鬼滅の刃異伝〜鋼の心、血の楽園〜 もしも明治時代に最強の「鳴柱」が存在し、無惨を懐柔して人間を家畜に変える「管理社会」を築いていたら 作:斉宮 柴野
此度お聞かせいたしますのは前代未聞の顛末。
鬼でありながら鬼狩りの剣士として名を馳せ、果ては愛しき旦那様を射止めた稀代の悪女。
この松田颯、改め鱗滝颯の極上絵巻でございます。
吉原で生き抜き、鬼の血を浴びてなお、私は決して立ち止まりません。
命懸けの修羅場を潜り抜け、自作自演で下弦の壱の首を土産に産休へと突入。
目前に迫った鳴柱の座すら笑って見送ってのけました。
惜しくなどありません。
私のお腹には今、金銀財宝にも代えがたい極上の宝……新しい命が宿っているのですから。
しかしながら、ただ大人しく母の顔に収まるだけの私ではございません。
亡き葛城様に武家の妻としての矜持を示し、私を絶望から掬い上げた無惨様へは青い彼岸花を。
そして、今を共に生きる愛しのさっくんへは永遠の愛を捧げる。
業も矛盾も丸ごと飲み込み、この身一つで全ての恩を欲で返し尽くしてみせましょう。
強欲結構。
悪食上等。
神仏すらも笑い飛ばす、鱗滝颯の痛快無比なる大一番。
母という大舞台へ上がるその日まで、どうか瞬き一つせず、とくとご覧あれ!
【鱗滝邸 奥座敷】
直射日光を遮るように下ろされた御簾の向こうには、目に鮮やかな庭の緑が広がっていた。
ゆったりとした綿入れの心地よい重みを感じながら、少しばかり膨らみを帯びてきた自らの腹部へとそっと触れる。
傍らには美しい柄の茶器と、甘い匂いを漂わせる黄色く切り分けられた南蛮菓子。
私が身籠もり、鬼殺隊の務めを休むことになった折の記憶が、脳裏を掠める。
お館様は、目尻に柔らかな皺を寄せておられた。
君が提案して作った産休の制度を、君自身が最初に使うことになるとはね、と。
ええ、当然ですとも。身を粉にして働くばかりが忠義ではないわ。
私はいつだって、自分にとって最高の立ち回りを計算しているのだから。
晴れて籍も入れ、鱗滝颯となった私。
今の気分はそうね、極上の上玉を釣り上げて悠々と身を引く、遊女の引退興行といったところかしら。
襖が静かに滑り、甘雷が盆を手に入ってくる。
私の前に湯気を立てる新しい湯呑みを置いた彼は、遠慮の欠片もなく私の対面に腰を下ろした。
「ほれ、白湯だ。身体を冷やすなよ。……それにしても、全く時機が悪かったな」
「あら、何がかしら?」
言葉の端に滲む呆れた響きを受け流しつつ、私は知らぬ存ぜぬの態度を装う。
「討伐数は文句なし、下弦の壱の首も挙げたんだ。あの見事な手回しには俺も舌を巻いたが……あとほんの一息で、空席の鳴柱の看板を背負えたというのにな」
「ふふっ。甘雷ったら、私がたかだか肩書きを惜しんでいるとでも思っているの?確かに鳴柱の座はとても魅力的だったわ。箔がつくし、何よりお給金が跳ね上がるもの。でもね……」
じんわりとした温かさに包まれながら、私は再び己の内に宿る確かな鼓動を確かめるように触れた。
「今は、柱の称号よりも、金銀財宝で飾られた美味しい御膳よりも、もっともっと大切なものがここにあるの。私のこの腹を借りて、これから大舞台に上がろうとしている……最高の役者がね」
「……相変わらず、お前らしい言葉選びだ。だが、本当に不安はないのか?お前のその身体……鬼の血が、腹の赤子にどう影響するか全く分からんのだぞ」
私自身、自分の身に流れる無惨様の血の濃さを嫌というほど理解しているのだから。
でも、私の心に悲壮感なんて欠片もない。ただ静かに、これから生まれ来る命の重さを値踏みするような、母としての真剣な眼差しが自分の中にあるのを感じるだけよ。
「ええ、分かっているわ。私は天才だから、鬼になろうと人間の皮を被ろうと、こうして愛する旦那様を見つけて幸せの頂に上り詰めることができる。どんな泥濘だって極楽に変えてみせるわ。……けれど、普通の人間には、この綱渡りは到底耐えられないでしょうね」
「陽の光を浴びれば焼け焦げ、人の血肉を欲する業……。もし、それが赤子に色濃く出てしまえば、永遠に日陰を歩くか、それとも鬼殺隊に狩られる側になるんだぞ」
「だからこそ、願うのよ」
どうか。
純粋な人間として生まれておいで。
私の鬼としての強靭な肉体や、この溢れんばかりの才能だけを都合よく受け継いでね。
業なんてものは。
私ひとりが全部背負い込んで、笑い飛ばしてやればそれで十分だもの。
「まったく……果てのない強欲ぶりだな、お前は。呆れて言葉も出ない」
「誉め言葉として遠慮なく受け取っておくわ。私の人生の道標はね、前の旦那様……葛城様が遺してくださった仁義八行なの。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌。……滝沢馬琴の御本が大好きだからってのもあるけれど、これこそが、私という女を貫く太い筋道なのよ」
私の人生は、まるで継ぎ接ぎだらけの豪奢な着物のようなものだわ。
貧しさ故に売られ、松田颯として泥水を啜りながら這いつくばった日々。
吉原の郭で、お姉様やお兄様と肩を寄せ合い、華やかに、けれど必死に客を転がし、喰い物にして生き抜いた日々。
私が鬼殺隊の柱になんてなったら、お姉様、きっと目を剥いて怒るか、あるいは私の姉貴分なんだから当然よって鼻高々に自慢するか、どちらかでしょうね。
そして無惨様に出会い、その血を分け与えられ、鬼として生まれ変わったあの日。
さらにその後、鬼である私を見受けし、人としての温もりを教えてくれた葛城様。
彼と過ごした日々はあまりに短かった。戦で散った彼。さっくんが、その訃報を静かに届けに来たあの日のことは、今でも鮮明に覚えているの。
「松田颯、吉原の遊女、無惨様の血を引く鬼、葛城の妻、そして鱗滝颯。……全部、この私よ。どれか一つの糸がほつれても、今の私は決して織り上がらないわ。だから、私は全ての恩を、私なりの最高に贅沢なやり方で返すの」
「ほう。鬼の始祖への恩と、鬼狩りへの恩を同時に返す気か?矛盾も甚だしいぞ。どちらかに肩入れすれば、どちらかが破綻する」
「あら、器の大きな女は矛盾すらも丸ごと呑み込んでみせるのよ!私が返すべき恩は大きく分けて三つあるわ」
一つ。
亡き葛城様に仁義八行を貫き、鬼であっても武士の妻としての立派な矜持を見せつけること。
二つ。
私を絶望から掬い上げてくださった無惨様に、青い彼岸花を見つけ出し永遠の命を献上すること。これが私の孝行よ。
三つ。
そして今……私を深く愛し、新しい命を授けてくれたさっくんに、永遠の愛を捧げること。
彼の隣で笑い、彼が命懸けで守ろうとするこの世界を、私が誰よりも美しく仕立て上げてあげるのよ。
「……お前、本当に鬼なのか?欲の皮が突っ張りすぎて、もはや神仏の類にすら見えるぞ。恐れを知らんにも程がある」
「失礼ね!私はいつだって、愛と野心に生きるただの悪女よ。千草が見せるあの痛ましい虚無も、私が極彩色の愛でたっぷりと埋め尽くしてあげる。弥太郎が抱える心の欠落も、私が丸ごと包み込んで、立派な男に仕立て上げてみせるわ。……食欲も、色恋も、母の愛も、何一つ手放すもんですか。全部私のものよ」
「だから神様……。鬼の分際で図々しいとは重々承知しておりますけれど」
私に極上の運をよこしなさい。
そして、この子に幸多い人生を。
人間として生まれ、人間として愛し、人間として老いていける……そんな当たり前の極楽を寄越しなさいな。
「神仏にまで強迫をかけるか……。お前の辞書に謙虚という言葉はないのか」
「ええ、それさえ叶うなら、私は喜んで地獄に落ちてあげるわ。……まあ、たとえ地獄の釜に放り込まれたって、閻魔様の舌を引き抜いて、絶品の塩焼きにして喰ってやりますけどね!」
未来は誰かに与えられるものじゃない、自分の手でこじ開けるものよ。
私にはそれだけの強烈な意志があるのだから。
ふと、私の内側できゅるりと小さく、しかしはっきりと空腹を訴える音が鳴る。
「……あら。神仏に喧嘩を売ったら、なんだか急に空腹を覚えてしまったわ。さあ、大一番に備えてたっぷりと精をつけなきゃ!甘雷!この南蛮菓子、おかわり!!盆に余るほど山盛りに持ってきなさい!」
「……へいへい。閻魔も舌を巻く悪食め。今、丸ごと一本持ってくるからそこで大人しく待ってろ」
呆れ果てた様子で立ち上がる甘雷の気配を感じながら、私は空になった皿の縁を機嫌よく叩く。
胸いっぱいに満ちる高揚感とともに、来たるべき明日を、そして愛しい我が子との対面を待ち構えている。
颯「明治コソコソ噂話!」
甘雷「今回は颯の異常な食欲についてだ」
颯「異常だなんて失礼ね。私のお腹には新しい命が宿っているのだから、たっぷりと栄養をとらなきゃいけないのよ」
甘雷「それにしたって限度というものがあるだろう。お前、先日二人ばかり丸ごと平らげただろうが」
颯「ええ、極上の血肉だったわ。赤子も大喜びで蹴りをいれていたもの」
甘雷「その直後に鱗滝邸へ戻り、あろうことか特大の鮭定食と山盛りの南蛮菓子を涼しい顔で胃に収めていたのはどういう理屈だ」
颯「あら、人間はあくまで鬼としての主食よ。温かいお米や甘いお菓子は心の栄養。完全に別腹に決まっているじゃない」
甘雷「お前の胃袋は一体どういう構造になっているんだ……」
颯「ふふっ。愛と野心と食欲は、どれだけ満たしても溢れることはないの。さあ、お話はこれくらいにして、夜食のうどんを茹でてちょうだい!」
甘雷「……やれやれ」