前回の投稿3ヶ月前
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やっべ。
秒針の時を刻む音がよく響く。
薄暗く、無機質な部屋。
中心に設置された机を挟むように置かれた二つのパイプ椅子。
その椅子に腰掛ける2人の男。そして壁にもたれ掛かる若い男がもう1人。
どちらも何か言うわけでも無く、ただ沈黙がその場を支配していた。
すると片方の男が耐えきれなくなったのか、それともただ口が寂しくなったのか、懐からタバコを取り出した。
鋭く短い摩擦音。
僅かな火花が奔り、直ぐに緩やかに揺らめく小さな火へと変わる。
ゆらり、ゆらり。
小躍りする火に男は手慣れたように咥えた煙草を突き刺す。その火はを焦らすようにゆっくりと煙草へその分け身を移していく。
じわり、じわり。
だが男は焦らない。それどころかそのもどかしさすら楽しむように、咥えた煙草を静かに一吸い。
男の呼吸に呼応して煙草の火は鮮やかな赤を煌らせる。
こうなればもう揺らめいた火に用はない。強く金属音を響かせて、一気にその火を鎮める。
そしてもう一度煙草を咥えて深呼吸。
喉を焼く主流煙で肺を満たし、しみじみと味わい尽くしながらもの惜しそう煙を吐いた。
「どうした?遠慮せずに食いなさいよ」
煙草を咥えた男が言う。
しかしその男の机を挟んで対面に座るもう1人の男は微動だにしない。
気怠げな雰囲気隠そうともしないその男は小指で鼻をほじりながら死んだ魚のような覇気のない目で机に乗っているものを見ていた。
卓上ライトに照らされた、大きめなうんこのようにとぐろを巻いた白色が乗っかった丼ぶりを。
「食えも何も、こんな得体の知れねぇモン食えとか新手の拷問ですか?何コレ?マヨネーズに恨みでもあんの?」
「カツ丼土方スペシャルだ。取り調べ室っつったらこれだろ」
「何処の世界にこんな可哀想なカツ丼を食わされて罪自白する犯人が居んだよ。罪自白させる前に腹から別のもん自白させるつもりかよ」
カツ丼と言われたその丼にカツの姿は見えない。
ただただ見ているだけで口の中が酸っぱくなりそうなほど過剰なマヨネーズがうんこのようにとぐろを巻いている。
「やめてくんない?さっきから土方スペシャルをうんこのようにって例えるのやめてくんない?」
「いや実際うんこだろ。産業廃棄物だろ」
「テメーは年がら年中糖分摂ってるようなバカ舌だからわかんねーんだよ。どーだ総悟オメーならこの旨さ分かるだろ」
壁にもたれ掛かっていた若い男へと声をかける。
「流石でさぁ土方さん。カツ丼を犬の餌に昇華させるなんざ他の誰にも出来やしやせんぜ」
「どいつもコイツも..。折角出前とって奢ってやったってのに何だこの敗北感」
だが仲間からも同意の声を得ることが出来ずに男は拗ねるように煙草を吸う。
ここは泣く子も黙る真選組の屯所、その中に在る取調室である。
取り調べを受けているのは万事屋、坂田銀時。
そしてその対面で可哀想なカツ丼を提供していたのが沖田の上司、鬼の副長土方十四郎だ。
二枚目な顔つきとは裏腹に鬼の如く攘夷志士を斬り伏せる剣の腕は凄まじく、また真選組を引き締める局中法度を考案した規律の鬼でもあり敵からも味方からも恐れられるこの男。
どんな食べ物にも過剰な程にマヨネーズをかけるという頭のおかしい究極な偏食家なところが残念ポイントではあるが、そこはひとまず置いておこう。
「まぁいい..さっさと本題に移ろう。テメー総悟に吹き込まれたそうだが、アレ全部忘れて手を引け」
「んだオイ?勝手に人を巻き込んでおいて都合のいい話だな。その感じじゃテメーもあそこで何が行われてるのかしってんじゃねーの?目の前で犯罪が行われてるっつーのに知らんぷりたぁ大層な役人さんだな」
ぴっ。と小指を弾く銀時。
「いずれ
土方の物言い。まるで全容を掴んでいるかのようなその言動に沖田が反応する。
「土方さん、アンタひょっとして全部つかんで..」
「..近藤さんにゃ言うなよ。あの人に知れたらなりふり構わず無茶しかねねぇからな」
沖田へと釘を刺すように告げる土方。
「煉獄関はな、天導衆っつー幕府を傀儡にしてこの国の実権を握ってる奴らの悪趣味な遊び場なんだよ。下手につつけば俺達みな明日には晒し首さ」
「やだやだ..おっかなくていけねぇや」
「それだけでも厄介極まりねぇが...奴等あの遊び場でとんだ大物を玩具にしてやがった」
「大物?」
片眉を上げた銀時。
土方はすっかり短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
「"鬼緒方"って知ってるか?」
土方の問いに目を細める銀時。
「攘夷戦争時、あの桂や高杉供と肩を並べるほどの戦果と名を挙げた攘夷志士。噂じゃ攘夷戦争の激戦初期から終結まで突っ走ったとか言われてるやつさ」
鬼緒方、その名を銀時は知っている。
攘夷戦争時、戦地が違った為その姿をみることは無かったが自分達が戦争に参加する前から轟かせていたその名は最早志士達の間でも都市伝説のような形であらゆる噂が広まっていた。
たいして興味のない話であった為当時は話半分程度でしか聞いていなかった。
その存在を明確に認識したのは激戦地姉小原での戦いの後。
四方八方から襲いくる一橋派の幕府の軍勢に手を焼きながらも銀時や桂達が属していた攘夷勢が辛くも勝利を掴むことができた戦い。
その後に馴染みである桂から聞かされたことだったが、あの戦いには一橋派の無数の天人の増援が向かっていたとのこと。もしその増援があれば戦いに勝つことは愚か、全滅も十分あり得た..恐ろしい話だ。
だが、その増援は来ることはなく。
天人の軍勢は姉小原へと辿り着く前に敗走していたと桂から聞いた。
そしてその増援を急襲していたのがその鬼緒方の率いる部隊だったらしい。
顔も声も知らない。姿形も知らない。
ただ、無慈悲で苛烈な戦いの噂だけが銀時の知る鬼緒方だ。
「待ち伏せ。闇討。毒。その戦い方は凡そ侍とは言えぬほどに誉はなく、ただ勝つためだけに何でもやる。こと戦いという場になれば桂よりも危険かもしれやせんねぇ」
「武士道と誉を重んじていた初期の討幕派の中では異質な存在で、後から参戦した攘夷志士の戦い方にも与えた影響は計り知れねぇ」
すると沖田はあることを思い出す。
「しかし土方さん、鬼緒方は相州の方で捕縛されて粛清された筈じゃ?」
「表向きはな」
沖田の質問に土方は端的に答えた。
「だが裏じゃ奴の戦場での戦いの腕を買われ煉獄関で闘士として戦わされてるって訳だ。お前たちも目をつけてた花形、"鬼道丸"としてな」
不思議と銀時に驚きはなかった。
寧ろ点と点が繋がったような妙な納得感。
銀時の脳裏に思い出されるは二つの姿。
闘技場で一振りの元に牢人を叩き潰していた鬼の仮面を被った鬼道丸という闘士。
廃寺にて多くの子供に囲まれていた名ばかりの道信という尼僧。
この二つの正反対の顔を持って生きる緒方紅葉という自罰的な女。
人ではない生き方だとつくづく思う。
顔を合わせて話してわかる。あれは過剰な程に自分を嫌い、自分を責め続けている。瞳の奥に見た昏いものはただただひたすらに自分というものに価値を見出していない。
それでもあの命を繋ぎ止めているのはあの寺の子供達の存在なのだろう。
「総悟も言ったが、鬼緒方は勝つ為ならば"何でもやる"化け物だ」
犬猿の仲とも言える土方が銀時の目を見て忠告する。
「十年の戦争を生き抜いた一騎当千の鬼。それも相手にするとなりゃ下手に薮を突けねぇんだ。だからお前らは一度手を引け」
彼の忠告に銀時は何を言うことはなく。
ただ、小指の鼻くそを土方スペシャルへ弾いた。
雑木林の木々がざわめく。
鴉が哭き、されど虫の声がうるさく聞こえるほど辺りは静寂だ。
街のような人の喧騒はない。
あるのは子供達の泣き喚く声だ。
「諭吉、貴様の所為だ。貴様が余計な真似をしなければもう少しだけはままごとを続けてやったものを」
「せ..せんせい?」
その林に佇む廃寺の庭、そこで道信が子供を見下ろしていた。
彼女の射殺せそうなほどに鋭い眼光の先には障子を突き破って庭へと投げ出された諭吉。首を手で抑え軽く咳き込んでいるあたりどういう風に投げ出されたのかは想像に難くない。
そして彼の何をされたのかわからない、信じたくないといった感情は表情にありありと現れていた。
「まぁいい..お前に関してはそろそろいい頃合いだと思っていた。他はまだ若すぎるかもしれんが..まぁ買い手はいくらでも付くはずだ」
いったい..何を言っているんだ?
買い手とは何か、若すぎるとは?
諭吉の脳内にぐるぐると巡り思考がまとまらない。否、子供にしては聡い彼は言葉の意味することはすぐに分かる。
ただ理解を拒んでいた。
「先生..?嘘ですよね?」
「ああ、嘘だ」
縋るような諭吉の問いに道信が肯定する。
「今まで私がお前達に見せていた物全ては嘘。どうだ?上手いこと優しい人間に見せれたろう?」
しかし、その肯定は諭吉の求めるものではない。
「お前達のような身寄りもない子供は少し優しくすれば簡単に寄ってくる。鬱陶しいことこの上ないがお陰で苦労もなく集められた」
誰だ。
先生はこんなことを言わない。
「お前達は足がつかない安全な商品、それ以上の価値などありはしない」
やめろ。
そんな風に嗤わない。
先生がこんなことする筈がないんだ。
「さぁ、行くぞ」
放心する諭吉へと手が伸びる。
まるで物を掴むような優しさのかけらも無い手が。
────ほあちゃぁ!!!
身動きできない諭吉の横から飛び出してきた脚によってその手は阻まれる。
「パスタぁ!!早く子供達を連れて逃げるアル!」
手を蹴り飛ばした勢いのまま諭吉と道信の間へと滑り込む神楽が声を張り上げて指示を出す。
「待って神楽ちゃん!まだ訳が..!」
「訳もクソもないアル!今はとにかくコイツから子供達を離すことが第一ネ!早く!!」
「..わかった!無茶しないでよ!」
一喝され新八も動き出す。
腰を抜かし動けないでいた諭吉を抱え駆け足で寺へと向かう。残りの子供達も連れて行く気だろう。
そうはさせまいと道信が身を翻そうとするも、
「ほぁたぁ!!」
襲いかかる神楽の手によって妨げられる。
脳天を目掛けて降った番傘だが当たる直前に左腕を滑り込ませて受け止められた。
「これはこれは、いつぞやの万事屋さんじゃないか。また他人様の家を覗き見ていたとは..随分と悪趣味な暇人のようだ」
「どこぞのストーカー達と一緒にすんなヨ。こちとら仕事で張り込みしてただけヨッ!」
すぐさま神楽が腹部目掛けて横蹴りを放つ。
空気の破裂するような音が響き、六尺もある巨体を数メートル吹き飛ばす。
宇宙最強と名高い傭兵部族の夜兎である神楽の膂力は伊達ではない。岩も楽に砕き、走り出したスクーターも片手で引き留める程の怪力は凄まじい物だ。
その上で、そんな神楽に蹴られて尚、道信は数メートル
「....ッ」
神楽が警戒の度合いを引き上げる。
先程の蹴りの感触はまるで鋼鉄のように固く、なのに羽のように軽いという不可思議な物だった。
軽く吹き飛んだ道信を見れば腹部を覆っていた右腕に自身の靴の跡がついている。
防がれた、しかも恐らくは衝撃もほぼ完璧に流されているだろう。
「その番傘にこの怪力..もしやとは思っていたがやはり夜兎か。しかもよほどの良血と見える」
鋭い切れ長の目が、神楽を捉えた。
身体が脳を介さずに勝手に構える。夜兎の本能か..いや生き物としての生存本能か。
目の前の人間が己をおびやかす脅威と認識したのだ。
「なんでこんな事..!」
「さっきの話を盗み聞いていたのではないのか?煉獄関には人売りが集まることも多い、アレらはそいつらへ下ろす為の商品にすぎん」
蹴られた右腕を軽く振るい、淡々と語る道信。
神楽はその一挙手一投足を警戒しつつ彼女を睨みつけたまま。
「お前達にも見えていたか?私が無償で子供を養うような良い人間に。ならば私の演技力も捨てたものではないな」
口端を釣り上げ道信が嘲笑う。
「まさか私が本当に何の見返りもなくあれらを庇護していたと?本当にそう考えていたのならよほどおめでたいな小娘」
「────..」
「お前のような子供には分からんかもしれんがな、世の中人情でやっていけるほど甘くはないんだよ..裏も表もな」
「オマエ...」
神楽にとって家族とは大事な物で、幸せな物だ。
いつも貧しく、生活が裕福なことなんてなかった。父は常に家に居なく、兄は喧嘩に明け暮れ、母は病に侵され常に床に伏せていたのが幼きころの彼女の家族の形。
それでも、確かに幸せがあった。
裕福でなくても、余裕がなくても。
母が目一杯愛してくれたから、皆家族でいられた。
滅多に帰ってこない父も、喧嘩ばかりで怪我の多い兄も、母には頭が上がらない。
怒ると怖いけれど、それ以上に優しく暖かく包み込んでくれた。家に帰ればベッドの上からだけど優しい声と笑顔でおかえりと言ってくれた。
今はもう壊れてしまったけれど、あの時の家族の形は神楽の胸の奥底に強く刻み込まれている。
だからこそ。
あの日の家族の形を追いかける彼女にとって道信の嘘は許せるものではなくて。
「さぁ退け。今この場から消えるならば、見逃してやる」
母の愛を目一杯に受けてきた神楽だからこそ、
「────オマエ、何でそんなウソつくアルか」
緒方紅葉の嘘を見逃さない。
「...理解力がないのか?子供達を集めてまとめて売る為に」
「それが嘘だって言ってんダヨ。演技がどうとか言ってたけどオマエウソも演技も下手くそネ」
切れ長の目がすうっと細まる。
「私は確かに小娘アル。オマエや銀ちゃんみたいに世の中のこといっぱい知ってる訳じゃない。けれど子供には子供なりに見えてるモンがあるアル」
鋭い眼光を神楽は臆せず真正面から受け止める。
「オマエと銀ちゃんがあの日何の話してたなんか知らない。けどあの日、子供たちを見ていたあの日のオマエの目は、私のマミーと同じだったヨ」
「..くだらない」
「下らなくない!マミーが私を見てくれていた時と同じ目をしてたオマエがあの子供達を愛していない筈がないアル!!」
まっすぐ、思いの丈をぶつける。
姿形が似ているわけじゃない。だがあの日、神楽は確かに自分の母が向けていてくれた物と同じ物を彼女の内に見ていた。
「もう一度聞くアル。なんでこんな嘘付くアルか..こんなのオマエが辛いだけアル」
「....」
「子供達皆泣いてたヨ。聞こえてた筈でショ」
わずかに道信の瞳が揺れるのが見えた。
だがその瞳を閉じ、静かに深呼吸をすれば
「..もういい。お前もあの小僧もまとめて潰す」
また道信の目に戦意が募り始めていく。
確固たるその戦意に神楽はこれ以上の説得は無理だと悟る。
「この分からずヤ!!」
声が届かないのなら、言葉で止まれないのなら。
己が拳でその目を覚ましてやる。
神楽は地を爆ぜさせて道信へと肉薄する。その速度は稲妻の如く速く、瞬く間に道信の懐へと入り込む。
力一杯握り込む拳、狙うは鳩尾。
先の攻防で手加減する余裕がないのは十分分かっている。故に彼女は全力で拳を叩き込んだ。
大気が弾ける。
甲高い音が暗い雑木林に響く。
紛れもない夜兎の本気、普通ならば終わりのはず。
だが相手は
「ウソ..!?」
本気で叩き込んだ自身の拳、それが一回りも大きい道信の掌によって鳩尾に届くことなく阻まれていた。
「流石に強いな..力比べでは其方に分があるか」
握られる拳。伝わるその握力に神楽はまんまると目を見開いて驚いた。
本当に地球人かと疑いたくなるほどの膂力は彼女の拳を掴んで離さず、押しても引いてもびくりとも動かせない。
こんなことは神楽にとって初めての経験だ。
ただ、それで終わる神楽ではない。
片腕が動かせないならばもう片方を動かす。番傘を強く握り込み、側頭部へと思いっきり振り抜いた。
道信の持つ凄まじい膂力はたしかに桁外れだ。
それでも地球人と夜兎。
その差は決して小さい物ではないはず。
少なくともこの近距離戦、ましては相手は得物もない無手だ。分があるのは此方の筈なんだ。
そして勢いよく空気を切り裂く傘が道信の頭部へと叩き込まれる刹那。
────世界が回った。
突如背中に襲いくる強い衝撃に神楽はか細い声と共に肺の空気を吐き出してしまう。
何が起きたのか。何をされたのか。
攻撃を仕掛けていた筈の自分が逆にいつの間にか地面に転がされていたことに、神楽は今ようやく気がついた。
「この..イッ!?」
すぐさま立ちあがろうと身体に力を入れる。
だが未だ掴まれていた拳を基点に手首を捻られた。
ただそれだけのことで不思議なことに神楽の身体は石化したかのように身動きが取れなくなる。
夜兎の身体を持つ神楽がだ。
「無理に動くな。関節が外れるぞ」
見下ろす道信が言う。
それでも尚、神楽は力を込めるのをやめない。関節が軋み、歯を食いしばって無理矢理身体を動かそうとする神楽。
僅かに頭が地面から離れたところで、道信は突然神楽の手を離した。
突然自由となった神楽はすぐに体を起こして後ろへ飛び退がる。
「無茶をする..」
肩、肘、手首。それぞれの関節を手早く確認済ませ神楽は身構えた。
頬を伝う冷や汗が嫌に冷たい。呼吸が僅かに早まる。
単純な力ならば大きな差がないがそれでもこちらに分がある..なのに、あんなにも簡単に押さえつけられた。
単純な力じゃない。今この場では埋められない大きな差が自分と道信にあり、それが一瞬で理解させられた。
夜兎と地球人の差程度ではない大きな差が。
勝つ為ならば、目的を果たす為ならば、何でもやる化物"鬼緒方"。その評価は相違なく。
卑怯千万。外道。彼女の戦いを評すればそんな言葉が似合うものばかり。
だが、何でもやるということは"何でも出来る"ということ。
幼き頃から父に見てもらいたくて愚直に続けてきた修練。
攘夷戦争と煉獄関にて培った20年近くにも及ぶ殺しの経験。
その歳月は、最早彼女をかつての武才のない子供では居させなかった。
剣の振り方。
無手での戦い方。
毒の扱い方。
人の殺し方。
ありとあらゆる物が彼女の身体の中に積み重なる。
"百戦錬磨の武芸百般"
それが鬼緒方を形作る物だった。
僕は今自分の目を疑ってしまった。
神楽ちゃんが傘で攻撃した筈だったのに。攻めていたのは神楽ちゃんだったはずなのに。
傘が道信さんへと届くよりも前に、突然神楽ちゃんの身体がまるで独楽のように宙を回って地面へと叩きつけられたんだ。
こうして外から見ていた僕ですら何をされたのか分からなかった。ただ掴んでいた神楽ちゃんの拳を僅かに捻ったように見えただけで、ああも簡単に投げられるなんて。
今も道信さんの拘束から抜け出した神楽ちゃんが何度も拳を振りかぶって襲いかかるけれど、その度に何度も地面へと投げられている。
背負うように。
押し倒すように。
流れるように。
有り余る神楽ちゃんの力を余すことなく利用して。
あの神楽ちゃんがまるで子供扱いのように組み伏せられている。
「凄い..」
僕はつい言葉を溢してしまった。
無駄のない動きに。美しさすら感じられる流麗な体捌きに。
「先生...」
腕の中、諭吉君の声に僕は我にかえれた。
何をやっているんだ僕!神楽ちゃんが彼女を引き付けているんだ、今はとにかく子供たちをここから逃さないと!
頭をふり、やるべきことをやるべく諭吉くんを抱えたまま僕は寺の中へと駆け込んだ。
「皆!今すぐ僕と一緒にここから逃げよう!」
寺の中にいる子供たちにそう声をかける。
「....」
でも寺の中にいる子供たちはみんな動こうとしなかった。泣きじゃくっている子もいる。怯えた様子の子もいる。
なのにみんな立ち上がる様子も見せない。
「..ど、どうしたのみんな..?さぁ早く」
「...行かない」
僕の言葉にはっきりと答えたのは、諭吉くんと同い年くらいの女の子..たしか左内ちゃんと言ったか。
「どうして..!?」
「だって、ここが...先生が私たちのかえる場所なんだもん..!先生のいない場所になんていけないよ..!」
目尻に涙を目に浮かべながらも左内ちゃんが言った。
左内ちゃんだけじゃない。
みんな、彼女と同じ思いだと目で訴えてくる。涙を浮かべながら、怯えを孕みながら、その奥では道信さんをまだ信じている。
ああ..そうか。
僕は道信さんがこの子達は孤児だって言ってたことを思い出した。
そうだよ。
親もいないこの子達にとって、手を差し伸べてくれた道信さんのいる所が最も安心できる場所なんだ。
きっと裏切られたなんて微塵も思っていない。
思えるわけがないんだ。
「おれのせいだ..。おれが..余計なことを..」
僕の腕の中にいる諭吉君が力無く呟いた。
弱々しい声とは反面、彼の小さな手は力強く握り込まれている。
「君のせいなんかじゃ..!」
「おれなんだよ!!おれのせいなんだ!じゃなきゃ先生があんなことするはずない!!優しい先生が..あんな風に嗤ったりしないんだ!」
自分を責める諭吉くんの言葉に僕は思わず言葉が詰まってしまう。
その時、
「ごめん兄ちゃん!」
なぜか諭吉くんが謝った。
───かと思えば突然、僕の股間から激しい衝撃が一気に脳天にまで駆け抜けた。
男ならば考えるだけで誰でもすくみ上がるその痛みに抗うことなど出来ず、思わず変な声を漏らしながら、みっともなく白目を剥いて疼くまる僕。
腹の奥にまで響く抗いがたい鈍痛に体から力が抜けて、僕の腕から諭吉くんが離れていく。
「ごめん..!でもおれ行かなくちゃ!」
待って。
そんな言葉が声に出来ない。
知ってるんだ。
あの日、銀さんと共にあの人の本心に触れた僕だけが、この道信さんの凶行の意味を。意図を。
道信さんの想いを。
痛みを堪え、震える手を伸ばすけれど駆けていく諭吉くんの背に届かせることは出来なかった。
神楽が勇ましい声を上げて拳をふるう。
道信は顔目掛けて振るわれたその拳を僅かに顔をずらすだけで躱し、その勢いを利用して神楽を地面へと背負い投げた。
「──っま..だぁ!!」
叩きつけられ、呼吸に詰まりながらも神楽はすぐさま立ち上がり道信へと立ち向かう。
そしてまた地面へと投げつけられた。もう何度投げられたか分からぬ程に投げられ、その度に立ち上がる。
幾度も投げつけられ。
その度に立ち向かう。
彼女の眼は折れることなく。
鉄の意志は曲がることはない。
「..いい加減にしろッ!!」
声を荒らげた道信が神楽の顔と右腕を鷲掴み、林の方へと乱暴にぶん投げた。先ほどまでの卓越した技術ではなくただただ力任せにぶん投げたのだ。
所狭しと並ぶ木々を容易くへし折りながら神楽は雑木林の向こうへと消えた。
だがそのすぐ後、へし折られた木々によって立ち込めた土煙の向こうから番傘が道信の眉間目掛けて弾丸の如く勢いで投擲されてきた。
間髪入れずの反撃に道信は動揺することなく番傘を固めた拳ではたき落とした。
その僅かな隙をつくように土煙の向こうからさらに大きな影が空気を切り裂いてこちらへと飛び込んでくる。
木だ。
へし折られたマテバシイの木がぶっ飛んできた。
立派な葉の冠を携えた大きな木がとんでもない勢いで飛んでくる。そんな冗談みたいな光景にしても尚、道信の顔色は変わらない。
握っていた拳をさらに握り込み、弓のように懐へ引き込む。
ところどころ血管が浮かび上がり、上腕と前腕の筋肉が僅かに肥大。
地面が軽く割れるほどに強く踏み込んで、
そして鼻先三寸ほどにまで迫った木に向かって、拳を思いっきり振り抜いた。
するとどうだ。
へし折られても尚大人の背丈以上あった木がその威力に耐えきれず、拳の叩き込まれた場所から裂け、砕け散ったではないか。
割り箸でも砕くのように容易く。
御伽話の鬼にも勝るとも劣らない怪力だ。
それでも不覚を取ったのは道信の方だろう。
なにせ彼女の懐には既に神楽が入り込んでいたのだから。
拳を振り抜いた姿勢の道信の鳩尾めがけて今度は神楽が拳を振り上げる。
夜兎の振るうその恐ろしいそれを無理に身体を捻ることで直撃を避けるも、重心がずれて体勢が崩れた。
「隙アリ!!」
神楽は流れるように足元へと身を屈め、道信の脚を蹴り払う。
突然脚という支えをなくした道信が叩きつけられるように背中から地面へ倒れ込んだ。
一呼吸つくまもなく道信が立ちあがろうとするも、それよりも早く神楽は動いていた。
道信の硬い腹部へ跨り、両腕を掴みとって全体重をかけて地面へ押さえつけた。
俗に言う馬乗り、マウントポジションである。
「捕まえた!!これでもう何も出来ない!!」
マウントポジション。
近代格闘技において勝利の道筋としての究極系の手札。さらに夜兎の膂力が上乗せされればそこから脱するのはそれこそ同じ夜兎族の者でも至難を極めるだろう。
「さぁこんな茶番もうお終いアル!!こんな辛いだけのウソなんか..!」
「しつこいぞ小娘..お前達に何の関係がある。ここから失せれば見逃してやるというのに..!」
「関係ならある!もう私はあの子供達と一緒に遊んだ!友達アル!!」
神楽の言葉に道信が目を見開き、息を呑んだ。
「またお手玉一緒にやろうって約束したんだヨ..!万事屋に来てくれるって言ってたんだヨ..!オマエと一緒に来てくれるって!」
道信の腕を抑えつける彼女の手が震え、
「いっぱい笑ってたアル..!こっちも楽しくなっちゃうくらいに目をキラキラさせて笑ってたのに..!」
まんまると大きな瑠璃色の眼を揺らす。
「泣いてるんだヨ!?オマエが泣かせてるんだヨ!!分かるデショ!!なんでこんなことしてるんだヨ!なのになんで..オマエも辛そうな顔をしてるんだヨ!!」
その声に、言葉に、頭を強く打ち付けられた。
大きくて綺麗な彼女の瞳に己の顔が映る。
あぁ。
酷い顔だ。
己は感情があまり外に出ない人間だと思っていた。
子供達にも、勘十郎にも、もっと表情を動かした方がいいと言われたこともある。笑えと言われて笑ってみてもみんな苦笑いするばかりだった。
..存外こんなにも分かりやすい顔もできるものだ。
頭の片隅でそんな呑気な考えが浮かぶ。
「オマエが悪いヤツじゃないことなんてバレバレなんだヨ。子供ってのは素直アル、みんな心からオマエのこと信頼してた。みんな心からオマエのことがスキだった。そんな奴が悪い訳がないアル」
柔らかでけれどまっすぐに心をぶつけてくる。
それはもう眩しいくらいにまっすぐだ。
「もうやめヨ?困ってるなら..助けが欲しいなら..。私達が助けになるアル。だって私達は万事屋だから」
「───..」
「全部..話してヨ」
「───..貴方達は人が良すぎる」
言葉が溢れた。
「良い人だ。あの子達の友だと言ってくれたこと心から嬉しく思うよ」
本心が声になる。
「だからこそ」
そして
「これ以上巻き込む訳にはいかない..!!」
決意は揺らぐことはない。
神楽が押さえつけていた筈の両腕が僅かに動き始める。
「──ッやめるアル!!これ以上は..!!」
「もう悩んでいる暇はないんだよ..これから先は私だけが受ける罰なんだ。私だけが地獄へ帰ればいい!もう誰も巻き込むわけにはいかない..!!」
「何を..!?」
あらゆる場所に血管を浮かび上がらせて、桁外れの膂力で押し上げてくる。全体重をかけて抑え付けても尚道信を抑えるに至らない。
嘘でショ...!?全力で抑えてるのに..!!
内心驚愕と焦りを募らせながらも神楽は負けじと地面へと押し返す。
力は互いに拮抗し合い、震えが止まらない。噛み締める顎は軋み、神楽の顔は力を入れすぎて赤くなっていく。
対する道信も力みによって腕だけでなく額にまで血管が迸る。
「止まレ..!」
「あの子達は..!私なんぞと共に居てはいけない..!!一緒には生きられない..!!」
「なんで..!?家族でショ!!」
「家族になど...!なれはしない!!なってなどいけない!!」
神楽の全力、夜兎の全力で抑えつけている筈の道信の身体が徐々に起き上がってくる。
両者共に余裕など微塵もない。全身の筋肉の繊維一本に至るまで力を抜くことはできない。
「もう誰も私の咎で...!!死なせたくない!!!」
神楽が押し返される。
馬乗りという圧倒的な優位勢を保ちながらも尚、押し返されていく。
力が、気迫が、想いが、彼女を上回っていく。
それでも。
いやだからこそ。
今ここで負けるわけにいかない。
この想いを認めるわけにはいかない。
限界を超えて地面へと押し返す。
体の節々から嫌な音が聞こえるのを無視して押し続ける。
視界が明滅するほどに力を入れ続けて抑え続ける。
何を考えているかも知らない。何を抱え込んでいるのかも知らない。けれどこの人はここで食い止めなければ、ここの家族の形が崩れてしまう。
過去にそれを経験したことのある彼女だけが直感で感じ取っていた。
「ふんぬぅぅぉおおおッッ!!!」
足りない力を補うが如く声を張り上げたその時。
神楽は宙を舞っていた。
───やられた。
もう何度も投げられたから、何をされたのかはもう分かる。
地面へと押し続けていた自らの力の向きを変えられたのだ。
掴まれていた腕をずらすような形で。
突然力の向きを変えられれば重心もずれるし、簡単に体勢が崩される。ただ当然それだけで投げられる訳がない。
足だ。
崩れたその瞬間、重心の動いたその瞬間に道信は自身の足を神楽の腹部へ滑り込ませ、巴投げのような要領で蹴り上げたのだ。
結果、押し付けていた神楽の膂力の向きと道信の蹴り上げの向きが噛み合うことで神楽は宙を舞うように投げられた。
しかしとて地面へ投げ出されるも受け身は取れた。痛みも何もない故に問題はない。
「先生ぇ!!!」
だが転がりながら体勢を立て直す神楽の横を小さい影が走り過ぎていった。
子供、諭吉が走り抜けていった。
「ダメ!!戻るアル!!」
完全に予想外の行動に神楽は反応が遅れる。
慌てて手を伸ばすももう遠く、道信の側へと駆け寄っていったのだ。
「何やってるアルかぱっつぁん!!何でまだ子供達と逃げてないアル!!」
「ご...ごめん..!!」
子供達を任せていた筈の相方へ目を向ければ何故か顔色を悪くして股間を押さえながら地面に蹲っていた。
神楽はそんな新八を気遣う素振りも見せずにすぐに立ち上がって道信のもとへと走る諭吉を追いかける。
動揺する気持ちも、信じたくない気持ちも痛いほど分かる。
だけど今は駄目だ。
今だけは、子供達と今の道信を一緒にしてはいけない。
互いに傷ついてしまうだけだから。
────はじめてだった。
物心ついたときには親なんてものは自分の世界にはいなくて。
あったのは冷たい地面と、冷たい空、そして腹が空いて仕方ない現実だった。
毎日、生きるのに必死で。
食べ物を手に入れるのを教えてくれたのはたまたま近くにいた野良猫やカラス。
彼等の真似事をするように、小さな生き物や虫を捕まえてむさぼるだけ。喉が乾けばドブ川だろうが水溜りだろうが口に入れた。
腹を壊して死にかけたことだって何度もあった。
腹が空いて、なにもできない日々なんてほとんどだった。
雨が降っても雪が降っても、橋の下や何処かの軒下のような隠れられる場所は小汚い大人達が陣取っていて。
町外れの小さな木の下で膝を抱えて震えるばかり。
安心して眠れる日なんてものはありはしない。
そんなことしていれば、気がつく間に自分は野良犬の餌になるだけだ。
気が休まる時なんて一瞬たりともなかった。
そんな日々過ごしていた。
それが当たり前だと思っていた。
けれど、そうじゃなかった。
その日は運が良かった。
いつも路地裏のゴミ捨て場に陣取っていた大人がいない。
ゴミ捨て場はいい。食料も豊富で、なかったとしてもネズミや虫が沸いていることが多い。
もしかしたら布やボロボロの服とか宝物があるかもしれない。
胸を高鳴らせながら、意気揚々とゴミを漁る。
生ゴミ、布切れ、腐った食材。それらを狙いに来たネズミが二匹。
大当たりだ。
こんな贅沢は初めてだった。
なんと運のいい日だろうか、なんて考えていた時。
「お母さん!」
子供の声が聞こえた。
声の聞こえた方、路地裏とは違う燦燦と輝く日の当たる表通り。
今まで見ようともしなかった、自分の住む場所とは違う異世界。
はじめて目を向けた。
「どうしたの?」
「お腹空いた!今日の晩御飯はなに?」
そこには、自分と背丈の似た子供と一回り大きな柔らかそうな女の大人が互いに手を繋いでいた。
「今日はカレイの煮付けよ」
「えぇー!お魚よりお肉食べたぁい」
「何言ってるの。お魚さんはおまえの頭を良くしてくれるのよ」
かれいのにつけ?
なんだそれは。
いやそれよりも、なんであの子供は魚を食べたくないんだ?
いやそれよりも。あの女の人は他人に食べ物を渡すのか?
お母さんって、親ってそんなことができるのか?
「ねぇお母さん!明日は鍋にしてよ!鴨食べたい」
「鴨ねぇ..いいわよ。明日はお父さんも帰ってくるしね」
「ほんと!?やったぁ!」
なんで、明日も食べられると考えているんだろう。
明日なんて明日にならないとわからないのに。
なんで、明日の話ができる。
見向きもしなかった、見ようとしなかった異世界の住人へと初めて目を向けた。見てしまった。
彼等には当たり前に食べ物がある。
彼等には当たり前に家がある。
彼等には当たり前に親がいる。
彼等には当たり前に安心がある。
彼等には当たり前に明日がある。
自分の中の当たり前が音を立てて崩れていく。
あの子供はまるで泥水啜ったことがないように身綺麗だ。
お母さんというものと手を繋ぐあの手だってネズミなんて触ったことないぐらいに綺麗だ。
怯えて眠れない日なんてないかのようにあの子供は無防備だった。
お母さんというものに頭を撫でられるあの子供は、幸せそうだった。
なんだよこの差は。
さっきまで宝物にしか見えなかった今日の食べ物たちが酷く気持ち悪いものに見えた。
さっきまで胸に沸いていた高揚感は奈落のどん底に叩きつけられた。
運が良かったはずなのに。
嬉しかったはずなのに。
むざむざと見せつけられた"当たり前"の差。
自分で頭を撫でてみても、何も感じなかった。
お腹が空いた。
あの日から、何も食べていない。
ネズミも虫も食べる気にならない。いつもの秘密の水飲み場にも行っていない。
お腹が空いて、喉が乾いて、それでも何故か今まで口にしていた物を身体が受け入れてくれない。
死ぬ。
このままでは絶対に飢え死ぬ。干からびて死ぬ。
なのに身体は何も受け入れてくれない。
それでもじっとしてるのも出来ないから、雑木林の中をおぼつかない足取りで歩いていく。
ネズミや虫がダメなら他の何か。
何かってなんだ?
この小さな体じゃネズミぐらいが狩れる限界だ。
食べられるものなんて限られてる。
それでも探さなければ。なにか食べられるなにか。
そのなにかを見つけるより先に身体に限界が来た。
力も入らない。
人一人もいない雑木林の奥でただ一人力尽きる。
もう死ぬんだ。
近くに潜む虫達も自分の屍肉を今か今かと待っているのがわかる。
でもいいや。
もうつかれた。
まず感じたのは匂い。
生まれてきて一度も嗅いだことのない知らない匂い。不思議と不愉快なものではない。
次に感覚、日差しから感じていた..そうあたたかい感覚だ。だが夏の日差しのような苦しいものではなくて、なんだか柔らかい気持ちになるあたたかいだ。
いつのまにか閉じていた瞼を頑張ってひらいた。
「..む。目が覚めたか?」
知らない女の人だ。
ずいぶんとでかい。橋の下を陣取っていた小汚い大人たちなんかよりもよっぽどでかい。
「子供が一人でこんな僻地に倒れていたんだ。すこし喫驚したぞ」
なのに、この人はあの大人たちより怖くない。
大人なんて怖い生き物のはずなのに、なぜかこの人は怖いものが感じられない。
「随分痩せているが、飢餓の初期というところか。少し待て、今重湯を温め直す」
そういうとその人は音もなく立ち上がって動く紙の壁の向こうへ消えた。
おもゆとは何か知らない。
今、寝ている自分にかけられているこの柔らかな"あたたかい"も知らない。
知らないことで溢れている。
けれど、不思議にも怖さはない。
冷たくない。
「待たせたな。身体は起こせるか?」
あれから暫くして女の人が戻ってきた。両手に何か湯気立つものと共に。
なんだろうかあれは。
そんな疑問を抱いていると背中に腕を回されて身体を起こされる。
他人に身体を触られるのは嫌いだ。
こわくて仕方がない。大人はもちろん、犬猫もネズミも、虫にだって触られたくない。
なのにこの人の大きな手に触られた背中は、"あたたかった"。
「少し辛いかもしれんが腹に何か入れておいた方がいい。水も飲めるなら飲みなさい」
差し出される湯気の立つなにか。
得体の知れないものでもなんでも食べてきた。それは生きるためだけに食べてきた。食べたくなくても食べてきた。食べない選択肢なんてなかった。選択肢なんてない、その上でも。
"食べたい"。
食べなきゃではない。自分はこれを食べたいと思った。
その人からそれを受け取り、いつものように急いで口の中へかきこんでいく。
「あ、おい」
熱いッッ!!!!!!!!!
これもはじめての感覚。
腐った小動物の屍肉や毒虫の刺激とはまた別の口の中で暴れ狂うはじめての刺激に堪らず咽せ返る。
「熱いものを一気にかきこめばそうなるに決まっているだろう..。ほら水でも飲んでおけ、常温だが少しは冷める」
そうして息も絶え絶えな自分に差し出してきた澄んだ綺麗な水だ。
それを本能で流し込んだ。するとさっきまで口の中、そして食道から胃の中まで暴れていた刺激が和らいでいった。
肩で息をするように落ち着かせていると、突然頭に何か乗せられた。
「ここではお前の飯を取るものはいない。ゆっくり食べなさい」
大きな手だ。
自分の頭なんて軽く包め込めそうなくらいに大きくて、硬い手だ。
他の人の手なんて知らないけど、自分の手とは比べ物にならないくらいに大きくて硬い。
でも"あたたかい"。
ここは不思議で仕方がない。
冷たくて仕方なかった外とは違う。
知らないものばかりで、"あたたかい"ものばかりだ。
このおもゆとかいうのも熱いけど、"あたたかい"。
水すら"あたたかい"。
なんなんだ。
なんだってこんなにも"あたたかい"。
なんだってこんなにも、
────自分の中の知らないものが溢れてくるんだ。
はじめてだった。
屋根の下で怯えることなく眠ることができたのは。
はじめてだった。
ご飯があたたかいものだと知ったのは。
はじめてだったんだ。
誰かに頭を撫でられるのが、あんなにも心地よいものだと知ったのは。
全部、貴女がくれた。
何もないおれに貴女が教えてくれたんだ。
「先生ェ!!」
大きくて、優しくて、いつだって"あたたかい"貴女なんだ。
貴女しかいないんだ。
母親じゃなくたっていい。
家族でなくたっていい。
ただ側に居させて欲しいんだよ。先生。
「先生..!ごめんなさい!おれが..おれがあんなの見つけちゃったからなんだよね。おれ、誰にも言わないから..!だから..!」
緩やかに立ち上がる先生に縋り付く。
さっきの言葉なんか信じるわけない。先生がおれたちに優しくしてくれたのが、人売りに売り払うためだけだったなんて信じない。
あの"あたたかい"のが嘘なんて信じない。
「先生..!おれ..おれ..!」
胸に募る途方もない焦燥感により言葉が詰まる諭吉。
そんな彼の頬へ、
────大きく硬い、拳が叩き込まれた。
あまりの衝撃に諭吉はいとも簡単に大きく吹き飛んでいく。
「......グダグダやかましい。どいつもこいつも..だから子供は鬱陶しい」
地面に転がり、熱を持って痛みを訴えてくる頬を抑えながら諭吉は道信を見上げる。
何をされたのかは分かる。受け入れたくない現実だとしても、頬の熱い痛みが、口の中に溢れる血がうるさいくらいに現実だと突きつけてきた。
「...はっ。面倒だ」
あんなにもあたたかったものが。
「ここで殺してやる」
全部冷たくなっていく。
神楽はその変化を肌で感じ取っていた。
神楽だけではないだろう、新八も、諭吉も、寺に隠れている子供達もその変化を嫌と言うほどに感じ取っていた。
肌が粟立つ程に冷たくて、ドス黒い...質量を持った殺意。
さきほどまでの道信とは明らかに違う、冷たすぎる眼光。
神楽と新八はこれを知っている。ごく最近これを肌で感じたことがある。
これは、道信ではない。
地獄の帝王、鬼道丸が放つ本気の殺意だ。
「伏せロ!!」
その神楽の行動には淀みの一つもない。
番傘に仕込まれた銃口を向けて迷わず引き金を引いた。
連続した銃声と共に放たれた無数の銃弾は鬼道丸と諭吉の間を引き裂くように着弾。
「うわっ!?」
「口閉じてるアル!!」
さしもの鬼道丸とて人間、足元への着弾でほんの僅かに怯んだ。そのわずかな隙に神楽は腰を抜かしていた諭吉を肩へ抱えてすぐに駆け出した。
「立て新八ぃ!!早く子供達連れて逃げるアルよ!!」
「で、でもまだみんなが..!」
寺の子供達は皆怯えている。
先程までとは違う本物で濃すぎる殺意に当てられて怯えきっている。
それなのに皆動かない。動けない。
今まで見てきた"あたたかさ"と信じたくない残酷で"冷たい"現実の落差に苛まれて。
「引っ張ってでも連れ出すアル!!早く!!」
「───ッ!みんな今はとにかく僕たちについて来て!!」
「...で、でも先生が..」
「信じたくないのはわかるけど!!今は────
新八の頭上を何かが通り過ぎて、
突如、寺が爆発した。
あまりに突然の出来事すぎて新八も神楽も諭吉も言葉を失う。
だがすぐにそれが爆発ではないことに気づく。
とてつもない勢いで大きな木が寺へとぶっ飛んできたのだ。
先程、神楽が投げつけたものより二回りも大きい木が、弾丸よりも疾く、大気を切り裂いて寺へと突き刺さった故に、爆発にも似た衝撃が生まれた。
「殺すといったぞ。餓鬼供」
新八は慄いた。
これが、こんなことが本当に人間に出来るのかと。
「ボサっとするな新八ぃ!!早く子供達を連れ出すアル!!」
神楽の喝により新八は我々取り戻し、半壊した寺の中へと駆け込んだ。
「みんな大丈夫!?」
中に入れば
皆放心しているがぶち込まれた木は子供達に当たることはなかったようだ。
新八は放心している子供たちをなんとか寺から連れ出せた。
泣きじゃくる赤子は新八が子守帯で抱えて、その他小さな子達も年長の左内と共に両手で手を繋いで逸れないように。
「神楽ちゃんいけるよ!!」
仕込み機関銃で牽制していた神楽に合図を出せば、諭吉を脇に抱えた神楽もすぐに走り出す。
走る。
走る。
走る。
木の根や泥に足を取られそうになりがらも走る。
後ろから木が投げられる衝撃も無視して走る。
走り疲れてしまった子供がいれば神楽と新八が抱えて走り続ける。
息も切れ切れに、やがて左内以外の子供が新八と神楽によって無理矢理抱えられるようになった頃に彼等は雑木林を抜け町へと辿り着いたのだった。
先生。
なんで。
おれが悪いなら責めてよ。怒ってよ。
なんで。
胸が苦しいよ。頬も痛くて泣きそうだ。
なのになんで。
先生のほうが泣きそうなんだよ。
もう姿は見えなくなった。
人っ子一人いない。
静寂だけが辺りを支配する。
なのに己の呼吸音も動悸すらもうるさい程に頭に響く。
力が抜けて、膝から崩れる。
己が手を見れば震えが止まらない。
諭吉を殴ってしまった手だ。
自嘲の笑みが溢れた。
何を今更。
慣れていることだろう。
今までやってきたことだ。
捨てるのは慣れている。
今までも捨ててきたろう。
人道も、良心も、誉れも。
知っていたことだろう。
己は醜い鬼で、あの子らは人の子で。
共には歩めない。
共にいれば最後には破滅だけだ。
だから喜ぶべきだ。
漸くあの子らがあるべき場所へ帰ったのだから。
だからこれは勘違いだ。
この胸を締め付けるものは、とっくのとうに捨てたものだから。
勘違いだ。
止まらないこれも。
勘違いなんだ。