輪廻の檻 ―異世界で再会した幼馴染は、俺を知らない敵だった― 作:あすらりえる
第83話:陽だまりが消えた日
なんてことのない放課後の一幕だった。
茜色の差しはじめた通学路を、海里と鏡花は二人で並んで歩いていた。
鞄の揺れる音と、遠くで鳴る踏切の音。ありふれた夕暮れの、ありふれた帰り道。こんな日がずっと続いていくものだと思っていた。
「あ!」
そんな矢先、隣を歩いていた鏡花が、ふいに声をあげた。
その視線を追うと、少し前を行く見知らぬ男が、コンビニの袋を無造作に地面へ放り捨てたところだった。中の空き缶が乾いた音を立てて転がる。男はそれに一瞥もくれず、ポケットに手を突っ込んで立ち去ろうとしていた。
「海里、今の見た? ポイ捨てだよ。私、注意してくる」
「ちょっと待て、鏡花。相手がどんな奴か分からないだろ。俺が行くから、鏡花はここで待ってろ」
「何言ってるの。間違ってることを黙って見てる方が駄目でしょう? 行ってくる」
「あっ! おい、鏡花!」
止める間もなかった。
鏡花はもう小走りに駆け出していて、男の背中へ臆することなく声をかけている。小柄な背中が、自分より頭ひとつ大きい相手を前にして、一歩も退こうとしない。
止めに入るべきか、見守るべきか、海里は足を踏み出したまま動けずにいた。
男が振り返り、舌打ちしながらも袋を拾い直すまで、彼女はまっすぐ顔を上げたままだった。
戻ってきた鏡花は、勝ち誇ったように笑っていた。その顔を見て、海里は溜まっていた息を吐いた。
「ね、言ったでしょ。ちゃんと拾ってくれた」
「……無茶するなよ。ああいうの、逆上する奴だっているんだぞ」
「海里がいるから平気だよ。それに、海里だってこういうの放っておけないでしょ」
図星だった。だからこそ、この危なっかしい幼馴染から目を離せないのだと、海里はいつも思っていた。
正しいと信じたものへ迷わず駆けていく彼女の背中は危なっかしくて、でもそれ以上に眩しかった。その眩しさを守れる場所に俺はいたかった。
_ノィズが走ッ──タ
暑さの厳しい夏の日。うだるような熱気の中で、蝉がうるさく鳴いている。
陸上部の練習を終えた鏡花と、剣道の稽古を終えた海里は、校門近くの自販機の前で落ち合った。
「はぁー! 今日も暑かったね。海里、お疲れさま」
短く切り揃えた黒髪を揺らし、汗を拭いながら鏡花が駆け寄ってくる。日に焼けた頬が上気して、息はまだ少し弾んでいた。
「ああ。そっちも終わったのか。陸上部は、この炎天下によく走れるな」
竹刀袋を担ぎ直しながら、半ば呆れて海里は言った。アスファルトから立ちのぼる陽炎が、二人の足元をゆらゆらと揺らしていた。
「何言ってるの。剣道部だって、あの暑い防具つけて稽古してるじゃない。私からすれば、そっちの方が信じられないよ。……ねえ海里、それ、一口ちょうだい?」
買ったばかりのスポーツ飲料を、鏡花が陽だまりのような顔で覗き込む。海里は苦笑して、汗をかいたペットボトルを渡した。
「ほら。今日は一段と飛ばしてたな。遠くから見てても、鏡花だってすぐ分かったぞ」
鏡花は蓋を開けると、喉を鳴らして一口飲んだ。返ってきたボトルは、少しだけ軽くなっていた。
「えへへ、見ててくれたんだ。今日はタイムが良くてさ、風を切る感じが最高だったよ。海里の剣道だって、一本取った時のあの音、道場の外まで聞こえてたよ。相変わらずかっこいいね」
「ありがとう。……ただ、鏡花が走ってるのを見ると、俺ももっと稽古しなきゃって思うんだ」
「もう、海里は真面目だなぁ。でも、そういう一生懸命なところ、嫌いじゃないよ。さ、帰ろ。どっちが早く駅に着くか、競争する?」
「やめとく。竹刀袋持ってる俺が、陸上部の中でも脚が速い鏡花に勝てるわけないだろ」
「あはは」
鏡花の笑い声が、眩しい日差しの中に響いた。それが二度と聞けなくなる日が来るなんて、その頃は想像もしていなかった。
_ノィズが走ッ──タ
景色が翳る。
放課後の、誰もいない教室だった。傾いた陽が窓枠の影を床に長く伸ばしている。誰もいない廊下から運動部のかけ声だけが遠く届いていた。
海里と鏡花は、机に広げたノートを挟んで向かい合っていた。声をひそめていたのは、誰かに聞かれてはまずい話をしていたからだ。
「……鏡花、やっぱりあの先生はおかしい。目が笑ってないとか、そういう次元じゃない。隣のクラスの生徒が急に退学した話も、偶然とは思えないんだ。その生徒は反抗的だったんだろ?」
「うん。私も同じことを感じてる。みんなはあの先生を慕ってるけど、私は……どうしても違和感があるの。二人でちゃんと調べよう。あの先生がいた前の学校でも似たようなことが多かったみたいだし……」
鏡花の声に戸惑いはあったが、その目には引く気配はなかった。こうなった彼女を止められたためしがないことを、海里はよく知っていた。
「止めても聞かないのは分かってるけど、危ないことは絶対に一人でするなよ」
「二人でやるって決めたでしょ? 私は大丈夫。海里がいるんだから」
その時、教室の戸口に誰かが立っている気がした。背筋を冷たいものがぞわっと撫でて、海里は反射的に顔を上げた。
だが、逆光のせいか、本当に人がいるのか、よく見えなかった。気のせいだと思おうとしても、その輪郭はやけに長く、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。
それを鏡花も感じたのか、二人で身を寄せ合った。
_ノィズが走ッ──タ
土手の上だったか、帰り道だったか、もう判然としない。隣には鏡花がいて、二人して夕日を浴びていた。川面が燃えるように光を返し、風が河川敷の草を一斉に揺らしていく。
「ねぇ海里、卒業してもずっとこうして一緒にいるんだろうね、私たち」
「……どうだろうな。鏡花はすぐどこかに行きそうだし」
「ひどい! 私が海里を置いていくわけないじゃない」
鏡花はむくれてみせてから、まっすぐに海里を見た。夕日を背負ったその瞳が、ひどく真剣だった。
「海里が道に迷わないように、私がずっと隣で照らしてあげるんだから」
「それは、いいなぁ」
当たり前の明日が、いくらでも続くと信じていた。その言葉が、なぜか、やけに遠くで響いた。手を伸ばせば届くはずの彼女が、急に薄く、遠く感じられた。
光が、陽だまりが、急速に翳っていく。
_ノィズが走ッ──タ
海里の腕の中には、血にまみれた鏡花がいた。
夜のアスファルトに膝をついた感触も、いつ駆け寄ったのかも、もう思い出せない。ただ、腕に伝わる重みと、滲み広がる温かい血の感触だけが、はっきりとそこにあった。その温もりが、指の隙間からみるみる失われていくのが感じられる。その現実を受け止めたくなくて、海里は必死に呼びかけた。
「鏡花、おい鏡花、しっかりしろ!」
あまりにも必死な海里の声に、閉じられていた鏡花の目が薄っすらと開いた。
流れる血は止まらない。傷口を必死に押さえても、指の間から溢れ出すばかりで、何も変わらない。
「海里、ごめ……んね」
「何で……謝るんだよ」
目の前の現実を受け入れられなくて、海里は弱々しく問いかける。
「私、ずっと、この先も海里と一緒にいられるって思ってたんだ……。でも、もう無理、みたい」
「そんなこと言うな! すぐに病院に連れて行くから! 救急車だってもうすぐ来るから! そんなこと言わないでくれよ、頼むから」
鏡花は、最後に小さく笑った。血の気の失せた唇が、それでも海里を安心させようとするように、やわらかく緩む。
「海里……大好きだよ」
その一言を残して、腕の中の彼女の身体から、ふっと力が抜けた。
「鏡花? 鏡花! おい、目を開けろよ」
呼びかけても、もう鏡花は答えない。胸を上下させていた呼吸も、握り返してくれていた指の力も、何もかもが消えていた。
その身体から、命がなくなってしまったのだから。返せなかった言葉だけが、行き場をなくして喉の奥につかえていた。
「……ははは」
その時、背後から、場違いなほど穏やかな笑い声が聞こえた。
振り返ると、息も絶え絶えの男、
「何が、何がおかしいんだよ、あんたは……。俺たちの通ってる学校に赴任してきて、何をしたかったんだよ!?」
海里の問いに、設楽はすぐには答えなかった。ただ、楽しくてたまらないというように、目だけが細められた。
「何がしたい、か。……聞きたいことは分かるけど、答えるのが難しいな。俺にとっての完璧で平穏な日常をつくること、かな」
設楽は喉を鳴らすように笑った。
それを聞いても、海里には何ひとつ理解などできなかった。
「それがどうして、人を排除することに繋がるんだよ!?」
設楽はまた、たっぷりと間を置いた。血に濡れた唇が、ゆっくりと弧を描いていく。
「障害は……排除しなきゃ駄目だろ? 俺は普通の人とは……違うみたいでね、それを理由に……君たちみたいに怪しまれることがある。俺はちゃんと、普通の人を観察して模しているつもり……なんだけどね」
まるで、自分のことを人間ではないと言っているようだった。それが顔に出ていたのか、設楽はおかしそうに笑った。
「おいおい、俺は……ちゃんと人間だよ。それより、海里。さっきの君は……いい目をしていたよ。鏡花が刺された瞬間、君の中で……何かが、切れただろう?」
胸に刺さったままのナイフを見下ろし、設楽はさらに笑みを深めた。そうして、海里の耳に刻みつけるように、ことさらゆっくりと告げる。
「俺と同じで……ちゃんと殺せるじゃないか」
それが、設楽の最後の言葉だった。
「――違う……違う! 俺はあんたじゃない!」
海里が叫び返したときには、設楽はもう事切れていた。その口元には、満足げな笑みだけが貼りついて残っていた。
鏡花も設楽も、もう動かない。
まだ温もりの残る鏡花の身体が、腕の中で少しずつ冷たくなっていく。
陽だまりは、もうどこにもなかった。
海里はその熱が完全に消えてしまうまで、その場から動くことができなかった。冷えていく彼女を抱いたまま、自分の中の何かも一緒に失われていくのを、ただ感じていた。
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「はっ!」
跳ねるように身体を起こして、海里は自分が眠っていたのだと理解した。
背中も首筋もぐっしょりと汗をかいていて、ひどく不快だった。心臓がまだ、現実の出来事のように激しく脈打っている。
「ここは? 元の世界の夢? 何で今になって?」
疑問を言葉にしてから、普段から利用している冒険者用の宿にいることに気づいた。窓からは朝日が差し込んでいた。元の世界とは違う、乾いた石壁の匂いが、ここが現実だと教えてくる。
(眠る前は何を考えていた? 色んな人のことを考えていたはずだ)
鏡花のことも考えていた。鏡花のことを考えていたから、元の世界の彼女の夢を見た。
そこまでは分かる。
だがなぜ、設楽まで出てきた? あの男は俺自身の手で殺した。死んで、もういない。そう言い聞かせても、胸の奥のざわつきは消えなかった。
乱れた前髪をかき上げて、海里は息を吐く。
元の世界の鏡花の最後の言葉が、今も消えずに残っている。
大好きだよ、と彼女は言った。
その言葉に、海里は何も返せなかった。答えようとした時には、もう間に合わなかった。あの夜から、その後悔だけはずっと胸の底で錆びついたままだ。
今、向き合うべきは、先に転生してこの世界にいる鏡花のことだ。元の世界で一緒に過ごしてきた、あの明るかった彼女が、身体を乗っ取られ、感情の見えない無機質な存在になっているかもしれない。
その鏡花と向き合うには、俺一人じゃ会うことすら難しいだろう。
(……一人じゃ、どうにもならない)
窓の外は、もうすっかり明るかった。
ベッドを降りて、海里は冒険者としての装備を一つずつ身に着けていく。考えるより先に、動くしかなかった。
夢で甦った
過去が白日の下に晒される以前から、因果は巡っている。終わらせたはずのものが次の始まりとなり、悲劇も再会も未来へと連なっていく。
第三章——『