「──だったら鳴いてみろよ。俺が握り潰す前に、その口でな」
周りの視線が集まる中、宙に吊り上げられた細身の青年。
誰もが、次の瞬間に彼が血の塊に変わる惨劇を幻視し、息を呑んだ。
第一級冒険者、ベート・ローガ。その人物の前に、ただの人間が五体満足でいられる道理はない。
「……ありゃあ、終わったな」
「綺麗な顔してんのに、運がねぇ」
遠巻きに見守る冒険者たちが、諦めと哀れみの混じった視線を向ける。
その視線の中心で、ロキ・ファミリアの幹部たちもまた、事態の推移を見守っていた。
「ベート、手を離せ。見苦しいぞ」
リヴェリアの凛とした声が響く。だが、頭に血が上ったベートの耳には届いていないようだ。
彼女が眉をひそめ、力ずくで止めようと腰を浮かせた──その時だった。
「待って。あの男、何かおかしい」
隣に座っていた小柄な団長、フィンが鋭い声で制した。
本来なら、恐怖で泣き叫ぶか、失禁してもおかしくない状況だ。
だが、男の表情には恐怖の色が一切ない。
圧倒的強者の殺気を目前にしながら、まるで退屈な芝居でも見せられているかのような、異様な落ち着き。
そのギャップが、フィンの研ぎ澄まされた直感に警鐘を鳴らしていた。
宙吊りにされたL.L.は、首元を締め上げる剛腕の圧力を感じながら、冷徹に相手を見据えていた。
首が圧迫され、呼吸が苦しくなる。
だが、死線など今まで嫌というほど潜り抜けてきた。
この程度の危機、動揺する理由にもならない。
「ク、クク……」
L.L.は喉の奥で笑った。
その不敵な笑みに、ベートの眉間の皺が深くなる。
「あぁ? 何がおかしい。身の程知らずのゴミを掃除してやってるんだ、礼くらい言ったらどうだ?」
ベートは自身の正当性を主張するように、さらに腕に力を込めた。
骨が軋む音が響く。
これ以上は、物理的に喉が潰れる。
L.L.は、ため息をつくように、ゆらりと右手を持ち上げた。
「やれやれ」とでも言うように、自身の顔を覆う。
指を大きく広げ、その隙間から、深紅の光を覗かせた。
「そんなに喋ると喉が渇くだろう?」
「あぁ!?」
L.L.は顔を覆ったまま、ベートへと身を乗り出す。
吐息のような声が、狼人の耳元へ滑り込む。
『──席に戻り、水でも飲んで頭を冷やしたらどうだ?』
指の隙間から、紅い閃光が放たれる。
不可視の光が、無防備なベートの脳髄へと突き刺さる。
瞬間、ベートの瞳から殺意の光が消失した。
掴まれていた胸倉の圧力が、不意に消える。
ベートの手から力が抜け、L.L.の身体が重力に従って落下した。
ドサッ、と乾いた音が石畳に響く。
L.L.は尻餅をつく形になったが、すぐさま何事もなかったかのように立ち上がり、ローブの埃を払った。
一方、ベートはL.L.には目もくれず、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、背を向けた。その足取りには、先程までの激情が嘘のように消え失せている。
彼は自分の席に戻ると、どかっと腰を下ろし、目の前にあった水差しを無造作に掴んだ。
トクトクトク……。
グラスに水を注ぐ音だけが、死に絶えた店内に虚しく響き渡る。
そして、彼はそれを一気に煽った。
「…………」
誰もが言葉を失っていた。
冒険者たちも、店員たちも、そしてロキ・ファミリアの幹部たちさえも。
暴走寸前だったレベル5の冒険者が、ただの一般人の「水を飲め」という言葉一つで、幼児のように大人しく従ったのだ。
「……ふぅ。危うく殺されるとこだった。相手が引いてくれて助かったよ」
L.L.はわざとらしく大きく息を吐き出し、恐怖からの解放を喜ぶ一般人を装った。
その一言で、凍りついていた店内の空気がようやく解凍される。
「は、はは……なんだよ、今の」
「ベートの奴、急に正気に戻りやがった」
「兄ちゃん、運が良かったな!」
冒険者たちの間に、ぎこちない笑いと安堵が広がる。
ロキ・ファミリアのテーブルでは、フィンが目を細めていたが、当のベートが大人しく水を飲んでいる以上、これ以上追求する名分もない。
(……どうにか誤魔化せたか)
L.L.は騒動の最中に滑り落ちていたフードを掴んだ。
ロキ・ファミリア──特に鋭い視線を向けてくる小人族から顔を隠すように、それを再び目深に被り直す。顔の半分を影に沈め、彼は自分の席へと戻ろうとした。
その時、視界の端で扉が開くのが見えた。
カランコロンと激しいドアベルの音と共に、ベル・クラネルが店の外へと飛び出していったのだ。
助けてくれた男が襲われるなか、何もできなかった自分。
自身の無力さに耐えきれなくなったように、逃げるように去っていった。
L.L.は、走り去る少年の背中を横目で流しただけで、呼び止めることはしなかった。
今の彼に必要なのは、慰めではない。
「……さて」
L.L.は完全に冷めてしまったパスタに目を落とし、食事を切り上げることにした。
これ以上ここにいても、ロキ・ファミリアからの視線が痛いだけだ。
それに、情報は十分に手に入った。
都市最強派閥の一角相手に力が通用したこと、そしてダンジョンの異変等。
成果としては上出来だろう。
彼は懐から硬貨を取り出し、テーブルに置こうとした。
「おや、もうお帰りですか?」
声をかけてきたのは、薄灰色の髪の店員、シル・フローヴァだった。
彼女はトレイを抱え、L.L.の顔を覗き込むようにして立っていた。
「ああ。騒がしい食事だったからね。釣りはいらない」
L.L.は短く返し、硬貨を置く。
シルはその手元を見つめ、ふふっと楽しげに笑った。
その表情には、店員らしい気遣いというよりはもっと別の、純粋な好奇心のような色が浮かんでいる。
「貴方、不思議な方ですね」
「…何がだ?」
「あのベートさんを前にして、全く怖がっていなかった。普通の人なら腰を抜かしてますよ?」
シルは一歩、距離を詰めた。
甘い香りが鼻をくすぐる。
彼女の薄い灰色の瞳が、フードの奥にあるL.L.の瞳を、じっと見透かすように捉えた。
「今の騒ぎも、まるでただの喧嘩の仲裁でもしたみたいに涼しい顔で……」
フードの奥で、L.L.の目がわずかに細められる。
ただの酒場の店員にしては、肝が据わりすぎている。
だが、彼は表情を崩さず、肩をすくめてみせた。
「買いかぶりだな。私はただ、あの空気の中で食事するのが嫌なだけだ」
「そうですか? ……ふふ、そういうことにしておきましょうか」
シルは意味深に微笑むと、道を空けた。
L.L.は、その視線に背を向け、出口へと向かう。
そして、ふと思いついたように足を止め、追加の硬貨を数枚、シルの持っていたトレイの上に弾いた。
「それと、さっき飛び出していった少年の分もこれで頼む」
チャリン、と硬貨が音を立てる。
次に彼が来た時のためのツケぐらいにはなるはずだ。
シルは目を丸くし、それから一層嬉しそうに目を細めた。
「あら、お優しいんですね」
「ただの気まぐれだ」
L.L.は短く返し、扉を開けて夜のオラリオへと足を踏み出した。
背後で見送るシルの表情を確認することなく、その姿は街の闇の中へと溶けていった。
***
深夜。
豊穣の女主人の営業が終わり、喧騒が去った静寂の中。
店の二階にある一室で、シル・フローヴァはベッドに身を投げ出していた。
「んぅ……っ、ふふ……!」
彼女は枕に顔を埋め、抑えきれない興奮にシーツをギュッと掴んだ。
足をバタバタとさせ、普段の「店員シル」としての仮面が剥がれ落ち、その奥にある美の女神としての本性が、快楽に震えていた。
「素晴らしいわ、ベルさん……。あんなに惨めで、あんなに透き通っていて……」
今日見た少年は、傷つき、汚れ、それでもなお魂は白く輝いていた。
屈辱に歪みながらも、決して濁ることのない純粋な潔白。
彼こそが、私が探し求めていた存在。
けれど──今夜の収穫は、それだけではなかった。
シルは仰向けになり、天井へと手を伸ばす。
脳裏に浮かぶのは、フードを目深に被った、あの灰色のローブの男。
レベル5の冒険者であるベートを前にして、眉一つ動かさず、その一言で場を静寂に沈めた男。
「お名前すら、聞きそびれてしまいましたけれど……」
思い出されるのは、彼の魂の色だ。
ベルが「透明な白」なら、あの名も無き男の魂は「底知れぬ紫紺」。
美の神であるワタシの目をもってしても、その正体が見通せない。
冒険者たちが
あるのは、全てを終えた後のような、静かな黄昏。
神の目ですら見通せない、異質の神秘がそこに沈んでいる。
けれど、その奥底には、決して何者にも侵されない冷ややかな気高さがある。
「ゾクゾクしちゃう。ベルさんとは違う、もっと危険で、冷たい感覚……」
シルは自身の身体を抱きしめるようにして、身悶えた。
一人は、これから育ちゆく無垢な輝き。
一人は、完成された神秘的な闇。
このオラリオという箱庭に、二つの極上の果実が同時に転がり込んできたのだ。
これを味わわずして、何の女神か。
「ふふ、ふふふふっ……! 楽しみ、楽しみだわ……!」
シルの銀色の瞳が大きく開かれる。
本命はあくまでベル。けれど、あの男もまた、退屈な日々を彩る極上のスパイスになるだろう。
彼女は、まだ見ぬ明日の展開に思いを馳せ、恍惚とした吐息を漏らす。
オラリオの夜は、女神の予感と共に更けていった。