俺は、キッチンで鼻歌を歌いながら肉じゃがを盛り付けている桜の背中を見つめた。
間桐の地獄から彼女を救い出したあの日から、俺たちの関係は救済者と被救済者のまま止まっていた。
でも、彼女が向けてくれる笑顔や、少しだけ長めのアイコンタクト。
その意味を、俺は虚数属性だからなんて言い訳で、ずっと見ないふりをしていたのかもしれない。
俺は椅子から立ち上がり、彼女の隣に並んだ。
「…桜」
「はい、先輩? あ、お箸なら今出しますね」
「いや、箸はいい。…ちょっと、大事な話がある」
俺の真剣なトーンに、桜が動きを止めた。
お玉を持ったまま、不思議そうに、けれどどこか期待を込めたような瞳で俺を見上げる。
「…俺さ、これまで正直、自分がどう生きればいいか分からなかったんだ。でも、あんたを助けて、こうして一緒に飯を食って…初めて、この世界に俺の居場所があるんだって思えた」
「先輩…?」
「俺、あんたが好きだ。…救ったからとか、可哀想だからとか、そんなんじゃなくて。…ただの佐藤斗真として、間桐桜…あんたの隣にずっといたい。…俺の彼女になってくれないか」
一瞬、静寂が流れた。
桜の瞳が大きく見開かれ、やがてじわじわと涙が溜まっていく。
お玉がカシャンと鍋に落ちる。
「…いいんですか? 私、…汚れてて、暗くて、先輩に迷惑ばっかりかけて…。本当に、私で、いいんですか…?」
「汚れてるなんて二度と言うな。…俺が、あんたの過去も、これから来る不安も、全部ひっくるめて虚数の闇で包み込んで、光に変えてやる。…だから、返事を聞かせてくれ」
桜は、耐えきれなくなったように俺の胸に飛び込んできた。
細い肩が震えている。
でも、その手は驚くほど力強く、俺のシャツを掴んでいた。
「…はい。…はいっ! 私も、大好きです…! 先輩がいない世界なんて、もう考えられません…!」
冬木の街に春の気配が混じり始めたある日の午後。
佐藤斗真のアパートのチャイムが、正確無比なリズムで鳴らされた。
「はいはい、今開ける…」
ドアを開けた瞬間、そこにいたのはエプロン姿の桜だった。
手には重そうな買い物袋。
そして、その背後にはなぜか物理的な圧を感じさせる黒いオーラがうっすらと漂っている。
「先輩、お疲れ様です! 今日は、先輩が大好きなハンバーグにしようと思って。…あ、でもその前に」
桜が、斗真の胸元に鼻を近づけて、くんくんと音を立てる。
「…? どうした、桜」
「…フローラル系の柔軟剤の匂い。…生徒会の美綴さん、ですよね? さっき廊下ですれ違った時に同じ匂いがしました。…先輩、また型を教えるフリをして、あの方の手首を掴んだりしましたか?」
「いや、あれは美綴の突きが流しにくかったから、つい指導を…」
「…ふふっ。先輩、私の前で別の女の子の話なんてしないでください。…心臓、止まっちゃいますよ? 先輩のじゃなくて、私が、ですけど」
笑顔。だが、その瞳の奥は一切笑っていない。
これぞ、虚数属性の、そして聖女(マルタ)直伝の威圧感。
その日の夕方、二人は食材を持って衛宮邸へ。
そこには遠坂凛と士郎もいた。
「あら、佐藤。あんた、また一段とやつれたんじゃない? ちゃんと寝てるの?」
遠坂がニヤニヤしながら、斗真の肩を叩く。
「…寝てるよ。ただ、夜中にふと目が覚めると、枕元に桜が座って俺の寝顔をじっと見つめてることが週に4回くらいあるだけだ」
「それは…その、お疲れ様ね」
流石の遠坂も、妹の愛の深さには引き気味だ。
その時、台所で士郎と楽しそうに野菜を切っていた桜が、パッとこちらを振り返った。
「お姉ちゃん。…先輩に、あんまりベタベタしないでください。先輩のパーソナルスペースは、半径1メートル以内は私専用って決めてるんです。…ね? 先輩」
「あ、ああ…。そうだ、遠坂。悪いが、あと50センチくらい離れてくれないか。命が危ない」
「なっ…! 妹も妹なら、あんたもあんたね! 勝手にしなさいよ!」
帰り道。街灯の下を二人で歩く。
桜は、斗真の腕をこれ以上ないほど強く抱きしめていた。
「…先輩。私、時々怖くなるんです。…あの日、先輩が助けてくれたのが夢だったんじゃないかって。目が覚めたら、またあの地下室にいるんじゃないかって」
「…桜」
「だから、こうして先輩の熱を感じていたいんです。…先輩を離したくない。誰にも触れさせたくない。…私、おかしいですよね?」
斗真は足を止め、空いた手で彼女の頭を優しく撫でた。
その手つきは、かつてマルタが自分を導いてくれた時のように、温かくて迷いがない。
「おかしくたっていいさ。…あんたをその不安から連れ出したのは俺だ。だったら、あんたが安心するまで、何度でもこうしてやる。…俺の虚数魔力は、あんたの不安を飲み込むためにあるんだからな」
「…先輩。…大好きです。…本当に、一生、逃がしてあげませんからね」
桜が、斗真の腕に顔を埋める。
その瞬間、斗真の18本の魔術回路が微かに共鳴した。
それは愛という名の呪い。
あるいは、呪いという名の至上の幸福。
「…受けて立つよ。…太極拳の粘勁(ねんけい)で、一生離さないからな」
冬木の夜風が、二人の影を一つに溶かして吹き抜けていった。
こうして俺は「聖杯戦争に参加したら彼女ができました」。
あとがき
これにて完結になります。
最後まで読んでくださった方ありがとうございます。