「子供が欲しい」と言い出すかぐや。しかし彩葉はその申し出に首を縦に振らない──。
本編その後のifストーリーです。『ray』MVの前日譚を妄想したifストーリーでもあります。
彩葉はかわいいです

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多少、作者の解釈が入ってます


第1話

 中央線の快速をおりると立川駅のホームはいつもより少し風がつよい気がする。論文やら学会の準備やらでくたくたにヘタった体を改札に蹴り出され、ついでに彩葉の口からも疲れきったため息が吐き出されたが、頭上を通りかかったモノレールの走行音に塗りつぶされてしまった。

 酒寄彩葉、二十八歳。独身。

 実に、実に疲労困憊といった風体である。

 目の下のクマは十数年分の歳月を吸い込んで黒々とたくましく成長し、肌は月面のように荒れすさみ、あの頃から多少は伸びた背丈も猫背のせいでどうにもだらしない。後ろで軽く結っただけの黒髪も半日がかりでぐしゃぐしゃに乱れて寝起きの状態に元どおりだ。これだけボロボロなのに、やたらと冴えわたった彩葉の脳みそは呪文のように同じ言葉を繰り返すのだ。

 はやく、はやくウチに帰ろう。

 ここで野垂れ死んじまう前に。

 そうしてペデストリアンデッキの上をゾンビのようにのろのろと通過。駅から歩いてせいぜい十分程度の背の高いタワーマンションが現在の彩葉のねぐらで、夜になると近くの大型商業施設や電気屋のライトアップやサンサンロードのイルミネーションなどの照り返しを一身に受け、まるで魔王城のような風格を漂わせる。

 しかしたとえ見てくれが魔界のうわものであっても、そこの住人であり心身ともに摩耗しきった今の彩葉にとっては癒しと救いの象徴であった。

 息切れしながらマンション入口の自動ドアを抜ける。半泣きの状態でエレベーターから降りる。這いつくばる直前のような格好でカードキーを読ませて家のドアを開け、そして背後から鈍器でぶん殴られたような勢いで彩葉は玄関に倒れこむのだった。

 

「あー疲れた、まじ疲れた、もー無理、超無理」

 

 ガサガサの喉からアラサー女のざらついた声が上ってくる。年老いたもんだね、と自嘲気味に横隔膜だけでへこへこ笑っているとリビングから賑やかな足音が近づいてきた。

 

「いーろはっ! おっかえりぃ〜!!」

 

 かぐやである。

 白いフリースのワンピースの上に魚のアップリケがついた藤紫のエプロンをかけ、真冬のクソ寒い中で剣道部でもないのに裸足のかぐやが駆け寄ってくる。そして玄関で野垂れ死んでいる彩葉のまわりをウロウロとうろつき、肩を揺すり、

 

「ねーえ、今晩いっしょに作んないっ? 作ろーよ。いいでしょ、ねえ?」

 

 かろうじて「なにを」と返した彩葉の横にかぐやは座りこむ。

 耳もとでささやくように、ひと言。

 

「子供」

 

 子供、

 子供を作る。

 人体錬成、という単語が彩葉の頭に浮かんだ。

 簡単に言ってくれるなよと思う。生体医工学において人間の体をゼロから再構築するには気の遠くなるような時間と泥臭い努力の積み重ねが必要なのだ。そもそも素材だけかき集めて鍋に放り込んで煮込めば人間ができるわけじゃない。地球二周分にもなる長さ数万キロの血管網をマクロからマイクロまでエラーなく接続し、免疫系、ホルモンバランス、そして大ボスの脳神経系までをも完璧にリンクさせ、それらすべてをリアルタイムで相互作用させるための複雑怪奇な多細胞システムを人工的に統合制御し

 

「…………今なんつった?」

 かぐやはもう一度、気色満面の笑顔で、

「だから子供、赤ちゃん。二人くらい。できれば男の子と女の子ひとりずつ!」

「────」

 

 なにを言っているのか。

 ようやく彩葉の脳みそが学者から酒寄彩葉へと切り替わる。

 そして思う。

 かぐやの頭がぶっ飛んでいるのは今に始まったことではない。が、さすがに子供がフライパンや土鍋では作れない程度の常識くらいは持ち合わせているはずである。どうせまた変なことを言って自分をからかっているだけなのだ。きっとそうなのだ。

 ともかく彩葉は起き上がった。いつまでもこんなところで寝っ転がりながら同居人の世迷いごとを聞いていたら頭がおかしくなりそうだった。羽織っていただけのジャケットをツリー型のスリッパラックに雑にかぶせ掛け、よたよたした足取りで洗面所に向かう。その後をかぐやも着いてくる。

 

「聞いてる? つくろーってば、こーどーも。あーかーちゃん。ドアを開けてさあ、少しも寒くないよ。かぐやはやっぱ一姫二太郎がいいんだよね」

 

 無視してバシャバシャとぬるま湯で顔のよごれとメイクを洗い落とし、オヤジのような仕草でうがいをする。ガラガラガラガラガラガラ、

 んべっ。

 タオルで顔を拭ってから、やっとかぐやに顔を向けた。

 

「──で、なに作ろうって? 雪だるま?」

 かぐやはぶんむくれた顔になり、

「だぁから子供だってば! かぐやと彩葉の子っ。ラクビーチーム作れるくらい欲しいよねってさっきからずっと言ってんのに! 無視よくないっ!」

「言ってないし十五人はさすがに無理。──いやいやいや、そうじゃなくて」

 彩葉はがしがしと頭の後ろを掻き、何から言えばいいのか考えて、

「あのさ。まず、かぐやは子供の作りかたとか知ってるわけ?」

 なにを当たり前のことを、とばかりにかぐやは勢い込んでうなずく。

「愛し合う者同士でまぐわうんだよね。情交とも言うよ。性交とも。交尾とか。あとはセッ」

「もういいもういいっ」

 

 キャベツ畑だとかコウノトリだとかのほほ笑ましい返答を期待していたのに、あけすけな正解が返ってきて彩葉は手で目元をおおった。

 壁の時計はすでに午後十時を半分ほどまわっている。明日も早いのだからさっさとメシと風呂とゲームとツクヨミのログインとヤチヨの配信アーカイブのチェックを済ませて一日にケリをつけたいのに、同居人がヌリカベのように立ちはだかって猥談を持ちかけてくる。

 勘弁してよと思う。

 こちとら絞り器にかけても何も出ないくらい疲れ果ててるんだから。

 彩葉はボサボサの頭を乱暴に掻きむしって、

 

「──お風呂はいってくる。サッパリしたい」

「はいはいどうぞどうぞ。ご飯あっためておくから、上がったら来てね」

 

 ヌリカベは体を横にずらし、ひとまず彩葉は解放された。

 それから二十分ほど熱めのシャワーで疲れと穢れを洗い落として、かぐやと揃いのフリースの部屋着に変身した彩葉がリビングに入ってくる。と、テーブルにはご馳走の山が並べられていた。いつもながら大したものである。

 なのだが、

 

「……ねえかぐや。今日のメニュー聞かせてくれる?」

 かぐやは両手の指を折りながら、

「んとね、まずメインがレバニラとカツオのタタキと牡蠣フライでしょー。副菜が山芋の短冊と煮っころがしとニンニクの素揚げでしょー。それに肝吸いとスッポンのコンソメスープとぉ〜、あとデザートにマムシドリンク」

 

 露骨すぎる。

 もしやさっきのは冗談ではなく、ガチで言っていたりするのだろうか。かぐやは本気で子供を授かりたいとでも考えているのだろうか。であるならば、それは論理的に否定されるべき望みであることを論理的に説明せねばなるまいと彩葉は論理的に決意した、

 

 ぐう。

 

 しかし説明よりも先に腹の虫が論理的に炸裂する。虫の声を聞いたかぐやに「さあさあさあ」と背中を押され、無理やり席に座らされた彩葉は条件反射的に箸を持ち、

 

「いっいただきます……!」

 

 と同時にまずは手前のレバニラを一口。次の瞬間にはすさまじい勢いで口の中に白米を掻っこみ、他のご馳走どもにもピラニアのように食らいつく。

 どれもこれも涙が出るほど美味かった。

 昼間にカップ麺で埋めただけのさもしい空きっ腹にありったけの『精』が染み込んでくるような気がする。

 結果、十五分ほどですべて平らげ最後のマムシドリンクも仕上げとばかりにゴキュゴキュと豪快に飲み下していく。

 ぷはあ、濃いっ。

 

「──で、これはいったい何なの?」

 

 ダンッ、と空になったマムシのボトルをテーブルに叩き置き、彩葉は正面に座るかぐやに問うた。かぐやは両腕で頬杖をつきながらニコニコ顔で、

「精ついた?」

「んなのいいから説明しろ。何でいきなり子供なんて。いつもの冗談にしちゃ料理とかヤケに手がこんでたし……ともかく説明を求む」

「んえぇ? 説明とかめんどいよぉ」

 と前置きして、

「んー……なんていうかね。色々考えてたらやっぱ子供作んのが一番だと思って。それで」

「いや、ざっくりしすぎ。もっとちゃんと」

 しぶしぶといった顔で、

「だからぁ、最近になって哲学者かぐやちゃんはふと思うようになったんだよね。この世が人の世であり続けているのは、人が子を成し、その子もまた子を成して、って感じで命が繋がり巡っていくからなんだって」

「な、なに急に。そんな……なに?」

「人の一生は短い……だからこそ今を大事にすべきだって考えは分かるよ、マジいいことだと思う。でもさ、たったウン十年ぽっちでこれまでがんばって築き上げてきたものとか、大切な想いとか、それらすべてが失なわれちゃうなんてあんまりじゃない? 超バッドエンドじゃん。こんなにかぐやは彩葉のこと大好きなのに、それもいつかは綺麗さっぱり何もかも消えて跡形もなくなっちゃうんだよ。そんなの悲しいよ」

「かぐや──」

「だから決めたの。かぐやと彩葉で子供つくってぇ、そんで二人の愛の形がこれから先も、ずっとずーっと永遠にこの世界で生き続けていって欲しい、みたいな? ……へへ?」

 

 てれてれと頬をゆるめながら上目を寄越してきたかぐやに、彩葉はまったりと食後の茶をすすり、

 ほう、とひと息ついてから短くこう言い放った。

 

「──なんか重いわあ、そういうの」

「んだよぅ! 長々言わせといて感想それだけかいっ!」

「いやだって。子供ってあんたさ」

「ああっなにその顔! ちょームカつく〜〜っ! あーもういいよーだっ。ふんだっ! ふんふんっ!!」

 

 珍しくキレ出したかぐやは空になった食器をぷりぷりトレーの上にのせ、流しの方へぶん投げるようにして運んでいく。「せっかく説明してやったのにこんにゃろこんにゃろ」などとブツブツ言って、洗剤を飲ませすぎて泡まみれになったスポンジを皿が割れんばかりの勢いで擦りつけている。

 それを横目で見て、ふたたび茶をすすりながら彩葉は真顔で思う。

 

 ──こ、告られた。さり気なくかぐやに告られた……

 

 何をいまさらといった話ではある。

 これまでもことある事に「好き」だの「結婚して」だのと言われてきたことはあったのだ。が、それを冗談や親愛以上の意味として真剣に受け止めたことは一度としてなかった彩葉である。

 それは一種の防衛本能のようなものであったのかもしれない。

 かぐやはかぐやであり、友達とか家族とか恋人とか、それら名のある既存の関係の中に彼女を完結させてしまうのはなんだか違う気がしたし、曖昧で不定形なままの日常の縄張りで静かに二人で安住できればそれでよかった。そうしていれば自分もかぐやも欠けずに済むと思ったのだ。

 変化がこわい──彩葉の心理を説明するには、そのたったひと言で事足りるのだった。何がキッカケで磐石なはずの明日がやって来なくなるかなんて分からない。それがたまらなく恐ろしい。

 だから自分たちはこのままでいい、なにも変わらずこのままがいいのだ──。

 そう思っていたのだが、

 

 ──ど、どしよ。いきなりあんなこと言われたら変に意識しちゃうじゃん。ばか……っ

 

 いまの彩葉の体はそれどころではなかった。

 絶賛消化中の腹の中で、精力満点のマムシとスッポンとその他もろもろが踊っている。長きにわたり守られてきた鉄壁の防衛本能を「イケイケ」と力づくでこじ開けてくる。ひどくムラムラしてきた。台所でプンスカ皿洗い中のかぐやのことが気になって仕方ない。チラチラと盗み見するたび顔や体が熱くてどうしようもない。

 ぶんぶんと頭を横に振った。

 いや、落ち着け。

 冷静になれ、クールになれ、酒寄彩葉。

 彩葉の理性を司る脳の部分がそう言い聞かせ、さらに深呼吸を促してきた。それに従って三度ほど大きく息を吸って、吐き出し、平常心を取り戻し──それから堂々と彩葉はかぐやに顔を向けるのだった。かぐやの長く艶やかな黄金色の御髪を、月見団子のように白くきめ細かい和膚を、長くて細い手脚を、くっきりと整った甘い顔立ちを、顕微鏡でものぞき込むような目つきでじいぃぃっと見つめ、

 

「さっきからなに見てんだよぅ」

 

 速攻でバレた。

 かぐやの胡乱な視線に、彩葉はあわてて顔を背けて咳払い。

「なんでもない。てか見てないし」

「ウソでぇ。チラチラ見てたじゃん」

「見てないってば。じ、自意識過剰っ」

「……ふぅ〜〜〜〜〜〜〜ん?」

 胡乱な視線がイタズラ小僧の目つきに変わる。油汚れがこびりついたままの皿を流しに放置し、ニマニマとかぐやは後ろ手を組んで彩葉ににじり寄っていく。

「むっふっふ。どぉーやらさっそく効いてきたみたいだね、かぐやの特製愛情料理が。体の内側からホワホワしてきてるんでしょ?」

「は、はあっ? 意味わかんない。てか、お腹いっぱいだしもう寝るね。ごちそうさま、おやすみ、」

「待てぃ!」

「ぐ、離せぃ……って、その手でつかまないでよっ!」

 やにわに椅子から立ち上がった彩葉の腕をかぐやが泡まみれの両手でつかんでくる。実にヌルヌルしている。

 対するかぐやは彩葉の顔をえぐり込むような角度でのぞき込み、極上の上目遣いと媚びるような声で、

「ねーえ、いろはぁ……」

 会心の一撃、

「今夜はいっしょに寝よぉ……?」

「イヤ! ぜったいに!」

 にべもない返答にかぐやが「ぬぁんで!」と可愛さも消し飛ぶ奇声を吐いた。

「昔はくっついて寝てたじゃんっ! なんでヤなのっ。そんなにかぐやとの赤ちゃんなんて要らないって言うのっ?」

「いやそもそもの話、私たちじゃ子供は作れないから! だって……その、ほらっ。私たちには『ない』でしょっ、アレが! 肉体の構造的に無理なもんは無理なの!」

「あ、なあんだ。そんなこと」

 もっとも諦めのつきそうな理由を選んで突きつけてやったはずなのに、かぐやはケロッとしている。腕から手をパッと離し、

 

「ぬふふ。じゃーあ──、これならいいでしょ?」

 

 言いながらかぐやはワンピースの裾をゆっくりとゆっくりと、イヤに扇情的な仕草で持ち上げていく。女の下着で興奮などしないはずの彩葉であるが、この時ばかりは食い入るように見入ってしまう。無理もない、かぐやの体に本来ないはずの膨らみが間違いなく、確かに、見事なまでにそこに『あった』からである。

 それはまさしく、男性の、実にご立派な、

 

 チ、

 

「ぉっ、ぎゃぁぁぁぁぁあああっ!!」

「わーっはっはっはっはっ。なんてねー、ウソウソ!」

 虫のようにひっくり返った彩葉に、種明かしとばかりにかぐやが生のキュウリを一本取り出して見せる。昨日、近所のスーパーで安売りしていたものだ。これを股のあいだに挟んで、パンツが膨張していたように見せかけていたらしい。

「あーやっぱ彩葉からかうの楽しすぎ。超ウケる……あ、ごめ、ちょっとやりすぎたね、やめ、」

 仮死状態からよみがえった彩葉のゲンコツがかぐやの脳天に飛来する。

 

 

 *

 

 

「──さっきのは冗談だったけど、彩葉との赤ちゃんが欲しいのは紛れもない本心だからね!」

「そこも冗談でいいんですよかぐやさん」

「そこだけは譲れないの!」

 

 熾烈な一日を乗り越え、鮮烈な衝撃をついさっき味わった彩葉の気力は底を尽きつつあった。睡魔がとぐろを巻いて脳に絡みついている。

 だというのに、かぐやの話はまだ終わっていないようであった。もう寝たいんだけどと不満を訴えてもかぐやは彩葉のベッドの上でドッシリあぐらをかき、「一緒に寝てくれなきゃ一生ここからどかない!」と居直り、仏像のごとく座り込みをつづけている。いまも頭のてっぺんには立派なタンコブがこしらえてあるというのに一切反省の色が見られない。

 こうなるとテコでも動きそうにないな──彩葉はとうとう観念の息をひとつ吐き落とし、

 

「……わかった。子供の話はいったん置いといて、一緒に寝るくらいなら別にいいよ」

 かぐやの両目に光が宿った。

「ほんとっ?」

「変なことしないって約束すんならね。いい?」

 ようやくあぐらが解かれ「やったやった」とかぐやがベッドの上で跳ね出した。調子にのってその場で逆立ちをしようとして失敗し、ベッドから転がり落ちてケツを打つ。

「バカやってないではやく布団の中入ってよ。寒い」

「はあいっ。ではではお邪魔シマウマ〜……んへへ、彩葉あったかーい。ヒヒーンッ!」

「うっとうしいなぁ」

 

 だが、彩葉としてもこうして久々にくっついて寝るのは悪いものではなかった。現在の住居に越してからはずっと別々の部屋で寝ていたし、研究室にこもったまま家に帰らない日も少なくない。口では余裕そうに気取りつつも、心の奥底は知らぬ間に凍えついていたのだと思う。

 そしてそれは、きっとかぐやも同じだったことだろう。

 寂しい思いをさせちゃったかな──途端に、体の芯まで、ん、愛おしさの熱が、あっ、集まって、んっ、くる。

 

「──ねえ、かぐや」

「ん〜?」

「なんでさっきから私の胸さわってんのかなあっ?」

 

 体が熱かったのは別の理由だったらしい。

 ドスを効かせた声は小型犬ならしっぽを巻いて逃げ出すほどの剣幕であるが、あいにくかぐやはその程度じゃひるまない。今もふよふよとクラゲでも転がすように彩葉の胸部をまさぐりつづけている。こんな痴漢みたいなワイセツな手つきに、ほんのわずかでも反応してしまった自分が心から情けないと彩葉は思う。

 そして痴漢魔のくせして、かぐやは登山家のようなすごくいい顔をしてこう言うのだ。

 

「目の前におっぱいがあるからよ」

 

 ゴッチン、と彩葉の肘鉄がかぐやの頭に振り下ろされる。

「いっ!! ……〜〜ったあっ! いたいたいたいっ、シャレになんねえ痛さだよこれっ」

「変なことしないって約束だろっ! もう十秒前のこと忘れたのっ? このバカッ、バかぐやっ! へんたい!」

 げしげしとかぐやをベッドから蹴落とし、全身をシーツで包みながら彩葉はベッドの隅でミノムシになる。

「だってだって! こんな据え膳、手ぇつけない方が逆に失礼だよっ。ていうかさ、彩葉だって『んっ』とか『あっ』とか声出てたじゃんっ。ほんとは期待してるんでしょ、このエロハ」

「ししっ、してないしっそんな、誰がエロハだこのやろうっ! ──とにかくもうこれ以上やらしいことしないでっ。それが守れないんならもう二度と一緒に寝てやんないっ」

 やだあやだあ、とかぐやが床で子供のように駄々をこね出した。

「そんな突っぱねなくたっていいじゃん! かぐやはただ純粋に子供がほしいだけなのに! ねえお願いだから産んでよ彩葉ぁ」

「なんで私が産む前提なんだよっ」

「だって出産ってすんごい痛いんでしょ? かぐや痛いのヤだし」

「私だってヤだわ!」

「心配しないで。かぐやはパパとしてがんばるから。パパとしての活動に全力を尽くすから。世間一般でいうパパ活ってやつよ」

「そんな世間一般はないから二度と使うなよそんな言葉」

「わ、わかった。ママとしてもがんばるから。痛いのも我慢するっ。だからね? いいでしょ? ね、ね?」

 

 何度目かも分からないため息。この調子じゃ朝日がのぼるまで堂々めぐりは終わりそうにない。

 彩葉はいよいよ真剣に諭してあげるべきだと思い至り、かぐやに正面から向き直った。

 

「……真面目な話。さっきも言ったけど、できないもんはできないの。まず私たちは女同士だし、かぐやの体はまだ完璧な人体に仕上がってない。生殖機能だって備わってない状態なんだよ。人工授精だって不可能なわけで、」

 話を待たずに、

「そんなの関係ないよ。フツーに子供できるって」

「んなわけ」

「月の世界ではね、みんな肉体を持たない代わりに愛し合う者同士で『婚姻の儀』を行うと自然に子供ができるんだよ。つまり結婚してメオトになるの。もちろんそこに性別なんかも関係ない。だからかぐやと彩葉でもきっと──」

「ここは月じゃないでしょ。それに私は地球で生まれた地球人なんだからそんな常識は関係ない」

「あ、で、でも、かぐやなら、」

「かぐやだって体はもう月の人間じゃないんだから無理だって。ムリムリ」

 

 かぐやが唇をかみしめる。

 気づいていなかった、というよりは意地になって理解を拒んでいるという顔に見えた。自分は間違ってない、間違えてるとしたらそれはそっちの方だ、そう言いたげな負けず嫌いの目が彩葉の顔をじっと見すえている。

 ぱん、と彩葉がシメの柏手をひとつ打った。

「はい、てなわけでこの話はもうこれでおしまい。どうでもいいからさっさと寝ようよ。私もう眠くって。……あれ、枕どこいった?」

「──で、」

 床に落ちていた枕を拾いあげようと彩葉が身をかがめる。そのとき、視界の端でかぐやがのそのそとベッドによじ登ってくるのが見え、

「で、できないかどうかは、やってみるまで分かんないじゃんっ」

「ちょっ!、」

 いきなりだった。

 唐突にかぐやが肩につかみかかり、押し倒す形で彩葉の上に覆いかぶさる。そのまま馬乗りの状態で顔を近づけ首筋に唇を這わせ、おっかなびっくりといった感じのキスをする。思わず艶めいた声が出そうになるのを彩葉はあわてて飲み込んだ。

「っ、や、やめてっ。マジでやめてよっ! 本気で怒るよっ?」

「これより婚姻の儀を執り行うっ。──彩葉は私の後につづいて復唱して!」

「はあっ? し、しないっ!」

「いいからして!」

「やだってば!」

 かぐやの真剣な表情と声色はしかし、彩葉の抵抗を次第に無力化する。すうと静かに大きく息を吸い込む音がする。やがてかぐやの唇がゆっくりと動き、祝詞のようなものを唱え始めた。

 誓いの詞だった。

 

「今宵の星の麗しき良き日に、月神様を遠く遥けく拝み奉り──ほら、ちゃんと彩葉も言って!」

 

 いやだ、ぜったい言うもんか──彩葉は唇を真一文字に結び、顔をそらし、目も力づよく閉じた。

 

「──ここにて婚姻の式を執り行い、メオトの契りを結び固むるは尊き神慮に依るものと喜び辱み奉りて──いっしょに言ってってばっ」

 

 結婚なんて。メオトなんて。子供なんて。そんなのいらない、必要ない。私たちはこのままでいいのに、このままがいいのに。なんでかぐやは分かってくれないんだ。

 

「──今日より後、メオトの道にたがうことなく千代に八千代に愛を育み手を取り合い、共に子孫の繁栄を、」

 

 大切な何かが変わっちゃうかもしれない、壊れちゃうかもしれない。もしそうなってしまったら誰が責任を取る。今度こそ本当に失って二度と取り戻せなくなってしまったらどうする。

 こいつは昔からそうだ。いつも自分のことばっかで私の都合や気持ちなんて何も考えない。勢い任せで後のことなんかどうだっていいんだ。どうせ今回もテレビとかネットの影響を受けて面白半分で子供が欲しいって言ってるだけに違いないんだ。

 ほんと無責任なやつ。ひどい。最低──。

 

「繁栄を、繁栄、を…………、」

 

 そこで、

 一人奏上を続けていたかぐやの声が不意に止まった。真っ黒な沈黙がつづき、異様な緊張感だけが増し、服の下で気味の悪い汗がにじみ浮かんでくる。

 なんだ。

 儀式とやらはもう終わったのか。

 それとも次に読み上げる文言を忘れたのか。

 ギュッと閉ざしていたまぶたを彩葉はおそるおそる開けてみる。様子をうかがうように、上に覆いかぶさったままのかぐやの顔を見上げる。

 ──そして彩葉は、そこに月の裏側を見たように思う。

 寝室の張り出し窓から斜めに薄っすらと射し込む月明かりに、かぐやの白い体が晒されている。よれたベッドのシーツ、床に落ちた二つの枕とスマホ、タンスの上に並んだ思い出の写真、くたびれたうさぎのぬいぐるみ、シミひとつない壁と天井の白。面白みのない日常たちがそこらじゅうに散らかっている。

 それなのに、すぐ目の前のかぐやだけはその日常の外にいる。まるで知らない場所に一人置き去りにされた幼児のような目をしている。その瞳には涙の膜が張り、肩は小刻みに震え、小さくよじれた声はやがて苦しげな泣き声に変わった。

 

「か、かぐ、」

「んで……っ」

 ボタボタと大粒の涙がひとつ、ふたつと彩葉の顔にこぼれ落ちた。

「なんで、いっしょ、言ってくれないの……っ」

「は、いや、だって、」

「もしかしたら、ひょっとしたら、できるかも、しれないのに、可能性が、あるかも、しれないのに、それでも、彩葉はイヤなの……? かぐやとの繋がり、そんなに、欲しく、ないの……?」

 なんとか上体を起こし、

「な、なにも泣くことないでしょうよ。ねえ、一回落ち着きなって」

「かぐやのこと、もう、興味、なくなっ、ちゃったの……? きっ、きらいに、なっちゃった……?」

「そうじゃない。そういうわけじゃないけど、でもダメだよ。結婚とか子供とかさ、そんな軽々しく……だいたい私たちにはそんなの要らないんだよ。わかるでしょ?」

 しかし、かぐやはいやいやと頭を振って彩葉の言葉を拒んでくる。

「だからなんでっ。わかんない……っ、彩葉の話も、彩葉のことも、難しくってぜんぜんわかんないっ」

 瞬間、弾けるように飛び起き、かぐやは寝室のドアへつんのめりながら駆けていく。

「かぐやっ!」

「今日はやっぱ自分の部屋で寝る!」

「待って、ちゃんと話しようよ!」

「やだっ!!」

「待てってばっ!」

 ドアノブに指を引っかけたまま棒を飲んだように立ち尽くすかぐやは、こちらに振り向きもしない。

 最後に消え入るような声で、

 

「彩葉も私のこと好きだって思ってたけど、気のせいだったんだ……っ」

 

 ドアは物音もなく閉められた。

 彩葉はベッドの上で身動きひとつできない。狼狽しているし、その狼狽にも増して目の前が眩むような恐怖を全身に感じる。かぐやの後を追いかけることができないのも、足がすくんで動かないせいだ。

 ベッドの上で力尽き、彩葉は自分の腕を抱きしめながら卵のように体を丸める。かぐやの涙に濡れた顔を思う。十年前のあの日、月に帰っていった彼女の後ろ姿が脳裏をかすめた。

 情けないほど涙が出てきた。

 

 ただ、そばにいて欲しいだけなのに。

 それだけなのに。

 

 自分はまたなにかを失ってしまうのだろうか──考えるだけで体がひどく震える。

 眠気はとっくに尽きていた。

 

 

 *

 

 

「いってらっしゃい」と「いってきます」のやり取りがない朝が過ぎて、PCとタブレットにメンチを切るだけの午前が終わった。気を紛らすためにやってるような仕事に生産性や効率性なんてあるはずもなく、論文の執筆は滞り、新社会人のようなアホなミスばかりを連発し、そのくせデバッグやバグの報告やら新規開発の計画とそのグラントの申請関係やらの仕事はネズミ算式に膨れ上がっていった。

 タスクマネジメントもクソもないなと笑う。

 そして気づいたときには時計の針がすべて真上を向いていた。

 休もう。捨てばちな思考で何をやっていたかも分からない作業を一時中断し、昼休憩のために彩葉は椅子からよっこら腰を上げる。

 研究室を出る。

 階段を上がる。

 屋上に出る。

 ちなみに屋上のドアには「関係者以外立入り厳禁!」の張り紙があるが、所長である自分が関係者でないはずがないという理論でいつも素通りしている。

 無機質な貯水槽と原色のペンキで塗られたフェンスくらいしか目につかない屋上をのろのろ歩き、ドアから一番遠いフェンスの金網にガシャンと背中を預けた。手持ち無沙汰に白衣のポッケに手を突っ込むと、朝ココアと買い間違えて入れっぱなしだった無糖コーヒーが爪の先端にカチと触れた。

 まあいいか。構わず冷えきったデミタス缶を引っぱり出し片手でプルを開け、

 ひと口、

 

『ブラックなんて飲めたんだ。大人になったね〜』

 

 危うく噴き出しかけた。

 近くから誰かの声がした。

 口の端から伝っていくコーヒーをあわてて手の甲で拭い、声の出どころを探す。が、すぐに心当たりを見つけ出した彩葉はもう一度ポッケの中をガサゴソやり始めた。

 プライベート用のスマホを抜き取り、真っ黒な画面に向かって「彼女」の名前をつぶやく。

 

「……ヤチヨ?」

『ご名答〜!』

 すると画面が唐突に切り替わり、液晶には楽しそうに笑う〝推し〟の姿が映った。

『じゃっじゃーんっ。お昼の時間からヤオヨロ〜! 午後一番のヤッチョで〜す。彩葉が最近ぜんぜん配信きてくれないせいで、涙ちょちょ切れのヤチヨさんでもありますよ〜』

 トホホ〜、とでも言わんばかりの顔だ。彩葉は毒気を抜かれた思いで薄い笑みを浮かべ、

「ここんところちょっと忙しくて……でもアーカイブはちゃんと観てるから」

『うーん。できればリアルタイムのヤチヨを見てほしいんだけどね。まあ無理は言わないさ』

 

 そう言ってヤチヨはぷふふ、と笑う。

 崩しっぱなしの相好に無意識にかぐやの面影を重ね、自然と彩葉の口角は下がる。それを悟られまいと無理やり話題を繋げ、

 

「それでどうしたの。私のスマホから登場なんて何のサプライズ?」

 ヤチヨは変わらず笑ったままで、

『お悩み様のようだからね。私でよければ相談相手になれたらな〜って思って馳せ参じた次第ですよ』

「え」

『かぐやのことで悩んでるんでしょ?』

 

 言葉に詰まった。さらに図星を突かれて彩葉がひるんでいるあいだに『ヤチヨはエスパーだから全てお見通しなのです』といつぞや聞いたようなセリフを続けざまに受け、誤魔化しの術を先んじて封じられた気分になる。

 不承不承ながらも素直にこくん、とうなずく。と同時におそるおそる、

「──もしかして、ぜんぶ知ってたりするの? 昨夜のこと……」

 やはりヤチヨは笑ったままで、しかし微妙な間を持たせてから、

『エスパーですので』

 

 ストーカーだこの人。

 どんな手を使ったのかは分からないが、盗み聞きやら盗撮やらしていたのは間違いないと彩葉は確信する。

 推しにストーカーされる。

 どんなオタクの妄想だよと思う。

 だが、存外悪い気はしないかもなとも思う彩葉である。

 ヤチヨは当然のように笑ったままで、

 

『子供が欲しいって話だったね』

「っ、う、うん……」

 いきなり昨晩の記憶のしっぽをつかみ引き戻され、彩葉はたじろいだ。

『難しいね〜。ヤチヨも八千年を生きてきた身としてはかぐやの言葉に深く深く同感しちゃうし〜、かといって彩葉の考えも理解できるところはあるし〜』

「わっ、私の考え?」

 本当にエスパーみたいなことを言うなあ、という彩葉の丸い目にヤチヨはふふんと得意げにうなずき、

『この十年、ずーっとそばで見てきたからね。言葉にせずとも、彩葉がどんなことを考えているか予想するくらい今のヤッチョには朝御饌前なのです』

 八千年というセリフのあとに十年とつづくと途端にチンケなもんに感じてしまうが、それでも彩葉からすれば生きてきた時間の三分の一に匹敵するのだ。ヤチヨの言葉は心づよいし、頼りたくもなる。

 彩葉は少しだけ寄りかかる気持ちで、

「ヤチヨは……ほんとに何でも知ってるんだね」

『何でもは知らないよ。せいぜい八千年分の好奇心の範囲内くらいさ』

「そっか」

 あまりにも頼りがいがある。

 頼りがいがありすぎるその言葉には、確かな力があった。力は勇気を奮い起こし、奮い起こされた勇気は彩葉の胸の奥底に居着いている不安のかたまりを引っぱり上げてくれる。

 顔を上げた。

「あの、ひとつヤチヨに訊きたいことがあるんだけど……いい?」

『ひとつと言わずいくらでも』

「かぐやのことについて。実は少し前から気になってることがあって」

 なんだいなんだい、とヤチヨはあくまでヤチヨのテンションのままで訊ねてくる。それが少しだけ安心する。

 そして彩葉は不安のかたまりを投げかけてみた。

 

 

「──かぐやの体は、月人に戻りかけてるの?」

 

 

 その問いにヤチヨはなにも答えなかった。彩葉の次の言葉を待つかのように、黙ったまま微笑をたたえている。

 彩葉はつづけて、

「前々から違和感はあった。けど、それが初めて確信に近い形で現れたのは先月のかぐやの定期メンテナンスのとき。体内システムにバグやエラーがないかを調べるためのものなんだけど、そのときにかぐやの脳波から未知の高周波が幾度も観測されたり、ホルモン分泌が過剰におこなわれた痕跡がいくつもあったりした。その後も髪の毛の色素が一部自在に変化したっていう報告もあったし、あと他にも、」

『あんまり難しいことはヤッチョには分からないな〜』

「──要するに、今のかぐやの体は人間としても機械としても不可解な点が多すぎるってこと。そしてそれは、かぐやの体内で少しずつ月の人間に戻るための準備が始まっているせいなんじゃないかって、私はそう仮説を立ててる。ヤチヨはどう? なにか知ってることない?」

 ヤチヨは『ん〜〜〜〜〜〜』と晴天と同じ色の瞳を斜め上に向けて思案にふけっている。まるでそこに何かの答えがあるかのようにじっと一点だけを見つめ、

 その瞳がふたたび彩葉の顔に戻るとほんのばかり真面目を含ませた声を返してきた。

『どうだろう。さすがのヤチヨもツクヨミの中以外のことに関しては全知全能とはほど遠いただのお姫様ですので』

 でも、とヤチヨは言葉を繋げ、

『ヤチヨ的にも、彩葉のその仮説は決して突飛なものでもないと思うな』

「…………そう」

 

 ヤチヨはよくこういう言い方をする。本当は何もかも分かっているくせに、欲しい答えなんていくらだって持っているくせに、わざとこうやって濁した、遠まわしな答え方をする。

 それは相手を気遣うゆえの優しさなのだと思う。けれど、その優しさが今は可能性を裏づける後押しになってしまった気がしてとても悲しい。

 コンクリの地面に彩葉は目を落とした。

 日々の中でも思うところはあったのだ。

 家に帰るとかぐやがベランダにいて、UFOでも探すようにボケーッと夜空を見上げている光景を五回は見た。パンケーキをはやく食べれるようになりたい、さっさと味覚機能を搭載しろとせがんでくることも最近はめっきりなくなった。もしかすると、かぐやはどこかの時点で自分の体のことを理解してしまったのかもしれない。同時に、自身の行く末のことも。

 月人は不老不死だ。

 老いることも、死ぬことも、彼らの常識の埒外にある。

 今になって考えれば、かぐやがあんなに意地になって子供を欲しがっていたのも、やがて来たる途方もない孤独と絶望の時間から必死に自分に助けを求めていたからなのではないかと思う。だとすれば、事もあろうに自分はそれを論理で無理やりねじ伏せ、真っ向から完膚なきまでに拒絶してしまったことになる。かぐやが救いを求めて伸ばしてきた手を、自分は無慈悲に蹴りのけてしまったのだ。

 あのとき、かぐやはどれだけショックだっただろう。

 想像するだけで心臓が痛くなる。そんなつもりじゃなかったと腹の中で言い訳を吐く自分がたとえようもなく腹立たしい。

 

「……もしも仮説が現実だとして、それでかぐやが完全に元の体に戻っちゃったら、やっぱりまた月からお迎えがくるのかな」

 理屈や論理で飯を食っている彩葉とて、仮定に仮定を重ねてでもその未来予想図の可能性については確かめたくもなる。

 ヤチヨは今度はきっぱりかぶりを振って答えた。

『それはたぶんないだろうね。月人は基本的に争いごとを好まない。迎えにいけば抵抗されるなんてこと彼らも前回の経験から目に見えているだろうし、わざわざ火中に突っ込んでまでかぐやを連れ帰るメリットはもうないはずだよ』

「そ、か。それは……よかった」

『それでも不安は尽きないって顔だねえ?』

 そう言うヤチヨは底抜けの明るさを見せてくる。

「だって、今のままじゃかぐやが、」

 かわいそう──とは罪悪感が邪魔をしてついに言えなかった。彩葉はいつまでも顔を上げられない。かぐやにかけるべき正しい言葉を地面を読んで探している。

 ヤチヨはやはり、当然のように、まったく変わらず笑ったままで、

 

『──それじゃあ、今からその不安のラスボスをやっつけに行っちゃう?』

 

 反射的に顔が上がった。

「……は?」

『ここに向かって』

 そのとき、スマホが勝手にマップアプリを起動し画面がヤチヨの顔から地図に切り替わった。自動で目的地の住所が入力・設定され、そこまでの道のりが青のルートで表示され始める。スピーカーからヤチヨの声が、

『さあっ、いざいざレッツゴー!』

「い、いやゴーじゃなくて……え、なにこれ。どこに向かわせる気?」

『それは〜〜〜っ、着いてからのお楽しみってことで。到着までのナビゲーターはヤチヨが担当しますので、どうぞよしなに』

「いやいやムリムリ。なんかこわいって。てか私、これからまた仕事だし」

『休んで?』

「そんなっ」

 せめてもうちょい説明してよぅ、という彩葉の泣きの懇願に『じゃあヒントね』とヤチヨがイタズラっぽい声で返し、

 おどけた調子でただひと言。

 

『タケノコ』

 

 

 *

 

 

「──やっぱここだったか」

 

 急きょ午後から休みをもらい、白衣もそのままに年甲斐もなく走り出した彩葉は一時間近くかけて目的地にたどり着く。どこに向かっているのかは道中でおおかた予想がついたため、ヤチヨのナビは途中からほとんど聞いていなかった。

 場所はとあるマンションの一室だった。

 そんじゃそこらのとあるマンションの一室ではない。

 部屋を埋め尽くす大量のデスクトップPC、室内温度を間違いなく二、三度は上げているストレージ機器とネットワーク機器の山、コンセントから伸びるたこ足配線のジャングル、床を流れる色とりどりのケーブルの川。ゴリラの檻の中のほうがまだ清潔だと思えるような雑然とした部屋の中央には謎の液体で満たされた大型水槽が置かれ、その中に何を血迷ったかタケノコが沈められている。紛うことなきタケノコがぼこぼことエアーポンプの泡を受けてゆらゆら揺れている。

 ここは何なんだ、とはいまさら言うまいが、いつ来てもここは異質すぎる空間だなと彩葉は思う。

 

『ヤチヨのお部屋にようこそ〜』

 ポッケの中でヤチヨが言った。スマホを取り出し、

「ヤチヨの部屋ではないでしょ。いまは私が管理してるんだし」

『まあまあいいから。それより上がって』

「上がるったってなあ」

 玄関より先はまさしく未踏の地である。これでも年一で掃除には来ているはずなのだが、どういうカラクリか来るたびに散らかりが増している。彩葉は仕方なく靴を脱ぎ、すり足でズズズとケーブルや機器を押しのけるようにして歩きながら水槽の近くに寄った。

「『もと光る竹』だっけ? ヘンな名前。誰が付けたんだか」

『ふふ。でもこれこそが月の超テクノロジーの結晶にして、ツクヨミサーバーの本丸にして──』

 

 ──ヤチヨの心臓

 

 ふんっと彩葉は豪胆な鼻息を一発。なにが超テクノロジーだと思う。こいつがポンコツのせいでかぐやもヤチヨもどれだけ苦労してきたというのか。こいつさえもっとしっかりしていれば、世界はなんの不自由もなくハッピーだったかもしれないのに。

 ヤチヨに顔を向け、

「それで、ラスボスってのは? まさかと思うけどこのタケノコロケットのこと?」

『いかにも』

 ヤチヨは笑っている。これがヤチヨのいつもの冗談であるならば自分も一緒に笑い飛ばしてやろうかもと思うが、

『その「もと光る竹」を沈黙させられれば、かぐやの月人化も止まると考えていいよ』

「…………マジ?」

『大マジ』

 理解が追いつかない。考えるべきことがあまりに多すぎる気がする。それなのに得体の知れない黒いモヤが思考の領域に染み込み、じわじわ拡大していくのを感じる。

 彩葉はしばし首をかたむけ、まず最初の質問。

「──沈黙って? まさかこいつをぶっ壊すとか……?」

『そんな乱暴なことしなくっても大丈夫。ざっくり説明すると、「もと光る竹」の自動修復装置がかぐやの思念に反応して月人化を促進させてるってのがいまの状態。だから、そのアンテナが届かなくなる範囲にまで「もと光る竹」を持っていけばそれで万事オッケー、たぶんね』

 二つ、

「どこまで持っていけばいい?」

『そうだねえ。月……までは大変だと思うから、たかいたかーいお山の上とか。ひくいひくーい海の底とか。地上とはちがう環境で、なおかつ簡単には人の手に触れられない場所がいいかな、おそらくね』

 三つ、

「……じゃあもし、これを上手いことどっかに持っていけて。かぐやの月人化もそれで阻止できたとして──」

 唾を飲みこみ、

「ヤチヨは、ツクヨミはどうなる……?」

『むむぅ、たしかにどうなるのかなあ。やや、いとむずかし』

「しらばっくれないで。知ってるならちゃんと真面目に答えて」

 ヤチヨは長い息を吐き、

『──ツクヨミなら大丈夫だよ。バックアップは既に完了してある。「もと光る竹」がなくなったとしても、多少サービスの質は落ちるかもだけど他のサーバーでも運営はつづけていけるよ。よかったよかった、ひと安心だね』

「…………ヤチヨは?」

『ヤチヨは、うん、そうだねえ。いままでは「もと光る竹」内の維持プログラムが充電や記憶整理なんかの内部処理をやってくれていたわけだし。だから、』

 それからまた長い長い時間をかけて、

 ようやく、

 

『こうやって彩葉と楽しくお喋りすることは、そのうちできなくなっちゃうかもね』

 

 予感は当たっていたのだと思う。何もかも予想外だなんて気はしなかった。しかし、漠然としていた不安が石になって胃の底に落ちた衝撃と痛みを無表情で誤魔化し切ることもできなかった。

「──やっぱり」

 彩葉は震える手をこぶしにして固める。胃の底の石が怒りに変換され、口から吐き出される。

「だったらその方法はなしだよ、なしっ、却下! 論外っ!」

『これがダメなら他に方法はないよ。あ、それともみんなで月に住む?』

「かぐやが月に帰ることになるじゃん! 本末転倒だよっ」

 必死にかぶりを振って、

「ねえウソだよね? どうせまたタチの悪い冗談なんでしょ? 本当は他にも何か手だてはあるんでしょっ?」

 そんなものはない、とヤチヨもふるふるとかぶりを振って返す。

「っ、だとしても、ヤチヨは、ヤチヨはそんなのを大人しく受け入れる気なんかないよね……? だってそんなことしたら、みんな悲しむよ? ファンを悲しませるの?」

 ところが、これに関してはヤチヨは実に涼しい顔でこう言いのけた。

『でも、それが運命であるのならヤチヨも従わざるを得ないかな』

 

 言葉は尽きていた。

 最初から、説得のよすがなどなかったのかもしれない。そして最初からヤチヨは自分の身を捧げるつもりだったのだと、やっと胃の腑に理解が落ちた。さもそれが当然の摂理であるかのように、抗いようのない確定した未来であるかのように、すべてを達観したような顔でヤチヨはほほ笑んでいた。

 その笑みを見て、急激に彩葉の体内を流れる血液が沸騰し始める。

 本気であったまきた。

 なにが運命だ、馬鹿ヤロー。

 狂犬のような顔で彩葉が食ってかかろうとする前にヤチヨはまたパッと顔を明るくさせ、

『ヤだなあ、そんなこわい顔しないでよ。──なんとびっくり! 真のラスボスの正体はヤッチョだった!? みたいなオチじゃあないんだからさ』

「ヤチヨはさっ、」

 水槽の中のタケノコが泡に押されて深海生物のように不気味にうごめいている。咳き込んだエアーポンプから吐き出された大きな空気のかたまりが水面に浮上していく。

「なんでヤチヨは、そんな顔してられるのっ。どう考えたってこんなのダメだよっ、間違ってるよぜったいっ」

『間違えてるって?』

「だって、」

 水面に到達した泡が「ぼこり」と音を立てて弾けた。

「これのどこがハッピーエンドなの……?」

 

 自分はいったい今まで何をしてきたのだろう。

 こんな結末のためにここまでやってきたわけではなかった。かぐやか、ヤチヨか、どちらかを取ることしかできない。そんな二択はこの世に決してありえてはならない。

 ならば、どうしてこうなってしまうのか。自分たちはもうエンディングにたどり着いたはずではなかったのか。なぜ運命はこの期に及んでも自分たちを引き離そうとしてくるのだろう。

「私はこんなのを結末だなんて、ぜったいに認めないっ!」

 ヤチヨもかぐやも、変わらずにそばにいてくれればそれでいい。

 望みは、それだけなのに。

 そのとき、

 

『──いろは』

 

 普段と違う、どこか懐かしさを覚える呼び方だったように思う。

 ふと見ればヤチヨの顔から笑顔が失せていた。静かに諭すような声で、

『世の理は月の満ち欠けのごとし。時は移り、命は巡り、何物も不変ではいられない』

「ヤチヨ……?」

『変化を恐れない前進はその身を傷つけることがあるかもしれない。だけど、変化に臆してばかりの前進はいつかその歩みすらも止めてしまう。止まったままでは終点にたどり着くことさえ叶わない』

 頬の内側を噛む。抽象的なセリフの中に、たしかな自分への当てこすりを感じた。

「わからない。なにが言いたいの」

『彩葉もよ〜くわかってることさ』

 そしてヤチヨはいつもの顔にもどった。

『彩葉はこれまでたくさんたくさん変わってきた。だからここまでやって来れた。辛いことも大変なこともあったけど、それでも挫けず歩きつづけてきた。お母さんと仲直りもできたし、心の底から笑うようになった。いっぱい勉強して所長にもなって、そんな格好もしてる』

 彩葉の白衣姿を愛おしそうに見つめ、

『彩葉が今こうして立っているその場所はね、彩葉がかぐやを取り戻したいその一心で、苦い結末を塗り変えようと進みつづけてきたからこそたどり着けた場所なんだって、ヤチヨは思うよ』

 彩葉も自分の体を見下ろす。ようやく自分が白衣のまま出てきたことに気づいて恥ずかしくなる。

 いたたまれなくなって目線をさまよわせた。

「……いまの私に、もうそんな根性は残ってない。失うことを怖がってばかりで、相手の気持ちに真剣に向き合う勇気も出ない。すっかり腰抜けだよ」

『それは少し違うかな。彩葉が変化を恐れているのは、心の底から守りたいものができたからなんだよ。彩葉が弱くなったからなんかじゃない。腰抜けだとも思わない』

 だからね、とヤチヨは言葉を継ぎ、

『もう一度だけ、歩き出して欲しい。まだここはゴールじゃない。ここからが本当に最後の道なんだ。大切なものをこれからもずっと守りつづけていくために、あともうちょっとだけ彩葉には足を前に送り出して欲しいの』

 彩葉は一往復だけ首を横に振る。

「ヤチヨだって大切だよっ……その道の先にヤチヨがいないのは、私が望んだ結末じゃない」

『……嬉しい。でもそれは、選択から逃げていることになるね』

 彩葉の目が少し見開かれる。ヤチヨの言葉には慈悲はあれど、容赦はまったくとしてなかった。

 不自然なまでにヤチヨは軽い口調を作り出し、

『まあ安心して。ヤッチョは死んだり消えたりするわけじゃないからさ。ただちょっと眠りにつくだけだよ。ひょっとしたらそのうち何かの拍子で勝手に目が覚めたりすることもあるかもしれないしね。だからこの選択はそんな深刻に考えなくても大丈夫。もうゴールはすぐ目の前なんだからこのままパーッと走って、パパーッと本当のハッピーエンドを迎えちゃって欲しいな』

 

 それは自分自身に言い聞かせる言葉でもあったように思う。当然だ、世界との繋がりが途絶えてしまうことがどれだけ心細いことなのかをヤチヨが知らぬはずがないのだ。この世の誰よりも理解している。これまで多くの人を見送ってきたからこそ、去りゆく者の立場が痛いほど分かるに違いないのだ。

 本当は気が遠くなるくらい寂しいはずなのに、なぜヤチヨは笑ったままでいられるのだろう。

 その疑問は、十年も前の記憶が答えてくれた。

 

 

 ──それがヤチヨだから

 

 

「──ねえ」

『なあに』

「ヤチヨは、私を変わったって言ったよね」

『言ったね』

「変わっていく私を見て……ヤチヨはどんな風に思った?」

 ヤチヨは即答する。

『すごくかっこいいって思ったよ』

 

 彩葉はふたたび白衣を見下ろした。三十秒ほど無言で立ち尽くす。もはや「白」という定義からも外れ、苦労たちの汚れと試行錯誤どものシミに彩られた白衣を彩葉は見つめつづける。

 やがてひとつの決意の断片が顔を出した。

 目を閉じ、細長い息を吐き出す。それから口の中でもう一度つぶやいた。

 

 なにが運命だ、馬鹿ヤロー。

 

 決意はそこで固まった。というより、無理やり心にねじ込んだ。

 次の瞬間、彩葉は荒々しく息を吸った。肺がはち切れんばかりに吸い込み、しばらく息を止め、それから押しつぶれる直前まで吐き出す。

 そして目を開き、こぶしを固め、覚悟も固め、唇をかみしめ、怖気づく体を叱り飛ばし、最後に胸に誓った。

 

 私が──

 

「──わかった」

 唇だけでそう告げる。

「ヤチヨがそう言うのなら、わかった。『もと光る竹』は、私が責任を持ってどこかに破棄する」

 その言葉にヤチヨは安心したように目を閉じる。ありがとう、そうつぶやきかける。が、

「その代わり、そのあと私に一年時間をちょうだい」

 突如として、その安心しきった穏やかな顔に彩葉は人差し指を一本突きつけてやった。

『え?』

 人差し指を「もと光る竹」に向け変え、

「一年で私がこいつの代わりを作るから」

『か、代わりって……』

「かぐやの体に悪させず、今まで通りヤチヨの内部処理をきっちりやってくれて、かつツクヨミの質も落とさずにばっちり働いてくれる、そんなプログラムを私が再構築する」

『あはは……無茶言うねえ』

「このタケノコの解析記録は過去におこなったものがしっかり残ってる。ヤチヨのデータは私の頭の中にどっさりある。プログラミングは科学者の基礎知識。資金は……内輪で応募者を募ってまた何とかすればいい。無茶なことなんて何もないよ」

 ヤチヨは困った顔で笑い、

『そんなことしなくても別にいいんだよ。彩葉には今やってる研究があるでしょ?』

「もちろんそっちを蔑ろにしたりはしない。女一匹、孤高の在野精神で作り上げてやる」

 

 無茶苦茶だ、という顔でヤチヨは苦笑する。たった一人で、それもたった一年で完成させるなんて不可能に決まってる、体が持つわけない、研究のしすぎでとうとう天才からバカに化学変化でもしたのか、とでも言いたげな目をしている。

 彩葉だってそう思う。

 正直、勢いで言ってしまったところはあった。それは認める。現在の研究の片手間に月の超テクノロジーと同等のものを開発するだなんて控えめにいってイカれている。ヤクでもキメなきゃやってられない。

 だが、それでもやるしかなかった。やるったらやるのだ。

 それが酒寄彩葉だから。

 運命様のお出しする筋書きに一喜一憂するのはもうウンザリだった。ならば、自分が神にでも悪魔にでもなってやろうと思う。かぐやか、ヤチヨか、ではない。両方まとめて縄にしばってでも自分が作り出したエンディングまで引っ張っていく。

 それが、自分の選ぶべき選択だと彩葉は信じた。

 

『……彩葉に無理はして欲しくないな』

 ヤチヨが遠慮がちにつぶやく。しかし、

「心配無用。やりたいことができた私は無敵だよ。かぐやの体には十年かかったけど、ヤチヨはそんなに待たせない。ぜったいに一年で完成させるから」

 約束する、と彩葉は最後に言い切った。

 八秒の沈黙が流れた。ヤチヨは伏せ気味だった顔をのっそりと上げ、ふうとため息。それから急に風船がしぼむような脱力した笑みを見せる、

 

『──あーあ、上手くいかなかったかぁ』

 

 急になんだ、と彩葉は目をしばたたかせた。まるで正体を見抜かれたラスボスが本当の姿を明かす直前に吐くセリフのような。

「な、なに? ……まさか、今までのぜんぶウソだったとか言わないよねっ?」

「ちがうちがう、そうじゃないよ」

 ヤチヨはクスクス笑いながら芝居がかった声色で、

『かぐやのために犠牲となって眠りについたヤチヨ……彩葉の胸の奥底に一生消えない傷跡としてヤチヨは残りつづけ、明日も彩葉は生きていく──みたいな流れになるかもって、ちょっとだけワクワクしてたんだ。でもまさかこんな展開になるとは……いやはや彩葉はパッションが強すぎるよ。ヤッチョの読み違い、完全敗北なのです』

 トホホ〜、とヤチヨは最後に言い切った。

「な、なにそれ、重……」

 

 ナルシスティックなヒロイズムもここまでくると狂気に近い。そして彩葉は怒りや呆れも飛び越えて、軽い恐怖の境地であった。

 推しからの感情が重すぎる。

 どんなオタクの妄想だよと思う。

 だが、それもやはり存外悪い気はしないかもなと思う彩葉である。

 気を取り直して、

 

「──ともかくそういうわけだから。一年後、私が必ずヤチヨを起こしにいく。それまでは色々と大変な思いをさせちゃうと思うけど……本当、ごめん」

『謝ることなんて何もないよ。ヤチヨは待つことに関しては一日と言わず八千年の長があるからね。ハチ公も真っ青な忠犬ヤチ公なのです』

「んふ、変なの」

 いつも通りヤチヨは軽い冗談を飛ばしてくる。そのいつも通りがなんだか嬉しいやらおかしいやらで、思わず彩葉の口から笑いがこぼれた。つられてヤチヨも目を三日月のように細め、頬も染めて、

 ぽつりと、

 

『──その笑い方は昔のまんまだね』

 

 そのとき、エアーポンプがふたたび咳き込むように大粒の泡をひとつ「ボコッ」と吐き出した。ヤチヨが何かつぶやいたような気がして彩葉は訊ねる。

「なんか言った?」

『うん、言ったよ〜』

 ヤチヨは一瞬だけ恥ずかしそうに顔をうつむかせたがすぐに視線を上げて、

『──ありがとね、って言ったの』

 

 相も変わらずおどけた調子で、笑った。

 

 

 *

 

 

 やることは決まった。

 あとは脇目も振らず、最後まで突っ走っていけばいいだけの話なのだ。彩葉にとってこれほど簡単なものもない。

 だが、その前にやらねばならないことがある。

 

『とにもかくにも、まずはかぐやと仲直りしないとね。ごめんねのチューでもしちゃお。彩葉は言われた通りに動いて? ヤッチョがセコンドやるから。「今!」ってタイミングを教えてあげるから。そしたら彩葉はえぐり込むように明日のために渾身のチューを、あウソウソ冗談だから切らないで待っ』

 

 そうやってヤチヨからも液晶越しに発破をかけられ、あちこち脇目を振りながら彩葉はようやく立川まで舞い戻ったのだった。ちなみに白衣は通勤カバンの中に押し込み、いまは紺のテーラードジャケットを着込んでいる。

 時刻は午後四時ちょっと過ぎ。

 あと三十分もすれば近隣住民がそのタワマンを「魔王城」と呼び始める時間帯、彩葉もぼんやりと自宅を見上げていた。妙な緊張感が胃液と混ざりあって腹が重たい。胸の鼓動が走り、聞こえなくてもいい音が聞こえ、見えなくてもいいものまでハッキリと見えてくる。

 電車とモノレールの走行音が遠くでする。学校帰りの学生二人が担任の悪口で盛り上がっている。観光らしき外国人たちが大声でベラベラ何かを話しながら目の前を横切る。蛍光色のベストを着たカラオケ屋の客引きが「ドリンク無料!」の看板を持って眠そうに突っ立っている。誰かの足跡がついた犬のうんこが道にこびりついている。

 夕焼けの始まった空の上で、満月が青白く輝いていた。

 唐突に我に返った。ぶんぶんと首を横に振る。

 いつまでこんなとこでグズグズしてる。かぐやと腹割って話して、その後はタケノコの件も伝えないといけないんだ。さっさと家に帰ってかぐやと顔を合わせろ。時間稼ぎはもういいだろ。いい加減その甘ったれ根性を捨てろ──。

 最後に両手でぴしゃりと自分の顔を挟んだ。

 よし。

 意を決した。大げさに胸を張り、大股を開いて彩葉は歩き出す。入口の自動ドアを抜けてエレベーターに一直線に突っ込んでいく。一緒にカゴに乗ってきた同じマンションの住人に階数を訊かれたので、自分でボタンは押さずに済んだ。二十秒もしないうちにエレベーターに吐き出され、ほとんど空威張りの歩調で自室へ、

 着いた。

 途端に脚が震えた。

 今朝は言えなかったけど、今度はちゃんと言おうと思う。気合いを入れながらカードリーダーに磁気面を読ませてドアを開けると同時に、

 中に向かって、

 

「たっ、ただいまっ」

 

 人感センサーにより電気は自動でついたが、返事は返ってこなかった。もう一度めげずに「ただいまぁっ」と声を送ってみるが、それでも返事はない。

「かぐや? いないの?」

 暖色のライトに照らされた廊下が奥のキッチンとパントリーの暗さを余計に際立たせている。いつもなら帰宅すると必ず明かりがついていて、そこからかぐやが飛び出してくるはずだった。

 部屋にこもっているのかもしない、そう考えた。今朝だって居間に顔を出さなかったしそう考えるのが妥当だ。きっとそうなのだ。

 靴を脱ぎ、スリッパラックにジャケットとカバンを引っかけて上がる。『かぐやのへゃ』という手書きのドアプレートが吊るされた扉をノックする。

「あの……ただいま」

 無言。

「ごめん。えっと、昨日のこと、話がしたくて。いい? 開けるよ?」

 二度目も返事はない。いるにしてもいないにしても開けて中を確かめなければならないと彩葉は思った。ドアノブをまわし、おそるおそる隙間から首を覗かせ、

 

「……いる?」

 

 もぬけの殻だった。

 ベッドに潜りこんで居留守を決めこんでいるのかと思い、そろそろと部屋に入って布団を引っぺがしてみたがやっぱりいない。

 出かけてるのか。

 伝統的に散らかっているかぐやの部屋だが、たしかにそう思わせるところが間違い探しのように点在した。開けっぱなしのタンスとクローゼット、ベッドの上に脱ぎっぱなしの部屋着。お気に入りのウールコートといつも外出するときに持ち歩くトートバッグが持ち主同様に見当たらなかった。

 一気に体から力が抜けた。体内に溜めこんでいたエネルギーが室内の闇に霧散する。

 やはり買い物にでも行ったのだろう。頭の八割はその思考に乗り換えた。それならそれで一向に構わない。もう少しだけ心の準備ができると安心できる。

 が、残り二割は不審な点を睨みつづけていた。

『酒寄法』である。

『酒寄法』とは、放っておくとあらぬ狼藉に働くかぐやを律するため、彩葉が定めた家庭内ルールのことである。その中には「外出する際は必ず相手にひと声かけるか、書き置きもしくはスマホでメッセージを残しておくべし」というものもあり、これらを破った場合は死刑か一ヶ月間の風呂トイレ掃除およびゴミ出し当番などの罰則が待ち受けている。横紙破りと自由気ままが服を着ているようなかぐやでも、これには基本大人しく従っている。

 だが、彩葉のスマホには今日一通としてかぐやからのメッセージは来ていないし、リビングもさっき見てきたが書き置きらしきものは置いていなかった。

 どうせうっかりしていただけなのだろうという現実的な自分もいる。そういうことが今までも何度かあったのだ。しかし同時に、昨夜のかぐやの泣き顔を思うと「もしかしたら」を完全に捨てきれない自分もいた。

 スマホを取り出す。メッセージアプリからかぐやのチャット欄を開き、そこに彩葉はスタンプを爆打ちし始めた。一分ほどかけて二〇〇以上は送った。相手からすればスマホが間断なくバイブしていただろうし、これほどウザい嫌がらせもない。すぐにかぐやから「やめろよこのー」とか何とか返ってくるはずだ。

 そう信じて三十分が経った。

 人生でもっとも瞬きの少ない三十分間だった。

 しかし結局、その間に返信はおろか彩葉の送りつけたスタンプの滝に既読すらもつくことはなかった。

 すでに思考の八割は不安に差し替わっていた。

 素直に通話に切り替えることにする。スピーカーを右耳に押し当てコールの音を聞き、反対側の耳から意地悪な妄想がささやいてくるのを聞く。

 左耳の妄想はささやき続ける。バカだな、お前のせいでかぐやは家出しちまったんだよ、もう二度と戻ってこないよ、あいつは今ごろ月行きのロケットに乗せてもらいにヒューストンに向かってるよ、NASAが緊急で立案し急ピッチで開発した『KAGUYA一号』はすでに配置済みだ、かぐやが到着したら即座に搭乗して打ち上げ開始の手筈となってる、いまさら止めようったってもう遅い、かぐやは月に帰るって決めたんだから。

 右耳のコールは途切れない。四コール、五コール、六、七、八、九、

 電子音は永遠につづくかのように思えた。ゆっくりと時間をかけて彩葉の頭の十割が冷えていく。

 

 

 

 同刻。

 高尾行きの中央特快は国分寺に近づき減速を始めている。帰宅ラッシュが始まる時間帯ということもあり中央付近の車両はどこも揃ってイモ洗いに近い状態だが、先頭後方車両とてそうは変わらない。

 そして、前から三つ目の車両にはかぐやの姿がある。運良く座れたシートにぐったりした様子でもたれかかっている。お気に入りの白いコートはところどころささくれのように毛羽立ち、ワンピースの裾は尻の下でしわくちゃに折れて、頭の中は彩葉同様に冷えきっていた。

 まったくもって破壊力バツグンの一日であったとかぐやは思う。

 数年先までの厄がぜんぶこの日にこぞってやってきたと思えるくらい色々なことがあった。

 まず、家を出てすぐ犬のうんこを踏んだ。思えばこの時点から始まっていたのかもしれない。ここで素直に引き返せばよかったのだ。それでも、昨晩のお詫びもかねて今夜は彩葉にご馳走を振る舞って喜ばせてやりたいという決意のほうが強かった。「運がついたからヨシ!」と前向きに足を送り、かぐやは買い物のため街に繰り出したのだった。

 そこからは目も当てられない。

 ICカードの残高が足りず駅の入場改札に弾き返されるわ、チャージの機械がメンテナンス中で切符を買おうにも買い方が分からず困惑するわ、買い方を訊ねたら態度の悪い駅員のオヤジに嫌味を言われるわ、寝過ごして知らない駅に着くわ、おまけにシートにスマホを置き忘れたせいで迷子になるわ、何時間もかけてようやくスマホを見つけたと思いきや誰かのイタズラで充電がゼロになっているわ、買い物を再開しようとしたら今度は財布を落とすわ、しかもこっちは結局見つからずじまいだわ、──他にも細かなところをあげればキリがない。

 幸いにもバッグの底にあった五百円玉とポケットに入っていた切符代の釣り銭で帰りの足だけはどうにか確保できた。が、そんなことで全部をチャラにできるほどかぐやも能天気にはなれなかった。

 こんなことなら、ぜんぶ立川で買い物を済ませればよかったんだと口の中で自分に文句を言う。わざわざ電車で遠出する必要なんてなかったんだ。伊勢丹とかルミネとか家から歩いていける距離だし、欲しい食材やらお菓子なんかも十分見繕えただろうに。

 ため息。

 それと同じタイミングで電車が停止し、運転手が自分に酔いしれた調子の語り口で到着と駅名のアナウンスを告げる。開いたドアからマシンガンの薬莢のようにドバドバ人が排出され、また新たにドカドカ入り込んでくる。移り変わる人の群れをかぐやはぼうっと眺め、その中に無意識に彩葉の影を探した。

 彩葉はいまなにしてるんだろう。

 スマホを開こうと思ったが、充電切れなのを思い出してすぐにコートのポケットに戻す。

 ドアが閉まる。電車が次の目的地に向かってのっそり動き出す。向かいの風景はすでに闇に沈み、うっすらと見える建物の輪郭が横に流れていくのを見る。ふと自分の後ろの車窓を振り返ってみると、赤と群青が混ざりあった空が広がっていた。

 今夜は何時に帰ってくるのかな、と思う。

 はやく彩葉に会いたい。

 昨日のことを謝りたい。

 

 

 

 同刻。

 シビレを切らし、スマホをベッドにぶん投げてから玄関まで転げるように走った。スリッパラックからジャケットをかっぱらう。あまりに乱暴にぶんどったせいでラックは派手に倒れ、来客用のスリッパが床にばら撒かれる。

 テキトーなシューズを突っかけて外に出た。オートロックが「カチャ」と背後で呼びかけ、頭の端っこでカードキーを忘れたことを叫ぶ声が聞こえるが、いまの彩葉の意識を覆すにはその程度では足りなかった。

 エレベーターを降り、自動ドアを勢いよく飛び出す。冷たい風を顔いっぱいに浴びて思わず彩葉は目を細める。右か左か、どちらにかぐやがいるのか分からずつま先を迷わせていると西の空に満月を見つけた。

 かぐやはあっちにいるのかもしれない。地面を蹴り上げ、月を追いかける。

 

 

 

 同刻。

 左隣でオッサンとオバサンの中間生物がぶーぶー寝息を立てている。そして車内にはまたアナウンスが流れていた。そろそろ立川に着くから降りる準備をしろ、座ってるヤツは危ないから電車が止まってから席を立て、出口は右側だ、ご乗車ありがとな。

 かぐやは立ち上がった。手すりにつかまりながらドアが開くのを待ち、開くと同時に「われ先に」の人混みに自分も合流する。立川駅のホームは毎度ながら風がつよいが、今日はいつにも増して元気だった。後ろで去っていく電車を横目で見送り、階段をのぼり、悲しくも端っこに追いやられた切符投入可の改札口を通り抜け、かぐやはペデストリアンデッキの上に躍り出る。

 外はほとんど夜になっていた。どこもかしこもギラギラと光の主張が激しい。月から見た地球はミラーボールのように輝いていたが、地上も同じくらいかそれ以上に明るいといつもかぐやは感じ、

 

「どうぞよろしくお願いしまーす!」

 

 ものすごくビックリした。

 いきなり誰かに声をかけられた。

 見知らぬ若い女だ。特に意味のない「よろしくお願いしまーす!」を繰り返しながら愛想笑いを浮かべ、了承してもいないのに問答無用で何か小袋らしきものをかぐやの両手にムリムリ押し付けてくる。かぐやは首をかたむけながら「なにこれ?」と問うが、女は受け取ったのを確認するとあっという間にかぐやに背を向け、次の獲物に狙いをつけて走り去っていった。あっ、そこのお兄さんもよろしくお願いしまーす!

 ──なんだよもう。

 よく見れば、あの女と同じようなのがそこらへんにもウヨウヨいる。おそらくティッシュ配りのバイトの類なのだろうが、かぐやが手渡されたのはティッシュではなかった。

 

『ポテチMAX 肉じゃが味』

 

 新商品のテストマーケティングとかサンプリングってやつだとかぐやは思う。

 内容量十五グラムの食べ切りサイズだ。ポテトチップスに肉じゃがをぶつけて、果たして味としてなにが残るのか疑問ではある。

 まあいいや。タダなんだし。

 もらえるもんはもらい、もらったら素直に嬉しいかぐやである。歩きながら封を開け、一枚取って口に放り込んだ。家庭内ルール『酒寄法』の中には「ご飯前の間食は控えるべし」といったものもあるが、一歩でも外に出ればどうせ治外法権だ。遠慮なくバリバリ噛みくだき、そしてもごもごと味を見る。なるほど肉じゃがと言われれば確かに肉じゃがの味がする、という身もふたもない感想が真っ先に浮かんできて、

 

 ──味、前よりちゃんとするなあ。

 

 次に、そんな実感がぼんやりと意識の表層にのぼってきた。

 ハッと我に返った。寒気によく似た予感が脳を突き刺し、その脳が全身に不安信号を飛ばす。血管の収縮、脳圧の低下、自律系神経回路の全群起動促進、すべてが彩葉がプログラムした生体管理システムによって体内で瞬時におこなわれる。

 立ち止まり、かぐやは少しのあいだその場でうつむいた。口の中にはまだ肉じゃがの味が残っている。頭の中には意地の悪い想像が充満し、それがどんどん頭を重くしてくる。

 ふと顔を上げると、「魔王城」の頭上で幽霊のような月がこちらを睨んでいた。

 やめてよ、とかぐやは思う。この体は彩葉が作ってくれたんだ。私の体は彩葉のもんなんだ。味覚だってそのうち彩葉がつけてくれる。約束もしてくれた。だからもう勝手なことすんな。これ以上、無許可で私の体に変なことしたら二度とお月見してやんない。

 走った。

 デッキの階段を駆け下り、トートバッグをばたばたさせながら月から逃げるように地上の道をかぐやは走り抜けていく。デタラメに腕を振る。必死に胸の内で叫ぶ。

 たすけて、

 たすけて、彩葉、

 彩葉のかぐやがなくなっちゃうよ。

 

 

 

 同刻。

 長いこと走っていたせいでだいぶ血の巡りも良くなり、冷えきっていた頭もあったまり、そして彩葉は西立川まで来ていた。

 ぶっ通しで二キロは走った。さすがにスマホも財布も持たずに真冬の夜をあてどなくさまよっていては、かぐやを見つけるより先に自分がくたばってしまう。それだけのことに気づくのに、膨大な体力を消耗してしまったことが嘆かわしい。

 両ひざに手をついて、肩で呼吸をする。コンビニの前で立ち止まっていた。周りがすっかり青い闇に染まっているせいで、店内からあふれ出る光がひどく頼もしく思えた。虫やチンピラたちがどうしてコンビニに集まってくるのか彩葉は少しだけ分かった気がする。

 光を浴びて一ミクロンくらいは元気になった。

 やっぱいったん家に帰ろう、そう思った。もしかしたらかぐやも戻っているかもしれない。いないならいないで、今度はヤチヨに相談してかぐやを探す方法を一緒に考えてもらおう。それから、

 それから──、

 中腰では耐えきれず、とうとう彩葉はその場にへたり込んでしまった。全身で呼吸を開始する。ジャケットの下で大量の汗が流れて気持ち悪い。そして気持ち悪いのは吐き気もするせいだ。体の節々がいつにない激しい運動を受けて悲鳴を上げている。昔は五キロでも十キロでも余裕で走れたのに、と悲しくなった。

 も、もう、無理、もう、走れない──。

 

 

 *

 

 

 玄関のドアを引き、真っ先に視界に飛び込んできた景色にかぐやの血の気が引いた。なぜかラックが倒れて、スリッパが辺りにぶちまけられていた。それに自分の部屋のドアも開いている。

 

「げ、もしかしてもう帰ってきてるっ……?」

 

『酒寄法』第十六条八項──外出する際は必ず相手にひと声かけるか、書き置きもしくはスマホでメッセージを残しておくべし──の文言がかぐやの頭に一句たがわず流れ込んでくる。

 やばいと思った。書き置きもメッセも残していない。

 彩葉が帰ってくる前には帰宅するよう気をつけていたつもりだが、どうせ自分よりはやく帰ってくることはないだろうと高をくくっていたところもある。今日だけじゃなく、いままでもそうやって彩葉に内緒で遊び歩いたり買い物に行ったりもしていた。

 その悪事がついに白日のもとに晒されてしまうのか。

 どうしよう。

 掃除もゴミ出しもイヤだ、めんどくさい。死刑もイヤだ、どんなことをされるのかいまだに分からなくて怖い。

 とりあえず、かぐやは目の前のスリッパラックを助け起こし、履き物も丁寧に元の位置に戻し始めた。少しでも善行を積んで自分の罪を圧縮しようと考えたらしい。靴も綺麗に脱ぎそろえて「た、ただいま帰りました」と玄関から震える声を送る。

 返事はなかった。

 怒って無視しているのか。それとも、彩葉はいないのか。正解はどちらなのか。

 こういうのを『観測問題』っていうんだっけ、と不意にかぐやはどうでもいいことを思い出した。前に彩葉から教えてもらったことがある。かぐやはそのときよく理解できなかったが、「毒ガスの箱にネコを閉じ込めるとかマジかわいそう」と感じたのは今でもよく覚えている。

 あちこち部屋を覗いて彩葉を探し、最後に本命のリビングに向かう。昨晩のこともあるし、まだ色々と顔を突き合わせるのが気まずいがまずはちゃんと謝らなきゃと思う。にゅっと廊下から顔だけを覗かせ、

 

「た、ただいま。あとおかえり……彩葉、あのね、」

 

 正解は後者であった。

 ホッとすると同時にかぐやは「あれえ」と首をかしげた。もしかして彩葉はまだ帰っていないのか。ならなんでドアが開いてたんだろう。スリッパもめちゃくちゃになってたし。

 ──まあいっか。

 ドアは普通に閉め忘れて、ラックは自分が知らないあいだにそこそこ大きい地震があったのだということにして、かぐやはひとまず自分の部屋に戻った。コートをハンガーに吊るし、下に着ていたワンピースも脱いで洗濯カゴに投げ込み、部屋着に変身してからスマホを充電ケーブルにぶっ刺す。

 

 さて、

 

 ひと息つけた。

 時計を見た。時刻はまもなく午後六時になる。夕飯の支度を始めるのもいいが、まずは疲れた体を癒してからでもいいだろう。いそいそと洗面所で手洗いと洗顔をして身を清め、それからかぐやは彩葉の部屋になんの迷いもなく入っていった。

 電気をつける。かぐやの部屋とは対照的に病室のように整頓された室内には彩葉のにおいが残っている。タンスの上の思い出の写真には、笑顔のかぐやと柔らかくほほ笑む彩葉のツーショットがいくつも並んでいる。

 勢いよくベッドにダイブした。

 ばいーん、と一度だけかぐやの体が跳ね上がり、ひんやりしたベッドシーツの上をかぐやは泳いでいく。枕を両腕に抱きしめる、スリスリと頬ずりする、顔を埋める。そのまま深く息を吸い込んで吐き出し、マタタビをキメたような顔になった。

 

「はあ……いろはぁ」

 

 自分は何をしているんだろうと思わなくもないのだ。

 しばらく前からこの変態的行為にハマってしまっている。彩葉がいなくて寂しい夜はこうして彩葉の欠片を寄せ集めて癒しを得るのが日課となっていた。「ネコ好きがネコを吸引するのと同じこと」というロジックで一応は自分の中で正当性の通り道を作った気ではいるが、はたから見れば言い逃れのできない痴態であることも分かっている。

 これをもし彩葉に見られでもしたら──さすがの自分も立ち直れそうにないなとかぐやは思う。三日三晩はベッドに巣を張るレベルの不覚だ。もうお嫁にもいけない。そのときは仕方ないので彩葉に嫁に来てもらうことにしようそうしよう。

 

 ──お嫁……か

 

 むくりと。

 顔を上げて、かぐやは枕を抱きしめながらごろんと仰向けになった。体はベッドの柔らかさに安心して脱力し、瞳は天井の一点だけをじっと見つめている。頭は自然と昨晩の記憶に引っぱられていた。

 においの酔いに霞んだ頭の中で、昨日このベッドの上でおこなわれたことが何度も繰り返される。

 なんであんなこと言っちゃったんだろう、とかぐやは枕を顔に押しつけた。胸の中心には墨汁のような黒い穴があき、その穴の中には後悔がうず巻き、後悔の源はやはり『婚姻の儀』にたどり着く。

 べつにウソをついたわけではなかった。『婚姻の儀』はたしかに月の世界に実在するし、肉体を持たない思念体の月人たちはこの仮初の儀式を経てから生殖していくという習わしを遵守していた。それは間違いなく事実だ。ただ、それははるか昔の大昔に廃れてしまった化石のような風習で、いま現在こんなことを大真面目にする月人は誰ひとりとしていないというのが現実だった。「愛し合う者同士で婚姻する」というのも、かぐやの願望的な表現に近い。

 そんなものをわざわざ引っ張り出してきて、彩葉と無理やり繋がりを得ようとして、結果的に拒絶されてしまった。悪いのは誰かと訊かれれば迷いなく自分だと答えるだろうし、他人に「百、キサマが悪い」と言われてしまえば、かぐやには返すひと言もない。でも、

 それでも、とかぐやは唇をかみしめる。

 もうこれ以外に方法なんて、なにも──。

 そのとき、張り出し窓にふと目をやると、ウソのような白い月と目が合った。

 

「────あ、」

 

 まばたきを忘れ、じっとかぐやは体を固める。三十八万キロ先から放たれる淡い光線は、まるで自分を連れ帰ろうと伸びてくる腕のように見える。

 

 本当は──、

 

 そこでようやく、かぐやは自分のことを理解した。

 本当は最初から、自分はすべてを諦めてしまっていたのだと思う。

 自分の体のことにはずいぶんと前から気づいていた。彩葉の作ってくれた体が徐々に月の力によって侵食されていることは感覚として分かっていた。二ヶ月ほど前から少しずつ物の味を感じるようになっていたし、感情の処理や身体動作も以前よりスムーズになってきていた。しかし、それを彩葉に報告することは憚られた。毎日毎日、泥水も出ないくらいにカラカラに干からびて帰ってくる彩葉の姿を見ていると決意が崩れて、勇気がくじけて、どうしても言うべき言葉が出てこなかった。

 彩葉のことが本当に心の底から大好きだった。

 だから彩葉には、いつまでも健康で長生きして欲しいのだ。

 もしも自分が正直に体の異常を伝えたら、彩葉はきっといま以上に無理をする。帰りもいまより遅くなるかもしれない。休みを返上してでも研究に打ちこむようになるかもしれない。そのうち過労で倒れてしまうかもしれない。そんなのを許していいはずがなかった。

 自分が地球の人間として生きつづけるために、彩葉の寿命が削り取られていい道理などあってはならなかった。

 月人になって永遠の孤独に置かれることよりも、彩葉が死んでしまうことのほうが何倍も万倍も怖くて仕方なかった。

 だから、本当はすごくイヤだけど運命は受け入れることにした。その代わりに彩葉との繋がりを子供という形で永遠に残しておきたいと願ったのだ。だがそれも、自分のやり方が悪かったせいで結局このザマだった。

 洟をすする。いつのまにか涙が出てきていた。彩葉のことを考えると最近は幸福と同じくらい息苦しさに胸が詰まってしまう。ぐしぐしと彩葉の枕で涙を拭い、ゆらりと上体を起こした。

 楽しいや大好きがいつまでも続いていくのはしょせんおとぎ話の中の幻想だ。この彩葉吸いもそろそろ終わりにして、夕飯の支度に移らなければならない。

 そう思いながらベッドシーツを正して、枕も元の位置に戻した。よっこいしょと彩葉のかけ声を真似ながら立ち上がろうとする。

 違和感を覚えた。

 妙な電子音が響いているのを、たしかにかぐやは聞いた。

 

「スマホ?」

 

 その答えには割とはやめにたどり着いた。自分の部屋から鳴っているように思う。着信というよりは断続的に通知が鳴りつづいているような音。

 彩葉からかもしれない。

 ベッドから跳ね起き、すぐにかぐやは自分の部屋に戻った。蹴破らんばかりの勢いでドアを開け放ち、暗闇の中で充電切れから復活した自分のスマホを掴みとる。現在進行形で忙しなく通知を吐きながら光る画面を見ると、予想どおり相手は彩葉だった。が、なぜか同じスタンプばかりを大量に送ってきていた。しかも一時間以上も前に。

 ワケが分からなかった。

 だが、まずは返信しないとと思う。メッセージアプリを開き、膨大な数の新着通知を既読で黙らせ「なんだよこのー」とテキトーに返してみる。

 返した、

 通知音がした、

 聞き間違いかと思った。

 自分がメッセージを送信したその瞬間に、すぐ近くからべつの通知音が鳴ったのだ。

 おそるおそる自分のベッドの上を覗いてみる。布団をめくってみると、間違いなくそこに彩葉のスマホがあった。

 

「えっ、え、なんっ、えっ、」

 

 いよいよかぐやは本気で混乱した。まさか彩葉もかぐやのベッドでかぐや吸いを、

 その混乱にさらなる混乱を重ねる音を、かぐやは二秒後に聞いた。

 インターホンだった。

 全身で飛び上がった。

 さっきから何なんだよと思う。もしや新手のドッキリだったりするのか。室内に隠しカメラでもあるのか。

 狼狽しながらもリビングに向かい、かぐやはモニターから来客者の顔をうかがおうとする。どうせ宅配のあんちゃんとかその類だろうと予想した。のだが、

 

「…………? 誰も、」

 

 いないのだ。

 モニターには向かいの壁しか映っていなかった。こんな時代のこの時間帯にピンポンダッシュの悪ガキがいるとは思えないが、築数年のピカピカのタワマンに身の毛のよだつ曰くが付いているとも考えにくい。

 やっぱり彩葉なのかな。

 それとも、どろぼー?

 正解はどちらかひとつだとかぐやは思った。それを確かめに警戒心をフル稼働させて玄関へと歩みを進める。傘立てから一本抜き取り、槍のように構えながら裂帛の気合いを込めてロックを解除。

 ゆっくりと開け

 

「あれ、開かない」

 

 外から押さえつけられているのか、やたらと扉が重かった。なにくそと肩を扉に押しつけ体重を乗っけてムリムリ開けていくと少しずつ隙間が見えてきた。そのとき、

 

「…………かぐや?」

 

 正解は前者であった。

 彩葉の声だった。ぐったりとドアに背中を預けて座り込んでいたらしい。

「いろはっ!」

「よ、かった……帰っ、て、た……」

 あわてて傘を投げ捨て、隙間から外の彩葉に声をかける。まともな様子でないのは明らかだった。

「えっえっ、ねえどうしたのっ? 具合わるいのっ? 立てるっ? と、とりあえず部屋入ってきてっ、ベッドまで運ぶから!」

 それに対して彩葉は背中を斜めに傾ける反応を見せた。うう、という苦しげなうめき声が返ってくる。それだけでかぐやの体内の血中酸素はごりごり減っていく。

 

「──っ、いやあっ! いろはぁっ、死んじゃヤダッ、ヤダよぅ!! かぐやを独りにしないでぇっ!!」

 

 びゃあびゃあとかぐやが泣き声の入り交じった叫びを上げる中、彩葉の乾いた唇がぼそぼそと動いた。蚊の鳴くような声で何事かを喋っている。

 二文字だった。

 

「み、水……」

 

 

 

「──ゴビ砂漠から帰ってきたのかと思ったよ」

 

 二杯目の水を渡したとき、かぐやはそう言った。呆れと安心半々の目を少しだけ細めて、ソファにもたれかかる彩葉を見すえている。彩葉は恥ずかしさも相まってついムキになり、

「あのね、人間はフルスロットルで走ったらせいぜい二〇〇メートルくらいしか持たないの。だけどそれを私は四キロもぶっちぎったんだよ。西立川まで往路復路あわせて四キロ。だから決して私は体力がないわけじゃ、」

 そこまでまくし立てて、水が器官に侵入し黙らせてきた。けほけほけほと盛大に咳き込む。となりにかぐやが座り、その背中を「どうどう」と撫でてくる。

 

「しょうがないよ。もう歳なんだから」

 

 こいつ、と彩葉は思った。二十八を「歳」と呼ぶのも納得いかないし、かぐやに年齢を弄られるのはなんだかすごく腹が立つ。

「ていうか、あんた今までどこ行ってたの? さっき私帰ったときいなかったよねっ? 無断で出かけるのは禁止って分かってるでしょっ?」

「え、ええぇぇとぉ、」

 見事な一転攻勢であった。かぐやは途端に目線をあらぬ方向に飛ばし、しどろもどろになってお夕飯に必要なアレがアレしちゃったから急いで買いに行ったらつい連絡をアレしちゃってアレアレアレといった意味のことを独りごとのようにつぶやいた。

 そして言葉に詰まって十秒ほど突然押し黙ると、観念したかのようにハッキリと「ごめんなさい」と言った。

 さらに、

 

「ごめん……彩葉のこと、なんも考えてなくてごめんなさい。嫌がってるのに無理やり変なことしてごめんなさい。許してください……」

 

 その「ごめんなさい」は明らかに昨日のことを言っていた。土下座でもするかとばかりにうつむくかぐやの目にはうっすらと涙が浮かんでいるのが見える。

 正直、ここまで呆気なく謝られるとは彩葉も思わなかった。振りかざした感情のしまいどきが分からなくなる。

 飲み干したコップをテーブルに起き、

 

「……明日からしばらく風呂当番だからね」

「やだぁ……」

 

 ちがう。言いたいのはそんなことじゃない。

 自分もかぐやに謝りたかった。同じように気持ちを伝えたかった。かぐやのことが嫌いなんじゃない、傷つけるつもりなんてなかったんだ、本当は私だって、

「……あの、さ、」

 その先を遮るように、時計を目撃したかぐやがソファから立ち上がり、

「あやば、そろそろご飯つくんなきゃ。彩葉はもうちょいそこで休んでて。できたら呼ぶから」

「あ、」

 背を向けてキッチンに、

 向、

 

「──待てぃ!」

 

 行かすか。

 いまだに笑っている膝を無理やり叱り飛ばし、飛びつくようにかぐやの手を掴みとった。

「へっ?」

「わっ私にも言わせてよ」

「なに、なにを?」

 

 彩葉は思う。

 心の底から思う。いつだって自分は言葉が足りていなかった。

 悪い癖だった。他人に向ける愛情や好意さえも徹底的に分析し分解し解体し、そうすることで取り回しのいい最小限の言葉に作り変えてきた。かぐやに対する想いだって、ただひと言で済むセリフをどこまでも分解し、正直な気持ちでさえ剥ぎ取って、結局残ったのは冷たく血の通ってない理屈だけだった。

 その結果、いつからか関係の変化さえ恐れるような臆病な心ができあがっていたのだ。

 だけど、もうそうはしたくない。そんな自分には戻らない。

 今度こそ、自分の本当の気持ちに殉じてみようと思う。

 そのために──

 

「かぐや」

「う、うん」

 彩葉はドーピングを求めた。

「昨日のマムシ、まだ残ってる?」

 

 

 

 ヤチヨはちがうと言ってくれたが、やっぱり自分は腰抜けだったと彩葉は思う。

 あの後、マムシドリンクを四本もキメて一緒にアルコールも流し込んで腹の中でちゃんぽんした。胃液と混ざりあった毒素は彩葉の意識をしっかり乗っ取り、途切れ途切れの夢を見させたのだった。

 その途切れ途切れの夢の中で、彩葉はかぐやの手を引き自室に連れ込みベッドに押し倒していた。真っ赤な顔のかぐやが何かを喋り、その口を彩葉は無理やり唇でふさいだ。次第に抵抗の力を失っていくかぐやの体に触れ、かぐやの両脚のあいだに彩葉の太ももが割り入り、そのままベッドの中で絡み合っていた。彼我の区別がなくなった二人の体の間に隔たるものは二枚、一枚と少なくなっていき最後はお互いなにも着ていなかった。引き絞ったものがあふれ、ふたたび満たしていくのを何度も繰り返していた。

 かぐやが三度目の仰向けになる番のとき、かぐやの体に月明かりが差していた。それを彩葉は自分の体で遮りながら白い首筋に唇を落とすと、かぐやは子犬のような声を出した。それがおかしくてもう一度すると、かぐやは少しだけ怒った顔でなにかを言い、次に涙ぐんだ表情で言葉を紡ぎ、それから居直ったように柔らかくほほ笑んでつぶやいた。

 

 いろは、だいすき──。

 

 ほとんど音のない記憶の中で、かぐやがそう言った気がした。

 途切れ途切れの夢はそのセリフを最後に、彩葉の意識の中で途絶えている。

 

 

 

 腹の虫の声で目が覚めた。

 のっぺらぼうの白い天井が彩葉を見下ろし、レースのカーテンを斜めにぶち抜いた朝日が彩葉の目玉を炙っている。顔をしかめた。たまらず起き上がる。

「……きもちわる」

 おまけに頭と体が痛かった。ズキズキした痛みとドロっとした重みが頭と腹の真ん中で熱を持っているような感じ。体の痛みに関してはたぶん筋肉痛である。胸のあたりですでに胃液がスタンバっている不快感もある。

 そして次に肌寒さを感じた。その理由はものすごく簡単だった。

「わっ。な、なんで」

 あわててかけ布団でむき出しの上半身を隠す。

 ちなみに「なんで」と言いつつも、彩葉はもうこの時点ですでに昨夜のことは薄々思い出している。

 ちら、ととなりを見た。

 人間の体ひとつ分の膨らみがそこにある。そろりと布団をめくってみると、すでにお目覚めのかぐやが気まずそうな赤面顔で見つめてきていて、

 目覚めのひと言。

 

「…………ドエロハ」

 

 なにかの呪文かと思ったが、ド級のエロハの意であることはすぐに理解した。

 そしてドエロハは憤慨する。

「う、うるさいな。つかあんただって途中からノリノリだったでしょっ?」

「でもかぐやは襲われた形だったもーん。無理やりしぶしぶ奉仕させられたんだもん、可哀想なことに。いま思い出しても恐ろしいったらないよね、あぁんなことやくぉんなことまで命令されて。ええっ、そんなところをそんな風にっ!? ええっ、そんなものをそこにっ!? ってな感じで、」

「も、もういいよ……わかった。降参降参」

 ここは素直に撤退するしかなかった。アルコールのせいで昨夜の記憶が微妙にあいまいである以上、下手に反論して事実の追い討ちをかけられれば負け戦になるのは必至である。

「あー撮影しておけばよかったあ、あんときの彩葉。冬眠前の肉食獣みたいな目しちゃってさ。あんな目で睨まれたらか弱い子ウサギのかぐやちゃんなんか一瞬でがっぷりイかれちゃうよ。ひょえ〜〜〜くわばらくわばら」

「わかったってば。勘弁してよもぅ……」

 しかし、かぐやはずいぶんとスッキリとした顔をしているように思う。彩葉をイジるときのかぐやは以前からイヤに生き生きしてはいたが、今のかぐやはそれにも増して憑き物が取れたような雰囲気がある。

 なんだか、少し不安になった。

 

「──ねえ、かぐや?」

「あ、朝からはヤダよ……?」

「ばかちがうっ。そうじゃなくてっ」

 顔に集まってくる熱をかぶりを振りながら追い払い、

「私、昨日のこと実はあんまりよく覚えてなくて……なにかかぐやに言ったりしてた?」

 ええー、とかぐやはタコみたいな顔になり、

「今夜を一生の記念にしてやるぜとか、お前の体の主導権は俺のもんだとか、そんなスバラシクカッコイイこと言ってたのに忘れちゃったの? あのセリフはウソだったの?」

「いまはふざけないで」

 言ってないよね、と内心ハラハラする。

 かぐやはタコからかぐやに戻り、

「…………特になにも。彩葉、なんだか必死な感じでほとんど喋んなかったし」

「──そっか」

 

 よかった──。それを聞いて彩葉はほう、と息をつく。

 そしてぐっと胸に力を入れて、気合いを詰め込んだ。

 やはりこれは酒に任せて言うべきことじゃない。シラフで、何にも頼らない素のままの自分で伝えるべきだと思った。

 

「かぐや」

 

 かぐやの顔が向く。ぱっちりとした二つの目が彩葉の視線とぶつかり合う。

 月が空から姿を消した午前六時十二分、立川に太陽が訪れている。

 だけどこの日々はいつまでもつづく訳じゃない。世界はいつだって動きつづけている。たった一人の人間のことを待ってなどくれず、いつのまにか知らない場所へと進んでいく。

 だからこそ、自分も前に進んで世界と、かぐやがいるこの世界と一秒でも永く生きていこうと彩葉は誓った。

 

「──私も、かぐやが好きだよ」

 

 かぐやの両目が朝日を吸い込み、瞳が虹色に光り輝いている。

「ずっとずっと好きだった。かぐやがいるから私は毎日がんばれてた。かぐやが作ってくれるご飯が美味しいから、私はどんなに腹ペコでも怖くなかった。かぐやがいなかった時間はすごく寂しくて、毎日毎日泣いてて、かぐやのことばっかり考えてた。かぐやが帰ってきてからは本当に毎日が幸せなんだ」

 虹色の瞳がゆらゆらと揺れている。

 その白い顔に彩葉は優しく手を当てて、

「ずっと素直になれなくてごめん。私は今までも、これからもずっとかぐやのことが大好きだよ」

「あ、ぅ……っ」

 

 ついに決壊したかぐやはベッドの中に潜り込んでしまった。中でひぐひぐと泣いているのが分かる。

 べつに泣かせるつもりはなかったんだけどなと彩葉は苦笑しつつ、自分も少しだけ目頭が熱くなっているのに気づいた。

 

 ちゃんと、正直に言えたのだ。

 

 終わってみれば実に簡単なことだった。今まであれこれ遠まわりしてきたことが馬鹿らしくさえ思えてくる。

 しばらくして布団の中から、

 

「──かぐやも、」

「ん、」

「かぐやも彩葉のこと、大大大好き」

「……うん、知ってる」

「やっとわかった、彩葉のこと。かぐやもずっとずっと、彩葉のこと大好きでいるよ」

 もぞもぞと布団が照れ隠しのように動いた。

「だからね、決めたよ」

「なにを?」

 顔の半分だけをかぐやが覗かせ、

「……さっきのはウソ。ほんとはね、彩葉、昨日割と重要っぽいこと言ってたんだよ。タケノコがどうとか、ヤチヨがどうとか」

「え、ウソッ」

「ほんと。それで彩葉、ずっと独りごと言ってた。かぐやの月人化を止めるために、かぐやの永遠の命を奪ってしまっていいのかとか何とか。それはほんとに正しいことなのか何とかって」

 

 たしかにそれは彩葉の胸の奥底でくすぶっていた懸念であった。まだハッキリ言語化すらされていないものだったが、記憶のないうちに口から出てしまっていたとは。

 彩葉は頭をかく。

 

「それで、決めたっていうのは?」

 うん、とかぐやは布団から顔をすべて出し、

「その計画、かぐやも賛成。彩葉が無茶すんのはほんとはヤダけど、でもそれはかぐやがちゃんと支えればいい。彩葉ひとりには頑張らせない。無理しようとしてたら不味いメシ食わせてでも止める」

「でも、かぐやはそれでほんとにいいの?」

 うんうん、とかぐやはうなずく。そして彩葉の左手を両手で握りしめ自分の頬に当てた。

「彩葉といっしょに生きて、彩葉といっしょに死ぬ。そう決めた。それがたぶん最高のハッピーエンドだから」

 かぐやが笑い、彩葉も少ししてからその言葉につよくうなずいて見せた。うすく微笑んで、

 

「──私もおんなじ」

 

 最後の道は、そこで決まったと彩葉は思う。

 

 

 *

 

 

 大月から在来線に乗り換えて三十分近く経っている。立川から出発した時間も計算すると、かれこれ一時間半は電車に乗りっぱなしだ。そろそろ限界とばかりにかぐやが小さく愚痴をこぼした。

 

「ねえまだー? もう富士山見えてんだからそろそろ降りよーよ」

「もうすぐだから我慢しなさいよ。いま三つ峠だからあともうちょいだって」

「もうちょいって何分?」

「十分くらい」

 やってらんねー、とかぐやは膝に抱えていたどデカいリュックに顔を落とす。が、中に入っている『もと光る竹』の固さに顔をしかめて痛むおでこを押さえた。

「ちょっと、大事にしてよそれ。壊したらあんたのこと山頂に縛りつけて置いてくからね」

「だってひまなんだもん。それに暑いしさー。冷房効いてんのこの車両?」

 

 口を開けば文句を垂れる。厄介なクレーマーに成り下がったもんだと彩葉はため息。

 しかしたしかに、六月でこの気温は予想外かもしれないと彩葉も思う。さっきスマホで天気をいま一度確認したときには猛暑日の予報が出ていた。登山において危険なのは地上と山頂の気温差である。自分もそうだが、かぐやの体にも不具合が起きる可能性だって捨てきれない。

 何事もなく上手くいけばいいんだけどな──綿密に練り上げてきた計画を彩葉は振り返ってみた。

 四ヶ月前のことだ。富士山のてっぺんに『もと光る竹』を埋めようと提案したのはかぐやであった。日本一たかい山なんだからヤチヨの言っていた条件にも当てはまる、それ以外にありえないよと。

 対する彩葉は太平洋のど真ん中に沈めるのが効率的だし安上がりだと主張した。のだが、かぐやがどうしても富士山がいいと言って聞かなかったのでそうすることにした。いわく、「彩葉といっしょに山登りしてみたかった」らしい。ふざけている。

 とはいえ、色々と準備も時間もかかったのだ。そもそも富士山を無断で掘るのは法律違反である。抜け道探しにあれこれ苦労した。大学教授などの使えるコネは存分に使い、お役所などの使えないコネも兄や友達に事情を伝えて力を借りどうにか我がものにしてきた。大きな声では言えない政治的な取引きを兄がしてくれたという話もあるが真実は定かではない。

 しかし何はともあれ、先週になってようやく『地質調査』という名目を手に入れることができたのだった。山開きシーズンよりひと月はやく済んだのも大きい。

 本当にようやくだった。

 ついにここまで来たのだ。

 今日ですべてを終わりにさせるのだ。

 肩にかぐやがもたれかかってきた。

 

「ひまー、ひまー」

「ああもう。重いし暑いから離れろ」

「いいじゃん。かぐやの体ヒンヤリして気持ちいいでしょ?」

「よくない。ちょっと汗ばんでてイヤ」

「うっそぉ」

 彩葉のポケットが震えた。スマホを抜き取る。

『はあいお二人さん。電車の中ではお静かに、だよ』

「あ、ヤチヨだ」

『かぐやもそんなに彩葉にべったりしちゃダメだよ〜。人の目があるでしょ?』

「そうだよ。恥ずかしいから離れて」

 言いながらかぐやを押し返すが、「いいじゃん見せつけてやろうぜぇ」と逆にグイグイ体を押しつけてくる。珍しくヤチヨの笑顔がこわばっていた。

 そんなこんなで富士山駅に到着した。電車をおりて「駅の鳥居ってなんかツクヨミのチュートリアル画面っぽいよね」と宣うかぐやの手を引きながら入山受付窓口まで向かい、地質調査の件を伝えるとすんなり入れてくれた。もっと事前の注意事項などで時間がかかるかと予想していたが、向こうも相手が学者なら釈迦に説法だとでも考えたのかもしれない。

 

 さあ、入り口のゲートはすぐ目の前だ。

 

「──やっとだね」

 横でかぐやがつぶやく。少しだけ緊張に固まった見慣れない表情をしていた。自分もきっと同じ顔をしているかもしれないと彩葉は思う。

 そこにやや調子はずれな声が挟まり、

『あー、ヤチヨも富士山のぼってみたいなあ。ねえ彩葉、ずっと画面つけっぱなしにしてくれない?』

 ヤチヨである。

 彩葉は少しだけ笑いの息を吐き、

「ダメだよ。ヤチヨはこれからしばらく充電できなくなっちゃうんだから。無駄なバッテリーはできるだけ消費しない」

『そんなあ』

 かぐやが割り込み、

「いいじゃん。てっぺん近くまで来たらちょっとくらい景色見せたげようよ。ここまで来れたのはヤチヨのおかげでもあるんだからさ」

『さすがかぐや〜! さすかぐだねっ』

「……はいはいわかった。じゃあ九合目付近まで来たらね」

 わあい。

 かぐやとヤチヨが同時に両手を広げ、

「あっじゃあさ、てっぺん着いたらみんなで記念写真撮ろうよ。写真! それぞれ考えたポーズ取ってさ!」

『いいねいいね〜っ』

「あんまりはしゃがないでよ? これはあくまで『調査』なんだから」

 

 言いつつも、彩葉もこの空気にだいぶ心が救われていたように思う。

 ふう、とひとつ息。それからゲートの先の道を見上げる。

 最後の道だ。

 ここから先は、ひょっとしたら世界の境界なのかもしれない。後戻りのできない、これまでの日常と別れを告げる道のりなのかもしれない。そう考えると少しだけ寂しいし、脚も震える。

 でも、

 この先にはかぐやとヤチヨと、そして新しい自分がちゃんと待っているはずだ。

 進もう。

 この長い長い物語を自分の手で幕を引こう。最高の形で終わらせにいこう。

 

「いろはーっ、はやくー!」

 

 先にゲートをくぐったかぐやが二十歩ほど先で手招きしている。その姿がいつもと変わらなくて笑える。

 だから彩葉もいつものように、だけど決意をこめた一歩を踏み出した。

 

「いまいくっ!」

 

 めでたしめでたしまで、残り三,七七六メートル。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──ところでさ、」

 

 八月になり、『もと光る竹』の後継機である『もう光らぬ竹』の図面を鉛筆片手に眺めていた彩葉にかぐやが声をかけてきた。

 彩葉は図面から顔を上げないまま、

「うん?」

「『もと光る竹』の何とかっていうシステムのせいで、かぐやは月人になりかけてたんだよね?」

「うん」

「今はもう大丈夫なんだよね?」

「うん。なりかけてた部分ももう私が治したから」

「じゃあ月人にはもう戻らないんだね?」

 やはり顔を上げないまま、

「そうだけど。どうしたの」

「いやー、思うんだけどさあ」

 かぐやは手元の雑誌をテキトーに流し読みしている。そこには育児関係の記事が載っていて、『子育ては幸せの第一歩! 産めよ殖やせよ!』というかなり危ないタイトルがひしめいている。

「あのとき、やっぱり『婚姻の儀』で子供できたんじゃないかって」

 やっと彩葉は顔を上げて、

「はあ?」

「だって思わない? 完全に月人になる前の段階でかなり味覚とかも感じられたんだし。子供だってひょっとしたら作れたかもしれなくない?」

 ん〜〜〜〜〜〜〜〜、と彩葉は部屋の壁を八秒ほど見つめてから、

「ま、可能性はあったかもね」

「──やっぱり」

 

 するとかぐやは雑誌を投げ捨て、少しのあいだぼんやりと何かを考えていた。それから急にひざを叩いて「よし!」と意気込むと、

 

「ちょっと出かけてくるね」

「なに、こんなクソ暑い中。アイスなら冷凍庫にあるよ」

「買い物じゃなくて。ちょっと……冒険」

「冒険?」

「う、うん。スコップ持って、宝探し、みたいな」

 

 三秒の沈黙、後。

 

 かぐやが玄関に向かって勢いよく駆け出し、同時に彩葉もその背中を追う。

「掘り返すなあああああぁぁっ!!」

「ちょっとだけだからああああっ!!」

 

 二人してカードキーも持たず家を飛び出し、その後ろ姿をオートロックが「カチャリ」と笑った。

 彩葉の部屋のタンスの上には相変わらず、思い出の写真たちが並べられている。どれもこれも大切な思い出だ。しかしその中で、ひと際新しい写真が目につく。

 その写真には、彩葉とかぐやとヤチヨが写っている。富士山の頂上で撮られたものだ。三人してまったく同じポーズで写っているが、これは事前に打ち合わせしていたわけではない。かぐやの「はいチーズ!」に合わせて三人が本当に、本当にたまたま同じポーズを取ったのである。

 

 みんな笑って手をかざし、おなじみのハンドサイン。

『仲良しのやつ』。

 


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