消えてしまった刑事さん   作:片岬(旧:片霧)

13 / 13
消えてしまった慶二さん

轟三side

 

轟三があの部屋から外に出てから、半年が経っていた。

多忙で、目が回る半年間だった。轟三はすぐに刑事として現場に復帰し、夕神の戦友として現場であっちこっちに走り回っていた。

一年半のブランクがあったが、そこはやはり兄の慶二、轟三が復帰した時に困らないように、一年半に起こったことや資料などを都度都度まとめていた。それらを確認しつつ、兄の告発文によりてんてこ舞いになった警察や検事局を駆け回っていた。見知らぬ相手から親しげに声をかけられることもあった。だが、まるで自分が忘れているだけで昔から交流があったように話も弾んだので、兄の変装技術には感心するばかりだった。

警察や検事局どころか、各機関が混乱に陥った理由。兄の作成した告発文。

免罪であった過去の裁判、国家間の非合法な取引、民間企業との非人道的な契約、多数の行方不明者・自殺者・事故者の真相、現在進行形で行われている犯罪行為・裏取引etc.etc……。

上げ出したらキリもなく、おそらく轟三が全く知らないことも多い。

しかし、夕神や御剣検事局長らが目の下のクマを濃くして頭を悩ませているのを見ると、相当大変なことが山積みなのだろうと思う。ついこの前に、検事局に資料を持って行ったら、廊下に紫色のスーツを着た人物が過労で倒れており、医務室に背負っていったばかりだ。アクセサリーがたくさんついていて、背中がチクチクしたのを覚えている。

しかし、半年経過して、ようやく戦いに終結が見えてきて、日常が戻りつつあった。逮捕された人々が作った、自分達に都合の良い法律が改定される目処もたったそうだ。これから、法律も、法曹界も多くが変わっていくだろう。

もちろん、まだまだ忙しい。だが、ずっと放置していたアパートの整理ができる程度には時間が作れた。

 

「むむ、このランニングマシーンはまだ使えるか……。しかし、ジブンのアパートには大きすぎるな……」

 

部屋に置かれている大きいランニングマシーンを前に、頭を悩ませる。保護時代に体力保持に活用していた機器だった。

都心にある、十字路の大通りを通って十分ほど歩いた先。立ち並ぶアパートの一室がここだった。

整理に行くアパート、というのは轟三が保護されていた部屋のことだ。元々、轟三は別のアパートに住んでいたが、保護されていたアパートは都内にある十階建ての鉄筋コンクリートで、部屋も三部屋ほどある広々としたところだった。そのうちの一つが改装され、水回りなども整備されて轟三が住めるようになっていたのだ。

そして、なぜこのアパートを整理することになったかというと。

数日前、轟三が検事局にいた時のことだ。

 

「あのアパート、僕が轟三のアパートから持ってきた私物とかもあるから、整理しに行こう」

 

と、慶二と出会った時に言われたのであった。

兄は、夕神や御剣検事局長と連携して仕事をしているらしい。ということは知っていた。時折、仕事の場で出会うこともあった。飛びついて話し合いたかったが、互いに仕事が優先である。それに何より、兄と共に仕事ができることが嬉しかった。

そうして半年経って、ようやくじっくり話せる機会が訪れた、というわけであった。

部屋の掃除なので、轟三は白いカジュアルシャツとデニムのズボンという私服姿だ。

掛け時計が、午前九時を指し示そうとしていた。部屋の開けっぱなしにしていた扉から、玄関の鍵が回る音がする。

轟三は魚のように跳ね、部屋を飛び出した。そうして玄関まで迎えに行く。

 

「兄さん!」

「轟三。もう来てたんだ。早いね」

 

玄関で、手をひらひらと振られた。ブワッと懐かしさと喜びが腹のうちから込み上げる。

帰ってくる兄を迎えるのは、二十三年ぶりだった。このために、三時間も前に来ていた甲斐があった。

そうはいっても、兄が来たのも約束の時間の一時間前だ。早めの行動が大事ということだ。

兄は、黒いトレンチコートを羽織っていて、中にグレーのベストとズボンを着ている。そして、被っていた黒色のソフトハットを玄関の戸棚に置いた。

顔は、黒髪の方ではなく、茶色髪の方だった。目がハッキリとしていて、いわゆるイケメンという顔立ちである。兄は法廷で、このマスクを気に入っていると言っていた。それは、顔が整っているからだろうか。格好良さでは、黒髪の方も全く引けを取らない。そうなると、兄の趣向の問題か。

しかし、どちらであろうとも、兄は兄である。中身が番慶二であれば、それ以外は、轟三にとっては瑣末であった。

 

「おかえり、兄さん!」

「……ただいま」

 

目を瞬かせた慶二が、笑顔でそう返してくる。それだけで脳が熱くなるぐらい、待ち望んでいた。

 

日曜日の午前九時。二人が揃い、段ボールに必要なものを詰めていく。

 

「トイレットペーパーは日用品だから使えるな!」

「そうだね。僕はいらないから、轟三持っていく?」

「うむ! 皿はどうするか……」

「使ってたマグカップだけもらおうかな。黒いやつ」

「お揃いのものだな! 白いものはジブンが持っていくぞ!」

 

部屋には既に、引越し用の段ボールが大量に置かれていた。そこに必要なものや不要なものを詰めていけば、あとは引越し業者が対応してくれるらしい。段ボールに入らないものについては、張り紙で必要事項を記載しておけばいいという。アパートに着いたのは轟三が先だったが、準備は既に兄が手配していた。相変わらず手際が良い。

兄はコートを脱いで、サクサクと物品の選別を行っていく。時折、轟三に必要かどうかも尋ねてくれる。本当に手際がいい。アパートにある部屋全ての整理だったので、一日かかるかと轟三は思っていたが、これなら午前中で終わってしまいそうだ。と思った。

 

「本当に終わってしまった……」

「いやぁ、スッキリしたね」

 

兄はコートを羽織り直し、満足げな顔で椅子に座っている。

段ボールが、それぞれの部屋に山積みになっていた。大物にも張り紙で必要事項が記載され、貼り忘れもない。

 

「そういえば、金魚と鯉は元気にしてる?」

「ああ、元気にしているぞ! 金魚は皆楽しそうに泳いでいるし、鯉は食欲旺盛だ! 少し太ったかもしれない」

「あはは。あの鯉、大食らいだったもんね」

 

ダイニングテーブルの椅子に座っている兄の向かいに、轟三も腰を下ろす。

轟三たちがいる部屋は、轟三が一年半住んでいた部屋だ。ここが一番物が多かった。段ボールが多く積まれている。

そして、今は段ボールに仕舞われてしまった棚。その上に金魚鉢が二つ置いてあったのだった。

金魚は四匹、鯉は大きなものが一匹。それぞれ別の鉢で飼われていた。一緒にしないのか聞いてみたら”鯉って金魚を食べちゃうんだよ”と教えられて、驚いたのを覚えている。兄は毎日部屋に訪れるわけではなかったので、魚たちの世話は轟三の役目だった。兄以外に話し相手はいなかったが、彼らにはたくさん話しかけていたし、今もそうだった。

 

「最近は水草に凝っているのだ」

「へぇ、綺麗そうだ」

「うむ! しかし、鯉は水草を食べてしまうのだ……」

「それは……本当に大食らいだねぇ」

「そうなのだ……。今度は別の水草でチャレンジしようと思っているのだよ」

「また食べちゃいそうだね」

 

兄がそう言って、真正面で笑う。部屋にいた時とは違う容姿だが、笑い方は何も変わらなかった。

半年前までは、こういった時間がたくさんあった。兄はできるだけ、轟三の話に付き合ってくれた。外では忙しかっただろうが、この部屋にいるときは、ゆったりとした姿でいてくれた気がする。

裁判から半年が経過し、互いにまだまだ忙しい身だが、こうした時間をできるだけ持ちたかった。

 

「こうして兄さんとゆっくり話せて、嬉しいぞ!」

「そうだね。この半年間、僕も轟三も忙しかったからね」

「そういえば、御剣検事局長と取り組んでいた件は落ち着いたのか?」

「ああ、ついこないだね。でも、気が抜けちゃったのか、彼、熱を出しちゃってね……。怜侍くん、入院してる」

「むっ、そうだったのか……」

「うん。過労だろうから、すぐに治るって言ってたけど……無理をさせて申し訳なかったな……」

「そうか……。あ、迅くんだが、もっと仕事を持ってきていい。と愚痴っていたぞ。ジブンからも兄さんに言ってくれと」

「あらら。それで、どうしたの?」

「うむ! クマがすごかったので寝かせたぞ!」

「うーん、偉い!」

 

兄が深く頷く。夕神のためにやったことだが、褒めてもらえるのはとても嬉しかった。

 

「でも、もう落ち着いてくるよ。みんなにはリフレッシュしてほしいな」

「そうなのか? じゃあ、兄さんの仕事も?」

「そうだね。僕が手助けできるところは大体終わったし、あとはみんなで進められる」

 

それはとても良いことだ。何せ、兄はこの半年間、本当に駆け回っていた。署内を真顔で全力疾走していた時もあった。あれは轟三も、遠目から見ているしかなかったものである。

兄は、いなくなっていた七年間の間に、色々と法に抵触することもしてきた。しかし、そうせざるを得なかった事情がある。そのため、すぐに刑事として復帰し、さまざまな機関や人に手を貸してきた。だが、それも落ち着くということは、通常の刑事としての仕事に復帰する。ということだろうか。

 

「なら、これから兄さんと一緒にもっと仕事ができるようになるのだな! 楽しみだ! そうだ、母さんと父さんにも会いに行こう! 久しぶりに家族旅行はどうだろうか。きっと二人も喜ぶぞ!」

 

轟三と同じく、母も父も、長年兄に会えていない。轟三は兄と話せているが、母と父もそれを強く望んでいるだろう。長らく途絶えていた家族旅行もしたい。こうして実家のダイニングテーブルで、家族の会話がしたかった。

いいや、それより何より、兄と一緒にいたかった。色々なことを話したかった。ともに実家で暮らしていた時のこと、留学で離れ離れになっていた時のこと、空白の七年間のこと。

そうして、あの雪の日の出来事についても、話してみたかった。あの時、兄はどんなふうに思っていたのか。轟三にとっては、忘れられない大事な記憶だ。公園を見るだけでも、嬉しくなるような。

兄は、覚えているだろうか。忘れていたら、少し寂しいけれど、それでもいい。

慶二は、笑みを浮かべて轟三を見ていた。そうして、口を開く。

 

「僕は日本を離れるよ」

 

――日本を、離れる?

なんの話だろうか。轟三の思考は一瞬止まって、少ししてまた動き出した。

家族旅行の話、だろうか。海外旅行へ行く、という。

いや、この言い方は、一人で日本から出ていく、ということなのだろう。

しかし、突然だ。何か理由があるのか。仕事、だろうか。それが聞きたくて、言葉を繰り返した。

 

「日本を離れる、のか? 兄さんが?」

「うん」

 

肯定だけが返ってくる。

兄は頷いて、椅子から立ち上がった。椅子から離れる。

 

「そして、もう二度と轟三たちには会わない」

「……え?」

 

間抜けな声が、どこからか聞こえた。自分の声だった。

もう二度と、会わない? 自分達に?

――なぜ?

 

「手紙は送るよ。住所は書かないから、送り返せないけど」

「い、いや、それは……いい、のだが……」

 

何も良くはない。手紙は、嬉しい。離れている時に、大事な人から送られてくる文章は、慰めになる。

しかし、そんな言葉が欲しいのではない。さっきまで、なんの話をしていた? ようやく仕事が落ち着くという話をしていた、はずなのに。どうしていきなり、そんな意味のわからない話になったのか。

兄は、にこやかに笑っている。その笑みは、十数年前と変わらない。最後に見た、空港で留学を見送った時の顔とも、同じ。

 

「じゃあ、元気でね」

 

そう言って、兄が背を向ける。コートが揺れて、そうして離れ始める。

兄が歩き始める。部屋から出て行こうとしている。このアパートから、日本から、出て行こうとしている。

混乱していた。パニックにも似ていた。体が動かず、脳内で様々な言葉が飛び交う。

どうして? なぜ日本を出ていくのか。轟三たちに会わないというのは、ジブンたち家族のことか。なぜ? 何か、事情が? 気に食わないことが? でもどうして日本まで出る必要がある。仕事は? 刑事の職は。どうして何も説明してくれない? またジブンの前から姿を消すのか。一緒にいてくれると言ったじゃないか。違う、それは雪の日の話だ。兄は決めたことは絶対に譲らない。なら日本からはもう絶対に出ていくのか。もう二度と、轟三たちとは会わないのか。そう決めてしまったのか。まだ間に合わないか? ダメだ、間に合うなら兄は口にしない。

行かないでくれ。待ってくれ。

 

どうして、

どうしてそうやって、

 

「ま、て、待ってくれ、兄さんッ!」

 

自分の足を思い切り殴って、立ち上がった。痛みが頭を正気に戻す。声が出た。

兄は――兄は、足を止めた。止めてくれた。ホッとする。だが、振り返らない。

 

「い、いきなり、どういうことなのだ。日本を離れる……二度と会わないというのは、一体、どういうことなのだ!」

 

頭に浮かんだ言葉を、必死で口にした。何か言わなければ、話を続けなければ。会話にすらなっているか分からなかったけれど。

お願いだ。聞いてくれ、知らぬふりをしないでくれ。こっちを見てくれ。興味を失わないでくれ。

もう嫌だ、あんな思いは、

 

「何か、事情があるのか? せめて、せめて説明をしてくれ!」

 

事情があっても、説明があっても、嫌だ。

嫌だ、行かないでくれ、こんなに待ったのに、待っていたのに、あなたのいない日々をそれでも送ってきたのに、

それを全部、無駄なものだったと言わないでくれ、

 

「何も言わずに、もう、いなくならないでくれ……!」

 

轟三に、兄は止められない。兄は、赤子の手をひねるように、轟三の前から消えるだろう。

轟三がいくら探しても、きっと一生見つからない。本当の亡霊になって、そうして手紙だけが届き続けるのだろう。

そんなのは、嫌だった。けれど、兄は、必ずそうするから、

せめて、せめて、一生、轟三が我慢し続けられるぐらいの、理由が欲しい。

兄が生きていると知らなかった頃には、もう戻れない。もう、理由がなければ、耐えられない。

 

兄は、ただ立ち止まっていた。部屋の扉の前で、絵画のようにピクリとも動かずにいた。

コートが僅かに揺れる。兄が、振り返る。

 

「そうだね。ちょっと、説明が少なかったね」

 

うっすらと笑む。その顔が少しぼやけた。轟三は、自分が泣いていることに気づいた。

慶二が近寄ってきて、コートからハンカチを取り出して轟三に渡してくる。轟三は、恐る恐るそれを手にして、慶二を見た。

慶二は笑うだけで、少し轟三から離れた。思わずついていくが、部屋の中央あたりで止まっただけだった。

 

「どこまで話そうか。最後だし、聞きたいことは話してあげるよ」

 

柔和な口調、柔らかな物腰。だがそれは、先ほどまでの慶二と違うように感じられた。

そう、これは――あの日、法廷で、仮面を取理、自分のしてきたことを説明していた時のようだ。

兄ではなく、亡霊の、ような。

 

「す、全て、全てだ。それしか、嫌だ」

 

引き攣る喉で、必死でそう告げた。聞きたいことなど、全てだ。隠されるのは、もう懲り懲りだった。

兄は、少し眉を寄せた。

 

「全部? でも、長くなるよ?」

「どれだけかかってもいい!」

「うーん……」

 

顎の下に手を置いて、それから兄は手首につけた腕時計を見た。何か、時間が決まっているのか。

兄は少し考えた後、轟三を見た。

 

「……その方がいいのかもね」

「ど、どういうことなのだ?」

「いや……理想の兄でいたかったなぁって話」

 

轟三に向き合って、慶二は口を開いた。

 

「日本を出て、もう二度と会わないのは、轟三たちのためだよ。轟三や両親、それから迅くんとか、怜侍くんとか、心音くん、ナルホドくん、オドロキくん。千尋くんに神乃木くん……というか、僕の大事なみんなのためだ」

「そ、それはどうして。まだ、政府に追われているのか? なら、仲間に助けを求めれば……!」

「ううん。それは平気。もう彼らにそんな力はないよ」

「な、なら、どうして……!」

「うーん、僕から、君たちを守るため……かな?」

 

僕から、君たちを守るため?

答えを知るために尋ねた問いが、さらに疑問を呼ぶ。しかも、理解のできない疑問だ。

兄が、自分達の脅威になる。と言いたいのだろうか。

 

「つ、つまり」

「うん」

「兄さんは……二重人格とか、なのだろうか」

「えっ、ふっ、んふふ! それは、違うかな」

「そ、そうなのか」

 

兄さんが、自分達を傷つけることは絶対にない。なら、と思って浮かんだものだったが、違ったようだ。

真面目だったのだが、兄は吹き出してしまった。無邪気な笑みに、こんな状況なのにホッとする。

 

「普通に、僕がみんなに悪影響ってこと」

「それこそ、なぜなのだ。兄さんは、良いことしかしていないし、皆、兄さんのことを必要としているのだぞ!」

 

誰も彼もが、兄が生きていたことを喜んだ。皆に慕われていると、轟三はよく理解していた。

兄は、無邪気な笑みを潜めて、柔和な顔で言った。

 

「ところで、僕がアメリカに留学して、何してたか知ってる?」

「……え。留学先で? それは……勉強を、していたのだろう? ハイスクールを飛び級して、大学を卒業して……」

「うん。でも、いろんな人とも付き合ってたんだ」

「つ、付き合う……こ、交際ということだろうか」

「そう。ざっと百人ぐらい」

「ひゃ」

 

今、何を言われたのか。

突然、アメリカ留学の話に移った。それは、まだいい。そして、いろいろな人と付き合っていたことも、いい。

だが、百人? 三桁?

兄が留学していたのは、三年間だけのはずだ。一ヶ月に一人と付き合うとしても、三十六人しか無理だ。

 

「十股とかしてたことあるよ」

「じゅ」

 

また、桁が違う。十? 十人と、同時に付き合っていた? そんなことが、可能なのか? 普通、すぐにバレてしまうんじゃないか。というか、今、轟三は何を聞かされているのか。

轟三は眩暈がして、頭を抑えた。手に持っていたハンカチが、額の汗を吸い込む。

 

「どうしてそんな、非ジャスティスな……」

「愛情が欲しかったんだよね」

「あ、愛情?」

 

意外だった。兄が、そういったものを欲しがるなんて。いや、そもそも、意外と言ったらもう、アメリカでのことが全て意外というか、信じられないぐらいだった。けれど、嘘をついているというふうでもない。淡々と、事実だけを話されているように感じる。

けれど、愛情なら一人だけ恋人がいればいいはずだ。そんな、複数人と、しかも同時に付き合うなんて、おかしい。

 

「特に人に興味はなかったけど、愛情が欲しくて目があった人と片っ端から付き合ってたんだ。相手に合わせて、相手の興味を引いて、自分を好きにさせる。その時はまぁ、愛情が欲しいから頑張れるんだけど、相手が僕のことが一番になったって分かると、飽きちゃうんだよね」

「……それは、なぜ……」

「飽き性だからかな」

 

飽き性。それは、なぜかストンと腑に落ちた。

兄は、幼い頃から様々な分野の勉強やスポーツに手をつけ、成績を残した。だが、それらを全て、すぐに捨てて別のことをし始めた。あれは、確かに、飽き性と言われれば、そうかもしれなかった。

しかし、だからといって、それが恋愛面にまで影響しているなんて。

色々と、ショックだった。全く恋愛をしていないなどとは思っていなかったが、勝手に誠実で暖かな恋愛をしているだろうというイメージがあった。

 

「この、飽きる性格がどうにかならないかなって、色々試した結果、そのぐらいの人数になってたって感じだね」

「……トラブルはなかったのか?」

「時々あったけど、最後は丸く収まったよ。もちろん、貴重な時間を無駄にさせたわけだから、補償はしたし」

「ほ、補償?」

「そう。僕のことをちゃんと諦められるように心の整理をさせてあげて、いい思い出だったと考えられるようにして、新しい恋愛や人生に向かえるようにサポートしたり」

「……それは、カウンセラーの役目ではないのか?」

「そうかもね」

 

兄の言葉には、悪気の一つも感じられない。

 

「しかし、そんなに多くの女性と……」

「まぁ、女性だけじゃなかったけど」

「……え?」

「僕はどっちも大丈夫な人だから」

 

脳が揺さぶられる。カミングアウトが突然すぎる。

兄の性的嗜好がそうであっても、何も問題はない。だが、タイミングというものがあるのではないか。

無防備に寝ているところで、鳩尾に強烈なパンチを喰らった気分になる。体がふらついた。

 

「轟三。大丈夫?」

「へ、平気、だ」

「続けるよ?」

「う、うむ……」

 

平気ではなかったが、話を止めたくなくて我慢した。

兄は、轟三の様子を眺めながら話を続ける。

 

「元々、他人や物事に対する興味が持続しない性格なんだ。でも、愛情は欲しいから、そのための努力はできる」

「……まさか、子供の頃のスポーツも」

「そうだね。あの頃は、その対象が親とかだったけど。あと、轟三も喜んでくれたから」

 

パッと笑みが深まる。しかし、轟三の顔からは汗が滲み出ていた。

その、興味が持続しないというのは――家族も、そうなのか。

 

「そういえば聞いてたかな。僕と轟三が血が繋がっていないって話」

「え……え?」

「その様子だと聞いてないみたいだね。僕は養子だよ。両親からは生まれていない。僕を育ててくれていた人たちが、事故で亡くなってしまってね。その人たちが父の親戚だった縁で、養子に入れてくれたんだ。まぁ、その亡くなった人たちも、僕の本当の両親じゃないんだけど」

「え、どういう……、は……?」

 

衝撃的なことが、二つ一気に放り込まれ、脳内が混乱する。

兄が、養子だった。そうして、元の家族も、養子に入ったものだった。なら、本当に、欠片も血が繋がっていない。ということ、なのか。

どうして、そうなっている? 養子は、しかし、そうかも知れない。兄は、本当に優秀で、轟三と血の繋がった兄弟ではないというのは、悲しいが納得できた。だが、前の家でも養子だった? なら、兄はどこから来たのか。

 

「亡くなった人たちは海外旅行が趣味でね。様々な国に行ってた。その先で、僕と出会ったんだ。僕はその時、家族もいなかったから、引き取りたいって話になって。でも外国の孤児だろう? 手続きが大変でね……。結局、日本で生まれた子供ってことにされて、引き取られたんだ」

「……日本人、ですらないのか?」

「うん」

 

兄は笑っている。どんな気持ちで、その表情をしているのか、轟三は分からなかった。

轟三は、今まで絶対に変わらないと信じていた家族の形が、歪んでしまったようで、身体中がざわついているというのに。

兄は、轟三の様子は構わず、話し続ける。

 

「興味が持続しないって言っただろう? けどね、一つだけずっと興味関心のあるものがあったんだ」

 

声が急に弾み出す。笑みを深くして、少しだけ頬を赤くしている。

彼は、先ほどまでの話なんて、忘れたかのようだった。

手を広げて、兄が言う。

 

「轟三たちだよ!」

「……ジブン、たち?」

「そう。轟三や、迅くん。心音くんに、ナルホドくん。逆転裁判っていうゲームに出てくるキャラクターたちのこと」

「ぎゃくてん、ゲーム?」

「多分、ずっと好きだったから、それだけは反応するように脳がなっていたんだと思う。欠陥品だったけど、それだけはちゃんと覚えてた!」

 

兄は、心底嬉しそうに、子供のように、両手を広げてくるりと回った。

何の話をしている? 今までは、どうにか、頭を必死で回して理解できたが、今回は本当に理解ができなかった。

何かのゲームの話をしている。ゲームが、好きだったのだろうか。幼い頃に兄と遊んだゲームの中に、そんなものはなかったとはずだ。

それに、当然だが自分達はゲームのキャラクターなどではない。

兄は、自分達をゲームのキャラクターだと、認識しているのか?

 

「理解しなくていいよ。つまり、特定の人間にだけは、興味が持続するっていうこと」

 

先ほどまでの眩しい笑みは消えて、いつもの表情になっていた。吐き気を催していた混乱が、耐えられる程度に治る。

轟三が、理解できないことは分かっていたようだ。そして、それ以上、そのことについて言及するつもりもないようだった。

轟三は、眉を顰め、どうにか頭を動かした。

兄は、人や物事に興味を持ち続けられない。極度の飽き性、と言うことだ。だから、恋人とも継続できない。

だが、自分達など、例外も存在する。

 

「……もしかして、兄さんが日本で刑事になったのは」

「大正解。そういう、例外のみんなと関われるのが、日本の刑事だったからなんだ。しかも、彼らは厄介ごとに巻き込まれがちでね。助ける立場としても、ここが一番やりやすかった」

 

兄が、懐から黒い手帳を取り出す。警察手帳だった。

そこには、兄の顔写真が挟まれているのだろう。それを、ゆっくりと撫でる。

 

「政府のあれこれを暴こうと思ったのも、例外のみんなが住むこの国を、少しでも安全なものにしたかったからだよ」

 

理由は、とても個人的なものだ。だが、兄が行ったことは、立派なこと。日本の人々の平和を保つことだ。

兄の行動は、確かに日本を良くしている。兄がいう、”例外のみんな”の安全も保たれているだろう。

しかし、なら、なぜ。

 

「なぜ、そんな日本から離れようとするのだ。なぜ、二度と会わないなど……」

「言っただろ? 僕は、愛情が欲しいんだよ」

 

警察手帳が仕舞われる。兄は、少し困ったように眉を傾げた。

けれど、それはおかしかった。

 

「兄さんは、十分愛されているだろう! 兄さんが戻ってきて、皆が喜んでいたのを見ていたはずだ! ジブンだって……!」

 

兄は、十分愛されている。それを彼が自覚していないだけだ。

夕神も、兄と仕事をするのを、あんなに喜んでいる。御剣検事局長も、兄をとても頼りにしているはずだ。希月も、兄をとても慕っているようだった。そして、何より自分が、兄のことを愛しているのに。

眉を下げ、悲しげな表情をしていた兄は、パッと、表情を、消した。

そう、消えた。

人形の電池が切れたみたいに。

顔から、感情が、消えた。温度のない、脳面のような顔。

 

「それだけじゃダメなんだ」

 

声が、硬い。尖った石のようだった。

ロボットのような、色もない声。

 

「一番じゃないと何も意味がない。二番や三番じゃダメだ。一番でも、同列がいたら最下位と同じ」

 

無表情の男が、轟三を見つめている。カメラで覗き込まれているような、無機質さ。

しかし、その奥に――強烈な、執着が、渦巻く。

息ができなかった。

誰だ、これは。

こんな、呪いのような、何かは。

ドッと汗が吹き出す。何も、口に出せなかった。

どれぐらい経ったか、固まっていたかのような兄の表情が、ふと、ほぐれる。

人の顔が、戻ってきていた。兄は柔らかく、うっすらと微笑む。

 

「まぁでも、それだけだったらまだ良かった」

「そ、れだけ、なら?」

「そう。一人、例外のみんなの中から、一生愛する人を決めて、丁寧に囲い込んで、僕を死ぬまで一番にさせてしまえばいいんだから」

「……」

 

軽い口調で、酷いエゴを口にしている。

けれど、恋愛とは、ある意味ではそういう側面も、あるかも知れない。独占欲と愛情は切っても切り離せないものだ。

だが、兄が、あの兄が、こんな思考をしていたなんて。

そしておそらく、まだ彼は、もっと醜いエゴを持っている。

 

「だから、一回やってみたんだ」

「……誰かを、愛してみたのか?」

「そう。彼は、愛していた人に裏切られてね。本当は自殺してしまうはずだったんだけど、救ってあげた。それで、彼がとっても誠実で一途なのは知っていたから、元々とても好きな人物でね。だから、彼にしようと思ったんだ」

 

兄は嬉しそうに両手を絡める。

 

「彼のいる牢屋に通ってね。徐々に信頼と愛情を勝ち取っていった。とっても楽しかったのを覚えてる。やっぱり、好きな人に好きになってもらうのは、嬉しいものだと思ったよ。元々、彼は天涯孤独の身のようなものだったし。難しいことじゃなかった。それで、ついに、彼の中で、僕が一番になる瞬間が訪れた」

 

嬉しげに語っていた兄が、急に顔を伏せた。長いまつ毛が見える。

 

「でも……ダメだったんだ」

「な、何が、ダメだったのだ」

「……一番になった瞬間、彼への興味が消えてしまった」

 

悲しげな声に、ゾッとする。

つまり、兄は、興味関心のある人を助け、愛して、愛情を向けさせて、一番にさせた途端――その人物が全く好きではなくなったのだ。

 

「もちろん、彼には他にも信頼できる人を作らせて、僕への愛情を勘違いだったっていう方向へ軌道修正したよ。僕も、死んだことになる前までは時折会いにいっていたし、彼も元気に過ごしていたよ」

「……それで、許されるのか」

「何が?」

「一度、心底愛したのに、それを、なかったことにされて……自分の知らぬ間に、愛情を、消されてしまって……」

 

この兄ならば、できるのだろう。自分に興味がない相手から、愛情を勝ち取り、一番にさせることぐらい。

だが、そうして一等愛したのに、それを、兄の都合でかき消される。それも、相手の意志とは関係なしに。

それは、とても、酷いことではないか。人にしていいことなのか。

苦々しい顔でそう告げる轟三に、兄は”あはは!”と笑った。

 

「うん。ほーんと、酷いよね」

「……わ、分かっていて、やったのか」

「最初は、興味を失うなんて思っていなかったからね。責任を持って、大事にしようと思ってた。けど、予想に反してそうなってしまった。でも、本当に酷いよねぇ。人の人生をオモチャみたいにさ」

 

笑っていた。兄が、――亡霊が。

 

「反省したよ。僕に愛される権利はないって。それに、僕も興味関心のある人々が少なくなるのは避けたかった。だから、それからは例外のみんなには適度な距離を保って接したよ。でも仲良くはなりたかったから、働きかけて、ある程度は親しくはなったけど」

 

それが、夕神や、希月、成歩堂たちだったのだろうか。

彼らは皆、大なり小なり兄へ好意を持っていた。そしてそれは、兄が、そうさせたこと。

けれど、それなら、兄の日本を出るという行動が、もっとおかしいではないか。

 

「それで、落ち着いたのだろう? なら、それでいいじゃないか。どうして今頃、日本を出るなんて」

「うん。僕も、この調子でいいだろうと思っていたんだ。適度な距離を保って、みんなと接する。仲良くする。人生それでいいって」

「なら、」

「けど……欲求って、無意識で出てくるだろう?」

 

無意識に、欲求が。それは、何を意味しているのか。

 

「七年前」

 

兄が手を後ろに組んだ。笑みが語る。

 

「どうして僕は死んだんだろう」

 

どうして?

 

「……そ、それは、政府側の潜入捜査員に襲われて……仕方なく、死んだことに……」

「そうだね。指を切られて、胸を刺されて、逃げ出した。このままでは殺されると思って、心音くんに指を託して。そうしたら、きっと実は生きていたと、見つけてもらえると思って」

「そう。そうだ。そして、希月くんは約束を守った。だから、兄さんは」

「怖いよね」

「え……」

「どうしてそこまで筋道が立てられたんだろうね。僕は」

「……」

 

それは、それは、兄が……天才だから。その場の事態から、最善を選び出して、いつか自分が見つけてもらえるように、したんじゃないのか。

 

「偶然だと思ってたんだ。裁判の途中まで。予定通り、見つけてもらおうと思っていた。けど、気づいた。こんな偶然は、ないんだ」

「な、何を言っているのだ。偶然だろう? けれど、それを兄さんが繋ぎ合わせて、」

「どうだろうね。葵くんと約束をしたのが、心音くんたちと椿を植えたのが、人の生まれ方について種の話をしたのが、偶然なのかな」

 

兄が早口で語る。笑みが平坦になる。皮の下、ロボットのような無機質さが透けて見える。

 

「全部、計算のうちだったんじゃないか? あの場で、指が切り落とされることも」

「そんなっ、そんなことは、偶然でできないだろう! なら、あの場に、心音くんがきたことも、計算していたというのか!」

 

兄の笑みが、消えた。冷たい目が、口が語る。

 

「知っていたんだ」

「……知っていた?」

「ロボット研究室に、希月心音がくる……。ストーリーでも、そうだった。まさか、本当に来るとは思っていなかったけれど」

「ストーリー? 何を、さっきから……」

「指が落ちた時、瞬いたよ。自分を見つけてもらう方法が。そしてその方法通りに行動し、七年経って、轟三として事件に関わり、法定に立った。けど、法廷三日目の時、ふと思ったんだ」

 

轟三の言葉に耳を貸さず、兄がぶつぶつと呟く。口が、ロボットが人に寄せているかのように、奇妙に動いていた。

しかし、次の瞬間、兄は、微笑んだ。嬉しげに。

 

「”みんなはきっと、本当の僕を知って、愛してくれる”って」

「……な、に?」

「僕は感情の希薄なサイコパス。だっけ、そうだね。そうだよ。裁判でそれは明らかになったよね。けど、みんなの反応はどうだったかな。みんな、それでも僕のことを好いていてくれたよね。それでも僕は僕だって。嬉しかったな。ほんと。だって、今までみんな、僕のことを慕ってくれていたけど、でもそれは、表面上の僕だろう? 本当の、酷い僕は知らなかったわけだ。そして、普通に知ったら失望するか、現状維持だ。でも、今回の騒動だったら? 僕は日本のために一人でずっと頑張ってきて、ついにその努力が実り、そして事件も解決する。そして番慶二は奇跡の生還を遂げるんだ」

 

ペラペラと早口で語られたそれは、それらを馬鹿にしているようだった。嘲るようだった。陳腐なストーリーを皮肉るような。

 

「……だ、だが、そんな、ことは……普通、できない。事件は、起こる事件は、兄さんも分からなかったはずだ。襲われるなんて、思っていなかっただろう? 死んだふりをしないといけないことが、起こるなんて。それを知らなきゃ、そんなことは、できないはず、」

 

あの事件には、さまざまな人々や組織が関わっていた。それを、兄が全て把握しているなど、できるわけがない。

偶然だ。不幸な偶然、そして、兄にとって、都合のいい、偶然。

兄の笑顔が固まる。そして、また動き出す。

 

「……少なくとも、何かが起こるだろうとは予想していた」

 

兄は、後ろで組んでいた手を解いた。

顔をペタペタと触る。そして……普通の人の、少し悲しそうな顔に変わった。

 

「色々と考えて、やってしまったな。と思ったよ。言い訳だけど、意図してやったわけじゃない。本当に、予想していなかった偶然によるところも多かったんだ。けど、道筋を引いて、最終的に選択したのは僕だ。道筋を引いていたと、選択したと気づいていなかったとはいえね」

「……そんなこと、普通の人間に、できるわけが、」

「あはは、何を言っているの。こう言ったらなんだけど、僕だよ」

 

潜入捜査官として働き、亡霊の名を被せられ、政府の闇を暴いた男。

馬鹿馬鹿しいと、嘘っぱちだと、否定できなかった。兄なら、やろうと思えば、きっと、できてしまう。

 

「全く、酷いよね。たくさんの人を悲しませてしまった。僕はね、例外のみんなには、笑っていてほしいし、幸せであってほしいんだ。愛情が欲しいという気持ちは、僕のエゴだから、抑えられる。そう思っていたんだけど……。でも、ダメだった。死んでしまって、悲しませて、辛い思いをさせて、トラウマを植え付けて、悩ませて……。最後には丸く収まったね。政府の闇も暴かれた。けど……それじゃあダメだろう?」

 

尋ねるように、首を傾げる。眉を下げた兄は、同意しか望んでいないのだろう。

けれど、肯定など、できなかった。

それは、轟三の信念でもあった。犯罪を犯したとしても、人は更生できる。一度犯した罪で、その人の全てが否定されてはならない。そういう思いで、警察官として働いていた。

しかし、その気持ちだけでは、なかった。

同意して仕舞えば、兄は、何の躊躇いもなく、去っていってしまうだろう。だから、肯定はできない。

 

「……してはいけないことをしたと、分かったなら、反省して、しないようにすればいい。意図してやったのではないのだ。兄さんは、」

 

兄さんは、更生できる。やり直せる。一緒に、やり直せばいい。

けれど、轟三の差し伸べようとしていた手を、慶二は容赦なく断ち切る。

 

「だから、ダメなんだよ」

「……」

「意図せずやってる。無意識だ。だから、制御ができない。いくら止めようと思っていても、知らずにやっているんじゃ対処のしようがない。手遅れになったところで気づいても、意味がない」

 

もう、彼の中で、決定しているのだ。

自分の欲が、自分で対処できないことを理解している。自分達の側にいることが、悪影響を与えると確信している。今後も、これと同じことが起こると確信している。だから、自分達から離れるしかないと、決めてしまっている。

体が、震える。

わかってしまう。終わりが、近い。全てが、終わる。

 

「だ、だが……」

 

異常なほどに愛情に飢えていて、それを求め続けている。それなのに、手に入れたら飽きてしまって、捨ててしまう。

興味関心を持つ例外に対して、幸せになって欲しいと思っている。けれど、その愛を無意識に求めてしまう。そうして、傷つける。

そうか。と思った。

兄は、轟三も、例外の一人だと言った。なら、なぜ、轟三から離れていったのか。日本に戻ってきても、轟三に会おうとしなかったのか。

轟三の中で、兄が一番になるのを避けたのだ。一番を得て、轟三に興味を失うかもしれないから、関心がなくなるかもしれないから、距離を空けた。

当時は、両親は兄にかかりきりで轟三は二の次だった。友人もいたが、兄は特別だった。兄が一番になる条件は、揃っていた。

だから、兄は離れた。そして、また、去ろうとしている。

 

「……いいのか、兄さんは、それで……、一人で、ずっと、生きて、いくのか……」

 

彼は、やはり微笑んだ。幸せそうな笑みだった。

 

「いいんだ。みんなが幸せである方が、嬉しい」

 

その言葉さえ、本当なのか、嘘なのか、わからなかった。

兄は、ゆっくりと背を向けた。垂れているベルトが揺れる。

 

「全部話したから、もう行くね」

 

優しい声だ。かつてと変わらない。けれど、もう、二度と聞けなくなる声。

足が進む。手がドアノブにかかる。扉が開く。

兄さん、と無意識に声が溢れた。扉の外に出た兄の動きが、止まる。

 

「もし」

 

顔を向けず、兄が言う。

 

「どこかで、僕を見つけたとしても、二度と、僕を呼ばないでね」

 

パタン、と、扉が閉まった。

 

 

 

足から力が抜ける。その場に倒れ込んだ。両手で床をついて、体を支える。身体中から、汗が吹き出していた。

行って、しまった。行かせて、しまった。

だが、それ以外、どうすることができたのか。

今だに、頭が混乱している。兄の言っていたこと全てが、きちんと理解できているか分からなかった。

全て、兄の妄想なんじゃないかとも、思った。罪悪感に駆られた、兄の空想、思い込み。

けれど、そうではないと、考えが帰結してしまう。精神を病むような人ではない。冷静さを、きっと死ぬ直前まで保てる人。そういう異常性は、多分、轟三は昔から、肌で感じ取っていた。

兄は、恐ろしい人だった。優しさに、愛しさに紛れて、自覚していなかった。でも、ずっと轟三は、兄が怖かった。

あの何を考えているのか分からない黒い目が、他人の意思を全て引きちぎって自分の道を進む姿が、振り向いてくれないあの背中が、恐ろしかった。

それでも、大好きだった。

本当は、引き留めたかった。行って欲しく、なかった。

あんなことを、言わないでほしかった。諦めないでほしかった。

やり直せる。一人では無理でも、一緒にいれば、共にいれば、きっと、違う道がある。

 

「……にい、さん」

 

けれど、待ってくれと口にできなかった。その手を掴めなかった。

恐ろしかった。あの人が、異常で、怪物のようなあの人が。

恐ろしかった、そんなあの人から、愛されなくなるのが。

あの手を掴んだら、きっと轟三は、戻れないだろう。兄を正常にするため、普通に生きていけるようにするため、尽くすだろう。彼は、家族だ。唯一の、血が繋がっていないとしても、兄弟なのだ。生まれた時から一緒にいた。愛されてきた。大好きだった。

だから兄は、轟三を引き離した。一番にさせないように。

轟三は、色々な人が好きだ。両親は当然愛しているし、同僚たちも大事に思っている。街の人たちも好きだ。半年前から担当になった夕神も、今では大切な戦友だ。大事なものは、多くあった。

俯いた視界に、手に握られたままのハンカチが目に入る。白い、変哲もないハンカチだった。

白。

白は、あの日の雪を、思い出す。

 

――ここに……お兄ちゃんとずっといたい。

 

子供の頃の、短慮なワガママだった。

雪が降る中、兄と二人きりで、遊具の中で身を寄せ合っていた。

あの時間が、心底、幸せだった。

 

――いいよ。

 

そう言ってくれた。

 

――ずっと一緒にいよう。

 

その言葉を、糧に生きてきた。

ずっと一緒になどいられなかった。二人とも凍えかけて、家に戻った。

けれど、兄が、留学を決めていた兄が、ずっと一緒にいようと言ってくれた。それだけで良かった。

それだけをずっと、宝物にして生きてきた。

 

そう。

そうだ。

あの時から、

もう、あの時から、あの、雪が降った夜から、

轟三の一番は、あの人だった。

 

「っ、に、兄さん!!」

 

腕に力をこめて、立ち上がった。転げるように扉に駆け寄って、扉を開く。

ずっと、兄が、一番だった。あの日、ずっと一緒にいようと抱きしめてくれた日から、ずっとずっとそうだった。

大好きだった。だから、兄が死んでしまうと思って、自分の過ちに気づいた。

兄が、幸せならいいと思った。自分の側にいなくても、兄の道を応援しようと思った。

愛していた。誰よりも。だから、諦めた。自分の側では、兄は幸せになれないと思ったから。

そして、その気持ちからずっと目を逸らし続けてきた。独占欲を、子供のような感情を自覚したくなかったから。

七年前、兄はいなくなった。だから、この気持ちは永遠に埋められるはずだった。白い雪の中、思い出と共に。

 

「いない……!」

 

すでに、兄はアパートを出ていた。靴も帽子もない。

玄関扉を開けて、そのまま飛び出した。鍵など、もうどうでもよかった。

階段を駆け降りて、周囲を見渡す。どこにもいない。まだ、それほど時間は経っていない。近くにいるはずだった。

周囲はアパートが並んでいる。だが、少し歩けば、大通りに出る。人に紛れるなら、そこだった。

あっているかは分からなかったが、走り出した。迷えば、もう会えない。そう、二度と。

そんなことは、もう、絶対に、許せなかった。

 

「どこだ、どこに……!」

 

全力で走って、息が切れる。肺が痛い。

大通りに出て、周囲を見渡す。大勢の人が歩いている。店や飲食店が並んでいる大通りだ。人々の往来も多い。

必死にあたりを見る。黒い帽子、黒いコート。いない、いない、人が人を隠している。

大通りの信号が、青に変わる。横断歩道前に固まっていた人々が、一斉に歩き出す。

その中で、黒い帽子が見えた。

咄嗟に走り出す。距離があった。全力で駆けて、大きく咳き込んだ。信号機が設置された電柱で体を支え、痛む喉で息を吸った。

 

「兄さん!!」

 

大声で叫んだ。喧騒よりも大きく、その耳に届くように。轟三の周囲にいた人々が、顔を向ける。

人々に紛れ、黒い帽子をつけた男は、その歩みを少し遅くした。大衆から取り残され、横断歩道の中頃で、一人足を止める。

黒いトレンチコートを着ていた。ベルトが揺れる。

あの人が、振り向いた。轟三を、見る。

 

同時に、黒い帽子が、吹き飛んだ。

ぐらりと兄の体が揺らぐ。白線に、赤い何かが飛び散る。

目の前の光景を理解する前に、破裂音が響いた。

 

 

 

 

遠くからの狙撃では、銃声は銃弾の後に聞こえてくる。

音よりも、銃弾の方が速度が速いからだ。

 

番慶二は、街中で狙撃された。場所は大通りの横断歩道。撃たれたのは番慶二のみ、他に被害者はゼロ。

彼を撃ったのは、日本政府とは無関係の”亡霊”を消し去りたい海外の犯罪組織であった。番慶二は潜入捜査官時代、様々な国に潜入し、多くの組織の重要な情報を入手してきた。日本政府がそれを”亡霊”と称し、国際的スパイの皮を被せた。犯罪組織は、長年、情報を持っている”亡霊”の排除を望んできた。それが、半年前の裁判で番慶二が亡霊であると判明し、彼は命を狙われていたのだった。

彼を襲った銃弾は、頭部に直撃した。左側の頭頂部。慶二は倒れ、意識不明の重体に陥った。

すぐに救急車が呼ばれ、まだ息のあった慶二は集中治療室に入った。そうして手術が行われ、かろうじて命を取り留めた。

しかし、それから六ヶ月間、目を覚さなかった。何度も生命活動が停止しかけた。だが、生き延びた。

 

そうして、襲撃から六ヶ月が経過し――慶二は目を覚ました。

だが、脳に重大なダメージを受けた慶二は、右腕と顔、首以外の全身が麻痺していた。そして、脳の損傷により、判断力・認知機能が著しく下がり、記憶障害が起こった。彼は、意味のある言葉を喋ることが出来ず、家族についても認知できなかった。そして、幼い子供のような行動を示した。

 

 

「兄さん、ここが今日からジブンたちの家だぞ!」

 

高い塀に囲まれた、木造建の温かみのある平家の一軒家。その前庭で、車に椅子に座った兄に、轟三は語りかける。

リビングと、寝室用の一室のみがある、小さな平屋建て。しかし敷地の面積は広く、庭もあり、リビングから行けるバルコニーもある。

平家はバリアフリー設計で、車椅子を動かしやすいように階段はなく、全てスロープになっている。段差もほとんどない。

車椅子には、慶二が座っていた。茶色髪で、黒い目をしている。はっきりとした目元は、今は半分ほど閉じていて、ぼうっと空を見上げていた。着せ替えのしやすい、パジャマのようなシンプルな服装をしている。手はだらんと垂れ下がって、右手だけは意味もなく少しだけ動いていた。

 

「うむ! とても暮らしやすそうだ」

 

一人で話すのは慣れていた。自宅では鉢の金魚や鯉に話しかけるのが日課であったし、慶二が寝たきりになってからは、轟三は病院に通って、ずっと語りかけていた。

この家は、轟三の貯金と、慶二のことを慕う人々のおかげて作れたものだ。銃弾によって脳を損傷した慶二は、目覚めても、おそらく障害が残るだろうと手術直後から言われていた。

兄が生きている。それが分かった後から、轟三は彼と過ごすと決めていた。なので、兄が過ごしやすい家を用意しなくては。と思ったのだ。体が不自由な人が住みやすい家を。

最初は一人で動いていたが、轟三の考えを知った人々が支援してくれて、こんなにも立派な家が出来上がった。

目を覚ました慶二は、轟三のことが分からなかった。だが、色々な人が兄のために協力してくれたと理解できたら、きっと喜んでくれるだろう。

慶二の乗った車椅子を押して、玄関前のスロープを登る。鍵を開けて、中に入った。

慶二は、この六ヶ月間で随分と軽くなった。体が動かせず、筋肉が減ってしまい、エネルギー補給も点滴などだったためだ。病院での慣らしで、すでに固形食は食べられるようになっている。美味しいものをたくさん食べて欲しかった。

一番広いリビングまでやってくる。床は木目で、温かみがある。暖房がついていて、部屋は暖かかった。壁は白を基調としていて、広々としていた。対面型のキッチンがあり、大きめのダイニングテーブルと椅子が四脚、壁際に長ソファが置かれている。大きな窓があり、そこからバルコニーに出られるようだった。

 

「バルコニーでバーベキューなんかはどうだろうか。みんなも呼んで、きっと楽しいぞ!」

 

窓の前に慶二を連れて行く。彼は、外には興味があるのか、ぼうっと窓の外を見ていた。

塀に囲まれていて、外の様子はわからないが、太陽の光が降り注いでいる。

車椅子の後ろから移動して、轟三は慶二の前まで移動した。膝をつく。空を向いていた視線が、目の前に現れた轟三へとゆるりと移る。

 

「いい家だと思わないか、兄さん」

 

そう言って轟三が笑いかける。すると、慶二は轟三の真似をするように笑みを浮かべた。ふにゃりと筋肉が弛緩している、眠たげな赤子のような笑み。赤子は、反射で相手に微笑む新生児微笑という反応があるそうだ。そういった部類のものなのだろうか、と轟三は思う。

けれど、兄の笑う顔を見るのは嬉しい。だから、理解されていなくても話しかける。だが、話しかけるのは、それだけが理由ではない。

兄の、人差し指が根本部分からなくなっている右手を握る。治療に邪魔な偽物の指は、当然もう取られてしまっている。手を握ると、兄は手遊びのように何度か握り返してくれた。同じように握り返す。

兄は脳機能障害と顔と首、右手以外の全身に麻痺が出ている。声は出せるが、意味のある言葉は喋れない。轟三のことも覚えていない。幼い赤子のような、浅い反応しか返せない。車椅子に乗っていても、一人で移動することもできない。

しかし、人は回復する生き物だ。リハビリすれば体は動くようになるし、脳機能も回復した事例がいくつもある。

轟三は、諦めてなどいなかった。いつか兄が戻ってくるまで、ずっと支え続けると誓っていた。

 

「兄さん、どんなに状態が重くても回復はするし、どんな罪を犯していても、人は変われるのだ」

 

固い正義の前では、どんな重い状態も、どんな罪も、乗り越えられる壁にすぎない。

そう信じている。それが轟三の信念であるから。その気持ちで、ずっと側にいる。

たとえ、兄が死ぬまで今と変わらなくとも、それは変わらない。

もし、兄が元に戻ったら、次は更生である。兄は、無意識に人に悪影響を与えてしまうと言っていた。自分では制御できないと。なら、轟三が止めてやればいいのだ。隣にいて、兄が悪いことをしようとしていたら止める。轟三に止められるか、ではない。止めるのだ。諦めてはならない。そうすると決めたのだから。

 

「兄さんが元に戻るまで、寂しくないようにとびきりの愛情も注ぐぞ! 大丈夫、兄さんが一番なのだ!」

 

そう言って彼の右手を揺らす。慶二は、ただポヤポヤと笑っている。

轟三にとって、兄は一番の存在だった。人の愛情に、順位をつけるのは轟三は好きではない。好意というのは、さまざまな種類があるし、形がある。一番なんて決める必要などない。

けれど、兄は一番だった。一番を、随分と以前から彼に取られていた。降り積もる雪のようだ、高く降り積もって、轟三は埋もれてしまっている。

兄がいない人生は、もう懲り懲りだった。

轟三は、兄がいなくとも生きていける。だが、彼とその他全てを天秤に乗せるなら、兄を取る。

手遅れだったのだ。

 

「あの日。雪の中……ジブンを迎えに来てくれた時から、ジブンの一番は兄さんだったよ」

 

あの夜の思い出が、他のどんな記憶よりも輝いている。

笑みが薄まった轟三に、慶二が首を傾げる。握った手が、柔く握り返される。

 

「う、ぁ……」

 

吐息のような声。そして、何が面白かったのか、ふにゃふにゃとした笑みが溢れる。緩い口から涎が垂れそうだった。

兄が生きていて、良かった。と思った。

あの時、轟三が呼び止めていなければ、兄は撃たれなかっただろうか。それとも、どこか別の場所で殺されていただろうか。

しかし、兄はこうして生きている。様子は随分と変わってしまったが、彼は紛れもなく番慶二なのだ。

今この時も、愛情を求め続けているのだろうか。愛を渇望しているのだろうか。

それなら、溢れて嫌になるぐらい、愛情を注ごう。あなたが一番だと、愛していると伝えよう。ずっとずっと側にいよう。

けれど、兄がいつの日か、元に戻ったら。

そうしたら、慶二を一番にしてしまった轟三は、彼の興味から外れてしまうのだろう。どうしようもなく、飽きっぽい兄。興味を失わないように、ずっと遠ざけていた弟が、結局は兄を一番にしてしまった。

飽きられるのは、怖い。人として当然だ。愛している人から、ある日突然、興味を失われ、離れられる。怖くないわけがない。

兄は、別の人にしたように、この感情が勘違いなのだと思うように誘導してくるのだろうか。けれど、無理だろう。兄から話を聞く前なら、誘導に引っかかっていたかもしれない。けれど、聞いてしまった後では、どうにもできない。

それに、そういう酷いところも含めて、愛しているのだ。

兄の根本は、善人ではないのかもしれない。兄は、多くの良いことをしてきた。そうして、悪いこともしてきた。酷い人だ。人の気持ちを理解して、それを踏まえて利用する人。しかし、愛する人の幸せを願える人だ。

幼い轟三を甘く煮詰めるように愛して、ずっと一緒にいようと抱きしめてくれて、留学という口実で消えて、轟三の大切にしていた盾を何も言わずに奪っていって、たくさんの人に慕われて、そうして多くの人を無意識に苦しめて、全て捨て去って消えようとする。

そんな兄を、全てひっくるめて、愛している。

 

だから、いい。兄さんがジブンに興味がなくなっても。愛してくれなくなっても。

相手の幸せを願う。それは紛れもない愛情だ。

兄さんが愛を欲しながら、日本から離れようとしたように。ジブンもあなたの幸せを願おう。

 

「よし! これから忙しくなるぞ! 兄さんの体に負担をかけないように、いいベッドを買ったのだ! 運び込むぞ!」

 

バッと立ち上がり、拳を上げた。

これから兄との共同生活である。色々と準備をしなければならないことが沢山あった。

轟三が気合を入れると、慶二は右手の指をパタパタと動かしながら笑っていた。

 

 

 

 

成歩堂side

 

 

成歩堂弁護士事務所の面子――成歩堂と心音、王泥喜は、一つの平家へ訪れていた。

随分高い塀のある、静かな住宅街にある一軒家。周囲に高い建物はなく、静かで治安が良さそうだ。

この住所は、一部の関係者にしか知らされていない。理由は防犯のためだ。

成歩堂たちが知ったのは、成歩堂は御剣から、心音は夕神から伝えられたためだった。

王泥喜がなぜいるかというと、成歩堂たちがその家に行く。となった時、番刑事にアポイントを取ったのだが、ぜひ王泥喜も来てほしい。という轟三が口にしたためだった。王泥喜は困惑していたが、結局のところ共に行くことにしたようだった。

番刑事が、慶二と共に暮らしている。というのは成歩堂も知っていた。番刑事が慶二の介護をしながら共に暮らそうとしている、という話を聞いて、成歩堂もほんの僅かだが援助をしたためだ。本当に僅かだったのだが、番刑事からはいたく感謝された。

 

「かなり厳重ですね……」

「まあ、これぐらいはね」

 

王泥喜の言葉に、目の前の門を眺めながら返す。門と言っても、金属製の胸元ほどまでの柵だ。だが、外からは絶対に開かないように機械で開閉される仕組みのようだった。右手に持っていた手土産を左手に移して、門の右側の塀にあったチャイムを押す。カメラとスピーカーもついていた。

 

「慶二さんに、会えるんですね……」

 

心音は両手を握り、緊張した面持ちだった。

成歩堂たちが見たのは、顔の様子が分からないほどに頭部に包帯を巻き、管に繋がれた慶二の姿のみだ。意識がある姿を見るのは、これが初めてになる。しかし、現在の慶二の状況はすでに聞いていた。脳障害により、記憶もなく、会話もきちんとできないという。

チャイムのスピーカー部分から、声が聞こえてくる。

 

『おお、君たちか! 待っていたぞ! 今、門を開けよう!』

 

チャイムについているカメラから、こちらを見たのだろう。金属の扉が動き出す。

扉が開いた先、スロープ先の玄関の扉が開く。そこから、私服姿の番刑事が手を振っていた。

 

「あれ、夕神さん!」

「ああ……オメェさんたちも来たのか」

 

玄関に上がった先、心音が驚きに声を上げる。番刑事の背後から、夕神検事が歩いてきていた。

玄関先で顔を合わせる。夕神検事は私服ではなく、いつもの仕事着だ。番刑事が笑顔で話し始める。

 

「迅くんも兄さんに会いにきてくれたのだよ!」

「まァな。俺はこれから仕事だからなァ。もう帰るが」

「また会いに来てくれたまえ!」

「オッサンも何か人手が欲しけりゃすぐ呼べよ」

「うむ! いつも感謝しているぞ!」

「気にすんな」

 

どうやら、会話の内容からして、夕神検事は何度かここを訪れているらしい。

成歩堂たちと入れ替わるようにして、玄関で靴を履き、そのまま外へ出ていく。ヒラヒラと後ろ手で手を振られた。

後ろ姿を見つめていた心音が、心配げに呟く。

 

「夕神さん、目の下のクマが濃くなったいたような……。大丈夫かな……」

「……そうだね」

 

半年ほど前までは、法曹界は誰も彼もが忙しかった。

だが、今は法改正も進み、落ち着きを取り戻している。

成歩堂は思うところはあったが、相槌だけを打った。

 

夕神検事が去るのを見送った後。番刑事に案内をされて、リビングまでやってくる。

木材が多く使われていて、落ち着く雰囲気の家だった。

出されたスリッパの足音をさせながら、三人はリビングの扉をスライドさせる番刑事の後ろをつく。

 

「兄さん! 成歩堂弁護士事務所のみんなが来てくれたぞ!」

 

開かれた先、番刑事は視線を右へ送った。中へ入っていったので、その後を追う。

左側にキッチンがあり、右側にダイニングテーブルと椅子。側面に大きめの棚が置かれており、そこの上に金魚と鯉がそれぞれ入った鉢がある。奥には、大きめのテレビとソファが置かれていた。ソファの近くには、車椅子が置かれている。

そして、ソファに、一人の男が座っていた。茶色髪で、黒々とした目をしている。暖かそうな黒いセータと黒いズボンを着ていて、脱力しているようにソファに体を預けている。そして、何も写っていない黒いテレビを、ぼうっと見つめていた。

番刑事が、その男に歩み寄る。顔は、番慶二のものだった。ただ、目の色が違う。それから、表情も。

 

「兄さん。みんなが来てくれたぞ。挨拶をしなければ!」

 

男の前に屈んで、番刑事がそう伝える。男は、小さく首を傾げた。

番刑事に手招きをされ、成歩堂たちは男の近くに近寄る。

 

「ほら、”こんにちは”だぞ!」

 

小さな子供にするように、男へ促す。彼は、ゆるりと首を上げた。黒い瞳に、成歩堂たちが映る。

半目の瞳が、一度閉じられる。そして、溶けるように笑みが浮かんだ。

 

「う、ぅ」

 

まるでそれは、何も知らない子供のようだった。おおよそ、大人がする顔ではなく、言って仕舞えば、知性が感じられなかった。

なんと、返せばいいのだろう。挨拶を、しているのだろうか。

知ってはいるはずだったが、こうして目の当たりにすると、成歩堂の胸の中には、なんとも言えない感情が渦巻いた。

言葉を失っていた成歩堂の横で、心音が喉をひくつかせた。

 

「け、慶二さん……!」

 

涙に濡れた声でそう言って、心音がソファに近づく。番刑事は横へずれて、心音に場所を譲った。

 

「慶二さん、うぅ、生きてて、良かった……!」

 

泣きながら男の前の床に座って、そう伝える。男は、笑みを浮かべたまま、首を捻った。

そうして、人差し指のない右手を動かして、心音の頬を突くように触った。涙に興味が出たのか、溢れるそれを頬の上でいじっている。まるで、言葉も喋れない、まだなにも世界を知らない赤子のような仕草だった。

心音はそんな男の手を、上から包んだ。

 

「わたし、」

 

しゃくり上げながら、心音が必死に言う。

 

「わたしが、慶二さんのお母さんになりまず!!」

「兄さんには本当の母親がいるので間に合っているぞ!」

 

心音の物凄い宣言に、間髪入れずに隣で番刑事が告げた。

すると、心音が「うえ~ん」と漫画のように泣いてしまった。否定されて悲しんでいると言うよりも、感情が爆発して泣いているようだった。

 

「だが兄さんも、希月くんがきてくれればとても喜ぶだろうから、たくさん遊びに来てくれたまえ!」

 

番刑事がハキハキとそう告げる。こんなに泣いている女の子がいるのに、なんかすごいな。と成歩堂は思った。

心音は涙が止まらないのか、泣き続けながらどうに口を開く。

 

「この家の近くに住みまず~!」

「そこまでしなくていいぞ! 普通に遊びに来てくれたまえ!」

 

うえ~ん。と心音が漫画のように再び泣き始める。

番刑事と心音の前にいる男は、首を傾げて不思議そうに心音を見ていた。

 

「……番刑事と希月さん、相性悪いんですかね」

「……どうだろうね」

 

そんな話を二人でした後、一旦、心音が落ち着くまで待たせてもらった。

番刑事は「兄さんに会った人が取り乱すのは慣れているから、大丈夫だぞ!」と元気に告げた。それもそれで、なんだかな。と成歩堂は思った。

心音はダイニングテーブルの椅子に座っていた。机には、番刑事が入れてくれたホットミルクが置かれている。

 

「本当に、すみません……」

「いいのだ! あれほど想われて、兄さんも嬉しいはずだ」

「うぅ……っ」

「番刑事、これ以上ココネちゃんを泣かせないでください」

「ぬっ」

 

成歩堂の注意に、番刑事の肩が落ちる。両手の人差し指をツンツンと突き出してしまった。

 

「そういうつもりではなかったのだが……」

「まあ、それは分かってますけど」

 

反省する姿を見ながら、本当に慶二が変装していた番刑事のままだな。と思う。

そんな成歩堂の隣にいた王泥喜が、番刑事に話しかける。

 

「あの、本当に大丈夫だったんですか? 俺まで上がらせてもらうのって……」

 

どこか居心地が悪そうにしている王泥喜に、番刑事が胸を張る。

 

「何を言っているのかね! 兄さんも喜ぶ、ぜひ王泥喜くんもたくさん遊びに来てくれたまえ!」

「いや、俺は慶二さんとはそんなに関わりなくて……」

 

王泥喜の言う通りだ。王泥喜は慶二が死んだとされる前からの交流はない。一年前の裁判で初対面だった。

だが、番刑事は首を横に振った。

 

「兄さんは君のことが好きだと言っていたぞ! 兄さんがジブンに変装していた時も、関わりがあったのだろう? きっとそこで気に入ったのだよ!」

「え、ああ、まあ、関わりはありましたけど……。俺、慶二さんに気に入られていたんですか?」

「そうだぞ! なので是非会いきにてくれたまえ! ジブンも、ジブンに変装していた兄さんの様子を知りたいしな!」

「はあ……、わかりました。じゃあ、時間があったらで良ければ」

「うむ。楽しみにしているぞ!」

 

困惑しつつも頷いた王泥喜に、番刑事が歯を見せて笑う。

 

「変装していた慶二さんの様子と言っても、番刑事そのままなんですけど……」

「はは……。まあ、その様子をそのまま教えてあげればいいんじゃないかな」

 

王泥喜にコソコソと呟かれ、成歩堂はそう返した。

横目でソファに座ったままのセーターを着た男を見る。ぼんやりと、窓の外を見ているようだった。

 

「……あの、どうして、あの顔なんですか? 本当の顔は、違いますよね」

「む? ああ、兄さんの顔か。うむ、少々管理は大変だが……兄さんはあの顔を気に入っていたからな! できるだけ兄さんの意思を尊重したいのだ」

 

番刑事が二本指を敬礼のように額に向けて、ポーズを決め「これもまたジャスティス!」と決め台詞を告げた。

気に入っていた――確かに、法廷でそのようなことを慶二は口にしていた。

 

「目はコンタクトレンズを入れる必要があるから、危ないから入れていないぞ!」

 

目の色だけ茶色ではなく、黒い理由はそれらしい。確かに、目に直接何かを出し入れするのは危険だ。必要がないならしないほうがいい。

 

「番刑事が一人で彼の世話を?」

「いや、ジブンも仕事があるからね。母や父に来てもらったりしているのだ。だが、できるだけジブンでやるようにしている」

「……大変じゃないですか?」

「全く大変ではない! というと、嘘になる。だが、兄さんの世話ができるのは嬉しい」

 

そう言って、番刑事は優しげに笑った。慶二が変装していた番刑事の時には、見たことのない表情だった。

成歩堂はふと、忘れていた手土産の存在を思い出した。提げたままだった紙袋から手土産を取り出す。

 

「これ良かったらどうぞ。つまらないものですけど」

「む! いいのかい? 来てくれるだけで有難いと言うのに……。そうだ! これから昼食を作ろうと思っていたのだが、君たちも一緒にどうだろうか!」

「え、いやいや。流石に申し訳ないですよ」

「遠慮しないでくれたまえ! 兄さんも、皆と一緒に食べたほうが嬉しいだろうからね!」

 

成歩堂はこの後の予定を考える。――特に何もなかった。

心音も、目が腫れていて、もう少しゆっくりさせてもらえるなら、その方がいいような気がした。

 

「じゃあ、せっかくなので……。王泥喜くんもそれでいいかい?」

「あ、はい。えっと、じゃあ俺、何か手伝いますよ」

「おお、ありがとう! では、キッチンに来てくれたまえ。グラタンを作ろうと思っているのだ!」

「わたしも、何か手伝います!」

「希月さんは休んでなよ……」

 

目を晴らした心音が椅子から立ち上がるが、王泥喜に嗜められている。

番刑事が、成歩堂の方へ向いて口を開く。

 

「せっかくだ、君は兄さんと話していてくれたまえ!」

「え」

「兄さんと一緒に、好きに家をまわっていいぞ!」

「え」

 

そう言って番刑事は、ソファへ駆け寄って、男に声を掛ける。

そして慣れた様子で、彼を抱えて車椅子に乗せた。成歩堂を手招く。

誘われるがまま、番刑事の元へ近づいていく。車椅子に乗った、男の元へ。

 

「では、よろしく頼んだぞ!」

「……は、はい」

 

軽く車椅子の動かし方をレクチャーされ、番刑事は王泥喜たちの方へ行ってしまった。

王泥喜にはキッチンの道具を渡し、心音にはミルクのおかわりを渡している。

置いて行かれてしまった。

成歩堂は、そっと車椅子に座った男を覗き込んだ。男は、どこを見ているか分からない目で、ぼうっと明後日の方向を眺めている。

 

「ひ、久しぶりですね」

「……」

「えっと、今日は寒いですよね。雪が降るらしいですよ」

「……」

「あー……ど、どこか行きたいところ、あります?」

「……」

 

話すって、どうすればいいんだ。これは。

後ろから覗き込むようにして、話しかけてみる。だが、全て無視されていた。視線も向かないし、反応も返ってこない。

成歩堂に、全く興味がないようだった。心音が話しかけた時は笑みを見せていたのに、それすらもない。

傷つくわけではなかったが、どうすればいいのかが分からない。良いやり方があるのかもしれないが、成歩堂にそのような経験やスキルはなかった。

その時、男の首が少し動いた。角度が傾いただけだったが、視線の先が確かに変わった。

視線の先を追ってみると、そこには窓があった。高い塀が見える。

 

「……外が見たいんですか?」

「……」

「えっと……動かしますよ。車椅子」

 

一応、声をかけ、車椅子をゆっくりと動かしてみる。特に、反応はない。

この家は、車椅子が自由に動かせるように家具同士の幅が広かった。そのため、問題なく窓の近くへたどり着けた。

これで正解なのか分からなかったが、男を見てみると、その視線の先はしっかり窓の外へ向かっていた。どうやら間違いではなかったようだ。

すると、右手がゆるりと動いた。腕が伸びる。窓の方だ。窓のガラスにぶつかって、コツンと音を立てた。

 

「バルコニーに出たいんですか?」

「……あ、ぅ」

 

成歩堂の方を見ることはなく、コツコツとガラスを触っていた。

どうしようかと迷い、番刑事に聞いてみることにした。

 

「あの、外に出たいみたいなんですけど、連れてっても大丈夫ですか?」

「ん? ああ、大丈夫だぞ! 兄さんはバルコニーが好きなのだ」

 

キッチン越しに返答をした番刑事に、隣にいたエプロン姿の王泥喜が尋ねる。

 

「これ、切り方合ってますか?」

「うむ。いい感じだ!」

 

番刑事は許可を出すと、また調理に戻った。

許可をもらったので、窓の鍵を外す。窓ガラスは、幅が厚く、重かった。窓を開けると、冷たい風が肌に当たった。寒い。

同じく風に当たったであろう男は、しかし特に何も反応していなかった。まるで人形のようだ。

車椅子が通れるぐらいに窓ガラスを開け、車椅子を押す。バリアフリーが行き届いているらしく、段差は全くなかった。

バルコニーは茶色の板が張られていて、屋根はない。椅子が一つ置かれていた。見える景色は、芝が敷かれた庭と、高い塀。そして鈍色の空だ。

ずっと開けっぱなしだと室内が冷えてしまう。窓を閉めて、車椅子に座った男を見る。

彼はぼんやりと空を見上げていた。顔の筋肉が弛緩している。容貌は慶二なのに、慶二の顔では、決してない。

知性を失った顔。記憶も、優れた頭脳も慶二は失った。体も、服の上からでも細くなったのが分かる。顔は借り物で、言葉もない。

彼は生きている。

だが、番慶二は、消えてしまった。

 

彼の顔に、白い何かが落ちた。空を見上げると、雪が降り始めていた。

すっかり冬だ。去年の冬に、裁判があった。半年ほど、成歩堂は馬車馬のように働いていた。

ようやく仕事が落ち着く、となった矢先だった。慶二が撃たれたと聞いたのは。

詳細は、番刑事から直接聞いた。番刑事が保護されていたアパートを整理した後、大通りで、番刑事が彼を呼び止めたところで、射撃されたという。

 

「……あなたは、本当にすごい刑事でしたね」

 

車椅子の彼には、言っても意味がないので、空を見上げながら呟いた。

口にすると、言いたいことは沢山あった。一度切った口火は、止まらなかった。

 

「裁判が終わってから半年間、僕も色々駆け回りましたが、あなたがやってきたことが、常人には到底不可能なことだと理解できました。裁判に関しても、全てあなたの思い通りでしたね。最後、ボクに見つかるつもりはなかったみたいですけど、でもミスをしたのはそれだけだ。あれだけのことを実行に移して、完璧に成し遂げてしまう技術と力のある人は、あなた以外にはいないでしょうね。あなたは、信じられない能力を持った天才だと、ボクは思います」

 

素直な評価だった。成歩堂は、番慶二を――やはり、完璧だと思っていた。

裁判後、彼は自身のことを完璧ではないと言った。だが、やはり、考えれば考えるほど、彼のしてきたことを思い返すほど、彼のメモリに入っていた情報を思えば思うほど、彼は、非の打ち所のない人物に思えた。

慶二は、裁判中に一つミスをした。彼は、成歩堂に”見つかった”。当初、あれは彼のミスだと思っていなかった。成歩堂が自身の力で慶二を見つけ出した。そう思っていた。だが、無欠の彼ならば、本当は、成歩堂からも完全に逃げ切れていたのではないか。

慶二を完全無欠だと思っていた。それは、彼がいなくなる前からだ。だから、彼が七年前に死んだことを恨み、憎んでいた。

結局、彼は死んでいなかったけれど。

彼は大きなミスを二度犯した。七年前に逃げるしかなかったことと、裁判の最後に成歩堂に見つかったこと。

だが、成歩堂は、自身の慶二への評価を、あながち間違っていないと、今も考えていた。それらのミスがあろうとも、それを補うほどに、そのミスが奇妙に思えるほどに、彼は一人で何もかもを成し遂げていた。

彼は、完璧な人間だった。

 

「だからこそ――なぜ、あなたは今、こうしているんですか?」

 

答えなどない。その人物は、脳の損傷と共に消えてしまったのだから。

それでも、尋ねずにはいられなかった。

 

「あなたほどの人ならば、分かっていたんじゃないですか? 法廷で、写野に変装したあなたは『亡霊は、各国の組織に命を狙われている』と怯えたフリをしていました。それを知っていたのに、その顔のまま表に出て、横断歩道の真ん中で足を止めたりするでしょうか。あなたは、ハメられてそうなったとしても、亡霊です。生きていることが分かってしまった今、そんな危険なことを、あなたがするでしょうか。その行動に至った理由は、いくらでもあると思います。法廷からもう半年が経っていたし、帽子を被っていたから、油断していた。呼び止められて、咄嗟に足を止めてしまった。……でも、あなたは完璧な天才だった。この七年間、自らの計画を遂行するため活動し、成し遂げた。日本を変えた。そんなあなたが、どうしてこんなことになったのか。……ほとんど体が麻痺して、言葉も扱えず、知能も幼児ほどに下がってしまった」

 

見上げていた成歩堂の頬に、雪がついた。肌の温度で溶ける。煩わしく、指で拭った。

成歩堂は、冷たい空気を吸って、深く息を吐いた。

こんな言葉は、意味がない。

 

「……なんて、今のあなたに言っても仕方がないですね。すみません」

 

視界には、空はもう写っていなった。バルコニーの床板が見える。前を向いた。

 

「ただ……海、行きたかったですね」

 

 

 

 

「行こうよ。海」

 

声。

声、が。

 

心臓を、鷲掴みにされたような感覚だった。

体が凍る。指先が急速に冷える。

視界を、ずらす。車椅子に座った、男へと。

 

「……慶二、さん」

 

男は、笑みを浮かべていた。七年前と、何も変わらない、笑み。

柔らかで、安心感を与える、柔和な笑み。知性と包容力を感じる面持ち。

ただ違うのは、その目の色が、底が見えないぐらい、暗い色をしているところだけ。

喉が震えた。叫び出しそうだった。

慶二が、右手を動かす。自身の顔の前に持ってきて、握った。そして、人差し指の根本が動く。

見えない人差し指で、シーっと、慶二はジェスチャーした。

 

「なぜ……どう、して……」

 

慶二は、頭を狙撃された。脳は損傷して、甚大なダメージを受けた。記憶もなくし、知能も低下した。そう、聞いていた。

笑みをそのままに、慶二が口を開いた。

 

「時々、正気に戻るんだ。でも、今までは意識だけで、体の自由は効かなくて。初めてだよ、こうしてちゃんと喋れたのは」

「……そんな、ことが」

「これは、受け売りだけど……”どんなに状態が重くても回復はする”んだよ。ナルホドくん」

 

だとしても、そう、だとしても。

あり得ない。とは言い返せなかった。成歩堂は、病気に詳しいわけではないし、脳に関しては全くの無知だ。

それでも、これは、普通の人間に、起こることなのか。

目の前の男が。車椅子に座り、顔と右手以外の自由が効かない男が――どうしようもない、怪物に、見える。

 

「あなたは、”何”なんですか」

 

そう口にした瞬間――ジャラリと、鎖の音がした。

世界が黒く染まる。鎖が生える。南京錠が、かけられる。

慶二の胸のあたりに、一つ、南京錠があった。サイコ・ロックだ。

他人の嘘が赤い南京錠として見える。だが、見えたサイコ・ロックは――禍々しいほどに、黒い、南京錠だった。

慶二が笑う。少し悪戯っぽい、無邪気な笑みだった。

彼は、”知りたい?”と囁いた。右手が、口元から動く、その手が、胸に下がったサイコ・ロックのあたりを、撫でるように触れた。

実態のない南京錠を、慶二の手がなぞる。あり得ない。南京錠は、成歩堂の持っている勾玉がなければ、見えない。成歩堂の目から南京錠が撫ぜるように見えるのは、ただの、偶然だ。

慶二の、口が動く。少し気やすい、友人にかけるような声色が、聞こえる。

 

「僕を見つけてくれた君になら、教えてあげる」

 

漆黒のサイコ・ロックの輪郭が、慶二が触れた部分から、ぶれていく。

サイコ・ロックと同じ色をした瞳が、成歩堂へ問うていた。

知りたいのか、そうでないのか。

 

額から、汗が滲む。息が、細くなる。

 

知りたい。

けれど、それを、知ってしまえば。

おそらく――ボクは、戻れなくなる。

 

見つめられる。何もかもを、飲み込むような暗闇に。

成歩堂は、口を――

 

 

 

 

「お昼がそろそろ出来るぞーー!」

 

窓ガラス越し、声が聞こえてきた。厚いガラスを抜けて、耳に入ってきた。

視線がそちらへと向く。キッチンから、番刑事が笑顔で手を振っていた。

呆然とそれを眺めた後、ハッとして慶二を見た。

そこには、だらんと右手を膝の上に置いて、窓の方を眺めている姿があった。

 

「慶二さん……」

 

顔を近づけて、様子を伺う。体が弛緩している。右手を触ってみた。少しだけ、指が動く。だが、それだけだった。

目線はぼうっとしていて、意志を感じなかった。黒い瞳は、映り込んでくる成歩堂をガラス玉のように映すだけだ。

 

「慶二さん、まだ、ボクは、答えてませんよ」

 

手を握る。視線が、成歩堂へ向いた。しかし、慶二は不思議そうに首をゆらゆらと左右に揺らすだけだった。

慶二は脳を損傷した。それは、紛れもない事実だ。なら、さっき見たあれは、成歩堂の幻覚だろうか。

けれど、慶二の手を掴む自身の手の冷たさが、そうではないと訴えてくる。

 

「ぁ、う……」

 

慶二が声を出すが、意味のある言葉ではなかった。少し笑うような仕草を見せる。

ああ、つまりは、時間切れというやつか。

迷ってはいけなかった。知るにしろ、知らないにしろ。

再び知能を失った慶二は、何も知らぬ幼児のような顔をしている。一瞬現れたあの慶二が、成歩堂の幻覚でなければ、また、現れるのだろうか。

慶二は、時折、正気戻ると言っていた。だが、体を動かすことはできない、と。喋れるのは今回が、初めてだったと。

幼児のようにしか動けず、表現できない身体で、中身は変わらぬままで、この世界に住んでいる。この、完璧な天才が。

窓ガラスの向こうで、王泥喜と番刑事が料理をしている。心音が人数分揃うように、椅子を持ってきていた。

 

「……中に入りましょうか」

 

成歩堂は、窓を開けた。中の暖かな空気が、外へ溢れていく。冷えた手に暖かさを感じる。

風が吹いて、舞っていた雪が、室内へ入って行った。

車椅子を方向転換させ、バルコニーから、中へと進ませる。

慶二の茶色い後頭部を見ながら、成歩堂は、尋ねた。

 

「あなたは今、幸せなんですか」

 

こんなになって、一人で生活もできなくなって、意思疎通も、ろくにできなくなって。

慶二の首が動いた、成歩堂の方を向こうとしているように見えた。思わず、その顔を覗き込む。

半分閉じたような目が、成歩堂を見つめていた。

そうして、その顔が、崩れる。

 

 

蕩けるような、爛れるような、無垢で、飾りのない――花のような笑みを、彼は咲かせていた。

 

 




読んでくださってありがとうございました。
X(Twitter)でイラストとか本の情報とか発信してます。
興味のある方はプロフィールからどうぞ
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。