俺に言えるのはそれが限界だった。

 

 小芭内君はしばらく黙っていた。

 

 俺が言ったことを、なんとか飲み込もうとしているように見えた。

 

「僕は」

 

 小芭内君が言う。

 

「そこへ、行くんですね」

 

「うん」

 

「島の外へ」

 

「うん、そうなる」

 

 鏑丸が白い頭を少し上げる。

 

 小芭内君は小さく震えている指先で、鏑丸を撫でる。

 

「……はい」

 

 小芭内君は小さく頷いた。

 

 

 

 

 

 翌朝、帆船が来た。

 

 槇寿郎さんとこの島へ渡った時の小さな船とは違う。

 

 荷を積み、人を乗せ、何日も動けるように支度された船だった。

 

 見慣れた黒子の格好をした人たちで宿の前が少しだけ慌ただしくなる。

  

 荷を運ぶ者や、書付を確認する者、槇寿郎さんと短く話して指示を出す者。

 

 槇寿郎さんは人の動きが落ち着いた頃に、俺達の部屋へ来た。

 

「支度はできているか」

 

「はい」

 

 俺の荷は少ないし、小芭内君の持ち物も、伊黒家から持ち出した着替えだけだ。

 

 風呂敷を抱えた小芭内君は、敷居の前で立ち止まる。

 

 彼がこの部屋から出るのは初めてではない。

 

 ただ、今から踏み出す一歩が、どんな意味を持つのかを静かに考えているように見えた。

 

「行こうか」

 

 俺が言うと、小芭内君は頷いた。

 

 小芭内君の手を取って、廊下へ歩き出す。

 

 宿の人が頭を下げる。

 

 槇寿郎さんと俺は、礼を言って通り過ぎる。

 

 小芭内君は、どうすればよいのか分からない様子で、少しだけ手を握る力が強くなる。

 

 外へ出ると、海風が強く吹き付ける。

 

 潮の匂いがする。

 

 小芭内君は眩しそうに目を細めた。

 右の黄色い目が、光を受けて少し揺れる。

 

 港へ向かう道で、何人かの島の者がこちらを見た。

 

 誰も大きな声は出さなかった。

 けれど、視線はある。

 

 槇寿郎さんが少し前を歩いている。俺は小芭内君の手を繋ぎながら歩いた。

 

 ふと、あの日俺を裏長屋から連れ出してくれた鱗滝さんも、こんな気持ちだったのだろうかと、そんな事を思った。

 

 港には、大きな帆船が用意されていた。

 

 船べりに波が当たり、白く砕ける。

 小芭内君は足を止めた。

 

「大丈夫?」

 

 聞くと、小芭内君は船を見たまま頷いた。

 

 きっと大丈夫ではないのだろう。

 

 それでも、頷いた。

 

 頷いてくれた。

 

 船に乗ると、足元が揺れる。

 

 俺は小芭内君と手を繋いだまま、船の隅に座る。

 

 槇寿郎さんは船頭と短く話をしている。

 

 隠たちは荷を降ろしたり、積み込んだりしているのを、小芭内君と一緒に眺めていると、やがて帆が下ろされて、船が岸を離れた。

 

 ぎしり、と船が鳴る。

 水音が変わる。

 

 八丈の島影が、少しずつ遠ざかっていく。

 

 小芭内君は島を見ていた。

 

 小さくなっていく島の姿を見ながら、何を思っているのだろうか。

 

 一瞬、聞いてみようかと思ったが、それは止めた。

 

 小芭内君がただ見ている、それだけで良いと思った。

 

 しばらくして、小芭内君がぽつりと言った。

 

「本当に、終わったんだ」

 

 その声は、風と波の音に流されて、きっと誰にも届かなかった。

 

 そういうことにした。

 

 小芭内君のこれからは、俺が決められることではないのだから。

 

 小芭内君は、少しだけこちらを見た。

 

「どうしたの?」

 

「い、いえ、なんでもないです」

 

 すぐに目を逸らして、俯いてしまう。

 

 代わりに鏑丸が、白い首を持ち上げて俺を見る。

 

 鏑丸の赤い瞳を覗き込みながら、この子のために、俺には何が出来るだろうかと考える。

 

 鬼のために自由を奪われて、夜が来る度に魘されて、今も先の見えない場所へ連れて行かれようとしている。

 

 俺は、未来への不安に震えるこの小さな手に何を渡せるのだろう。

 

 考えるたびに、どかりと自分の上に重い荷物が乗ってきたような感覚がする。

 

 鱗滝さんや、煉獄さんに、どうしたら良いんですかと助けを求めたい。

 どうしたらいいのか判断を投げ出してしまいたくなる。

 

 けれど、心の中で「でも」と思う。

 

 真っ直ぐに槇寿郎さんの背中を追う、杏寿郎君の眩しさを思い出す。

 

 俺はもう、鱗滝さんに、父さんに託されたのだから。

 

「……任せて、とはまだ言えないけど」

 

 小芭内君がおずおずと、俺を見る。

 

 今度はしっかりと目が合う。

 

「一緒に行こう」

 

 小芭内君は、少しだけ目を丸くして、しばらくして頷いた。

 

 八丈の島影が遠くなる。

 

 海も、空も広い。

 

 小芭内君は、俺と手を繋いだまま、その広さの中に漂う船の上に座り続けていた。

 




もともとは小芭内君はこんなに可愛くなる予定はなかったはずなのに、いつの間にか脳内で急にお兄様呼びし始めてびっくりした。

めちゃくちゃ可愛くて、それもびっくりした。

他の人には「信じない信じない」ムーブしてるのに、宗右衛を見つけると「お兄様!」って言いながら駆け寄ってくるの。

おかしい、小芭内がこんなに可愛いわけないんだ……奴は孤高の陰キャのはずなのに……!!

お前が弟になるのかよッ……!
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かつて産屋敷家当主の首を差し出し、鬼に堕ちた剣士がいた。▼しかし彼にはただひとりの弟子がおり、その子孫は呼吸と技の継承のみで生かされてきた。▼その雌伏は終わり、停まっていた時間が動き始める。


総合評価:479/評価:7.42/連載:12話/更新日時:2026年03月29日(日) 21:00 小説情報


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