その時計が、少しずつ遅れ始めた。二分、五分、十五分。遅れが二十分で止まったと思ったら、また増え始めた。一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月。遅れは加速していく。
ある朝から、黒いコートの女性が時計の下に立っている。動かない。息もしていない。
「……二十分」
「……もうすぐ、追いつく」
時計が現在時刻に追いついたとき、世界が止まる。そして、針が逆回転を始める。
時間が戻り始めた。何度でも。永遠に。
引っ越してから、最寄り駅が変わった。新しい駅は小さな無人駅で、ホームは一つしかなく、改札を出るとすぐに階段があって、地上に出る構造になっていた。朝の通勤時間帯でも、改札に人影を見かけることはほとんどなかった。
階段を上がったところに、古い時計が掛かっていた。四角い枠に白い文字盤。針は黒くて太く、昔の学校にあったような無骨なデザインだった。カチ、カチ、と秒針が動くたびに小さく鳴る音が、静かな駅に響いていた。
毎朝、階段を上がりきって地上に出る前に、私はその時計を見上げる習慣ができていた。理由は特になかった。ただ、そこに時計があったから見ていた。ただそれだけのことだった。
最初に気づいたのは、引っ越してから三日目の朝だった。
時計が、少しだけ遅れていた。
二分くらい。
スマートフォンと見比べた。スマートフォンは七時十八分を示していた。時計は七時十六分だった。確かに遅れていた。
駅の時計なんて、そんなものかもしれない。古い時計だし、多少の誤差はあるだろう。
そう思った。
でも、一週間後、遅れは五分になっていた。
スマートフォンが七時十八分のとき、時計は七時十三分だった。
二週間後、十分。
三週間後、十五分。
遅れは、少しずつ大きくなっていった。
おかしいと思った。
これは明らかに、故障している。駅員に言った方がいいのではないか。
でも、言わなかった。
なぜか、言ってはいけない気がした。理由はわからない。ただ、この時計の遅れについて、誰かに言及してはいけない。そんな気がした。
それから、時計を見るのが完全に習慣になった。
毎朝、階段を上がって、時計を見る。
今日は何分遅れているか、確認する。
カチ、カチ、と音がする。秒針が、規則正しく動いている。動いているのに、遅れは増えていく。
四週間目、遅れは二十分になっていた。
スマートフォンが七時十八分のとき、時計は六時五十八分だった。
でも、ある朝、気づいた。
遅れが、止まっていた。
昨日も二十分。今日も二十分。
スマートフォンが七時十八分。時計は六時五十八分。
遅れは、増えなくなった。
それから、毎朝確認した。
一日目、二十分。
二日目、二十分。
三日目も、四日目も、五日目も、六日目も。
ずっと二十分のままだった。
秒針は動いている。カチ、カチ、と音もする。でも、遅れは増えない。固定されたように、二十分のまま。
遅れが止まってから、階段を上がるとき、足音が変わった気がした。
コツ、コツ、と鳴る音が、少しだけ響く。
前はこんなに響いていただろうか。
階段は古いコンクリート製で、踏むたびに硬い音がする。その音が、妙に長く尾を引くようになった。わからなかった。気のせいかもしれない。
七日目の朝、階段の空気が冷たかった。
地上に出る前なのに、冷気が上から降りてきた。
息が白くなった。
十月なのに。外はまだそれほど寒くない。でも、階段の上は冷えていた。地上の空気が、階段を通って降りてきているのだろうか。それにしては、冷たすぎる気がした。
八日目の朝、時計の音が大きくなった気がした。
カチ、カチ、カチ。
いつもより、はっきり聞こえた。
耳を澄ますと、秒針と分針と時針、それぞれの音が聞こえる気がした。カチ、という音の中に、微妙に異なる三つの音が重なっている。そんな気がした。
九日目の朝、階段を上がりきったところで、足を止めた。
時計の前に、誰かが立っていた。
女性だった。
黒いコートを着ていた。髪は長く、後ろ姿しか見えなかった。
時計を、じっと見上げていた。
私も時計を見た。
遅れは、二十分。
スマートフォンを確認した。七時十八分。時計は六時五十八分。変わらない。
女性は、そのまま立っていた。
動かなかった。
息をしているのか、わからなかった。コートが風で揺れることもなかった。完全に静止していた。
私は、その横を通り過ぎた。
すれ違うとき、冷たい空気が頬に触れた。
匂いはなかった。
香水の匂いも、洗剤の匂いも、人間特有の体臭も。何も、匂わなかった。
ただ、冷たかった。
振り返らなかった。
振り返ってはいけない気がした。
階段を降りて、改札を通り、電車に乗った。
翌朝、また同じ女性が立っていた。
同じ場所。時計の真下。
同じように、時計を見上げていた。
昨日と同じ黒いコート。同じ長い髪。同じ姿勢。
カチ、カチ、カチ。
時計の音だけが聞こえた。
女性からは、何の音もしなかった。呼吸の音も、衣擦れの音も。
私は、また横を通り過ぎた。
やはり、冷たい空気。
やはり、匂いはしなかった。
三日目の朝も、同じだった。
女性は、微動だにしなかった。
まばたきもしなかった。
私は、女性の横顔を見た。
若い女性だった。でも、表情がなかった。無表情というより、表情を失ったような顔だった。
四日目の朝、階段を上がりきったところで、女性がまた立っていた。
今日こそ、話しかけようと思った。
何をしているのか、聞いてみようと思った。
「あの、何を」
女性は、こちらを見なかった。
時計を見上げたまま、間をあけて、言った。
「……二十分」
それだけだった。
声は、囁くような。空気を震わせるだけのような、か細い声。
でも、はっきりと聞こえた。階段全体に響くように聞こえた。
私は、何も言えなかった。
女性は、また時計を見上げていた。
「二十分、とは」
聞こうとした。
でも、女性は何も答えなかった。
ただ、時計を見ていた。
私は、その場を離れた。
五日目の朝、女性はいなかった。
時計の前に、誰もいなかった。
いつもの静かな階段。カチ、カチ、と時計の音だけが聞こえた。
でも、時計を見て、息を呑んだ。
遅れが変わっていた。
二十五分になっていた。
スマートフォンは七時十八分。時計は六時五十三分。
二十分ではなく、二十五分。
遅れが、また増え始めていた。
それから、遅れは毎日増えていった。
二十五分、三十分、四十分、五十分。
一時間。
女性は、いなくなった。
でも、時計の遅れは増え続けた。
一ヶ月が経った。
遅れは、一時間を超えていた。
スマートフォンが七時十八分のとき、時計は六時十五分だった。一時間三分の遅れ。
その頃から、スマートフォンの画面が、ときどきちらついた。時刻表示が一瞬だけ乱れる。六時台の数字が、ほんの一瞬だけ見える気がした。
それから、さらに遅れは加速した。
一時間十分、一時間三十分、二時間。
二ヶ月目。
遅れは、五時間になっていた。
スマートフォンが七時十八分のとき、時計は二時十八分だった。
階段を上がる足音が、二重に聞こえるようになった。自分の足音と、もう一つ。ほんの少しだけ遅れて響く、もう一つの足音。
三ヶ月目。
遅れは、十二時間。
スマートフォンが七時十八分のとき、時計は七時十八分だった。
でも、それは前日の夜七時十八分だった。
自分の影が、おかしかった。階段の照明の角度が変わったわけではない。でも、影の長さが、少しずつ短くなっている気がした。
遅れが大きくなるにつれて、階段の空気は冷たくなった。
冬になったわけではない。十二月だったが、それほど寒い日ではなかった。でも、階段は凍えるように冷たかった。
そして、ある朝、遅れは二十三時間を超えた。
スマートフォンが七時十八分のとき、時計は七時五分だった。
ほぼ一日前の時刻。
スマートフォンの画面が、頻繁にちらつくようになった。七時十八分と七時五分が、交互に点滅する。どちらが正しいのか、わからなくなった。
あと十三分。
遅れが二十四時間になる。
翌朝、階段を上がったとき、女性がまた立っていた。
時計の下。
今度は、こちらを向いていた。
女性の顔が、はっきりと見えた。
若い顔。でも、表情は読めなかった。喜びも、悲しみも、恐怖も、何も浮かんでいなかった。
「もうすぐ」
女性は、そう言った。
囁くように。
でも、階段中に響くように。声が、何重にも重なって聞こえた。
「何が」
私は聞いた。
声が震えていた。
女性は、時計を指さした。
その指は、白く、細く、まるで骨のようだった。
「……追いつく」
時計を見た。
スマートフォンは七時十八分。
時計は七時十六分。
遅れは、二分。
「何に」
私は聞いた。
女性は、答えなかった。
ただ、時計を見上げていた。
それから、小さく、笑った気がした。
口角が、ほんの少しだけ上がった。
それから、女性は言った。
「……明日」
それだけだった。
私は、何も言えなかった。
女性は、ゆっくりと階段を降りていった。
コツ、コツ、と足音が響いた。
でも、女性の姿は、途中で見えなくなった。
階段の途中で、消えた。
それから、私は毎朝、時計を見るようになった。
いや、もともと見ていた。
でも、今は違う意味で見ていた。
遅れが、どれくらいか。
追いついたら、何が起きるのか。
今朝、階段を上がったとき、時計を見た。
スマートフォンは七時十八分。
時計は七時十八分。
追いついた。
時計の針が、止まっていた。
秒針が。
カチ、という音が、聞こえなくなった。
静かだった。
完全に、静かだった。
階段を上がる自分の足音も、聞こえなかった。
呼吸の音も、聞こえなかった。
心臓の音も、聞こえなかった。
世界が、止まった。
何も、動かなかった。
時間が、止まった。
どれくらい、そうしていただろう。
一秒か、一分か、一時間か。
わからなかった。
それから、小さな音が聞こえた。
カチ。
針が、動いた。
逆に。
反時計回りに。
一つ。
カチ。
また一つ。
カチ、カチ、カチ。
音が戻ってきた。
ゆっくりと。
一つずつ。
積み重なるように。
でも、針は逆に回っていた。
秒針が、逆に進んでいた。
七時十八分から、七時十七分五十九秒へ。
七時十七分五十八秒へ。
七時十七分五十七秒へ。
時間が、戻り始めた。
階段の冷気が、さらに冷たくなった。
息が白く凍りついた。
それから、女性の声が聞こえた。
どこからか、わからなかった。
「……もう一度」
囁くような声。
「……もう一度」
繰り返す。
「……もう一度」
エコーのように。
「……最初から」
囁く。
「……最初から」
繰り返す。
「……最初から」
エコーのように。
声が重なって、階段中に響いた。
時計の針は、逆に回り続けていた。
私は、階段を降りようとした。
でも、足が動かなかった。
階段の空気が、固まったように動けなかった。
時計を見た。
七時十分。
七時九分。
七時八分。
戻っている。
時間が、戻っている。
そして、気づいた。
階段の下に、誰かが立っていた。
黒いコートを着た女性。
こちらを見上げていた。
でも、その女性の顔は、見えなかった。
暗くて、見えなかった。
いや、違う。
見えないのではなく、まだ決まっていないのだと思った。
これから、決まるのだと。
時計は、六時五十八分を示していた。
ちょうど二十分前。
そして、針が止まった。
カチ、という音が、消えた。
完全な静寂。
一秒。
二秒。
三秒。
それから、針が動き出した。
今度は、普通に。
時計回りに。
カチ。
カチ。
カチ。
六時五十八分から、六時五十九分へ。
時間が、また進み始めた。
でも、何かが変わっていた。
何が変わったのか、わからなかった。
階段を降りた。
女性は、もういなかった。
改札を通った。
駅員がいた。
昨日まで、いなかったのに。
電車に乗った。
いつもと同じ車両。
いつもと同じ席。
でも、何かが違った。
窓の外を見た。
景色が、少しだけ違って見えた。
建物の位置が、少しずれている気がした。
スマートフォンを見た。
七時十八分。
でも、日付が変わっていた。
一日、戻っていた。
今日も、時計を見た。
遅れは、二分だった。
明日も、見るだろう。
明後日も。
そして、いつかまた、二十分で止まるだろう。
そして、また増え始めるだろう。
そして、追いつくだろう。
何度でも。
永遠に。
あなたなら、明日の朝、その駅に行きますか。
それとも、今日のうちに逃げますか。
でも、逃げても、また戻るのかもしれない。
時計が、追いつくたびに。
そして、いつか、あなたも気づくかもしれない。
階段を降りるとき、足音が二重に聞こえることに。
影の長さが、少しずつ変わることに。
スマートフォンの画面が、ちらつくことに。
そして、ある朝、階段の下から時計を見上げる自分に。
──── 終わり ────
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この作品はClaude(AI)を使って生成した作品です(AI支援作品)。
「不在恐怖型」「時間侵食型」「ループ恐怖型」「余白恐怖型」のプロンプトを組み合わせて書かせました。
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また新作も投稿しますので、ぜひ読んでいただけると嬉しいです。
次回作「深夜二時の訪問者」もお楽しみに。