さとりと魔法学校 作:hip
地霊殿の自室、その石造りの床には、昨年ホグワーツから持ち帰った「借り物」の残骸が散らばっていた。
ハリーから借りたインク瓶の染みが付いた羊皮紙、学校の備品だった欠けた大釜、そして、自分のものではない誰かの指の形に馴染んでしまった秤。
それらを見つめるさとりの心には、苦い砂を噛むような沈黙が広がっていた。
一年生の頃の自分は、あまりにも「お客様」に過ぎなかった。
突如として現れた魔法界に放り込まれ、身の回りのすべてが他人の善意と学校の施しで塗り固められていた。
読心術師として他人の内面を暴きながら、自分自身は拠り所のない透明な存在であるという矛盾。
あの石造りの城で、自らの根を張るための「道具」すら持たなかった己の未熟さが、今さらながら胸を刺す。
「……次は、他人の人生の
その呟きに応えるように、部屋の隅の空間が、絹を引き裂くような音を立てて歪んだ。
「あら、殊勝な決意ね、さとり。あちら側に自分の居場所を刻む気になったのかしら?」
紫色のリボンと無数の「眼」が蠢く隙間から、八雲紫が滑るように現れた。
彼女の周囲には、現実の理を狂わせる甘い境界の香りが漂っている。
さとりの「第三の眼」が彼女を捉えた瞬間、脳内は「幾重にも折り重なった多次元的な謀略の濁流」に飲み込まれた。
『……ふふ、面白いことになってきたわ。地底の主が、外の世界の「杖の論理」に自分を合わせようとしている。……境界の揺らぎは加速している。ヘカーティアの三色の月が魔法界を照らすとき、幻想郷もまたその影に呑み込まれる。……さとり、あなたは「楔」よ。あなたが魔法界の理を自分のものにすればするほど、私の「境界の維持」は容易くなる。……紅魔館のあの偏屈な魔女なら、あちらの「錬金術」の粗雑な理論に興味を持つはずよ。……導いてあげましょう。……あなたの想起が、あちらの
「……あなたの『期待』という名の重圧は、相変わらず胃が痛くなるほど重いわよ、紫」
さとりは溜息をつきながらも、紫が差し出した「隙間」へと足を踏み入れた。
◇
紫の「隙間」を抜けた瞬間、さとりの五感に飛び込んできたのは、地表の湿り気を帯びた古書の匂いと、静電気のような魔力のざわめきだった。
紅魔館の地下図書館「ヴワル魔法図書館」。
天井の見えない書架の森に、パチュリーが灯した精霊光が青白い残光を投げかけ、磨き上げられた石畳の床に刻まれた幾何学模様を不気味に浮き上がらせている。
そこには、予期していた主、レミリア・スカーレットたちに混じって、幻想郷の
さとりの「第三の眼」が開くと、三者三様の、しかし一様に強大な情報の奔流が彼女の脳内を蹂躙した。
レミリア・スカーレットの精神深淵、運命の断片。
『……退屈、退屈だわ。けれど今日は少しマシな余興ね。地底の探偵が、異界の「杖」を持って戻ってきた。……外の世界。私がかつてヨーロッパの夜を闊歩していた頃、あの
パチュリー・ノーレッジの思索、失われた錬金術。
『……ニコラス・フラメル。一三三〇年頃のフランス、出版業者。写本筆写人。……歴史に記された彼は、賢者の石の伝説を纏っただけの単なる「人間」だった。……それが、二十世紀の終わりまで生きていただなんて。……時間の保存法則を無視した生存。……あちらの魔法界には、私の知らない「根源」がまだ残っているというの? ……この屋敷しもべ妖精、構造が生物学的におかしい。……服従を核とした魔力の循環。……外の世界で何が起きて、魔法が再び「息を吹き返した」のか。……数式が足りない。……さとり、あなたの持ってきた教科書、早く見せなさい……』
屋敷しもべ妖精の脳内、隷属と混沌のノイズ。
『……お仕え、お仕え。……ここは暗い。……吸血鬼様、怖い。……魔女様、怖い。……今までの匂いと違う。……冷たい。……でも、お掃除しなきゃ。……服をもらってはいけない。……悪い子、悪い子。……ご主人様、どこ……? ……あ、第三の眼。……あのピンクの髪の女の人、私の「悪い考え」を見てる。……叩かなきゃ、頭を叩かなきゃ……!』
「……騒がしいわね。特にその子は、自分の頭を叩く前に、私の脳を休ませてほしいわ」
さとりは眉をひそめ、石畳を静かに踏みしめて前へ出た。
中央の円卓には、優雅に紅茶を啜るレミリアと、空中に浮かせた数冊の本を同時にめくるパチュリー、そしてその足元で、セコセコと見窄らしい布を纏いながら、異常な速さで本の背表紙を拭いているゴブリンのような生き物がいた。
「あら、さとり。紫の隙間を通る手間を惜しまないなんて、よほどの入用ね」
レミリアが緋色の瞳を細めて笑う。その背後のコウモリのような翼が、パタパタと小刻みに揺れた。
「……ええ。一学年の時は何も持たずに入学したから、すべて借り物で済ませてしまったわ。……今年は、自分自身の道具を揃えに来たの。対価として、ホグワーツで使っていた教科書や、あちらの『杖』による術式の記録を持ってきているわ」
「いい取引ね」パチュリーが短く咳き込み、屋敷しもべ妖精を顎で指した。「……その前に、この子を見て。『外の世界』から流れてきたものよ。『屋敷しもべ妖精』という種族だそうね」
「……魔法界の奴隷種族ね。一学年の頃、図書室の歴史書で見かけたわ」
さとりは、怯える妖精の思考の奥底に触れた。そこには、純粋な隷属の意志と、魔法界の「ある家系」への歪んだ恐怖が根を張っていた。
「……不思議だわ、パチェ」レミリアが椅子に深く寄り掛かる。
「私の知る外界では、魔法は霧散し、ウィザードたちは最後の一人が息絶えるのを待つだけの、絶滅危惧種だった。……なのに、紫やこの小鬼の話では、今は魔法が当たり前に溢れているというじゃない」
「……私の記憶でもそうだったわ」パチュリーが眼鏡を直す。
「……けれど、ある日を境に何かが変わった。……ヘカーティアの召喚、あるいはヴォルデモートの執念……何らかの巨大な要因が、一度枯れかけた魔法の
パチュリーが手を広げ、奥の棚から真鍮の秤と、滑らかなクリスタル製の薬瓶のセットを引き寄せた。
「……これは持っていきなさい。地底の魔力にも耐えられる、私の特製品よ。……対価の教科書は置いていって。あちらの術式の非効率さを、理論的に解体させてもらうわ」
さとりは、石畳の上に置かれた新しい学用品を一つずつトランクに収めた。
「……助かるわ。……それと、二学年で指定されているギルデロイ・ロックハートの本、ここには無いかしら?」
パチュリーは露骨に不快そうな顔をして、周囲を浮遊する本を一掃した。
「……ロックハート? ……そんなふざけた名前の本、この図書館の品位を下げるだけだわ。……数冊だけ、紫が持ち込んできたファンタジー小説の中に見かけたけれど、あんなものは『知識』とは呼べない。……ここには無いわよ」
「……そう。ここに無いなら、幻想郷のどこにも無さそうね」
さとりは溜息をついた。レミリアの退屈そうな視線と、屋敷しもべ妖精の怯える思考が交差する中、彼女はトランクの蓋を閉じた。
「……残念ね。……でも、心当たりはあるわ」レミリアが唇の端を吊り上げる。
「……人里よ。『鈴奈庵』という貸本屋なら、外の世界の本や、珍しい奇書が集まっているはず。……そこを探してみなさい。……あそこの店主(小鈴)なら、あなたの『想起』の助けを借りるまでもなく、本への執着だけで見つけ出してくれるかもしれない」
さとりは、石畳に落ちる精霊光の影を踏み越え、紅魔館の出口へと向かった。
背後で、屋敷しもべ妖精が石畳をモップで叩くベチャベチャという音が響いていた。
◇
人里の喧騒を少し外れた通りに、その貸本屋「鈴奈庵」はひっそりと、しかし確かな存在感を放って佇んでいた。
軒先を掠める午後の日差しは、通りを舗装する石畳に格子の影を落とし、店内に漂う古い紙と墨の匂い、そして長い年月をかけて蓄積された「知識の塵」の香りを、熱を帯びた風に乗せて運んでくる。
古明地さとりがその暖簾を潜った瞬間、第三の目に流れ込んだのは、出迎えた店主・本居小鈴の、「書物への偏愛という名の濁流」だった。
本居小鈴の精神深淵、
『……あら、地底の主様。……今日はどんな奇書をお探しかしら? ……私の指先は知っている。この棚の三列目、奥から五番目の巻物が昨夜から震えているのを。……インクの質、和紙の繊維、革装丁の軋み。……文字は生きている。読まれるのを待っている。……物語が、自分の意志で自分を語りたがっている。……さあ、私の本棚を、あなたのその「眼」で解体してみて。……言葉の裏側に隠された、記述者の「嘘」さえも暴き出してみて……』
「……小鈴さん、相変わらずあなたの頭の中は、どの本よりも雄弁だわ」
さとりが苦笑混じりに告げ、必要な本のメモをカウンターへ乗せる。
「私が欲しいのはこの本なのだけど、著者は全部ギルデロイ・ロックハートという人よ」
メモを確かめると、小鈴は目を輝かせながらカウンターの奥から数冊の、派手な装丁の本を取り出した。
「これでしょう? 最近、紫様がいくつか持ち込まれた『外の世界』の魔法の本。ギルデロイ・ロックハート……という方の著作です。でも、残念ながら『トロールとのとろい旅』と『雪男とゆっくり一年』は見つかりませんでした。どこか別の場所に紛れてしまったのかな?」
「……構わないわ。……それよりも、そこに並んでいる本を少し覗かせてもらうわね」
さとりがその一冊、『泣き妖怪バンシーとのナウな休日』をペラペラとめくる。
流し読みで見た内容は、著者の虚飾に満ちた自画自賛の物語。
「……なるほど。無理にすべてを揃える必要はないわね。……この本の内容は、魔法の『技術』ではなく、ただの『自己陶酔』という名のノイズで埋め尽くされているわ」
「おっ、さとりじゃないか! 珍しいところで会うな!」
勢いよく扉が開き、夏の終わりの陽光と共に、白黒の装束を纏った魔法使い、霧雨魔理沙が飛び込んできた。
彼女の足元で石畳の砂が小さく跳ねる。魔理沙の脳内は、さとりの存在によって「未知の魔法体系への純粋な、しかし強烈な飢え」に一変した。
『さとりだ! ……例の「魔法学校」から帰ってきたんだろ? ……聞いたぜ、向こうじゃ箒に乗って玉を追いかけるスポーツがあるんだってな。……私の箒と、どっちが速いかな。……それに「杖」。……まるでお伽話の世界だな。……私のミニ八卦炉も最高だが、あの「決まった言葉を唱えれば奇跡が起きる」っていう魔法……少しだけ、羨ましいぜ……』
「……魔理沙。……クィディッチの話なら、残念ながらあなたの箒の方がずっと荒々しくて速いわ。……あちらのスポーツ用の箒は、もっと『行儀がいい』のよ」
「ははっ! やっぱりそうか。でも、あっちの世界の魔法使いは、みんなその『杖』ってのを持ってるんだろ? 道具に頼り切りっていうのもどうかと思うが……」
魔理沙は棚に置かれたロックハートの本をパラパラとめくり、鼻を鳴らした。
「……なぁ、さとり。向こうじゃ、魔法はもっと『当たり前』にそこにあるのか? ……誰もが杖を振ればお茶が沸き、部屋が片付く……。私らが必死に修業して手に入れる力を、あいつらは生まれ持った『血』だけで使いこなしてるのか?」
「……ええ。……けれど、その『当たり前』ゆえに、彼らは魔法の裏側にある『闇』を忘れてしまっている。……言葉一つで命を奪い、記憶を消し去る。……魔理沙、あなたの魔法にあるような『努力の熱量』を、彼らは杖というフィルターを通すことで、無機質な『プログラム』に変えてしまっている部分もあるのよ」
さとりは数冊の本を小脇に抱え、カウンターに硬貨を置いた。
「……杖は、ただの道具ではないわ。……それは持ち主の魂を映す鏡。……あなたが八卦炉を愛するように、彼らもまた、その木の棒を自分自身の一部だと思っている。……お伽話に見える世界も、その中に入れば、地底の岩肌と同じくらい冷酷で確かな物よ」
「……ふーん。……今度、私の箒とあっちの箒で競走してくれよな!」
魔理沙が笑いながら去っていく後姿を、さとりは静かに見送った。
鈴奈庵を出ると、石畳には夕刻の長い影が伸びていた。
手元のトランクには、パチュリーの秤と、小鈴から譲り受けた数冊の(あまり役には立ちそうにない)教科書。
自分自身を構成する「準備」は、少しずつ整いつつある。
◇
魔法の森の奥深く、湿った土と菌類の匂いが立ち込める霧の中。
アリス・マーガトロイドの邸宅は、無数の人形たちが放つ「無機質な視線」と、裁断される布が立てる小気味よい音で満ちていた。
「――普段着のローブ? 贅沢を言わないなら、私が仕立ててあげてもいいけれど」
アリスは指先で魔法の糸を操り、空中に浮かんだ黒い布を鮮やかに裁断していく。
彼女の思考は、パチュリーの論理とは対照的な「感覚と造形美が織りなす繊細な糸の濁流」だった。
『……黒。学校の制服。……ただの羊毛では、あちらの石造りの城の寒気は防げないわ。……魔法の森の蜘蛛の糸を三層に織り込み、裏地には保温の想起を定着させる。……さとりが魔法を? 紫から聞いたときは冗談だと思ったけれど。……読心術師が、杖を持って呪文を唱える。……それは「人形を操る」のと似ているわ。……魔力を、自分の外側の「形」に預ける。……でも、彼女の眼は常に「内側」を見ている。……その矛盾が、彼女の魔法を歪ませなければいいけれど。……袖口は少し広めに。……あちらの男の子たちの趣味は知らないけれど、女の子としての気品は必要だわ……。……この布の質感、滑らかすぎるかしら? ……もっと、こう、意志を持つような……』
「……気品なんて、私には過ぎたものよ。……けれど、その『外側の形に預ける』という視点、参考になったわ」
さとりが静かに告げると、アリスは指先で操っていた魔法の糸をぴんと張り、空中に浮かんでいた黒い布を、一寸の狂いもなく裁断した。
「――勝手に見ないでちょうだい、さとり。……座って。……あなたのその『借り物の自分』を脱ぎ捨てるための、新しい
アリスは
『……肩幅。……腕の長さ。……彼女は、あちらの世界で『生徒』という人形を演じている。……ならば、その
「……アリス。……あなたが言う『人形を演じる』という言葉。……一年生の私は、確かにそうだったかもしれないわ」
さとりは、アリスが差し出した、魔法の森の蜘蛛の糸で織られた、深い黒の布地に触れた。
滑らかで、驚くほど軽く、しかしそこには地上のどんな布よりも強靭な「意志」が宿っている。
「……誰からも拒絶され、心を閉ざすのが当たり前だった私が……あちらの石造りの城で、借り物の道具を使い、他人の人生の断片を想起で繋ぎ合わせて自分を偽っていた。……けれど、次は違うわ」
さとりの第三の眼は、アリスが糸を紡ぐその指先に「孤独ではない自分」という、新しい想起の光を灯した。
「……私は、私自身の道具を使い、私の足で、あの石畳の上に立つの。……アリス。あなたの仕立ては、私が『私自身』であるための、最強の守護になるわ」
アリスは魔法の糸を鮮やかに操り、黒い布地をさとりの身体に合わせて縫い上げ、最後に銀のボタンを完璧な位置に定着させた。
完成したローブは、地底の闇を吸い込んだような、吸い込まれるほどに深い黒。アリスの魔力が込められたその布地は、さとりの肌に驚くほどしっくりと馴染んだ。
「――できたわ。……地底の主。……いえ、魔法学校の生徒さん。……これなら、あちらの冷酷な石畳の上でも、あなたはあなたとして立っていられるはずよ」
さとりは鏡の前に立ち、アリスが仕立てた新しいローブを羽織った。
銀のボタンが、窓から差し込む夕刻の光を反射して、静かに輝く。
トランクには、パチュリーの真鍮の秤とクリスタルの薬瓶。小鈴から譲り受けた(あまり役には立ちそうにない)教科書。そして、アリスが魂を込めて仕立てた、自らのためのローブ。
一年目の「借り物」の自分は、もういない。
さとりは、魔法の森の湿った土を、新しいローブの裾で掠めながら、人里の方角へと歩き出した。
さとりの隣でこいしが、空中で逆さまになって踊りながら、「お姉ちゃん、なんだか『新しい匂い』がするねぇ」と、無邪気で楽しげな声を響かせていた。
九月一日が近づいている。
幻想郷の知性と、人形師の執念をトランクに詰め、さとりは再び、あの石造りの城へと向かう決意を、改めて固めていた。