「お邪魔しました」
図書館の鍵を返した後、軽く頭を下げて、職員室の扉をゆっくりと閉めた。
長い廊下は夕日により茜色に染まっている。
早く帰ろう。あと数分で完全下校時刻になる。
ふと、外に目をやると陸上部がハードルを片付け、サッカー部が練習で使ったボールを集めていた。
吹奏部の遠く長い楽器の音は聞こえない。
たっ、たっ、たっ、と僕の足音だけが聞こえる。
いつもなら足音はもう一つ聞こえるはずなのに。
ポケットからスマホを取り出す。トークアプリを開いて1番上の会話履歴をタップする。
芥田透子
1番上の名前の欄に表示されていた。
『風邪って大丈夫? なにかコンビニで買ってこようか?』
彼女が学校を休んだ日に送ったメッセージ。
既読はついているが返信は返ってこない。
既に3日が経っていた。
彼女は通知を受け取ったらすぐにでも返事をくれる人だ。既読無視なんて初めてされた。
『今、委員会終わったよ。そっちは体調大丈夫?』
送信ボタンを押した途端、すぐに既読がついた。
「ーーーー」
少し足を止めた。1分ほど待ってみたけど返事は返ってこない。
返事もするのもしんどい、きっとそうなのだろう。
僕と話をしたくないとは余り思いたくない。芥田さんとは上手くやっていたつもりだ。
しかし、もし僕が無意識に彼女を傷付け、距離を取られるような行いをしたのならば、その時は誠心誠意な謝罪を見せよう。
スマホをしまい足早に階段を降りる。下駄箱に辿り着き、上履きを脱ぐ。周りに人はおらず下駄箱を開く音だけが周りに響いていた。
夕日は僕の足元を橙色に照らしている。
「図書委員終わったの?」
足元に影が現れた。それと同時に声が聞こえた。
高く澄んで耳心地の良い声だった。しかし、いつもと聞こえ方が違って聞こえるのは気のせいだろうか。
「ごめんね。ずっと学校来れなくって」
その言葉を聞いて僕はやっと声の主を見た。
改めて見て本当に綺麗な人だと思う。
肩まで切り揃えられたブロンズの髪は光を柔らかに反射させ、少し吊り目の瞳は気高さすらも感じるほど意志強く見える。
身長は百六十センチほど。身にまとっているのはただの制服なはずなのに彼女が着ると、制服本来のデザイン性があらわになる。
彼女が身につけると全てのものは本来の魅力を十全に発揮する。そして、その魅力を上回る美しさを彼女は持っていた。
「ん?」
彼女はこてん、と首をかしげる。その仕草にあざとさはない。本心から疑問を抱いている。
「その、風邪とか?」
「ううん、ただ夢を見てただけ」
「夢?」
「そう、夢。嫌な夢、悪い夢」
瞼を閉じ、ゆっくりと語る。まるで今でも夢を見ているように。
僕は彼女が何を言ってるのかよく分からなかった。彼女はこんな抽象的な事を言う人ではなかったはずだ。
良くも悪くも彼女の言葉は真っ直ぐだった。
「ーーでも!」
突然、彼女は声を高めた。そして、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
僕はなんだか怖くなって後退りする。
「大丈夫、私もう覚めたから。悪い夢はもう見ないし、今を夢だとも思わない。だって、今こうして」
彼女は僕の目の前に立つ。そして、ゆっくりと僕の右手を掴む。白く長い指に力が籠るのを感じた。その手は少し震えていた。
彼女は震えを抑えるかのように僕の手を己の方に引き寄せる。そして、少し強引に彼女自身の左頬に近づけた。
「田宮くんに触れてもらえるから」
あと数センチで触れてしまうと理解した時、僕は瞬時に手を振り解いた。
「え?」
振り解かれた事が理解できない様子で彼女はこちらを見つめてくる。その瞳は不気味な激情が宿っていた。
しかし、僕自身も理解が出来ない。彼女はこんな事をしない。僕は彼女の事をよく知らないし、知ろうとする努力もしなかった。
むしろ嫌われていると言う自負さえ抱いている。そんな彼女がこんな事を言う訳もする訳も無い。
「君はだれ?」
彼女の名前なんか既に知っている。しかし、僕は聞く。彼女は僕の知っている人じゃない。
「なんでこんな事をする? いつもの君ならこんな事はしないだろ?」
いつもの君。いや、それよりも昨日の君なら。僕に"死ね"と言い放った君ならばこんな事はしないはずだ。
「ーーあ、あー。そうだよね、あはは」
彼女は先ほどまでの様子を突然収めた。朗らかに笑い、僕の目をじっと見つめた。そして、一歩後ろに下がり浅く息を吸った。
「田宮虎彦くん。改めまして九条園花です。わたしと付き合ってくれませんか?」
「ーーは?」
言葉が出ない。目の前の人間が九条園花なんて知っていた。九条園花だからこそおかしいのだ。彼女であるからこそ、彼女はこんな事は言わないはずなんだ。
僕と芥田さんをいじめていた彼女がこんな事を言うわけがない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「あんたさぁ。もしかして芥田のこと好きなの?」
九条園花は昼休み人気のない廊下で僕に話しかけた。その声には嘲りが含まれていた。
馬鹿にしよう、陥れてやろう、そう言ったマイナスな思惑が見え隠れしていた。
「別に。ただ仲はいいと思ってるけど」
僕はなるべく彼女の望む発言から遠ざかった答えを言う。
彼女の上がっていた口角がスッと落ちた。
「は? なにそれ。つまんな」
「思ってること言ってるだけだけど」
「嘘ついてんじゃねぇよ。なにいい子ぶってんの? あんな根暗と仲がいい?」
彼女は明らかに声を落とした。僕を見つめる眼差しには険しい不満が宿っていた。
「何が言いたいの?」
「あんな奴とツルむ理由なんて、どうせ体目的だろ?」
「そうやって他人を貶める言葉は君の価値を下げると思うよ」
「うざ、死ねよ」
九条園花は学年の中で最も力を持ってる生徒と言っても過言じゃない。
容姿端麗、文武両道、会社の重役を父に持ちクラスメイトはみんな彼女の事を好いている。気に入らない人間にはとことん嫌がらせをする。周りがそれを止めないのを理解しているから。
そういう人間なはずなのだ。
翌朝、教室に入ると九条園花がいた。
昨日の言葉がフラッシュバックする。あれも一種の嫌がらせだったのだろうか。
九条は僕に気が付くと優しく微笑んで手を振った。まるで恋人に向けるような温かい視線だった。
不気味と表現するのが適当だった。どういった風の吹き回しだ。
九条はそれ以上の行動は起こさず、クラスメイトと雑談していた。
HRを告げるチャイムがなった。
担任から芥田さんが今日も休みだと告げられた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
カーテンを閉め切った薄暗い部屋に一人の少女が立っていた。
彼女の周りにはあらゆる残骸が散乱していた。
ボロボロに引きちぎられた衣服、無造作に破られた本、綿が飛び出た枕、首がひしゃげたスタンドライト。
部屋が汚いという表現ではない、あきらかにこの部屋にあるものが壊されている。しかも壊され方は激情に支配された事が容易に汲み取れる。
しかし、少女はただじっと立っている。ピクリともせずに目の前の姿見を見ている。その姿見にも大きなヒビが入っていた。姿見に写る彼女。黒い髪は乱れ、悪霊のように顔を覆っている。隙間から覗く目は血走り、唇は妙に赤黒かった。
「ふぅ…ふぅ…」
少女の口から息が漏れる。抑えようとしてるものが溢れてしまいそうな呼吸だ。
ーー今日、あいつが来たら殺そう。
少女はここ数日ずっと考えてきた事を実行に移そうとしていた。決意が鈍らないようにポケットからあるものを取り出す。
カッターだった。カチ、カチカチと刃を押し出す。曇った銀色に大きく見開いた眼が反射する。
これで腹や首を刺せばいい。それで解放される、この悪夢からきっと覚める。
私がこんな薄暗い部屋でこんな醜い体でいるなんてありえない。体が熱くなる感覚がした。それと同時に左手首がジンジンと痛んだ。少女は自分の腕を眺めた。
そこには無数のリストカットの跡があった。かなり前のものから最近やっと治ってきたものまだあった。
「ーーくそっ」
その傷を見て少女は泣きそうに呟く。リストカットなんてやった事ないのに。自分の体を傷付けるなんてバカな事やるわけがない。その得体の知れない傷を見るたびに少女は夢だと確信してきた。
だから、覚めるはずなんだ。
カーディガンを羽織り、傷跡が見えないように隠す。他人からではなく自分から。部屋の時計に目を向ける。16時半。もうすぐあいつが来る時刻。この5日間あいつは決まったようにこの家を訪ねる。律儀にインターフォンを押して、お邪魔しますと言う。
ここはあいつの家なのに、あいつは他人の家かのように扱う。その事が少女を恐怖に晒した。本当はあいつの家じゃなくて、ここは私の家なのかもしれない。
「あたしは…」
誰なのだろう。
甲高い電子音が家に響いた。
あいつが来た。少女はカッターをポケットに入れる。いつでも取り出せるように手も入れる。ぎゅっとカッターを握る。
お邪魔します、と言いながらあいつは玄関の扉を閉めた。しかし、靴を脱いで家に上がろうとはしない。いつもそうだった。この家に深く入り込もうとはしない。本当はどこまでもこの家を知っているはずなのに。
「こんにちは。芥田さん。調子はどう? まだ学校に来ないけどやっぱりしんどい?」
あいつは心から心配してるかのように尋ねる。耳心地のよい声で、切長な眼を優しく向ける。
「髪ぼさぼさだよ? お風呂入ってる?」
うるさい。風呂なんてあの日以来一度も入っていない。こんな裸体を見るなんて吐き気がする。
「ご飯もしっかりと食べないとダメだよ」
だまれ。あの日以来まともに食べ物が喉を通らない。こんな体を生かす食事なんて腹が立つ。
「そうだ、芥田さんに渡すものがあるんだった。えっとね、今日、先週受けた英語の小テストが返ってきたんだよ」
あいつはスクールバッグから一枚の紙を出した。全てに丸が付いて、右上に「great」と筆記体で書かれている。少女は震える手で紙を受け取る。
あいつの手は陶磁器のように白く、指はしなやかに長く美しい。
「芥田さん。英語得意なんだね」
違う。英語は1番苦手な教科だ。満点なんてとった事がない。
「私なんてバツばっか」
そう言ってあいつは自身の回答用紙を笑いながら見せた。名前の欄には「九条園花」と見慣れた字で書かれていた。
暫く沈黙があった。
「そんな事より何か分かったの?」
少女はやっと口を開く。
「ん? 何かって?」
「ふざけるなよ。戻る方法に決まってるだろ」
自然と声が昂る。久しぶりに声を出したので妙に痰が絡む。軽く咳払いをしてもう一度尋ねた。
「入れ替わりが戻る方法が分かったのかって聞いてるのよ」
「んーん! なーにも! 手掛かりなーし」
あいつはパッと手を開いてにこやかに笑った。悪びれも申し訳なさも抱いてないかのように笑顔を見せてきた。
「あの日、芥田さんと入れ替わった公園に行ってみたけど手掛かりになるようなものなんて無かったし、学校の図書室で入れ替わりに関する本を開いてみても胡散臭い黒魔術みたいなことしか書いてない。私たちが入れ替わったのは普通の夕方で普通の公園でただ少し会話をしただけ」
「なによ、それ」
「だからもう分かんない。打つ手なし、みたいなね」
少女は唖然としていた。元に戻る方法が分からない事に対してではない。勿論、その事実は絶望的だったがそれ以上に衝撃だったのが目の前のこいつが取っている態度だった。
「なんで笑ってられるのよ」
「どうしようもないから」
「一生このままかも知れないのよ」
「かもね」
かもね、だと? ふざけるな。そんな言葉で済ましていいわけがない。自分の体と心が別になっている。いつも通りの生活が手から離れている。それを受け入れる事なんて出来ない。
「冗談じゃない」
ふつふつと感情が溢れてくる感覚があった。本当は気付いていた。目の前にいるこいつは入れ替わりをどうにかするつもりなんて毛頭ない。だってこいつにとっては手に入れたのだから。美貌も多くの友も幸せな家庭も九条園花という人生そのもの。
少女は鋭い視線を投げ付ける。忌々しい。
「芥田さん?」
「あたしをその名前で呼ぶんじゃないわよ!」
さっきから目の前の女は芥田、芥田、芥田としつこいくらいに自分をそう呼ぶ。そう呼ばれるたびに自分の存在が薄れていく気がしていた。
あたしは芥田透子なんかじゃない。
常に陰気な空気を漂わせ、教室の端で一人静かに本を読んで、猫背で声が小さく、いじってやっても愛想笑い一つも溢さない、みじめな人間。
最近、同じ図書委員の田宮とかいう地味な男子とつるんでいい気になってるやつ。
かまととぶってるイラつく女。
あたしはそんなやつじゃない。
あたしは九条園花だ。
みんながあたしを羨む。だって私は綺麗だから家は裕福だし多くの才能を持ってる。相手の感情に聡く、相手に自分がどう見えてるのかも分かる。周りに愛される存在だし愛される資格がある人間だ。
だから、こんな体はあたしじゃない。
目の前にあるこれがあたしだ。
「ふざけんなよ、芥田。ーーあたしのなんだよ、あんたが偉そうに動かしているその体も、あんたが今日過ごした時間も全部あたしのものなんだよ」
ポケットの中のカッターを握りしめる。
「返せよ、返しやがれよ」
声が震える。少女は自分が冷静じゃないと理解していた。しかし止まれなかった。冷静になりこの悪夢を受け入れたくなかった。
「ねぇ、芥田さん」
「だから!」
「私を殺しても解決はしないと思うよ」
「ーーえ?」
ふっと体の緊張が解けた。その時だった。目の前の女が突然、少女の右腕を掴みポケットから手を出させた。
「ずぅっとポッケに手を入れてたから何を隠してるんだろっと思ったけど、やっぱり」
少女の手が震え、カッターが落ちそうになる。しかし、女は解けそうになる少女の手を力を込めて包んだ。
カッターを落とさせないようにしっかりと握らせた。そして、少女の親指をつまみ、刃を出させた。
「あんまり出しすぎちゃダメだよ。たわんで力が上手く伝わらないから」
女はそう言うながらカッターを自身の首に近付ける。
「こうしようと思ってたの?」
刃が白い首筋に触れる。血脈がカッター越しに伝わる。この皮膚の下に血が流れている。
「ほらもっと押し込まないと」
女は少女の手をさらになんの躊躇も無く強く握る。
「いや…」
少女は震える。少し前まで自分は目の前の人間を殺そうと思っていた。しかし、実際その状況に、対象自身がそれをやろうとしていることに慄く。
「ねぇ、殺すんでしょ? 殺してみてよ。ほら、あと少し力を込めるだけだよ」
「ぁ、いや、ご…ごめん。ごめんなさい」
離したい。離れたい。
少女は現実から逃げるように目を瞑る。
「あーあ、やっぱり無理なんだね」
ふっと女は手を離した。少女の体から力が抜ける。カッターが床に落ちる。
少女はぺたんと尻もちをつき、震えながら浅い呼吸を繰り返す。
「大丈夫? ごめんね。怖がらせちゃって」
女は迷子を安心させるように少女の頭を優しく撫でる。触れられるたびに少女の体は震える。
「芥田さんやっぱりちょっと疲れてるんだね。心が疲れちゃってるんだよ。ずっと家にいるのは逆にダメだと私思うんだ。ねね、やっぱり明日学校に来たほうがいいよ。外に出てさ人と話せば心も晴れると思うの」
女は口早に話す。撫でていた手を離しゆっくりと立つ。
自然と少女を見下げる形となる。少女に注ぐ視線は異様に鋭かった。
「じゃあ、明日学校でね。芥田透子さん」
そう言って朗らかに笑い、九条園花の体を有し、芥田透子の心を宿らせた女は扉を開けた。
家に静寂が訪れて玄関先で少女はようやく明晰な意識を取り戻した。目の前の鈍色のカッターは少女の瞳に焼き付くかのごとく輝いていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
芥田さんが休んで四日がたった。彼女からの返信はない。九条園花はあの時以来僕によく話しかけるようになった。他愛もない話だがなぜか話しかけてくる。それが不気味で嫌だった。
僕にとってそれ以上に気になるのは芥田さんのことだ。
もともと体が強い人とは言えなかったから、休むことは多々あった。
でも、必ず休んだ時は何かしらのメッセージをくれた。
「ごめん」といつも謝罪の内容ではあったが。
今日も教室に入ると九条がこちらに気付き微笑みながらこちらに近付いてきた。
「おはよ! 田宮くん」
この世の幸福を一身に受けているかのような表情を浮かべる彼女はやはり不気味であった。
彼女の挨拶に曖昧な返事を返した時だった。
一人の女生徒が横切った。
吸い込むほどの黒い髪に病的なほどに白い肌を持った茶色のガーディガンを羽織った少女だった。
それは芥田透子だった。
「芥田さん」
僕は急いで話しかける。彼女はビクッと体を震わせてこちらに恐る恐ると視線を寄越した。
その瞳には不安と恐怖だけが渦巻いていた。
こんな芥田さんは初めて会った時以来だ。
まるで初対面の人間を見るかのように僕を見つめる。
「た、田宮…」
「うん、久しぶり。体調大丈夫になったんだね。よかった」
「ーーーー」
「でも、まだ無理しちゃダメだよ。病み上がりだと思うし図書当番とかは僕が一人でやるからさ」
「ーーーー」
「芥田さん…?」
彼女は何かに耐えるかのように俯く。まだ、体調が良くなっていないのだろうか。心配になって問い掛けようとすると
「わー! よかった芥田さん。私心配してたんだよぉ!」
隣にいた九条さんが朗らかに芥田さんに話しかけた。俯いている芥田さんの目を覗き込むように屈み込んでいた。
そして、芥田さんの耳元に口を近づけ何かを言っている。
「ーー!」
芥田さんの激しい呼吸音が聞こえてくる。ただでさえ青白い顔がさらに青ざめていく。ただ事ではない。
「芥田さん大丈夫?」
「んー、大丈夫だよ。きっと、ね! 芥田さん」
僕は芥田さんに質問をしているのに何故か九条さんが返事をする。その声音が何も受け付けない拒絶が含まれているように聞こえる。その異様な様子に戸惑っていると、芥田さんは教室からそそくさと出ていってしまった。
僕は彼女を追いかけようとすると九条さんが僕の手首をぎゅっと握った。
「田宮くん、心配しなくて大丈夫。芥田さんはすぐにいつも通りに戻るから。図書当番も行くって言ってたよ?」
あんな様子明らかに大丈夫じゃない。それに僕は芥田さんと話をしたいのだ。九条さんとではない。しかし、九条さんは僕の手を離そうとはしない。どうしても芥田さんのところには向かわせてくれないらしい。
「わかった。君の言うことを信じるよ」
九条さんは微笑み、手を離した。
放課後、芥田さんは当番に来た。こちらから話しかけても素っ気ない返事しか返してくれなかったが久しぶりに彼女との当番は嬉しかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
鬱陶しいと思った。
「おはよう。体調はどう?」
毎日、挨拶をしてくる。
「これ、休んでる間のノート」
頼んでもいないのにノートを貸してくる。
「最近、本読まないね」
当番で何もしないでいると本を読んでないことに疑問を告げる。
「もうすぐ文化祭だね。芥田さんはやりたい出し物とかある?」
つまらない質問を投げかけてくる。
「あ、奇遇だね。僕も余っちゃったんだよ。よかったら一緒にペア組まない?」
誰もあたしと組みたがらないのを察してかペアを持ちかけてくる。
本当はあの女の誘いを断ってあたしに声をかけてるくせに。
この体になって初めて学校に来た時、こいつが話しかけてきた。
田宮虎彦。意味がわからないやつ。こんな体になったあたしに接してどうするんだ。
わからない。わからないから、なんだか嫌だった。
『ちゃんと芥田透子をやってね。じゃないとこの体、めちゃくちゃにしちゃうよ』
あの女の囁き声が耳から離れてくれない。
めちゃくちゃ。
そんな曖昧な表現だからこそ恐ろしい。
何をするか言わないからこそ、何でも出来る。
あたしにはただあの女が言った『芥田透子』という人間を演じることしか許されない。
ああ、悪夢だ。
「お疲れ様、芥田さん」
そんな中でも田宮は私に話しかけてくる。愚直に私が素っ気なく返事をしても笑顔を浮かべる。
茜が射す静かな図書室でこいつはあたしにつまらない話を振る。
こいつと話しているとたまにふっと心が軽くなる瞬間がある。
こいつの話し方、こいつの話す内容、こいつの仕草、全てに『芥田透子』を思いやる気持ちが込められている。
だから、こいつによって感じる心の軽さは決してあたしに向けられたものなんかじゃない。
憎いあの女のためのもの。
だから、無性にイラつく。
あたしは人生を盗まれたのに、目の前のこいつは『芥田透子』に優しくしている。
こいつはあたしには優しくしない。
こいつはあの女に優しくしているだけだ。
こいつもあたしを苦しめる人間なんだ。
体がどんどん重くなってくる。呼吸も浅くなる。
ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。
どうしてあたしが苦しまなければならない。
どうしてあたしが孤独にならなければならない。
この体のせいだ。目の前の男のせいだ。
意識が曖昧になる。
あたしは何かを口走った。
口に出した後、あたしは自分が何を言ったのか理解した。
そうかその手があったのか、どうして気付かなかったのだろう。
田宮はその言葉を聞いて呆けた顔をしている。
目をまん丸くさせている。
あたしは同じ言葉をもう一度言った。
「ねぇ、田宮。セックスしようよ」
あたしはカーディガンのボタンを外しゆっくりと脱いだ。
あの女があたしの体をめちゃくちゃにするって言うなら、あたしの方もあの女の体をめちゃくちゃにしちゃえばいいだけの話だ。
きっとこの体は処女だ。
醜い体だから誰も触れたがらないに決まっている。
あの女の生きた形を汚く塗りたくろう。
この男はその道具に使ってやろう。
あたしはシャツのボタンに手をかける。
その時、田宮はあたしの手を強く握った。
「やめて」
あたしの手を力強く握りながらこちらをじっと見つめる。
「あー、なるほどここじゃ誰かに見られちゃうもんね。分かったわよ。んじゃ、旧校舎に行こうよ。あそこなら基本誰もいないし」
「そういう事じゃない」
「あ、なに? もしかしてゴムないとか? あはは大丈夫だよ。なんと今回は生でおっけーだからさ」
「そういう事でもない」
こいつはあたしを逃さないとでも言うようにこちらを見る。なんだかその視線が苦しい。
「童貞を気にしてんの? いいじゃん卒業できる絶好のチャンスじゃん」
「芥田さん。やめてよ」
「ーーやめる?」
なんだやめるって? どうしてこんな事になってると思ってるんだ。
頭の奥が妙に熱くなる。火花が散ってあたしの心に焦げをつける。
「ふざけんじゃないわよ。あんた」
声が震える。
男の手をあたしは勢いよく振り払う。
「あたしがどんな気持ちでこんな事言ってるの分かってんの!?」
体を奪われ、芥田透子を演じるように命じられ元に戻る保証もないまま生き続けなければならない。
なんでこんな事になっちゃったんだろう。
分からないまま生きるとはゴールが見えないマラソンを走るみたいに絶望してしまう。
「あたしはこんな体嫌いなのよ! 大っ嫌いなのよ! めちゃくちゃにしたいのよ! ぐちゃぐちゃに壊して汚くして」
あたしがこうなった理由を無理矢理にでも決めたかった。
あの女に後悔させてやりたい。
きっとあたしはあいつを恐怖で貶める事のために今こんな事になっているのだ。
きっとそうだ。自分の体を手放すということがどれほど恐ろしいのか理解させたかった。
だから
「なぁ、やれよ! めちゃくちゃにしろよ! こんな体!」
これは願いでもあり祈りでもあった。
あいつの体である"これ"を誰かに壊して欲しかった。修復できないほど破壊して欲しかった。
これはたぶん復讐心ていうやつだ。
だからどうか目の前の男に復讐を手伝って欲しかった。
人に何かを願うなんて生まれてからやった事がない。
望む前に既に与えられていたから。だから、こんな時にどんな表情をすればいいのか分からない。怒れば、悲しめばよいのだろうか。
あたしはただ不安げに田宮を見つめる。
田宮はそんなあたしを見て朗らかに微笑む。
「やらないよ」
あたしの気持ちを見透かしたかのように静かに言うだけだった。
縛られたかのようにあたしは動けなくなる。
「君がこんなことを言う理由は分からない。でもこんなことを言う人じゃなかったとは言わない」
あたしはこいつを知らない。しかし、こいつはあたしを知ってるはずだ。この体にあたしが入る前から多少なりとも知っていたはずだ。
「貴方だけが分かってくれる、と君は昔僕に言ってくれたね」
そんな事をあいつは言っていたのか。
「でも、僕は君を理解した事は無いよ。君だけじゃない。家族でさえ僕は理解していない」
自分の呼吸をゆっくりと深くなっていく。冷静になると同時に心が沈む。
「あたしの気持ちなんかやっぱ分からないんだ」
どこかで期待をしていた。こいつは分かってくれるのではないかと。まるで心を見透かしたかのようにあたしの現状を理解してひょいっと何とかしてしまうのではないかと。
だってこいつは鬱陶しいぐらいにお節介だから。
「分かるわけがない」
「だったら…」
いいじゃないか。分からないなら、相手の気持ちなんか無視して自分のやりたいようにやればいい。
それが人じゃないのか。
少なくともあたしはそう生きてきた。
あたしは田宮にそうしてきた。
「でも、分からないからって分かろうとする努力をやめる事にはならない」
田宮はあたしを信念を持って目で見る。
その目で見られるのが怖くて、あたしは逃げるように目を逸らす。
「君がやることを否定するつもりはない。それが本当に君が望んでいる事ならば」
あたしは一体何をやりたいのだろう。
あいつへの復讐なんてのも瞬間的な感情の発露でしかない。
この体になってから自分のやりたいことをやってきた事なんてない。
これからもないと思う。
「教えて欲しい。君が本当にしたいことは何? 君は一体どういう人なの?」
「あたしは…。あたしは…!」
あたしは九条園花だ。
それだけがあたしを構成する唯一の要素だ。
あの女が九条園花を騙ってることが腹立たしくて堪らない。それ以上にあたしが九条園花でないことが悔しくて堪らない。
あいつの手のひらに降り注いでいる幸福はあたしのものなのだ。
あたしだけのものなのだ。
それなのにいつの間にかこんな醜い体を引き渡された。
「あたしは本当は幸せなはずなのに」
こんな悪い夢からは醒めてほしい。
「ーーーー」
「夢だ、夢だ、悪い夢だって思いながら毎日目覚めるの。でも、部屋は薄暗くって腕には汚らしい傷ばっかで声も全く違う」
死のうと思った。そしたら、元の体に戻れると思ったからだ。
でも、死ねない。あの日、カッターから伝わるあの女の命の熱さが体に染み付いて離れてくれない。死んでしまえばその熱に焼かれるなんて馬鹿げた妄想が止まらない。
それに死んだからと言って元の体に戻れる保証はない。そうなればあたしは本当にこの世から消える。
誰も九条園花が死んだと思われないまま、九条園花は死んでしまう。
こんな孤独は耐えられない。
「ねぇ、逆に教えてよ。あたしって何なの? 今ここにいるあたしは本当にあたしなの?」
本当は入れ替わりなんてものはしていなくって全ては芥田透子という弱い人間が作り出している妄想なのではないかと時折考えてしまう。
妄想と現実の区別も付かない狂った人間。
「あんたあたしと長いこと居たんでしょ? あたしって誰?」
そう言いながらあたしはシャツの腕を捲り上げる。そこには無数のリストカットの痕跡が刻まれていた。
「この傷があたしなの?」
田宮はあたしの目を見て、次に傷を見た。数えるかのように見つめ続けた。
「この傷は君のものだ。どこまで行っても芥田さん君自身のものだ」
田宮は告げる。一文字も投げやりにせずに丁寧に言葉を紡ぐ。
「この傷には君の過去がある。苦しみや悲しみや絶望がある」
あたしにはそんなものはない。
「生きるってのは傷つく事だと思うし、その傷は治ったとしても傷跡は消えてくれない。それを隠してしまう人も居るし、自信に還元して見せる人も居る」
あたしにとってこの傷は他人のものだ。
「傷は消えてくれない。骨董品でもないから時間が経てば価値が生まれるなんてこともない。一生の足枷になることだってある」
ならどうすればいいの。
「あたしはこれを永遠に背負っていくしかないの?」
声が掠れる。多くある白い傷が不気味なほど眩しく見える。その白い傷はあたしを突き刺すナイフになる。その白い傷はあたしを閉じ込める檻になる。その白い傷はあたしを縛る鎖になる。
あたしはやはり芥田透子という女らしい。
「この傷を隠すのは大変だ」
「もうどうしようもないだ」
「なら」
田宮は立ち上がりあたしの腕にゆっくりと触れた。そして一つの傷を撫でた。その傷は白くなく青黒いまだ治りきっていないものだった。
それはあたしが意識的に付けた唯一の傷だ。
「過去の傷が分からなくなるほどもっと傷を付けるしかない」
図書室の窓が風でゴトゴトと音を鳴らしている。風がここまで来たがっている。
「傷が傷で見えなくなってしまえば過去の傷は誰にも分からない。自分にさえ」
何かの予感があたしの心に響いてくる。あたしは田宮を見た。先程からなんだか嫌で逸らしていた目を合わせた。
「もっとあたしに悲しんで苦しんで絶望しろってこと?」
「ううん。それは過程だよ」
黒い瞳に反射する女は焦っているように縋っているように見えた。
「傷付くってのは答えを見つけるってことだよ」
「答え?」
「なにかに迷って悩んでどうにかしようとする行い、何とかしようと頑張って導き出した答えの形が傷ってやつだ。それがこんなふうに自分の体に傷を付けるふうになる人もいれば、周りを傷付ける人も居るし、運動や勉強になる人も居る」
田宮はあたしを見つめる。
「だからさ、もっと悩んで苦しんで答えを出し続けていこう。無数の答えという傷で君の過去の傷を覆っちゃおうよ」
「傷で傷を」
田宮はあたしを見つめる。芥田透子の向こう側のあたしを見つめている。
「芥田透子というものが君を苦しませているのならば僕は君をそう呼ばない」
「あたしは」
「芥田透子という存在が君にとってのつらい傷ならばその傷を直視する必要もないと思う」
なんで、なんで、なんでこいつはあたしを見れているの?
「教えてほしい。君はなに?」
「あたしは!」
あたしは。
心臓が速くなる。
呼吸が速くなる。
喉が引っ付く感覚になる。
「君だけの傷はなに?」
はらりと涙が流れる。言葉が出てこない。体に上手く力が入らず椅子に座る。
嗚咽で口が回らない。田宮はそんなあたしの背中を優しく撫でるだけだった。優しく、優しく、質問の答えをしないあたしを責めたりしない。
いつまでもゆっくりと待ち続けた。
茜色の図書室はあたし達だけを包む柔らかい空間だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーー無数の答えという傷で君の過去の傷を覆っちゃおうよ。
宝物。あの人がくれた大切な言葉。醜く矮小でどうしようもない人間だった私を守ってくれた魔法の言葉。
朝目が覚めて自分の汚らしい腕を見て己が嫌になってもこの言葉が私を元気づけてくれる。
今日も目が覚めて腕を見る。そこには白い美しい柔肌に包まれた美しい腕がある。傷はない。
言葉を思い出す。
田宮くん。傷分からないぐらいに覆われたみたい。
夢見心地とはきっとこういう気持ちを言うのだと思う。人を愛し、人に愛される姿形をしている事が私にとってはかけがえの無い事実なのだ。
ベッドから立ち上がり姿見に身を写す。美しい少女が立っている。
「ーーふふ」
笑みが溢れる。艶やかなブロンズの髪、猫のような愛らしい吊り目、身長は百六十センチほど、モデルのような整ったスタイル。
そして一番は雪のように輝いているかのような美しい肌。
私は腕を撫でる。傷なんて一つもないガラス細工のような綺麗な腕。
しなやかな指が肌に触れる。明確に触覚がある。現実だ。夢じゃない。
今日も私は九条園花だ。
「おはよう、九条さん!」「九条さん。おはようございます」「おっはよー! 園花ちゃん!」「い〜なぁ、園花は今日も髪の毛ツヤツヤでさぁ」「ねぇねぇ九条さん。今日放課後カラオケ行くんだけど一緒に行かない? みんな九条さんが来たらちょー喜ぶよ」
教室に入り、席に付くだけでクラスメイトが話しかけてくる。九条園花という人間は凄い。ただそこに存在するだけで周りの人間の視線を集める。人に愛されるために生まれた存在。
この体になってから私は能動的に九条園花を演じてはいない。ただ周りと話しただけだ。
しかし、勝手に周りの好感度が上がってくるのが実感できる。
前の体じゃこんなことはありえなかった。
この体だからだ。
この体ならば私は幸福になれる。
そして、あの人と対等に接し、愛してもらえる。
体が入れ替わった理由なんてどうでもいい。
あんな体は手放せるならばいつでも手放したかった。
ただあの日、公園で九条園花とバッタリと出会い、突然2人とも意識を失ったと思った瞬間に体が入れ替わった。
九条は己の体が明らかに違う事にとても困惑をしていた。混乱し泣き喚く九条を私は冷静に諭した。
ーー私が元に戻る方法を探すよ。だから今日は家に帰って休んだら? もちろん、芥田透子の家だけど。
九条は私の家に行く事を拒んだが、その体では九条家に行っても周りを混乱させるだけだと言ったら納得した。
住所を教え、鍵を握らせ帰らせた。
九条はーーいや、芥田透子は困惑した様子で歩いていった。きっと頭のどこかでこれは夢だなんてふうに思っていたのだろう。
対照的に私の意識は鮮明としていた。これが現実であるという確信が何故か抱けていた。
私は芥田透子ではなくなった。九条園花になったのだ。
私は走った。体が打ち震える感覚が妙に心地よくって羽が生えたかのように体が軽かった。
次の日も私の体は九条園花だった。
不思議な確信は絶対的な自信へと転じていき、自信は行動へと移っていく。
その日の夕方、私は制服を着て学校に向かった。学校自体は休んだのだが会わなければいけない人がいた。
田宮虎彦くん。
唯一私を見て、私と話して、私に微笑んで、私を救ってくれた人。
本を読むぐらいしか能のない私に話しかけてくれた。どもって聞き取りづらい言葉に耳を傾けてくれた。
静かな図書室で一緒に当番するのが私にとっての最大の幸福だった。
ある時、彼に腕の傷を見られてしまったことがあった。
私の幸福が終わったと思った。
こんな気持ちの悪い無数の傷を見られたらどんなに優しい彼だって私から逃げたくなる。
急いで傷を隠して「ごめんね」と謝った。
しかし、彼の反応は私の想像していたものからかけ離れていた。
「ーー? なんで謝るの?」
至極不思議そうに彼は首を傾げた。
「だ、だってこんな汚い傷…。き、気持ち悪い…から」
「この傷が綺麗だとはたしかに言えないかもしれない」
「やっぱり」
「でも、この傷を否定はしない」
「ーーえ」
「この傷を付けてしまうほど芥田さんは悩んで苦しんできたっている証拠だから。芥田さんがつらい中で導き出した答えこそがこの傷だと思うから」
「答え…」
「この傷を隠したいと思う君の気持ちは否定しない。でも、周りに見られないようにするだけでは隠すとは言えないんじゃないかな。隠すのなら芥田さん自身からも隠してしまえばいい」
「ど、どういう」
「君自身が忘れてしまうほどの多くの傷でこの傷を隠そうよ。あ、もちろん沢山リストカットしろだなんて言ってないよ」
田宮くんは慌てたように言葉を紡いだ。そういった意味で言ってないことは私には分かっていた。
「例えば本を読んで涙を流したり、夜空を見て宇宙の広大さを知ったり、蝉の声を聴いて夏になった事を実感したり、人と話して自分の心が穏やかになったり。きっとこういうことも傷つくことなんだと思うんだ。だからさ、芥田さん」
この時の私はどこかで分かっていた。これから私は彼に恋するということが直感的に理解できた。
「無数の答えという傷で君の過去の傷を覆っちゃおうよ」
この言葉で私は生きようと思えた。この言葉があるから生きていけると思った。貴方だけが私を救ってくれる。
貴方に恋をしました。恋をするとはなんてすばらしい事でしょうか。貴方を想うと胸が高鳴ります。貴方と話すと心が穏やかになります。貴方に見つめられると体中に電流が走ったかのようになります。
貴方がいると世界が色付きます。
でも、私諦めていた。田宮くんを愛しているけれどきっと私は田宮くんと付き合うことは出来ない。
だって、私は美しくない。私の体は傷だらけ。親にすら愛されていない私がどうして田宮くんみたいな素晴らしい人に愛されると思っているのか。
だから、私は彼に想いを告げない。想いを告げたらきっと私と彼とのこの心地よい放課後は消えてしまうから。私は田宮くんを愛しているからこそ、彼と離れてしまうかもしれないことはしない。
ーーそう決めたのに。
奇跡が起きた。私は美しい体を手に入れた。この体ならば田宮くんと釣り合う。彼のそばに居られる。夕日に照らされた廊下を歩いている生徒がいる。田宮くんだ。私は急いで彼に話しかけた。彼は始終困惑していた。その顔がとても可愛くって愛おしかった。
「君はだれ?」
瞳を震わせながら彼が問いかけてきた。
「田宮虎彦くん。改めまして九条園花です。わたしと付き合ってくれませんか?」
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私が九条園花になったのならば芥田透子になり下がった人間がいる。
やはり何度見ても醜いと思う。
「芥田さんどうしたの? こんなところに呼び出して」
そこはあの日、私達が入れ替わった公園だった。放課後ここに来るようにと教室で耳打ちをされた。何かおかしな事でもやろうとしてるのかと推測したが、私にはこの体を持っている。
九条園花であった彼女にとってはこの体が人質だ。
この体をどうにかされてしまうことほど彼女にとって恐ろしいことはないだろう。
それほどまでに目の前にある体は醜い。
「なんやかんやでこうやって話すのは久しぶりかもね」
「そうだね。同じクラスだけど私と芥田さんはグループ違う感じだから」
ーー芥田さん
私は頑なに彼女をそう呼ぶ。本当は彼女が芥田透子ではないことは私が一番分かっているのに私は相手を自分を洗脳するかのように呼ぶ。
「ーーうん。あたしとあんたは違う」
目の前の女は穏やかに笑う。その様子が引っかかった。以前までの彼女ならば自身を芥田と呼ばれたら激昂していたはずだ。
しかし、今の彼女は全てを受け入れているかのような余裕を有していた。
「それで結局どうしたの? あ、もしかして元に戻る方法がわかったとか?」
自分で言いながら私は恐怖する。こんな素晴らしい体を手放さなければならない事実に耐えられない。私は再び芥田透子をやるなんてしたくない。
だってそんな体じゃ田宮くんに愛してもらえないから。
「いや、そんなんじゃない」
「そ、そう」
安堵と同時に最初の疑問に戻る。この女は一体何をしたいのだ。
「実はさ取引をしようと思ったんだよ」
彼女は近くのベンチに座りながらこちらを見上げる。
「ーー交渉?」
そんな言葉遣いをするほど彼女は冷静な判断を持っている人間だったろうか。しばらく会っていないが彼女は何か変わっている。
「芥田さんお金でも欲しいの?」
「ううん。違う」
「じゃあ、イケメンの彼氏とか? 分かった今度クラスの男の子と遊ぶのセッティングしとくから」
「それも違う」
「やっぱりこの体かな。ごめんね、私も一生懸命元に戻る方法も探してるんだけど」
「違う」
確固たる意志で彼女は私を見つめる。その瞳に宿るのは静かな激情だった。それを私は知っている、いや、持っている。
「私が欲しいのは一つだけ。田宮虎彦」
「ーーっ!」
その名前を聞いただけで私は体が跳ねるように動いた。一気に距離を詰め目の前の女を睨み付ける。
「田宮くんになにかしたの?」
「はは、あんたのそんな顔初めて見た」
「いいから答えて!」
「ーー田宮には何もしてない。むしろ、田宮があたしに何かをしてくれた」
この女はを言っているんだ?
私はこいつに言ったはずだ。芥田透子を演じろと。
芥田透子だ。
暗く醜く浅ましく誰からも愛されない人間。
田宮くんは優しいから芥田透子に話しかけてくれる。
笑いかけてくれる。認めてくれる。
しかし、芥田透子は彼には何一つお返しができない。
それほどにあいつは愚かしい人間だ。
それなのにこいつは田宮くんに何かを施されたのか?
「芥田透子。答えろ、お前は田宮くんに何をされたんだ?」
拳を握りしめる。目を見開く。そんな様を笑ってあいつはこちらを見上げる。
「田宮はあたしを芥田とは言わないんだよ」
「ーーは?」
「あいつはあたしを君とか貴方って言うんだ。すごく距離のある呼び方だと思うか?」
私を見るこいつ。でも、こいつは私を見ながら私が知らない田宮くんを語る。
「あたしにとってはこの距離はすごく心地いい。知ってるか? あいつは怖い話が苦手なんだよ。あたしが少しでもそれっぽい話をしたら子供みたいに耳を塞ぐんだ」
こいつは誰の話をしているんだ?
「知ってるか? あいつは炭酸が嫌いなんだって。あのシュワシュワ感が苦手らしい」
私は田宮くんの話を聞きたいんだ。
「知ってるか? あいつが好きなタイプの髪型は黒色のセミロングらしい」
こいつはそう言って自身の髪を優しく撫でた。その表情は恍惚と言った様であった。
「知ってるか? あいつは優しいんだよ」
知ってる。そんなのとっくのとうに知っている。お前があの人と出会う前からあの人はとても優しい。そんな当たり前なことを偉そうに語るんじゃない。
「あいつはあたしに『無数の答えという傷で君の過去の傷を覆おう』って言ったんだよ。あんたには意味分かんないと思うけど、すげぇ優しい言葉を言ってくれたんだよ」
「ーーるな」
ふざけるな。
なんでお前がその言葉を知っている?
それはあの人が私のために与えてくれた言葉だそ。
お前みたいなやつが受け取っていい言葉じゃないんだ。
私だけのものなんだ。
「なぁ、九条園花」
お前は、芥田透子の体を持ったお前は私をそう呼ぶ。
「あんたに九条園花をあげるよ。九条園花が手にするはずだった富も地位も幸福もあんたにあげる」
私とお前を取り巻くように風が吹く。お前は私を見上げる。お前はそんな醜い体を持っているのに強い意志を宿らせた視線を投げかける。
どうして私に出来なかったその決意を持てるのだ。
信じたくない。だって、それならば私は
「あんたにその人生をあげるからさ。あたしに田宮虎彦を愛する権利をくれない?」
何のためにこの体を手に入れたの?