彼方の光芒 作:総流し
建業城内にある池に向かって、女が静かに糸を垂らしている。
特別反応があるわけではない。それでも、たまにはこうしてなにかを待ち続けたくなる。
数日前に、密偵が持ち帰ってきた情報がある。
なんでも、荊州ではあの劉表が死んだのだという。だいそれたことはしないが、地に足のついた統治をする男だった。そんな劉表が、薄暗い雰囲気のある黄祖を飼っていたのだから、世の中単純な足し引きだけではいかないのだろう。
これまで、州牧の後釜と目されていたのは子息の二人。実際の扱いから考えるのなら、弟の方に権力が移譲されると見るべきなのか。長子である劉琦は政務に携わることもなく、毎日世捨て人のような生活を送っている。凡庸。病弱。襄陽では、様々な噂が飛び交っていることを孫堅は情報として掴んでいた。
ただし、ひとつ気になることがあるのも事実だった。劉琦に対し、あの黄祖が妙に入れ込んでいる気配がある。度々江夏を離れていたのは、劉表の機嫌を取るためではなく、凡庸と評される子息と交流を持つため。そう考えると、頭の片隅で燻るなにかが、時折大きく燃えては揺らめくのだ。
「炎蓮様」
声がしたのと同時に手応えがあった気がして、竿を引く。獲物はかかっていない。糸。先端を摘んで、つけていた仕掛けの様子を確認する。餌だけがきれいにもっていかれているのが腹立たしいが、これまでよりも目標に一歩近づいた、ということなのか。
「どうした、冥琳。また雪蓮が、酔いつぶれて木から降りられなくなったのか」
「いえ、そうではありません。というか、またと申されましたがそんな一度も事件は起きていませんから。少なくとも今は、ですが」
やや疲れたように首を振り、周瑜が遠くの空を見つめている。
若手将校の筆頭格。それに、娘である策の一番の親友。孫家の長として、周瑜のような若い世代の突き上げがあるのは、素直に喜ばしいことではある。
「情報が前後しておりますが、父親が倒れた夜に劉琦が襄陽を離れたようです。弟側は世間知らずの兄の我儘を聞き届けてやった、という態度でいるのですが、調べてみると出奔の際に一悶着あったらしく」
「ああ、だろうな。劉琦に付き従っているのは、黄祖。あとは、乳母の黄忠あたりもいると思うべきか」
「はい。まさしく、炎蓮様のご想像の通りです」
「ハハッ。荊州の誇る弓将ふたりが、ボンクラ息子の逃走劇を支える。まったく、笑えねぇ話じゃねえか」
豪快に笑って、孫堅が床机から立ち上がる。
手許に酒がないのが残念で仕方がない。そのくらい、この話はいい肴になる。雲のように曖昧だった劉琦の輪郭が、徐々にではあるが確かなものになりつつあるからだ。
「それで、炎蓮様」
「江夏を奪るいい機会が巡ってきた、というのだな。素早く軍勢を動かせば、悪くとも黄祖に手痛い傷を負わせられる。しっかし、なあ」
「この何日かで、江夏の情勢に関する報告が一気に増えました。正直、いい気分ではありませんね」
孫家という名の獣の眼前にぶら下がった旨そうな餌。それが、今の江夏だった。裏で働いているのは、蔡瑁の息のかかった連中なのだろう。
勇み足をすくわれるのも癪だが、もたついた結果好機を取り逃がすのも腹が立つ。どちらにせよ、荊州制覇のためにも黄祖は叩くべき相手なのだ。
自分と黄祖とを闘わせ、疲弊させることが目的であるのは間違いない。どちらかが斃れるような展開が、襄陽方にとっては理想なのだ。
「ここは、控えてもよいのかもしれません。われらが静観を決め込めば、荊州はいずれ内乱で弱体化するはず。時はかかりましょうが、それだけ戦は楽になります」
「正論だな、冥琳。蓮華や雷火などは、静観策に賛同しそうではあるが」
揚州を完全にまとめ上げ、内政を充実させてから外に打って出る。それも、確かに悪くはない考えだった。
「ただまあ、時は金では買えねえ、か……。泥沼の内乱が続けば、田畠は荒れ果て民は逃散するだろう。そんな荊州を取ったところで、なんになる。それこそ、拠点の復興に何年もかけることになりかねん」
「それでは、炎蓮様」
獣ならば、獣らしく前に進むのみ。立ち塞がる敵は打ち砕き、勝利の雄叫びを上げればいい。
「襄陽のクソガキが鼻持ちならねえ盤面を用意するというなら、それごと喰らうのがこの孫文台よ。違うか、冥琳」
「御意。すぐに、戦の準備に取り掛かります。もっとも、雪蓮などはすでにその気になっているのでしょうが」
「そっちのガキの手綱は、おまえが引いてやれ。ハハハッ。陰険ババアの入れ込む男の面、この戦で拝ませてもらおうか。もっとも」
そう言って、孫堅が南海覇王を鞘から引き抜いた。日光に照らされて、刀身が眩い光を放つ。気高さと、力強さを兼ね備えた光だった。
劉琦に力がなければ、首を斬り落とすのみ。その余勢を駆り、中原から面倒な女が出てくる前に荊州での勝敗を決する。そうなれば、孫家は益州にも手を伸ばせるようになる。
天下の半分を征した時、見える景色はどうなっているのか。孫家が狩るに足る獲物が、その時にまだ残っているのか。
夢とは、果てしなく大きく拡がるから、夢なのだった。