人類と魔族の共存する理想都市   作:ファストナハト

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『第二幕:ビューネの歓待』

 

 

 

勇者ヒンメルの

死から31年後

レーア独立領

宴都ビューネ

ターフェル通り

 

 

 

 

 通りは、先程よりも光を増していた。

 屋台の列は切れ目なく続き、布張りの天幕が連なって夜空を押し下げる。吊るされた灯りの色は赤、橙、青と混ざり合い、石畳に落ちる影さえも賑やかだ。鉄板の上で跳ねる油の音、グラスを打ち合わせる乾いた音、どこかで鳴らされる弦楽器の調べ。それらが1つの流れになって、街路を満たしている。

 

 シュライアはフリーレン一行の先頭を歩いていた。

 彼女は時折、屋台の店主に軽く手を上げ、何か短く声をかける。返ってくるのは敬礼にも似た仕草や、冗談めいた言葉だ。

 フリーレンは、その背中を見ながら歩く。

 

「……まさか、魔族なんかと一緒に歩く日が来るとは思わなかった」

 

 殆ど吐息に近い声だった。

 都市の喧噪に紛れさせるつもりだったのだろうが、シュライアはそれを耳聡く拾い上げる。

 

「あら、折角この私が都市を案内してあげているのに、“魔族なんか”だなんて。少しあんまりな言い方じゃないかしら」

 

 シュライアは振り返らずに言った。

 声はあくまで軽く、歩調も崩さないが、軽さの奥にやはり冷たさが混じっている。

 

「……“北の魔王”を討った大魔法使いの口から、そんな言葉を聞かされるなんて背筋が凍っちゃうわ。私もじきに葬送されちゃうのかしら?」

 

「…………?」

 

 フリーレン一行の歩みが僅かに遅れた。

 

 ──北の、魔王?

 

 そんな呼び方は聞いたことがない。

 勇者ヒンメル、僧侶ハイター、戦士アイゼン、そして魔法使いフリーレンが討った存在は確かに大陸最北端のエンデに魔王城を築き根城としていたが、だからといって“北の魔王”などと呼んだりはしない。

 この世で魔王と呼ばれる存在は、後にも先にも1人だけだからだ。

 

「……何か変なことを言ったかしら」

 

 妙な沈黙に気付いたシュライアは、振り返ってフリーレン一行に問う。

 

「北の魔王、なんて呼び方は初めて聞いたよ。まるで魔王が他にもいるみたいな呼び方だ」

 

 フリーレンの指摘にシュライアは足を止めずに歩きながら、さらりと事実を口にする。

 

「……ああ、そうね。そうだったわね」

 

 シュライアはまるで窓から見た天気の話でもするような、さも当然といった風に続ける。周囲は相変わらず賑やかで、笑い声が絶えないのに、彼女の言葉だけが妙に澄んで聞こえた。

 

「ここでは、勇者一行が倒した魔王のことは“北の魔王”って呼ぶのよ。そして、この独立領にはそれとは別に魔王様がいらっしゃるのよ」

 

「……レーアか」

 

 フリーレンは鋭い視線をシュライアに向けると、シュライアの口元が僅かに弧を描いた。それはただの微笑みというより、確かめるような表情だった。こちらがどこまで知っているのか、どこまで踏み込んでいるのかを測る仕草。

 

「そう。“南の魔王”──って呼ぶ人もいるけれど、ここでは魔王と言えばレーア様のことよ」

 

 フリーレンは、シュライアの発言に残った“様”という言葉を頭の中で拾い上げた。

 目の前の魔族──シュライアは、立ち振る舞いや魔力量から見て、明らかに大魔族だ。長い年月を生きる中で、殺した人間も100人や200人じゃ済まないだろう。

 一方、レーアは確かに変わった魔族ではあったが、大魔族などではなかった。ましてや、自分たちが討伐した魔王──ここの言葉で言えば、“北の魔王”とは比べ物にならないほど弱かったはずだ。

 通常、魔族は魔力量が多いほど強く、そして強い者が上に君臨する。付け加えれば、肝心の魔力量は生きている年月によって増大するため、魔族は生きている限り上下の立場が逆転することは起こり得ない。

 その法則に則れば、むしろシュライアはレーアを呼び捨てにしても良い立場のはずだ。しかし、目の前のシュライアはレーアを“魔王様”とまで呼んで変に敬っているし、どうにも魔王──北の魔王を軽視しているような節さえある。

 

「……お前みたいな大魔族が、ただの魔族でしかないレーアのことを魔王とまで呼ぶんだね。どうして?」

 

「あら面白い。あの葬送のフリーレンが、魔族の社会に興味津々だなんて」

 

 シュライアは肩越しに振り返り、口元だけでまた笑った。人間の癖をよく模倣している。

 

「でも、残念だけど理由は単純よ。私たちから見て、魔王様が“そう呼ばれるだけのこと”をしていた、それだけでしかないわ」

 

「……“したこと”って、具体的に何でしょうか。この国を創ったことは知っていますが」

 

 フェルンが淡々と問う。

 声は震えていないが、視線は鋭い。シュライアは肩越しにフェルンを見て、面白そうに目を細めた。

 

「国を創ったこともそうだけど、このビューネを宴の都として成立させたことの全てね」

 

 シュライアは再び前方の通りに向き直ると、どこか遠くを見るような目で、都市の光の帯に視線を滑らせた。

 

「……例えば魔王様は、この都市を安定して統治するために、7人の管理者を置いたわ」

 

「……7人」

 

 フリーレンがぼそりと溢すように繰り返す。

 嫌な数だ、嫌な響きだ、まるで──と、思い浮かべていたフリーレンの予想は的中した。

 

「“北の魔王”の幹部に七崩賢がいるでしょう?」

 

 フリーレンの意識が一段深く沈む。

 七崩賢──その忌々しい魔族の称号は、今も昔も旅をする中で何度も耳にしてきた。実際に遭遇した者、話でしか聞いたことのない者──つい最近、この手で討伐した者。

 

「魔王様はそれに倣って、この宴都ビューネを創る過程で、都市を管理するための7人の幹部──“賢称者”を置いたの」

 

「ケン、ショウ……?あっ、七崩“賢”だから、それを称する者、って意味か。なんかそういうのちょっとカッコいいな……俺の将来の2つ名の参考に出来そうだ」

 

「……シュタルク様、いつもそんなくだらないこと考えてたんですか?」

 

 フェルンの声音は淡々としているのに、やけにちくちくと相手に刺さる。シュタルクは肩を跳ねさせて慌てて弁明した。

 

「……い、いつもってわけじゃねえよ!?でもカッコいい名前には憧れるっていうか…… 」

 

「……………」

 

 フェルンの冷たい視線に晒され、次第にシュタルクは萎んでいくように肩を落とし、抱えていた紙包みを胸に寄せた。

 

「……ごめん」

 

 しょぼん、と音がつきそうな沈み方だった。

 フリーレンはその2人のやり取りを一瞥して、それからまたシュライアに視線を戻した。

 

「……続けて」

 

「あら、可愛い子の漫才は嫌いじゃないわよ。見ていて愛らしいもの」

 

 シュライアの微笑みに対して、シュタルクが“漫才って何だよお……”と小さく呟いたが、フェルンに睨まれて終わった。

 

「賢称者っていうのは飾りの称号じゃないわ。このビューネに於いては、他国のどんな王侯貴族よりも強い権力を持つの。このビューネの宴を永遠に続けさせる、という目的のためにね」

 

 シュライアは歩きながら、通りの左右に視線を滑らせる。

 揚げ物の匂い、砂糖菓子の甘い湯気、酒場から漏れる笑い声。様々な賑わいの光の粒が夜の中で踊っている。

 

「同時に、私たちはビューネの戦力でもある。統治は紙とペンだけじゃ足りない、ときには剣が必要になるときもあるでしょう?」

 

 フリーレンは視線をシュライアの背中に据えたまま言う。

 

「……だから断頭台、か」

 

 断頭台。

 七崩賢の中にいた名を、フリーレンは思い出すまでもなく覚えている。《服従させる魔法(アゼリューゼ)》で死後も人類を縛り、反抗するなら首を落とすこも躊躇わなかった大魔族──つい最近、この手で自分が殺した相手。

 シュライアはフリーレンの内心を見透かしたように、口角を深く上げる。

 

「……今、頭の中で思い出したわね?あなたが討った、北の魔王の断頭台のこと」

 

 フェルンとシュタルクが同時に息を呑む音がしたが、フリーレンは目を逸らさない。

 

「知ってるんだ」

 

「もちろん。ビューネは情報が鼠みたいに都市を走り回るの。戦場の噂も、英雄譚も、死んだ魔族の名前も。ましてや“葬送のフリーレンが七崩賢を倒した”なんて、酒場の最高の肴になるわ」

 

 そこで、一行の最後尾を歩いていたシュタルクが静かに口を開く。

 

「なら、あんたも人を操ったり……その、やっぱり首を落としたりもするのか?」

 

 シュタルクの問いに、シュライアは足を止めなかった。肩越しに振り返りもしない。態々答えるほどの重みもない、と言外に示すように。

 

「しないわ」

 

 即答だった。嘘を混ぜる余地のない短さだ。

 

「賢称者の次席である私の役割は、この都市の治安維持──さっきみたいに、この私に唾を吐くような馬鹿な無法者を潰してあげること。それから……」

 

 言いかけたところで、通りの空気が一段と騒がしくなる。

 喧噪が遠方から波のように向かってくるが、何かに怯えたような声ではない。先程と同じような、熱の籠った群衆の声だ。

 

「おーい!向こうに湧いて出たぞ、しかも3匹だ!」

 

 誰かが叫んだ瞬間、屋台の店主たちが一斉に顔を上げ、客たちが立ち上がり、通りの向こうに引き寄せられるように集まっていく。

 

「あの、また騒ぎのようですが……」

 

 フェルンが違和感をそのまま口にする。

 シュライアは立ち止まり、指先で耳の近くの髪を軽く掻き上げる。喧騒の中から要点だけを聞き取ろうとする際の癖のような仕草だ。

 

「……あら、運が良いわね」

 

「運?」

 

 シュタルクが怪訝そうに眉を顰める。

 通りの向こうから押し寄せてくる熱は、明らかに期待と好奇で泡立つ声だ。群衆の誰かが笑いながら叫び、別の誰かは両手に串焼きを持ちながら右往左往し、更に別の誰かは子供を肩車をして視界を確保している。

 

「おい、早く場所取るぞ!今日は誰がやるんだ!?」

 

「ふふっ、待ってました!今日こそ一番前で見るんだから!」

 

 群衆は逃げるのではなく、寄っていく。

 まるで舞台の幕が上がる瞬間のように、街路の空気が一斉に前方へ向かって流れ始めた。

 

 シュライアは群衆の波に逆らわず、軽やかに合間を縫うようにして歩み出す。

 フリーレン一行も遅れまいと続く。通りを歩いて行くと屋台の天幕が途切れ、少しだけ広くなった交差点のような場所が見えてくる。そこは円形の広場のようになっていて、周囲の建物の窓や2階のバルコニーにまで人影が見えた。当然のように人類も魔族も入り乱れている。

 

 広場に辿り着くと、シュライアに気付いた群衆の輪が緩やかに割れ、シュライアとフリーレン一行は自然と群衆の最前に立たされる。

 

 輪の中心に入ったフェルンが足を止める。

 視線の先に、影のようなものが蠢いていた。

 

「フリーレン様、あれは……?」

 

 見た目は黒い粘体だ。

 今にも溶けそうなようで、しかし一定の形を失わない。光を吸うほど黒いのに、表面だけが僅かに虹色に艶めいている。油膜のような、薄い虹の反射。見ていると目が疲れる類の光だ。

 

 それが、狼のような形を取っていた。

 身体は粘体が強引に骨格を真似たように微妙に歪んでおり、爪の先は異様に鋭い。口元は大きく裂け、奥には白く小さな歯が気持ち悪いほど並んでおり、唾液の代わりに黒い滴が糸を引いて地面へ落ちた。

 

「……知らない魔物だ、初めて見る」

 

 フリーレンは眉を僅かに顰める。

 目の前の魔物もそうだが、周囲の人々の反応も異常だ。魔物が出たなら、普通は逃げる。そうでなくても、怯えるか立ち向かうかするはずだ。だが、この都市の市民は一定の距離を取りつつ見物するだけだ。まるで、大道芸を見る観客のような楽しげな雰囲気だ。

 

「フリーレンでも知らない魔物がいるのかよ……なあ、あの魔物一体何なんだ?」

 

宴滓獣(シュプリッター)よ」

 

 シュタルクの問いかけに、シュライアがまるで町の名物料理の名を口にするような軽い口調で言った。彼女は涼しい顔で3匹を見ている。

 

「都市の中に湧くビューネ固有の魔物。小さな鼠から巨大な竜まで、様々な魔物の姿で現れて、人類も魔族も見境なく襲う害獣よ」

 

 フリーレンは黙って、3匹を観察した。

 粘体の狼の背が一瞬だけ膨張する。中に空気が入り込んだような、あるいは別の形を思い出したような膨張だ。次いで、首の角度が通常の生物ではあり得ないほど捻れる。端的に言って気味が悪い。

 

「襲われば当然捕食されるけれど、仮に途中で助け出せたとしても安心は出来ないわ。重傷を負えば、記憶の欠落や人格の変容──精神面に悪影響を及ぼすことも報告されているの。ビューネ唯一の悩みの種ね」

 

「……悩みの種って言う割には、皆んな楽しそうに見えるぜ?」

 

 シュタルクが、広場を取り巻く群衆に視線を向けながら言った。まるで祭りの始まりのような熱狂っぷりだ。

 

「……何でここの人たちは逃げないの」

 

「逃げる?そんな必要はないわ。だってこれはビューネの催しだもの」

 

 フリーレンの短い問いに、シュライアはフリーレン一行の方に振り返って答える。何か悪巧みをしているような、薄い笑みを浮かべながら。

 

「……催し、ですか?」

 

 フェルンの声が僅かに低くなり、真意を探るようにシュライアの顔を見つめる。

 

宴滓獣(シュプリッター)の駆除は、ビューネのイベントの1つなの。ほら、外の国にもあるでしょう?大道芸、競技、試合……名前は何でもいいわ。要は見ていて盛り上がる、ってこと」

 

「随分と危険なイベントだな……」

 

 シュタルクの当然の指摘にシュライアは薄ら笑いを浮かべつつも、丁寧に説明する。

 

「もちろん、魔物には変わりないわ。だから賢称者である私の管轄──治安維持の一環として、被害が出る前に発見して討伐するの。近年は個体数が増えているから、困ったものだわ」

 

 困った、という言葉とシュライアの声の温度は全く噛み合っていなかった。

 フリーレンはその違和感を拾い上げ、問う。

 

「……なら、さっさと倒せば?」

 

 フリーレンの声と視線は相変わらず冷たい。

 シュライアは肩を竦め、指先で金髪を弄ぶ。

 

「嫌よ。私がやるとすぐ終わっちゃうもの」

 

「……何を言っているんですか?」

 

 フェルンの声音が一段冷える。

 シュタルクも、未だ両腕一杯の食べ物を抱えたまま顔を顰めた。

 

「……討伐がすぐ終わるなら、それで良いんじゃねえのか?」

 

「ふふ、分かってないわね。ワンパターンの演目ばかりじゃ、観客は飽きちゃうでしょう?せっかく集まったのに。せっかくの夜なのに」

 

「飽きるって……あれ、人間を喰うんだろ!?」

 

「喰うわよ、骨も残らないわ。でも、だからこそ観客は大立ち回りに沸き立つのよ」

 

 シュタルクの追求にも、シュライアは涼しい顔をしたままだ。

 

「だから、どちらかと言えば私は宴滓獣(シュプリッター)の討伐のときには安全確保に回ることが多いわね。見物人に巻き添えが出ないように。討伐役が逃げ道を失わないように……ほら」

 

 シュライアは指先で宙を撫でるようにして、広場の縁を示す。群衆の内側で円を描くように立つ制服の者たち。屋台の天幕の影、2階のバルコニー、路地の入口。視線を滑らせれば、要所要所に同じ意匠の帽子が見える。

 そして、軽く拍子を取るように掌を叩いた。

 

「さて。ここからは演目の時間ね。ほら、あなたたち、出番よ?」

 

 シュライアはフリーレン一行に徐に目配せをしたが、3人の頭上には同時に疑問符が浮かぶだけだった。そして、まずフェルンが首を傾げた。

 

「出番……って、何のことですか?」

 

「そのままの意味よ?今回の催しであれを討伐する役。ほら、都合良く3匹いるじゃない」

 

 シュライアは指先で黒い粘体の狼を示す。

 3匹のうちの1匹はぬるりとした前足を引きずって辺りを徘徊しており、足の関節が1つ増えたように不自然に曲がっている。地面に落ちた黒い滴が、石畳の目地に沁みて消えた。

 シュタルクは反射的に1歩引き、抱えた食べ物の山が揺れる。

 

「……いやいやいや!ちょっと待て!なんで俺たちが戦うことになってんだ!?」

 

 シュライアは楽しげに目を細め、意地の悪そうな笑みを浮かべる。

 

「だって、あなたたち結構強いでしょう?それに、旅の思い出にもなるかと思って」

 

「……本当にただの催し感覚じゃねえか」

 

 そう言って引き下がるシュタルクと入れ替わるように、今度はフェルンが前に出る。そして、旅の中で幾度も交渉役を担ってきた経験に基づいて、淡々とシュライアに問いかける。

 

「……それは、この都市の命令ですか?」

 

 シュライアが瞬きをする。

 驚いたというより、予想外の角度から刺されたことを面白がっている顔だ。

 

「命令?」

 

「はい。都市の規則、賢称者の権限、あるいは治安維持の一環として──私たちに従う義務があるのか、という意味です」

 

 フェルンの言葉は淡々としていて棘がある。シュライアは小さく笑って肩を竦めた。

 

「ふふ、生真面目な子ね。嫌いじゃないわよ」

 

「質問に答えてください」

 

 フェルンは譲らない。シュライアは唇の端だけを上げ、ようやく答えた。

 

「別に、ただのお誘いだもの。従う義務みたいなものはないわ。そもそも、私が本気で誰かを従わせたいなら、もっと別のやり方をするわ」

 

 不意に広場の宴滓獣(シュプリッター)が鳴く。

 泥沼から泡が吹き上がるような、粘体が沸き立つ音。3匹のうちの1匹が頭らしき部分を持ち上げ、鼻先のない顔を左右に振ると、光を吸う黒の表面に薄い虹が揺れた。

 フリーレンは、その動きを見て眉を寄せた。

 

 ──嫌な感じの魔物だ。

 

 姿形もそうだが、感覚的にも不快だ。

 この魔物の持つ魔力は普通の魔物とは何かが違う。まるで、朽ち果てた樽から滲み出てくる汚水を目の当たりにしているかのような、嫌な濁り。

 

「……フリーレン様、どうしますか」

 

 フェルンが小さな声で呼ぶ。

 魔力を張っているが、まだ杖自体は出していない。フリーレンの判断を待っている。

 シュタルクは抱えた紙包みと串の山を、近くの観客に申し訳なさそうに預けて両手を空けると、背中の斧の柄に掌を添える。既に口元は引き結ばれていた。

 

 輪の中心で、宴滓獣(シュプリッター)がぬるりと動く。

 異形の狼を模した粘体の脚が、石畳を這う。裂けた口が大きく開き、黒い滴がたらりと糸を引いて落ち、地面に触れた瞬間に小さく泡立って消える。

 フリーレンは大きく息を吐いた。

 

「フェルン、シュタルク、やるよ」

 

 短く言った。

 同時にフェルンが手元に杖を出現させ、シュタルクが背中の斧を手に取って軽く構える。

 シュライアは満足げに口角を上げた。

 

「ふふ、良い判断ね。そうこなくちゃ」

 

「勘違いしないで」

 

 フリーレンはシュライアを見据える。

 視線は冷たく、刃のように鋭い。褒め言葉が通じると思うな、という圧がそのまま形になっている。

 

「魔族の都市の催しに付き合う気はない」

 

 シュライアの微笑みが一瞬だけ薄くなる。

 だが、すぐに元の余裕の表情に戻る。

 

「じゃあ、どうしてやるの?そんなに私たちが嫌いなら、背を向けて去ればいいでしょう?」

 

「人助けになるから」

 

 言い訳ではない。ただの事実だ。

 シュライアは安全確保はしている、と言ってはいるがそれは魔族の言葉だ。安全に対する価値観が違う可能性が高い。そもそも、この場で被害が出ないという保証もない。しかも、襲われた後の話まで聞かされた。記憶の欠落、人格の変容。そんなものを放置する理由もない。

 

「──でも、条件がある」

 

 フリーレンの声が、広場の喧噪を切った。

 シュライアが首を傾げる。

 

「条件……報酬の話?良いわよ、言ってごらんなさい」

 

 フリーレンは1歩も引かず、右手を僅かに上げてその中に杖を出現させる。

 

「レーアに会わせて」

 

 杖を握るフリーレンの指先に余計な力は込められていない。ただ、目の前のシュライアを刺すような視線で射抜く。

 

「…………へぇ」

 

 返事はすぐには来なかった。

 というより、シュライアは一瞬だけ言葉を飲み込んでいた。これまで何を言われても無表情か薄い微笑みを浮かべるだけだった彼女が、初めて驚いたような表情をしていたのだ。

 フリーレンは隙を与えず詰め寄る。

 

「お前ならそれが出来るはずだ」

 

 魔王レーアが設けたというこの都市の7人の幹部、賢称者──その1人であるならば、魔王に取り次ぐ手段くらい持っているはずだ。

 シュライアは吐息混じりに笑う。

 

「……会ってどうするの?」

 

 シュライアの問いは柔らかい。

 けれど、その柔らかさは抱擁ではなく、刃を包む鞘のようなものだ。余裕と好奇と、少しの愉悦が混ざっていた。

 

「……1つだけ、聞きたいことがある」

 

 フリーレンは答えを選んだ。

 魔族に渡す情報を最小限に落とすためだ。

 

「でも、それはお前に言えることじゃない」

 

 シュライアは一瞬だけ瞬きをして、それからまた意地が悪そうに軽く笑った。

 

「そう、ならそれで良いわ。会わせてあげる」

 

 余りにもあっさりとした答えに、フリーレンは思わずシュライアの瞳の色を覗き込む。

 

 魔族は簡単に嘘を吐く。

 悪意があるからではない、人間を欺くことに何の罪悪感も覚えないからだ。魔族の言葉は理解するためのものではなく剣であり、口にした瞬間から相手の心を掴むための道具になる。

 

 ──魔族との交渉など、無意味な行為だ。

 

 フリーレンは長い旅路の中で、それを何度も骨身に刻まされてきた。

 口にした言葉は理解の橋ではなく、相手の隙に差し込む楔になる。譲歩を示せば、心の柔らかい場所を探られる。条件を出せば、その隙間に毒を流し込まれる。こちらが理屈で縛ったと思えば、魔族はその理屈の外側から遠慮なく踏み込んでくる。

 

 それでも、フリーレンは魔族であるシュライアに交渉を持ちかけた。

 

 あのレーアにだけは、どうしても聞かなければならないことがある。それは、この都市で人類と魔族が共存しているように見えるという現状を目の当たりにしたフリーレンが、次に進むために必要なことだったからだ。

 だからこそ、こうも事が上手く運ぶのは嫌な予感しかしない。軽い了承の言葉が、喉に刺さったまま抜けない棘みたいに残る。

 

「──フリーレン様」

 

 フェルンの声が、氷の刃のようにフリーレンの思考の端を切った。

 

 フリーレンが顔を上げると、3匹の宴滓獣(シュプリッター)がこちらを見ていた。

 鼻先のない顔が、獲物を嗅ぐように揺れる。裂けた口が、笑っているようにも見える。

 

 群衆の声が一段と高くなる。

 期待の声、歓声、名前も知らない旅人を舞台に上がったことに対する興奮。

 

 フェルンは杖を構えたまま、フリーレンの横顔を見ている。感情を表に出さない彼女だが、瞳はその心を写したように真っ直ぐだ。シュタルクも斧を握り、若干重心を落としている。喧噪の中で、彼もまた静かな呼吸をしていた。

 

「……考えるのは後です。先に、目の前を魔物を片付けましょう」

 

「……そうだね」

 

 フリーレンは頷いた。

 今はするべきことは、手を動かし魔力を練ることだ。フリーレンが1歩前に出ると、群衆の輪が僅かに騒めいた。舞台の端に役者が立ったときのような、期待に満ちた騒めき。

 

 シュライアが、少しだけ身を引く。

 彼女は最前列の観客のような立ち位置を自然に確保する。制服の者たちが目に見えない線を引くように人々を押し留め、円を広げる。

 

「フェルン。左を抑えて。シュタルクは右。私は真ん中を倒す」

 

 短い指示──けれど、2人にはそれで充分だった。フェルンとシュタルクは小さく頷く。

 

「来るよ」

 

 フリーレンがそう言ったと同時に、宴滓獣(シュプリッター)が跳んだ。

 狼の形を真似た粘体が、骨格もなさそうな身体でありながら鋭い速度を出す。足の関節は異常な角度で折れ曲がり、加速のたびに体の一部が遅れて追随する。

 

 シュタルクが斧を持ち直し、踏み込むと同時にフリーレンとフェルンが同時に跳躍した。

 

 地面を蹴る音は1つ。

 その直後には、2つの影が都市の光を横切って宙に浮かんでいた。

 

 群衆から歓声が上がる。

 まるで曲芸でもさせられている気分だ、とフリーレンは思った。舞台で突如空中に舞い上がった役者を見たような歓声。

 

 フリーレンは空中で体勢を整えながら、杖先を真下へ向ける。フェルンも同じ。2人の視線は宴滓獣(シュプリッター)の身体の中心を射抜いている。

 

 《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)

 人を殺すために開発され、魔族を殺すために洗練された一般攻撃魔法。魔物に対して最大の結果を得るには、やはりこの魔法以外ない。

 特に、この群衆に囲まれた状況で安易に火や雷などの自然物を利用した魔法を用いれば、二次被害を及ぼしてしまうかも知れない。

 

 故に──落とす。

 真っ直ぐに、上から下へ。

 余波を横に流さない角度で、叩き込む。

 

「「《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)》」」

 

 2つの声が重なり、青白い光の槍が夜の広場を縦に裂く。殆ど同時に石畳に落ち、魔物を魔力の塵に変えるはずのそれは、宴滓獣(シュプリッター)の直上で──止まった。

 

 フリーレンとフェルンの視界にあり得ない光景が広がる。

 6角形を繋ぎ合わせたような、2つの半透明の球体の膜が、2匹の宴滓獣(シュプリッター)の身体をそれぞれ覆うように張られていた。膜に落ちた《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)》は高い音を立てて弾け、魔力の破片が星屑のように散った。

 

「フリーレン様、あれはまさか……」

 

「……防御魔法」

 

 フェルンが空中で息を呑みながら呟く。

 フリーレンも僅かに目を見開いた。

 

 魔物は魔法を使わない。

 “魔力を術式として貼る”ような高度な挙動は、魔族以外の魔物の領分ではないからだ。魔物が持つのは肉体としての性質──炎の吐息、猛毒、硬い鱗などであって、人類や魔族のように魔法を使うことはない。

 

 だが、目の前の魔物──宴滓獣(シュプリッター)は、明確に防御魔法を展開した。しかも、瞬時に。

 

 2匹の宴滓獣(シュプリッター)は自身が展開した防御魔法の内側で、裂けた口を不気味に歪ませた。まるで、こちらを嘲っているようだった。

 次の瞬間、左の宴滓獣(シュプリッター)が高く跳躍した。

 

「──フェルン」

 

 フリーレンが名を呼ぶ前にフェルンは空中を飛行しつつ体を捻ると、宴滓獣(シュプリッター)の粘対の爪が虚空を裂き、黒い滴が宙に散る。

 そして、宴滓獣(シュプリッター)は落下しながら頭部をフェルンに向ける。

 

 裂けた口が開く。

 吐息も咆哮もない、代わりに生じたのは星の瞬きのような青白い閃光。

 

 フェルンの視界一杯に、青白い光の槍が迫る──《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)》だ。

 

 フェルンは杖先に防御魔法を展開する。

 最低限の大きさの6角形の薄い膜が張られ、宴滓獣(シュプリッター)の放った《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)》は夜空に向かって弾かれた。

 

「(……まるで人間の魔法使い)」

 

 フェルンは内心で呟く。

 魔物の癖に防御魔法を展開するばかりか、《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)》まで撃ってくる。しかも、自由落下の最中に極めて正確な魔力コントロールで。

 

 同時に、地上のもう1匹が動いた。

 

 フリーレンが視界の端でそれを捉える。

 黒い粘体の狼が石畳を這うように滑り、頭部を夜空に持ち上げる。鼻先のない顔がフリーレンを捉えた瞬間、やはり青白い閃光が迸る。

 

 フリーレンは身体をやや地上に向けて傾け、杖先に最短で防御魔法を描く。地上に居た宴滓獣(シュプリッター)の放った《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)》は防御魔法の真正面に炸裂し、その表面で花火のような派手な光を散らした。

 

 地上では鉄が唸る音がした。

 シュタルクが斧を振り抜き、黒い粘体の狼に見える宴滓獣(シュプリッター)の身体を横に薙ぐ──だが、手応えがない。

 肉を裂く感覚も、骨を断つ衝撃もない。斧は何かを切ったのではなく、液体を掻き混ぜただけのように身体を滑り抜けた。粘体の身体は一瞬だけ崩れたが、次の瞬間には何事もなかったかのようにぬるりと元の形に戻る。

 

「……っ、やっぱ斬撃は通らねぇか!あとこいつ何か臭ぇ!」

 

 シュタルクは愚痴を溢しながらも瞬時に判断を切り替え、全身の体重と踏み込みの勢いを殺さずに、今度は横から殴るようにして斧の側面で宴滓獣(シュプリッター)の胴体を打ち据えた。

 

 水音を伴った打撃音。

 黒い粘体の塊が歪み、狼の形を失いながら広場の端へ吹き飛んでいく。宙に散らされた黒い飛沫は都市の光に吸われて溶けた。

 

「よし!今のは効い──」

 

 シュタルクが手応えを確信した瞬間、吹き飛ばされている宴滓獣(シュプリッター)が空中で形を変えた。

 前脚と後ろ脚の間に、ぬるりと薄く黒い粘体の膜が張られてあく──翼膜だ。狼の姿をした宴滓獣(シュプリッター)は、あっという間に巨大な鼯鼠(モモンガ)じみた姿に変わった。

 

「……嘘だろ?」

 

 四肢の間に張られた翼膜が空気を掴み、粘体の身体が1枚の黒い凧のようにしなる。次の瞬間、宴滓獣(シュプリッター)は地面を舐めるように低空を滑空してシュタルクの方に戻ってくる。

 宴滓獣(シュプリッター)の輪郭が都市の光を吸い、虹色の油膜の艶だけが刃のように煌めく。裂けた口が笑っているように歪み、前脚の爪が伸びた。

 

 シュタルクの背筋が凍る。斧を上げる時間はない。重い武器ほど、構え直しに時間が要るからだ。腕が動き出す前に、身体が先に逃げた。

 

「っ……!」

 

 地面を蹴って横へ転がる。

 次の瞬間、さっきまでシュタルクの首があった空間を黒い滴が垂れる爪が裂いた。目に見えない刃で空気を引き裂いたような鋭さだ。

 

 紙一重。

 シュタルクの頬を冷たいものが撫でる。切られたのかと錯覚するほどの感触だったが、皮膚はまだ繋がっている。

 

「くそ、見かけに依らず速え……!」

 

 シュタルクは体勢を起こし、斧を構える。

 斬れない。叩いても、効果がない。

 それはつまり、目の前の魔物は戦士ではどうにもならない相手であることを意味していた。

 

 一方、フリーレンはシュタルクの苦戦を把握しつつも、空中で防御魔法を展開していた。

 宴滓獣(シュプリッター)の放ってくる《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)》は速く、威力もそれなりに高く、狙いも正確だ。だからこそ、フリーレンは自身とフェルンの2人分の防御魔法を張り続けることに専念する。

 

「フェルン」

 

「はい」

 

 短い返事と共に、フェルンの魔力が杖の先で針の束のように収束していく。

 

「《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)》」

 

 乱射だった。

 青白い光の槍が夜空から弾幕として降り注ぐ。魔法の1本1本は細いが、圧倒的に速く、数が多い。

 

 宴滓獣(シュプリッター)は走った。

 狼の脚で石畳を蹴り、粘体の身体を波打たせながら《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)》の弾幕を避ける。避けきれない瞬間には、防御魔法を貼る。6角形の膜が一瞬だけ輝き、《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)》を弾く。

 

 だが、フェルンの飽和攻撃は止まらない。

 《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)》の槍が5本、10本、15本──増え続ける《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)》の槍に晒され続けた宴滓獣(シュプリッター)の防御魔法は遂に砕け、次の瞬間には青白い光が宴滓獣(シュプリッター)の身体を中心を正確に貫く。

 

 もう1匹も同じだった。

 走って避ける。防御魔法を貼る。貼り直す。だが、フェルンの《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)》の弾幕の密度は増すばかりだった。囲い込まれるようにして逃げ場が失われ、最後には防御が間に合わず──同じようにして身体の中心を撃ち抜かれた。

 

 2匹は殆ど同時に崩れ落ちると、黒い水溜まりのようになって広がり、蒸発して消える。

 

 その瞬間、歓声に拍手と口笛が混じり、広場の空気は波濤のように一段と沸いた。

 けれど、まだ催しは終わっていない。

 

 宴滓獣(シュプリッター)の滑空攻撃を避けたシュタルクは大きく息を吐き、再び重心を落とす。

 残った1匹の宴滓獣(シュプリッター)もまた、低く身を伏せて距離を見計らっている。四肢の間の翼膜は薄く張られたまま、身体の粘体が呼吸に合わせて膨らんだり縮んだりしているようだった。

 

「さあ、来いよ」

 

 斬れないのは分かった。

 ならば叩いて、吹き飛ばして、間合いを保って──その間にフリーレンかフェルンに仕留めさせる。当初の予定とは違うが、それが現実的だ。

 

 宴滓獣(シュプリッター)が跳ぶ。粘体だからか地を蹴る音は微かだ。

 地を駆け、こちらに突進してくる宴滓獣(シュプリッター)に対してシュタルクは後方に飛び退き、斧を後方に構えてタイミングを測る。

 狙うは胴体。刃ではなく側面で叩き、距離と時間を稼ぐ。それだけでいい。

 

 ──いける。

 

 そう確信した瞬間──シュタルクの手のひらの中が、空になった。

 

「──はっ?」

 

 握っていたはずの斧の柄が消える。重さが消える。手のひらが風を掴んで虚しく宙を掻く。身体の動きだけが先行し、体幹が崩れた。

 

 シュタルクは視線を走らせる。

 斧が落ちた気配はしない。金属が石畳に当たる音も、転がる音もしなかった。先程まで握っていたのが嘘だったかのように斧が消え去っていた。

 

 そして──見つけた。

 

 観客の輪の最前列でこちらを鑑賞しているシュライアの手元に、何故か自身の斧がある。

 シュライアは、シュタルクの斧を片手で持ち上げ、まるで退屈凌ぎに出店の工芸品でも眺めているかのように、柄から刃先までをゆっくりと視線で撫でている。驚くほど自然な仕草だった。まるで、最初から自分の持ち物だったかのように。

 

「……やっぱり、これじゃ駄目ね。こっちを使いなさい」

 

「はぁ!?お前何言って──」

 

 反論の半ばで、宴滓獣(シュプリッター)が間合いへ踏み込む。

 黒い粘体の脚が石畳を滑り、裂けた口が嘲るように歪む。爪が振り下ろされる軌道は、喉元を正確に狙っていた。

 

 防ぐものがない。

 シュタルクは咄嗟に両腕を上げる。致命傷だけは避ける──そう身体が判断した、刹那。

 

 シュライアが、暇そうに片手を振った。

 

「《万物を収監する魔法(ヴィルデールン)》」

 

 小さな呟きは、催しに沸き立つ喧騒の中でもやけに澄んで聞こえた。

 

 瞬間、シュタルクの手のひらの内側に確かな重量が落ちた。

 思わず握り返せば、馴染む柄、同じ刃、同じ長さの斧がある。

 

「──っ!?」

 

 驚きで目を見開いたシュタルクの前に、宴滓獣(シュプリッター)の爪が迫る。

 

 考える暇はない。

 シュタルクは、反射で斧を横に薙ぎ払う。

 

 対する宴滓獣(シュプリッター)の身体の表面には、6角形の膜が展開されたーー防御魔法だ。硝子細工のように透明な曲面が薄く光る。

 

「……舐めんな、よっ!!」

 

 シュタルクは吠えた。

 ただ振るのではなく、身体ごと叩き込む。

 大きく踏み込み、重心を前に押し出し、斧そのものを槌のようにして──打ち潰す。

 

 広場に重い衝撃が爆ぜる。

 6角形の膜が、音を立てて割れた。硝子が砕けるような破壊音が響き、砕けた防御魔法の破片ごと宴滓獣(シュプリッター)の黒い身体は叩き潰され、狼の輪郭が、ぐしゃりと潰れる。

 黒い飛沫になった頭部が宙を舞い、落ちる前に霧のように薄くなって消滅した。

 

 数瞬の静寂。

 それから、観客の輪が爆発した。

 

「うおおおおおおっ!」

 

「今の見た!?防御魔法ごとだよ!!」

 

「魔法使いもだが、あの戦士も凄えな!!」

 

 咲き誇る花火のような歓声と拍手と口笛が、広場を丸ごと揺らしていた。

 

 熱に浮かされたような喧噪の中で、シュタルクは斧を構えたままようやく息を吐いた。肺の奥に溜まっていたものが遅れて出ていき、膝が僅かに笑いそうになる。

 

「シュタルク様」

 

 フェルンが空中から降りてくる。

 いつも通り淡々とした声なのに、歩幅は少し速い。そしてシュタルクの前で止まると、まず視線で全身をなぞった。

 

「……怪我、してます」

 

 フェルンが指差したのは、頬の薄い裂傷の跡だった。

 結果的に宴滓獣の攻撃は当たらなかったが、石畳を転がるようにして回避したために多少皮膚が擦り切れたらしい。

 

「ああ、避けるときに出来たのか。大丈夫、こんなの唾でも付けとけば治るさ」

 

 フェルンは杖を持つ手を少し強く握りしめ、短く息を吐いた。

 少し遅れて、フリーレンも静かに地に降りてくる。群衆の歓声には耳も貸さず、広場の中心に残る黒い滓の痕跡を一瞥してから、フェルンとシュタルクに視線を移す。

 

「お疲れ様。初見の魔物相手なのに、2人とも頑張ったね」

 

 フリーレンが2人を褒めていると、制服の者たちが見えない線を引くように周りの人々を押し留め、シュライアはそれによって出来た道の真ん中を静かに歩き、フリーレン一行の前で立ち止まると、拍手でもするように何度か小さく手のひらを打った。

 

「ふふふ、素晴らしいわ。流石は“葬送のフリーレン”とそのお仲間さんたち。観客も大満足よ。今夜のターフェル通りの話題は、決まったも同然ね」

 

 純粋に褒め言葉の形をしているのに、声の温度が薄いせいか皮肉にも聞こえてしまう。フリーレンはその様子を冷たく鋭い目で見据える。

 シュライアは観念したように肩を竦める。

 

「……分かってるわよ。レーア様に会わせる件でしょう?この都市を預かる賢称者として、出来る限りの協力はさせて貰うわ」

 

 信用ならないな、とフリーレンは思ったが、今ここで何を言っても意味がない。都市を預かり管理する程の立場にあるなら、口約束の1つや2つ守って欲しいところだ。

 

 そこで、シュタルクが口を開く。息を整えたところで、不意に疑問が胸の底から浮かび上がってきたのだ。

 

「なあ、さっきの……」

 

 シュタルクは自分の手の中の斧を見下ろし、それからシュライアへ視線を戻す。

 

「……お前の魔法だよな。俺の斧、いつの間にお前の手元に行ってたんだ?ていうか、今はどこにやったんだよ?」

 

「ああ、原理は簡単よ。収納。隔離。封印。言い方はいくらでもあるけれど、要は──」

 

 シュライアは手のひらに見えない何かを乗せて、弄るような仕草をする。

 

「──目に見えない箱ね。硬くて、開かなくて、何を入れても壊れない箱に、色々な物を放り込んだり、取り出したりするだけの魔法よ」

 

「じゃあ……あのとき、俺の斧はお前の箱に収納されたってことか?」

 

「そう。あなたが握ってた斧を箱に収監して、私の手元に出した。あなたが今持ってる斧も同じよ。私が収監していたものから同型品を取り出して、あなたの手のひらに出現させただけ」

 

 シュタルクは手元の斧を持ち直し、重さと柄の感触を確かめるように指を滑らせた。確かに馴染む。だが、“自分のものではない”感じがする。言葉にするなら、まるで手袋越しに握っているような隔たり。

 

「同型品って……そんなの何本も持ってんのか?」

 

「ええ。私は治安維持担当の賢称者だもの。刃物を持ち歩く人間は多いし、酔っ払いは騒ぎを起こしがちだもの。武器が必要な場面も、武器を取り上げる場面もあるわ。だから、色々と剣や杖を仕舞ってあるの」

 

 シュライアは指先で自分の髪を軽く払った。

 フェルンは表情を変えないまま、シュライアの指の動きを見逃さないよう視線を向ける。つまり、この大魔族はその気になればこちらの武器を奪って無力化した上で、頭上に剣の雨を降らせられると言ってのけたのだから。

 フリーレンは冷たい眼差しのまま言う。

 

「……相変わらず、魔族の魔法はとんでもないね。生活にも、戦いにも、支配にも使える便利な魔法だ」

 

 フリーレンの声は淡々としていたが、最後の“支配”にだけ僅かな棘が混じっていた。シュライアはそれを敢えて聞き流す。

 一方、シュタルクは斧を軽く持ち上げ、遠慮がちに、だが必死に言葉を選ぶ。

 

「……なあその、まずは俺のやつ……そろそろ返してくれねえか?」

 

 言い方を選んだ結果、子供が玩具を返してくれと頼むみたいな声音になってしまった。けれど、武器は戦士の命綱だ。命綱を勝手にすり替えられて平気でいられるほど、シュタルクは図太くない。

 シュライアは口元だけで笑った。

 

「あら、可愛いこと言うのね」

 

「おい……からかうな!」

 

「からかってなんかいないわ。あなた、ちゃんと自分の武器に愛着があるのね。良いことよ」

 

 シュライアはそう言いながら、シュタルクの手元の斧へ視線を落とすと、軽く指を動かす。

 

「《万物を収監する魔法(ヴィルデールン)》」

 

 次の瞬間。

 シュタルクの掌が、また空になった。

 

「うおっ……!」

 

 風が指の間を抜け、重さが消える。存在だけが綺麗に切り取られたように消えた。

 そして、次にシュライアは指先で何かを摘むような仕草をした。まるで、目に見えない小さな引き出しを開けるように。

 

 すると、空から落ちるように重量が戻る。

 シュタルクの手のひらの中に、ずしりと馴染んだ斧の重さが収まった。柄の下の小さな傷。木目の歪み。刃の端の微かな欠け。手のひらの汗の滲み具合まで、いつも通りの斧だ。

 

「ほら、ちゃんと返したわ」

 

「ありが……って、そもそもあんた、なんで戦ってる最中に俺の斧を奪ったんだよ……?」

 

 シュタルクの当然の疑問にシュライアは少し置いてから軽い声で答えた。

 

「あなた、宴滓獣(シュプリッター)をあくまでその斧で何とかしようとしていたわよね」

 

「そりゃ、戦士なんだから当たり前だろ」

 

「ええ、当たり前ね。だから、当たり前に失敗するところだった。あなたも2撃目で何となく気付いていたでしょうけど、宴滓獣(シュプリッター)にはただの物理攻撃は殆ど効果がないの」

 

 シュタルクは斧を見下ろす。自分の斧は正真正銘の鉄だ。自分の力は肉体そのものだ。

 

「あなたは反応も速いみたいだから、盾役としてはとても優秀だわ。だけど、宴滓獣(シュプリッター)を仕留めるには、魔法か魔力の込められた武器が必要になる──だから手を貸した、それだけよ」

 

「だ、だったら最初から言えよ……!?急に武器取り上げられて、心臓止まるかと思ったんだぞ!」

 

 シュタルクが涙目で抗議する中、広場の熱は波のように引いていき、代わりに屋台の鉄板の音と、酒場の談笑が通りを埋め戻していく。制服の者たちは散り、見物人の輪も解け、通りは再び流れていく。

 

 そんな中、未だフェルンは自身の杖を消していなかった。

 杖を握る手は緩められているのに、肩が僅かに固い。先程までの戦闘の残滓──ではない別の何かが、フェルンの胸の奥に刺さったまま抜けていないようだった。

 

「フェルン?」

 

 フリーレンが小さく呼びかける。

 だがフェルンは答えない。視線をシュライアだけに向けながら、1歩前に出る。

 

「……シュライア」

 

「あら、何かしら。何かここの名物でも食べたくなった?」

 

「違います」

 

 感情を抑えているからこその硬い声。

 フェルンは杖先を僅かに上げたまま、シュライアの胸元の辺りに視線を刺す。

 

「あなたは、シュタルク様を危険に晒しました」

 

「危険?結果的に無事だったじゃない。そもそも魔物を討伐するんだもの、危険は付き物でしょう?」

 

「そういう話をしているのではありません」

 

 フェルンの声色は淡々としている。

 だが、その声色という布の中には氷のように冷たい刃が包み込まれている。

 

「あの魔物には通常の物理攻撃が効かず、殺すには魔力を込めた武器が必要──戦士とは致命的に相性が悪いという情報を、あなたは知った上で説明しませんでした」

 

 フェルンは更に1歩踏み込む。

 シュライアの目の前に、夜気すら裂くような存在感が立った。

 

「加えて、あなたが魔法で斧を奪った瞬間、シュタルク様は無防備になりました。もし、少しでも代わりの斧を渡すのが遅れていたら──」

 

 言葉が途切れる。“もし”という仮定の話を口にするだけで、喉の奥が冷えた。

 

 フェルンの杖先が少しだけ上がる。

 狙いを定める動きだ。目の前の魔族の胸骨の奥──そこに一撃を通すための角度を整えていた。猛獣に出くわした人間が、無意識に身体を強張らせるように。

 

 空気が、細く張り詰める。

 喧噪はすぐ背後にあるのに、フェルンの周りだけが別の世界のように静寂に包まれている。代わりに聞こえるのは、自分の呼吸と、魔力が整っていく感覚だけ。

 

「……私が言いたいのは、シュタルク様はあなたの玩具などではないということです」

 

 フェルンの魔力の流れが珍しく乱れる。

 静かな広場の端の灯が揺れた。揺れたのは風のせいではなく、魔力の圧のせいだ。

 

 フリーレンは余計な言葉を挟まない。

 フェルンのことは弟子として信頼している。だから、態々止める必要があるとは思っていない。一方のシュタルクは状況の重さを遅れて把握するや否や、慌てて口を挟んだ。

 

「フェルン……!別に俺は──」

 

「──無事で済んだのは、シュタルク様が強かったからです。そして、この魔族が気まぐれで手を貸したからです」

 

 シュライアの肩が、僅かに上下する。

 溜息にも笑いにも見えない、小さな揺れ。

 

「気まぐれ、ねえ」

 

 シュライアはフェルンの杖先を見ず、フェルンの目だけを見た。剣を構える相手の武器を見るのではなく、その表情を見極めるように。

 

「……そこまで怒るなんて──」

 

 軽い声がフェルンの言葉の刃の先を撫でる。

 

「──そんなにその子のことが大事?」

 

 フェルンの瞳が、一瞬だけ鋭く細まる。

 言い返す言葉は幾らでもあった。仲間だから、パーティの前衛だから、旅の同伴者だから……何でもいい。だが、そのどれもが嘘ではないのに、真実からは少しだけ外れていた。

 

「……あなたに、分かるはずがありませんよ」

 

 だからこそ、問いを切り捨てる。

 所詮、相手は魔族だ。人類を食うことを当然のように受け入れ、悪意なく人類を騙す、声真似が上手いだけの怪物だと、フェルンは葬送のフリーレンの元で学んできた。

 

 ──そんな存在に、誰かを大切に思う気持ちなど分かるはずがない。

 

 そうやって、人類の扱う正しい言葉で叩き潰してやればいい。フェルンが葬送のフリーレンの背中を見て学んだ“線引き”の仕方だ。

 

「分からない、ねえ……」

 

 聞き流しているだけなのか、こちらを舐めているのか分からないような軽い口調だった。

 

 フェルンは喉の奥に溜め込んだ言葉を続けようとして──不意に、視線が引き寄せられた。

 シュライアが何気なく髪を払った左手の指に引っかかっている、小さな光に。

 

「…………あ」

 

 フェルンの喉が詰まり、言葉は形になる前に崩れていく。

 自分が言おうとした言葉が、いかに乱暴で、どれほど簡単に相手を断定するものだったか、遅れて理解してしまったからだ。

 確かに、シュタルクが危険に晒された事実は変わらない。けれど──今の一瞬で、自身を支える理屈が揺らいでしまった。

 

 それでも、胸の奥の熱だけは引かない。熱は理屈では収まらないからだ。

 フェルンは杖を握る指に力を込め直し、言葉を搾り出そうとした。

 

 だが、その瞬間──シュライアは僅かに息を吐いた。笑いでも嘲りでもない。夜気に溶けるほど小さな吐息。

 そして、ゆっくりと肩を落とした。

 

「……そうね。きっと、私でも分からないこともまだあるわよね」

 

 声音からは先程までの薄い愉悦が削ぎ落とされている。

 代わりに、疲れのようなものが混じっていた。まるで、ふと鏡に映った自分の癖を見てしまった人間の声だ。

 

「……ごめんなさいね」

 

 短い一言だった。

 

 フェルンの肩から、張り詰めていたものが抜けていく。

 杖を握っていた指が、ほんの少し緩んだ。魔力の流れが整い直され、剣のように尖っていた気配が丸くなる。

 

 フェルンは一度だけ深く息を吸い、吐く。

 それから、杖を消した。杖の輪郭が淡い光となって解け、夜気に溶けるように消えていく。

 

「……いえ、私も少し言い過ぎました」

 

 相変わらず声は淡々としているが、先程までの氷の刃のような鋭さは消え失せていた。

 

 シュライアもまた微かに頷く。

 ほんの少しだけ、2人の間には気まずさを流すような時間があったが、そこにシュタルクが割って入る。

 

「フェルン」

 

 シュタルクは少しだけ視線を泳がせてから、フェルンを見た。

 

「その……心配してくれて、ありがとな」

 

 口にしたのはたったそれだけ。

 フェルンは一瞬だけ目を伏せる。いつものように表情は薄いままだが、まつ毛の影が揺れているのが分かる。言葉にしない感情が、そこにだけ小さく滲んでいた。

 

「……仲間ですから、当然です」

 

 ようやく返したフェルンの声は硬かったが、不思議と温かく響いた。

 そのやり取りを、シュライアは名画を鑑賞するような目で見ていた。相変わらず微笑みの形は崩していないが、笑みの奥に先ほどまでの愉悦とは違う何かが混じっている。

 

「ふふふ……」

 

 シュライアが小さく笑う。正確には笑い声というより、吐息が形になった程度のものだ。

 

「あなたたち本当、良いわね。羨ましいくらい」

 

 フェルンが眉を僅かに寄せる。

 

「え、何がですか……?」

 

「さて、何かしらね?このビューネで無粋は何よりの罪なの。だから教えられないわ」

 

 シュライアの声は軽かった。

 しかし、視線は遠くに向けられており、既に群衆が居なくなった広場の向こう、人間と魔族の笑い声の重なる通りの奥を見ていた。

 フリーレンは微妙な間に気づくこともなく踏み込み、淡々と確認する。

 

「レーアに会わせるって話、忘れてないよね」

 

 シュライアはすぐに視線を戻し、いつもの通りの薄ら笑いを浮かべた。

 

「もちろん、賢称者の名にかけて。でも、今夜はもう遅いわ。ビューネは眠ることのない宴の都市だけど──魔王様は眠っているから」

 

 フリーレンは内心で少し引っかかった。

 人類とは異なる生き物である魔族も、多少は眠ることはある。だが、必要最低限しか眠らないはずだ。ましてや、仮にも魔王と呼ばれる存在が、都市の喧噪の上で素直に眠るだろうかとは思ったが、変わり者の魔族は行動も変わっているのかも知れないと疑問を引っ込めた。

 

「だから明日の朝、私の部下を派遣するわ」

 

 シュライアは広場の奥の通りに向けて歩き出しながら言った。フリーレン一行も続く。

 

「詳しいことは部下から聞いて。でも、明日には魔王様の代弁者と話せる場を用意するわ」

 

「代弁者、ですか?」

 

 聞きなれない単語に、フェルンが反射的に聞き返す。シュライアは肩越しにフェルンへ視線を寄こした。

 

「この都市の市長よ。ビューネの表向きの行政や外交を回している、魔王様の代弁者。腹心とでも言えば分かりやすいかしら。ああ、意外かも知れないけれど、普通の人間よ」

 

「……人間」

 

 フェルンが思わず声を漏らす。

 シュタルクも同様に目を丸くしていた。

 

「人間が魔族の国の首都をまとめてんのか……」

 

「ふふ、驚いた?」

 

 シュライアは肩越しに微笑む。

 フリーレンは考え込むように短く息を吐いた。

 

「そういえば、前は市長に会わなかったな……魔族じゃなくて、人間がやってたんだ」

 

「ついでに言えば、賢称者も魔族だけってわけじゃないわ」

 

 シュライアはそう言って歩き出す。

 都市の煌びやかな光が金髪を撫で、通りの喧噪が再び背後に流れていく。

 

「さ、それじゃあチケットにあったホテルまで案内するわね」

 

 石畳を踏むシュライアの革靴の音が一定のリズムで先導する。フリーレン、フェルン、シュタルクは顔を見合わせ、その後に続く。

 1匹の鼠が、4人の背後を横切って行った。

 

 

⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

 

 

 断頭台のシュライアとホテル・アンシュタントの前で分かれたフリーレン一行は、ベルボーイに案内された客室の広さに足を止めた。

 

 厚い絨毯が足音を吸い込み、空気には気にならない程度の香水の匂いが漂っている。灯りは柔らかく、壁の所々には絵画、天井には装飾の凝ったシャンデリア。目に入るもの全てが整えられていた。洗練されている。《魔族を殺す魔法(ゾルトラーク)》の術式と同じくらい洗練されている。

 

 フェルンは室内へ踏み込み、天井のシャンデリアを見上げた。金の枠に嵌め込まれた硝子は1つ1つ形が違い、灯りを受けるたびに小さな虹を散らしている。貴族ですら、ここまで凝った意匠の灯りを日常の部屋に吊るすことはないのではないだろうか。

 

「……これ、本当にただの客室なんですか?」

 

 呟きは、シャンデリアの淡い灯りの下で吸い込まれていく。

 シュタルクは入口の辺りで立ち尽くし、視線を左右に走らせていた。壁に掛かった絵画、銀色の取手がついた扉、天井近くまで届く厚いカーテン。そのどれもが、触っていいのかとこちらをを迷わせる顔をしている。

 

「……もう王様の部屋じゃねえか」

 

 そう呟いたシュタルクも恐る恐る1歩を踏み出すと、絨毯が足を受け止め、沈み、戻る。シュタルクは目を丸くしたまま、再度足を動かして確かめる。

 

「なんだこれ、足が沈むんだけどお!」

 

「柔らかすぎるだけだと思いますよ」

 

 フェルンは淡々と訂正し、壁際のテーブルに置かれた花瓶へ視線を向けた。

 7色の色鮮やかな花々が飾らせていた。花に関してフェルンに専門的な知識があるわけではないが、どこか旅の途中で見かけた希少な花に似ているものもある気がする。

 

 フリーレンは入口の横にある簡易な案内板を見ていた。

 客室の間取りは細かく分かれているようで、居間、食事用の小部屋、浴室……さらに奥に寝室が2つ、その他の部屋も幾つかある。

 扉が多すぎて、数える気力が失せる。

 

「……部屋がいっぱいあるね」

 

 何とも薄い感想だが、フリーレンにとっては旅の宿は、雨風をしのげて寝られれば良い場所だ。豪華さに価値を置く習慣も路銀もない。だから、今この空間が異常だという事実をただ受け止めるしかない。

 

「ベッドも複数ありますね」

 

 フェルンが寝室の扉を開け、視線で室内を確認してから短く報告する。

 大きな天蓋付きのベッドが2つ。寝具の白が柔らかい光を返し、枕の位置が左右対称に揃っている。

 

 シュタルクがもう1つの寝室を覗き込み、フリーレンとフェルンに声をかける。

 

「こっちにもあるな……待て、俺がこの部屋1人で使うのか?」

 

「そうでしょうね。男女で寝室を分ける配慮はされているみたいです」

 

 フェルンはそう言って、徐に寝具の端を指先で触れた。

 柔らかく指が沈む。どこまでも沈み込みそうな気がして、慌てて手を引っ込める。

 

「……何だか、触っていいのか分からないです。フリーレン様は──」

 

「見たことない魔道具だ、うひょー」

 

 フェルンは部屋の魔道具を触りながらそう言ったフリーレンを見やる。師匠がこういうとき妙に図太いのは、旅の最初から変わらない。

 

 シュタルクは居間の方へ戻り、棚の上に置かれた装飾品を見つけて足を止めた。

 小さな置き時計だ。金属の枠に、透明な面。針の動きが静かすぎる。

 

「何か、時計なのに何も音がしねえ……」

 

「高級品は音を立てないんでしょうか」

 

「高級ってそういうことかよ……?」

 

 シュタルクが理解を諦めた顔になり、次にカーテンへ手を伸ばした。

 柔らかなそれは布というより壁だ。指で掴むと重いが、引けば滑るように動く。

 

「野宿のとき、これに包まって寝たいな……」

 

 一方、部屋の魔道具探しをしていたフリーレンは、居間の隅に置かれた台座に気づいた。

 

 黒い石で作られたそれは、背の低い柱のような形をしており、天面には指一本分ほどの深さの窪みがあった。縁には細い魔法陣のような模様が刻まれ、明滅しながら淡く光っている。

 

「……これは通話用の魔導具かな、どれどれ」

 

 独り言のように呟きながら、フリーレンは特に深く考えず、窪みに指を嵌めた。

 

 冷たい石の感触。

 次の瞬間、指先から薄く魔力が吸い上げられる感覚が走る。台座の魔法陣が輝き、空気の中に柔らかな鈴の音が1つ響いた。

 

『──ホテル・アンシュタント、ルームサービスでございます』

 

 どこからともなく、澄んだ声が聞こえる。

 壁でも天井でもなく、空間そのものが喋っているような響きだった。

 

「……へえ」

 

 フリーレンは面白がるように魔道具を横から覗き込んでみる。

 フェルンとシュタルクも、思わずどこから声が聞こえるのか探ってしまう。

 

『お客様、夕食のお時間でございます。お部屋までお届けいたしましょうか?』

 

「夕食か……」

 

 フリーレンは、言われて空腹を意識した。

 結局あの後に色々とつまんだとはいえ、あれは食事というより雰囲気を食べたようなものだ。

 今になって、胃の奥が静かに主張し始める。

 

「……じゃあ、そうしようかな」

 

『かしこまりました。速やかにお持ちいたします』

 

 再び鈴の音が1つ鳴り、それで通話は切れたらしい。

 

「頼んじゃった」

 

 フリーレンは指を引き抜き、フェルンとシュタルクの方を見ながら手を軽く振った。

 

「フリーレン様……今、料理の内容は聞きましたか?」

 

「聞いてないよ。向こうも聞いてこなかったし」

 

 フリーレンは事実を答えたが、シュタルクが首を傾げる。

 

「普通、何食べるか聞かれないか?肉とか魚とか……メニューとかないのか?」

 

「……確かにそれはそうか」

 

 フリーレンは特に気にすることもなく、居間のソファへ腰を下ろした。余りの柔らかさに、フリーレンの体が若干吸い込まれる。

 

「どうせ、何か出てくるよ。お腹空いたし……」

 

「……そういう問題でしょうか」

 

 フェルンが小さく溜息を吐く。

 シュタルクは居間と寝室の間を落ち着きなく見回し、最後に台座へ視線を戻した。

 

「まあ、屋台の質からして美味いもんは食えるんじゃねえか」

 

 数分で、廊下の方から足音が近づいた。

 絨毯に吸われて音は殆どしないが、一定のリズムだけが伝わってくる。小さな車輪が回る音が、微かに混じっている。

 

 フェルンの背筋が僅かに伸び、シュタルクは反射で入口の方へ半歩寄る。

 よっぽどエルフを駄目にするソファなのか、フリーレンだけは相変わらず気の抜けた顔でソファに沈んでいる。

 

 やがて、控えめなノックが4回。

 

「──ルームサービスでございます」

 

 声は、先ほどの台座からの声とは違う響きで、扉の向こうから発せられている。

 

 フェルンが施錠された扉の鍵を外せば、金具が噛み合う音が小さく鳴り、扉が開く。

 

 廊下の灯りの中に、ワゴンを引いたメイド服の女性が立っていた。

 淡いピンクの長髪が肩から流れ、顔の輪郭は整っている。だが、側頭部からは体躯に見合わないほど大きな捩れた双角が伸びていて、角の陰が頬に落ちている。人間のような柔らかな微笑みを浮かべているのに、その桃色の瞳には人間とは違う光が宿っていた。

 

 魔族だ。

 胸元が豊かに膨らんだメイド服は白と黒の意匠が端正で、過剰なほどに清潔だ。フリルやホワイトブリムの縁取りまで糊が利いている。

 ルームサービスの魔族は静かに一礼すると、絨毯の上を滑るようにして室内に入ってきた。

 

 ワゴンの上には銀のクロッシュと、何故か全て硝子で出来た皿とグラスが並んでいるが、どれも中身は空だった。

 平皿、深皿、背の高いグラス、小さなカップ──どれも中身は空っぽで、透明な縁がシャンデリアの光を受けて淡く反射している。

 

「失礼いたします」

 

 ルームサービスの魔族は会釈をすると、硝子の皿とグラスをテーブルに並べ始めた。音は殆どしない。余程手慣れているのか、嫌な音1つ立てずに皿やグラスを並べていく。

 

 硝子の皿とグラスが並び終わる頃には、テーブルの上はさながら儀式の場のようになっていた。皿やグラスには何も入っていないが、硝子の縁が淡く光を受けて存在感を主張する。空白が整いすぎていて、逆に落ち着かない。

 

 ルームサービスの魔族は最後に、着席した3人の前にナプキンを1枚ずつ丁寧に置くと、ワゴンの取手に両手を添え、軽く頭を下げた。

 

「以上で、配膳の準備は整いました。それでは、お食事の方を用意させて頂きます」

 

 言い終えると、ルームサービスの魔族は徐にシュタルクの方に歩み寄った。

 靴音はしない。絨毯が吸っているというより、最初から音を立てない歩き方だ。メイド服の裾が揺れ、胸元の白い布が僅かに上下する。

 

 ルームサービスの魔族はシュタルクの座っている椅子の側で足を止めると、若干身を屈めて視線の高さを合わせる。桃色の瞳が可愛らしい形のまま、異様なほど真剣にシュタルクを捉えていた。

 シュタルクは反射で背筋を伸ばす。

 

「……な、なんだよ」

 

 言い返したつもりが、声の勢いは弱かった。

 ルームサービスの魔族は微笑みを崩さず、丁寧に口を開いた。

 

「失礼いたします──少々、お手をお預かりしますね」

 

「手?」

 

 ルームサービスの魔族の指先がシュタルクの手元へ伸びた。拒む間もなく、柔らかい手がシュタルクの右手を取る。手袋越しではない白い指が、手のひらの厚みと指の節を確かめるように、優しく包んだ。

 触れられた瞬間、シュタルクの肩が跳ねる。

 

「ええ……と、何なのぉ……?」

 

 ルームサービスの魔族は無言のままシュタルクの手のひらを軽く返す。指の節、爪の形、硬さを確かめるように、ゆっくりと触れる。見ているのは手だけではなく、息遣い、肩の力み、視線の揺れなど、全体を柔らかく撫でるように観察しているようだった。

 

 その様子を、対面に座るフェルンも見ていた。

 表情はいつも通り薄いが、指先は白いテーブルクロスの端を僅かに強く摘んでいた。

 フェルンは視線を落とさず、淡々と声を出す。

 

「……あの、何をしているんですか?」

 

 ルームサービスの魔族はシュタルクの手を包んだまま、柔らかく微笑んだ。

 

「お食事の準備に必要な、確認です」

 

 ルームサービスの魔族は、丁寧にシュタルクの手を離した。

 次にテーブルの向こうに身を翻し、フェルンの方に回り込む。絨毯の上を滑るように歩き、椅子の横で足を止めると、今度はフェルンに向けて柔らかく両手を差し出した。

 

「失礼いたします。お手を」

 

 ルームサービスの魔族は、フェルンに両手を差し出したまま静かに待つ。

 柔らかな笑みと桃色の瞳は、魔族ではあるが確かに奉仕をする者の顔つきだった。

 フェルンは一瞬だけ逡巡してから、右手を差し出した。

 

「おや……」

 

 ルームサービスの魔族の白い指がフェルンの手のひらを包む。

 何故かシュタルクのときと比べて、触っている時間が妙に長かった。時間にして2分程経った頃、ルームサービスの魔族はようやくフェルンの手を離した。

 

「……なるほど」

 

 ルームサービスは次に、何事もなかったようにフリーレンの方に回り込む。絨毯を滑る歩みは相変わらず音を立てず、近づかれて初めて距離が詰まったことに気づくほどだ。

 

「失礼いたします。お手を」

 

「うん」

 

 フリーレンは躊躇なく手を差し出した。

 ルームサービスの魔族は少しだけ身を屈めてフリーレンの手を取り、同じように丁寧に触って観察する。

 

「……ふむ」

 

 短い吐息が零れる。

 フリーレンは彼女の指先を見つめながら、無言で魔力の流れを探った。けれど、そこには何もない。術式の気配も、魔力の揺らぎも、魔法を使ったとき特有の魔力の歪みも。

 

 ──魔法じゃないな。

 

 このルームサービスの魔族は、ただ手のひらに触れて観察しているだけだ。

 やがて、手を解放されたフリーレンはルームサービスの魔族の横顔を一瞬だけ盗み見る。桃色の瞳は微笑みの形を崩さないまま、しかしどこか真剣で、集中している色をしていた。

 

「確認は以上でございます」

 

 ルームサービスの魔族は再び丁寧にお辞儀をすると、ワゴンに戻っていく。そして、並んだ硝子の皿の上に──ワゴンから取り出した銀のクロッシュをそっと被せる。金属が硝子に触れる硬い音すら上品だった。

 

 次いで、ルームサービスの魔族はもう1つ、また1つと、同じ動作で銀のクロッシュを次々に被せていく。透明だったテーブルの上が、たちまち銀色のドームで埋まっていった。

 

 フェルンは並んだクロッシュを見つめ、シュタルクも一体何が始まるのかと息を潜める。

 しかし、フリーレンだけはこの瞬間にルームサービスの魔族が、密かに魔法を発動したことに気づき──少しだけ目を細めた。

 

 ルームサービスの魔族は、まずシュタルクの前に立った。

 銀のクロッシュの取手を、指先で摘む

 

「それでは、どうぞ」

 

 ルームサービスの魔族はゆっくりとクロッシュを持ち上げる。内側は空っぽだったはずだ。

 なのに──湯気が立った。

 

 シュタルクの前の硝子皿に現れたのは、厚切りの肉のステーキだった。表面は香ばしく焼かれ、肉汁が照りとして滲んでいる。脇には焼いた根菜と、黒胡椒のソースがかけられていた。

 

「えっ……」

 

 シュタルクは言葉を失った。

 自分が何となく食べたいと思っていたのは、まさにこういう肉だったからだ。通りの屋台の串焼きも美味かったが、腹の奥が求めていたのはこういう、どんと来る重い肉だった。

 

 ルームサービスの魔族は、次にフェルンの前に移る。銀のクロッシュを持ち上げると、透明な深皿の中に現れたのは、鶏肉と野菜の入った澄んだ黄金色のスープと芳ばしく焼き上げられたパンだった。近くの別の皿には、デザートであろう山盛りのドーナツまで付いていた。

 

 フェルンの視線が一瞬だけ揺れる。

 いつの間にか魔法を使われた、という驚きと警戒──しかしシュタルク同様、食べたかった料理が現れたことに対しては、素直に嬉しさが瞳の奥に滲んだ。

 

 そして最後に、ルームサービスの魔族はフリーレンの前に立つ。

 

「お待たせいたしました」

 

 銀のクロッシュが持ち上がる。

 現れたのは湯気の立つ大きな器に、柔らかそうな煮込み。骨の処理が済んだ肉と、ほろほろ崩れる芋、甘い香りのする濃いスープ。匙で掬って食べるだけで終わる、旅向きの一皿だ。

 

「……へえ、驚いた」

 

 フリーレンは素直に頷き、器の縁から立ち上る湯気を目で追った。

 香りは強すぎず、けれど胃の奥を確実に刺激する。匙を入れれば、肉は抵抗なくほぐれ、芋はとろりと崩れるだろう。

 

 フリーレンは指先で器の縁に触れた。

 僅かな魔力の残滓が揺れている。明らかに魔法の痕跡がそこにあるのに、フリーレンでさえ術式を読み解くことが出来ない。だが、読み解けないからこそ逆に魔法の正体に目星が付く。

 

「今の、空間転移の魔法でしょ。厨房から料理を転移させたの?」

 

 ルームサービスの魔族は、微笑んだままフリーレンに向けて礼をする。

 

「恐れ入ります。お察しの通りでございます」

 

「やっぱり」

 

 シュタルクの眉が僅かに動き、聞き慣れない言葉をそのままフリーレンに投げかける。

 

「空間、転移……?そんな魔法もあんのか」

 

「あるにはあるよ。でも、人類の魔法体系だとまだ証明すらされていない」

 

 フェルンはスプーンを持ったまま、ルームサービスの魔族の指先を見つめる。

 

「では、先程私たちの手を触ったのも、何かの魔法だったのでしょうか。魔法を使われた感覚はしませんでしたが……」

 

「お手を拝借したときは、魔法は使っておりません」

 

「じゃあ、なんでこう……俺たちの食べたいものが分かったんだよ?」

 

 シュタルクが椅子の背もたれに身を預け、腕を組んで問いかけると、ルームサービスの魔族は飲み物の給仕をしながら答える。

 

「私は観察が得意なので」

 

 声は丁寧で柔らかい。だが、言い切りには自信があった。

 

「特に、手を触るとよく分かります。手のひらの硬い部分、指の節の使い方、爪の削れ方、体温、脈……それから、呼吸や視線の揺れ……」

 

 ルームサービスの魔族は自分の指先を軽く見下ろし、微かに微笑む。

 

「それらを見れば、今晩お客様が欲しているものは分かります。とても簡単ですよ」

 

「……そ、そんなので分かるのかよ」

 

「分かります」

 

「言い切った……」

 

 シュタルクはフォークを持ったまま言葉を失った。

 ルームサービスの魔族は胸を張り、豊かな胸元がメイド服の布を押し上げて僅かに揺れた。

 

「魔族ですから。魔族は人類以上に、人類の観察を得意としているものですよ」

 

「魔族の習性を上手く使ってるわけか……全く、よく出来た仕組みだね」

 

 フリーレンが半目で何気なしに呟く。ルームサービスの魔族は小さく首を傾げた。

 

「フフ、私も理に適っていると思いますよ」

 

 ワゴンの脇に手を添えたまま、ルームサービスの魔族は部屋を見渡す。

 柔らかな灯り、沈むような絨毯、厚いカーテンの向こうに滲む果てしなく広がる都市の光。

 フリーレンもまた視線を室内に巡らせ、不意に吐いて出た疑問を口にする。

 

「……ねえ、そういえばここ温泉とかあるの?」

 

「はい。地下に温泉浴場がございますよ。ホテル・アンシュタントの名物で、質も量もビューネ随一です」

 

「幾つ?」

 

「400と4つになります」

 

 桁違いの数字に、シュタルクが椅子の背から滑り落ちかける。

 

「へえー、400……え!?そんなにあんの!?」

 

「ええ。1つ1つ泉質も温度も効能も違います。香りも、湯の色も、規模も」

 

 ルームサービスの魔族は指を折って説明していく。

 

「肌が滑らかになる湯、眠りが深くなる湯、1ヶ月は飲食不要になる湯、2日酔いの治る湯、大半の呪いを解く湯など様々です。ホテルの地下に見つかった遺跡をそのまま活用しておりますので、迷宮(ダンジョン)のようだと仰るお客様もおります」

 

「……迷宮(ダンジョン)

 

 フリーレンの目が鋭く光る。フェルンは嫌な予感しかしなかった。

 

「フリーレン様、やめてください。絶対に勝手に地下に降りないでください」

 

「まだ行くって言ってないよ」

 

 ルームサービスの魔族は場の空気を読んだのか読んでいないのか、そのまま説明を続けた。

 

「ですので、地下にはまだ未発見の宝物が隠されている、という噂もありますね」

 

「地下の迷宮(ダンジョン)に、宝物……」

 

 フリーレンの声が明らかに弾み、目の奥が子供みたいに透き通る。フェルンが胃の奥を押さえたくなる顔で、即座に釘を刺した。

 

「フリーレン様、それは駄目です」

 

「まだ行くって言ってないよ」

 

「行く顔をしています」

 

 ルームサービスの魔族はそのやり取りを柔らかな微笑みのまま見守りつつ、空になったグラスに飲み物を注ぐ。

 

「地下へ降りられるのであれば、案内をお付けいたしましょうか」

 

「いらない。自分で調べるから」

 

 迷宮(ダンジョン)の2文字が、フリーレンの背筋を明らかに起こしている。

 

「フリーレン様、やっぱり行く気ですよね」

 

「……まだ行くって言ってないよ」

 

 会話が続いている間、部屋の空気は不思議なほど滑らかだった。

 厚いカーテンの隙間から滲むのは、宴都ビューネの果てのない輝き。ホテル・アンシュタントは、まるで美しい海の底に沈んだ硝子の箱だ。人々の話し声や花火の音といった、潮騒にも似た喧騒は輪郭を削られ、水面の煌めきにも似た美しい光景だけが映っている。

 

 だからだろう、とフェルンは思う。

 自分の感覚が妙に研ぎ澄まされない。ここは戦争を燃料にして生きている魔族の都市だ。目を閉じた瞬間に何かが起こりそうで、息を整えることすら落ち着かない──そうなってもおかしくないはずだというのに、危機感の尖りが鈍い。鈍いというより、綺麗に丸められている。

 

 シュタルクも、先程までの広場の熱気を多少は引きずっているはずなのに、既に肩から力が抜けていた。椅子に深く座り直し、背もたれの感触を確かめるみたいに背中を預けている。何故か分からないが、とても幸せな気分だ。

 

 フリーレンの思考も少しだけ緩んでいた。

 ここは魔族の国の都市だ。都市のあちこちで魔族が笑い、同じ夜空の下で人類が踊っている。そんな“理解不能”な状態が、現実として存在している。だから、気は抜けない。

 それが分かっているのに、温泉、遺跡、宝物──そんな単語に心を躍らせてしまっている自分もいる。

 

「…………」

 

 ルームサービスの魔族はワゴンの脇に控えたまま、フリーレン一行の会話が落ち着くのを待っているようだった。無駄な物音を立てず、視線も過剰に向けない。まるで観葉植物のような、自然な存在感。

 

 不意に、フェルンは自分の指先に意識を引き戻して、眉を僅かに寄せた。

 

 ──先ほどから、何故か手が忙しい。

 

 何か作業をしているわけではない。

 けれど、指が勝手に動く。何かを握り直し、縁を確かめるように触れ、また戻す。落ち着かない動きではない。むしろ自然すぎる動きだ。

 

 シュタルクも同じだった。

 彼は言葉の途切れ目に、何となく手元へ視線を落とし、無意識に何かを持ち上げ、また置いた。椅子に沈み込みながら、そのまま同じ動作を何度も繰り返している。何故だろう。

 

 フェルンは、静かに自分の手元を見た。

 そして、喉が僅かに鳴った。

 

「…………えっ」

 

 言葉が出ない。

 驚いた、というより、気づいてはいけないことに気づいた感覚だった。思考が空白になる。

 

「……え?俺……いつから、食っ、て……?」

 

 シュタルクも同じタイミングで気づいたようで、声が裏返りそうになり途中で掠れる。

 シュタルクは両手に持っていたナイフとフォークを取り落とし、慌てて口元に手を当て、次いでテーブルの上を見回した。

 テーブルの上の料理は、既に半分ほどなくなっていた。

 

 フェルンは反射で背筋を伸ばす。

 疑問が喉の奥に冷たい石のように沈み、身体が警戒を作り直し始める。肩が硬くなり、呼吸が浅くなる。

 

「……フリーレン様!」

 

 フェルンが絞り出すように呼ぶと、フリーレンもようやく自分の手元を見て、小さく瞬きをした。

 

「……あれ、私もう食べてた?」

 

 まるで寝起きのような呟きが、今のフェルンには何より恐ろしく聞こえた。自身の師匠の大魔法使いが、こんなに簡単に警戒を緩めていた。

 

 そんな中、ワゴンの脇で静かに控えていたルームサービスの魔族が、柔らかく咳払いをした。咳払いと言っても、空気を少しだけ整えるような礼儀としての音だ。

 

「お客様。驚かせてしまったようで、申し訳ございません」

 

「……何をしたんですか」

 

 フェルンは普段、杖は消している。けれど、今は魔力を指先に溜めていた。万一のときは即座に形に出来るように。

 ルームサービスの魔族はそんな緊張を受け止めても微笑みを崩さない。怯えも、苛立ちも、嘲りもない。ただ、ホテルの従業員らしい丁寧さだけがそこにあった。

 

「フフ、何もしておりませんよ。魔法による精神操作も、薬も毒も混ぜておりません。ただ──今夜の料理は、少々“過ぎた”のかと」

 

 そう言って、ルームサービスの魔族はワゴンの上の銀のクロッシュに指先を軽く添えた。蓋の曲面にシャンデリアの光が滑り、映った指先が一瞬だけ銀に溶けて歪んだ。

 

「本日、このホテルの厨房には、ビューネの飲食を司る賢称者が入っております。月に一度の監修のためですが、指示を出すだけでなく、自らも厨房に立つのでございます」

 

「……また賢称者か」

 

 フリーレンが反射的に繰り返す。

 シュライアから聞いたばかりの言葉。七崩賢を模したビューネの7人の都市の管理者。

 ルームサービスの魔族は頷く。

 

「ええ。このビューネの飲食を司る賢称者がお作りになる料理は、どれも人の欲するところに正確に届くものばかりです」

 

 ルームサービスの魔族が説明する中、シュタルクはもう既にフォークに手を伸ばしていた。ステーキの表面の照りが、まるで“早く私を食べて”と囁いているように見えた。

 

「じゃあ、さっきのは……俺たちが、無意識で自分から食べてたってのかよ?」

 

「その通りでございます」

 

 シュタルクの問いの半分は単純な疑問で、もう半分は自分の手が勝手に肉を切り分け、勝手に口にしていたことに気付いてしまった自分自身を落ち着かせるためのものだった。

 

「人類も魔族も皆、何かを欲します。食欲は最も分かりやすいものですが、それだけではありません。守りたい、褒められたい、知りたい、正義を貫きたい、夢を叶えたい……」

 

 ルームサービスの魔族は指を折りながら数を挙げる。その瞳の色は、先程までの手の観察と同じ種類のものだった。

 

「欲というのは気付く前に生まれるもの。ですから──呪いと同じで抵抗が難しいのです」

 

「……魔族らしい考え方だね」

 

 フリーレンは匙を止め、湯気の向こうにあるルームサービスの微笑みを半眼で眺めた。

 魔族らしいとは言ったが、そう呼んで目の前の存在を括った瞬間、何かがすり抜けていくような妙な浮遊感が残る。

 魔族の善意は所詮、ただの真似事だとフリーレンは知っている。実際、目の前のルームサービスは魔族に違いはない。角も、瞳の光も、言葉の裏に潜む、人を観察する癖も。けれど、このルームサービスは、善意の形だけを真似ているのではなく──善意そのものを、正しく理解して使っているようにすら見える。

 例えるなら、毒の入った瓶の中身が透明で、しかも良い香りがする。そんな奇妙な感覚だ。

 フリーレンは何か諦めたように小さく息を吐く。

 

「ねえ、フェルン」

 

「……また嫌な予感がします」

 

 フェルンのそれは予感というよりもはや確信だった。声はもう先回りして冷えている。

 

「地下の温泉迷宮──」

 

「駄目です」

 

「寝る時間までには制覇するから」

 

「駄目です」

 

「……むぅ」

 

 フェルンに即座に封殺され、フリーレンは不満げに頬を膨らませたまま、匙で煮込みを静かに掬った。湯気の向こうで肉と芋が柔らかく崩れ、香りが静かに自身を食べて欲しいと主張する。

 

 テーブルの硝子の皿が視界の端で揺らめく。

 シャンデリアの光を受けて散る煌めき。透明な縁に宿る虹の粒が、規則もなく瞬きながら連なっている。まるで粒の揃った宝石を円環に埋め込んだみたいに、光が等間隔で並んでいる。

 

 ──誰かの目みたいだ。

 

 一瞬だけ、何故かそう見えた。

 皿の縁に宿った煌めきの1つ1つが、瞬きをする眼球の列のように見える。何かがこちらを眺め、様子を伺っている気がした。

 

 次の瞬間には、ただの光の反射に戻る。

 フリーレンは何も言わず、また匙を手に取りスープを掬う。湯気の温度が口元に触れて、甘い香りが胸の奥まで落ちていった。

 

 夜の客室は、ただひたすらに穏やかで美しい。

 フリーレン一行の初めてのビューネの夜は──少なくとも表向きには、何事もなく更けていった。

 





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