教室の自称吸血鬼   作:イクラ系鮭

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 主人公の本領発揮


四話

 憲法13条

 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 憲法25条

 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

 この強制食事制限システムは人権侵害の何物でもないと言うのは周知の事実であるが、どうやら声を上げる生徒は一人として見当たらぬ。

 時給は分単位で計算するものであるのに、会社のずさんな計算に甘えて請求を怠っているアルバイト。有給申請をせずに辞めるアルバイト。義務付けられた着替えの分の時給を捨てるアルバイト。アルバイト、アルバイト、アルバイト。

「アルバイト以外の例出せや」

 そんな奴は正社員になっても損をし続ける。だが、逐一すべてを請求する輩は大変面倒な人間に違いないであろう。

 私は大変面倒な人間であった。

 嘆かわしいことである。敗戦国と言えども、いつから日本国民はこうも腑抜けになったのか。

 生徒たちの代え難い人生の為に、私は私自ら教員室に直談判しに行った。ブラウザの六法全書を顔に押し付け、権利侵害を叫ぶ私に、教師陣は退学したいならそう言えと退学届を渡した。

 紛れもない名誉毀損である。

 日本の法律程度では意味がないことを知った私は仕方がないので雑草食を続けるが、食えども食えども体重は落ちる一方である。何事かとネットで調べてみれば、どうやら摂取するカロリーよりも消化で消費されるカロリーが上回っているらしい。このままでは仙人ではなく即身仏コースである。

 そこで、庭にバジルを植えることにした。

「なんで?」

 せっせとプランターの土に種を埋める。これは園芸部への入部の対価として獲得したものであり、既に退部届は提出してある。

 バジルは比較的簡単に培うことが可能であり、味もいい。この時期になると虫がつきやすいが、これまた園芸部から拝借した防虫ネットとお手製らしき忌避スプレーによって対策可能であろう。

「明らかに返す気ないよね?」

 前述のとおり、これらは園芸部から拝借したものである。私が部室で本を読んでいる男に使ってもいいかと訊けば、彼は快く承諾してくれた。その気前の良さを見習い、こちらも気前よく借りなければならない。

「いや、相手君の事分かってなかったよね?」

 そんなことはあるまい。確かに彼は入部三日目だが、園芸部の立派な一員である。あんまり彼の認識処理能力を下に見るのはやめたまえ。

「釈然としない……」

 私はせっせと種を植える。友人はそれを手伝いもせず、ただぼけっと眺めていた。手伝え。

 やがて最後のひと粒に土を被せた私は、ジョウロを手に取り万遍なく水を与えた。土は足るを知らず、際限なく水を飲み込んでいく。焦げ茶の土が一面すっかり黒くなり、ジョウロがプラスチックらしい軽さになった頃にはもう日が高く上がっていた。

 さて、待つとするか。

 

 後日、全く芽が出ていなかったので血を垂らすようにしたら、1週間で収穫可能なサイズとなった。

「おかしい!」

 なにもおかしくはない。純然たる努力の結果である。血と汗の結晶である。

「血じゃん。一日に一回水あげてただけだし、たまにあげ忘れてたから九割血じゃん」

 私は血と汗と涙の結晶をつみ上げる。

「だから血の結晶だろ。汗と涙どこだよ」

 土臭さの中にハーブらしい爽やかな香りが抜ける。

 私はタッパーいっぱいにバジルを詰め込み、その場を後にした。

「あれ? 仮名桐くんだよね? おーい! 備品返してよぉ! 聞こえてる? おーい!」

 私はその場を後にした。

「かわいそう」

 

 中間テストももうすぐである。教室は塩を振ったナメクジのような活気を見せていた。

 中身のない黄色い会話は消え事務的な問題の確認が飛び交い、授業中には一つの私語もない。先日までタクティカルシューターのキルレートを自慢していた学生さえ、PCのモニターではなく教科書と顔を突き合わせている。

 私はというと、今更慌てて教科書に齧りつく愚民を肴に、優雅にバジルを食んでいた。

「いや、小テストの結果ヤバかったのに何で余裕綽々なの?」

「貴様はこの一か月、一体何を見ていたのだ」

 一か月間、私と同志ひよりは図書館を拠点にひたすら学力を積み立てた。今や私に解けぬ謎はミレニアム問題くらいであった。もっとも、小テストでの傾向とこの学園の意地の悪さをを見るに、中間テストの最終問題にリーマン予想を備えていてもおかしくはないが。

 私は掌の上の古ぼけた方位磁石を眺めた。針は堪えず回っている。

「それよりも、こちらの方が問題だ」

「ずっと思ってたけど、それ何なの?」

 この方位磁石はある骨董品店で都合よく安値で購入した物だった。これ自体には何の力もないが、大きな力に靡く性質がある。あの店主の見る目のなさには憐憫すら覚えるが、無自覚とはいえあれだけ曰くつきを集めてケロリとしているその胆力には拍手を送りたいくらいだ。

「先日まではここまで回っていなかった。何かが来ているようだ」

「何かって?」

 私はぱちんと方位磁石の蓋を閉じた。その音にクラスの何人かが反応する。

「今に分かる」

 方位磁針をポケットにしまい込み、私は廊下へと躍り出た。符を懐に備え、一刻も早く安寧の約束されたあの部屋へと肩で風を切って無駄に長い廊下を闊歩する。廊下には帰っても勉強以外の選択肢がないのにも関わらず自室へと向かう、死人のような顔をした生徒が山といた。これと比べれば、我が友人は生きていると言っても過言ではないかもしれない。

「表出ろや」

 とっくに表である。

 その時、ふと向こうから私の歩みを遮るようにやってくる一人の女子生徒と目が合った。彼女はカツカツと硬質な音を響かせ、杖をつきながらゆっくりと歩みを寄せてくるが、私は障碍者も差別しない。しかし、押しのけて先を急ごうとしたところ、私の腕は彼女の隣を歩いていた冷めた視線の女子生徒に掴まれていた。

「仮名桐さんですね?」

「こいつが?」

 失礼極まる態度だった。私はさっさと手を払い除けて帰路に着こうとしたが、名称不明の女性生徒はやけに力を込めていて、簡単には振り払えない。

「私は坂柳有栖といいます。こちらは神室真澄」

「そうか。では失礼する」

 去ろうとする私の腕を、神室真澄は両手を使って掴んできた。

「これも何かの縁でしょう。折角なのでお茶でもしませんか?」

 そう言ってほほ笑む坂柳を私は鼻で笑った。

「勿論だ。そちらの奢りで構わないな?」

 

 案内されたのはあるカフェだった。

 茶は基本的にチャノキの加工物である。茶外茶としてチャノキ以外の植物を原料とした飲み物も同様に茶と呼称するが、私はコーヒーが茶であるとは認識したくもない。折衷案としてナチュラルカフェイン含有飲料という枠組みを作りそこにすべて投げ込むと言うのが考えられる。私はそれで全く構わない。私は濃縮還元のジュースしか飲まない。

「どうぞ。お好きなものを頼んでくださって結構ですよ」

「心配せずとも、元よりそのつもりだ」

 坂柳が紅茶を頼む中、私は一切の気後れを見せることなく季節のフレッシュフルーツミックスジュースを要求した。神室が舌打ちをしたようだが、鳥が鳴いた程度で腹を立てる程私は狭量ではない。

「それで、この私に態々出向いてまで食事を恵むとは、一体どのような慈悲の現れか。Aクラスの坂柳有栖よ」

「名もなき生徒だなんて、とんでもない。貴方の名は存じ上げております。仮名桐さん」

「悪名の方だけどね」

 神室の軽口をフレッシュジュースで流し込む。果実の甘味が五臓六腑に沁み渡り、細胞が歓喜の声を上げる。しばらくの後、私はストローから口を離した。

「結構。さっさと理由を述べたまえ」

「ポイントについてです。どうやら、かなり”苦悩”されているようですね」

「言われてやーんの」

 友人にゲンコツを落とし、私は目で続きを促した。坂柳は気味の悪い笑みを浮かべて言った。

「私と勝負をしませんか?」

「……いいだろう。神室、テンカウントの準備をしておけ」

「いや、絶対ボクシングじゃないでしょ」

 坂柳はカラカラと笑った。

「違います。20000ポイントを賭けてチェスの勝負をしようと思いまして」

「なぜ私なのだ」

 坂柳は笑うのを止めた。その目は私の脳を探る様に細かく振動していた。

「私にはあなたの言動が理解できません。だからです」

 私は喉を鳴らして方位磁石を取り出した。針は回っていない。

「随分愉しそうに自分の無能を晒すのだな。負けた時の保険を掛けるには早すぎるのではないか?」

 友人がクスクスと笑う。それを聞いたのか、坂柳は目を細めたまま杖の先で床を小さく突いた。

「面白い方ですね。俄然、楽しみになってきました」

 彼女が神室に視線を送ると、神室はやれやれといった様子でため息をつき、ついてこいとだけ言い残してカフェを出た。

 向かった先は、学園の一角にあるチェス部の部室らしき部屋だった。放課後の時間帯とはいえ人影はなく、木製の重厚なテーブルに数面の大理石のチェスボードが鎮座しているだけだ。静寂な空気は私好みであるが、盤の上のモノトーンの駒どもは酷く無機質に部外者たる私を睨んでいるように感じられた。

 坂柳が向かいの席に優雅に腰掛ける。

「ルールはご存知ですね?」

「いや、今調べる」

 あんぐりと口を開けた神室を尻目に、スマホでルールを検索する。対戦相手を待たせるのもマナーが悪いので、さっさと目を通して盤になおった。

「今ので本当に分かった?」

「そうだよ。まだスマホ慣れてないのに」

 ええい、貴様はどっちの味方なのだ! それに私が文明の利器に慣れないのはあんな場所に私を幽閉していた父の責任だ!

 私は咳払いをして、念のため、部室に備え付けてあったチェスのルールブックを拝借する。

 そして、用意が出来たことを告げた。

「そうですか。……先手は譲りましょうか?」

「いや、コイントスで決めるとしよう。私は表だ」

 私は学外から持ち込んだ500円玉を指で弾いた。澄んだ音を立てて回った小金は坂柳の手に収まった。坂柳はこちらに見えるようにコインを翳した。

「裏ですね」

「では、そちらが先手だ。あと、一つルールを追加しよう」

 私は一本指を立てて宣言した。友人はその指を何とか拳に畳もうとする。

「なんですか?」

「相手が駒を動かしてから、20秒以内に指すこと」

 それを聞いた坂柳はいやらしく微笑んで言った。

「構いませんよ。それくらいのハンデは――」

「何を言っている。これは双方に適用される時間制限だ」

「正気?」

 神室が私の顔を覗き込む。実に目障りだ。

「では、これを使いましょう」

 そういって坂柳が取り出したのは目覚まし時計のようなものだった。

「これは対局時計といって、自分の手を指し終えたら目の前のボタンを押します」

 坂柳が実際に私の側のボタンを押すとカチッと音が鳴り、坂柳側のボタンが押せるようになった。

「押すとタイマーが止まり、残り時間もリセットされます。分かりましたか?」

「ああ」

「では、始めましょうか」

 そう言うや否や、坂柳は静かにポーンの駒に指を掛けた。私は方位磁石の蓋を開く。針は回り始めていた。そろりと友人が近寄ってきて、私に囁く。

「勝算あるの?」

「十分にな。だが、協力してもらう」

 私は友人の耳元で囁いた。友人はニヤリと笑った。

 カチッ。

「あなたの番です」

 私は同じくポーンに手を伸ばした。さて、ポイントがかかっているとなれば、全力を出す他ないな。

「最終確認だ。私が勝ったら二万ポイントを頂戴する」

「私が勝ったら、あなたから二万ポイントを徴収します」

 

 勝負は平行線を辿った。私は涼しい顔で、会話を進めた。

「何故、Dクラスに向かっていた?」

「何のことでしょう」

 カチッ。ポーンが一つ進んだ。

「あの方向にはCかDクラスしかない。Aクラスの方針は知ったことではないが、今更Cに用はないだろう」

「その通りです。実は、あなたを探しに向かっていたんです。あなたの目撃される場所は決まってガーデンか教室でしたから」

「嘘だな」

 カチッ。私と坂柳の視線が交錯する。

「どうしてそう思ったのですか?」

「貴様は私のことなどどうでもいい。理解できないことは脅威足り得ない。そう思っているからだ。ならば、態々その体で出向いて確認する意味はない」

 カチッ。坂柳はこちらに聞こえるようにため息を吐いた。

「……あなたの奇行は調べるまでもなく耳に入っていました。往来で奇声を上げる、授業中に書道をする、プールで厳罰を食らう、小テストで自己採点など挙げればキリがありませんが、頭が切れると言うのは聞いたことがなかったですね」

「話題を逸らしたつもりか? あの時、貴様の目的はDクラスにあった。それは何だ?」

 カチッ。坂柳は私の眼を見て言った。

「Dクラスのリーダーを確認しようと思いまして。中間テストも迫る中、実権を握っているのは平田洋介なのか、あの生徒会長の妹である堀北鈴音なのか」

「それも嘘だ。だが、真実もあるな。貴様の目的は人だった」

 カチッ。私はチェス盤を指で叩く。

「苗字。あ、か、さ、た、な。あ、か。ア行か。あ、い、う。あ。一文字目は”あ”。東、綾小路。綾小路か。目的は」

「……」

「貴様、何を知っている」

 カチッ。私はチェス盤を叩くのをやめる。代わりに、ナイトを手の中で弄び始めた。

「……ただの旧友です」

「そうか。……奴は貴様の事を憶えているぞ」

「え?」

 カチッ。坂柳の呆けた顔に愉悦が沸き上がる。

「奴に会ったら、同じようにチェスをするのか?」

「え、ええ。そのつもりです」

「何故だ?」

「……あなたは天才とは何だと思います?」

 カチッ。タイミングと語調から、私はその質問を坂柳の芯になる物だと確信した。

「私の事だ」

「ああ、そうですか。私は生まれた時に授かっている才能であると思います」

「なるほど。だから、綾小路か」

「それは、貴方、どこまで知っているのですか?」

「何も知らぬ」

 カチッ。困惑する坂柳をよそに、私はナイトでルークを刺しにかかる。

「だが、その議論は無意味だ。この学校は全てを実力で測る。天才であれ、凡才であれ、無才であれ、結果が全てだ。それを分かって入学したのだろう。そして、その実力さえも不条理の前には影すら残らない」

「その不条理とは何でしょう」

「……楽しそうだな。私の経歴を知っているのか?」

「いいえ」

 カチッ。がたがたと部室の扉が揺れる。私はそれを一瞥して、何もしない。

「この学校には隠されているが様々な不祥事がある。その一つを話すとしよう。昔、あるDクラスの生徒がいた。例によって初めの一か月でポイントを使い果たし、新たに支給されたポイントもすぐに食事で消えた。金がないという話は簡単に広がる。目を付けたのはBクラスだった」

 カチッ。がたがた。

「そこからの出来事は全て一週間の内に起こった。その生徒には偽物の恋人が出来て、監視カメラのない空間に呼び出され、暴行を受けた。そして、耐えきれずに退学し、自殺した。……この学校の監視カメラはそれから増設された」

「そうですか。その話と不条理に何の関係があるんです?」

「その生徒は治らない傷を負った」

 カチッ。がたがた。がたがた。扉の揺れは激しさを増す。私はまだ動かない。

「まさか、欠損するまで暴力を?」

「いいや、貴様はもう分かっている筈だ。その生徒は女子だった。その傷はこの校舎にも刻まれている」

 カチッ。がたがたがたがたがたがたがた。すりガラスの向こうに何かが見える。それは人間ではない。

「……ねえ、なんかヤバそうなんだけど。この勝負はまた明日にしない?」

「部外者は黙れ。その傷は形を持った。それはカメラに映らない。それは肉眼でのみ目視できる。それはカメラの外にいる生徒を狙う。それは流れる血とともに現れる」

 カチッ。がたがたがたガタガタガタガタ。扉の下の隙間から、黒い血が滑るように流れ込む。私は懐から札を出して、扉の上下左右に飛ばした。札はぺたりと張り付いて、血はそこに透明な壁でもあるかのように札の前で止まった。電灯が点滅する。坂柳はナイトを後ろに退かせる。

「人間はこれに成す術もない。貴様も、貴様も。それの前には物理法則すら平伏する」

 カチッ。がたがたがたガタガタガタガタ。坂柳は動くことが出来ない。部屋の全ての角から赤黒いシミが浮き出始める。それは部屋の中心に向かい、沁み込んでいく。電灯は赤い光を発している。

 私は立ち上がって、翼を広げるように両腕を横に伸ばした。

「実力も、才能も、教育も、何の意味もなさない。この部屋には監視カメラがない。そして、ポイントを賭けてのチェスはここで何度も行われているな? ならば、そこには人間の情念が溜まる。恨み、辛み、妬み、憎悪。それはよくないものを引き寄せる。貴様は今のやり方で本気で人間を支配できると思い込んでいるようだな。だが、それは違う。それなら機械を使う方が効率的だ」

 ガタガタガタガタガタガタガタ。扉は歪み、今にも外れんばかりである。札は赤黒く腐り落ち、ゆっくりと鉄錆の臭いが足元へ這いよる。部屋の壁は黒くなり、ささくれ立つ。電灯は黒と赤に明滅する。

「何よこれ。何なのよ!」

「これ、は……」

「貴様は人間の感情を甘く見ているな。それは押し殺すものではない。押し殺せるものではない。殺した先にこれがあるのならば、貴様はどうする? 進化の過程で感情を持たないものは数多生まれた。にもかかわらず、何故人間が感情を持つのか考えたことはないのか? 人間が非合理的な感情をもつのは、非合理的なものへの対抗だからだ。”そういう”ものへのただ一つの抵抗だ」

 ガタガタガタガタガタガタガタ。かちゃり。

 ひとりでに鍵は開いた。そして、扉が、ゆっくりと――。

「だが、安心しろ。貴様らは私に救われる。この教室には既にカメラを仕掛けて置いた」

 私はルールブックを探す際に棚に設置しておいたスマートフォンを指さした。そのスマホは録画状態だった。

 瞬間、無機質な蛍光灯が激しく明滅する。そのあまりの光量に眩んだ眼が正常な視界を取り戻した頃には、ただ元の部室が何事もなかったかのようにそこにあった。微かに鼻の奥に残った鉄錆の臭いだけが、あの出来事が現実であると告げているようだった。

 私は悠然とスマホをポケットに再収納し、代わりに端末を取り出して坂柳に突き出した。しかし、坂柳は反応もせず唖然としている。呆れた私は端末の角で愚鈍な坂柳の頭を叩いてやった。

「痛っ、何ですか?」

「私の勝ちだ。貴様の()()()()でな。ポイントを寄越せ」

 坂柳は今更素早く時計に目を移す。時計のボタンは坂柳の方に上がっていた。目を見開いて盤面を確認した坂柳は肺に溜めた空気を吐き出しきると、ようやく端末を取り出した。

「疑うならば録画した映像を送るか?」

「いえ、結構です」

 私は坂柳の操作を見守り、確かに二万ポイントが振り込まれたのを確認して端末をカバンに放り込んだ。

「本来ならば、我が高説の分の料金も徴収するところだが、この安い勝利に免じてサービスにしておいてやろう」

「……仮名桐叫さん。貴方の事はよく覚えておきましょう」

「そうか。では私は貴様の事など早々に忘却することとしよう」

 私は少したりとも歪んでいない部室の扉を開け放つ。靴を鳴らして掃き溜めを去ろうとする私の背中に、神室が声を投げかけた。

「待って。アレは何なの? どうしてアレを知ってたの? アレが他にもいるなら、私たちはどうすればいいの?」

 私は振り返りもせずに宣告した。

「聞いていなかったのか? 人間はあれに成す術もない」

「じゃああんたは――」

 音を立てて扉が閉まる。何処からともなくぬるりと姿を現した友人はクスクスと笑った。

「大成功だね。いやーまさかあんなに上手くいくとは」

「ああ」

 友人には演出と、私が立ち上がって盤に触れられない時に駒と時計を動かす役割をしてもらった。

 すっかり日も傾いているので、私は足を速める。深の影に追い付かれぬように、日光に当たらぬように。

「それで、どうやってあの女に耐えてたの? チェス初めてなのに」

「初めは綾小路、途中からは坂柳自身の手をそのまま打っただけだ」

 友人は首を傾げたので、私は分かりやすく説明を加えた。

「プロ二人を相手にする場合を考える。プロAを先手、プロBを後手だとすると、私はAに打たれた通りにBに打ち、Bに打たれた通りにAに打てばいい。今回は脳内で坂柳が後手だった場合を想像して、その手通りに打っただけだ」

「きっも。ていうか、あの時の技は使わないんじゃなかったの?」

 私は額に手を当てた。確かに、これはあの場所で培われた技術によるものだ。だが、技術に罪はない。

「私がしないのは説教だ。道を示すようなことはしない」

「してたじゃん。説教」

「あれは道を絶っただけだ。示した訳ではない」

 私は玄関の扉を開ける。穢れに穢れたあの部室とは比べ物にならない神聖さが部屋を満たしていた。私は霊気を浴びて、鞄を床に落とした。

「で、あの話はどこまで本当?」

「性質以外は真実だ。貴様も知っての通りな」

 取り出したる方位磁石の針は回転を止めない。私は鞄から今朝配られた過去問の写しを取り出し、ライターで火をつけた。これにも、幾らかの情念が見える。

 私は燃え殻をシンクに流すと筆をとった。時は近い。




 主人公の得意分野は運動でも学問でもなく、圧倒的に思考予測。メンタリストかな? 
 これも経験のたまもの。
 人間は対抗できない。では主人公は?

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