誰か妹から逃げる方法を教えてくれ   作:ヘルタ様万歳

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グラジオラス

 

ルアン・メェイの来訪は、半ば衝動に突き動かされたものだった。

 

本来の彼女ならば、必要機材の輸送、観測設備の同期、緊急時の代替手段に至るまで計画的に事を運び、数手先どころか数十手先まで見据え取りこぼしなく準備を整える。それがルアン・メェイという人間だった。

 

だが今回は違う。シャオイェンの生命反応に異常を検知した瞬間、彼女はほとんど反射的に研究室を飛び出してきたらしい。未整理の資料、途中で停止した実験系、同期の終わっていない観測設備。いつもなら考えられないような不備が、彼女の研究室にはそのまま残されていた。

 

「ですので、一度研究室へ戻る必要がありそうです。出来ることなら、姉さまにも同行していただきたいのですが……」

 

「却下」

 

しかし、隣で腕を組んでいたヘルタが即座に切り捨てた。

 

「今の彼女の状態で長距離移動なんて余計な負荷をかけるだけだよ。せっかく安定してきたのに、環境を変えた所為でまた不安定になったらどうするの?」

 

「移動による負担に関しては外的刺激を十分に制限すれば――」

 

「数値だけで全部制御できるなら、彼女はとっくに完治していたはずでしょ」

 

ヘルタの言葉が遮るように被さる。

 

「それに、最もらしい理屈を並べてるけど、本当は自分が一分一秒でも彼女と離れたくないだけじゃない」

 

ヘルタの鋭い指摘に、空気が僅かに張り詰めた。

 

シャオイェンはベッド脇の椅子に腰掛けながら、二人のやり取りを静かに見守っていた。

 

妹の不安も理解できる。だが同時に、嫌われ役を買ってまで自分の体調を優先しようとしてくれているヘルタの言葉を無下にもしたくなかった。

 

「ミス・ヘルタの言う通りだよ」

 

「姉さま……」

 

わずかに揺れる声。傷ついたような声色に、どうしようもない不安が滲んでいた。

 

「そんな顔しないの」

 

シャオイェンは苦笑しながら肩を竦める。

 

「これでも、あんたが何に不安がってるのかくらい分かってるつもりだよ」

 

離れた瞬間に症状が悪化するかもしれない。最悪、自分の死に目に間に合わないかもしれない。ルアン・メェイが恐れているのはきっとそういう事だ。

 

「それに、そんなに心配なら、うだうだしてないでさっさとやること済ませて早く帰って来ればいいでしょ」

 

「……」

 

長い沈黙が落ちる。

 

やがてルアン・メェイは目を閉じ、静かに息を吐いた。

 

「……分かりました。出来る限り早く戻って来ます」

 

絞り出された声は驚くほど小さかった。

 

「移動中は常時通信を接続していただきたいのですが」

 

「え、それはちょっと……」

 

「では、五分ごとにメッセージを」

 

「仲の良い家族だってそこまで頻繁にやり取りしないってば」

 

「……では十分ごとでも構いません」

 

「これでも譲歩しましたみたいな顔はやめなさい」

 

隣でソファに腰掛けたヘルタが呆れたようにため息を吐く。

 

「彼女に常に端末を持っていさせるつもり? 三時間に一回で十分だよ」

 

「……二時間では駄目ですか?」

 

「まぁ、それくらいなら」

 

「あまり彼女を甘やかさないで」

 

ジト目で苦情を言ってくるヘルタにシャオイェンは苦笑する。

 

「薬は定刻通りに服用してください。少しでも違和感があれば直ぐに私かヘルタに知らせてください」

 

「わかってる」

 

ようやく納得したのか、ルアン・メェイは小さく頷いた。

 

それでも宇宙船の搭乗口へ向かう途中で何度も振り返った。数歩進んでは立ち止まり、またこちらを見る。

 

その姿を見ていると、シャオイェンの脳裏に古い記憶が蘇る。

 

幼い頃。研究室へ籠もる母の背中を追いかけては時折不安そうにこちらを振り返っていた小さな妹。あれほど遠い場所へ行ってしまったはずなのに、根っこの部分だけは何一つ変わっていない様に思えた。

 

「行ってらっしゃい」

 

ルアン・メェイは一瞬だけ目を伏せて、薄く笑った。

 

「……行ってきます」

 

扉が閉じ、完全にその姿が見えなくなるまで見送っていたシャオイェンの隣でヘルタが深いため息を吐いた。

 

「甘やかし過ぎじゃない?」

 

「妹なので」

 

「はぁ……家族って便利な言葉だね。大抵の異常行動をその一言で済ませられるんだから」

 

「そうかもしれないけど、あの子もあれで可愛げがあるんですよ?」

 

シャオイェンは小さく苦笑した。

 

いつの間にか自分より背も高くなり、誰も辿り着けない場所へ行ってしまった妹のそんな不器用さが少しだけ愛おしく思えてしまうのだった。

 

その様子を隣から眺めていたヘルタが、ふと思い出したように口を開く。

 

「もうご機嫌を取るのはやめたの?」

 

「え?」

 

シャオイェンは思わず振り返る。

 

小柄な人形体が腕を組みながらシャオイェンを見上げていた。無機質な人形である筈なのに、紫の瞳には確かな知性と好奇心が宿っている。

 

「最初に会った時はもっと硬かったでしょ。『ありがとうございます、ミス・ヘルタ』って感じだったのに――ねぇ、どうして?」

 

「えっと……」

 

指摘されて初めて気付いたらしい。

 

「……ご不快でしたか?」

 

「別に嫌だなんて言ってないよ」

 

ヘルタは小さく肩を竦めると、人形体の冷たい指がシャオイェンの頬へと触れた。

 

「それで、どうして? 変化が起きた理由に興味がある」

 

シャオイェンは少し考え込む。白い天井へ視線を向け、しばらく記憶を辿るように目を細めた。

 

「……ただなんとなく、肩書きとか形式とか、そういうものを気にする人にも見えないというか……。後はきっと、話してて楽、なんだと思います」

 

「ふーん……」

 

その瞬間、ヘルタの瞳が小さく瞬いた。まるで予想していた答えとは少し違っていたとでも言う様に。

 

「変わってるね」

 

「不本意な事に、よく言われます」

 

「私に向かって『楽』なんて言う人、そうそう居ないよ。大抵は緊張するか、持ち上げるか、遠慮するかのどれか」

 

紫の瞳が興味深そうにシャオイェンを見つめる。その視線は研究対象を観察する時のものとは明らかに違っていた。もう少し見ていたい、と。そんな小さな欲求が僅かに混じっている。

 

「今でもまだ緊張していますけど……」

 

「じゃあ慣れて。これから長い付き合いになりそうだし、お互いに不必要に神経を尖らせる必要もないでしょ?」

 

「……まぁ、無意識に気が抜けるって事はそれだけ貴女が私に気を張らなくなったってことかな」

 

「恐らくはそう、なんですかね。ミス・ヘルタの言う通りこれから長い付き合いになると思いますし、あと◾️■……妹の事も聞きたいです」

 

ふと、人形体の身体が僅かに前へ乗り出した。猫が気に入った相手の足元へ自然と寄っていくように、人形体の小さな身体はいつの間にかシャオイェンのすぐ近くに居た。

 

「ふーん……彼女の事を完全に許したんだね。普通は生体チップを体に埋め込まれてたなんて知ったら、もう少し怒るものなんだけどね」

 

「……知っていたんですか?」

 

「何をそんなに驚いてるの? この前全身の精密スキャンをしたでしょ。あれだけ調べておいて、体内にある異物を見落とす訳がないでしょ」

 

「……」

 

「ナノスケールだから一般的な医療機器じゃ検出できないとは思うけどね。私を誰だと思ってるの?」

 

ヘルタは得意げに胸を張る。

 

「気付かれた時のリスクを考えると選択肢に上がらない筈だけど、むしろよく出来るなって感心したくらい」

 

「……」

 

思わず額を押さえると、ヘルタはくすくすと笑う。

 

「ルアン・メェイって、自分が合理的だと判断した行動について不必要に弁解しない人間だからね」

 

ヘルタは腕を組みながら、発着エリアの窓の向こうに広がる星海をちらりと見遣った。

 

「だから私は、あなたが知らないまま終わると思ってた。黙ってた方が効率がいいし、余計な衝突も避けられるしね」

 

「……まぁ、そうですね」

 

シャオイェンも苦笑する。彼女の中のルアン・メェイなら間違いなくそうすると思ったから。必要だと判断すれば嫌われることすら些事として切り捨てる合理性。

 

「でも、それをわざわざ打ち明けたってことは、嫌われる可能性を承知で正直でいたかったってこと」

 

「……」

 

「面倒臭いね」

 

そう言いながら、ヘルタの口元にはどこか柔らかい笑みが浮かんでいた。

 

「つまり、ルアン・メェイも随分人間らしくなったってこと」

 

「あの子は元から人間ですよ」

 

シャオイェンは少しだけ咎める様な声で応えた。

 

「生物学的な話じゃないよ」

 

ヘルタは小さく肩を竦める。

 

「まぁ、昔から人間だったんだろうけどね。ただ周囲がそう扱ってなかっただけ。でもね、周囲が当人を”そう”扱うようになると、当人自身も”それ”に影響されるものだよ」

 

「……」

 

「天才だから、理解できないから、別の生き物みたいに祭り上げる。逆に本人も理解されないのが当然だと思って、自分から人間らしい部分を切り離していく」

 

紫の瞳が細くなる。

 

「そうやって、少しずつ孤独になる」

 

「……ミス・ヘルタも?」

 

「私も、ルアン・メェイも、多かれ少なかれね。天才クラブなんてそんな人間の集まりだよ」

 

あっさりとした返答だったが、その声音の奥にはどこか乾いたものがあった。

 

「だから、あなたは変なんだよ。“あの”ルアン・メェイを前にして、ただの人間、ただの妹として扱ってる」

 

ヘルタは腕を組んだまま、紫の瞳を細めた。人工照明の白い光が、二人の間に柔らかな陰影を落とす。観測窓の向こうでは、果てのない星海が静かに瞬いていた。

 

「普通はね、恐れるか、理解を諦めるか、崇めるか、そのどれかになる。少なくとも、平然と『妹だから』なんて顔をして接する奇妙で奇特な人間は銀河中を探したって存在しないよ」

 

「……」

 

シャオイェンは答えなかった。その代わりゆっくりと視線を落とす。

 

恐怖を抱かなかったわけではない。あの澄んだ青草のような瞳が、何かを研究する時だけ深い沼のようにどろりと色を変える瞬間を知っている。

 

感情も、倫理も、常識も、善悪さえも飛び越えて未知へ手を伸ばそうとする姿を。

 

その瞳が、自分を見つめる時の熱を。

 

決して逃げ出せない濁流に自分という存在が飲み込まれてしまうかもしれないという恐怖を。今でも思い出すだけで胸の奥がひやりと冷たくなる。

 

 

「……妹は、妹ですから」

 

静かな声だった。

 

理屈や覚悟でも、ましてや献身でもない。

 

ただ、そうとしか言いようがなかった。

 

幼い頃から一緒にいて、泣いて、笑って、怒って。背丈を追い越されても。理解できない場所へ行ってしまっても。

 

ルアン・メェイとなっても、あの子がシャオイェンの妹である事に変わりはない。

 

「……怖いと思うことはありますよ」

 

その告白に、ヘルタは少しだけ目を瞬かせた。

 

「でも怖いからって、家族をやめる理由にはなりません。理解できない事と、大切に思うことは別です」

 

人ではない何かを垣間見たような気がして、怖くてたまらなくなる時もある。

 

しかしだからといって、愛情まで消えるわけではない。理解できないことと、嫌いになることは違う。恐怖を抱くことと、大切に思うこともまた別の話だ。

 

理解できない部分も含めて、ルアン・メェイという一人の人間なのだと。

 

 

「私にとって、あの子は天才クラブの#81でも、有名な生命学者でもありません。物分かりの良い顔をして意外に我儘で悪戯癖のある、ただの手の掛かる妹ですから」

 

 

 

 

「……本当にずるいね」

 

 

 

「え?」

 

「何でもない」

 

ヘルタは小さく笑う。紫の瞳の奥には普段の好奇心とは違う、少し複雑な色が浮かんでいた。

 

羨望。

ほんの少しの嫉妬。

 

もし、自分にもそんな風に『ただのヘルタ』として接してくれる人間が現れていたなら。そんなありもしない仮定が脳裏を過る。

 

 

 

「そういうところ」

 

「?」

 

「そういう、当たり前みたいな顔して、とんでもないこと言うところ」

 

ヘルタは楽しそうに目を細めた。

 

「大抵は理解できない相手を恐れるか、崇めるか、そのどちらかになる。凡人は暗闇の中を歩く事を忌避するのに、あなたときたら、そこに平然と飛び込んじゃうんだから」

 

「……おかしい、ですかね?」

 

「うん、変。でも同時に、とても興味深いよ」

 

そう言いながら、ヘルタは何気ない動作でまた一歩近付いた。人形体の小さな手が、シャオイェンの手に軽く触れた。遅れて手を握られたのだと気付き、突然の事に驚きながらシャオイェンは目を瞬かせる。

 

「だから、彼女もあなたの前では人間でいられるのかもね」

 

「……そんな大した事はしてませんよ」

 

シャオイェンは困ったように笑った。誰かを救っただとか、誰かの孤独を和らげただとか、そんな大層なことをした覚えなどなかった。

 

呆れたように肩を竦めながら、ヘルタは目を細める。

 

「人間っていうのはね、自分が思ってるよりずっと他人に影響を与えてるものなんだよ。特にあなたみたいに無自覚なタイプは質が悪い」

 

「質が悪いって……」

 

「褒めてるんだよ」

 

「……全然そうは聞こえませんけど」

 

思わず小さくため息を漏らす。その様子が可笑しいのか、ヘルタは楽しそうにくすくすと笑う。

 

窓の外に広がる星々は相変わらず静かで、二人のやり取りなど知る由もない。

 

そんな中、ヘルタの温度などない冷たい手が掴むだけだった掌に沿わせる様に指を絡めていた。本人は無意識のつもりなのか、それとも意識して平然を装っているのか、少なくとも表情からは読み取れない。

 

まるでほんの少しだけでいいから、ルアン・メェイだけではなく自分にも関心を向けてほしい。そんな幼い願いが指先から零れ落ちているかのようだった。

 

もっとも、当のシャオイェンはそんな些細な変化に気付くことなく、ただ不思議そうに首を傾げるだけだった。

 

「ミス・ヘルタ?」

 

「何」

 

「……あの、寒いんですか?」

 

そこでヘルタはふとシャオイェンを見る。

 

「私は天才だからね。大抵のものは数式みたいに解けちゃうし、解けた途端に退屈になる。でも、あなたは何度見ても新しい反応ばっかり返してくるし、全く予測が出来ない。まるで終わりのない研究課題みたいで面白い」

 

ヘルタは小さく笑う。

 

「ルアン・メェイがあそこまで執着する理由、少しずつ分かってきちゃった」

 

「……やっぱり褒めてないですよね?」

 

「褒めてるんだよ」

 

「全然そう聞こえませんって。貴女の目も、まるで珍獣を見る様ですし……」

 

「私にそこまで言わせる人なんてそう居ないんだから、もっとありがたがるべきだと思うよ」

 

得意げに胸を張るヘルタに、シャオイェンは思わず笑ってしまう。その笑顔を見て、ヘルタの紫の瞳が僅かに細められた。

 

「だから、しばらく私の所に居ればいいのに」

 

「? 暫くはそうするつもりですが……」

 

「そういう意味じゃない」

 

珍しく、ヘルタは少しだけ視線を逸らした。

 

「治療とか研究とか関係なく。あなたが嫌じゃないなら、もっと一緒にいてもいいんじゃないかなって言ってるの」

 

「……えっ、と?」

 

「何その顔」

 

「いえ、ミス・ヘルタからそういうこと言われると思ってなかったので……」

 

「そう? 私は合理的だからね。気に入ったものは手元に置いておきたいし、面白いものは近くで観察したい。あなたは見てて飽きないし、あなたの言葉を借りるなら『一緒にいて楽』なの」

 

紫の瞳が真っ直ぐにシャオイェンを映す。

 

「独占したいとまでは言わないけど、他の人ばっかりに構われるのは、ちょっと面白くない」

 

人形体とは思えないほど柔らかく口元を緩める。

 

「だからあなたさえ良ければ——」

 

ピロン。

 

ふと、静かな空間に電子音が響いた。二人の視線が同時にシャオイェンの端末へ向かう。

 

画面には『ルアン・メェイ』という文字。

 

『第三中継地点を通過しました。姉さま、定期連絡です。薬は服用しましたか。水分摂取量は適正ですか。睡眠時間は十分ですか。それと、近くにヘルタは居ますか。どうしてか嫌な予感がしています』

 

「……」

 

「……」

 

数秒の沈黙。

 

シャオイェンが吹き出した。

 

「ふふ……何その嫌な予感って」

 

対するヘルタは小さくため息を吐く。

 

「……その端末壊していい?」

 

「え」

 

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