鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら   作:斉宮 柴野

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さあさあ皆様お立ち会い。本日お目目にかけまするは、居眠りばかりの朴念仁、我が愛しの息子も同然である神保弥太郎の胸の内でございます。
世間様からは出来損ないと指を指されようとも、剣を持たせりゃ右に出る者なし。ですがこの男、悲しいかな、己の心というものがからきし分かっておりません。
つい先日も、鬼に魂を売った哀れな村人たちを前にして、一寸の躊躇いもなく斬り捨ててしまったのでございます。己の手が同族の命を奪おうとも、悲哀や後悔が一切湧き上がってこない。心の中はどこまでも平坦なまま。
俺は最初から血の通わない化け物なんじゃないかと、静かな夜の縁側で一人震えておるのです。
私が説きました仁義八行の教えも、彼にとってはただの知識の借り物にすぎないのか。己の致命的な欠落に怯える弥太郎が、同じく心をぽっかり空かせた千草の温もりにすがりつく。
さてさて、この不器用で歪な若者たちが、暗闇の中でいかなる答えを見つけるのか。
手にした木杓子でカンカンと拍子を取りつつ、皆様とくと御覧じろ!


幕間:眠れる獅子の虚無

俺は今、すごく珍しい体験をしている。なにせ、目がばっちりと覚めているからだ。

 

深い夜の闇の中、月明かりに照らされた静かな縁側に腰を下ろして、夜空に浮かぶ大きな丸い月を見上げている。

 

夜風が肌を撫でる感覚とか、遠くで鳴いている虫の声とか、すべてがひどく新鮮に感じる。いつもなら、意識の半分どころか全部が重い泥の底に沈み込んでいるような時間帯だからだ。

 

俺は神保弥太郎。一応、鬼を狩る組織の剣士ということになっているらしい。

でも、俺の本質はただの居眠り野郎だ。俺はいつだって、四六時中ひどく眠い。起きているつもりでも、頭の中には常に分厚い靄がかかっていて、意識の半分は別の場所に置いてきているような感覚が続いている。

 

町の医者たちからは「睡魔の病」だと言われて、とっくの昔に匙を投げられている。薬草を煎じても、お灸を据えても、何をやっても無駄だった。

 

そのせいで、俺はまともな生業に就くことができなかった。

なにせ、荷運びの仕事を頼まれれば、荷車を押している途中で荷物と一緒に道端で眠りこけてしまう。お店の留守番を頼まれれば、目の前で泥棒が堂々と金庫をこじ開けていても、すやすやと心地よい寝息を立ててしまうのだ。

 

危なっかしくて、誰も俺を雇ってくれない。当たり前の話だ。俺が雇い主の立場だったとしても、絶対に俺みたいな奴は願い下げだからだ。お給金泥棒にもほどがある。社会の底辺もいいところだ。

 

そんな世間のつまはじき者だった俺を、拾ってくれたのが、今の鬼狩りの組織だった。

幸いなことに、俺には剣の才覚だけはあったらしい。俺はそこで、極限の脱力と半覚醒状態のままで真価を発揮する「黄昏の呼吸」という剣技を完成させた。

 

俺の意識は常に朦朧としている。だからこそ、相手を斬ってやろうとか、殺してやろうという生々しい殺気が一切外に漏れない。剣を振るう前の予備動作も、筋肉が完全に弛緩しているおかげで完全に消え去るのだ。

本当に皮肉なものだと思う。世間には全く適合できない社会の欠陥品が、こと人斬りという分野においてのみ、才能として開花してしまうなんて。

 

俺は時々、自分のことを絡繰人形なんじゃないかと思うことがある。

俺には、殺戮に対する感情が決定的に欠落している。誰かを傷つけたり、命を奪ったりすることに対して、心がまったく動かないのだ。

悲しいとか、怒りとか、そういう当たり前の感情を、俺はただの知識として後付けしているにすぎない。人が泣いているのを見て「ああ、ここは悲しむ場面なんだな」と頭で理解して、それにふさわしい表情を作っているだけだ。

本物の感情がないから、殺気もない。倫理観もただの借り物だ。俺の心はいつだって平坦で、ただただ眠気に支配されている。そんな自分が、ふとした瞬間にひどく不気味に思える。

 

でも、あの最終選別で、俺は不思議な運命と出会った。

葛城颯と、九条千草。俺はあのおかしな二人に対して、血を分けた家族のような、あるいはそれ以上の何か特別なものを感じている。

 

颯は、まるで俺の本当の母親のように俺を大切にしてくれる。

「さあ弥太郎、遠慮せずにたくさんお食べなさい。育ち盛りの男の子は、食べても食べてもお腹が空くものね。あんたが強い剣士になれば、巡り巡って私の算盤を弾く……じゃなくて、世界の平和に繋がるんだからね」

 

いつかの昼下がり、颯は満面の笑みを浮かべながら、大盛りの天麩羅蕎麦と、俺の顔より大きいんじゃないかという握り飯を目の前にどんと置いた。

 

「いただきます、颯。でも、俺はたぶんこれを半分食べる前に寝落ちする。それでもいい」

 

「もちろんいいわよ。寝る子は育つって言うじゃない。あんたがすやすや眠っている顔を見ていると、私までなんだか安心するのよ。だから気にせず、食べられるだけ食べてゆっくりお休みなさい」

 

そう言って、彼女はひどく優しい手つきで俺の頭を撫でてくれた。

 

俺がどれだけ無防備に寝こけていても、彼女は決して俺を怒らない。役立たずだと罵ることも、家から追い出すようなこともしない。

 

彼女は、俺が絶対に守らなければならない人だ。

前に鱗滝さんから聞いたことがある。彼女は最愛の旦那様を戦争で亡くして、深い傷心を抱えたままここにいるのだと。

 

未亡人でありながら、彼女は決して人前で弱音を吐かない。いつだって気丈に振る舞い、底抜けに明るい笑顔を見せ、俺たちのような社会のはぐれ者を温かいご飯で受け入れてくれる。

 

彼女はまるで、後光が差している聖母のような人だ。彼女には、絶対に幸せになる権利がある。俺の剣は、彼女の穏やかな日常を守るために振るいたいと、心からそう思っている。

 

そして、もう一人。千草。

彼女のことを考えると、俺はいつも深いため息をつきたくなる。彼女はどうしようもない変態だからだ。

 

隙あらば男を、女を、果ては敵であるはずの鬼まで、いやらしい目で品定めしている。実際に、俺も何度も彼女に誘われた。夜這いなんて、数え切れないくらいかけられている。

 

「ねえ弥太郎。そんなにいつも眠たいなら、私の腕の中で眠りにつかないかしら。体温を重ね合わせれば、もっと素敵な夢が見られるかもしれないわよ」

 

「……勝手にしてくれ。俺は寝る」

 

「つれないわね。せっかく私が温めてあげようと思ったのに。あなたのその無防備な寝顔、すごくそそられるのよ」

 

「そそられなくていい。俺はただ眠いだけだ。邪魔をするなら他所へ行ってくれ」

 

俺は彼女の誘いをきっぱりと突っぱねた。

 

なぜなら、彼女のその過激な誘い文句に、真の思いが一切感じられなかったからだ。

千草の体は確かに熱を求めている。でも、心がそこにないのだ。彼女の心は、ひどく空っぽに見える。空っぽの器が、ただ自分の寂しさや、不安を埋め合わせるために、無理やり誰かの肌と擦り合わせようとしているようにしか思えなかった。

 

はっきり言おう。俺は、千草が好きだ。

初めて会った時から、一目惚れだった。

 

彼女のあの、どこか現実を見ていない硝子のような透き通った瞳も、強引に押し付けてくる温かい体温も、すべてが愛おしい。彼女が抱き枕として最高に気持ちいいのは、天地がひっくり返っても変わらない揺るぎない事実だが、それだけじゃない。

 

だからこそ、俺には痛いほどよく分かるのだ。彼女が心の奥底で深く苦しんでいることが。

いや、違うな。彼女はその空虚さゆえに、まともに苦しむことすらできていないのだ。

 

だから俺は、安易に彼女の体を抱くような真似はしない。

そんな一時的な慰めで彼女の空洞が埋まるわけがないからだ。俺は、彼女が抱えているその底なしの虚無ごと、全部まとめて背負い込むと決めている。

 

彼女がいつか、本当の意味で現実の地面にしっかりと両足をつけて、真っ直ぐに俺という人間と向き合えるようになった時。

その時にこそ、俺は誤魔化すことなく、真っ直ぐに想いを告げようと思う。

 

俺はもう一度、空に浮かぶ丸い月を見上げる。

やっぱり、少し眠くなってきた。俺の意識は、少しずつ泥の底へと沈んでいく。

 

でも、悪い気分じゃない。俺には帰る場所があるし、守りたい人がいるし、背負いたい虚無がある。

絡繰人形の俺が、そんなことを考えているなんて、なんだか少しだけおかしくて、俺は夜風の中で小さく笑みをこぼすのだ。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

そうやって心の中でどれだけ立派に格好をつけてみても、結局のところ、俺は救いようのない出来損ないだという事実は変わらない。

 

千草の抱える空っぽな部分を背負うだなんて、どの口が言っているんだと自分でも呆れてしまう。こんなにも中身が黒くて汚い俺が、彼女を救い出せるようなまともな男になれるわけがないのだ。

だって俺は、ついこの間、同じ人間を殺しているのだから。

 

その日の仕事は、いつもとは少し様子が違っていた。俺たちが斬るべき敵は、異形の姿をした鬼だけではなかったのだ。鬼が持つ力にすっかり心酔してしまって、自ら鬼に身を売って協力する人間たちが俺たちの前に立ち塞がった。

 

彼らは、自分たちの崇拝する鬼を逃がすためなら何でもした。農具やら包丁やら、ありとあらゆる武器を振り回して、俺たち鬼を狩る剣士に向かって牙を剥いてきたのだ。村人たちの目は完全に血走っていて、口からは意味の分からない言葉の羅列が泡と一緒に飛び出していた。

 

「やめろ、頼むからやめてくれ! お前ら、自分が何をしているのか分かっているのか! 俺たちは人間だぞ! あんたたちを鬼から助けに来たんだ!」

 

「くそっ、これじゃあ刀が振れないじゃないか! 相手は鬼じゃない、ただの村人だぞ! なんで俺たちが、守るべき人間からこんな目に遭わなきゃならないんだ!」

 

同行していた仲間の隊士たちは、刃を向けてくる人間たちを前にして激しく躊躇していた。

俺たちは人を守るために刀を握っている組織の人間なのだから。どれだけ狂っていようと、相手が人間である以上、やすやすと首を刎ねるわけにはいかない。どうにかして峰打ちで気絶させられないかとか、無力化して縛り上げられないかとか、そういう優しい考えが頭をよぎるのが普通の人間の神経というものだ。

 

だが、その人として当然の迷いが、致命的な隙を生む結果になってしまった。

村人の一人が狂ったように振り回した錆びた鎌が、ためらっていた仲間の一人の首筋に深く突き刺さったのだ。ごぼごぼと嫌な音を立てて、仲間の首から大量の血が噴き出す。彼は信じられないというような顔をしたまま、地面にどさりと倒れ込んで動かなくなった。

 

そして、血の味を占めた村人たちはさらに勢いづき、もう一人の仲間にまで致命の一撃を振り下ろそうと群がっていく。

 

その時、俺はどうしたか。

一寸の迷いもなく、動いていた。

 

いや、違うな。俺の頭の中には、そもそも迷うという思考回路が一つも存在していなかったのだ。どうすれば彼らを傷つけずに済むだろうかとか、ここで人間を斬ってしまえば後戻りできなくなるのではないかとか、そういう葛藤が脳内で起動すらしない。

 

ただ目の前の障害物をどう処理するかという、ひどく単純な計算だけが頭の中を巡っていた。

 

俺はゆっくりと息を吐き出して、全身の力を完全に抜く。重力に逆らうことをやめて、音も立てずにその場から跳躍した。

 

黄昏の呼吸・参ノ型、釣瓶落し。

 

俺の握る白刃が、群がっていた人間たちの体を順番に通り抜けていく。

手首に伝わってくるのは、生々しい感触だ。柔らかい肉の抵抗があって、その奥にある硬い骨を断ち切る重たい手応えがあって、最後に生温かい血の飛沫が顔や着物に飛び散ってくる。

ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。俺の刀が通り過ぎた後には、四人の人間の身体がばらばらの肉の塊になって、どちゃり、どちゃりという嫌な音を立てて地面に転がっていった。

 

あれは、殺される寸前だった仲間を守るための行動だ。そうしなければ、間違いなくもう一人の仲間も命を落としていた。だから、あれは正当防衛というやつで、避けては通れない必要悪だったのだと、理屈の上ではそう説明できる。

でも、俺が心底恐ろしいと感じている問題の根幹は、そんなところにはないのだ。

 

戦闘がすべて終わった後、その場には血の匂いが立ち込めていた。

生き残った仲間は、すっかり青白い顔をして、地面にへたり込んでガタガタと激しく震えていた。人を殺してしまった、しかも守るべき対象であるはずの人間を手にかけてしまったという重い罪悪感に苛まれて、耐えきれずにその場にうずくまって何度も胃の中身を吐き出している者もいた。彼らの顔は苦悩と後悔でぐちゃぐちゃに歪んでいて、見ているこちらまでいたたまれない気持ちになるのが普通だろう。

 

そんな激しく取り乱す仲間の姿を横目で見ながら、俺は、自分自身の心の内側を静かに覗き込んでみた。

対する俺は、今、この状況でいったい何を感じているのだろうか、と。

 

俺の足元には、たった今、俺自身のこの手で解体したばかりの人間の骸が転がっている。靴の底には、同族の流した血がじっとりと滲み込んでいて、足を踏み出すたびに嫌な粘り気を主張してくる。

それなのに、俺の胸の奥底から湧き上がってくる感情は、ただの純然たる達成感だけだったのだ。

 

与えられた仕事を、無事に最後まで完遂した。

殺されそうになっていた仲間を、安全に守り抜くことができた。

俺たちの前に立ちはだかる邪魔者を、最も適切な方法で排除した。

 

ただ、本当にそれだけなのだ。

俺は自分の心のあまりの平坦さに、静かに愕然とした。

 

そう、今俺は殺したんだぞ。紛れもない、俺たちと同じ人間の命を奪ったんだ。それなのに、人間を殺してしまったという重たい罪悪感も、まだ温かい死体に触れてしまったという生理的な嫌悪感も、そんなものは俺の胸のどこをどうひっくり返して探してみても、一切見当たらなかったのだ。

ただの一滴も、心が揺れていない。

 

せめて、人殺しという行為そのものに悦楽を覚えるような人間であれば、まだ自分という存在を理解できたかもしれない。流れる血の匂いに酔いしれて、他人の命を奪うという究極の暴力に快楽を感じてしまう狂気があるのなら、それはそれで一つの感情の形だと言える。俺は生まれつき狂っているから仕方がないのだと、諦めをつけることもできるだろう。

 

でも、俺には何もないのだ。快楽も、悲哀も、嫌悪も、本当に何一つとして心の中に存在しない。

ただ、朝起きて井戸水で顔を洗うのが日課であるのと同じように、ただの作業の一環として人を斬った。本当に、ただそれだけのことなのだ。

 

こんなひどく欠落した生き物が、誰かを愛したり、誰かの空洞を埋めたりすることなんて、本当にできるのだろうか。俺の心はいつだって、ただ静かに、冷たく凪いでいる。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

颯がいつだったか、お茶を淹れながら言っていた言葉を静かに思い出す。

 

「ねえ、弥太郎。我も人、彼も人。たとえどんなに恐ろしい鬼でさえ、元を辿れば私たちと同じただの人間なのよ。そこにこそ、私たちが人間であるという深い縁があるの」

 

縁側でぼんやりとお茶をすすっている俺の隣に座って、颯は本当に優しい声でそんなことを語りかけてきたのだ。

 

「鬼だって元は人間……。でも、あいつらは平気で俺たちを喰いますよ。それでも縁なんてあるのか」

 

俺が少しだけ口答えをするように言うと、颯は柔らかい微笑みを崩さずにゆっくりと首を横に振った。

 

「ええ、あるわ。相手がどんなに道を踏み外していようと、理不尽に命を奪う存在であろうとね。私たちが仁義八行を忘れてしまったらおしまいなの。仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌。この八つの徳をいつでも心に留めておかなければ、私たちだっていつか、ただの恐ろしい獣に堕ちてしまうわ」

 

「獣、か」

 

「そうよ。思いやりの心や、正しい行いをしようとする気持ち。それがあるから、人は人としてまっすぐに立てるの。血で血を洗うような戦いの場に立つ時だって、相手への敬意や哀れみを絶対に忘れては駄目よ」

 

聖母である颯は、俺に向かって確かにそう言った。

俺も、彼女のその考えには強く同意する。とても美しくて、尊い考え方だ。

 

戦場という命のやり取りをする異常な空間において、相手が人を喰う鬼だろうと、鬼に魂を売った狂った人間だろうと、対等な一つの命として最低限の敬意を持つ。そうやって純然たる心で相手と向き合い、決して私怨や快楽で刀を振るわないからこそ、人は人のままの形で、獣に堕ちずに済むのだ。

 

それに対して、今の俺はいったいどうだ。

ぶっちゃけ、俺は獣ですらないのではないかと思う。

 

獣だって、自分の群れの仲間や同族を殺せば、本能的な痛みや忌避感を覚えるはずだ。同族殺しという行為に対して、生物としてのブレーキが少なからず働くものだ。

 

なのに、同じ人間を四人も細切れに斬り捨てておいて、心の中にさざ波一つ立たない俺は……生物として決定的に、何かがすっぽりと欠落しているのではないか。

 

誤解しないでもらいたいが、俺は別に、現実感がまったく無くて世界がぼやけているわけじゃないんだ。

 

俺はちゃんと、いろいろなことを感じる。

颯が毎日作ってくれる山盛りのご飯は、信じられないくらい美味いと感じる。大根の煮付けの味の染み具合に感動することだってある。千草が俺の布団に潜り込んできた時、その行動自体には呆れるけれど、彼女の体温をすぐそばに感じると、なんだかんだで胸の奥がじんわりと温かくなるのだ。

 

仲間の隊士が理不尽に死ねば、胸がひどく締め付けられるように悲しい。罪のない子供が鬼に襲われているのを見れば、ふざけるなという熱い怒りもちゃんと湧き上がってくる。

 

俺は確かに、人間としての当たり前の感情を持っているはずなのだ。

 

なのに。

なぜか「相手を殺したとき」にだけ、俺の感情を司る回路はプツンと完全に遮断される。

人を斬る瞬間、そして斬り終えて血の海に立つ瞬間。そこにあるのはただの無だ。悲しみも、怒りも、憐れみも、罪悪感も、達成感という冷たい事実の記録を除けば、本当に何一つとして心が動かなくなる。

 

颯の教えてくれた、美しく正しい仁義八行。

俺はそれを心から信奉している「フリ」を上手にこなしているからこそ、今、こうしてここにいられるのだと思う。俺が当たり前のように人の心を理解して、悲しい時には悲しい顔を作り、怒るべき時に怒る顔を作っているから、鱗滝さんも、千草も、俺を同じ人間として、大切な仲間として見てくれている。

 

だが、ここで俺は一つの恐ろしい疑問にぶち当たる。

今、俺が抱えているこの「悩み」すらも、本当に俺の心の底から自然に湧き出たものなのだろうか。

 

「同じ人間を殺してしまったのだから、人として深く悲しむべきだ」という、俺が今まで生きてきて書物で読んだり人から教わったりした「知識」。その倫理的な知識と、実際に人を斬って平然としている現在の自分の反応があまりにもズレている。俺が今感じている恐怖や違和感の正体は、その計算が合わないことに対するただの「処理のバグ」みたいなものなんじゃないか。

 

自分は人間だからこう感じるべきだという前提の知識があって、それに適合しない自分を発見してエラーを出している。ただそれだけのことなのではないか。

 

もしも、だ。

もしも、俺の中にその「倫理的な知識」が一切なかったとしたら。

 

俺が本も読まず、颯のような優しい人たちから人の道を教わることもなく、ただ剣の腕だけを持って育っていたとしたら。

 

俺はきっと、満面の笑顔で同じ人間を細切れに斬り刻んでいただろう。そして、仲間の血と肉片が飛び散る悲惨な血の海の上で、なんの悪びれる様子もなく、ただお腹が空いたからという理由で平然と握り飯を頬張れるような、正真正銘の真の怪物になっていたのではないか。

 

……怖い。

心底、怖いと思う。

人を喰らう異形の鬼よりも、あいつらが放つどんなに強力で奇怪な血鬼術よりも。

 

他でもない自分自身の内側に、底なしの暗闇のようにぽっかりと広がっている、この冷たくて平坦な「無感動」が、ひどく恐ろしい。

 

俺はいつか、この無感動に飲み込まれて、本当に取り返しのつかない化け物に成り果ててしまうのではないか。知識としての倫理という薄皮一枚が剥がれてしまえば、俺はただの肉を切り裂く刃物になってしまう。

 

ふと、たまらなくなって隣を見る。

静まり返った庭先では、小さな焚き火がパチパチとはぜる音を立てている。

そのかすかな明かりのそばで、いつの間にか千草が縁側に寄りかかるようにして座り込み、ひどく無防備な寝顔を晒している。

 

「……千草」

 

彼女もまた、俺とはまったく違う形で、どこか致命的に壊れている人間だ。

 

でも、こうして俺の触れる彼女の体温は、確かに熱を持っていて温かい。

俺はそっと、千草の柔らかな肩に自分の頭を預ける。

千草は微かに身じろぎをして、俺の重みを受け入れたまま、また静かに規則正しい寝息を立て始める。

 

布越しに伝わってくる彼女の熱が、俺の頬をじわりと温める。

この確かな温もりだけが、今にも真っ暗な底へと消えてしまいそうな俺の心を、かろうじて「人間」の側に繋ぎ止めてくれているような気がするのだ。

 

……おやすみ。

明日もまた、俺は君を、そして君たちを守るために戦う。

自分の手が血に染まることに何も感じないままで、ただ大切な日常を守るためだけに、俺は剣を振るうだろう。




颯「さてさて、ここからは弥太郎の抱える睡魔の病について少しお話ししましょうか」

弥太郎「……なんで俺が。もう限界まで眠いんですけど」

颯「こら、少しはしゃんとしなさい。あなたのその四六時中眠くなる症状、異国の医学ではナルコレプシーと呼ばれるものらしいわよ。脳の働きが原因で、日中に突然強い眠気に襲われたり、感情が高ぶると体の力が抜けたりするんですって」

弥太郎「なるこれぷしー。……なんだかよく分からないけど、俺の意志が弱いとか、単なる怠け者ってわけじゃないんですね」

颯「そういうこと。だからあなたが道端で寝こけちゃうのも、剣を振るう時に極限まで脱力できちゃうのも、すべてはその病が関係しているのかもしれないわね」

弥太郎「ふうん。まあ、理由が分かったところで眠いものは眠いんですけどね……ふぁ、おやすみなさい」

颯「ああっ、もう寝ちゃった!本当にしょうがない子ね。そしてここで明治コソコソ噂話!弥太郎は実は神主としての仕事はちゃんとできるらしいですよ」
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