世界の片隅で愛を紡いでいたケモノ   作:星乃 望夢

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第八話≠第壱話

 

電車は、箱根湯本の手前、小田原あたりで完全に止まってしまった。

 

アナウンスが告げる「特別非常事態宣言」。

 

スマホなんてない、携帯電話すら普及しきっていない2015年。

 

公衆電話の列に並ぶ人々を横目に、俺は駅を出て、人気のない道路を歩いていた。

 

(……引きが良すぎるだろ、俺)

 

まさか、転移したその日が、記念すべき「第1話」だなんて。

 

空は憎たらしいほど青く、耳をつんざくような蝉時雨が降り注いでいる。

 

そして、その少年はいた。

 

ガードレールのそば、公衆電話ボックスの近く。

 

白い半袖シャツに、少し大きめのズボン。

 

足元にはボストンバッグ。

 

華奢な肩をすくめるようにして、誰もいない道路に立ち尽くしている。

 

碇シンジ。

 

14歳の、世界の運命を背負わされた少年。

 

俺は努めて自然を装い、彼に近づいた。

 

彼はビクッと肩を震わせ、不安そうな瞳をこちらに向けた。

 

俺は一瞬ためらったが、ここで「怪しいおじさん」と思われて逃げられるわけにはいかない。

 

とっさに口をついて出たのは、彼を縛り付ける呪いの言葉を利用した嘘だった。

 

「……君が、シンジ君だね?」

 

「え……あ、はい。……あの、あなたは?」

 

「父上の使いだ。迎えに来たんだが……どうやら電車が止まってしまったみたいでね」

 

「父さんの……?」

 

シンジ君の顔が曇る。当然だ。彼にとって父親は恐怖と拒絶の象徴でしかない。

 

だが、そのお陰で警戒心よりも困惑が勝ったようだった。

 

その時だった。

 

じり、と肌が粟立つような感覚。

 

背筋に冷たいものが走り、俺は反射的に通り向かいへと振り返った。

 

陽炎揺らめくアスファルトの向こう。

 

一瞬、音が消えた世界。

 

そこに、彼女が立っていた。

 

青白い肌。

 

水色の髪。

 

綾波レイの幻影。

 

(……ッ!?)

 

俺が驚愕に目を見開き、瞬きをしたその刹那。

 

幻影は陽炎に溶けるように消失していた。

 

「……え?」

 

シンジ君も気づいたのか、同じ方向を見て呆然としている。

 

俺たちが「あちら側」で見たアニメの演出じゃない。

 

これは現実の怪奇現象だ。量子的な干渉か、リリスの導きか。

 

だが、考察に浸る時間は与えられなかった。

 

ズゥゥゥゥゥン……!!

 

地響き。

 

いや、大気が震えている。

 

山間部の向こうから、鳥たちが一斉に飛び立った。

 

「な、なに……?」

 

シンジ君が後ずさる。

 

俺は彼を庇うように一歩前へ出た。

 

山の稜線から、それは現れた。

 

黒く、ぬらりとした巨体。

 

白い骨のような仮面。

 

赤い球体。

 

第三使徒、サキエル。

 

テレビ画面で何度も見たデザイン。

 

けれど、実物が放つ圧倒的な「死」の圧力が、俺の全身を硬直させる。

 

でかい。あまりにもでかい。

 

あんなものが歩くだけで、人は虫けらのように踏み潰される。

 

「……来るぞ、シンジ君!」

 

「う、嘘だ……ロボット…? 怪獣…!?」

 

腰を抜かしそうになるシンジ君の腕を、俺はガシッと掴んだ。

 

大丈夫だ。シナリオは知っている。

 

国連軍の攻撃が始まる。VTOLの編隊が来る。

 

そして、爆風と炎の嵐の中を切り裂いて、あの「青いスポーツカー」が突っ込んでくるはずだ。

 

「しっかりしろ! じきに迎えが来る!」

 

「む、迎えって……父さんの!?」

 

「いや……もっと、最高にいい女だ!」

 

俺はサキエルの進撃を見上げながら、叫んだ。

 

来てくれ、ミサトさん。

 

俺は、貴方に会うために、時空を超えてここに来たんだから。

 

 

◇◇◇

 

 

バシュウッ、バシュウッと空気を切り裂く鋭利な音が頭上を走り抜ける。

 

国連軍のミサイル群だ。

 

それらは吸い込まれるように巨人の顔面へと着弾し、オレンジ色の爆炎の花を咲かせた。

 

しかし、煙が晴れたそこには、傷一つない白い仮面が無機質にこちらを見下ろしているだけだった。

 

ATフィールド。人類の通常兵器が一切通用しない、神の障壁。

 

「……ッ、来るぞ!」

 

サキエルの目が怪しく光った瞬間、光の杭のようなパイルが射出された。

 

上空を旋回していた国連軍のVTOLが、紙細工のように翼をへし折られる。

 

制御を失った鉄の塊が、黒煙を吹きながら俺たちの目の前へと螺旋を描いて堕ちてきた。

 

「うわぁぁぁぁっ!?」

 

腰を抜かしかけているシンジ君の襟首を掴み、俺は地面へと彼を押し倒した。

 

「伏せろッ!!」

 

シンジ君の細い身体を抱きすくめ、自分の背中で覆いかぶさる。

 

直後、鼓膜を破らんばかりの轟音。

 

背後で地面が跳ね上がり、アスファルトの破片がバラバラと降り注ぐ。

 

見なくてもわかる。サキエルが、堕ちた機体をその巨大な足で踏み潰したのだ。

 

圧倒的な質量の暴力。

 

そして、皮膚をチリチリと焼くような猛烈な爆風と熱波が押し寄せてくる。

 

(……死ぬか!?)

 

俺は歯を食いしばり、衝撃に備えた。

 

だが――。

 

耳をつんざくようなスキール音と共に、俺たちの目の前に鮮やかなブルーの車体が滑り込んできた。

 

爆風と俺たちの間に割って入ったその鉄の塊が、炎の直撃を防いでくれる。

 

焦げたタイヤの匂いと、焼け付くようなエンジンの熱気。

 

運転席のドアが乱暴に蹴り開けられ、サングラスをかけた女性が顔を出した。

 

2015年の、若く、鋭利なナイフのような雰囲気を持つ葛城ミサト。

 

「ちょっち待たせたわね! 乗って!」

 

俺は呆気に取られているシンジ君を無理やり立たせると、助手席のドアを開け放ち、彼を後部座席へと放り込んだ。

 

「え、あ、あの……!」

 

「質問は後だ、シンジ君!」

 

俺も続いて狭い後部座席に滑り込みながら、運転席のミサトさんに向かって叫んだ。

 

彼女が俺という「イレギュラー」を見て訝しげな顔をする前に、俺は用意していた「嘘」を早口で叩きつけた。

 

「技術開発部技術局第一課、E計画担当の伊勢崎シオンです! リツコ博士……赤木博士の指示で、通信不通の状況下、直接伝令に来ました!」

 

「技術局……? リツコの部下なの!?」

 

ミサトさんの眉が動く。

 

所属部署の正式名称と、赤木リツコの名前。この二つがあれば、今の彼女は信じざるを得ない。

 

細かい辻褄合わせは、後でリツコさんに丸投げすればいい。あの人なら「私の知らない部下? ……面白いわね」とかなんとか言って、合わせてくれるはずだ(という願望込みだが)。

 

「国連軍は、このまま使徒ごと巻き込んでN2地雷を使用します! このエリアは数分以内に消滅する……急いでください、葛城一尉!」

 

「N2ですって!? ……チッ、あの古狸ども、また勝手なことを!」

 

ミサトさんは悪態をつくと、ギアを乱暴に叩き込んだ。

 

アルピーヌのエンジンが咆哮を上げる。

 

「しっかり捕まってなさいよ! 舌噛んでも知らないわよォ!!」

 

車体が急発進し、俺たちの身体がシートに押し付けられる。

 

背後では、サキエルがゆっくりと、しかし確実に破壊の歩を進めていた。

 

俺は震えるシンジ君の肩を支えながら、バックミラー越しに、2015年のミサトさんの真剣な横顔を見つめた。

 

(……会えた。でも、これは地獄へのドライブの始まりだ)

 

 

◇◇◇

 

 

広大なジオフロント。天井に広がる緑地とビル群、そして地下に広がる逆ピラミッドのネルフ本部。

 

動く歩道の上で、シンジ君が「す、すごい……本物のジオフロントだ……」と目を輝かせている。その横顔は、まだあどけない14歳の少年のものだ。

 

そして、迷路のような通路の先で、腕を組み、不機嫌そうにヒールを鳴らして待っていたのは、白衣姿の赤木リツコだった。

 

「たく……。この非常時に迷子だなんて、信じられないわ。ミサト、貴女には『地図を読む』という基礎教養が欠落しているの?」

 

「うっさいわね! 構造が複雑すぎるのよ! ……あ、紹介するわ。こっちがシンジ君。で、こっちが……」

 

ミサトさんが俺を紹介しようとするより早く、リツコさんは俺の目の前に歩み寄ると、ポケットから一枚のカードを取り出した。

 

「伊勢崎シオン君。……貴方、デスクにIDカード、忘れていたわよ」

 

リツコさんは無表情のまま、俺の胸ポケットにネルフのIDカードを滑り込ませた。

 

俺が驚いて顔を上げると、彼女は瞳を一瞬だけ細め、誰にも聞こえないような声量で、けれどはっきりと囁いた。

 

「……2/3で当てたんだもの。70%としては、上出来の博打ね」

 

ドクン、と心臓が跳ねた。

 

70%。それはあの「夢」の世界で、俺の魂の固定化率が止まってしまった数値。そして、俺があちらの世界へ戻るか、ここに残るかの賭けの確率。

 

彼女は、覚えている。

 

いや、あの世界の記憶を持ったまま、この2015年の肉体に「定着」したんだ。

 

「は? 何よリツコ、その数字。パチンコの確率か何か?」

 

ミサトさんが不思議そうに首を傾げる。

 

リツコさんはすぐにいつもの冷徹な科学者の顔に戻り、「貴女と一緒にしないで頂戴」と鼻を鳴らした。

 

「さあ、急ぎましょう。初号機の冷却は完了しているわ。……伊勢崎君、貴方もE計画担当として、シンジ君のフォローに入りなさい」

 

「は、はい! 了解しました、博士!」

 

俺は敬礼を返し、リツコさんの背中を追う。

 

その背中は、あの増築した部屋で俺に見せていた無防備なものではなく、鋭く尖った氷のような背中だった。

 

(……リツコさんは、分かってくれている。でも……)

 

俺はチラリと隣を歩くミサトさんを見た。

 

彼女は俺の視線に気づくと、「ん? なに? 緊張してる?」と、あくまで部下を気遣う上官として、ニカっと笑いかけてきた。

 

その笑顔は眩しいけれど、そこには俺への「愛」も「共有した時間」の記憶もない。

 

寂しさが胸を締め付ける。

 

けれど、今は感傷に浸っている場合じゃない。

 

この先に待っているのは、紫色の初号機と、残酷な選択を迫られるシンジ君だ。

 

「……行こうか、シンジ君」

 

俺は少年の背中を押し、運命のケージへと足を踏み入れた。

 

 

◇◇◇

 

 

第7ケイジの広大な闇が、轟音と共に切り裂かれた。

 

無数の投光器が一斉に点灯し、赤褐色のプールの中から、その巨人が姿を現す。

 

拘束具に繋がれた紫色の装甲、そして悪魔を思わせる鋭い眼光と一本角。

 

「顔!? 巨大ロボット?」

 

シンジ君が息を呑み、後ずさりながらミサトさんから渡されたマニュアルを必死に捲る。

 

その横で、リツコさんが白衣のポケットに手を入れたまま、淡々と、しかし誇らしげに告げた。

 

「探しても載ってないわよ。人の造り出した、究極の汎用人型決戦兵器──人造人間エヴァンゲリオン。その初号機。建造は極秘裏に行なわれた、我々人類最後の切り札よ」

 

「これも、父の仕事ですか?」

 

シンジ君の震える声が、広大な空間に反響する。

 

その問いに答えるように、頭上のガラス張りの司令室に、あの男が立った。

 

「そうだ……久し振りだな」

 

「父さん……っ」

 

碇ゲンドウ。冷徹なその瞳が、14歳の息子を見下ろしている。

 

再会の感動など欠片もない。ただ道具を見るような目つきで、彼は短く、決定的な言葉を吐き捨てた。

 

「……出撃」

 

口元に浮かんだ微かな、しかし不敵な笑み。

 

「出撃って、零号機は凍結中でしょ!? まさか、初号機を使うつもりなの!?」

 

ミサトさんが血相を変えて叫ぶ。

 

「他に道はないわ」

 

リツコさんが即座に、感情を排した声で返す。

 

「でもパイロットがいないわよ!」

 

「さっき届いたわ」

 

リツコさんの視線が、ゆっくりとシンジ君に向けられる。

 

「……マジなの」

 

ミサトさんが絶句し、シンジ君は何が起きているのか理解できない顔で立ち尽くしている。

 

「碇シンジ君」

 

「っ、あ、はい」

 

「貴方が乗るのよ」

 

「え……?」

 

シンジ君の顔から血の気が引いていく。

 

無理もない。数年ぶりに呼び出された父親に、いきなり怪物と戦うロボットに乗れと言われる。

 

「逃げちゃダメだ」という呪文で自分を縛り付けなければ、心が壊れてしまうほどの重圧。

 

このままでは、彼は心に深い傷を負ったまま、恐怖だけでエヴァに乗ることになる。

 

あるいは、綾波レイの傷ついた姿を見せつけられ、罪悪感で動かされることになる。

 

俺は一歩、前に進み出た。

 

そして、今にも逃げ出しそうなシンジ君の華奢な肩に、そっと手を置いた。

 

「大丈夫だ。君になら出来る」

 

「え?」

 

シンジ君が驚いたように顔を上げ、俺を見る。

 

俺は彼の怯えた瞳を真っ直ぐに見つめ返し、あえて「大人の弱さ」を晒した。

 

「いや、今君にしか出来ない事だ。俺たち大人には無理なんだ。……恨んでくれて構わない。俺たちの無能さを赦さないでくれて良い。けれども、それでも。今、エヴァに乗れる君に頼るしかないんだ」

 

命令でも、強制でもない。

 

ただの、無力な一人の人間としての、切実な「お願い」。

 

それは、自分の存在価値を見失い続けてきた彼にとって、もっとも欲しかった言葉だったのかもしれない。

 

「……僕に、出来るんですか?」

 

縋るような問いかけ。

 

「ああ。出来る」

 

俺は確信を込めて頷いた。

 

その言葉が、彼の心の奥底にある澱を少しだけ溶かしたように見えた。

 

シンジ君は俯き、一度だけギュッと目を閉じた。

 

左手が、強張ったように開いたり、閉じたりを繰り返す。

 

彼が自分の中で恐怖と戦い、覚悟を決める時の癖。

 

そして──。

 

「やります……僕が乗ります!」

 

顔を上げた彼の瞳には、まだ恐怖の色は残っていたが、確かに自らの意志が宿っていた。

 

「……ありがとう、シンジ君」

 

俺は、彼の肩をもう一度強く握りしめた。

 

その「ありがとう」は、世界の命運を託す重みと、過酷な運命を背負わせてしまう謝罪、そして何より、彼の勇気への心からの敬意だった。

 

シンジ君は少し驚いたように目を見開き、それから、ほんの少しだけ、はにかむように小さく頷いた。

 

 

 

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