二月の横須賀は、海風が刺すように冷たい。しかし、鎮守府の執務室の中だけは、おかしな熱気と静寂に包まれていた。
壁の黒板には赤ペンで大きく『節分:恵方巻きを食べ終わるまで邪魔するな!』と殴り書きで書かれている。
提督「…………」
瑞鶴「…………」
提督の向かい側に座る瑞鶴は、その手に特大の恵方巻きを握りしめていた。今年の恵方は南南東。彼女は律儀にその方向を向き、目を閉じて、願い事を唱えながら黙々と口を動かしている。
ルールは単純だ。食べ終わるまで、一言も発してはならない。喋れば福が逃げる。瑞鶴はそういう縁起物を意外と大切にするタイプだった。
そして、提督はその「絶対に喋れない状況」を最大限に悪用しようとするタイプだった。
提督は自分の分の恵方巻きを早々に平らげると、肘をついてじっと瑞鶴を見つめ始めた。最初は、ただの観察だった。
提督(……瑞鶴、頬張ってる時の顔、リスみたいだな。普段はあんなに威勢がいいのに。あと、一生懸命飲み込もうとして喉が動くの、なんか見てて飽きないな)
瑞鶴(……っ!)
視線を感じた瑞鶴の眉がピクッと跳ねる。彼女は目を閉じて集中しようとしているが、提督の視線が彼女の顔面、特にぷっくりと膨らんだ頬を射抜いている。
提督「…………」
提督は無言のまま、椅子を「ギギッ」と鳴らして距離を詰めた。瑞鶴の鼻先にまで顔を近づける。瑞鶴は薄目を開け、鬼のような形相で提督を睨みつけたが、口は決して開けない。
瑞鶴(……っ、近い! 近いってば! どっか行けよクソ提督!)
提督「…………」
提督は無言のまま、瑞鶴の鼻先を指でツンと突っついた。
瑞鶴は怒りに震えながらも、もぐもぐと咀嚼を止めない。しかし、その脚は机の下で音速の回し蹴りを放ち、提督の脛を正確に捉えた。
提督「ぶふっ! ……痛いな。無言の抵抗か」
提督は、瑞鶴が反論できないことを確信すると、悪い笑みを浮かべてスマホを取り出した。画面には、昨日、執務室の冷蔵庫の中を撮影した写真が表示されている。
提督「あ、そういえばさ、瑞鶴。言い忘れてたことがあったんだ」
瑞鶴(……!?)
提督「冷蔵庫の奥に隠してあった『限定・高級とろけるプリン』。お前の名前書いてあったけど、俺が昨日のおやつに食べといたわ。いやー、あれ美味かったな。底のカラメルが濃厚でさ。ごちそうさま」
瑞鶴の動きが止まった。
そのプリンは、彼女が三日前から楽しみに取っておいた、横浜の有名店の期間限定品だ。艦娘たちに食べられないように、わざわざ「私物:瑞鶴」とマジックで書いていたのだ。
瑞鶴(…………っ!! 貴様ああああああ!!)
瑞鶴の額に青筋が浮かぶ。顔が真っ赤になり、恵方巻きを握る拳がプルプルと震える。この男を今すぐ艦載機で片付けたい。今すぐ立ち上がって彗星を叩き込みたい衝動と、縁起を担ぎたい乙女心の葛藤。
ドゴッ!
瑞鶴は、言葉の代わりに渾身の「どつき」を提督の肩に叩き込んだ。
だが、提督は痛みに悶えながらもヘラヘラ笑っている。
提督「あ、怒ってる? ごめんごめん、お詫びに今度……コンビニの三連プリン買ってきてやるよ。それでチャラな」
瑞鶴(格差がひどすぎるのよ!? 誰がコンビニので納得するか!!)
瑞鶴の呼吸が荒くなる。鼻息が「フンッ! フンッ!」と漏れているが、まだ彼女は耐えていた。恵方巻きは残り半分。
提督は、瑞鶴が「怒りで喋り出す」寸前であることを察し、一気に勝負に出ることにした。彼は椅子から立ち上がると、瑞鶴の背後に回り込み、その肩に手を置いた。
提督「そんなに怒んなよ。お詫びに、ほら。マッサージしてやるから。肩、凝ってるんだろ?」
瑞鶴(やめろ! お前のマッサージは絶対にマッサージじゃない!)
瑞鶴の予想は、残念ながら的中した。
提督の手は肩に置かれたかと思うと、そのままスルスルと脇の方へ、そして飛行甲板へと回り込んでいく。
提督「……おや?」
瑞鶴「!?(モグモグッ!?)」
提督の手が、瑞鶴の胸のあたりを、平手でペタペタと触り始めた。
揉むのではない。そこにある「何か」を確認するかのように、あるいは「何もないこと」を証明するかのように、虚無を撫でる手つきだ。
提督「おかしいな。瑞鶴、お前……今日、装甲板入れ忘れてないか? いや、それともこれがデフォルトなのか?」
瑞鶴(……殺す。こいつ、マジで殺す!)
瑞鶴は必死で恵方巻きを飲み込もうと顎を動かしながら、後ろにいる提督の足の甲を思い切り踏みつけた。
提督「痛っ! ……あいたたた。でも瑞鶴、聞いてるか? 翔鶴姉のところには、こう、手に吸い付くような『丘』があったはずなんだが。お前のところは、なんていうか……広大な『滑走路』だな(笑)。非常に離着陸がしやすそうだ。さすが正規空母。機能美の極致と言っても過言ではない」
瑞鶴「……っんんーー!!(怒)」
提督「あ、今『失礼しちゃうわ!』って言った? 心の声で言った? でも事実だろ。ほら、指先でつつくとすぐ肋骨の感触がするぞ。トントン。……うーん、いい音だ。木魚かな?」
提督は人差し指で、瑞鶴の胸をピアノを弾くような軽快な動作で叩き始めた。セクハラというよりは、もはや嫌がらせの域に達している。
瑞鶴の右肘が提督の脇腹に深々と突き刺さる。だが、提督は「ぐふっ」と呻きながらも、その手を止めない。
提督「でも安心しろよ瑞鶴。俺は差別しない男だ。大きいのは大きいのでいいが、お前のような『まな板』……あ、いや『甲板胸』も、場所を取らなくていいと思うぞ。格納に便利だしな。お前を抱きしめた時の、この壁にぶつかってるような安心感。他では味わえない」
提督はそのまま、後ろから瑞鶴を抱きしめた。
密着。本来なら少しはドキドキしてもおかしくないシチュエーションだが、言っている内容が最悪すぎる。
提督「ほら、瑞鶴。怒ってないで恵方巻き食べろよ。……おっ、今の瑞鶴の顔、すっごい真っ赤。茹でたカニみたい。あ、カニと言えば、瑞鶴のプリンの横にあったカニカマも食べちゃったんだわ。ごめんな(笑)」
瑞鶴(プリンだけじゃなくてカニカマまでぇー!?)
瑞鶴の怒りのボルテージは、ついに臨界点を超えた。執念だった。彼女は驚異的なスピードで残りの恵方巻きを咀嚼し、お茶とともに一気に飲み込んだ。
ゴクン。
瑞鶴「……っはぁ!!」
ようやく、喉が解放された。無言の儀式、終了。瑞鶴は、手に持っていた湯呑みを机に叩きつけた。
提督「おっ、食べ終わったか。お疲れ瑞鶴。これで今年の幸運は約束されたな! さて、願い事は何をしたんだ? 『胸が大きくなりますように』か?(笑)」
静寂。瑞鶴はゆっくりと、本当にゆっくりと振り返った。その表情は、もはや怒りを通り越して、静かなる「無」の境地。
背後には、幻覚ではないレベルで、赤城や加賀さえも震撼させるほどの真っ黒なオーラが立ち昇っていた。
瑞鶴「……提督」
提督「なんだよ、そんなに改まって。告白か?いいぞ、俺の『愛』で受け止めてやる」
瑞鶴「提督さんの『愛』なんて、一円の価値もないわよ。……それから、私の胸が『滑走路』? 『木魚』? 『格納に便利』?」
提督「おっと、そんな怖い顔すんなよ。希少価値だよ、希少価値。航空母艦としての機動力を評価して……滑走路は平坦な方が艦載機も離着陸しやすいだろ? ほら、瑞鳳だって仲間だし……」
瑞鶴「あ、そう。……そうよね。私は正規空母だもんね」
瑞鶴は、手に持っていた恵方巻きの包み紙をクシャリと握りつぶした。
提督「……福、来るといいね」
瑞鶴「……福? 来るわけないでしょ。今からここ、地獄になるんだから!!」
鎮守府には一瞬静寂が訪れた。静かすぎて、逆に死の予感しかしない。彼女の背後に、幻の艦載機たちが次々と発艦準備を整えていくのが見える。
提督「待て待て、瑞鶴! 冗談だって! ジョーク! アメリカンジョーク的な……!」
瑞鶴「全機爆装! 目標、目の前のクソ提督! 地獄にっ……墜ちろおおおおおおおお!!」
提督「ぎゃあああああああ!?」
ドォォォォォン!! という爆発音が横須賀の港に響き渡った。執務室の窓ガラスが振動でビリビリと震え、黒煙が隙間から漏れ出す。
横須賀鎮守府の執務室から、盛大な爆発音と、提督の情けない悲鳴が響き渡った。
冬の空に、提督の制帽がひらひらと舞い上がる。
【数分後】
黒焦げになった提督が、執務室の隅で正座させられていた。目の前には、仁王立ちで腕を組む瑞鶴。
瑞鶴「……で? 提督さん、プリン、本当に食べたのね?」
提督「……はい。美味しかったです……」
瑞鶴「カニカマも?」
提督「……はい。マヨネーズつけて食べました」
瑞鶴「……私の胸についても、何か言い残すことは?」
提督「……非常に、スレンダーで、空気抵抗が少なそうで、素敵だと思います」
瑞鶴「……死ねっ!!」
スパーン! と、瑞鶴の平手打ちが提督の頬に炸裂する。
しばらくして、騒ぎを聞きつけた加賀が通りかかる。
加賀「あら……何事かしら。瑞鶴、そんなに息を荒らげて」
瑞鶴「ハァ、ハァ……加賀さん……。このバカが、あんまりなこと言うから……!」
加賀は提督を一瞥し、それから瑞鶴の胸元に視線を落とした。そして、フッと鼻で笑った。
加賀「……事実を指摘されて逆上するなんて、やはり五航戦は未熟ね」
瑞鶴「……加賀さん、表に出なさい。提督さんと一緒に沈めてあげるわ!!」
横須賀鎮守府の節分は、今年も例年通り、福を呼ぶどころか火災報知器を鳴らして幕を閉じた。
(……でも、こんな平和がずっと続くといいな……)
けたたましいサイレンの音を聞きながら、意識を失う間際までそんなことを考えていた。