盤上のアルゴノゥト   作:ぬこすけ

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4.

「──だったら鳴いてみろよ。俺が握り潰す前に、その口でな」

 

狼人(ウェアウルフ)の低い唸り声が、店内の張り詰めた空気を助長し、逃げ場のない緊張感を決定づけた。喧騒に包まれていた豊穣の女主人から笑い声は一瞬にして消え失せ、ただ重苦しい焦燥感だけがその場を支配していく。

 

周りの視線が集まる中、宙に吊り上げられた細身の青年。

誰もが、次の瞬間に彼が血の塊に変わる惨劇を幻視し、息を呑んだ。

第一級冒険者、ベート・ローガ。その人物の前に、ただの人間が五体満足でいられる道理はない。

 

「……ありゃあ、終わったな」

「綺麗な顔してんのに、運がねぇ」

 

遠巻きに見守る冒険者たちが、諦めと哀れみの混じった視線を向ける。

その視線の中心で、ロキ・ファミリアの幹部たちもまた、事態の推移を見守っていた。

 

「ベート、手を離せ。見苦しいぞ」

 

リヴェリアの凛とした声が響く。だが、頭に血が上ったベートの耳には届いていないようだ。

彼女が眉をひそめ、力ずくで止めようと腰を浮かせた──その時だった。

 

「待って。あの男、何かおかしい」

 

隣に座っていた小柄な団長、フィンが鋭い声で制した。

本来なら、恐怖で泣き叫ぶか、失禁してもおかしくない状況だ。

だが、男の表情には恐怖の色が一切ない。

圧倒的強者の殺気を目前にしながら、まるで退屈な芝居でも見せられているかのような、異様な落ち着き。

そのギャップが、フィンの研ぎ澄まされた直感に警鐘を鳴らしていた。

 

宙吊りにされたL.L.は、首元を締め上げる剛腕の圧力を感じながら、冷徹に相手を見据えていた。

首が圧迫され、呼吸が苦しくなる。

だが、死線など今まで嫌というほど潜り抜けてきた。

この程度の危機、動揺する理由にもならない。

 

「ク、クク……」

 

L.L.は喉の奥で笑った。

その不敵な笑みに、ベートの眉間の皺が深くなる。

 

「あぁ? 何がおかしい。身の程知らずのゴミを掃除してやってるんだ、礼くらい言ったらどうだ?」

 

ベートは自身の正当性を主張するように、さらに腕に力を込めた。

骨が軋む音が響く。

これ以上は、物理的に喉が潰れる。

 

L.L.は、ため息をつくように、ゆらりと右手を持ち上げた。

「やれやれ」とでも言うように、自身の顔を覆う。

指を大きく広げ、その隙間から、深紅の光を覗かせた。

 

「そんなに喋ると喉が渇くだろう?」

 

「あぁ!?」

 

L.L.は顔を覆ったまま、ベートへと身を乗り出す。

吐息のような声が、狼人の耳元へ滑り込む。

 

『──席に戻り、水でも飲んで頭を冷やしたらどうだ?』

 

指の隙間から、紅い閃光が放たれる。

不可視の光が、無防備なベートの脳髄へと突き刺さる。

 

瞬間、ベートの瞳から殺意の光が消失した。

掴まれていた胸倉の圧力が、不意に消える。

 

ベートの手から力が抜け、L.L.の身体が重力に従って落下した。

ドサッ、と乾いた音が石畳に響く。

L.L.は尻餅をつく形になったが、すぐさま何事もなかったかのように立ち上がり、ローブの埃を払った。

 

一方、ベートはL.L.には目もくれず、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、背を向けた。その足取りには、先程までの激情が嘘のように消え失せている。

彼は自分の席に戻ると、どかっと腰を下ろし、目の前にあった水差しを無造作に掴んだ。

 

トクトクトク……。

 

グラスに水を注ぐ音だけが、死に絶えた店内に虚しく響き渡る。

そして、彼はそれを一気に煽った。

 

「…………」

 

誰もが言葉を失っていた。

冒険者たちも、店員たちも、そしてロキ・ファミリアの幹部たちさえも。

暴走寸前だったレベル5の冒険者が、ただの一般人の「水を飲め」という言葉一つで、幼児のように大人しく従ったのだ。

 

「……ふぅ。危うく殺されるとこだった。相手が引いてくれて助かったよ」

 

L.L.はわざとらしく大きく息を吐き出し、恐怖からの解放を喜ぶ一般人を装った。

その一言で、凍りついていた店内の空気がようやく解凍される。

 

「は、はは……なんだよ、今の」

「ベートの奴、急に正気に戻りやがった」

「兄ちゃん、運が良かったな!」

 

冒険者たちの間に、ぎこちない笑いと安堵が広がる。

ロキ・ファミリアのテーブルでは、フィンが目を細めていたが、当のベートが大人しく水を飲んでいる以上、これ以上追求する名分もない。

 

(……どうにか誤魔化せたか)

 

L.L.は騒動の最中に滑り落ちていたフードを掴んだ。

ロキ・ファミリア──特に鋭い視線を向けてくる小人族から顔を隠すように、それを再び目深に被り直す。顔の半分を影に沈め、彼は自分の席へと戻ろうとした。

その時、視界の端で扉が開くのが見えた。

 

カランコロンと激しいドアベルの音と共に、ベル・クラネルが店の外へと飛び出していったのだ。

助けてくれた男が襲われるなか、何もできなかった自分。

自身の無力さに耐えきれなくなったように、逃げるように去っていった。

L.L.は、走り去る少年の背中を横目で流しただけで、呼び止めることはしなかった。

今の彼に必要なのは、慰めではない。

 

「……さて」

 

L.L.は完全に冷めてしまったパスタに目を落とし、食事を切り上げることにした。

これ以上ここにいても、ロキ・ファミリアからの視線が痛いだけだ。

それに、情報は十分に手に入った。

都市最強派閥の一角相手に力が通用したこと、そしてダンジョンの異変等。

成果としては上出来だろう。

 

彼は懐から硬貨を取り出し、テーブルに置こうとした。

 

「おや、もうお帰りですか?」

 

声をかけてきたのは、薄灰色の髪の店員、シル・フローヴァだった。

彼女はトレイを抱え、L.L.の顔を覗き込むようにして立っていた。

 

「ああ。騒がしい食事だったからね。釣りはいらない」

 

L.L.は短く返し、硬貨を置く。

シルはその手元を見つめ、ふふっと楽しげに笑った。

その表情には、店員らしい気遣いというよりはもっと別の、純粋な好奇心のような色が浮かんでいる。

 

「貴方、不思議な方ですね」

 

「…何がだ?」

 

「あのベートさんを前にして、全く怖がっていなかった。普通の人なら腰を抜かしてますよ?」

 

シルは一歩、距離を詰めた。

甘い香りが鼻をくすぐる。

彼女の薄い灰色の瞳が、フードの奥にあるL.L.の瞳を、じっと見透かすように捉えた。

 

「今の騒ぎも、まるでただの喧嘩の仲裁でもしたみたいに涼しい顔で……」

 

フードの奥で、L.L.の目がわずかに細められる。

ただの酒場の店員にしては、肝が据わりすぎている。

だが、彼は表情を崩さず、肩をすくめてみせた。

 

「買いかぶりだな。私はただ、あの空気の中で食事するのが嫌なだけだ」

 

「そうですか? ……ふふ、そういうことにしておきましょうか」

 

シルは意味深に微笑むと、道を空けた。

L.L.は、その視線に背を向け、出口へと向かう。

そして、ふと思いついたように足を止め、追加の硬貨を数枚、シルの持っていたトレイの上に弾いた。

 

「それと、さっき飛び出していった少年の分もこれで頼む」

 

チャリン、と硬貨が音を立てる。

次に彼が来た時のためのツケぐらいにはなるはずだ。

シルは目を丸くし、それから一層嬉しそうに目を細めた。

 

「あら、お優しいんですね」

 

「ただの気まぐれだ」

 

L.L.は短く返し、扉を開けて夜のオラリオへと足を踏み出した。

背後で見送るシルの表情を確認することなく、その姿は街の闇の中へと溶けていった。

 

 

***

 

深夜。

豊穣の女主人の営業が終わり、喧騒が去った静寂の中。

店の二階にある一室で、シル・フローヴァはベッドに身を投げ出していた。

 

「んぅ……っ、ふふ……!」

 

彼女は枕に顔を埋め、抑えきれない興奮にシーツをギュッと掴んだ。

足をバタバタとさせ、普段の「店員シル」としての仮面が剥がれ落ち、その奥にある美の女神としての本性が、快楽に震えていた。

 

「素晴らしいわ、ベルさん……。あんなに惨めで、あんなに透き通っていて……」

 

今日見た少年は、傷つき、汚れ、それでもなお魂は白く輝いていた。

屈辱に歪みながらも、決して濁ることのない純粋な潔白。

彼こそが、私が探し求めていた存在。

 

けれど──今夜の収穫は、それだけではなかった。

 

シルは仰向けになり、天井へと手を伸ばす。

脳裏に浮かぶのは、フードを目深に被った、あの灰色のローブの男。

レベル5の冒険者であるベートを前にして、眉一つ動かさず、その一言で場を静寂に沈めた男。

 

「お名前すら、聞きそびれてしまいましたけれど……」

 

思い出されるのは、彼の魂の色だ。

ベルが「透明な白」なら、あの名も無き男の魂は「底知れぬ紫紺」。

 

美の神であるワタシの目をもってしても、その正体が見通せない。

冒険者たちが(たぎ)らせるような欲望の熱も、神への祈りも……そういった色が、綺麗に抜け落ちている。

 

あるのは、全てを終えた後のような、静かな黄昏。

神の目ですら見通せない、異質の神秘がそこに沈んでいる。

けれど、その奥底には、決して何者にも侵されない冷ややかな気高さがある。

 

「ゾクゾクしちゃう。ベルさんとは違う、もっと危険で、冷たい感覚……」

 

シルは自身の身体を抱きしめるようにして、身悶えた。

一人は、これから育ちゆく無垢な輝き。

一人は、完成された神秘的な闇。

 

このオラリオという箱庭に、二つの極上の果実が同時に転がり込んできたのだ。

これを味わわずして、何の女神か。

 

「ふふ、ふふふふっ……! 楽しみ、楽しみだわ……!」

 

シルの銀色の瞳が大きく開かれる。

本命はあくまでベル。けれど、あの男もまた、退屈な日々を彩る極上のスパイスになるだろう。

 

彼女は、まだ見ぬ明日の展開に思いを馳せ、恍惚とした吐息を漏らす。

オラリオの夜は、女神の予感と共に更けていった。

 

 

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