禪院全「全ては僕の為に」 作:羂索ハードモード
大大大大大大大大大大大大大ッ!!
——大ッ好きだよぉっ!!!!!
時は少し前に遡る——。
特級過呪怨霊・祈本里香によって展開された隠形の結界。
それはかつて禪院全によって身内にのみ開示された強固な縛りによる、視覚・聴覚のみならず呪力の波長や気配のすべてを断絶する完璧な結界である。
外界から完全に隔絶されたその結界の内側で、乙骨憂太はまさに貞操の危機に瀕していた。
『んちゅっ……憂太ぁ……♡好き、好き、だぁいすきっ……♡』
「り、里香ちゃん! ちょ、待って! 今は交流会の最中で……んっ!」
『だぁめぇ〜♡ 憂太は里香のなんだから、誰にも渡さないように、いーっぱい印つけるの……ちゅっ♡』
甘い吐息と共に降り注ぐ、濃厚なキスの雨。
枷場菜々子の『被写体操作』による精神作用を言い訳にして完全にタガを外した祈本里香に押し倒された憂太は、首筋や頬、鎖骨に至るまで無数のキスマークを刻み込まれていた。
(こ、これはマズい……色んな意味でマズすぎる……!)
いくら将来を誓い合った仲とはいえ、今は他校も交えた学校行事の真っ最中だ。しかも、自分は東京校最大の遊撃戦力として立ち回らなければならない立場である。
他校の生徒もいるのにこんなところでサボ——いや、こんな行為に及んだとバレれば同級生にからかわれる程度では済まない。
教員からの叱責、高専生としての社会的死は免れないだろう。
それ以上にこの場には婚約者である真希や、その家族たちがいる——それこそ観覧には呪術界の王すら来ているのだ。
だが、そんな憂太の焦燥をよそに、里香のボルテージはさらに危険な領域へと突入しようとしていた。
『えへへ……憂太ぁ、好き……だぁいすき……♡』
気分が最高潮に達したのか、憂太の上に馬乗りになっていた彼女はダイナマイトボディに仕上げた十七歳相当の姿から、変身を解くようにスルスルと本来の十歳の姿へと戻ってしまったのだ。
ここ数年で厚みを増してきた胸板に頬をすり寄せ、トロンと熱を帯びた瞳で吐息を漏らす里香。
「えっ」
子供の姿に戻ろうとも、その情念と欲望は一切減衰していない。
むしろ暴走の度合いは増し、あろうことか彼のズボンのベルトへと小さな手がガッチリと掛けられたのだ。
「ちょっ、ストォォォップ!! 里香ちゃんストォォップ!!」
憂太は顔面を真っ青にして絶叫した。
十七歳の姿ならまだしも、本来の姿でそんなことをされれば絵面として完全に一線を越えていた。
というか、いくら何でもマセすぎである。
「り、里香ちゃん!? なに、何しようとしてるの!?」
『え〜? だって、夫婦になるならこういうことするんでしょ?』
(ど、どこでそんな知識を……!? 里香ちゃんには同年代の女の子と交流する機会なんてほとんど無いのに!)
憂太は激しく混乱していた。
里香は基本的に彼以外の人間とはろくにコミュニケーションを取らない。真希や野薔薇なんかとそんなエグいガールズトークで盛り上がる姿なども見たことはない。
——彼は知らない。
夜な夜な自分が寝静まった後、里香が彼のスマートフォンを勝手に操作し、
——彼は識らない。
彼女のおねだりに応じて気軽に購入を許している少女コミックの中に、当たり前のように大人びたエグい描写が頻出する出版業界の恐ろしい事実を……!!
「だ、だめだめだめ! ズボンはだめぇっ!!」
『憂太ぁ、力抜いて? 結界のシミを数えてるうちにすぐ終わるからぁ♡』
「終わらせちゃだめだって!! 僕の社会的な命まで終わっちゃうからっ!! ふんっぬぬぬ……!!」
『あーっ!!』
憂太は先ほどまでの口付けと共に里香から自分の体内へと流れ込んできた莫大な呪力を、一気に全身の筋肉へと循環させた。
そして特級術師としての渾身の力を振り絞り、気合とともにズボンに掛かった里香の小さな手を力任せに引き剥がしたのだ。
「だ、だめだよ里香ちゃん!!」
『……むー! どうして? 憂太、里香のこと嫌いになったの……?』
手を退けられ、里香が涙目で不満げに頬を膨らませる。
今にもドス黒い怨念が爆発しそうなその気配に、憂太は必死に頭をフル回転させ、絞り出すように言い訳を口にした。
「ち、違うよ里香ちゃん! その……そう、ムードが大事! 一生モノの思い出をこんな土と落ち葉だらけの森の中で済ませちゃダメだ!!」
『むーど?』
「そう! 夜景が見える超高層ホテルのスウィートルームで! 綺麗な夜景とシャンパンを用意して、特別な日に……ちゃんと大人になってから、ね?」
それは、高校生男子が咄嗟にひねり出したにしては、あまりにもキザで陳腐なドラマのセリフのような言い訳だった。
……だが。
『すぅぃーとるーむ……しゃんぱん……二人だけの、特別な日……!!』
将来の約束という名の借金を重ね、なんとかその場を凌がんとする。
その必死すぎる言葉の響きは、乙女思考の強い里香の心に見事なまでにクリーンヒットした。彼女の瞳がキラキラと輝き、パァァッと顔を明るくして「うんっ!!」と嬉しそうに頷いたのだ。
『うんっ! 里香、特別な日まで待つ!!』
(よ、よかったぁぁ……!!)
かくして東京校の若き特級術師は社会的な死を免れ、最後の一線もギリギリのところで死守することに成功したのである。
「ふぅぅ……。それより里香ちゃん、結界を解いてくれないかな。……今は交流会の最中だし、早くみんなのところに合流しないと」
そう優しく促すと、里香は上機嫌で術式を解除した。
——パキン。
結界が解け、森の景色が再び視界に現れる。
「さて、みんなどこに——」
憂太が立ち上がり、服の乱れを直しながら周囲を見渡した、その瞬間だった。
「「「「………………」」」」
憂太の目の前には、文字通り草の根を分けて探し回っていた大集団が半円状に彼を取り囲むようにして立ち尽くしていた。
夜蛾正道と楽巌寺嘉伸の学長二人、京都校引率の庵歌姫に交流会運営協力の冥冥。
そして、息を切らしているパンダに、信じられないものを見るような顔をしている釘崎野薔薇、三輪霞、枷場菜々子と美々子の姉妹、おどおどと憂太を見る新田新。さらには三輪の足元にしがみつく一尺様の姿まで。
「あ……」
二十二もの瞳が、一斉に彼の顔面へと突き刺さる。
顔中から首筋にかけてびっしりと赤いキスマークをつけられ、息を弾ませ、制服を乱した憂太と、その隣でご満悦な笑顔を浮かべている女児姿の里香。
圧倒的な、アレすぎる事後感。
沈黙が森を支配した。
「う、わぁ……」
真っ先にその静寂を破ったのは、色々な前提が頭から吹き飛ぶほど憂太を軽蔑しきった野薔薇の、まるで生ゴミでも見るかのような冷ややかな声だった。
同性のパンダや新田は無言でそっと顔を逸らし、三輪は顔を真っ赤にして両手で目を覆う。元凶たる菜々子すらも「行くところまでいっちゃったんだ……」というなんとも言えない視線を向けている。
一尺様はともかく、婚約者である真希や将来義妹になる真依などの禪院家の人間がこの場に一人もいなかったことだけは不幸中の幸いかもしれない。
だからといって、状況は変わらない。
(お、終わった……! 交流会中に抜け出してこんなこと……間違いなく大問題だ。停学か、最悪退学……! 特級呪術師の面汚しとして秘匿死刑……!!)
憂太が青ざめ、最後の手段として土下座の準備に入ろうとした、その時だった。
「乙骨!! よかった、無事に見つかったか!!」
夜蛾が怒るどころか心底安堵したような声を上げて駆け寄ってきたのだ。
歌姫もまたへなへなとその場に座り込み「あぁぁ……本当によかった……っ」と胸を撫で下ろしている。
まるで救世主を見つけたかのような喜びようだ。
「え……!?」
「馬鹿者、説教は後じゃ! 事態は急を要しておる!」
楽巌寺もまた、憂太のキスマークだらけの乱れた姿にはあえて触れず大人の対応をしつつ血相を変えて叫ぶ。
「時間が惜しい。手短に説明するぞ、乙骨」
同じく鬱血痕を完全にスルーし、夜蛾はかつてなく険しい顔で告げた。
そのただならぬ雰囲気に、憂太も「はい」と即座に姿勢を正して呪術師としての顔へと切り替える。
「以前、悟が危惧していた呪詛師と特級呪霊の結託。……それが、今まさにテロとしてこの姉妹校交流会を襲っている」
夜蛾の言葉に、憂太はハッと息を呑んだ。
交流会という学生たちの祭典。その最中にテロが起こっているというのか。
「現在、我々を覆っているこの帳は、五条悟と禪院全——その二名の特異点のみの侵入を防ぐ、極めて強固な特殊結界だ。……これを構築し内部に侵入した呪詛師は、十二年前の『星漿体襲撃犯』と同一人物である可能性が極めて高い」
「五条先生と、当主さまを弾く結界……」
五条悟を死の淵まで追い詰めたという、最悪の呪詛師。
それが最強の二人を外で足止めし、学生たちのいるこの森に潜んでいる。
「現在、戦線は大きく二つに分かれている」
夜蛾は手で東の方角を指し示した。
「東のエリアでは、先日五条悟を襲撃した未確認の特級呪霊が外部から侵入。当主が放流していた七尺様を撃退し、現在は虎杖悠仁、狗巻棘、東堂葵、西宮桃の四名と交戦中だ」
「狗巻くんたちが特級と……!?」
特級呪霊を相手に、学生四人で戦っている。
本来であれば即座に全滅してもおかしくない状況だが、夜蛾はわずかな安堵をにじませて言った。
「彼らは驚異的な粘りを見せ、現在まで善戦している。……東堂を中心とした連携が、予想以上に機能しているらしい」
だが、安堵はそこまでだった。夜蛾の顔がさらに一段と暗く重いものへと変わる。
「問題は、西だ」
夜蛾の言葉に、隣の楽巌寺や歌姫も苦渋に満ちた顔で俯いた。
「……降霊術と分身術式を組み合わせた、最悪の自爆テロが発生した」
「自爆テロ……?」
「——ああ。『八握剣異戒神将魔虚羅』が顕現し、禪院恵と加茂憲紀が調伏の儀式に巻き込まれたのだ」
「なっ……!?」
——魔虚羅。
その名を聞いた瞬間、憂太の背筋に氷のような悪寒が走る。
高専生であれば誰もが教わる、最強にして最凶の式神。かつて理性なき怨霊として暴れる里香を押さえ込んだ屈強な巨躯が憂太の脳裏に浮かんだ。
全が余裕をもって調伏し、五条悟が死にかけながらも撃退してみせたとはいえ、それは彼らが規格外だったからに過ぎない。
普通の術師が相対すれば、それは「死」と同義だ。
「標的となった二人は逃走の末、秤金次、星綺羅羅、与幸吉の三名と合流。現在は秤の領域展開を中心に、対魔虚羅の遅延戦術を展開し時間を稼いでいる状況だ」
殺すのではなく、耐え凌いでいる。
それがいかに絶望的で神経をすり減らす綱渡りであるか、憂太にも痛いほどに想像がついた。
適応の怪物相手に持久戦など、長く持つはずがない。
「——状況はさらに動いてるよ」
その時、烏の視覚を共有し続けていた冥冥が静かに口を挟む。
彼女の言葉に、全員の視線が集中する。
「悲報と朗報がある」
冥冥は、冷徹な事実を淡々と告げた。
「東の特級呪霊が、領域展開に踏み切った」
「……っ!」
「領域……マズいじゃないですか!」
野薔薇が悲鳴のように叫ぶ。
領域展開。必中効果の内容によっては、善戦している四人も全滅しかねない。
「そして朗報。西の対魔虚羅戦線に——禪院真希が参戦した」
「真希さんが……!」
憂太の表情がハッと明るくなり、その場にいる大人たちも微かに安堵の息を吐く。
天与呪縛のフィジカルギフテッドである真希は、言うまでもなく呪術界でも指折りの特記戦力。
それに加え、彼女は禪院家の人間だ。実物すら使った訓練において魔虚羅という怪物の性質を知り尽くしている。
「彼女がいれば、魔虚羅の適応の隙を突き、かなり長く持ち堪えてくれるはずだ」
「……だが、それでもなお優先順位で言えば魔虚羅が上であることに変わりはない」
楽巌寺が白髭を撫でながら、重々しい声で決断を下した。
魔虚羅を放置すれば、どこまでも強くなっていくのだ。
「しかし、特級呪霊の領域展開により東の戦況が覆った可能性も高い。あちらも見過ごすわけにはいかん。よって戦力を二分し、同時進行で対処にあたるのが望ましい」
楽巌寺の言葉を受け、夜蛾が手早く人員の割り振りを告げる。
「戦力は分割する。魔虚羅の討伐には、乙骨……お前が向かえ」
「はい!」
憂太は一切の迷いなく、力強く頷いた。
「特級呪霊の領域には、私と楽巌寺学長、歌姫、そして冥冥の四人で向かう。……野薔薇、パンダ、三輪、新田、それに枷場姉妹はここで待機。これ以上の戦闘への介入は禁ずる!」
夜蛾の指示に、生徒たちは悔しそうにしながらも「はい……」と頷く。足手まといになるだけだと、彼ら自身が一番よく分かっていた。
「……さて。どちらも一刻も早く急行しなければならないわけだが」
冥冥が扇子をパチンと閉じ、憂太の背中に張り付いている里香へと、面白がるような視線を向けた。
「即座展開、いけるかい?
その軽口に、里香のつぶらな瞳がギロリと冥冥を睨みつけた。
『簒奪呪法』をはじめとする全の術式をいくつも模倣し、無尽蔵の呪力で操る呪いの女王。
彼女ならば、何か方法を持っているはず。
だが、里香はプイッとそっぽを向いてしまった。
『……やだ』
「り、里香ちゃん!?」
『だって、西に行ったらあの泥棒猫がいるんでしょ? あいつがどうなろうと、里香の知ったことじゃないもーん』
露骨に面倒くさそうに、そしてツーンと不満げに頬を膨らませる里香。
憂太以外の人間の安否などどうでもいい。ましてライバルのピンチをわざわざ助けに行く義理など、彼女の辞書には存在しなかった。
「お、お願い里香ちゃん! 真希さんだけじゃない、恵くんたちも危ないんだ! ……みんな、僕にとって大切な仲間なんだ……」
憂太が必死に拝み倒して説得を試みる。
里香は「むぅ……」と唸った。本音を言えば真希を見殺しにしたいところだが、ここでわがままを通しすぎて大好きな憂太に本気で嫌われることだけは絶対に避けなければならない。
『……じゃあね? キスマーク、消しちゃだめ♡』
「…………えっ?」
突然突きつけられた斜め上の条件に、憂太は間の抜けた声を漏らした。
『これからあの女のところに行くんでしょ? その顔のまま行くなら、助けに行ってあげてもいいよ♡ これ、縛りだからね?』
里香の狙いは明白だった。
「憂太は私の男だ」という所有権を泥棒猫である真希に堂々と見せつける。それならば、多少の苦労をして助けてやってもいいという条件。
「っ……!」
このハレンチな痕跡を、そのまま真希に見せびらかすようにして助けに入る。とんでもない修羅場の引き金になることは火を見るより明らかだった。
(死ぬ……真希さんに殺される……!!)
だが。
婚約者だけでなく、後輩や先輩たちの命が今この瞬間も散ろうとしているのだ。自分の羞恥心や社会的地位など天秤にかけるまでもない。
「わ……わかった! 消さない! そのままで行くから、お願い里香ちゃん!!」
憂太は涙目で、血を吐くような覚悟でその縛りを受け入れた。
『やったぁ♡ 憂太、だぁいすきっ♡』
里香は両手を叩き、憂太の背中にぴたりと張り付いた。
彼女の機嫌は最高潮のメーターを振り切って天元突破している。最愛の憂太が、あの憎き泥棒猫の前に自分との熱烈な愛の証を顔中につけたまま助けに行くと言ってくれたのだから、これほど痛快で嬉しいことはない。
満たされた情念と独占欲は、彼女の内に渦巻く規格外の呪力をさらに活発に、そして驚異的な精度で駆動させていた。
「急いで! 真希さんが、みんなが危ないんだ!」
キスマークだらけの顔を真っ青にして急かす憂太の願いに、里香は『はぁい♡』と甘ったるい声を上げながら、軽やかに三つの術式を自身の奥底から引き出す。
『——ふふっ、それじゃあ憂太のために頑張っちゃう♡』
彼女の美しくもどこか人間離れした両の瞳が、ふいに妖しい光を帯びる。
第一の術式——『
それはかつて禪院全が彼女の術式模倣の手札に加えさせた、十数キロ先の景色を観測する補助術式である。
里香の左右の眼球がそれぞれ全く独立した動きを見せた。
右の瞳が捉えたのは、森の東側に展開された巨大な半球状の結界——花御の領域『
そして左の瞳が捉えたのは、西のエリアで絶体絶命の死線に立ち、今まさに魔虚羅と対峙している禪院真希の背後であった。
「……見えたっ! 里香ちゃん、お願い……!」
『まかせてっ♡』
その視界を共有した憂太の焦燥に満ちた声に応え、里香は立て続けに第二の術式を起動する。
第二の術式は『呪泡操術』。東堂葵が
本来は視界を介して空中にシャボン玉を発生させてその泡の表面に映り込む像を術者の脳内に投影し、さらにその視界から連鎖的に新たな泡を発生させていくという索敵・布陣の術。
無数の視界が脳内に混在するため、IQ五十三万を自称する東堂の並外れた情報処理能力があって初めて、実戦レベルでの高速展開が可能となるシロモノだ。
だが里香は泡の視界を介した情報処理の連鎖を丸ごとすっ飛ばし、遠見の術式によって真希の背後と領域の外郭前という二つの地点に直接呪力を帯びたシャボン玉を発生させたのだ。
「……ほう」
烏の視覚を共有して森の中の様子を俯瞰していた冥冥が感嘆の息を漏らした。
「東堂君のそれとは展開の仕方が違うね。……視界拡張のプロセスを省略し、別術式によるダイレクトな照準合わせ。なるほど、理にかなっている」
複数の術式を組み合わせ、より強力な効果を発揮させる。
それはまさに禪院全のお家芸である『嵌合術』そのものだったが、これは今の全には絶対に真似できない芸当でもあった。
「……準備が整いましたっ、飛びます!」
憂太が周囲を取り囲む夜蛾や楽巌寺ら大人たちへ向けて鋭く声を張った。その合図を受け、夜蛾たちが咄嗟に身構える。
『いくよーっ!』
里香が憂太の肩越しに両手を高く掲げ、パーンッ! と高らかに柏手を打つ。
第三の術式——東堂葵の生得術式『
手を叩くことで、一定以上の呪力を持つ観測対象の「位置」を強制的に入れ替える、回避や奇襲に長けた空間移動術。
……禪院全はこの術式の代替となるものを現在所持しておらず、東堂からこれを簒奪しなければ自身で使うことはできない。
だが、里香は違う。彼女の無条件の
そして模倣は、その内にある簒奪呪法と接続しており、模倣によるストックもまた簒奪による術式と同じように嵌合術へ利用できるのだ。
一つの術式の不足を別の術式で補い、東堂葵の戦術を完璧に再現——否、自分流に昇華してみせた里香のオリジナル嵌合術。
これが簒奪者・禪院全にすら成し得ない、「模倣者」だからこその理不尽な暴威。
里香の乾いた柏手の音が森に響いた瞬間。
憂太たち、そして夜蛾たちの姿が掻き消え、代わりに空中でパチンと弾けるシャボン玉の残骸がその場に浮かぶ。
そして次の瞬間には西の森の奥深く——魔虚羅の退魔の剣が振り下ろされる寸前の真希の背後へと空間を跳躍し、見事な救援の『吹断』を放って魔虚羅を吹き飛ばしてみせた。
……こうして憂太は、まさに間一髪のタイミングで婚約者である真希を助けに駆け付けることができたわけなのだが。
***
「……で? 訳があるって?」
薙刀を肩に担いだまま、能面のように感情の抜け落ちた顔で問い詰めてくる真希。
「ええと……はい」
憂太は冷や汗をダラダラと流しながら視線を泳がせ、どもりながらもどうにか言葉を紡ぎ出した。
「京都校の子の術式で羽目を外した里香ちゃんにつけられて……その、反転術式で治さないっていう
「………………」
その言葉が落ちた瞬間、真希は無言のままスッと目を細め、憂太とその背後で「えへへ♡」と勝ち誇ったように笑う里香の顔を交互に見比べた。
(……これ、ただの自白じゃない?)
言い終えた憂太自身、己の口から出た事実に頭を抱えたくなっていた。
特級呪術師でありながら他校の下級生の術式にあっさりと遅れをとり、それに便乗した里香に押し倒されて為す術もなくキスの嵐に晒される。あまつさえ、彼女のわがままに振り回されっぱなしでこんなハレンチなマーキングを顔中に残したまま戦場に駆けつける羽目になるなんて。
冷静に振り返れば振り返るほど、男としても呪術師としても、あまりにも情けなさすぎる。
「……はぁぁぁぁぁっ」
真希は心底呆れ果てたように今日一番深く、重い溜め息を森の空気に吐き出した。
そして薙刀をドンッと地面に突き立てると、ツカツカと憂太の目の前まで歩み寄ってきた。
「ま、真希さ——」
ビシィッ!!!!
「たわばッ!?」
真希の右手の中指が親指から弾かれ、憂太の額に容赦なく叩き込まれた。
天与呪縛のフィジカルギフテッドが放つ、全力のデコピン。
冗談抜きで頭蓋骨が陥没したかと思うほどの凄まじい衝撃に脳を激しく揺らされ、憂太はその場に蹲りそうになった。
『あーっ! なにするのよ泥棒猫っ!! 憂太をいじめないで!!』
すかさず里香がシャーッ!と牙を剥いて威嚇するが、真希は「うるせぇ」と一瞥だけで一蹴し、額を押さえて涙目になっている憂太の胸倉をガシッと掴んで強引に引き起こした。
「ウチに
真希の瞳が獲物を狙う肉食獣のように鋭く光る。
禪院全が勝手に決めた「婿入り」の話。彼女自身、最初は全力で反発していたはずだが、今のその言葉には禪院の女としての、いや禪院真希という一人の術師としての確かな矜持と、不器用な発破が込められていた。
「……いいか。男なら、三歩先を歩いて背中で従わせてみせろ」
真希は掴んでいた胸倉をパッと離し、鋭い顎先で憂太の後方——すでに完全再生を果たし、退魔の剣を構えて臨戦態勢に入っている巨大な白い死神の方をクイッとしゃくった。
「——やれんだろ」
それは東京校のトップ戦力である彼への絶対的な信頼と、彼ならこの絶望的な盤面を覆せるという確信に満ちた言葉だった。
憂太はそれに力強く頷いた。
「うん——行くよ、里香ちゃん」
『んー、わかった……』
額に刻まれた強烈なデコピンの痛みを甘受しつつ、憂太は一歩前へと踏み出した。
里香も真希を睨みつつ、それに素直に従う。
先ほどまでの情けない顔の憂太はもうない。その横顔には、特級呪術師としての研ぎ澄まされた冷徹な覚悟が宿っていた。
彼に呼応するように、背後の里香もフワリと宙に浮き上がり、底知れぬ呪力の波濤を森全体へと放ち始める。
二人の眼前に悠然と立ち塞がるのは、再生と適応を終えて再び退魔の剣を構えた最強の式神——八握剣異戒神将魔虚羅。
(あの式神を滅するには、絶大な瞬間火力により一撃で消し飛ばす以外の方法は無意味だ)
憂太は頭の中で高速に計算を巡らせた。
里香がこれまでに模倣し、時には簒奪してストックしてきた術式リスト。
その中から、この理不尽な適応のバケモノを完全に消滅させうるだけの最高火力を弾き出そうとする。
以前、彼と里香の今後の育成方針の決定も兼ねて、全から『十種影法術』の詳しい説明を受けた時のことだ。
全は魔虚羅の倒し方についても事もなげに語っていた。
『大抵の術式では出力上限が足りずに一部が残り、そこから適応されて再生してしまう。僕ですら、アレを一撃で消し飛ばす手段はそう多くはないんだよ』
全が挙げた代表的な手段。
それは呪霊操術の『うずまき』や啜命呪法の『
これらは集めた寿命や呪霊、術式を代償として消費することを厭わなければその出力は青天井に跳ね上がっていく。
事実、全は公開調伏の際に不要な術式のいくらかを『廃珠ノ坩堝』で溶かし、その破壊の奔流で魔虚羅を消滅させた。
憂太もまた、全からの許可を得ていくつかの条件付きでそれらの術式を模倣させてもらっている。
が——今の憂太には、その三つの術式を使うための肝心のストックが、十分に用意できていない。
それに、いくら使用許可を得ているとはいえ、全にとっての外付HDDが無断で中身をごっそり消費してしまうのは今後の関係性を考えても得策ではないだろう。
ならばどうするか。
憂太の脳裏に、全の残した言葉の続きが鮮明に蘇る。
『——君は呪力総量だけで言えば素の僕より何倍も多いし、呪力効率も悪くない。とはいえ、出力上限そのものは僕や五条くんの方が高いだろうね』
『もし君が魔虚羅を調伏するなら、そうだね——』
全が示した乙骨憂太という特級呪術師にしかできない、最高にして最狂の解答。
「……毒食らわば皿まで、か」
憂太は背後で自分に発破をかけてくれた真希の顔を思い浮かべ、内心で平謝りしながら最終的な決断を下した。
「里香ちゃん、まずは動きを止める!」
『わかった!』
里香の小さな身体からは、先ほどまでの甘ったるい空気とは打って変わり、空間を圧殺するような膨大な呪力がにじみ出した。
その異様なプレッシャーに魔虚羅も警戒を露わにし、退魔の剣を構えて重心を落とす。
「サラウンド!」
『やーっ!』
だが、その意表を突くように、憂太の合図で魔虚羅を四方から取り囲む巨大な
同級生である狗巻棘から模倣した『鳴響』の術式を付与した音響型呪術兵器だ。
そして、そのコードの先につながる呪力製のマイクを握った里香の口から紡がれた言葉が、そのスピーカーを通じて爆発的な音圧となって魔虚羅へと叩きつけられた。
『『『『う ご く な』』』』
大気を震わせる言霊。
それは全が使役する八尺様のような複数の『呪言』のストックを重ね合わせたものではない。ゆえに、本家の重唱呪言には遠く及ばない疑似的な威力でしかない。
しかし、特級過呪怨霊の莫大な呪力でブーストされたその言霊は、最強の式神の動きを短時間拘束するには十分すぎるほどの効力を発揮した。
——ギ、ィィ……ッ!
魔虚羅の巨体が、見えない巨大な手に押さえつけられたようにピタリと硬直する。
そのわずかな隙を、憂太と里香が見逃すはずがない。
「——呪糸操術・
里香と同調した憂太が印を結ぶ。
魔虚羅の頭上の虚空から鋼鉄よりも強靭な呪力の糸が無数に降り注ぎ、巨体の四肢や関節に絡みつく。
まるで操り人形のキキ糸のようにピンと張り詰め、魔虚羅の身体を上へと強引に吊り上げる。
「——操影呪法・影縫い」
続いて、魔虚羅の足元に落ちる濃い影の中から漆黒の呪いの杭が次々と飛び出し、影を大地に縫い付ける。上への力と下への力が白い巨体を強烈に引き伸ばす。
「——術式:金縛り」
重ねるようにまとわりつく不可視の呪縛が、魔虚羅の全身をギチギチと締め上げる。
「——術式:
最後に対象の身体を重くするドス黒い鎖が幾重にも巻き付き、その動きを完全に停止させた。
四つの拘束術式による、強烈な束縛。
それは十二年前の公開調伏において禪院全が魔虚羅を一時的に封じ込めた、あの複合術式の完全なトレース。
「——嵌合術・
憂太の口から、全の技名が静かに紡がれた。
頭上の方陣が「ガギギギィ……ッ」と悲鳴のような軋みを上げて適応を始めようとするが、四重の複合拘束を解き明かすには、いかに魔虚羅といえどもしばしの時間を要する。
動きは止めた。
——問題はここからだ。
「——里香ちゃん」
万事搦メによって完全に縫い留められた白い死神を前にして、憂太はふっと戦いの熱を冷ますように背後にぴったりと張り付く愛しい呪いへと優しく語りかけた。
「さっきの約束……覚えてる?」
憂太の唐突な問いかけに、緊迫していた里香の気配がぽわんと和らいだ。
『……約束? 将来の、私達の
少しだけ小首を傾げるようにして、里香が甘えた声で聞き返す。ぴくり、と後方で真希が身動ぐ気配がした。
「そう」
憂太はごくりと一つ唾を飲み込む。
これから真希の前で口にすることについては、後でどんな制裁を受けても仕方がないという自覚があった。
だが、この規格外の怪物を跡形もなく消し飛ばす「出力上限の突破」を果たすには、莫大なストックを燃やすか、あるいは全の言っていた——。
「……あれを、ちゃんとした
『……ホント!?』
里香の声が期待に震えてワントーン高くなる。
憂太はゆっくりと振り向き、彼女の真っ直ぐな瞳を——かつての幼馴染であり、今も共に歩んでくれている彼女の瞳を、愛おしげに見つめ返した。
「うん。僕の二十歳の誕生日を……絶対に、二人にとって最高の日にしたいんだ」
憂太は一歩踏み出し、里香の白くしなやかな両手をそっと握り締めた。
「……だから、今日のこんな危機なんて、二人で軽々と乗り越えちゃおっか?」
憂太は背伸びをするようにして里香の顔に近づくと、彼女の耳元へ口を寄せた。
「——愛してるよ、里香」
ちゅっ、と。
微かなリップ音が響き、憂太の唇が里香の柔らかな頬に優しく口付けた。
——ピタッ。
その瞬間、森の時間が停止したかのような錯覚が起きた。里香の動きが固まり、彼女の瞳孔がこれ以上ないほどにキュッと収縮する。
『あ』
里香は、首筋から耳の先まで、爆発的な勢いで真っ赤に染まっていく。彼女の魂の奥底で何かが閾値を突破して、完全に弾け飛んだ。
『あ、あ、あああ……! あああああっ♡』
鼓膜を震わせる絶叫。だがそれは怨念の叫びではない。
臨界点まで煮詰まった、純粋な「歓喜」と「愛情」の大爆発。
里香の全身からにじみ出るドス黒い呪力が、眩いばかりの濃密な『赤』へと変色し、まるで間欠泉のように天高く噴き上がり始めた。
『憂太っ♡ 憂太ぁっ♡♡』
「いこう、里香ちゃん!!」
里香の背後には、巨大なハート型のオーラが形成され、周囲の木々がその凄まじい呪力の圧でメキメキと薙ぎ倒されていく。
憂太からの、はっきりとした愛の言葉。
近い将来、確実に
それは今すぐにでも白いお邪魔虫を消し飛ばすに値するものであった。
ピタリと寄り添った憂太は里香としっかり指を絡め、二人一体となって両手を正面の魔虚羅へと突き出した。
『大大大大大大大大大大大大大ッ!!』
里香の愛の絶叫が、空間そのものを震わせる。
『——大ッ好きだよぉっ!!!!!』
二人がつないだ両手から放たれたのは、縛りにより出力限界を突破した究極の愛の呪力砲。それは巨大なハート型をした極太のビームとなって、一直線に魔虚羅へと叩きつけられた。
絵面はアレだが、純粋な破壊力だけは歴史上類を見ないほどの火力の奔流。
対象は四重の術式でがんじがらめに拘束され、身動き一つ取れない状態の魔虚羅。
「————————!?」
最強の式神がその圧倒的な質量の光に飲み込まれた瞬間。
適応の方陣が回転する暇など、一瞬たりとも与えられなかった。
『ジュッ』という、まるで熱した鉄板に水滴を落としたようなあっけない音だけを残し、肉片はおろか呪力の残滓すら残さずに魔虚羅はこの世から
ハート型の破壊の奔流は、魔虚羅を消し飛ばした程度では全く勢いを失わない。そのまま軌道上の木々を消し飛ばしながら斜め上空へと駆け上がり——。
——パリーーーンッ!!!!
上空を覆い尽くしていたあの極めて強固な漆黒の帳すらも圧倒的な火力で紙屑のようにブチ破って大穴を開け、そのまま秋の青空の彼方へと飛んでいく。
呪力の圧で木々はなぎ倒され、余波によって大地には一直線の焼け焦げた爪痕が残る森には、赤い
「……はぁ、はぁっ……」
憂太は膝に手をつき、呪力パスを接続して大火力を行使した反動で荒い息を吐きながら、自分たちが放った規格外の破壊の痕跡を見つめていた。
——成功した。魔虚羅は跡形もなく消え去り、空を覆っていた不気味な帳にもぽっかりと巨大な穴が開いて崩壊が始まっている。
『えへへ……♡ 憂太ぁ……だぁいすきぃ……♡』
当の里香はといえば、特大の一撃を放ってスッキリしたのか、憂太に身をすり寄せて両手で火照った頬を押さえながらクネクネと身を捩って完全に乙女モードへと突入していた。
そんな愛の余韻に浸る二人の背後から、心底忌々しそうな舌打ちが聞こえた。
「……チッ、女誑しめ」
憂太がビクッと肩を震わせて振り返ると、そこには薙刀を肩に担ぎ見事なまでに不機嫌そうに口を尖らせた真希が立っていた。
「ま、真希さん……」
「全部聞こえてたぞ。……『二十歳の誕生日を二人にとって最高の日にしよう』だぁ? よく人前で恥ずかしげもなく言えたな?」
彼女の聴覚は、常人のそれを遥かに凌駕する。
憂太が里香の耳元でどんなに小さな声で囁こうとも、少し離れた位置にいた真希の耳にはその甘ったるい愛の囁きが一字一句、高音質で筒抜けだったのだ。
「あ、いや、あれは、その……なんていうか……!」
顔を真っ赤にして必死に弁解する憂太。
しかし、真希は「フン」とそっぽを向いてしまった。
真希とて、頭では分かっているのだ。
死してなお相手を想い、特級過呪怨霊にまでなってしまった里香の想いの強さ。
そこに同情や理解がないわけではないし、そんな里香に寄り添う不器用で優しすぎる憂太の性格も含めて彼女自身が惹かれている部分もある。
——だが。
頭で理解することと、感情で納得することは、まったくの別問題である。
婚約者である自分の目の前で、他の女に向かって堂々と愛の囁きをかまし、あまつさえキスまで見せつけられたのだ。
いくら肝の据わった武闘派の真希といえど、年相応の女子高生として拗ねたくもなるというものだった。
「……私の前で堂々とイチャつきやがって。いい御身分だな、特級呪術師サマは」
真希がジト目で睨みつけると、憂太は「うっ……」と完全に言葉に詰まってしまった。
いくら必要だったとはいえ、不機嫌な婚約者を前にして言い訳の余地など残されていない。
「ご、ごめんなさい……不純な婚約者で……」
結局、世界最強の式神を消し飛ばした三人目の特級呪術師は、肩をすくめて平謝りするしかできないのだった。
***
——パリンッ。
美しい花畑を形作っていた空間の壁が、ひび割れたガラスのように脆く崩れ落ちていく。花御の生得領域『
もとより呪術師たちの猛攻を受け、限界に近い状態まで消耗していた花御にとって、その領域はほんの短時間しか維持できない決死のカードであった。
だが、その短時間で放たれた一撃の結果は——あまりにも残酷だった。
「ゲホッ……かはっ……」
元の薄暗い森の景色へと戻った地面で、東堂葵が血反吐を吐きながら膝をついていた。
丸太のように太く強靭だった彼の左腕は不自然な方向に折れ曲がり、赤黒く焼け焦げている。防御の要として自ら前に出た結果、その肉体に甚大なダメージを負ってしまったのだ。
その後ろには、極彩色の星屑と文字の残骸が散らばる中で、西宮桃と狗巻棘が完全に意識を失って倒れ伏していた。
土壇場で組まれた見事な『嵌合防壁』。それがなければ、間違いなく全員が即死していただろう。だが、特級の放った領域内での最大火力を完全に殺し切ることはできず、余波だけで二人の術師は限界を迎え、ブラックアウトしてしまった。
「はぁっ……はぁっ……!」
そして。
東堂のさらに後ろ、三人の先輩たちに守られる形となった虎杖悠仁だけが、震える両足でかろうじて地面に立ち続けていた。
持ち前の規格外の頑丈さと、東堂たちが防壁の奥で彼を庇ったからこそ残った意識。
だが、全身には火傷と打撲の跡が広がり、立っているのが不思議なほどの満身創痍であることは一目瞭然だった。
『——見事な抵抗でした。ですが、これで終わりです』
土煙の中から、花御がゆっくりと歩み出てきた。
領域展開を終えて術式が焼き切れた上に呪力を大きく消耗してはいるものの、その歩みには一切の迷いがない。
花御はまだ息のある若き呪術師たちにトドメを刺さんと静かに腕を振り上げた。
「くそっ……動け……動けよ……ッ!」
悠仁は血走った目で花御を睨みつけるが、足は鉛のように重く、指先一つ動かすことすらままならない。
東堂もまた残された腕で必死に身体を支えようとするが、力が入らない。
死の一撃が静かに振り下ろされようとした——まさに、その刹那だった。
——ヒュンッ!!!!
音も殺気も、何の前触れもなく。
遥か遠方の木々の隙間から、まるで一条の黒い閃光めいた超高速の影が花御の頭部めがけて猛烈な勢いで突貫してきたのだ。
『——ッ!?』
自然の畏怖から生まれた花御の野生の勘が、その黒い影から放たれる
振り下ろそうとしていた左腕を咄嗟に盾にし、巨体を強引に横へと捻る。
ズバァァァァァァッ!!!!
黒い影——一羽の烏が、花御の肉体に激突した。
本来の標的であった頭部へのクリーンヒットこそ避けられたものの、左脇腹が爆発的に抉り取られ、防御に差し出した左腕は根元から跡形もなく吹き飛ばされる。
『ぐッ……!?』
群を抜く防御力を誇る花御をして、当たりどころが悪ければ一撃で祓われていてもおかしくない特大の破壊力。
「……ありゃ。流石に特級、勘がいいねぇ」
土煙が晴れる中。
悠仁たちの前にザッ、と音を立てて降り立った四つの影があった。
「先生たち……!!」
悠仁が安堵の声を上げる。
駆けつけたのは夜蛾、楽巌寺、歌姫、そして冥冥の大人四人。
里香の力によって最速でこの現場へと到達することができたのだ。
「よく耐え抜いたな虎杖、東堂……それに他の二人も。あとは我々に任せろ」
夜蛾が鋭い視線で花御を睨み据えながら、悠仁たちを庇うように前に出る。
その隣で、巨大な斧を肩に担いだ冥冥が忌々しげに溜め息をついた。
「
冥冥の『神風』は、使役する烏に自死を強制する縛りを課すことで本来の呪力制限を消し去り、特級呪霊をも一撃で粉砕する体当たりを可能にする必殺技である。
だがその必殺の一撃を、さらに凶悪なレベルにまで引き上げていたのが——歌姫と楽巌寺のサポートだ。
その秘密は、歌姫が発動していた術式にある。
彼女の生得術式である『
「せっかく短時間で無理やり間に合わせたのに……! 冥さん、まだいける?!」
戦闘中、本来は短縮する呪詞や掌印などを省略せず、儀式として昇華することでその上昇幅を強化するのだが、転移から領域展開の崩壊までほんのわずかな時間しか猶予がなかった状況で十全な儀式など行えるはずがなかった。
しかし歌姫にはそれを補い、より高度に発展させるために禪院家との取引で得た『第二の術式』があったのだ。
——第二の術式:『
自身の精神状態や感覚を、対象とリンクさせる術式だ。
歌姫はこの術式を応用し儀式によるトランス状態そのものを共有することで、単独禁区の術式対象者にも擬似的にそれらを行う感覚を与えていた。
歌姫の儀式により生まれるバフ。術式対象者が儀式の感覚を共有された事によるバフ。その恩恵の二重取りによって、本来であれば儀式のプロセスの途中でありながら『神風』の威力を通常よりも引き上げてみせたのである。
「一撃で仕留めきれなかったのは痛いね。でも、やるしかないよ」
冥冥が斧を構え直し、冷静に状況を判断する。
脇腹を抉られた花御は、紫色の煙を上げながらもすぐに体勢を立て直し、残った右腕で身構える。
「十分に隙は作れた! 夜蛾!!」
楽巌寺が叫ぶと同時に、夜蛾が懐から取り出したぬいぐるみサイズの呪骸に呪力を込める。
「術式解放:
夜蛾が第二術式を発動すると、手のひらサイズだったウサギの呪骸が一瞬にして見上げるほどの巨躯へと姿を変えたのだ。
巨大ウサギは長い腕を器用に使い、倒れている棘と桃をヒョイと背中に担ぎ上げ、さらに動けない東堂と悠仁を両脇に抱え込んだ。
「せ、先生……!」
「よく耐えた、虎杖。あとは我々大人の仕事だ」
彼は傷だらけの悠仁に向かって短く告げる。
巨大ウサギは四人を抱えたまま驚異的な脚力で地面を蹴り、花御の攻撃範囲から一気に後方へと跳躍して離脱していく。
『逃がしはしませ——』
逃げる生徒たちを追撃しようとする花御の前に、大人たちが立ち塞がった。
「悪いが、ここから先は通行止めだ」
「領域展開直後で疲弊しているとはいえ、相手は特級。油断せず確実に祓うわよ!」
歌姫が気を引き締め、大人たちが一斉に花御へと殺気を向ける。四人の呪術師がそれぞれの構えを取った——次の瞬間。
一切の音を置き去りにして、上空から
『——————?』
花御の
一つ目は戦闘の高揚に囚われ、この圧倒的な劣勢においてもなお逃げを打たなかったこと。
自然の摂理としてただ人間を間引く作業を遂行するはずだった花御は、悠仁たちとの死闘の中で純粋な闘いへの悦びを知ってしまった。
だが、その失策は後者ほど致命的ではない。領域展開直後の術式の焼き切れから回復すれば、彼女の規格外の呪力量とタフネスをもってすれば、四人を相手取ってもまだかろうじて渡り合えるだけのポテンシャルは残されていた。
そして、二つ目。
それこそが花御の命運を完全に絶った最大の失策であり——同時に、純然たる不運だった。
領域展開を解いた直後、乙骨憂太と祈本里香が放った規格外の愛の呪力砲によって森を覆う帳が完全に破壊されてしまったことである。
失策というよりは、単なる不運でしかない。
だが裏を返せば、あの盤面で『領域展開』さえ選択しなければ、彼女は得意の植物を介した地中潜行などを用いて安全に逃げを打てたのだ。
術式の焼き切れにより、その逃走手段すらも完全に封じられてしまった。
ただ、その場に留まるしかなかった特級呪霊の頭上から、空間ごと万物を消し去る勢いの紫色の閃光が真っ直ぐに降り注いだ。
————虚式・『
『あ——』
回避する術も、防御する術もない。
花御の巨躯は断末魔すら残すことなく、その圧倒的な仮想の質量の前に完全に呑み込まれた。
音もなく地面がえぐり取られ、そこに残されたのは、まるで巨大な円柱で地面をくり抜いたかのような、垂直に近い壁を持つ底知れぬ
「……やっべ、せっかくの特級なのに普通に祓っちまった」
遥か上空で五条悟はポリポリと頬を掻きながら、全く反省の色がない声でひとりごちた。
少し前のことである。
五条悟と禪院全をピンポイントで弾く、異常なほど強固な漆黒の帳。
全が早々に帰還してしまった後、一人残された悟はボヤきつつも、帳のてっぺんから見下ろしながら、これをどうこじ開けるか思案していた。
——硬いのだ。しかも、削ったそばから爆速で修繕される。
間違いなく術者が内側で維持に全力を尽くしているのだろう。
(いっそ茈でもぶち込んで穴を開けるか? ……いや、中にいる生徒たちに流れ弾が当たったら危ないしなあ)
破る方法自体はある。しかし、勢い余って帳の先の誰かを消し飛ばしたらまずい。珍しく常識的な懸念を抱き、結界の解析を進めようとしていたその時だった。
——ズドォォォォォォォォォッ!!!!
突如として帳の遥か下方、森の奥深くから飛んできた♡型でピンク色のぶっといビームが結界を内側から豪快に突き破ってきたのだ。
(ぶはっ!? なんだアレ、なんちゃら天驚拳かよ!)
ふざけた絵面ながらシャレにならない威力の呪力砲。
それが帳を粉砕してそのまま空中で待機していた悟の足元めがけて直撃コースで飛んできたため、不可侵がその
里香が知ったらキレるやつだ。
呆気にとられつつも、帳が崩壊したことで侵入可能となった森の中へと悟は空からゆっくり降下していった。
そこで彼の
全身に打撲と火傷を負い、限界を超えて血を流している虎杖悠仁。
左腕を異様な角度にへし折られ、膝をつく東堂葵。
そして意識を失って倒れ伏す狗巻棘と西宮桃。
四人の生徒たちの、あまりにも痛々しい姿だった。
(………………)
その光景を目の当たりにした瞬間、悟の脳内から「強めの呪霊でも居れば禪院全への手土産として生け捕りにする」というビジネスライクな考えは、綺麗さっぱり消し飛んでいた。
沸点の低い青い瞳が、冷たく、残酷な光を帯びる。
よくもまぁ、俺の可愛い生徒たちをここまでボロボロにしてくれたな。
「——少し、乱暴してやろうか」
そうして天から放たれた、問答無用の『茈』。
結果として、花御は塵一つ残さず完全に消滅し、全への献上品は文字通り地の底へと消え去ったのである。
「五条ォォォォォォォッ!!!!」
眼下の森から、鼓膜を劈くような凄まじい怒声が響き渡った。
見下ろせば、深くえぐれた大穴の縁ギリギリのところで歌姫が顔を真っ赤にして空に向かって拳を振り上げている。
「味方がこんな近くにいるのに、あんな馬鹿げた威力のモノを真上からぶち込んで来やがって!! 巻き込まれたらどうするつもりだったのよ!!」
歌姫の抗議はごもっともだった。
冥冥や夜蛾、楽巌寺といった大人たちも、突然頭上から降り注いだ理不尽な破壊の奔流に、冷や汗をダラダラと流して完全に固まっていた。
助けに来たとはいえ、味方への配慮が致命的に欠如している。
「あー、歌姫キレてるわ。めんどくさ」
歌姫の怒号をBGMにしながら、悟はふわりと羽根のように地上へと降りていく。
「ま、とりあえず生徒も死んじゃいないみたいだし、一件落着……って、ワケにはいかないみたいだな」
***
——その頃、呪術高専東京校の敷地内、もっとも奥深く、厳重に秘匿された場所にて。
彼女の足元には、忌庫の番を任されていた数名の呪術師たちが血を吐いて無惨に昏倒している。かろうじて息はあるが放置すれば命を落とすだろう。
「ふふっ、大収穫だね」
羂索が懐に仕舞い込んだ戦利品の重みを満足げに確かめていた、その時だった。
「……おや」
羂索はピタリと足を止め、すっと目を細めた。
遠く離れた演習区画の内部で帳を維持し、戦況を観察させ続けていた分身体からの視覚情報が流れ込んできたのだ。
極太の紫色の閃光。それに飲み込まれて塵一つ残さず消滅した花御の最期。
「……あちゃあ。花御が祓われたか」
羂索は困ったように眉を下げてみせたが、手持ちの便利なゲームの駒を一つ失ったという程度の軽い落胆でしかない。
「目的も達成できたからそろそろ撤退の合図を出そうと思ってたのに。……まあ仕方ないか」
羂索が軽く指を鳴らすと、遠く演習区画へ密かに展開していた分身体が泥のように崩れ落ちて完全に消滅する。
それと同時に、残っていた帳の残滓も綺麗さっぱりと空間から拭い去られていく。
「まあ、向こうの作戦も大方うまくいったようだしね」
羂索の口元に妖艶な笑みが浮かぶ。
禪院全の不在を突き、別動隊として協力者と共に京都の禪院家本家の忌庫を荒らした分身体も、予定通り目当ての品を拝借し、それに気付いた追っ手を撒いて無事に逃げおおせた。
魔虚羅の消費は既定路線だが、花御の消滅は予定外だ。
戦力の減少は痛手ではあるが、盤面全体で見れば十分にプラスの収支といえる。
「……しかし」
羂索は高専の忌庫から持ち出した呪物たちを懐の上からポンポンと叩きながら、少しだけ不満げに独りごちた。
「ちょっとばかり、欲しいものが揃わなかったねぇ」
彼女の瞳に、深い疑念の色がよぎる。
「リスクを負って禪院家の忌庫まで漁ったのに、そっちにも無かったとは」
羂索は艶やかな唇を指先でなぞり、首を傾げた。
「持ち歩いてるのかな? ……いや、
禪院全という男は蒐集家気質ではあるが、わざわざあんな物を持ってうろうろする理由があるだろうか。
「……まあ、絶対に必須というわけじゃない。無いなら無いで別にいいんだけど」
彼女はすぐに思考を切り替え、フッと小さく笑った。
「それに、禪院家の方では嬉しい拾い物もあったしね」
羂索に再び妖艶な黒い笑みが溢れる。
禪院家の忌庫の奥深くに厳重に封印されていた品。今後の計画にどれほどの恩恵を加えるか、想像するだけでも胸が躍る。
「さて、と。長居は無用だ」
羂索は優雅にターンを決めると、自らの身体に強力な『隠形結界』を纏わせた。
騒ぎを聞きつけた高専の術師たちも、間もなくこの忌庫の異常に気づいて駆けつけてくるだろう。
千年の呪詛師はあらゆる目を掻い潜り、闇へと消えていく。
魔虚羅「一体何を見せられたマコ……」(消滅)
・縮む里香ちゃん
無為転変による豊満ボディは自慢ではあるものの、ベタつくときは基本的に本来の姿でやりたいらしい。
〇.何ミリか程度の壁を感じるのかもしれない。
・模倣と簒奪
模倣の中にあるアタッチメントとしての簒奪呪法の作用で、里香の生得領域内でのみ、模倣ストックも簒奪ストックと同じ扱いができる。
模倣した簒奪で全部のストックを使っている感じの扱いですね。
なお、他人に渡すと模倣由来のストックは消滅する。
・乙骨憂太の縛り
決められた時期に己の全てを捧げる()縛りによる呪力出力の制限撤廃。
かつてやれなかった純愛(?)砲がここに。
なおラブラブ純愛砲は五条に誤射された。
地味に年単位のお預けを食らわされたことに、里香ちゃんはまだ気付いていない。
・禪院家新基準(嘘)
直哉「女の三歩先を歩けんような男は刺されて死んだらええ、ってか?」
真希「そこまでは言ってねえ!!」
・庵歌姫 第二術式:共感覚
歌姫が単独禁区のバフを強めるためにやる儀式諸々の感覚を術式対象者にも体感させる事で、対象者に「掌印」「呪詞」などのバフをやったことにさせてる。
おそらく、元の持ち主とはだいぶ違う使い方である。
・夜蛾正道 第二術式:
与幸吉の術式とは逆に、小さい呪骸を拡大するもの。
非生物限定、サイズにより呪力の食いが違う。
・花御消滅
原作では、術式が使えたから逃げおおせることができました。
逆に領域展開を完遂していたら、こうなるなぁ……と思います。
と言うわけで姉妹校交流会はここまで。
なるべく全員に見せ場を用意したいと構成をこねくり回しつつ思いついたネタ全部盛り込んでいったらとんでもなく長くなりました……。
次回からは幕間編ですが、また少し開くかもしれません。
長期的な伏線もある中で申し訳ないんですが……ちょっとなんちゃら島で色々と捕まえたり育てたりするのに最近ハマってまして……。