骨の髄まで凍てつくような冬の寒さはとうに過ぎ去り、雄英高校の敷地内には、うららかな春の風が吹き抜けていた。
三年生たちがハイツアライアンスから退寮する、卒業の日。
エントランスに引っ越しのトラックが並び、慌ただしく段ボールが運び出される中、緑谷出久は一人そっと寮を抜け出し、第3体育館の裏手にあるベンチで静かに空を見上げていた。
そっと自身の胸に手を当てる。
あの日、神野の広場で最後の死闘を終え、完全に燃え尽きた『ワン・フォー・オール』。胸の奥でいつもチカチカと熱を放っていた無敵の力は、もう微塵も残っていない。
けれど、不思議と喪失感はなかった。力と引き換えに繋ぎ止めた人々の命と、彼らの心に灯した確かな温もりが、今の出久の胸をじんわりと満たしていたからだ。
「こんなとこで油売ってんじゃねェよ。てめェの部屋の荷造り、本当に終わってんのか」
不意に背後から声がして振り返ると、ジャージ姿の爆豪が眉間にシワを寄せて立っていた。
「あ、かっちゃん。うん、さっき全部終わって……」
「おーい、緑谷! 最後の段ボール、トラックに積んどいたぞ!」
爆豪の後ろから、切島と上鳴がひょっこりと顔を出した。さらにその後ろには、轟、飯田、お茶子、梅雨、心操をはじめとする、A組の仲間たちがぞろぞろと連れ立って歩いてくる。
どうやら、いなくなった出久をみんなで探しに来てくれたらしい。
「ありがとう、切島くん、上鳴くん。みんなも、引っ越し作業お疲れ様」
出久が立ち上がって微笑むと、飯田が持ち前の大きな身振り手振りを交えながら、真面目な顔で頷いた。
「ああ! ……だが緑谷くん、数多のプロ事務所からの推薦を辞退して、一般の大学へ進む道を選ぶとは本当に驚いたよ!」
「もったいねー気もするけどよ、緑谷がずーっと悩んで決めたことだもんな」
「うん。デクくんが決めた新しい夢、うちらは全力で応援するんよ」
飯田の言葉に上鳴がニカッと笑い、お茶子が満開の桜に負けないくらい明るく微笑む。
あの死柄木たちとの凄惨な大戦、そして戦後に起きた事件を経て、出久は痛感したのだ。
法やヒーローの力が及ばない暗がりで、理不尽な喪失に苦しむ人たちがいる。心が絶望に押し潰され、新たな怪物(ヴィラン)へと成り果ててしまう前に……真っ先にその苦しみに気づき、手を差し伸べる存在が必要なのだと。
「……うん。僕ね、教師になりたいんだ」
出久は手元にあった一冊のノートを、愛おしそうに撫でた。
かつてヒーローに憧れて書き綴っていた『将来のためのヒーロー分析』ではない。その真新しい表紙には、『未来のヒーローを育てるための教育学』と記されている。
「これまで僕たちが戦ってきた人たちの悲しみに、もっと早く気づいて寄り添える……そんな『心を救えるヒーロー』を、これからの未来にたくさん育てたいんだ」
出久の真っ直ぐな言葉に、春の風が優しく吹き抜けた。
「ただ強くて、敵を倒すだけじゃない。迷っている人や、絶望に押し潰されそうな人の手を、絶対に離さない。そんな最高のヒーローたちをここから送り出す教育者になるために……まずは大学で、ちゃんと勉強しようと思って」
轟が静かに目を細め、出久の肩に不器用で温かい手を置いた。
「……緑谷が育てたヒーローたちと、俺たちが現場で連携して、ヴィランを生まない社会を作っていく。悪くない連携だ」
「俺をヒーロー科の光の道へ引き上げてくれたのは、お前だ」
心操が、照れ隠しのように首元のペルソナコードを弄りながら笑う。「今度は俺たちが、お前の教え子たちと一緒に現場でお前を支える番だな」
これまで黙って話を聞いていた爆豪が、鋭く燃えるような紅い瞳で、出久を真っ直ぐに見据えた。
「俺たちはプロとして、一足先に現場でトップ張ってるぞ。……中途半端なモン育てて寄こしたら、容赦なく突き返すからな」
口は悪いが、それは出久の選んだ「教育者」という道を誰よりも信じ、対等なライバルとして待ち続けるという、彼なりの不器用で最高のエールだった。
「……うん! 負けないよ、かっちゃん!」
出久は、顔をくしゃくしゃにして、満開の笑顔で力強く頷いた。
春の風が吹き抜け、桜吹雪が彼らを優しく包み込む。
無個性に戻った少年は、もう空を飛ぶことも、巨大な敵を吹き飛ばすこともできない。けれど、仲間たちと共に踏み出すその一歩は、間違いなく「最高のヒーロー」としての歩みだった。
見上げる青空は、どこまでも高く澄み渡り、彼らの行く末を祝福するように、まばゆく輝いていた。