内海アオバは、今日も頭を下げた。

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乗り給う

 ある少女が二人の師に会うこの場所は鴻園(ホンユェン)と言う。

 

 外から隔てられ、陽光すら官使の頭上に降り注がぬ暗晦(あんかい)の地。あらゆる志が籠もり、炯々(けいけい)としてその目を光らせる都市の一角である。多くの童が町を走り、ここを故山と慕う。

 

 然れど、少女はここを奇景と断じる。遥か遠く、何万里、何億里の先にあるであろう己の故山。その思い出が蓬茅(ほうぼう)へ帰しても、(たん)じる心は動かじと。

 

「ハンバーガー……どこにも無いですね…………」

 

 紅灯(こうとう)の大通りを厭い、空谷から空谷へ隠れ潜む様は鼠と言って等しく、まさに孤弱だと少女を見たものは言う。帰る場所の無い帰途を続ければ悲涙する気も次第に失せ、幾度か空を仰いでみても暁角(ぎょうかく)の兆しはない。

 

「……ご飯、ご飯が無い」

 

 身を空腹が貪っていく中、唇を狭め手に息を吹き付ける。微かに露のついた手に届く暖かさは心を拭うには足らず、点滅する視界は樹間を何度も通り過ぎる様に黒い柱を写す。それでも、大きな水溜まりから見える天環(ヘイロー)(かつ)ての輝きからは薄く、漂白されている。まるで、光をこの水溜まりに奪われたように。

 

「この、水溜まりって……私の汗なのかな」

 

 乾いた声色はそよ風すら起こせず、どんな小さな葉すら飛ばせないほど弱く、儚い。もはや、勝手に言葉を紡ぐ唇を咜れるほど脳は力も権威もなく、ただ絶望の渦中に居るという事実が身勝手な体躯の動きを許してしまう。何をしているかと少女が問われれば、何もしていないと答えるのは自明。

 

 歩くだけの藁人形と農夫ならば喜んで迎えるに違いない。烏も獣も骨を食べる趣味はないのだから。少女が歩けば驚いて逃げていくであろうから。

 

「えへっ…………あぁ……世界ってこんなに……クソだったんですね」

 

 そう言いきれるほど少女の世界は透き通った色をしていなかった。思い起こす記憶の端々に浮かぶのはかつて不幸ながらも幸福だった自分の姿。世界の理不尽が一線を超えること無く、まだ抱えられた頃の話。最も、全ては今居る場所に迷い込んだ瞬間に荼毘に付すことなった。

 

 守られるべき子供から路上放浪者(ストリートチルドレン)へ。定まった家を持つこともできず、誰かが拾ってくれる慈悲にすがることもない。

 

 銃保持者から無手へ。暴力が支配するこの都市で、少女が持つ銃はあまりにも無力で弱かった。暴力はそれに勝る暴力によって支配されるが為に。

 

「なんで……なんで……なんで」

 

 一言、二言、三言。山々の間を通りすぎる風のようにふらり、ふらりと空っぽな巾着のような体を引きずる。靴底が地面に擦れ続け、足の感覚が消えてきた頃に人工照明(タイヤン)が元来そこに居たように唐突につく。蜜柑の皮を空に並べたような色合いに涎がたれ、少女は歩みを止めて手を伸ばす。届くことはないのに、それでも一部を掴めればと握りしめたり、開いたりを繰り返す。

 

「とどかない……なんで……?」

 

 業未だ成らずに、絶えようとする理解の灯火は(もと)より伝録され得ないものであるから、誰も知らないと都市の民は断じるであろう。そのようなありふれたものはわざわざ書くに値しないと。

 

 人は古来より、水の色をいちいち詩に詠うことはない故。

 

「ほう……捨て子か。だが、狂っているようだな」

 

 緋毛氈(ひもうせん)を背広として仕立てたような赤々とした(ころも)、深く被った帽子から覗く黒眼鏡越しの瞳は少女を射貫いていた。天を仰ぐような姿勢に、ぼろぼろに汚れた身なり。まさしく、天へ昇る前の鯉か、登竜門から駆け落ちた愚者のどちらかに見えるのだろう。

 

「名は何と言う」

 

 少女は幽鬼のように両の手を下ろして静かに答える。

 

「内海……アオバ」

 

「アオバか。お前に上下はないのか」

 

 苛つきを隠さず、鈍と重い声が鳴る。何の礼を欠いたかと言えば、それは目を合わせてないこと。偽りの天蓋へ目を馳せて、口だけで名を告げるこの行いは不敬だと大男は感じる。

 

「…………上下はもう……気にしなくなりましたよ」

 

「何故だ」

 

 大男はアオバとやらに問う。口に含まれている大煙管(ぱいぷ)から煙が糸のように細くうねりながら、息する度に吐き出されていく。その糸が五つ目に達した頃、ようやく目があった。

 

「それは……」

 

 (たる)んだ瞳。まるで夕日に照らされた楓の霜葉、美しく生えんとするその色はこのまま行けば2月を迎えること無く散る。()れには惜しかった。大男はそう思う、だからこそ答えを聞かなければならない。

 

「だって、立場の上も下も、本の上も下も、天地の上も下も……いずれにしても頭を垂れるじゃないですか……お辞儀をするにしても、本を読むにしても、地面を見るにしても」

 

「頭を垂れてしまうなら、上下なんてどれでも良いんじゃないかなと……思っちゃうんですけど……」

 

 蝸牛(かたつむり)を眺めて、笑っているであろう年の少女が語るには重い言葉に大男は口から大煙管を離す。

 

「そうか……頭を垂れる行為自体が無意味化していると云うのだな」

 

「……ただの厭世家(しにたがり)の戯れ言にしては芯が通っている……だがな」

 

「上下関係は水のようなものだ。それが東へ流れようが、西へ流れようが変わらず水であるが、その流れを変える者が必ず上となる。水が上から下へ流れ、上に居るものが礼儀を下へ伝えるようにな」

 

「故に、アオバ。これから言うことを聞いておけ」

 

 師の如く、諭す。訓戒としてではなく、三千世界の哲理として礼が如何に崇高たるかを。人の生が水なれば、それを変える者が上であり、敬うべきであると。

 

「我はムルソー。親指のカポにして、東部十剣が一人。俺のこの言葉が貴様の流れを変える最初の教えだ」

 

 故に名乗る。力強く威厳ある声で己の名、己の地位、己の力を。

 

 

「目線を合わせるな、許可無く話すな。お前より高く在る礼儀に(こうべ)を垂れろ」

 

 

 

 

 月刊親指、そう名を冠する機関誌のページが捲れる。細い指がページとページの間を辿っていき、やがて親指を一つの大きな見開きに置く。最優秀射撃技能者と規則正しい字体で印刷された箇所の下に四角い写真として一人の青年が写っている。他の(テルツォ)IIII(クァルト)を差し置いて、(プリモ)から上がったばかりの(セコンド)が成し遂げるのは異例というしかない。

 

 少女ことアオバはこれにへぇと関心を喚起させられる。咥えていた低品質葉巻(シガー)が微かに揺れ、その灰が服にかかる。今着ている赤い服へシミのように付いたカスをそっと払い、深く息を吐く。煙が渦巻いていき、やがて消えていく。

 

「この味……慣れない……苦すぎるんですけど……」

 

 口の中に広がる苦みに思わず、舌が口蓋を叩く。まだ肺に入れるには叶わないシガー片手に、この青年に思いを馳せる。名はシンクレアと言い、このシガーのように未だ慣れない環境の、また低層のものであるのだろう。この青年はセコンドであるのだから、自分よりは下だと唾棄することもまたこの慣れない環境にとっては礼儀に適ったものであることはわかる。だが、少女は流されるままにこの青年を唾棄することはしない。

 

 

 

「こ、このっ……シガーだって、吸えるようになるには時間がかかりましたし!」

 

 相手が居ないのに声を張り、灰皿ですり潰すように押し付けられるシガーはそこに積み重なる吸い殻と同じく、少女の手を離れる。正しさ(礼儀)は一日にて築かれないのは拾われたあの時に理解したから。

 

「あ、会っちゃいますか」

 

 近くにあるダイヤル式の電話を手に取り、人指し指で数字を何度かずらして受話器を耳に当てる。

 

 コールが三度目を迎える直前に応じた相手の一語一句変わらない定型文に薄々と相手の階級が自分より下であると察し、笑みを浮かべて再び背を背もたれに託す。

 

「すみません。ソルダート・IIII(クァルト)のアオバです。えっと、ソルダート・(セコンド)のシンクレアはいますか?」

 

 そう言う少女の唇は酷くシガーの香りを漂わせていた。

 

 

 

 ここはこの 鴻園(ホンユェン)を統べる四つの名家の根城。(ジア)(シュエ)(ワン)(シー)

 

 その富によって住める空間の広さが定まる再積日(ツァイジージエ)にて「増えはすれど減ることなし」と詩人は詠う。誰もその詩を疑わず、絶えずに聞こえる栄華の数々は霞まない。緑彩る大庭園に、池に住まう鮫、立ち並ぶ邸宅に、先の見えない道。

 

「大観園」

 

 そう、誰かが口ごもる。眼前に広がる天宮の如き栄華に感嘆の声がその名として現れる。尤も、ある二人にとっては全くの別物として見えているが。

 

「謹んで申し上げます……本当にこのような場所へ連れてきて、頂いてよろしかったのでしょうか」

 

 一切目線を合わせることなく、敬語を重ねていくのは一人の青年。その青年は丸く整った輪郭のある顔へしだれ技のように垂れる金髪、そしてシワが一切ない赤いハットを被っている。アオバからすれば、先日呼び出したシンクレアに他ならない。こう、恐縮しているのは理由(わけ)があり、その理由もまた親指らしいものであることは聞かずともわかる。

 

「今更、行きたくないとか言われても困るんですけど……」

 

「い、いいえ! ソルダート・IIII(クァルト)様、滅相もございません。ただ、自分では不相応ではないかと思ってしまっただけです。それが気に触ってしまったのなら、すぐにこの愚かな頭を撃ち抜きます!」

 

「そんなことはしないで欲しいんですけど……」

 

 本日、何度目かはわからないこのやり取りには思わずげっそりとしてしまう。親指の性ではあるが、つまらない劇のように繰り返されてはまた同じことを言うのも億劫になってくる。今日だけで何人のシンクレアが死んだか、という話になってきてしまうからこそ頑なにして欲しくないと言ってはいるものの親指的に正しいのはシンクレアであるのが礼儀の掟。

 

「それに……ちょっと、そのそろそろ同じこと言うの疲れたので……」

 

「すみません! すぐにお詫び致します! 顎でしょうか、それとも舌でしょうか!」

 

 はぁ、とため息を溢す。騒がしい相方から目を反らし、辺りを見渡す。やや薄く開かれたその眼球が映し出したのは遠方に居る上司たるカポが知らない女と話している光景と集まり出している身なりの良い若者達。別々の香水の香りがあちらこちらから鼻腔をくすぐり、もはや良い香りでなく苦痛になりだしていると言っても過言ではない。

 

「行きますよ、しにたがりさん」

 

 しにたがりさんと呼ばれた青年はその愛称に異論を唱えること無く。先程から続けていた反省を取りやめる。すぐに自死を選ぼうとすることへの皮肉であったのだが、今や愛称となるほど連呼することになっているのはこの青年のせいに他ならない。

 

 目的となる座席にたどり着くと他の観客同様、血塗れとなった一階のその中央を注視する。喧しく聞こえてくる実況は家主審査の再開を告げる。鴻園(ホンユェン)の代表を決める大会でアオバは特段何かをするわけはない。少なくとも、今は。

 

「しにたがりさん、礼儀のある射撃について教えてくれるんですよね」

 

「は、はい。ご希望に添えるかはわかりませんが、自分の知っている限りを伝えたいと思っております。無論、上級様のこの期待を無碍にせず、全力で取り掛からせていただきます」

 

 今ここで構えるのかと一瞬銃の持ち手に力が籠もる。だがアオバは籠めた瞬間に緩めることなる。左から右へと動いた瞳がこの場を改めて認識させたからだ。ここで仮に誰かに礼儀ある射撃とやらを行えば、H社(ホンユェン)への無礼となる。ソルダート風情では礼を欠くことは許されない。だからこそ、アオバは問う。

 

「家主審査ではそもそも射撃出来なく……ないですか?」

 

 練習したら一巻の終わりですよねとジトっとした目で睨むが、彼は真っ直ぐある場所を見据えて言った。

 

「では、あちらの方を見てください」

 

 指さした先に居たのは腕をもがれた一人の男。跪き、未だ垂れていく血を必死にもう片方の手で食い止めようとしている。アオバからすれば、一目で見たらわかる。近くに倒れている従者らしき者もまたその光景の意味を正確に理解させる。

 

「どれ程の格があるでしょうか?」

 

「……格の低いアホです。命拾いしたのはバカ上司の機嫌が良かったからってだけで」

 

「ア、ア、ア、アオバ様!? カポ様へのその無礼はき、聞かなかったことにしますからね!」

 

「聞かなかったことにされると答え合わせがなくて困るんですけど……」

 

 アヒル口を作るように尖らせた唇で文句を垂れていく様はその服装さえ見なければ不貞腐れる子供でしかない。しかし、青年はそこで気を緩めて不敬を働いたりはしない。

 

「……失礼しました。ただでさえ、隣の席に座らせて頂いているのに…………粗相をしてしまいました。心よりお詫びします」

 

「脱線してます」

 

 鬱陶しそうに溢れたその声はまさしく礼を求める親指のものだったからだ。仮にその本人が許可していても、礼は礼であり、それを尽くすのは親指の常。だからこそ、この講義は上級であるアオバが納得するまで続けられる。

 

「……こほん、正解です。あの人はナンゴン家の子息(シェンホー)様です。到底、親指のカポには格が及びません。しかし、実はソルダート・IIII(クァルト)に該当します」

 

「へ?」

 

「ですので、アオバ様とは直接お話出来る格な訳です。しかし、ソルダート・(セコンド)の私が不敬を働けば、即座に舌を抜かれるでしょう」

 

 加えて、とシンクレアは言葉を継ぎ足す。ナンゴン家自体が中小ではありつつも名家であり、その家全体の格で見ればカポ・(プリモ)程度であろうと。

 

「……どうして、見ただけでわかるのか理解できないんですけど……頭親指過ぎてドン引きなんですけど……」

 

「ちなみに頭は親指という組織より上なので、頭の規則は我々より遥かに格が上です。見上げるどころか、眺めることすら出来ない……と言えますね」

 

 答えになっていない答えを自信満々に返してくれるようになったのは信頼された証なのだろうとアオバは飲み込むことにした。

 

「先程やったように見るだけで相手の格がわかること。これが礼儀ある射撃の本質、親指の血肉である銃弾を打ち込むに足る相手であるかを見極め、礼儀正しく応対する事です」

 

「誰であれ、格がありますから。親指の礼儀からは逃げられないのです」

 

 その黄色の瞳がちらりとアオバを見てから深く頭を下げる。

 

「だからこそ、アオバ様がソルダート・IIII(クァルト)に収まる器でないのはこの目が語っております。そんな方にお力添え出来ることは大変光栄であります」

 

「へっ? ほんとに、ほんとに?」

 

「はい、確信しております」

 

 では、次はあの方を。そう言って示したのは一階で惨状を作り出した家主候補。親指の赤いスーツより色の抜けた橙色の正装を複数の縄で締め上げ、札を垂らす。頭に乗っかっている東部特有の小さな冠が無ければ、裏路地に居そうだと思えるほどにこの場に相応しい顔をしていない。目に狂気が混じり、壊れた笑顔を晒している。さながら、話で聞く23区の料理人のような人物。

 

「……(シュエ)家の男児、シュエ・パンですね」

 

「はい。そして、彼女も見てください」

 

 そんな彼を一切の表情を浮かべずに眺めている少女。希少な宝玉を首から下げ、胸元を開けた桃色の服装をしている。誰かを誘惑するためのような扇情的な有り様に意中の相手が居るのではないかとアオバは勘ぐる。それも、この家主審査に列席して今彼女に会うことの出来るやんごとなき方なのだろう。

「シュエ家の令嬢ですかね……」

 

 右手の手のひらに左手の肘を乗せ、顎をその手で擦って目を細めるアオバ。周囲に居るのが赤い布地が目立つ(シー)家の手勢でも、焦げ茶色の袈裟をしている(ワン)家の手勢でもないことは見れば、分かる。残っているのは(ジア)家と(シュエ)家。アオバはその中からシュエ家を選んだ。

 

「お見事です。あの御方はシュエ家のご令嬢であり、ジア・ユアンチュン様が贔屓にしていらっしゃる高位の方です。アオバ様、ちなみに何故(シュエ)家だと分かったのでしょうか?」

 

「……先ほどから鼻を擦っている手勢の人が数人見えるんですね。あれは強い匂いを嗅いだときに自然になる反応なので……純粋に体臭が臭くない限りは、(ワン)のせいだと考えるのが自然です。それも高位の方であるなら、体臭なのはありえないですし……」

 

「ジア家で丸を匂いが出るほど飲んでいる方が居れば、さすがに知っていると思うので……シュエ家だと思ったんですけど」

 

 言葉尻になるにつれて自分の論理が正しいのかが心配になっていくが、それでも言い切った。この東部に流れ着いてから知った様々な名前がつらつらと浮かんできては消えていく。麗しの家主候補ジア・シーチュン、賢明な候補者ワン・ダーウェイ、絶対なる統率者ジア・ムーなどの著名な名ははっきりとしているのにと己の記憶力を嘆く。覚える必要のあまり無いワン・ダーウェイは何故かわかるのに。

 

「また、正解です。彼女の名は────」

 

「待って」

 

 あの宝石、何処かで見た覚えがある。アオバはそう思い出す。翡翠(ひすい)だ、大湖の表面を持ってきたような青色を取り囲む緑色の陸地。ジア家の宝玉(バオユ)、彼の持つ瞳をどうやって忘れることが出来よう。柔らかな笑顔に隠された諦観の視線、かつてのアオバのような生きながら死んでいる者の顔を。

 

「彼女の名はシュエ • バオチャイ」

 

 シンクレアを遮って、唇が紡ぐ。東部に出回っている胡乱話(ゴシップ)を纏めた雑誌にて知ったシュエ・バオチャイの情報はバオユの間で婚約がされていることだった。

 

「流石です……では、聡明なアオバ様にもう一つ問わせて下さい」

 

「シュエ・パン様とシュエ・バオチャイ様。より優れた鼎を携え、より近くから(おおとり)を逐う者はどちらでしょうか」

 

「手を(こまぬ)く方であるシュエ • バオチャイですね」

 

 即答と言う程の早さで告げたアオバの言にシンクレアはたじろぐ。一見すれば理屈を重ねず、ただ礼儀正しい方を選んでいるだけだ。故に、アオバの瞳を覗く。そこには愚直な直感も考えすぎた推測も無い。豎子(じゅし)が一を見て十を知る智者の如く、確固たる眼差しをしているからこそ問う。

 

「如何に、でしょうか」

 

「まず、理事会と仲が良いか。そして、為政者たる品格があり、礼に通ずるか。が大事だと思うんですけど」

 

 期待しないで欲しいんですけどと言う甲高い声がやけに耳に残った。そこからの解説も無論。ジア・ユアンチュンという理事会へ強い影響力を持つ人物と懇意にあるという前提、暴れまわるシュエ・パンと違い椅子に座り見続けられるという落ち着き、そして何よりこの大事な場で礼儀を欠いていないという知慮。これらを総評しなければ、シュエ・パンが長男だからそちらの方が偉いと回答してしまうだろう。同じく、頭を垂れる人であってもその中には格の差があり、アオバは今回それを見抜いてみせた。

「……アオバ様、僭越ながら申し上げますともう教えるべきことは御座いません」

 

「へっ?」

 

 感無量とばかりに彼は目を閉じた。そして首を顎で隠すように深く、長く、頭を下げた。それは相手が目上であるから、だけでなく真に敬意を表するべきだと思ったからだ。彼とて親指に所属してから長い。アオバがやってみせた芸当は一見すれば簡単だが、一日や二日で為せるものではないことは明瞭だ。自分とてこれほどの事ができるようになるまで、長い時間を要したのにと僅かながら嫉妬さえ覚えてしまう。この困惑するように顔をしわくちゃにしている年下の上司がたった今日で飛び越えて言ったのだから。

 

「礼儀ある射とは相手を見極めてこちらも礼儀を持って、応対すること。決して撃つべきか、撃たないべきかを迷うためのものではありません。親指に居る以上、自身より格の高い相手を撃つこともあるでしょう。しかし、その時に迷わないこと。しっかり見ること」

 

「射においてのこの基本を、恐れ多くも申し上げますと親指の礼儀を理由に見失う方々がおられます。動かない的を撃つのではなく、動く生きた的を射る。そのために相手がどのような方であるかを見るだけでわかるようになっていただく、それが今回の指導でございます」

 

「しかし、ひっかけで出した問題をこうも容易くも……破られると引き続き講釈を垂れるつもりであった私も面目が立ちません」

 

「免許皆伝です。アオバ様」

 

 それを聞いたアオバは。

 

「ちょ、ちょっと待って欲しいんですけど」

 

 困惑した。

 

「まだ二問しか答えてないですよね?」

 

 それもそのはず、時間はある程度経ったとは言え二問の質問に答えたに過ぎないこと。バオチャイに関してはもともと知っていただけであるということ。そして、自分には成長した実感がないこと。

 

「はい、本来は五十問ほどをお出しするつもりでありましたので早く終わったことは否めません」

 

「一度も撃たずにその礼儀ある射撃が身についたとは思えないですんですけど!」

 

 シンクレアは次に相手の格を見る時になれば、実感できますとアオバに返事するばかりで、さらなる問題を出すことはなかった。しかし、熟練の親指ソルダートである彼はアオバの機嫌を損ねないようにうまく会話を誘導して有耶無耶にすることに成功。丁度、一次審査の終わりが宣言されたその時であった。

 

 

「ほほっ。進退周還必ず礼に中たり、内志正しく、外体直くして──か。古風な教え方をされる若人がいるものだのう」

 

 後は会場から去り、上司たるカポの下へ帰るだけ。シガーを一緒に吸えと言ってきてガミガミと礼について語られる未来は千里眼がなくとも、アオバにはくっきりと見えていた。憂鬱ながら席を立つと、柱の影に紛れるようにふらりと現れたのは。

 

「よく観じ、よく念じる時、礼は一つの型を為す。殻を破らぬ若人はそのように仰せか。成程、成程。鳳雛とは云わぬが良い講釈でありましたなぁ」

 

 (しゃが)れた声でそう告げてくる、ぼろきれのような衣服を身にまとった一人の浪人。些細な誤りを正すように言うその口は酒の匂いより一切の説得力を有さない。されど、恥じること無く未だに説教は続く。

 

「音に依り、型に拘り、思念に沿う。なるほど確かに、雨粒の一つ一つすら見通すのなら雨垂れに弾かれる笠が浮かび上がるも道理。なればこそ黒山の人だかりを貫き、冠を穿つ一射もまた道理……」

 

「じゃがな、若人たち。お前さんらの眼では唯一つ、見通せぬものがある」

 

 その言葉は慄然と並べられること無く、理を語る方士の如く堂々としていた。尤も、説教する相手が悪かったことを除けば。気安く話しかけたのが、親指であったのだから。

 

「……誰にものを言っているのかわかっていますか」

 

 瞬足の速さで推進弾を込め、銃をいつでも突き出して相手を刺せるように。足に力を込め、アオバの前へと立った。

 

「その見た目、流離(さすら)いの浪人とお見受けします。大した格も無く、大した礼もない。故に問います。誰に話しかけているのか、わかっておられますか」

 

「ここに居る御方が誰か心得ていますか」

 

「その軽率な言説の愚かさをわかっていますか」

 

「ククッ、黄色い嘴が二人分。それに変わりはあるまいよ」

 

 ヒクッと喉を鳴らし、その瓢箪(ひょうたん)から酒を呷る。頬が膨らんでは縮むのを見れば、ただの一口ではないことはわかりきったことだ。怒りのあまりにシンクレアが飛び出るその刹那にて、瓢箪はゆっくりと下げられていく。この時、アオバは見た。剣を抜くこともなく、弓を射ることもない。日常的な動作で、酒を呷る簡単な動きで、命が飛んでいく様が。

 

「止せ」

 

 低い声が轟く。その声が聞こえた場所にはアオバ、ただ一人。憤慨した表情を浮かべるでもなく、平坦に、冷めた目つきで、歩き出していた。

 

「目線を合わせるな」

 

 驚きのあまりに目線を合わせたことに告げる。シンクレアの横を通り過ぎ、再び口を開く。

 

「許可無く話すな」

 

 自分を介さずに話が進んでいたことに告げる。この浪人の手前まで歩き、銃から銃剣を抜いてその銃口を向けた。

 

「お前より高く在る礼儀に(こうべ)を垂れろ」

 

 相手を見て少しだけの迷いが生じた己に告げる。アオバはあの時に言われた言葉を思い出した。この都市に来て初めて学んだ大事な教え。親指としての生き方を定めたその大きな柱の影には無数の礼があり、柱の形に沿ってその為り方が決まるのならば。

 

 迷わぬ礼に身を置きたいとアオバは思う。相手は見ればわかる。その身のこなし、その呼吸、その動作。何一つをとっても無駄がない。この浪人が実力者で、自分より格が高いことはわかりきっているが。今日親切にしてくれた少年を見殺しにするのは、自分の礼に反する。

 

「……」

 

「ほう……これは。型から抜けるのでなく、その型を審固するか!」

 

「射る理由が己に無く、また別の理にあるならば……その理に己の心を含めてしまえと!」

 

「呵呵っ! なんたる邪道。なんたる別解。もしや、その弓で射ろうとしているのはこの都市のあり方かのぉ。優しさを射る少女よ、今日は善き日であった」

 

 互いに争えば無傷で済まない。どちらが倒れるにしても、この場に二つの武器があることは明白だ。流水の如き滑らかな歴戦の剣術か、柱のように揺らがない新鋭の射術か。かつて矛と盾を手に絶対を語った者が居たように、この二人が絶対を争うならばただの矛盾では済まされない。

 

「……話が長いんですけど」

 

「クハッ、そうか、そうか。酔っぱらいの世迷い言にしては長かろう。相抜けじゃの」

 

 そう言いながら再び影に溶け込むように、このはた迷惑な酔っ払いは消えていく。あれっと言って、アオバが崩れるのも時間の問題であった。極度の緊張が消え去り、体は言うことを聞かない。

 

 そんな最後に目に付いたのは守り抜いた青年の輝く瞳だった。

 

 

 

 揺れる車内。高級な革で作られた座席にて二人が喋っている。移り変わる外の景色は延々と続く庭園を横切るように似たものばかりで窓から外を眺めるのは退屈だ。

 

「で、アオバ。大観園はどうだった」

 

 上座、運転席に近い位置に座りそう聞くのはムルソー。縦に並んだ席を仕切るようにある机に肘を付きながら、シガーを灰皿に置く。広がっていく濃い匂いが車内を臭くすることも気にせず、煙はやや開いた窓の隙間へと逃げる。

 

「ああ、そうか。話すことを許可する」

 

 対して下座。斜めに向かい合うように居たのはアオバだ。灰皿へと半ば固定されていた視線を動かして目を合わせる。わかりやすい罠を(かわ)し、同じようにシガー臭い口を開く。

 

「大変素晴らしいところでございました。今回の家主審査の見学を許可くださった高位の方々には感謝しかありません。立ち並ぶ歴史的な建造物の数々に見とれ──―」

 

「本音は?」

 

 愉快そうに遮る彼にムカついたのかアオバは深く息を吸い込んだ。格式張っていた姿勢をやや崩して、拳骨が飛んでこない程度に気を緩める。

 

「つ、つまらかったです」

 

「ほう、何故だ」

 

「裏路地と違って暮らしが良いように見えますけど……」

 

「皆何かに怯えてて、夢に見るであろう巣の上流階級も裏路地のネズミと本質が同じだったんです」

 

 ふっ。籠もった息遣いが聞こえた瞬間、一つの拳が脳天に直撃する。めり込むように左右へと動かしながら、白髪を乱していく。

 

「っっ〜〜〜〜!!」

 

「阿呆。目上への敬意は忘れるな」

 

 のたうち回りたい気持ちを抑えて、その赤い瞳越しに睨みつけるが効果は薄く。痛む頭を擦りながら、脳内で悪口を何度か連呼することしかできない。その思考も、次の言葉で一切忘れ去ってしまったが。目を見開き、ポカンと開けた口も閉じることを忘れてしまうほどの。

 

「アンダーボスより辞令が出た」

 

「内海アオバの功績と活躍を認め、カポ・(プリモ)へ昇進させる。昇進の期日は今回の依頼が終わり次第だ」

 

「へっ、え、えっ。本当に、ですか?」

 

「アンダーボスの辞令を疑うな、阿呆が。舌を抜いてないだけありがたいと思え」

 

「あっ、はい……」

 

 鉄檻寺(ティエロンスー)へ向かう道中に言われるとは思いもしなかった。賈藍隊(ジアランドゥイ)、ジア家を守る衛兵たちを排除し、次の家主候補がシー家でないのなら殺す。その単純な依頼を果たすためにこの御輿に乗っているのだから。

 

「はぁ……あまり得意ではないのだが」

 

「何かやりたいことはあるか。師として出世祝いをしてやろう」

 

 師は嘘は吐かない。だからこそ、アオバはこの一瞬を使って好意に甘んじることを迷わずに選んだ。旅行だ、旅行がしたい。この東部以外の都市を見て回りたい。ワープ列車とやらも職業病で気になるし、西部にある劇場も、南部の大湖も見たい。

 

「その、りょ、旅行に行きたいです」

 

「ふむ、旅行か。悪くない。どこへ行くかは検討ついて……居ないようだな」

 

 ピクリと動いたアオバの表情を見るにこの東部しか知らないのだろう。目上であるカポの自分が旅行先を考えるのは良くないのだろうが、知らないことを求めても酷だ。出世祝いなのだから。

 

「では、海水浴でいいだろう。T社には黒雲会が居る。カポの栄達と聞けばビーチの一つや二つを快く貸すことになる」

 

 そう決まったら御輿は勢いよく止まる。どうやら、外で諍いがあるようだ。十中八九、賈藍隊の検問か、何かだろう。

 

 ムルソーはそこで弾を込める。虎標弾を装填し、帽子の柄を手前へと寄せた。そのまま振り返ること無くドアを開けて、下車する間際に聞こえた。

 

「海水浴は久々になる。折角だ、ついでに約束しておいてやろう。この依頼さっさと終わらせてやる」

 

 そう言って、大軍へと突進していく姿。その外套を靡かせ、剣を構える姿。まさしく親指のカポ、礼を尽くすべき姿。

 

 

 アオバが見た師匠の姿はこれで最後だった。

 

 その巨躯が再びシガーを吸うことも、礼を語ることもない。目元と頭を無くして、横たわっているのだから。

 

「……」

 

「ム、ムルソーさん……」

 

 いつぶりだろうか。これほど、心が締め付けられるのは。許可なく言うなと何度も叱られた名を語る無礼を犯すほどに頭が現実を拒んだ。

 

「海を、み、見せてくれるって約束してくれたのに」

 

「破っちゃうなら……そんなに優しくして欲しくなかったんですけど!」

 

「き、期待しちゃうので!」

 

「失ったら、後で空しくなっちゃうので……」

 

 鉄檻寺を囲むような緑木の数々は争いの余波によって揺れ動き、たった一つの青葉を落とす。ふわりと蝶のように舞っていき、やがて赤い制服にかかる。かつて、心臓が動いていた場所に重なることで、息を吹き返させようとしているかの如く。ぽた、ぽた。そんな青葉を涙が汚していく。もはや、声にすらならない絶叫が乾いた呼吸音となって響き渡る。

 

「っ……ど、ぅ……してっ」

 

「…………いなっ……くなる……の」

 

 膝をつく。もう温かみのないその体を何度も揺さぶりながら、起きてくるかもしれない僅かな可能性にかけて。手の平が制服にシワを作っていく。戦いの最中でも格好が悪くないように自分が丁寧にアイロン掛けしていたカポの証を。

 

「えへっ…………あぁ……世界ってこんなに……クソだったんですね」

 

 あの時の言葉が再び口から溢れる。もう限界だった。もう耐えられなかった。大切を積み重ねるたびに、それが根から崩されていくはもう。ごめんだった。先生と続いて師匠と。アオバは自分の大事な部分が崩れていくのが、わかった。ほんとうに、もうこんな世界に期待なんかしなくていいんじゃないか。そういう思いが溢れ、やがて決壊を迎えそうなその時に。

 

 思い出した。ここに上下はないのか。散々教え込まれた礼儀の基本。まるで耳元で囁かれるように思い出すことが出来る。こんな有り様ではバカ上司への無礼になることくらい。

 

 片膝を上げて、その体を持ち上げる。重いはずが、軽い気がする。垂れていく血はアオバの制服を汚していくが、赤に赤が交じりより濃い赤色となるだけ。なんの問題もない。

 

「……無礼をお詫びします」

 

 支えを失って滑り落ちていく、上司の外套が地面に付く前に拾い上げる。背負うようにして、羽織った。そよぐ風に揺られて、なびくカポの証を。そして、新たな持ち主として為すべきことを為す。

 

「我はアオバ。親指のカポにして、東部十剣の弟子が一人」

 

 力強く、威厳ある声でこの戦場に告げる。師の亡骸を抱えて。

 

 

 家主審査は終わった。それでも大観園の争いは止まない。さらなる財を、罪を重ねていきながら求める内患と外患。火は家を焼き払い、(つわもの)は剣を互いの体で磨きあう。子は恐れおののき、翁は嘆く、一寸先に居座る死へ。まさに都市の病が遂に大観園にたどり着いたのか。その破壊と流血は広がるばかり。

 

 

 

 沈黙。

 

 

 ぴたりと、時が止まったようにすべての動きが止まる。振り上げられた剣は空中に留まり、隠れ潜む者はより息を殺した。遠方より来る、その集団を目にして。

 

 先頭を一人の少女が先導し、後から無数の赤い帽子が付き従う。

 

「お、親指だ……」

 

 今は亡きカポを抱えた少女は誰とも視線を合わせること無く、静かに門へと動いていく。さながら、葬列を為すように。その赤い集団は規則正しく、四列横隊となって行進する。全く同じように銃を構え、同じ顔の向き、同じ目線。皆、同じ礼に従い、その少女へと追随する。

 

 最初に一人の子供が頭を下げた。歩いてきている集団へ敬意を示すため、深く深く。一人の黒獣が頭を下げた。邪魔にならぬように道の端にわざわざ陣取って、深く深く。次はジア家の誰かが頭を下げた。己のプライドを曲げて、侵略者である彼らへ深く深く。

 

 

 その軍靴は鳴り響く。石畳の道を強く踏み抜いて、鈍重な音を葬歌として届けるように。気づけば親指と頭を下げる人々しか、残らない。敗軍でありながらも、親指には礼があったと後の人は語る。

 

 そして、内海アオバは大観園の大門を通り過ぎる。別れを告げるように。

 

 

 

 大観園を覆う戦禍の中を一つの青葉がふと通り過ぎた。争いは止まり、誰しもが頭を垂れる。赤き制服の靡くその道は一人の少女が手向ける師への最後の礼であるのだから。

 

 

 

 




内海アオバ×リンバスカンパニーの合作同人小説本がなんと出ます!!!
計12作品が掲載予定です!
宜しければ、『LRT Utsumi Authority』のブースである火曜日の東地区 “ハ”ブロック-21a(東5ホール) にて会いましょう!

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