時刻は丑三つ時。
とある総合病院。その巨大な病棟は、夜の静寂に沈み込み、巨大な生物の死骸のように静まり返っている。
長い廊下には、非常灯の緑色の光だけが等間隔に灯り、リノリウムの床に不気味な影を落としていた。
ペタ、ペタ、ペタリ。
その静寂を破る、頼りない足音があった。
木寺一桁である。
彼は点滴スタンドを杖代わりにし、亡霊のような足取りで廊下を進んでいた。
左腕はギプスで固定され、首からは吊り包帯。パジャマの下には全身を覆う包帯。ひなびたサンダル。
誰がどう見ても重傷患者であり、本来ならベッドの上で絶対安静を強いられているはずの身だ。
「……腹減った……つか、めっちゃ足の裏いてえ……」
木寺の全身から、怨嗟のような声が漏れた。
空腹。
それは、生存本能に直結した根源的な欲求だ。
病院食は、健康的だ。あまりにも健康的すぎる。
塩分控えめ、カロリー計算済み、消化に良い薄味の煮物やお粥。
素晴らしい。医療的には正解だ。
だが、木寺一桁というジャンクフードとサバ缶で構成された生命体にとっては、それは「餌」であって「食事」ではなかった。
「……塩分が足りねえ……保存料が足りねえ……」
禁断症状だった。
体が、ジャンクを求めている。
舌が痺れるような化学調味料の味。喉が渇くほどの塩気。または、安っぽい缶詰の金属的な後味。
それらを摂取しなければ、彼の魂は干からびて死んでしまうだろう。
(……目指すは、一階のコンビニ……)
木寺は、エレベーターホールへと向かった。
深夜の病院内コンビニ。
それは、入院患者にとってのオアシスであり、外界と繋がる唯一の補給線だ。
幸い、看護師の見回りはさっき終わった。ナースステーションの死角を突き、彼は決死の脱出劇を敢行したのだ。
チン、と軽い音がして、エレベーターの扉が開く。
無人の箱に乗り込み、一階のボタンを押す。
ブーンという低い駆動音と共に、箱が下降を始める。
木寺は鏡に映った自分を見た。顔色は蒼白、目の下には隈、髪はボサボサ。
完全にホラー映画の登場人物だ。もし今、他の患者と乗り合わせたら、悲鳴を上げられる自信がある。
「……ま、サバ缶かジャンクさえ手に入れば、ゾンビでもなんでもなってやるよ」
一階に到着する。
ロビーは照明が落とされ、薄暗い。
その奥に、煌々と輝く光の聖域があった。
24時間営業の院内コンビニエンスストア。
ガラス越しに見える棚の列、冷蔵ケースの輝き。
木寺の瞳に、生気が戻った。
「……待ってろよ、俺のエネルギィ……」
彼は自動ドアの前に立った。
ウィーン、とドアが開く。
冷房の冷気と共に、「いらっしゃいませー」という店員の声……は、なかった。
深夜のワンオペなのだろう、店員はバックヤードに入っているのか、レジは無人だ。
客もいない。
貸切状態だ。
木寺は、点滴スタンドを押しながら、缶詰コーナーへと直行した。
スナック菓子、カップ麺、レトルトカレー。
魅惑的なラインナップが彼を迎える。だが、気が変わってきた。やはり彼の狙いは一つ。
最下段の棚。そこに鎮座する、赤茶色に輝く「サバの味噌煮缶」。
150円の至福。
「……あった」
残り一つ。
神は俺を見捨てなかった。
木寺は震える右手を伸ばした。
美琴の黄金サバ缶はまだ食べていないが、正直もったいなすぎて食えない。
あれは……本当にここぞの時に開けよう、という彼の貧乏性が、この深夜の奇行劇を演出している。
が。
その、瞬間だった。
「仮説1」
唐突に、声が聞こえた。
平たくて、舌っ足らずな、子供の声。
「……え?」
木寺の手が止まった。
視線を下に向ける。
缶詰コーナーの最下段。そのさらに下。床に這いつくばるようにして、『何か』がいた。
「……うおっ!?」
木寺は飛び退……こうとしたが、怪我のせいでよろめく。転びそうになった。
そこにいたのは、一人の少女だった。
年齢は十歳前後。
ダボダボの白衣を着ている。その上に赤いポシェットを斜め掛け。
牛乳瓶の底のような分厚い丸眼鏡をかけ、灰がかった黒髪には所々寝癖がついている。
彼女は床に座り込み、手には虫眼鏡と、分厚いバインダーを持っていた。
「……えっと、お嬢ちゃん? そこで何してるのかな? かくれんぼ?」
木寺が引きつった笑顔で、精一杯の優しさを込めて問いかけると、少女は「よっこいしょ」と、くたびれた中年サラリーマンのような掛け声とともに立ち上がった。
眼鏡の奥の瞳が、じっと木寺を見つめる。
そこには、深夜のコンビニで重傷患者と出くわした驚きなど微塵もない。
あるのは、未知の生物を観察するような、冷徹な好奇心だけだ。
「対象は、重度の飢餓状態にあるゾンビ。……あるいは、病院の地下霊安室から蘇った『黄泉返り』だぜ」
少女は、バインダーに何かを書き込みながら言った。
「……は?」
「皮膚の色素欠乏、生体反応の低下、緩慢な動作。そして何より、この時間帯に点滴を引きずって食料を漁る異常行動。……ゾンビ映画の序盤に出てくるモブリビングデッドそのものだぜ」
彼女は、ペン先で木寺を指した。
「嘘なら、証明してみせて?」
木寺は呆気にとられた。
なんだこの子供は。
深夜の病院。無人のコンビニ。白衣のガキ。
状況がシュールすぎて、頭が追いつかない。
「……いや、俺は人間だよ。入院患者だ。腹が減って買い出しに来ただけだ」
「患者? ……嘘だぜ」
少女は即答した。
「患者は、この時間は就寝時間だぜ。規則を守っておとなしく寝てるのが『患者』だぜ。……規則を破って徘徊するのは、『脱走者』か『妖怪』のどちらかだぜ」
「……ぐうの音も出ない正論だな」
木寺は苦笑した。確かに、今の自分は不良患者だ。
「で、お嬢ちゃんは? こんな時間に子供だけで何してるんだ?」
「観察」
彼女は短く答えた。
「コンビニエンスストアにおける、深夜帯の商品陳列の乱雑さと、それに対する客の購買行動の相関関係についてのフィールドワーク中」
難解な単語が並んだ。
だが、彼女の身長は木寺のお腹ほどしかない。
ダボダボの白衣の裾が、床を掃除している。つまり子供だ。
「へーそうなんだ。よくわからんが親御さんは? それともお前も患者か? 駄目だぞ子供がこんな時間に」
木寺は肩をすくめて聞いた。
ただの迷子にしては、言動がエキセントリックすぎるし、語彙が豊富すぎるが……まあ、正直今はそれどころではない。子供は寝る時間だ。そして俺は鯖缶の時間だ。
「……ボク?」
少女は、自分の白衣の胸ポケットを指差した。
そこには、手書きの、ミミズが這ったような汚い文字で名札がついている。
『木原零点』
「……キハラ、ゼロテン?」
「『レイテン』って読むぜ。……ま、あだ名みたいなもんだけど。何事も0点ばっかり取るからとか、存在価値がゼロだとか、そういう意味が込められてるらしいぜ?」
彼女は「ケラケラ」と乾いた声で笑った。
自分の不名誉な名前を、まるで勲章のように誇示しながら。
零点。0点。
その名前に含まれる、底知れない自虐と、そして「失うものがない」という強烈な開き直り。
「ふーん……変わった名前だな」
木寺一桁は自分の事を棚上げして適当に返した。
「で、零点ちゃん。お前は何をしてるんだ。子供はおねんねの時間だぞ」
「んー……。だから、観察だってば」
「あっそう」
木寺はそれ以上深く突っ込む気力もなかった。
今は、サバ缶だ。目の前のサバ缶が、俺を呼んでいる。
「ま、いいや。邪魔して悪かったな。俺はこれを買ったら帰るから」
木寺は、再び手を伸ばした。
最後のサバ缶へ。
パシッ。
乾いた音がした。
木寺の手が、弾かれた。
少女が持っていたバインダーの角で、木寺の手の甲を叩いたのだ。
「……痛っ! な、何すんだよ!」
「触らないで」
零点は、サバ缶の前に立ちはだかった。
小さな体で、棚をブロックする。
「それは、検体S-01だぜ」
「……検体?」
「現在、その缶詰の金属腐食率と、内部の味噌の熟成進行度についての長期観測を行っているんだぜ。……動かされると、データが狂う」
「ここ、コンビニだぞ!? 売り物だろ!?」
「関係ないぜ。ボクが観測した時点で、それはボクの実験対象だぜ」
理不尽極まりない。
ジャイアニズムだ。お前のものは俺のもの、店のものも俺の研究対象。
「いや、俺は食いたいんだよ。頼むよ、それがないと俺は死ぬんだ」
「死ぬ? ……仮説2」
彼女の目が、キラーンと光った。
サバ缶から興味が逸れ、木寺自身に向いた。
「お兄さんは、サバ缶を摂取しないと生命活動を維持できない、特殊な『
「……はい?」
「体内のエラ呼吸システムが、サバの油分を触媒にして酸素を取り込んでいる。……だから、陸上では定期的にサバ缶を摂取しないと窒息する。……なるほど、筋が通ってるぜ」
彼女は一人で納得し、バインダーにサラサラと書き込んだ。
「違うわ! 俺は肺呼吸だ! ただの好き嫌いの激しい偏食家だ!」
「嘘だぜ。ただの人間が、こんな深夜に、こんな死にそうな顔をしてまで、たかが150円の缶詰に執着するはずがないぜ」
彼女は虫眼鏡をペン回しのように弄び、木寺の顔を至近距離で覗き込んだ。
「瞳孔散大。発汗。手の震え。……これは明白な『依存症』あるいは『生命維持装置の欠乏反応』だぜ。……お兄さん、本当は背中にヒレがあるんでしょ?」
「ねえよ! 見ろよこのパジャマ! ヒレなんか出す穴ないだろ!」
「隠蔽してるだけかもしれないぜ。……解剖すればわかるぜ」
彼女は白衣のポケットから、医療用のメス(なぜそんなもの持っている?)を取り出した。
ギラリと光る刃先。
「ちょ、おま、それは犯罪だぞ! アンチスキル呼ぶぞ!」
「科学の進歩に犠牲はつきものだぜ」
「俺を犠牲にするな!」
木寺は後ずさった。
点滴スタンドがガラガラと音を立てる。
この子供、やばい。本気なのか? 目が笑っていない。
「……わ、わかった。サバ缶は諦める。……他のにするよ」
木寺は降参した。命あっての物種だ。
隣の棚にある、サンマの蒲焼き缶に手を伸ばそうとした。
「仮説3」
零点が、再びバインダーでブロックした。
「それは検体SN-02。……サンマのタレに含まれる糖分の結晶化プロセスを観測中だぜ」
「……じゃあ、その隣の焼き鳥缶」
「検体Y-01。鶏肉の繊維構造の崩壊速度を観測中」
「……カップラーメン」
「検体C-01。容器の発泡スチロールの経年劣化を観測中」
全滅だった。
この棚の主要なジャンクフードは、すべて彼女の管理下にあるらしい。
「お前……店ごと買い占めたのか?」
「買ってないぜ。観測してるだけだぜ」
「営業妨害だろ!」
「店員さんはバックヤードで爆睡中だから問題ないぜ」
零点は、ケタケタリと笑った。
悪魔だ。白衣を着た小さな悪魔がここにいる。
:
木寺は、がっくりと肩を落とした。
空腹と疲労で、めまいがする。
サバ缶は目の前にあるのに、このマッドサイエンティストごっこをしている子供のせいで手が届かない。
「……はぁ。もういいよ。水だけ買って帰る……」
木寺は諦めて、飲料コーナーへ向かおうとした。
その背中に、零点が声をかけた。
「……ねえ、お兄さん」
声のトーンが変わっていた。
先ほどまでのふざけた調子ではない。もっと低く、粘着質な響き。
「ん?」
「お兄さん、
木寺は振り返った。
零点は、虫眼鏡を下ろし、裸眼で木寺を見ていた。
その瞳は、暗く、深く、どこまでも無機質だった。
「何がだよ」
「ボクの『観測』に、引っかからない」
「……は?」
零点は、自分のこめかみをトントンと指差した。
「ボクはね、見たものの『情報』を数値化して、頭の中でシミュレーションするのが好きなの。……この棚の重さ、缶詰の重心、空気の流れ、店内の温度分布。……全部、計算できる」
彼女は、空中にある見えない数式をなぞるように手を動かした。
「でも、お兄さんだけ……数値が出ない」
「……どういう意味だ?」
「質量はある。体温もある。呼吸もしてる。……なのに、存在感が『希薄』すぎる」
彼女は首を傾げた。
「まるで、風景の一部みたい。……コンビニの棚とか、床のタイルとかと同じレベルで、世界に溶け込んでる。……『個体』としての主張が弱すぎるんだぜ」
木寺はどきりとした。
それは、彼がずっと抱えてきたコンプレックスであり、同時に彼の「武器」でもあった。
無能力者。その他大勢。モブキャラクター。
誰にも気づかれず、誰の記憶にも残らない。
だからこそ、
「……影が薄いって言いたいのか? よく言われるよ」
「違うぜ。そういう文学的な話じゃないぜ」
零点は、木寺に近づいた。
ペタペタと、至近距離まで。
彼女は木寺の右腕に触れた。
「……この右腕。本当ならすごいエネルギーを受けてるはずだぜ。……新幹線と正面衝突したくらいの衝撃。……なのに、なんで無傷なの? 生きてるの?」
彼女の目が、木寺を解剖していく。
「普通なら死んでる。肉片になってる。……でも、お兄さんはここに立ってる。サバ缶を欲しがってる。……矛盾してるぜ」
彼女は、バインダーを開いた。
「おかしい。……死因になるはずの『致命傷』だけが、綺麗に抜け落ちてる。……だから、ボクは仮説を立ててみることにしたぜ!」
そこには、サバ缶のデータではなく、複雑怪奇な数式がびっしりと書かれていた。
「仮説3! ……お兄さん、実は人間じゃないでしょ?」
「はあ?」
また、このガキが訳の分からん事を続け出したぞ。
彼女はバインダーに猛烈な勢いで何かを書き込みながら、早口でまくし立てた。ボールペンの先が紙を削る音が、カリカリと響く。
「本当は、軍事用サイボーグの失敗作だぜ! 体の中に埋め込まれた旧式の油圧シリンダーが経年劣化で暴発して、オイル漏れ起こして搬送されたポンコツロボット! ……型番は? 製造元は? 学園都市製? それともロシアの闇市場?」
零点は身を乗り出し、木寺の包帯の隙間から肌を覗き込もうとする。
「……ほら、ここ! この皮膚の下にメンテナンスハッチがあるんでしょ? USBポートはどこ? 急速充電に対応してる?」
「ちょ、やめろ! くすぐったい!」
木寺は慌てて身をよじった。
サイボーグ? 油圧シリンダー?
SF映画の見過ぎか?
「違うんだぜ? ……やっぱり『嘘』か」
少女は木寺の肌をペタペタと触り、匂いを嗅いだ。
「外装の皮膚組織の質感はナチュラルだし、機械油の匂いもしない。……排熱ダクトも見当たらないし、駆動音もしない。……ちぇっ、ハズレだぜ。ロマンがないなあ」
少女は舌打ちをし、書き込んだページをビリビリと破り捨てた。紙吹雪のように床に散らばるメモ用紙。
「い、いや、全然違うよ。俺は人間だし、血も流れるし、オイルなんて入ってないぞ」
「黙ってて。今、思考プロセスを回してるんだから。雑音は排除対象だぜ?」
少女は木寺を睨んだ。
理不尽だ。勝手にサイボーグ扱いして、勝手にキレている。
だが、その瞳の奥にある「知性」の輝きは、子供の遊びの範疇を超えているようにも見えた。
「じゃあ、仮説4! ……お兄さんは、宇宙人に寄生されてる!」
「……はい?」
「エイリアン・アブダクションだぜ! 未確認飛行物体に連れ去られて、体内に未知の地球外生命体の卵を産み付けられた! その卵が孵化しそうになって、体が内側から食い荒らされたんだぜ!」
彼女は真剣な顔で、木寺の腹部を指差した。
「今すぐ開腹手術しないと! このままだと、お腹を食い破って『チェストバスター』が出てくるよ! ……麻酔なしでいける?」
「いけるか! ていうか、俺の腹の中に何もいねえよ! こないだレントゲン撮ったけど異常なしだったよ!」
「レントゲンに写らない素材なのかも……。シリコン系生物? それとも純粋なエネルギー体?」
「ただの胃酸過多だよ! 最近ストレスで胃が痛いんだよ!」
「むぅ……。つまんない」
またしても、メモ用紙が破り捨てられる。
少女は頬を膨らませ、つま先をパタパタ地面をたたいた。
「じゃあ、仮説5! お兄さんは、異世界から転生してきた勇者!」
「ラノベの読みすぎだ」
「魔王の『次元斬』を食らって、こちらの世界に弾き飛ばされた時の次元摩擦による火傷! 保有スキルは『聖なる加護』ランクEX! ……ステータスオープン! って言ってみて?」
「言わないよ! 恥ずかしいだろ!」
「言わないと確認できないぜ? ……もしかして、レベルが低すぎて見せられないとか?」
「レベル0だよ! 学園都市公認の無能力者だよ!」
「あーあ。これも『嘘』か」
破り捨てられる紙の量が増えていく。
掃除のおばちゃんが見たら卒倒しそうな惨状だ。
「仮説6! 実は人間じゃなくて、精巧に作られたバイオ粘土の塊! 衝撃で分子結合が解けて、デロデロになりかけたところを瞬間冷凍で固めた!」
「生きてるよ! 痛いよ! 粘土に痛覚はないだろ! あとデロデロってなんだ!」
木寺が叫ぶ。負けじと零点も叫び返す。
「仮説7! 実は幽霊! 成仏しそこねて実体化したけど、霊的エネルギーが足りなくてボロボロ! ……除霊しなきゃ! 塩! 塩はないか!?」
「さっきから科学的根拠が迷子になってるぞ! お前、白衣着てるならもっとマシな仮説を出せよ! ここは科学の街だろ!」
木寺は全力でツッコミを入れた。
肋骨が痛む。傷口が開く。この子供と会話しているだけで、リハビリ以上の体力を消耗している気がする。
まるで、意思疎通のできない宇宙人と漫才をさせられているようだ。
「……はぁ、はぁ。……なんなんだよ」
膝に右手を突き、肩で息をする木寺。彼女と同じくらいの目線になる。
すると、彼女はまた同じことを言った。
「仮説8。じゃあ……お兄さんは、『ガチの幽霊』だぜ」
「……またそれか」
「だぜだぜ。でも、ただの幽霊じゃない。……世界から『無視』された幽霊だぜ」
彼女はにちゃりと笑った。
「物理法則からも、運命からも、確率論からも無視された……『空白』の存在。……だから、その怪我の原因、
「…………、」
と。
木寺の背筋に、冷たいものが走った。
……この子供、何者だ?
ただのイカれた科学者ごっこだと思っていたが、その直感は鋭すぎる。
俺が一方通行と戦ったことを知っているはずがない。だが、俺の「本質」を、今の言い回しは言い当てていたような……いや、ただの数うちゃあたるか。
「……買い被りすぎだよ。俺はただの、運が良かっただけの一般人だ」
木寺は、努めて平静を装って答えた。
「運? ……ふーん。運、かあ」
零点は、つまらなそうに鼻を鳴らした。
そして、バインダーをパタンと閉じた。
「『嘘』だぜ」
彼女は断言した。
「でも、面白いから今回は見逃してあげるぜ」
彼女は、棚からサバ缶を取り出した。
検体S-01。
「あげる」
「……え?」
「観測終了。……サバ缶よりも、お兄さんの方が面白い検体になりそうだから、こっちはもう用済みだぜ」
彼女はサバ缶を木寺の胸に押し付けた。
ずしりとした重み。冷たい缶の感触。 木寺は慌ててそれを受け取った。
「……い、いいのか?」
「いいぜ。その代わり」
零点は、悪戯っぽく、そして不気味に目を細めた。
牛乳瓶の底のような眼鏡の奥で、知性のようなものが光る。
「次に会った時は、お兄さんを『育てて』みたいな」
育成。
予想外の単語だった。
「……は? 育てる?」
「そう。育成シミュレーションだぜ」
零点は、木寺の周りをぐるぐると回り始めた。
まるで、新しいペットを品定めするように。
「お兄さんは『空白』だ。何もない。……だからこそ、何を足したらどう変化するのか、興味があるんだぜ」
「……おい、俺はたま〇っちじゃねえぞ」
「ストレスを与えたらどうなるか。絶望を与えたらどう歪むか。あるいは、ほんの少しの『武器』を与えたら、どう化けるか」
彼女はにちゃにちゃと笑った。
「ボクも『木原』の端くれだからね。……完成された理論よりも、予測不能なカオスの方が大好物なんだぜ」
木原。
またその名前だ。なんか有名な一族みたいな文脈で言ってくるが。
木寺は眉をひそめた。
「……木原? どちらさんだ?」
木寺は素直に聞いた。
有名人なのかもしれないが、生憎と彼はそういったものには疎い。
零点は一瞬キョトンとしたが、すぐに「ふ」と口元を歪めた。
「あはは! 知らないなら知らない方がいいぜ。ボクだってどうせ『木原』の中でも最底辺のおちこぼれだし、知名度なんてゼロだしね」
彼女は、やれやれと肩をすくめた。
最底辺。
その言葉には、どこか投げやりな響きがあった。
「ボクと仲良くしてくれる『木原』なんて、片手で数えるほどしかいないぜ。……ボクの真似をして遊んでくれる『円周ちゃん』とか、ロマンのわかる『お犬様』、あと『加群てんてー』くらいかなあ」
円周。お犬様。加群。
木寺には何一つ理解できなかったが、彼女なりに苦労しているらしいことだけは伝わってきた。
「……まあ、友達がいるならいいじゃないか」
木寺は適当に相槌を打った。
もう早く帰りたい。サバ缶は手に入れたし、これ以上この変な子供と関わるのは精神衛生上よろしくない。
「とにかく、サバ缶はありがたく貰うよ。……お前も、早く帰って寝ろよ。背、伸びないぞ」
木寺は、零点の頭を見下ろして言った。
彼女の身長は130センチほどだろうか。推定年齢にしては随分小さい。
「……む」
零点の動きが止まった。
ひくり、と表情筋が動く。
「何だよ?」
「……お兄さんは次に会う時までに、もっと面白いデータが出るように、精々いい子にしておくんだな」
彼女は上から目線で言ったが、木寺はため息交じりに返した。
「はいはい。……でもな、お嬢ちゃん」
木寺は、自分の胸の高さにも届かない彼女を見下ろし、呆れたように言った。
「育つ必要があるのは、俺よりも……お前の方だと思うがな。ちゃんと牛乳飲めよ?」
一瞬の静寂。
深夜のコンビニに、時が止まったような間が空いた。
そして。
「…………にゃ、にゃにおうッ!?」
零点は、顔を真っ赤にして叫んだ。
図星だったらしい。
「ボ、ボクはまだ成長期だぜ! これからグングン伸びる予定だぜ! データの予測値では、将来はモデル並みのプロポーションになるはずなんだぜ!」
「はいはい。予測通りになるといいねえ」
「バカにするなー! このゾンビっ! サバ缶野郎!!」
彼女は地団駄を踏んだ。
マッドサイエンティストの仮面が剥がれ、ただの子供に戻っている。
「覚えてろよ! 絶対、絶対、とびっきりの実験メニューを用意して、泣かせてやるからな!!」
彼女は捨て台詞を吐くと、出口へと走り出した。
ダボダボの白衣をマントのように翻し、赤いポシェットを揺らして。
「じゃあな、虚無のサンプル! 首を洗って待ってろよー!」
ウィーン、と自動ドアが開く。
病院の薬品臭い空気が流れ込んでくる。
「また会おうぜええええい!!!??」
彼女は叫びながら、廊下の闇へと飛び出していった。
嵐のように。台風のように。
あっという間に、その姿は見えなくなった。
「……なんなんだよ、あいつ……」
残されたのは、静まり返ったコンビニと、呆然と立ち尽くす木寺。
そして、胸に抱かれた一つのサバ缶。
……木寺は、深いため息をついた。
疲れた。
空腹よりも、精神的な疲労が上回った。
円周だの加群だの、育成だの、わけのわからない単語を並べ立てられたが、結局のところ「変な子供に絡まれた」という事実に変わりはない。
「……木原、ねえ」
木寺は呟いた。
まったく覚えのない苗字だ。
だが、あの子が去った後の空間には、漫才が終わった後のようなコミカルな空気と、肌にまとわりつくような薄ら寒い不気味さが、マーブル模様のように混ざり合って漂っていた。
まるで、開けてはいけないパンドラの箱の蓋を、ほんの少しだけ開けてしまったかのような。
「……ま、考えても無駄か。俺には関係ない関係ない」
木寺は首を振り、思考を強制終了させた。
今は、サバ缶だ。
目の前のリアルにある150円の幸せだけが、俺の味方だ。
木寺はレジに向かった。
セルフレジでサバ缶を精算する。
ぴっ、という電子音が、日常への帰還を告げる。
病室に戻ったら、こいつを食おう。
「変な奴多いよなあ、この街はさあ……」
そして、明日からまた始まるリハビリ地獄に備えて、さっさと泥のように眠ろう。
第二部、完。
次章(たぶん)例の妹がやらかします。アイテム周りも出たり出なかったり……?