藤原拓海とのガムテープデスマッチが行われる夜、庄司慎吾は絶対に負けられない立場に立たされたまま、それでも自信満々に秋名道路に現れた。
昼間に、妙義ナイトキッズの緊急会合が招集された。慎吾およびその一派の狼藉がついに武内樹の事故に端を発する鈴木仁志のカチコミという形で、庄司派ではない構成員にも甚大な被害を生んでおり、チーム一同その責任からは逃れられない、と主将の中里毅は切り出した。毅としては、赤城レッドサンズとの交流戦も控えるこの時期にこそ、チーム内の風紀を引き締め直したいという切実な意図があった。
しかし慎吾は『秋名のハチロク』に負けた毅の走り屋としての実力を疑問視し、中里毅は主将の器にあらず、と反論。招集された構成員のうち頭に包帯を巻いたり腕を三角巾で吊った者達から恨めしげに睨まれながらも、庄司派の構成員が賛同の声を上げ、慎吾は『秋名のハチロク』撃破の暁には自らが妙義ナイトキッズの主将を襲名し、中里毅の妙義ナイトキッズからの破門及び妙義山からの追放を高らかに宣言した。
「精々指咥えて見てるんだな。時代遅れのAE86は解体屋のスクラップにでもして、お前は一生妙義山でクルマに乗れねえようにしてやるぜ」
「ほざきやがれ。だがな、お前が思うほどあのハチロクはヤワじゃないぞ。やり合ったらわかるはずだ」
「吐かせ、この腰抜け」
同じく前夜、前橋市内の比較的裕福な住人が暮らすエリアの一角に、とある開業医の家庭があった。表札には『高橋』と記され、ガレージにはこの家の主が所有するメルセデス・ベンツ190E、長男のマツダ・サバンナRX-7、そして次男のマツダ・アンフィニRX-7が並ぶ。
長男・高橋涼介の書斎の戸を、次男・高橋啓介が叩く。中から返事があったので、啓介は涼介の書斎に入る。啓介は群馬県内で噂になっている『秋名のハチロク』対妙義ナイトキッズ・庄司慎吾のガムテープデスマッチについて聞いているか、涼介に尋ねる。啓介としては、同じ駆動方式の愛機に乗る者として、このような卑怯な手段で『秋名のハチロク』が負かされようとしていることが許せず、やめさせるべきだと進言する。
涼介は机上のコンピュータから啓介に向き直ると、公道で誰がどんなやり方で対戦しようと、当人同士の問題であり、誰にも止める権利はないと啓介を諭す。涼介は更に続けて、『秋名のハチロク』がこの程度の小細工で潰れるような走り屋であれば、自分がわざわざ撃墜を狙うほどの価値などない、と付け加える。啓介は何も言えなかった。こういう時の涼介には何か考えがあるのだと、啓介は今までの経験上知っていた。
決戦当日、妙義ナイトキッズ構成員に対する暴行の罰で門限を夜十時に早められた鈴木仁志は、馴染みのガソリンスタンドでサニーへの給油を済ませ、藤原拓海拓海への仁志なりの激励を伝えると、日没までのわずかな時間を使い、昼過ぎから文太に教わったように、右手でステアリング、左手でシフトレバーを握ったまま、秋名道路を飛ばし始める。未明にあわやメカニック生命を犠牲にする危機を乗り越え、さらに文太との特訓もあり、イレギュラーな事態さえ起きなければ最小限の舵角で秋名道路を走れるまでに上達していた。
(あのハチロクと比べてオーバー傾向だな…コイツのセッティングにもそろそろテコ入れが必要だ)
秋名道路を登りきった仁志は、そのままサイドブレーキを引き、サニーをくるりと反転させる。タイヤがキュッと短く鳴き、上毛三山に木霊する。
(門限厳しくなっちまったからなぁ…)
仁志は胸の内でぼやくが、身から出た錆とはまさにこのこと。何度か片手ステアリングで走らせて掴みかけていた、速さにつながりそうな感触も、今日はこれ以上確かめる時間がない。
(まぁ、拓海は負けねぇはずだ。俺ですら一日でここまで出来たんだ。アイツはもっと早く何かを掴むだろうさ)
夜十時。俺が負けたら地べたに手を着いて詫びてやってもいい、と宣言し、慎吾は赤い愛機に乗り込む。拓海は何も言わずにトレノに乗り込み、二台がスタートラインに着く。それぞれの陣営の仲間が慎吾と拓海の右手をガムテープでステアリングに縛り付ける。手を縛る段階から気が進まない様子であった池谷浩一郎と健二ら、秋名スピードスターズ陣営に対し、妙義ナイトキッズ・庄司派の面々はニヤニヤと野蛮な笑みを浮かべ、スタートラインを見つめる。無情にもカウントダウンが始まり、ゼロカウントと同時に二台は発進していった。
下りの最初のカーブに拓海はいつものように飛び込む。それを見た慎吾は、元気がいいなと胸中で呟く。拓海はターンインのきっかけをフルブレーキからリリースして作り出した前のめりの姿勢と最低限の舵角で作り出し、四輪ドリフトに入った車体をカウンターステアで真っ直ぐ滑らせようとする。
慎吾はほくそ笑んだ。何か忘れちゃいねぇか、と。拓海の右腕は肘を脇腹、手をガムテープで拘束され、ステアリング上の五時半の位置でガクンと動かなくなった。いつも通りのカウンターステアが当てられず、白いスプリンタートレノはそのまま制御を失いかける。慎吾はこれでハチロクは死んだと確信する。
拓海は運転席の純正シートの上で尻を左に滑らせ、全身をよじりながら左手で右肘を強引に引っ張り、拳一つ分多くステアリングを右に切り込んだ。引き千切れる寸前の右の腱鞘とガムテープの端が食い込んだ手首の皮膚がギリギリと悲鳴を上げる。このわずかな切り増しが拓海の手元にトレノの制御を引き戻した。腕が千切れるかと思ったぜ、と拓海は涙目で前方を睨む。滑らせないと曲がれないが滑らせすぎても駄目、と拓海はこのルールの危険性を思い知った。
仁志はガレージで二柱リフトに上げたサニーの後輪側サスペンションから板バネを取り外していた。レース用の研究用に購入しただけあって、大森ワークス(現・NISMO)製の板バネが使われていることはこの車を修理した段階でわかっていた。
(しかしまぁ、何で
仁志が取り外された板バネを見ながら考えていると、政志が煙草を吸いに出てきて仁志に声を掛ける。
「どうしたんだ?」
「あぁ、オヤジか…。もう少し後ろを粘らせたいんだよ。硬すぎて跳ねるのと、可動範囲が狭いのが気になってさ」
「その時代のホーシングは普通跳ねるもんだがな…」
「拓海んちのハチロクもこの前からずっとトラクションを増やすセッティングを続けてるだろ?コイツもそうしたいんだけどさ。…色々やってみようかと思ったけど、しばらく様子見だ」
「思ったことをやってみりゃいいじゃねぇか」
「そもそも最初が逆反りになってたからさ、そりゃ硬いわけだよ。一旦組み直すサ」
「逆反り、か。重心を落とすには一番手っ取り早いわな。先代らしくはないが…」
右手を縛り付けられ、舵角がほとんど付かない、後輪駆動車には圧倒的に不利な状況の中、無免許時代から五年掛けて、無意識のうちに繰り出せるまでに進化させた運転技能に支えられながら、拓海は既に十に迫るカーブを通過していた。最初のカーブで痛めかけた手首が時折不穏な痛みを訴えていたのも、既に消えている。拓海は左手の人差し指と中指で軽くステアリングを弾いた。拓海が、この状況下での車の走らせ方を理解した瞬間であった。
「なるほど、やっとわかった…。このルールのコツがわかったぞ!!」
なんかコミックス一巻のひとコマに高橋邸のガレージが映り込んでて、茂木なつきのパパのとよく似たEクラスがいたから一瞬焦ったのを思い出した。
この作品では勝手に190Eに読み替えてやった。かつて金玉にあの兄弟の半分を宿していた親父が普通のEクラスをおとなしく乗り回すとも思えないし。