混乱というより、“崩壊”と呼ぶのが正確だった広場の人々は、言葉ではなく、恐怖そのものを吐き出していた嗚咽。叫び。怒号。罵声。懇願数千の感情が焼け落ちて、煙のように漂っていた。
俺は、その渦の中心から半歩だけ外れた場所に立ち、自分の心臓が、少しずつ速さを変えていくのを感じていた。
「……ここにいては駄目だ」
誰に聞かせるでもない声が漏れた言葉の形をしているだけで、実際は“逃走の本能”に近い。
βテストで学んだことがひとつだけある最初に死ぬのは、混乱した場所に留まった者だ。
今この瞬間、はじまりの街は“最悪の狩場”になっていた。恐怖が判断力を奪い、暴走したプレイヤーが武器を抜く気配すらあるこの場に巻き込まれるわけにはいかない。
ただ、足は震えていた。
前に進むための足じゃない“死”を初めて現実的なものとして実感した身体が拒んでいる震え、それでも歩き出した。
広場を離れ、赤い空の残滓から距離を置くように。剣を握る手汗を服で拭いながら、路地裏を選んで進む。
恐怖で満ちた街を抜ける通りには泣き崩れる初心者、メニューを狂ったように操作し続ける男、ただ呆然と壁を見ている女。
誰もが孤独で、誰もが他人を求めて、それでも誰にも近づけない。
——この世界から抜けられない。
——死んだら終わり。
ただの事実が、地獄みたいに重かった。
「……落ち着け。わかってるだろ」
βの記憶が、わずかに心を繋ぎ止めていた。
生き残るには、まず拠点を確保する。夜になる前に宿屋へ装備点検マッピング、明日の狩場の最適距離回復アイテムの備蓄作戦は、すべて“生存”のためのもの。
そう考えるほど、震えはだんだん別の形に変わっていく。
恐怖を、計算で押し潰していく感覚緊張の塊を、合理で包み隠す行為。
だが、それを続けるほどに、胸の奥に別の影が滲んでくる。
“アスナ”。
その名前が、喉元まで出かかっては消える。
思考に触れてはいけない領域みたいに、封じたはずの記憶が、今ほど騒ぐ夜はなかった。
街の外れの宿屋はじまりの街の外れ、βの頃に見つけた「やや割高だが静かな宿屋」
窓の光が規則正しく灯っていた。まだ混乱が押し寄せる前の準備だけは整えているようだ。
ドアを押すと、乾いた木の匂いが胸に滑り込んだ。
店主のNPCが無表情で迎える。NPCの無感情が今は救いだった。
「一泊を」
声が震えた。自分のものとは思えない細さだった。
コルを払い、木の階段を軋ませながら部屋へ。扉を閉めた瞬間、ようやく足から力が抜けた。
ベッドに腰を落とす深呼吸をするが、肺の奥がひりつくように痛い。ようやく、恐怖が自分を追いついた。
静寂が、逆に怖い外の喧騒が遠くに行き、部屋は世界から切り離されたように静かだった。でもその静けさが怖い。
“死ぬかもしれない”という言葉が、静寂の中で巨大な影となって形を持ち始める。強がっていた理性が、一つひとつ剥がれていく。
震えていないように見せていた手が、今はもう隠しようもなく震えていた。
ふと、脳裏に浮かんだのは家族でもなく——この世界にいないはずの一人の名前。
アスナ。
その瞬間、胸が焼けるように痛んだ。
あの子が、何をしているのか今、どこで、どんな表情で俺のことなんて、思い出しもしないのかそれとも、やっぱり怒っているのか。
なんでこんな時に、こんな世界で、真っ先に浮かぶのがあの子の名前なんだよ。
手で顔を覆う。
全部忘れたつもりだったのに。自分が傷つけた、守れなかった、壊してしまったその子だというのに。
それでも——会いたいどうしようもなく。
子どもの頃の笑顔が、ほこりを被ったアルバムみたいに脳裏に開いていく。
昔みたいにただ一緒に笑っていた時間に戻れるなら謝りたい話したいもう一度、名前を呼びたい。でも、現実はどこにも繋がっていない。
その距離の冷たさに、心臓の奥がゆっくりと締めつけられる。
部屋の灯りは、最低限の暖色に設定されていたまるで“落ち着け”とシステムに諭されているようで、逆に腹立たしい。
落ち着くわけがない。
さっきまでいた広場の惨状が、まぶたの裏から剥がれない。真っ赤な空降り注ぐシステム警告茅場晶彦が宣告した、逃れられない現実。
そして、HPがゼロになったら死ぬという言葉。
それなのに――俺の心を最も深く抉っているのは、死の恐怖じゃなくて。アスナの名前を思い出してしまったという事実だった。
息の仕方を忘れる
「……なんで、今なんだよ」
呟いた声が震えて、自分で驚く手も膝も、稚児のようにかすかに揺れている。情けないけれど止まらない。
あの赤い空を見た瞬間より、アスナの名が脳裏に現れた瞬間のほうが心拍が跳ねたなんて、誰に言える。
息を吐くたび、胸骨の裏側にひりつく痛みが走る。
βテストの数ヶ月間、俺は現実と距離を置けるこの世界に救われていた。“誰も傷つけないで済む場所”が存在するだけで、救いになっていた。
だが今日この世界は、突然俺に牙を剥いた。そして同時に、忘れたと思っていた痛みまで掘り返してきやがった。
アスナの笑顔は、もう昔の顔じゃない脳裏で、アスナの昔の笑顔が開く。
幼稚園の頃、放課後の公園で、ブランコの上で指を組んで笑っていた女の子。小学生の頃、ノートの端に小さな犬の落書きをして見せてくれた横顔、雨の日に、傘を半分こしながら帰った時、袖を引っ張ってきた力加減。
そんなもの、何年も前の記憶なのにどうして今日になって全部戻ってくる?胸の奥が焼け焦げるように痛む。
もう昔のアスナじゃない。俺を避けるようになったあの日から何かが壊れたままだ。
関係を直す方法なんて知らない謝り方すらもうわからない。気軽に「会いに行くよ」なんて言える距離じゃないそもそも、向こうが俺を見たくないかもしれない。
なのに会いたい。
どうしようもなく。
子どもみたいに。
惨めになるほどに。
過去は呪いの形をしている
俺は、あの日のことをずっと後悔している。直接は誰にも言ってない言えばみっともないから。一度口にしたら、きっと崩れてしまうから。
アスナがクラスで浮き始めたあの日、俺は、正論で守ろうとして、逆に状況を悪化させた。
あれは助けじゃない。ただの幼さだ。
アスナの弱さを理解せず、自分が強ければ引っ張れると勘違いしていた俺の未熟の象徴。その後、アスナが俺を避けるようになったのも当然だ。彼女を壊したのは“俺の正しさ”だ。
それが、俺の呪いだ。その呪いが、今日のこの命の危機の最中で蘇りやがる。
胸の奥が、ひっかき傷のように痛んだ。
会えるかもしれないでも、会わないほうがいいのかもしれない。会ったところで、向こうは俺をどう見るだろう。
怖い。会いたい。怖い。会いたい。
自分の感情が、振り子のように揺れて止まらない。
震える手で顔を覆う
「……アスナ」
名前を口にした瞬間、全身から力が抜けた。その声は、聞くに堪えないほど弱かった。
床に落とした影が、ぶるりと震える。自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。もし、このまま死んだら俺は後悔したまま終わる。
謝れないまま。伝えられないまま「戻りたい」と言えないまま。それが一番怖い。
アスナに会いたい理由。会いたいのは、ただ昔に戻りたいからじゃない。
——壊したまま終わりたくない。
その願いが、こんな命の危機になって初めて形になった。現実では近づけなかった距離も、この世界なら届くかもしれない。
ただ、そんな望みを持つこと自体が罪のようにも思えて胸が、心臓の形を保てないほど苦しい。
夜は深く、世界は静かで、勇気はどこにも落ちていない窓の外は夜に沈み、アインクラッドの街灯が橙色ににじんでいる。
静寂は続くまるで世界中から音が失われたように。
どこにも逃げ場所なんてない死からも、過去からも、後悔からも。
でも俺は——アスナに、会いたい。そのひと言に全部が集約されていた。
自分がどれだけ惨めでも、どれだけ過去が痛んでも、それだけは本音だった。