IF もしも、最初からヒカルが囲碁を打っていたら。 作:天使乃あくび
ヒカルの日常に、佐為との熱のこもった対局と検討が溶け込み始めていた頃、その静寂はアカリの訪問によって破られた。
「どうしたの? 」
ヒカルは盤面を片付けながら尋ねたが、アカリは難しい顔をして押し黙ったままだ。いつも明るい彼女が、これほど深刻な表情をしているのは珍しい。
(遊びの誘いじゃなさそうだし……困ったな)
ヒカルは、他の小学生よりも大人びていた。女の子であるアカリを無理矢理問い詰めたりはせず、彼女が口を開くのを静かに待つ。ヒカルが悩んでいると、アカリは意を決したように顔を上げ、きっぱりと口を開いた。
「私に、囲碁を教えて欲しいの!」
「囲碁を? アカリが?」
「うん」
ヒカルと、隣にいた佐為は顔を見合わせて驚愕した。
「今まで、興味なかったのに?」
「ヒカルが、真剣に取り組んでるのを見て、私もやりたいと思ったの!」
それだけが理由ではなかった。最近のヒカルは、学校が終わるとすぐにどこかへ行ってしまい、遊びの誘いも断るようになっていた。アカリは、自分が好きなヒカルが、遠い場所へ行ってしまったようで、凄く寂しく、悲しんでいたのだ。ならば、ヒカルのいるその場所に近づくためには、囲碁を覚えるしかない。そう考え抜いた上での願いだった。
「そうなんだ……。うん、別に俺は良いよ」
「本当!?」
「うん。でも、ルールは知ってるの?」
「全然、分からないの……ごめんなさい」
アカリは申し訳なさそうに眉を下げ、小さな声で謝った。
「別に、謝ることないよ。最初は、みんな初心者なんだから。ルールだって、今から覚えれば良いよ」
「うんっ!」
アカリの顔にパッと笑顔が戻る。その様子を見て、ヒカルの横で佐為が嬉しそうに舞った。
『ヒカルったら、優しいんだら〜!』
『佐為は、黙ってて』
佐為を軽くあしらいながら、ヒカルはアカリのために盤上の石を片付けた。
そうして、ヒカルの部屋で小さな囲碁教室が開かれた。生徒は、アカリだけ。
「まずは、これをあげる」
ヒカルは本棚の奥から、初心者向けの丁寧な囲碁のルールブックを手に取ると、アカリに差し出した。
「ありがとう!」
アカリは大切な宝物を受け取るように、ルールブックを両手でしっかりと抱きかかえた。
「まずは……そうだな。碁盤全体を見てみて」
ヒカルはアカリの隣に座り、盤の中央を指差した。
「この線が交わっているところに、石を置いていくんだ。ここが、石の場所。線の上じゃないよ」
「えっと……ここ? あ、ここか」
アカリは慣れない手付きで、碁笥から黒石を一つ摘み、盤の交点に置く。ヒカルは優しく頷いた。
「そう、上手。囲碁はね、この盤の上に、自分の陣地をたくさん作った方が勝ちなんだ」
「陣地?」
アカリが不思議そうに首を傾げる。ヒカルは盤上の石を使い、分かりやすい例えを挙げる。
「たとえば、この隅っこ。二つの辺に囲まれているから、少ない石で陣地を作りやすいんだ。ここに石を置いていくと……」
ヒカルが手早く石を並べ、隅に小さな黒の囲いを作る。
「これで、この中の空間は黒の陣地。逆に、この石を白の石で囲めば、その陣地を奪えるっていう仕組み」
「なるほど……。囲まれたらダメなんだね」
アカリは熱心にルールブックの図解と実際の盤面を見比べながら理解を深めていく。次にヒカルは「アタリ」と「着手禁止点」について教え始めた。
「一番大事なルールは、石の『気』をなくさないこと。石はね、隣り合う線の上にある空点、つまり『気』がなくなると、盤から取られちゃうんだ」
ヒカルは盤上に白石を四つ置き、その中心に黒石を置いた。黒石の上下左右の空点には、すべて白石がある。
「見て、この黒石は周りを全部白に囲まれてるでしょ? これが『アタリ』。次に白がここに打つと……」
ヒカルが黒石を盤から取り除く。
「こうして石は取られて、相手の陣地が増えちゃう」
「わっ……すごい。一瞬で消えちゃった」
アカリは少し驚きながらも、すぐにその真剣な眼差しを盤面に戻した。ヒカルはアカリの集中力の高さに驚きつつも、教える楽しさを感じ始めていた。
『ヒカル、アカリは筋が良いかもしれません! 物の道理を理解するスピードが速い』
佐為がヒカルの肩の上で興奮気味に囁く。ヒカルは心の中で「まだ始めたばかりだよ」と返しながらも、アカリの成長を嬉しく思った。
「じゃあ、実際に打ってみようか。アカリが黒ね」
ヒカルはアカリに黒石の碁笥を渡し、自身は白石を持った。アカリが最初の一手を打つ。
時間はかかったものの、一つひとつの手でルールを確認しながら、アカリはなんとか初めての一局を終えることができた。盤面の上には、白と黒の石が入り乱れ、まるで小さな戦場の跡のようになっている。対局が終わった瞬間、集中していた緊張の糸が切れ、達成感と心地よい疲労感が一気にアカリの身体を包み込んだ。
「疲れた〜! でも、すごい!」
アカリはぐったりとした様子で背筋を伸ばし、大きく腕を伸ばした。
「お疲れ様。初めてにしては、すごく上手に打ててたよ。どうだった?」
「囲碁って、奥が深いんだね……。難しかったけど、頭の中でいろんなことを考えるのが、すごく楽しかったよ!」
アカリの言葉に、隣で見守っていた佐為が興奮して身を乗り出す。
『そうでしょう! 囲碁は、奥深く、そして楽しいのですよ! アカリもすぐにその魅力にとりつかれるはずです!』
佐為はアカリには見えないものの、その声はヒカルの心に直接響いてくる。ヒカルは佐為を軽くあしらいながら、盤面を見つめた。
「筋は、悪くないよ。これなら、強くなれると思う」
「本当!? ヒカルがそう言うなら頑張っちゃおうかな!」
「多分ね」
(本人の努力次第だけど、アカリは強くなれる。そんな気がする)
ヒカルは盤面を見つめながら、そんな可能性を感じていた。ただの趣味として教えた囲碁が、アカリの中でどのような存在になっていくのか。それはヒカルにとっても、新たな楽しみになりつつあった。
アカリがヒカルに囲碁を教えを乞うようになってから、数日が経過していた。ヒカルの部屋での対局だけでなく、もっと広い世界を知ってほしいというヒカルの思いもあって、ある日の休日は気分転換を兼ねて、近場で開催されている地域の囲碁教室へと足を運んでいた。
(違う人に教えて貰うのも、アカリには良い経験になるはずだよね。俺の教え方とは違う視点も学べるだろうし)
ヒカルは教室の重厚な空気に少し緊張しながら、周囲を見渡した。教室には碁盤の前に座る老人ばかりで、子供の姿はヒカルとアカリだけだった。それでもアカリは物怖じせず、興味深そうに教壇を見つめている。
「では、この局面。ココに白が打たれた場合、黒はどう返しますか? 一手で陣地を守る手を探してみてください」
教壇に立つ、白髪の温和な先生が、ホワイトボードに描かれた複雑な局面を指しながら生徒たちに問いかけた。
部屋に静寂が訪れる。老人たちが眼鏡を掛け替えたり、顎をさすったりしながら盤面を熟考する中、アカリがピッと元気に手を挙げた。
「はい! 右上のここです!」
アカリは迷いのない足取りで教壇のホワイトボード前へ進み出ると、指を指す。それは隅の模様を強固にしつつ、白の侵入を完璧に防ぐ、定石に基づいた鋭い一手だった。
「ほほう……素晴らしい。素晴らしい一手ですな、お嬢さん」
先生は感心したように目を細め、他の生徒たちも「おぉ」と感嘆の声を上げた。
(今の局面、難しい場面だったのに、よく分かったなぁ。……アカリの成長速度には、本当に目を見張るよ)
ヒカルは座席からその様子を見つめながら、アカリの成長を自分のことのように嬉しく感じていた。教える側としても、これほど誇らしいことはない。
『流石ですね! ヒカルが基礎をしっかりと教えているので当然かもしれませんが、アカリの囲碁に対する集中力と姿勢は、素晴らしいです!』
佐為がヒカルの肩の上で、嬉しそうに扇子を扇ぎながら興奮気味に囁く。ヒカルは小さく頷き、自信を持って席に戻ってきたアカリを迎え入れた。
「凄かったね、あの難しい局面を一瞬で見抜くなんて」
「えへへっ、ヒカルが丁寧に教えてくれているおかげだよ!」
アカリが少し照れながらも嬉しそうに微笑む。ヒカルはアカリの成長を素直に褒めた。そのやり取りを見守っていた先生が、ホワイトボードの前から歩み寄ってくる。
「それでは、実際に対局してみましょう」
先生の一言で、教室にいた老人たちは一斉に動き出し、慣れた手付きで対局相手を探し始めた。そんな中、先生はヒカルとアカリの席へやってくる。
「お嬢さん、さっきの一手は見事でしたよ。小学一年生で、あの筋の良さはなかなか見られない」
「ありがとうございます!」
「……誰に囲碁を習ったんです?」
先生は、ずっと気になっていた疑問を口にした。先程のホワイトボードの局面は、大局的な視座と定石の深い理解がなければ、即答できない難所だった。それを子供が理解していたことに、ただならぬ気配を感じていたのだ。
「ヒカルに習ったんです!」
アカリは屈託のない笑顔で、隣に座るヒカルを指差しながら言う。
「君が……?」
「そうなんです! ヒカルは、私より凄く強いんです!」
アカリの言葉に、先生は眼鏡を掛け直してヒカルをまじまじと見つめる。
「ほぅーー。これは驚いた。ヒカルくん、私と一局どうですか? 貴方の碁を見てみたい」
「……別に、いいですけど」
ヒカルは少し面倒くさそうに返事をした。
『対局ですか!? ヒカル、私に打たせてください!』
『分かったから、耳元で騒がないで。集中できない』
心の中で佐為の懇願を抑えながら、ヒカルは碁笥に手を伸ばした。
「「お願いします」」
先生は黒石を持つ。ヒカルは白石。
先生は最初からヒカルの棋力を測るべく、プロに近い本格的な定石を仕掛けてきた。
序盤、隅での定石の打ち合いにおいて、先生が少しでも現代的な損をしていない手を打つと、佐為はそれを咎めるように、完璧な「手抜き」を見せた。隅の利益を放棄してでも、大局的な先手を確保する。その読みの深さに、先生は顔色を変えた。
中盤。先生が白の陣地に大きく切り込もうと、「ツケ」て揺さぶりをかける。
佐為の対応は、即座だった。その石に対しての「ハネ」と「ノビ」が、まるで数手先まで読み切ったかのような絶妙な連携を見せる。
先生が仕掛けた攻撃は、いつの間にか白の勢力を逆に強める罠となっており、黒石は行き場を失い、死滅の危機に瀕した。
(これは……何なんだ……。ただの子供が打つ碁じゃない……)
先生は冷や汗を流し、息をのんだ。
盤面全体に張り巡らされた、まるで千年の歴史を感じさせるような、幽玄かつ圧倒的な手筋。それは、現代の定石という枠組みを軽々と超えていた。
終盤、先生が何とか局面を打開しようと打った最後の手に対し、ヒカルが盤の中央にそっと白石を置いた瞬間、先生は盤を凝視したまま凍りついた。
その手は、黒のすべての希望を遮断する、完膚なきまでの決定打だった。
「……降参です」
ヒカルの盤上の実力は、圧倒的という言葉すら生ぬるいほどの差だった。
先生は信じられないものを見るかのように、盤上とヒカルの顔を交互に見つめ、脳裏に浮かんだ名前を言う。
「ほ、本因坊秀策……!」
それは、子供の打ち筋ではなかった。まるで、かつて研究し尽くした名棋士、本因坊秀策の棋譜が、盤上でそのまま再現されたかのような凄み。
現代の教室に、千年の時を超えた囲碁が立ち現れていた。