亀有の夕方は、妙に湿っぽい。
夕焼けが商店街の屋根にへばりついて、まるで街全体が赤く錆びているように見える。
人間の欲や嘘が染みついた街には、こういう色がよく似合う。
わしは派出所の机の前に立っていた。
胸ポケットには――
辞表。
辞めようと思ったのだ。
なにしろ金がある。
10億どころの話ではない。
いや、本当の話を言えば、もっとある。
もっと、もっと、もっとある。
地下シェルター。
一万円札の海。
あの光景を思い出すと、今でも頬がゆるむ。
人間、金さえあれば大抵の問題は解決する。
少なくとも、わしはそう信じている。
だから警察なんぞ辞めて、世界中を豪遊する。
そう決めていた。
その時だった。
電話が鳴った。
亀有警察署からだった。
「両津巡査長、取り調べをお願いしたい」
わしは眉をひそめた。
「わしが?」
「ええ。最近この周辺で心臓麻痺の死亡が続いていまして」
その時、わしは思い出した。
そういえば最近ニュースでやっていた。
ヤクザ。
半グレ。
闇金。
そういう連中が、なぜか次々に
心臓麻痺で死んでいる。
だがそのときのわしは、そんなニュースを真面目に聞いていなかった。
なにしろ忙しかったのだ。
10億円を使うのに。
だが――
その瞬間。
わしの頭の中で
電球が点いた。
ピカッと。
そうだ。
これはどう考えても――
わし以外にデスノートを拾った人間がいる。
そう考えるのが一番自然だ。
デスノート。
あんな便利なものが
一冊だけのはずがない。
そして。
これから会う人物。
闇金。
カウカウファイナンス。
丑嶋馨。
裏社会では有名な男だ。
そして。
死んでいる人間は
ヤクザ。
半グレ。
闇金関係。
つまり。
丑嶋に都合が良すぎる。
ここまで条件が揃えば、答えは一つだ。
――あいつだ。
わしはニヤリとした。
面白い。
実に面白い。
デスノートを拾った人間同士の心理戦。
こんな娯楽は滅多にない。
そして――
亀有警察署。
取り調べ室。
薄暗い部屋だった。
机と椅子。
蛍光灯。
安っぽい壁。
その向こうに座っていたのが
丑嶋馨だった。
坊主頭。
メガネ。
巨大な体。
目つきは、まるで人を値踏みする肉屋のようだ。
丑嶋が言った。
「よぉ、聞いてくれよ」
足を組む。
「俺は何もしてないのに連行されて取り調べだ」
「日本の警察はどうなってるんだ?」
わしは椅子に座りながら言った。
「わしもやりたくてここに来た訳じゃない」
腕を組む。
「わしも昔は暴れん坊だったからな」
「気持ちは分かる」
机の上の資料を叩く。
「事件が起きればわしのせい」
「警察ってのはそういうもんだ」
そしてゆっくり言った。
「今回の件はさっき聞いた」
「カウカウファイナンスに有利な心臓麻痺が起きているそうだな」
目を細める。
「何か知っているか?」
丑嶋は肩をすくめた。
「知らねえよ」
「というか」
「俺たちはアリバイがある」
「どうやって殺せばいいんだよ?」
丑嶋の目は冷たい。
「誰も俺たちが殺したところを見てない」
「死んだ時、俺たちは別の場所にいた」
「ひどくないか?」
わしは頷いた。
「ひどいな」
机に肘をつく。
「大丈夫だ」
「逮捕はできない」
「証拠がない」
「だから任意の取り調べだ」
ニヤリと笑う。
「仕事だから付き合ってくれ」
だが心の中では違うことを考えていた。
――やはりデスノートだ。
こいつは
アリバイのある時間に死ぬように操作している。
つまり。
完全犯罪。
だがそれは同時に
デスノートを使っている証拠でもある。
そして。
こいつは分かっている。
どれだけ疑われても
証拠がない限り逮捕できない。
だから。
好き放題やる。
合理的。
実に合理的だ。
丑嶋が舌打ちした。
「チッ」
「任意って建前だろ」
「実質強制じゃねえか」
そして突然言った。
「ところであんた」
「最近10億円手に入れてるんだってな」
わしの目を見る。
「人殺したことあるだろ」
部屋の空気が一瞬止まった。
わしは言った。
「する訳ないだろ」
丑嶋が睨む。
「嘘だな」
わしは聞いた。
「なぜそう思う?」
丑嶋は言った。
「俺は裏社会の人間だ」
「たまたま10億とか信じねえ」
「こういうのは大抵」
「人の死がつきまとう」
沈黙。
そして丑嶋は言った。
「だがまぁいい」
「俺には関係ない」
椅子にもたれる。
「俺はあんたが敵にならなきゃ何もしない」
「だから」
目を細める。
「あんたもだろ?」
わしは答えた。
「そうだな」
「犯罪をしない限り」
「警察は介入しない」
だがその瞬間。
わしの頭の中で
別の計算が動いていた。
――まずいな。
この男はこれから
デスノートで人を殺し続ける。
そうなれば
いずれ誰かが気づく。
あるいは
第三のデスノート。
それが現れたら――
状況はカオスだ。
だが。
次の瞬間。
わしは
とんでもないことを思いついた。
そうだ。
逆に利用すればいい。
丑嶋に疑惑を向ける。
そして。
アウトローどもに言う。
「お前ら次に死ぬぞ」
「助かりたければ金を払え」
つまり――
恐怖ビジネス。
デスノート便乗商売。
わしは心の中で笑った。
――わし天才か。
この街には
死神より恐ろしいものがある。
それは。
金に目がくらんだ人間の頭脳である。