様子のおかしいハリー・ポッターさん(10代) 作:夜風ミシェル
1.君との出会い
「────っ!?」
私は目を覚ました。
体の上に僅かな重みを感じる。咄嗟に蹴り上げると、布がはらりと床に落ちた。⋯⋯掛け布団だ。どうやら私はベッドに横たわっているようだ。
そういえば、五感が元に戻っている。自分の呼吸音。ドクドクと脈打つ心臓。全てを感じ取ることができる。
自分という個が消えていく感覚は、そう簡単に忘れられるものではなかった。震える手で二の腕を摩りながら、私は体を起こした。
辺りを見渡し、呆気に取られた。
「ここ⋯⋯ダーズリー家だ⋯⋯」
幸福とは呼べない、子どもの頃の記憶が蘇った。階段下の物置に閉じ込められ、虐待紛いの生活を強いられた。大人になっても、当時の痛みと苦しみを消し去ることなんてできなかった。
とはいえ私にとっては最初の『家』であったことに変わりはない。そして不幸中の幸いか、私が今いるのは階段下ではなく二階の部屋だった。ホグワーツの手紙が届いてから与えられた、まだ良い方の場所だ。
トランクケースの横、鳥籠の中で純白の梟が鳴いている。
は、と息が漏れた。
「ヘドウィグ!」
私は梟を籠から出した。柔らかい羽毛を撫でてやると、ヘドウィグは私の指を甘噛みした。懐かしい感触に、涙が止まらなかった。
再びヘドウィグに会えるなんて。歓喜に震えると同時に、心の一部はどこか冷静だった。
「そうか⋯⋯私は死んだのか⋯⋯」
私は洟水を啜った。
死のアーチは、あの世に繋がっているという。そこを通った者は例外なく死ぬ。私もきっと、死んでしまったのだろう。
そして、ここは私の空想のダーズリー家。耳を澄ませばグーグーという音が聞こえてくる。ダドリーの鼾だ。相変わらずうるさいな⋯⋯と思った瞬間、私は目を見張った。
ダドリーがいる?
私の記憶が正しければ、彼はまだ生きているはずだ。それだと言うのに、死者の世界に何故彼がいる?
壁掛けカレンダーを見る。1991年9月1日──。
私はヘドウィグを放って、部屋中を漁った。トランクの中には、初年度に使う教科書が入っている。机の上に放置された杖は、新品のようにピカピカだ。
ドタバタしていると、廊下の床が軋む音がして部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「ええぃ小僧! こんな夜中に何をしている!」
バーノンおじさんである。あまりにもリアルな生身の人間の出現に、私の手から教科書が滑り落ちた。
バーノンおじさんはでっぷりとした腹を揺らしながら、私を睨みつけている。
成人してからバーノンおじさんとまともに話したことはない。だが、ダドリー経由でおじさんが怪我で入院し、病院食で痩せたことは知っている。写真を見せてもらったのだが、別人のようで大笑いしたな。
「おじさん⋯⋯太ってる⋯⋯」
「は?」
「あ」
私は口を押さえた。失言にも程がある。あの写真が脳裏をよぎったせいで、つい声に出てしまった。
バーノンおじさんは顔を真っ赤にすると、「貴様⋯⋯!」と殴りかかってきた。自業自得とはいえ、殴られるのは勘弁願いたい。私は杖を振った。
「プロテゴ」
不可視の壁が、拳を弾いた。目を見開くおじさん。その目に確かな畏怖の念が浮かび上がっているのが分かって、私は自分のやらかしを悟った。
そうだ、バーノンおじさんは普通じゃないものを恐れている。そんな彼に魔法を見せればどうなる?
こうなる。
「うわあああああああっ!? ペチュニアぁぁぁぁぁ!」
「え、お、おじさん──?」
おじさんは情けない悲鳴を上げながら退散していく。
私はぽつん、と一人取り残された。
「キングス・クロス駅まではしっかり送り届けた。あとは貴様だけで行け」
「あ、はい。ありがとうござい……」
礼の言葉を述べようとしたが、途中でおじさんは逃げるように去ってしまった。私が自分自身の意志で魔法を使ったことが、余程堪えたらしい。 私は荷物を載せたカートを押して進んだ。九と四分の三番線から、ホグワーツ特急へ乗り込む。
ビビったおじさんによって、予定より早く駅に到着してしまった。得体の知れない力を持つ子どもを、早く家から出したかったのだろう。私としても、一人で考える時間が欲しかったためありがたかったが。
まだ生徒の少ない列車の通路を進み、適当なコンパートメントに入る。腰を下ろすと、ようやくひと息つけた。
窓ガラスに映るのは、十一歳の少年。自分、若いな⋯⋯と謎に感動してしまう。
一つ、分かったことがある。
それは、この世界がどうやら死後の世界ではないらしい、ということだ。
思い出すのは、逆転時計。死のアーチを通って自我の消失を感じる最中、砂時計がくるくると回っていた。
死のアーチをくぐった者は死ぬ。だが、同時に逆転時計を使用していたことで私は逆行してしまったのではないだろうか。
アーチによって肉体は滅びた。そのため、精神だけが時を遡り、この時代の自分の体に吸収された──。
「ここまで戻るのは予定外だったんだけどなぁ⋯⋯」
私は窓辺に片肘をついた。
一年だけ戻り、来たる襲撃に備えて準備をする。それだけのはずだったのに、何故か二十年も巻き戻ってしまった。
これから私は、二度目のホグワーツ生活に入るわけだ。
賢者の石を守り、バジリスクと戦い、第二の父に出会い、そしてセドリックを死なせて。
ヴォルデモートの復活を見届けて、皆から嘘つき呼ばわりされ、シリウスは消失して。
ダンブルドアもスネイプも死ぬ。
そんな数多の犠牲を見なかったことにして、私の本来の目的──デルフィーニに殺害された仲間を守ることだけに注力する?
そんなこと、できるわけがない。
折角ここまで戻ったんだ、誰も死なせない世界を目指したって構わないだろう?
過去を変えれば変えるほど、時空崩壊の危機は莫大なものとなる。私がやろうとしていることは、きっと正しくないんだろう。
それでも、常々夢想していた世界を、希う幻を、私は現実のものにしたい。
私がこの時代に戻ってきたのだって、偶然なんかじゃないはずだ。
未来を変えろ。
私は運命に叛逆する。
窓の外、見覚えのある赤毛一家が視界に入った。
フレッドとジョージ⋯⋯双子は欠けることなく存在している。ケラケラと笑う姿に、胸がじんわりと温かくなった。やっぱり彼らは、二人揃っている方が良い。
そこで私は、本日二度目のやらかしに気付いた。──本来なら、まずモリーに九と四分の三番線について尋ねて、そこで彼らと知り合いになるはずだった。なのに、私は一人でコンパートメントまでやって来てしまった。ウィーズリー家との邂逅イベントをスキップしてしまったのだ。
私は窓にガツンと額を打ちつけた。終わった。今後の友人フラグをへし折る愚行だ。くっ、セーブポイントはないのか! ⋯⋯あ、あれはジニーだ。なんて幼い。そして変わらず可愛い。ジニー、結婚しよう⋯⋯じゃなくて!
私は再び窓に頭をぶつけた。
中身三十一歳が十歳の少女に懸想する⋯⋯ジャパンならまだしもここはイギリス。ロリコンは即アズカバンだ。⋯⋯それはそれとして、幼女的可憐さには抗い難い魅力が⋯⋯いや、これ以上考えるのは止そう。
一度立ち上がり、服装を整えて再び腰を下ろす。そういえばここのコンパートメントも、一度目の世界とは多分違う場所なんだろうな⋯⋯。深く考えず座ってしまっているが。
困った。これじゃ、ロンと相席できない。今すぐ別のコンパートメントに移動するべきか⋯⋯と逡巡していると、列車が動き始めた。
控えめなノック音に、私ははっとした。
「ここ、空いてる?」
特徴的な赤毛にそばかす。
これから先に待ち受ける冒険も悲劇も何も知らない、素朴な雰囲気の男の子が、そこに立っていた。
ロン・ウィーズリー。
私の最初の友達。
彼の顔は初対面の人に対する緊張でいっぱいで、それに一抹の寂しさを覚えながらも私は喜びを噛み締めていた。
出会い方は違えど、ロンは私がいるコンパートメントにやって来た。そんなの、まるで、運命じゃないか。
けれども私は運命に抗うと決めたから。
誰も殺させないように。
そして、間違った憧れで誰かを死なせないように。
若干おどおどしながら向かいの席に座るロン。そんな彼に、私は笑顔を作った。
ヴォルデモートを倒せば、私の意志に関わらず『ハリー・ポッター』は英雄になってしまう。
ちっとも英雄に相応しくない私への憧れが、呪いとなって降りかかる。
だから私は、夢を見させない。
「どうもおはこんばんにちわー、ハリー・ポッターです。生き残った男の子です。崇め奉りなさい。よろしくお願いします」
ヴォルデモートは殺す。
デルフィーニは存在させない。
そして私は、『誰も憧れない英雄』になる。
「なんか違う!」というツッコミが入ったのは、それから一秒後のことだった。
*****
未来を変える。
そう意気込んだものの、ある程度は一度目の人生と同じように進めた方が良いだろう、と私はスキャバーズを見つめながら考えていた。
ここでこいつの正体を暴くのは簡単だ。だが、そうすればヴォルデモートの復活にズレが生じる。相応の対処が思い付かない以上、手出しするのが正解とは限らない。シリウスには申し訳ないが、後二年は耐えてもらわなくてはならなかった。
今は、ロンがスキャバーズに魔法を掛けようとしているところだ。
「昨日、少しは面白くしてやろうと思って、黄色に変えようとしたんだ。でも呪文が効かなくて。⋯⋯見てて」
ロンがボロボロの杖を振り上げたその時、コンパートメントの扉が開いた。
「誰かヒキガエルを見なかった? ネビルのがいなくなったの」
ハーマイオニーだ。威張ったような話し方が懐かしい。将来ロンと結婚するなんて、この時は夢にも思わなかったな。
ハーマイオニーは、親友が揃ってほわほわ浮かれている私より、ロンの魔法に興味津々だ。ロンは咳払いをしてから、出鱈目な呪文を唱える。勿論、何も起きない。
「その呪文、間違ってるんじゃないの?」
冷静なハーマイオニー。そこから自己紹介に移り、私は、「僕はハリー・ポッター。いくつか本に名前が載ってるよ⭐︎」とウィンクしてみせる。
やってみて気付いたのだが、演技をしている間は逆に客観的でいられる。耐え難い記憶と今の自分を切り離すことができて、溢れそうになる激情を容易く抑え込めるのだ。
その代償として、ハーマイオニーからは冷めた目を向けられたが。
「そろそろ着替えた方がいいわよ」とだけ言い残し、ハーマイオニーは去っていった。引きつつも忠告だけはしていくところに、彼女の人の良さが現れている。
最後にハーマイオニーと交わした会話を思い出す。私を犯罪者にしないために、一人で止めに来た彼女。その思いを踏み躙って、私は⋯⋯。
ロンに目を向ける。年相応の瞳が、こちらを見つめ返している。「最高の友達だよ」と言ってくれた彼と同じ存在なのに、違う人。
「何さ」
「いやぁ? 何でもないよ」
私はおちゃらけて返す。そういえば、そろそろマルフォイが来る頃じゃないだろうか。
予想通り、マルフォイがお供を引き連れてやって来た。
「間違ったのとは付き合わないことだね。僕が教えてあげよう」
高慢ちきな仕草が微笑ましい。
純血を誇りに思い、マルフォイ家の力を振り翳す⋯⋯当時はなんて嫌な奴なんだと思っていたが、育った環境のことを考えればある程度は仕方のないことだと思う。それにマルフォイは自分で考えて、踏み止まることのできる優しさがあった。マルフォイの館で私がハリーだと気付きながらも、分からないふりをして私を助けてくれた。
私たちは微妙な関係だ。
お互い職に就いてから何度か話す機会はあったが、若干の気まずさがないわけではなかった。
だから今度は、最初から話せるようになれたらなと思う。
「よろしく、ドラコ」
私はドラコの手を取った。ガミガミ言うロンのことはさらりと流して、私は微笑むのだ。
*****
舟に揺られてホグワーツ城に到着。
小部屋で暫く待たされる間、私は食べ損ねた百味ビーンズに手をつけていた。
百味ビーンズ⋯⋯ゲテモノも多いお菓子。大人になってからはチャレンジ精神が衰えて食べる機会も殆どなかった。なので、久方ぶりに食べてみようかと思う。こういう挑戦は、若いときにしかできないからね。
「⋯⋯うぇぇぇぇ!」
これは多分鼻くそ味⋯⋯。食レポはやめておく。
大人が食べると胃がもたれるかぼちゃパイで味変していると、ロンやハーマイオニーに『こいつ信じられねぇ⋯⋯』みたいな顔をされた。まぁ、こちらは二度目だ。組み分けの儀式に対して不安はない。
体に悪そうなお菓子を貪り食っていると、大広間に案内された。
私はいの一番に教員席に視線を向けた。
ダンブルドア。
スネイプ。
生きている。二人は、生きているのだ。⋯⋯あ待って、歯の間に挟まってたビーンズが刺激的な味を主張してくる。ぐっ、鼻くそ味はもう終わったと思っていたのに⋯⋯!
私は二人の姿を目に焼き付けてから視線を外す。これ以上直視し続けるのは不自然だ。まだ彼らには私の正体を悟られたくない。
未来のことも、教える段階ではない。
組み分けは順調に進む。そしてついに、私の名前が呼ばれた。
タイミングが悪い。私は箱から出しただけの蛙チョコレートをポケットに突っ込んだ状態で前に進み出た。
帽子を被ると、大広間のざわめきがどこか靄のかかった響きになる。
『⋯⋯ふむ、君はどうやら数奇な人生を歩んできたようだな』
やはり帽子には分かるようだった。
『成程、逆転時計でやり直しを』
「そう。だから私はグリフィンドール一択で」
『目的の為なら法をも破り⋯⋯世界よりも個人を選ぶ⋯⋯』
「聞いてます?」
『君が行くべきはスリザリンだ』
「え? やめてください。今後の展開に都合が悪い」
私は全力で首を横に振った。何を血迷っているんだこの帽子。
だが組み分け帽子は話を聞かない。
「スリザリ──」
それはまずい!
「ホワチャアアアアアアッ!!」
渾身の一撃が、帽子の口に突き刺さった。
ポケットから掴んだ蛙チョコレートで、組み分け帽子の買収に励む。
「お願いします、そのチョコあげるんでグリフィンドールに入れてください」
そして必死に心で語りかける。──ちょちょちょ! 寮を変えるなんてあんまりじゃないですか!? スリザリンになるとロンとの距離ができて、賢者の石を守ったりできないでしょう!
『ハリー・ポッター。私は組み分けをする存在だ。最適な寮を振り分けることが義務だ。今の君に相応しいのはグリフィンドールではない』
帽子、無慈悲。融通の効かない面倒な奴だ。
私は帽子の口に突っ込んだ拳に力を込めた。──そうですか、そんなことを言うのなら今すぐあなたの布地を切り裂きます。長い帽子生活に別れを告げてください。
組み分け帽子の内部で、魔力を帯びた蛙チョコレートが暴れ始める。
「⋯⋯グリフィンドール」
流石の帽子も死にたくはなかったらしい。
私はウキウキで椅子から降りると、グリフィンドールの長机に向かった。
あとはロンか⋯⋯と、私は不安そうに指を絡ませるロンに目をやった。
ロンの組み分けは、記憶より若干長く感じた。⋯⋯まさかとは思うが、何か余計なことを言っているんじゃなかろうか、組み分け帽子。
不必要に髪の毛を触りながら待っていると、帽子が高らかに宣言した。
「グリフィンドール!」
私はよし、とガッツポーズをした。
ああ、本当に良かった。
私はまた、君と共に過ごすことができる。
「これからよろしくね!」と伝えると、彼は笑顔で応じてくれた。
天井を仰ぐ。圧巻の景色に、当時の記憶が鮮やかに思い出された。
私は幼く、愚かで輝いていた。夢と希望だけを胸に抱いていた。
今はもう、あの頃の自分には戻れない。私は絶望を知っている。いや、『絶望』という言葉すらも生温い。
この思いを、ロンやハーマイオニーと共有することもできない。
それでも今は、確かに希望の灯火を感じていた。
一筋の闇から、目を背けて。
次回投稿は多分10月になります。暫しお待ちください。