目を覚ました瞬間、最初に感じたのは寒さだった。
肌にまとわりつくような冷気。まるで金属の箱に閉じ込められているみたいな、無機質で逃げ場のない冷たさ。
視界がゆっくりと開いていく。ぼやけた天井、鈍い光。鉄の匂い――いや、これは……檻か?
頭がズキズキと脈打つ。奥の方で何かが軋んでいるような痛み。
まともに思考が回らない。記憶も、ところどころ穴が開いたみたいに抜け落ちている。
昨日……何してた……?
断片が浮かぶ。
酒だ。グラス。笑い声。
成実の顔。それから――沖野ヨーコちゃん。あの笑顔。場違いなくらい華やかで、現実感のない時間。
ああ……そうだ。飲んでた。飲んで、飲んで……
あれは確かに、人生の中でも上位に来るくらいの“当たり”の時間だった。
底辺の自分にしては出来すぎてるくらいの、幸せなひととき。
なのに――
どうして俺は、こんな場所にいる?
体を起こそうとすると、鉄の軋む音がやけに大きく響く。
逃げ場のない音。閉じ込められている実感だけが、じわじわと胸を締めつけてくる。
ここはどこだ……?
考えようとした、そのとき。
足音。規則的で、無機質な音が近づいてくる。
現れたのは、無表情の男――刑務官だった。
淡々と、まるで天気でも告げるみたいな口調で言われる。
お前は殺人容疑で逮捕された、と。
――は?
一瞬、意味が理解できない。
言葉が頭に入ってこない。いや、入ってきているのに、拒否している。
殺人……? 俺が……?
あり得ない。そんなはずはない。
記憶がない。そこがまず異常だが、それ以前に――
成実と、ヨーコちゃんの顔が浮かぶ。
まさか……俺が……?
いや、違う……!
どれだけ酔ってても、そこだけは越えない。越えるはずがない。
あの時間は確かに楽しかった。壊す理由なんて、どこにもない。
首を横に振る。強く、何度も。
否定しないと、飲み込まれそうだった。
違う……やってない……!
やるわけがない……!
けれど、確信とは裏腹に、胸の奥にじわりと広がるものがある。
空白。思い出せない時間。その不気味さ。
もし……その間に何かが起きていたとしたら?
考えた瞬間、背筋が凍る。
信じたい自分と、疑い始める自分。
その間で、心が軋む。
ここは現実なのか。
それとも、まだ悪い夢の続きなのか。
どちらにせよ――
最悪のゲームが、もう始まっている気がした。
牢屋の中で、ただ時間だけが過ぎていく。
鉄格子の向こう側は、やけに静かで――その静けさが、逆に神経を削ってくる。
そんな中、呼ばれた。
「出ろ」
短い一言。
それだけで、胸の奥がざわつく。
連れて行かれた先は、取調室。
無機質な机と椅子。逃げ場のない空間。
そこにいたのは、目暮警部。
座るよう促される。
椅子に腰を落とした瞬間、逃げられない現実が一気にのしかかってきた。
「……俺が何をやったんだよ」
声は自然と出た。
自分でも驚くほど、かすれていた。
すると――
「とぼけるのか!」
怒号。
空気が一瞬で張り詰める。
机を叩く音が、やけに大きく響いた。
心臓が跳ねる。
だが、それ以上に――理解が追いつかない。
何を、だ……?
目暮は深く息を吐き、そして淡々と語り始めた。
事件の概要。
その内容を聞いた瞬間、思考が止まる。
――10人を発砲。
は……?
言葉が、意味を結ばない。
頭の中で何度も繰り返すが、理解が追いつかない。
銃。発砲。しかも、10人。
そんな馬鹿な話があるか……!
さらに続く。
使用された拳銃は、ロシア製マカロフ。
そして――
10人目。
その名前が出た瞬間、全身が凍りついた。
麻生成実。
現在、意識不明の重体。
――嘘だろ……?
呼吸が浅くなる。
頭の奥で何かが崩れる音がする。
発砲場所は、京都の子安神社。
その場に駆けつけたのは、毛利小五郎、服部平次、大岡紅葉、沖野ヨーコ、江戸川コナン、そして毛利蘭。
その全員が見た光景。
拳銃を握りしめている――俺。
そして、血を流して倒れている成実。
会話をした後、俺は高熱で倒れた。
そこまで聞いたとき、もう否定の言葉すら出てこなかった。
さらに追い打ち。
マカロフの指紋。
そこには、俺の指紋があった。
線条痕も一致。
つまり、その銃は俺のもので――俺が撃ったとしか考えられない。
証拠は、全部揃っている。
逃げ場がない。
ざわざわ……ざわざわ……
頭の中が騒がしくなる。
何かがおかしいのに、それを掴めない。
俺が……成実を撃つ……?
そんなこと、あるわけがない。
理由がない。動機がない。
いや、それ以前に――撃てるはずがない。
くそっ……!
記憶がない。
そこが、致命的すぎる。
空白。ぽっかりと抜け落ちた時間。
そこに何があったのか――何も思い出せない。
もし……
もしその間に、何かを“やらされていた”としたら……?
いや……待て……!
本当に俺がやったのか……?
疑念が膨らむ。
だが同時に、証拠がそれを押し潰してくる。
否定したいのに、できない。
信じたいのに、信じきれない。
頭が割れそうだ。
くそっ……記憶さえあれば……!
何が何だか分からないまま、ただ一つ確かなのは――
俺が、最悪の状況にいるという事実だけだった。
面会室に通されたとき、胸の奥がざわついた。
鉄の扉が閉まる音がやけに重く響く。逃げ場のない空間。息が詰まる。
ガラス越しに現れたのは、服部平次だった。
その顔を見た瞬間、少しだけ現実に引き戻される。
だが同時に――逃げられない事実も突きつけられる気がした。
平次は椅子に腰を下ろし、真っ直ぐこちらを見てくる。
その視線は鋭いが、どこか探るようでもあった。
「何があったんや」
低い声。無駄のない問い。
俺は言葉を探す。だが――出てくるのは、空白だけだ。
「俺にもよくわからなくて……記憶がないんだ……本当に俺は発砲したのか?」
自分でも情けないと思う。
だが、それしか言えない。
沈黙が一瞬落ちる。
そして平次は、はっきりと言った。
「それは事実や」
その一言が、重くのしかかる。
逃げ場がない。
もう否定ではどうにもならない領域。
「俺や毛利小五郎のおっちゃんも何度も警察にきちんと調べろ言うた。警察のミスはない」
淡々としている。だが、その裏にある確信が伝わってくる。
「発砲したのはカイジ、お前や」
ぐっ……!
胸の奥を殴られたみたいな衝撃。
分かっていたはずなのに、改めて言われると、足場が崩れる。
やっぱり……俺なのか……?
だが、平次は続ける。
「ただ、きちんとした理由があって発砲した思うてる。何があったのかを聞きにきたんや」
――理由?
その言葉に、わずかな光が差す。
無差別じゃない。
衝動でもない。
“何か”があった。
だが――その“何か”が、思い出せない。
くそっ……!
頭の奥を掻きむしるような焦燥。
届きそうで届かない。霧の向こうにある感覚。
「すまねえ……」
自然と頭が下がる。
頼るしかない。今の俺には。
「服部が知っていることを教えてくれないか?話してくれれば記憶を思い出せるかも知れない」
情けない言葉だ。
だが、それでも――縋るしかない。
このままじゃ、何も分からないまま終わる。
俺が何をしたのかも、なぜやったのかも――
全部、他人に決められる。
そんなのは……ごめんだ……!
せめて真実くらい、自分で掴まないと――
そうしないと、本当に終わる。
俺自身が。
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