不幸の温度はちょうどいい 作:ペンシルガン
ダンボールの山。ベッドなし、机なし、家具と呼べるものはエアコンとカーテンと証明くらい。
ここはどこ? 答え、岡崎いるかの部屋。
いるかお姉さまは来週には家を出ていく。最後くらいはお姉さまって敬った方がいいだろうか。気持ち悪いからやめておこう。
「いるかちゃん、なにこれ。家具は?」
「お母さんが捨てた。来週は忙しいからって、昨日の昼間に業者に来てもらったみたいよ」
つまり昨日の夜はこの状態だったってことね。そんな急いで捨てなくてもいいだろ、とか真っ当な指摘はもういいや。おかしなのはいつものことだ。
日中は練習行ってたから気付かなかった。これさあ……いるかちゃん、どこで寝たん?
「なんで夜のうちに言わなかったの」
「別に……タオルとかあるし。枕も寮に持ってく用のは確保してるから」
「何も大丈夫じゃないよね」
「昔はよく床で寝てたじゃん。懐かしかったわ。初心に帰れた気がする」
「あのさぁ」
「お母さんにはお前の部屋で寝ろって言われてたんだけど、なんかほら、悪いじゃん? 私がいるとやりづらいこともあるかもしれないし」
いるかちゃんはウンウンと頷いている。気持ち悪いから気を遣わないで欲しい。
後味はクソ悪いから、こういうことを隠したりしないで欲しい。それとやりづらいことってなんだよ。別にないよ。見られて困るようなことは何も。
「ダリアさんに言ってないよね。家具全部捨てられてたわー(笑)、とか」
「言ってないよ。笑いに変えるのは無理そうだったから。無駄に悲しませる未来しか見えない」
「だよねー……。はぁ……今日からは僕の部屋のベッド使って。僕は床で寝る」
うちの母さんはほんとに……。寝る場所は弟のベッドがあるからいいじゃん、ってことみたいだけど、そもそも急いで捨てる必要ゼロだろ。
引越し当日に間に合わせなきゃいけないのは荷造りだけだ。後はどうにでもなるし、なんだったら残しとけよって話。まさか家に戻ってくるときのこと想定してないのか? 引越しって言っても高校の寮だし、長期休暇とか年末年始もあるんだよ?
「休みの時とかどうすんの……こんなことされて。感じが悪すぎるんだけど」
「とりあえずバイトして金は貯めるつもりなのよ。それで誰かの家にでも行こっかな。ダリアは来ていいって言ってたし、寧々子と麒乃んとこも優しいお父さんお母さんだしね。単に遊びに行くって体にすれば心配もされないし、いいかなって」
できれば帰ってきたくないってことね。
そりゃそうだろうな。わざわざ心の安定をぶっ壊しに来る必要はないよ。
両親と完全に縁を切りたいわけじゃないけど、しばらくは距離を置いた方がいい。僕といるかちゃんはそう思ってる。京都に住んでる友達にはハッキリと「完全に毒親だから縁を切るべき」って言われたけどね。これが
「そっか。それでいいんじゃない? 僕はどうにか上手くやってくつもり。なんとかご機嫌取ってさ。もし帰ってきたくなった時のために、できるだけマシな環境にできるよう頑張っとくよ」
「いいよ別に。私はいなくなるんだから。自分が生活しやすいようにだけ振る舞えばいいよ」
「さすが。世界女王は余裕あるね」
「今の私は無敵だかんね。世界ジュニアの時はマジで変なパワー出てたし、まだ続いてる気がする」
そう、今のいるかちゃんは世界女王です。
今月の頭にあった世界ジュニアスケート選手権でキレッキレの演技を披露。明らかに実力以上のものを出した結果、見事に優勝して帰ってきました。
実力通りにいっても上位争いに絡むとは思ってたけど、まさか優勝してくるとは。ビビった。
「まさか
名城クラウンFSCの女子ナンバーワン選手、
包容力の塊みたいな人で、絵に書いたようなお嬢さま気質の高2女子。ジュニア最終年で今回は優勝狙えるって言われてたけど、結果は表彰台落ちだった。二回の転倒がなければ違ってたと思うけど、それを言い出したらキリがない。
「私は無敵だから。ふふ、
「どうだろうね。
「それはさ、まだ余裕あるってことだよ。次はなりふり構わない感じでやりたいな。普通におめでとうって言われてモヤッたから」
「そこは素直に受け取りなよ……先輩のご厚意を」
僕は出場できなかったので悲しかった。世界ジュニアに派遣されるのは男女3人ずつだ。全日本ジュニア4位と全日本選手権8位じゃダメだったってこと。全く同じ戦績のダリアさんも落選したから、電話しながらテレビ観戦してた。
「てか布団は? 持ってかないの?」
「お母さんが適当に注文してくれて、入寮日に寮に届くことになってる。古いのはみっともないからって」
「そこまで古くはなかったと思うけどなぁ……お金お金って言うわりには使い方が雑。お母さんの物差しはわかんないわ」
「コロコロ変わるからね。でも間違いないのは、他人からよく見られるためにならガンガンお金使うってこと。友達とかいらないって言ってるくせに、変な人だよね」
友達いなくてもどこにでも一人で行けるし。ってのがお母さんの自慢のひとつ。昔はよく自慢されたもんだよ。おかげで洗脳されるところだった。
「さーて、練習いくか」
「行きますか」
今日は快晴。
でも、外は寒そうだ。突風が窓にぶちあたって、乾いた音を室内に響かせている。ダンボールだけになった部屋を見ていると悲しくなるから、少し早いけど練習いこう。
「寒そうだなー……この部屋も寒い。いるかちゃんの部屋じゃないみたいだ」
「ってことは多分、ここはもう私の部屋じゃないんだよ」
いつ来ても過ごしやすい温度だったはずなのに、今はただただ寒い。暖房をつけても意味ないな。この部屋で感じていたちょうどいい温度は、多分もう戻ってくることはない。それでいいんだと思う。
「夜はベッド使わせてよね。床で寝てると惨めな気持ちになるからさ」
「それはつまり、弟は惨めな気持ちになってもいいと」
とんでもない姉だ。
いい機会だからこれで実家とはバイバイしてもらって、二度と帰ってきて欲しくない。