【11月10日 午前】
愛知コロニー内部、旧市民会館避難拠点。 エントランスに群がっていた病喰呪霊の群れが黒い灰となって完全に消滅した後も、ホール内には重く沈んだ空気が漂っていた。
「ハァッ……ハァッ……ハァ……」
ひしゃげて半壊した入り口の真ん中で、八幡は血糊のついたナイフをだらりと下げたまま、肩で激しく息をしていた。 『傷在転嫁』という、自分のダメージを呪力に変換する理不尽な術式で無理やり戦い抜いた反動が、一気に全身の筋肉と神経にのしかかってくる。鉛のように重い身体。
(……守れた、とは言えねえな)
八幡は床に散乱する瓦礫と呪霊の残滓を見下ろした。 ただ、今はまだ「死んでいない」だけだ。結界が完全に破られ、入り口が吹き晒しになった以上、次が来たらどうなるか分からない。 牧野はすぐさま入り口の損傷具合を確認しに走り、川崎は奥の部屋へ避難させたケイカや病人たちの容態確認に駆けずり回っている。
拠点の空気は、助かった安堵よりも、次に何が来るか分からない疲労と恐怖で支配されているように見えた。
(さて、どうすっか……)
八幡は、奥の部屋に集まっている避難民たちの方へ重い顔を向けた。 これだけの血と内臓を撒き散らし、異常な術式で呪霊を惨殺してみせたのだ。一般人の目から見れば、今の俺は呪霊と同じくらい恐ろしく、気味の悪いバケモノに映っているはずだ。
「ヒッ」と怯えられ、避けられ、あるいは「出て行ってくれ」と石を投げられるかもしれない。八幡はいつものように、自分が周囲から孤立し、忌避されることを当然の「結果」として予想し、小さく身構えた。
だが、八幡の予想は完全に裏切られた。
「……あ、あの」
奥の部屋から、震える足取りで一人の老人が歩み出てきた。 老人は八幡の血まみれの姿を見ても逃げ出すことなく、その場で深く、震える頭を下げた。
「助けてくれて……本当に、ありがとう……」
「……は」
八幡が間抜けな声を漏らした直後、老人の後ろから、子どもをしっかりと抱きしめた母親が進み出てきた。彼女の目には涙が浮かんでいる。
「あんたがいなかったら、私たち……終わってた。ありがとう、本当に……」
「お兄ちゃん、ありがとう」
母親の腕の中で、小さな子どもがしゃくり上げながら礼を言う。 もちろん、何人かの人間は八幡の血まみれの姿に怯え、遠巻きに見ている。だがそれ以上に、今、八幡に対して向けられている感情は「恐怖」や「忌避」ではなく、純粋な『助かった』という安堵と感謝だった。
(……なんで、礼なんか言うんだよ)
八幡は完全に言葉に詰まり、その場に立ち尽くした。 俺はそんな、まともで立派な人間じゃない。この黒いドームに入ってから、自分の手を血に染め、人間の命を何人も奪ってきた側の人間だぞ。 妹を壊した奴を殺すことしか頭にない、薄汚れた復讐者だ。
なのに。
(……それでも、こいつらは……助かったのか。本当に)
向けられる感謝の重さに耐えきれず、八幡がどう返していいか分からずに視線を彷徨わせていると、横からそっと歩み寄ってきた牧野が口を開いた。