「大変長らくお待たせいたしました。ようこそ、Ave Mujicaのマスカレードへ」
暗闇に凛とした声が響き渡った。
「今宵はゲストの皆様のために、麗しい人形たちをご用意いたしました」
観客の拍手と共に、照明が切り替わる。
くすんだ光の中から浮かび上がったのは、四脚の椅子。そして、そこに座る四体の人形。
瞬きひとつせず、じっと前を見据えたまま動かない人形たちは、さながら古い西洋人形のような不気味な美しさを湛えていた。
その中を横切る影が、一つ。
「聡明なティモリス、慈愛のアモーリス、心優しきドロリス、従順なモーティス……」
それは、水色の髪の少女だった。
優雅に歩きながら、愛おしささえ感じられるような声色で人形たちの名を呼んでいく。
そして最後に、前へと進み出て胸に手を置き──
「そしてわたくしは、気高きオブリビオニス」
自分の名を告げた。
そう。彼女もまた、人形。
「よくご覧になって、この完璧な笑顔」
オブリビオニスが、自慢の人形を自慢する少女のように人形たちを指し示す。
ここは、つり糸に縛られた人形たちが形作る箱庭。台本通りの完璧な世界。
だけど、あたしは知っている。
この世界には、もうすでにヒビが入っているということを。
「──カンペキぃ?」
存在しないはずのセリフに、オブリビオニスの目がさっと動いた。
視線の先に立っているのは、アモーリス。
「あはははっ。こーんな張り付いた笑顔なんて、だーれもほしくなーい」
あざけるように、挑発するように。仮面の下から覗く口元は、心の底から楽しそうに吊り上がっていた。完璧な笑顔なんかより、ずっと。
「心から笑わないとぉ」
アモーリスがステージの中央へと歩を進める。
その動きを追いかけて、大型モニターに彼女の顔のアップが映し出される。
「こーんな風にっ!」
その手が、迷いなく仮面を引きはがした。
用済みとばかりにステージ上に落ちる仮面。
素顔が露わになる。ワンテンポ遅れて状況を理解した観客のざわめきが広がる。
……あーあ、やっちゃった。
あたしは、楽屋のモニターを眺めながらそう独りごちた。
正体が露見した以上、もう元のムジカに戻ることはできない。
ムジカにとっては、ここからが真価を問われるところだ。
まぁ、あたしもサポートするからさ。
頑張ろうね、おねーちゃん♡
◇◇◇
テレビ、ネット記事、SNS、デジタルサイネージにアドトラックまで。
武道館ライブの後、ムジカは、もはや街中で見かけない日はないというくらい、一足飛びに流行の最前線へと躍り出ていた。
そうなったのはもちろん、今までのムジカの活動の成果ではある。重厚な世界観と優れた演奏技術でお客さんを虜にして、回を追うごとに大きなハコへ。短期間でのこの成長は、彼女たちの実力あってこそ。偶然なんかでは決してない。
けれど、それはそれとして。
仮面を外したというサプライズがこの特大バズに大きく寄与しているというのも、また事実だった。
加えて、この広告の量。いくら社長肝いりのプロジェクトとはいえ、新人バンドに出していい量ではない。あたしだってマネージャーもどきを始めてからこの辺の規模感が分かるようになってきたけれど、たぶん、ものすごい額のお金がかかっている。
広告は、出すタイミングが重要。
ただの武道館ライブならここまでの投資はできない。できるわけがない。ムジカの奥の手──仮面を外すことが分かっていたからこそ下せた判断だ。
こうしてみると、社長に口をきいたかいがあったな~。
……ここまでお金が動いているのには、別の理由もあるんだろうけどね。
「なんで~!? にゃむが全然話題になってないんだけど!?」
「動画であれだけ匂わせていたら驚きも何もないでしょう」
週明け。あたしたちは総出で事務所に集まって、臨時のミーティングを行っていた。
仮面を外すというサプライズが起こった以上、調整すべきことは山ほどある。
今はちょうど……不満たらたらのにゃむちゃんが海鈴ちゃんに一蹴されたところだ。
「てか、ウミコ一般人のくせに話題になってんのムカつく~。有名なウイコやムーコなら分かるけどさぁ」
「私もきれいな顔してますから」
「たしかにね~」
海鈴ちゃん、その自覚はちゃんとあるんだ。顔が良いのは事実だけど……。なんか普段から無意識に敵を作ってそうだなぁ。
というか。
にゃむちゃんはこう言っているけれど、別に海鈴ちゃんは一般人ではない。
海鈴ちゃんはムジカだけでなく、現在進行形で多くのバンドを掛け持ちしているスーパーベーシスト。中にはディスラプションみたいな有名なバンドもあるし、界隈ではかなり有名人だ。
実際、先日の武道館でも彼女の存在を知っている人は多かった。ムジカのファン層とガールズバンドのファン層が丸被りしているというのを考慮しても、サプライズになるだけの十分な人気はあったといっていいだろう。
つまり、海鈴ちゃんは元々有名なのだ。にゃむちゃんが有名人ラインをどこに設定しているのかは知らないが、 少なくとも世間的には、海鈴ちゃんは一般人の枠には入らない。
むしろ、その枠に適切なのは。
「でも、サキコまで有名人とは思わなかったな~」
その通り、さきちゃんのほうだ。
にゃむちゃんの言いたいことは分かる。
海鈴ちゃんみたいな一般人もどきとは違って、さきちゃんは、未だ表に出て活動したことはない正真正銘の一般人。インターネットで名前を検索しても何も出てこないし、恐らく、会場の誰もが、あれは誰だとなっていたはずだ。
だが、そこはメディアの力。どこから聞きつけたのか、すぐにさきちゃんが豊川グループのお嬢様だと調べ上げ、翌日にはもうネットニュースデビューを果たしていた。
有名人だったというか、無理やり有名人にさせられたというか。ただそれでも、記事にされるだけの話題性を持っていたことが、にゃむちゃんには意外だったのだろう。まぁ、これだけのプロジェクトを立ち上げる時点で、純粋な一般人でないのは薄々勘付いていたとは思うけど。
「お嬢様ならもっといい服着なよ~。なめられるよ~? 初めて会ったときホテルに場違いな服で来るんだもん。疑っちゃったじゃん」
「……そろそろ本題に入らせていただきますわ」
さきちゃんが、もううんざりとばかりにノートパソコンを乱暴に閉じて、攻撃をシャットアウトする。
にゃむちゃんもにゃむちゃんだなぁ。本人はじゃれてるつもりで、そこまで悪意はないんだろうけど。
聞くところによれば、あたしが雑用で居られなかったライブ後の楽屋でも相当やり合ってたらしい。ムジカにとってこの選択が正解だったのは間違いないが、いかんせん荒療治すぎて、いたるところに後遺症が残ってしまっていた。
さきちゃんの目配せを受けて、海鈴ちゃんが話を前に進める。
「全国ツアーに向けてスケジュールを更新しましたので、ご確認を」
「はーい」
「ツアー最終日には新曲の初披露があります」
各々が自身のスケジュールに目を落としたところで、あたしは待っていましたとばかりに勢いよく立ち上がった。
「はいはーい! このスケジュール表、あたしが作りました~!」
ここがあたしの見せどころ。うきうきで名乗り出て、両手を振ってアピールする。
……が、しかし。
「……とか言って、どーせほとんどウミコでしょ」
「うぐっ」
早速、痛いところを突かれた。
ちょっと、にゃむちゃん? あたし、仮面のこと黙っててあげたよね?
まぁ、あたしとにゃむちゃんが急に仲良くなったらそれこそ怪しまれるし、これはこれで正しい距離感ではあるんだけどさ。
「そ、そんなことないよねー。海鈴ちゃん?」
「いえ、そんなことありますね。フォーマットを作ったのは私ですし」
口元をひくつかせながら聞いてみれば、返ってきたのは容赦のない答え。
「…………」
縋るように海鈴ちゃんをじっと見る。じいーっと見る。
さすがの海鈴ちゃんも若干たじろいだ。
「……とはいえ、音歌さんに手伝っていただいた部分もあるので、全てを私がやったというわけでもありませんが」
「ほら~」
どうやらあたしの熱いまなざしが届いたらしい。
よかった。海鈴ちゃんにひとかけらでもデリカシーが残ってて。
気を取り直して、向かいでわたわたとスマホを操作しているお姉ちゃんに声をかける。
「これからはあたしが管理するからね! お姉ちゃんにも、使い方を手取り足取り教えてあげる!」
「あはは……。ありがとう、音歌」
こう見えてお姉ちゃんは電子機器にかなり疎い。今をときめく人気アイドルのくせに、スマホで写真を撮るのすらおぼつかなくて、SNSにあげる自撮りなんかもぜーんぶツーショでまなちゃん任せだ。島にいたころからそうだったし、東京に出ても直らないものは直らないんだろう。そもそも、興味がないという感じもするし。
「すっご! ツアー中もテレビに雑誌に大忙しじゃん。やっぱ仮面外して正解だったな~」
みちみちに詰め込まれたスケジュール表を確認したにゃむちゃんが、そのまま、当てつけのようにさきちゃんへ視線を流した。
「どちらにせよ、この状況も長くは続きませんわ」
対するさきちゃんは、あくまで冷静。
実際、言っていることは間違いではない。
前にsumimiのスケジュールを確認したことがあったが、いくらなんでもここまで忙しくはなかった。この熱狂は仮面を外したことによって起きた一時的なもので、恐らく徐々に落ち着いていく。逆に言えば、ここが勝負どころだということでもあるけれど。
「てか、ムーコだけ仕事多くない?」
いつの間にやら、にゃむちゃんが睦ちゃんのスマホを横から覗き込んでいた。
「三角さんがsumimiの活動で忙しいので、そのぶん若葉さんに引き受けていただきます」
「先方からの指定ですわ」
「……ふーん。ま、森みなみの娘ってデカいよねぇ~」
当然といえば当然なのだが、番組にしろ雑誌にしろ、枠が限られている以上は一番数字を持っている人を呼びたいに決まっている。そういった点では、現状であまり芸能活動をしておらずスケジュールの空いている睦ちゃんはこれ以上ないくらいの適任だった。事務所側も、これ幸いとばかりに片っ端から仕事を受けている。
当の本人がそれを望んでいるかはさておき……ね。
ちら、と睦ちゃんを見やる。
にゃむちゃんに近づかれているにもかかわらず、心ここにあらずというようなぼんやりした表情。
……心配だなぁ。
仕方がないのだが、結果的には睦ちゃんにかなり負荷のかかるスケジュールになってしまった。
一応、出来るだけさきちゃんを同行させようとはしたんだけど……さきちゃんはさきちゃんで、やることは多いんだよね。作曲っていうバンドの核の仕事もしなきゃいけないし。
とその時、ちょうど睦ちゃんの手の中でスマホが震えた。画面を見た睦ちゃんが、はっと顔を上げる。真横から同じ画面を覗き込んでいたにゃむちゃんも、ぴたりと動きを止めた。
「うそ!? みなみって森みなみ!?」
素っ頓狂なにゃむちゃんの声に、全員の視線が集まる。
まさに、噂をすれば影。ドッキリでも疑ってしまうようなジャストタイミングだった。
睦ちゃんが許可を求めるようにさきちゃんを見る。さきちゃんが小さく頷くと、睦ちゃんは座ったままスマホを耳に当てた。
「……うん。……うん。……。……分かった、みんなに聞いてみる」
みんな?
特徴的なワードが耳に引っかかる。森みなみさんからの電話、なんだよね。あたしたちには関係ないはずだけど……。
電話を終えた睦ちゃんがスマホを置いた。
その口が何かを言いたそうに開きかける。そして、閉じる。
どう切り出すか迷っているのか、それとも、切り出したくないのか。
沈黙の後にとうとう放たれたのは、予想外の提案だった。
「……みんな。今日、私の家……来る?」
◇◇◇
「おっじゃまっしま~す」
広い玄関に吸い込まれていく、にゃむちゃんのこっびこびボイス。
そんなわけであたしたちムジカ一行は、あれから紆余曲折ありつつ、折角のお誘いだということで揃って睦ちゃんの家へとやってきていた。
それにしても、すごい家である。
まるで高級ホテルかのような重厚な洋風のドア。梁も柱もない開放的な吹き抜けのリビング。幾何学模様が美しい木のパネルの壁に、磨き上げられた白いタイルの床。お洒落なデザインの照明や小物の数々……。
なるほど、こんな世界もあるのか。不思議なもので、もはやここまでくると羨ましいという感情すら湧いてこない。上京して初めて都会のビルを目の当りにしたときのように、ただただ圧倒されてしまう。
そして当然ながら、すごいのは家だけじゃない。
「どうぞ~」
にこやかな笑みと共にあたしたちを出迎えてくれたのは、テレビで幾度となく見た顔。睦ちゃんのお母さんであり、国民的大女優の森みなみさんだ。
この人もまた、規格外の豪邸にふさわしいオーラを持っている人だった。
少なくとも四十歳オーバーのはずなのに、肌の艶にも所作にも、全然年齢を感じさせない。仕事柄、芸能人を間近で見る機会が増えたけれど、その中でもみなみさんはまたひとつレベルの違う底知れなさがあった。
「本日はお招きいただき、感謝いたしますわ」
「さきちゃ~ん。久しぶりね、元気にしてた?」
「はい」
ムジカを代表してお礼を述べるさきちゃんに、気安く応じるみなみさん。
親し気な様子の二人に、にゃむちゃんが「え」と首をかしげる。
「みなみさんとサキコってお知り合いなんですか?」
「睦ちゃんが幼稚舎のころから一緒なのよ」
「へー。幼馴染ってこと?」
幼稚舎……。たしか、月ノ森だっけ。
都内でも有名な、長い歴史のある女子校だ。転入先を調べているときに見かけた覚えがある。なんでも、お嬢様や芸能人の子供が多く通っているとか。まさに睦ちゃんとさきちゃんにぴったりな学校だといえる。
幼稚舎からエスカレーターってことは、二人ともまだ月ノ森なんだよね。
それにしては、スケジュールの都合が噛み合わなすぎる気もするけど……。まぁ、委員会とかで下校時間がズレてるんだろう。
用意されたスリッパに履き替え、そのまま、みなみさんの案内でリビングへと向かう。
美味しそうないい匂いが漂ってきて、見れば、広いテーブルの上にはレストランで出されるような豪勢な料理がこれでもかと並んでいた。
「遠慮しないで食べてね」とみなみさんに勧められ、それぞれ思い思いの席に座る。
せっかくの機会だ。食べるだけでなく、残りものをこっそりもらって──という前に、流石にやるべきことがあった。
ムジカのメンバーはともかくとして、あたしはただのマネージャー。みんなとは立場が違う以上、きちんと挨拶しておく必要がある。
すっと姿勢を正し、あたしは改めてみなみさんに向き直った。
「はじめまして、初華の妹の音歌です。今はAve Mujicaのマネージャーをやってます。よろしくお願いします!」
「あら、音歌ちゃんね。初めまして。色々噂は聞いてるわ」
「噂……ですか」
最近はにゃむちゃんとこっそり悪事を働いたばかり。
少しだけ、身構えてしまう。
「ええ。最近、事務所に可愛くて元気なマネージャーが入って来たってね」
「それなら……よかったです」
……さすがに、まだ広まってはないか。
仮面の件を知っているのは、あたしを除けばにゃむちゃんと社長だけ。にゃむちゃんが自身の裏切りを明かすメリットもないから、漏れる可能性があるとすれば社長ってことになるけど、あの人もだいぶ口が堅い人だ。軽率に誰かに喋るとは思えない。
ただ、秘密というのは、どんなに気をつけても不思議とどこからか漏れてしまうものでもある。
それに、あたしと社長の関係性が噂になったように、点と点を繋ぎ合わせた結果、偶然当てられてしまうケースもなくはない。
相手は海千山千の大女優。あたしの想像もつかないようなコネクションがあるかもしれないということを考えれば、警戒するに越したことはなかった。
「それにしても初華ちゃんとよく似てるわねぇ」
みなみさんがぐいっと顔を寄せて、こちらを覗き込んでくる。
「それぞれのパーツは違うんだけど、なんていうか……雰囲気かしら。暗いところで見たら、絶対分からないわね」
「あ、ありがとうございます……」
あまりの顔の近さについ引いてしまった。
……趣味、人間観察?
睦ちゃんも人をじっと見つめる癖があるし、そこは親子なのかもしれない。性格は全然似てないけど。
「声も似てるわね」
「あ、それ前にも言われました。自分じゃいまいち分からなくて」
たしか、海鈴ちゃんに言われたんだっけ。
「まぁ普通そうよねぇ。カラオケとかも行かないの?」
「あ、はい。というか、行ったことないです」
「それは珍しいわね。……そうだ。ウチにスタジオがあるんだけど、確かカラオケも繋げたと思うわ。ちょっと歌ってく?」
「え!? ぜ──」
「家にスタジオがあるんですか!?」
あたしの発言を遮るように、突然にゃむちゃんが割り込んできた。
「カラオケもいいと思うんですけどぉ。せっかくなら、みなみさんの出演作が観たいなーって」
「ええ、上映会も大歓迎よ。音歌ちゃん、どうする?」
肘でどす、と脇腹をつつかれる。
はいはい分かってますよ。点数稼ぎはご自由にどーぞ。
「あたしも、せっかくなら上映会がいいです。カラオケはいつでも行けますし」
「それなら、上映会にしましょうか」
「やったー!」
ぴょんぴょんと跳びはねて大げさに喜びを表すにゃむちゃん。
そのまま談笑を始めた二人から離れて、あたしは豪華な料理が並ぶ席に向かった。
挨拶が終わったとなれば、やるべきことは一つ。
手始めに、食べられるだけ食べるところからじゃ!
◇◇◇
「どうして! 今まで放っておいてのこのこと! 帰って! 顔も見たくない……。帰って! あなたも裏切り者よ!」
スタジオのスクリーンに映し出されているのは、森さん主演のテレビドラマ。
起承転まで進み、とうとうクライマックスに差し掛かろうかというところで、私とスクリーンの間を堂々と人影が通り過ぎていきました。
動線を考えれば私の目の前を横切らなくとも移動できたはずですが、妙ですね。
意図的、と考えるのが普通でしょうか。
人影はそのまま、階段を上りスタジオを出ていきます。
と同時に、スマホに通知。
確認すると、案の定その人影──音歌さんからでした。
『うみりちゃん 来て すぐ来て はやく来て』
突然の呼び出しです。なんでしょう。気分でも悪くなったのでしょうか。
緊急性はそこまで高くはないと思いますが、無視するわけにもいきません。一言断って、私も上映会中のスタジオを後にします。
廊下に出ると早速、煌々と照る照明が私の目を刺しました。暗い空間にいたこともあり、来たときよりも一層眩しく感じます。ぱちぱちと瞬きをして、目を慣らしてから歩き始めます。
気分が悪いのならお手洗いにでもいるのでは、と見当をつけて進んでいると、角に差し掛かったあたりで横から音歌さんに腕を掴まれました。
「う・み・りちゃ~ん。来てくれるって信じてたよ~」
「信じてるのであれば、追加のメッセージはいらないのでは?」
「それは愛の大きさじゃーん」
スタンプ連打の愛とは、随分お手軽な愛ですね。
まぁ、本当に愛のこもったメッセージを送られても、それはそれで困ってしまいますが。
「それで、何の用でしょう? どこか気分でも悪いんですか?」
「んー? まぁ、そういえばそうかも?」
「……問題ないのであれば、戻ります」
「うそうそ! 待って待って!」
その場を立ち去ろうとすると、行かないでとばかりに腰にしがみつかれました。まさしく、コアラの親子のような体勢です。一切の遠慮なく全体重を預けてくるあたりが、音歌さんらしいと言えるでしょうか。相手が若葉さんであれば間違いなく潰されていましたね。
……最近気がついたのですが、どうも私は音歌さんに気に入られているようです。
理由は分かります。単純に接触が多いからです。
音歌さんはムジカのマネージャーで、事務所との橋渡し的な役割を担っています。もちろんメインのマネージャーではないので、仕事やライブに関する相談はチーフマネージャーの袋小路さんにする必要がありますが、そのぶん他の作業──いわゆる雑用じみた作業は全て音歌さんの担当です。
必然的に、ムジカの裏方の作業をしている私とは、頻繁に連絡を取ることになります。
音歌さんはお姉さんと同居中とのことですが、三角さんの忙しさを考えれば、私のほうが話している回数の多い日さえあるかもしれません。そうなれば、仲が深まっていくのは当然です。
悪い捉え方をすれば、舐められつつあると見ることもできますが。
今こうして呼ばれたのだって、私くらいの関係性の人間が一番甘えやすいからでしょう。身内は身内で、近いからこそ気をつかう、というのもありますし。
とはいえそれは、あくまでも強引に悪い捉え方をすればの話。
頼られていること自体に悪い気はしません。
まぁ、今回のこれは過去一ですが……。
「あら、二人してどうしたの?」
未だにへばりついている音歌さんを引きずってでも戻ろうかと考え始めたところで、スタジオの方から歩いてきた森さんに声をかけられました。恐らく、上映会中に抜け出した私たちの様子を見に来たのでしょう。
音歌さんに擦り付けるような形にはなってしまいますが、私としてはありのままを話すしかありません。
「こちらの音歌さんが、体調が優れないとのことでしたので」
「あら、それは大変ね」
私の報告を受けた森みなみさんが、心配そうに眉尻を下げて音歌さんを見ます。そういえばそう、と言っていたので私視点では嘘ではありません。
当の音歌さんはといえば、先ほどまでのことが嘘のように俊敏に私から離れ、いかにも申し訳ないという感じで縮こまっていました。
「すみません……。でも、もう大丈夫です!」
しおらしく項垂れていたのも束の間。元気さをアピールするようにポーズまで決めています。
……どうでしょうね。
正直言って、嘘の可能性は大いにあります。
嘘だった場合、下手な演技で大女優相手に隠し通せるかは些か疑問です。ドラマがつまらなくて抜け出した、とかでないといいのですが。
「それならよかったわ」
怪しさ満点ではありますが、森さんはそれ以上追及しない方針でいくようでした。本心は分かりませんが、少なくとも建前を守ってくれるのはありがたいですね。争いごとはごめんです。
「でも、すぐに戻るのも……ね。どうせなら、少しだけお話ししていきましょうか」
「はい! 大歓迎です!」
「……私も構いません」
森さんの提案に二人で同意します。
体調が悪くなった場所へ戻らなくてもいいようにという配慮でしょうか。あるいは、比較的会話の少なかった私と音歌さんに興味があるという線もあります。いずれにせよ、断る理由はありません。
壁に寄りかかった森さんは、リラックスした様子で「それで」と話し始めました。
「ドラマ、どうだったかしら」
視線がこちらに向けられます。まずは私が答える番のようです。
「最高でした。途中までしか見られなかったのが残念です」
「嬉しい~分かってくれて。もういつでも好きに観ていいから」
「ありがとうございます。ではまた後日」
「そうしてそうして~」
森さんに手を掴まれ、思わずのけぞってしまいました。
近いですね。音歌さんといい、最近モテ期でも来ているのでしょうか。
「音歌ちゃんはどうかしら」
森さんの視線が私の隣に立つ音歌さんへと移ります。
待ってましたとばかりに、音歌さんも前のめりで即答しました。
「はい! すっっっごく面白かったです!」
いつも通りの明るいトーンに、いつも通りの愛嬌たっぷりの笑顔。少なくとも私の目からは、どこにも瑕疵は見当たりません。
しかし。
「ウソね」
たった一言。それだけで、場が完全に凍り付きました。
静止した時の中で、音歌さんの口が何とかもがこうとします。
「い、いえ! あた──」
「気を遣わないでいいのよ? 素直な感想を言ってほしいの」
「……」
涼しげな顔のまま、森さんが反論の突先を容赦なく潰しました。さすがの音歌さんもこれには言葉を失うしかありません。
どうやら、森さんは音歌さんが嘘をついたと確信しているようですね。
そうでなければ、ここまで言い切りはしないでしょう。
体調不良については咎めなかったが、出演作に関する誤魔化しは看過できなかったというところでしょうか。
こうなると、下手な反論は悪手です、白状するしか道はありません。
万が一、全て森さんの勘違いで、音歌さんが本当に作品を楽しんでいたケースのみかなり気の毒ですが、反応をみるにそれも薄いでしょう。
これは音歌さんの問題です。助けたい気持ちは山々ですが、見守ることしかできません。
それに、森さんも理不尽に中学生をいたぶるようなことはしないと思います。単純な好奇心で聞いただけであって、多少気まずくなる程度で済むのではないでしょうか。
「その……」
とうとう音歌さんが観念して口を開きました。
「あたしは、別に作品を批判したいわけではなくて……演技とかはすごかったと思いますし……。ただ……」
そこまで言ってから、ちら、と森さんを見上げます。
視線を受けた森さんは、小さく微笑んで先を促しました。
「お話が、ちょっと合わなかったといいますか……。それで、面白いとは感じなくて」
お話……ですか。
音歌さんの口から出てきたのは予想外の理由でした。
あのドラマは、ジャンルでいえば所謂不倫もの。結構して幸せな家庭を築いていた妻が、ある日、夫の不倫に気づいてしまう。そして調べていくうちに、相手が自分の友人であること、義実家も息子の不倫を見て見ぬふりをしていたことなどが判明し、妻は周囲の人間が全て自分を裏切っていたことを知る。
音歌さんと私がスタジオを出た場面は、森みなみさん演じる妻が、そんな彼らをたった一人で糾弾するシーンです。その後の展開については分かりませんが、おおむねこんな話でした。
「なるほどねぇ」
音歌さんの告白に、森さんがしみじみと頷きます。
「たしかに、楽しい話じゃないわよね。苦手な人がいるのも理解できるわ」
「で、でも。私が楽しめなかっただけで、作品自体がダメなわけじゃないといいますか……」
「そんなに怖がらなくても大丈夫よ。私が強引に聞き出したんだし、気にしないで」
「はい……」
森さんの微笑みを前に、気まずそうに首をすくめる音歌さん。無理もないですね。大女優の前で出演作を批判して落ち着けというほうが難しいです。
とはいえ、面倒な事態は避けられたようでした。私としても一安心です。
音歌さんの“合わない”の方向性が良かったですね。物語が合わないというのは単なる好みの話。巧拙は関係ないので、言われた側もそこまで悪い気はしないはずです。
「一つ、質問してもいいですか」
間をおいて、今度は音歌さんの方から聞きたいことがあるようでした。
「もちろん。何でも聞いてちょうだい」
森さんが気安く応じます。音歌さんは表情にやや強張りを残したまま続けました。
「役者さんって、その役の人になりきって演技をするんですよね? 役の気持ちを考えて再現する、というか」
「そうねぇ……。方法論は人それぞれだから、感情を重ねない主義の人もいるけれど……役の気持ちを考えない役者はいないと思うわ」
「じゃあ」
それは、ひどく真剣な声でした。
「みなみさんは、どう思いましたか。……裏切られたとき。夫の、不倫を知ったとき。あの人は、どういう感情になったと思いますか?」
役者の領分に踏み込むような問いかけに、森さんの表情から微笑みが消えます。
顎に手を当ててしばし考え込んだ後、音歌さんを真っすぐに見返しました。
「……まず最初は、受け入れられないわよね。なんで、どうして。納得できなくて、理解が出来なくて、理由が知りたいという思いが先行する」
ひとつずつ、言葉が慎重に紡がれていきます。
「その後にやってくるのが、絶望。音歌ちゃんが出て行ったときのシーンは特にそうね。“顔も見たくない”。絶望して、現実から逃げたくなる。見ないようにして、存在を忘れようとして、そうやって相手の存在を自分の中から消して、なかったことにする。トラウマの症状でもあるわね」
「……絶望、ですか」
「ええ。でも不倫ドラマはあくまでエンタメ。最近は復讐ものが人気だから、最終的には絶望を打ち消すほどの怒りを持つケースがほとんど。あのドラマもそうね。主人公がただ泣き寝入りをするだけのドラマなんて、つまらないでしょう?」
思わぬネタバレをくらいました。
あのドラマ、復讐ものだったんですね。全然気がつきませんでした。
あそこまでいくと、もはや関係修復は不可能というのは分かりますが……復讐までいくとは。
「参考になったかしら?」
これでおしまいとばかりにお茶目にウインクして、森さんが話を切り上げます。
「……はい。ありがとうございます」
未だ神妙の顔のまま、小さくお辞儀をする音歌さん。
それを見届けてから、森さんはくるりと方向転換しました。
「それじゃあ、私は戻るわね。そろそろ上映会が終わった頃だと思うし」
ひらひらと手を振り、スタジオのほうへ遠ざかっていきます。
これで一件落着、と思った矢先。
「あの!」
森さんの足が止まりました。一歩引いて、こちらに振り返ります。
どうやら、音歌さんはまだ聞きたいことがあるようです。
「あのドラマは最後、どうなるんですか?」
縋るような声。
しかし、森さんの答えは淡々としていました。
「不倫した側が罰を受けて終わりね」
「……そうですか」
がっかりしたように俯く音歌さん。悲しい話が嫌いなタイプなのでしょうか。
そんな音歌さんを静かに見つめてから、「でも」と森さんが続けます。
「不倫ドラマは一つじゃないわ。ブームの火付け役になったドラマは──群像劇だけれど、主人公は最後、元の生活に戻ることができる。大衆がそれを受け入れた以上、ありえない結末ではないはずよ」
音歌さんが顔をあげました。心なしか明るんだように見えます。
「……今度、見てみます」
音歌さんの返事に、森さんもにっこりと微笑みました。そのまま「じゃあね」と今度こそスタジオに戻っていきます。
やがて、遠くで扉が閉まる音がしました。防音扉の重厚な音です。恐らく、スタジオの扉でしょう。
隣に立っている音歌さんがふぅっと息を吐きました。
「も~緊張したよ~。常に見透かされてる感じで~」
でろでろに溶けながら、また懲りずにべったりとくっついてきます。
「……見透かされて困ることがあるんですか?」
「そんなことないけどさぁ~。海鈴ちゃんのいじわるっ!」
当然の返しをしたつもりが、脇腹をぽかぽか殴られました。非常に理不尽です。
しかし、さすがにそろそろ戻る必要がありますね。
「私は戻ります。音歌さんはどうしますか?」
「うーん。私もそうしよっかなぁ」
歩き始める私に音歌さんが付いてきます。
ふと、気になっていたことを思い出しました。
「結局、気分は悪かったんですか?」
私の問いに、音歌さんはにんまりと笑って。
「ひ・み・つ」
口元に一本指をたててきました。
……果てしてどちらなのでしょうか。森さんと違い、私には判別のための手立てがありません。
ですが、いずれにしろ私には関係ないことです。体調を慮って聞いただけではあるので。
スタジオの前へたどり着きます。扉を開けると、祐天寺さんが涙ながらに作品を称賛する声が聞こえてきます。
その声を聞きながら、私はスタジオの階段をゆっくりと下りていきました。