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情報の深淵において生じた非対称な慣性の法則が、意識の最外殻を現実の肉体へと乱暴に叩きつけた。
「…っ」
肺胞が、現世の規定通りの気圧を帯びた大気を、一度に、そして貪欲に吸い込む。
那は、其の上体を起こす。
「――っ、は、あッ…」
那の肺胞から、せき止めていた現世の呼吸が、激しい空気の摩擦音を伴って一気に 吐き出された。
網膜を穿つのは、古生代の不条理な赤色でも、第零次元の極彩色でもない。
障子紙を透過して差し込む、ごく平穏にして仄暗い、近代の朝の薄光。
其処は、
「…那、くん…っ?」
すぐ傍らから、微かな、しかし引き裂かれそうなほどに切実な声調が鼓膜に滑り込んできた。
視線を落とせば、其処には泥と血の汚れを辛うじて拭われた、伊藤の姿があった。
彼女の細い指先は、未だに那の掌の肉へと深く食い込むようにして、その確たる「熱量」を維持し続けている。
あの地獄のような特異点において、互いの存在確率を繋ぎ止めていた、絶対的な結合の残滓。
二人の衣服は引き裂かれ、皮膚には船虫に咀嚼された無数の痕跡が、生々しい痛覚のインプットとして刻まれていたが、其の創口は既に、現世の生物学的な修復プロセスの管理下へと移行していた。
「…伊藤、さん、私たちは…戻って、来られたのですね…」
那の口に、笑みが零れる。
幾多の因果を調停し、現世へと生還した、静かで、確固たる質量を伴った響き。
伊藤は、朱に染まった目尻を細め、那の掌の温もりを確かめるように強く握り返すと、ただ一度、深く肯首した。
其の時、御輿庵の古い木製の戸が、滑らかな摩擦音を伴って外側へと開け放たれた。
「――よう、ようやく目覚めたか」
逆光のシルエットを伴って室内に足を踏み入れたのは、全身の各署に包帯を巻きながらも、その強靭な骨格を維持した凱の威容であった。
彼の背後には、同じく松葉杖を携えた満身創痍のオクヤスが、安堵と疲弊の混ざり合った奇妙な表情を浮かべて佇んでいる。
「…良かった」
オクヤスが、掠れた声で、短くそう呟いた。
凱は、肩を大きく竦めて、不敵な、それでいてどこか酷く労るような双眸を二人に向けた。
「松中派出所の座標でアンタさんらが気絶してから、伊藤さんは一日半、砂座間さんは丸二日は眠りこけてた。上色見神宮の方角から、首長竜と翼が天蓋を覆ったと思ったら、天地は翻り、纏めてお眠り致したのちに…」
「凱、さん…私達を、運んでくださったのですね」
「礼はいいよ、あの時はカッタい蟲を殴り過ぎて、暫く腕が使い物にならんかった。死ぬ気でここまで引っ張ってきたオクヤスの労力を褒めてやれ」
凱の、独特の言い回しとぶっきらぼうな口調が、室内を現世の日常の記号へと急速に同調させていく。
その言葉を聞きながら、伊藤は、自らの内に残された知的な安堵の熱量を以て、深く息を吐き出した。
那の脳内には、ひとつ疑念が浮かぶ。
肝心の『彼れ』は、どうなったのか。
「…呉爾羅は?」
那の問いに、凱は微かに黙りこくった。
「…俺の口から聞くより、コッチを見た方が早いかもしれん」
そう言うと、背後のオクヤスがリモコンを手に取って、部屋に置かれた液晶テレビの電源を起動させる。
液晶画面の陰極線が、仄暗い室内の障子紙へと青白い光度を投射した。
電子回路の駆動音とともに、スピーカーから流れ出たのは、現世の調律に則ったアナウンサーの、極めて冷徹で、平坦な報道の音声。
『信じられません』
画面に映し出されていたのは、上色見神宮の一帯を、近代の光学レンズによって上空数百メートルから俯瞰した、ヘリコプターからの空撮映像であった。
其処には、かつて現世の時空を白亜紀の組成へと強制置換せんとのたうっていた、あの鬱蒼たるシダの巨木も、メタセコイアの不条理な密林も、一切存在していない。
あるのは、数億年の時間跳躍を許さぬ現世の時間軸の質量圧によって、完全に灰白色の塵へと変じ、地表を一面の雪景色のように白く染め上げた、原始の植物たちの冷たい残骸のみである。
だが、その死の世界の、まさに中心。
上色見神宮の崩落した石段の、血の曼荼羅が刻まれていたはずの特異点。
其処に、それは確かに『在った』。
二百五十メートルを超える呉爾羅の超大質量は、三頭の鎖──
背部から顕れた光の翼の輪郭は、現世の物理定数へと記述を固定された瞬間、半透明の硬質な結晶体へと相転移を遂げており、呉爾羅の巨躯を内側へと優しく抱擁するようにして、完全に閉塞させている。
口腔の奥に燻っていた『ちぇれんこふ』の青白い光条も、もはや大気圧を変調させることはなく、結晶の檻の内部で、微かな、しかし永劫の熱量として静かに明滅を繰り返すのみであった。
アナウンサーは、その画面の向こうに鎮座する、近代のいかなる生物学の範疇をも逸脱した超自然的な「山」を指して、ただ『原因不明の熱量を放出する、巨大な結晶質の構造物』とだけ、数理的な記号を以て呼称している。
世界の改竄を本能とする爾来派の軍勢も、それに対抗した反逆派の怪獣たちも、その存在の正当性を完全に剥奪され、ひとつの例外もなく現世の記述から消滅していた。
残されたのは、ただ、凍結という名の調停を受け入れ、現実の肉体のまま此の世に留め置かれた、呉爾羅という名の確固たる質量だけであった。
「…凍結、されている」
画面に投影される、結晶の檻に閉ざされた超大質量を見つめながら、伊藤が掠れた声で、その定義を現世へと撃ち下ろした。
「ええ、私たちは彼を排斥しなかった。彼が此処に存在したいという願望を、現実の肉体のまま、ただその駆動のみを静止させることで叶えた。これこそが、私たちの紡いだ調停です」
那の言葉には、調停者としての絶対的な強度がその双眸に宿っている。
「本当、大した奴らだよ、お前らは」
凱が呆れたように、けれど確かな感嘆の情をその不敵な笑みに滲ませながら、包帯の巻かれた首を振った。
「現世の科学も、国家の防衛論理も通用しないものを、たった二人の記述者が、血液と泥塗れの詩を以て、文字通り世界を記述し直してしまったんだからな。歴史の教科書には一行も載らないかもしれんが、俺の網膜には、そのすべてが永久に記録されてる」
その凱の言葉を聞きながら、那は、自らの背中に残している温もりに意識を向けた。
その推進力は、今も那の肉体を、この理不尽で、けれどどうしようもなく愛おしい現世の地平へと、力強く繋ぎ止めている。
那は、未だに自らの指先を強く握り締めている伊藤の、その細い掌の熱量を、もう一度だけ、確かに認識するように強く握り返した。
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「…署をクビになるな」
畳へと座りこけた凱が、思わず苦笑を浮かべて呟く。
「…跡形も無いですしね」
那の口頭から漏れ出たのは、自嘲の響きを帯びた、冷徹なる事実の指摘。
「それだけじゃない。怪我人の救護義務を放棄して、怪獣総進撃を網膜に焼き付けながら、其の渡世を棄権した刑事なんてな、始末書の数理的範疇を遥かに超えとるよ。公安の偉い奴らが、今頃どんな記述でこの事態を隠蔽しようか、頭を抱えている姿が眼に浮かぶ。…なあ、オクヤス」
「…僕は、凱さんがクビになるなら、一緒に辞職の記述を提出するだけです」
松葉杖に寄りかかったまま、オクヤスは微塵の揺らぎも無い、硬質なる忠誠を口にした。
其の様子に、凱は包帯に覆われた手首を軽く振り、呆れたような、しかし酷く満足げな呼気を鼻腔から抜いた。
「ま、それも悪くないな。世渡り下手の警察官二人と、世界を書き換えた調停者二人。此の槻御輿村の残骸で、新しい生活の公理でも組み立てるさ」
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其れからの日々は、徹底的な生活の泥臭さと、不可逆な肉体のリハビリテーションの生活へと、その位相を移行させていった。
那と伊藤の二人は、K県市内の病院の、寒々しい白亜の壁に囲まれたリハビリ室において、長期にわたる機能回復の数理を余儀なくされていた。
船虫の群れに執拗に組織を咀嚼された皮膚の各所は、現世の医学的処置の管理下において、引き攣れを伴う生々しい肉芽の傷痕へと、その意匠を変えていく。
「…那くん、右、あと三センチ、前…っ」
金属製の平行棒を掴み、不自由になった肉体の質量を交互に支え合いながら、一歩、また一歩と再構築していく日々。
それは、世界を再記述した詠唱のプロセスと同じくらい、泥臭く、そして神聖な調停の儀式であった。
伊藤は、時に痛覚のインプットに目尻を朱に染めながらも、その知的な狂気を孕んだ瞳を一切曇らせることなく、那の衣服をその細い指先で掴み、現世の実在の熱量を互いに確かめ合っていた。
解雇の手続きを終え、文字通り、ただの「草臥れ男」となった凱と、彼に付き従って警察組織を去ったオクヤスも、時折、林檎の詰まった不格好な袋を携えて病室へと現出する。
交わされる語の葉は、かつての凄絶な戦いの記述ではなく、近代の社会保障制度の不条理や、槻御輿村の残骸における新たな生活の設計図といった、極めて世俗的で、愛おしい現実の記号に満ちていた。
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季節の数理が不可逆に巡り、槻御輿の山々が、新緑の組成を現世の色彩へと固定させた頃。
リハビリテーションの工程を完全に完遂し、自らの足で重力を踏みしめる強度を取り戻した那は、槻御輿の山系へと足を踏み入れていた。
那は、一歩、一歩と、山の斜面を登り詰めていく。
辿り着いた山頂の座標。
其処から見下ろす槻御輿村の全域には、ただただ近代の科学が規定した自然のグラデーションが、全域を網羅している。
そして、天蓋を埋め尽くす圧倒的な雲海の、まさに中心。
其処に、彼れは、大在していた。
因果律の檻によって完全閉塞された呉爾羅の、二百五十メートルを超える超大質量の肉体は、半透明の結晶質の構造物へと相転移を遂げた光の翼の内部で、その駆動を完全に凍結させたまま静止していた。
それはもはや現世を侵食する理不尽な恐怖の波動ではなく、この世界が不条理を乗り越え、調停を果たしたという、絶対的な実大の碑となり、同時に、第零次元のなかで、無限の進化と、調和のを果たせる可能性として、其処に存在している。
雲海の波に洗われながら、沈黙を保つ巨大な山容を眺める。
その神聖な静寂のなかに、背後から近づく、規則正しい靴底の摩擦音が滑り込んできた。
「…来てたんだね」
振り返ると、其処には、山道の不規則な起伏を自らの足で確かに克服してきた伊藤の姿があった。
彼女のその双眸に宿る知的な光彩は、かつての暗い狂気から、現世の地平を静かに見据える穏やかな知性へと、その位相を完全に変えていた。
何より、その言葉の端々から、かつて彼女の思考の表出を阻んでいた不連続な吃りは、完全に脱落している。
「伊藤さん、身体はもう大丈夫ですか」
那の静かな問いかけに、伊藤は小さく、しかし確固たる強度を伴って肯首した。
彼女は那の隣へと歩み寄り、雲海の彼方に鎮座する巨大な結晶を見つめる。
「この通り。…まあ、傷は残っちゃったけど、だいぶ良くなった」
「…良かったです」
「…彼れも、本当に静かだね」
その滑らかな音調が、現世の大気へと溶けていく。
那は、自らのザックから取り出した『槻御輿縁記残録』へと視線を落とした。
「排斥せず、対話を続ける。私たちが血を以て記述したこの現実を、これから先の未来へと繋いでいかなければ」
那の言葉を聞きながら、伊藤は自らの指先を見つめ、それから、那のいまだ創口の残る手元へと、そっと自身の掌を重ねた。
「…じゃあ、それはあなたが持っていて」
二人の間に交わされる言葉には、もう過酷な戦いの残滓も、過去の呪縛に囚われた歪みも存在しない。
あるのは、ただ此の理不尽な現世を共に歩んでいくという、静謐な契約の重みだけであった。
伊藤はそっと手を引き、那の背後で、その一挙手一投足を静かに見守る位置へとその身を置いた。
古びた和紙の頁をめくり、未だ何一つ記述が施されていない、空白の記述領域へと、手元にある一本の筆記具の先を添える。
那の掌には、あの日の泥の冷たさも。
親友の温もりも。
そして、隣に居る、伊藤の細い掌の圧倒的な熱量も。
すべてが確かな実在の証として、脈動を続けていた。
遥かで静かに淡い光を持ち、逆光のなかで浮き立つ巨躯を、そっと、観測しながら。
先ず、息を吸う。
四秒吸い、五秒止め、六秒をかけて吐き出す。
槻御輿の澄んだ空気が、肺胞を通して、伝わってくる。
いまだ傷の残る手先には、彼女が土や葉で錬成した、手製のインクを携えたGペンが握られていた。
捲ったページに、筆先を押し付ける。
繊細だが粗さも残るタッチのドローイングを、続けてゆく。
白紙の引力に引かれるようにして、黒いインクが、あの巨大な沈黙の輪郭を、一筋ずつ、確かな質量へと置換していく。
其れは、もう二度と戻らないあの日々への。
此の理不尽な地平で、共に生きる彼女への。
とめどもない、実在の証明。
雲海が、ゆっくりと、彼の足元をそっと隠すようにして流れていった。
(了)