リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 立てられる主張
俯いたまま契約書と手紙を見比べていたリーゼロッテは、考えを整理すると顔を上げた。相談を受けた以上、事実を確認するだけで終えるわけにはいかない。学園に何を求められるのか、そして、そのうち何をジェーン自身が望んでいるのかまで明確にする必要があった。
「お待たせいたしました。学園へ申し立てるのであれば、主張は三つに整理できます。ただし、こちらが主張したからといって、そのまま認められるとは限りません。それぞれの内容をお聞きになった上で、あなたご自身にお決めいただきます」
三つという数にわずかに表情を明るくしたジェーンだったが、最後の説明を聞くと、眉がわずかに寄った。先ほどまで契約書に落ちていた視線も、確かめるようにリーゼロッテへ向けた。
「ですが、この契約を結んだのは父とテンダレス伯爵様でございます。家の当主同士で決めたことを、わたしの判断で変更することなどできないのではないでしょうか」
「ご両家の契約そのものを無効にしたり、新たに結び直したりする話ではありません。両家が交わした契約を、学園内でどのように取り扱うかについての主張です。ですから、これから申し上げる三つは、契約を破る方法ではなく、学園に何を求めるかという選択肢だとお考えください」
ジェーンはすぐには答えず、契約書へ目を戻した。家の当主同士が決めたこと自体を動かすのではないと分かれば、話を聞く余地はあるらしい。リーゼロッテはその間を奪わず、紅茶を一口含んでから最初の主張へ進んだ。
「一つ目は、この契約の効力が、あなたご自身には直接及ばないとする主張です。契約を締結したのは、ご両家の当主であって、あなた自身はその契約に同意していません。そこで、この契約は、お父上が契約書記載の役務を実現する義務を負うという契約であり、あなた自身がこの契約によって義務を負ったわけではないと主張します。あなたが義務を負うことを了承しない限り、この契約を根拠として、あなたに直接履行を求めることはできないという構成です」
家の当主が契約した以上、その対象となった娘も従う。それが王国で当然とされてきた考え方である。ジェーンは署名欄を見つめたまま何度か瞬きをし、やがて張っていた口元をわずかに緩めた。
「では、わたしがドルリス様のお世話をお断りしても、わたし自身がこの契約に背いたことにはならないということでしょうか」
「契約当事者ではないとする以上、あなた自身が契約に背いたことにはなりません。ただし、お父上が負った義務までなくなるわけではありません。あなたが了承せず、その役務を実現できなければ、契約を履行できなかった責任はお父上が負うことになります」
リーゼロッテはそこで言葉を止め、返事を急かさず待つことにした。ジェーンは契約書から、傍らに置かれた父の手紙へ視線を移した。先ほど緩んだ口元は再び引き結ばれ、手紙の端に触れた指もそのまま動かない。しばらくして顔を上げたときには、伏せがちだった目がまっすぐリーゼロッテを捉えていた。
「父は、男爵家の娘であるわたしを随分自由に育ててくれました。王都の劇場へ通うことも許してくれて、あの機会がなければ、物語を書こうとも思わなかったでしょう。今回も、わたしのためを思い契約を結んだのだと思います。わたしの選択によって、その父が契約を果たせなくなるのでしたら、この主張は選べません」
父について語ったことのすべてが本心かどうかまで、リーゼロッテに確かめる術はない。ただ、父に契約上の責任を負わせる方法を選ばないという意思だけは迷わず示してくれた。ならば、その条件を崩さずに次の方法を示せばよい。
「二つ目は、学園への登録についてです。契約書に定められているのは、在学中にあなたがドルリス様のお世話にあたることまでで、学園への登録については定められていません。ですから、ご両家の契約そのものは争わず、学園への登録には同意しないと主張できます」
ジェーンの視線が契約書から外れ、再び父の手紙へ落ちた。今度は紙面を読むこともなく、その端へそっと指を添えたままリーゼロッテを見る。
「先ほどは、わたしが履行を拒めば、父が契約を果たせず、その責任を負うことになると伺いました。登録だけをお断りする場合にも、父が責任を負うのでしょうか」
「登録が契約内容に含まれていない以上、それを断っても、お父上の契約違反とはなりません。ただし、登録を断っても、学園がこの契約を根拠にあなたへ役務を求められなくなるだけです。ドルリス様ご本人があなたとの交流を望むことまで禁じられるわけではありません」
父の手紙に触れていた指が離れ、ジェーンの視線はゆっくりと壁際の書架へ移った。並んだ背表紙を見つめる横顔には、父の責任について答えを得たときの安堵はなかった。唇を結んだまま俯き加減になった彼女を、リーゼロッテは急かさずに待った。
「図書館の出口は一つしかありませんから、ドルリス様が待っているとお会いすることになります。わたしは、あの方を前にすると何も言葉が出てこなくなるので、断ることもできません。それでは、登録だけをお断りしても、今の状況は変わらないと思います」
リーゼロッテは頷いて契約書をジェーンの側へ少し寄せ、「世話」と記された一語を指先で示した。ジェーンが守ろうとしている父の契約を残したまま、いま困っている状態を変える余地があるとすれば、次に扱うべきはこの曖昧さだった。
「三つ目です。契約書には、在学中にドルリス様のお世話にあたるとしか記されていません。いつ、どこで、どれほどの時間を使うのかが定められていない以上、一日に一度声を掛けることも、授業以外の時間をすべて共に過ごすことも、同じ『世話』として求められる余地があります。ですから、契約も交流も否定せず、学園生活と両立できるよう、在学中に負う役務の範囲をあらかじめ定めていただきたいと申し立てます」
ジェーンは示された「世話」の文字をじっと追っていたが、やがて眉間に残っていた力がわずかに抜けた。顔を上げたときの視線は、先ほどまでの戸惑いより、確かめたいという色の方が強くみえた。
「その方法でしたら、父が承知したことも、ドルリス様が交流を望んでいらっしゃることも、そのままでございますのね」
「両家の契約も、ドルリス様との交流も否定する必要はありません。ただし、こちらの希望だけで役務の範囲を決められるわけではありません。学園は学ぶための場ですから、それを阻害する役務であれば制限を求められます。一方で、貴族の子女にとって他家との交流や社交も学園生活の一部である、と相手から主張される余地はあります。ドルリス様との交流をなくせるとは考えない方がよいでしょう」
緩みかけていたジェーンの表情が、最後の言葉でまた曇った。「世話」の文字へ戻った視線はそこで止まり、しばらくしてから困ったように眉を下げてリーゼロッテを見上げる。
「わたしは、具体的に提示する必要があるのですか。調停では、どの程度までを求めればよろしいのでしょうか」
「具体的な回数や時間は、相手のお考えも聞いた上で決めることになります。ですから、いま数字を決める必要はありません。こちらから求めるのは、役務の時間、場所、内容を明確にすることと、その範囲を学業や生活に過度な負担を生じさせないものにすることです。特に、この二点目はできる限り拘束を少なくするという方向で求めていきましょう」
ジェーンはもう一度「世話」の文字へ目を落とした。今度は長く留まらず、小さく息を吐いて契約書から顔を上げる。困惑はまだ残っていたが、リーゼロッテへ向けた目に先ほどまでの迷いはなかった。
「その形で、お願いいたします」
リーゼロッテは契約書を脇へ寄せ、空いた机の中央へ手を置いた。求める内容についてはジェーン自身の選択が出た。次は、その内容をドルリスへ伝える場と方法によって、ジェーンにどれほどの負担が生じるのかを選ばせればよい。
「相手に主張する方法としては学園へ正式に申し立てるほか、直接条件を話し合う方法もあります。ただし、私的な話し合いには正式な記録が残らず、条件を申し上げるのもあなたご自身になります。どちらの方法を選ぶか、お考えください」
「記録が残らなければ、後になって、決めた内容が違うと申された場合に困るのではございませんか。それに、殿下が代わりにお話しくださることもできないのでしょうか」
王女である自分が同席するだけなら、話し合いを見届ける者として収まる。しかし、ジェーンの代わりに条件まで提示すれば、ドルリスにとっては王女から示された条件になる。相手に拒否する余地があってこそ私的な合意として扱える以上、その区別は崩せない。
「わたしが立ち会えば、何を話したかについて証言はできますが、学園の決定として残るものではありません。また、私的な席であなたの代わりに条件を提示することもいたしません。わたくしが申し上げれば、王女であるわたくしの意向と取られかねず、断ることも難しくなるでしょう。それでは、当事者同士の合意とは言えません」
ジェーンはリーゼロッテから視線を外し、膝の上で重ねていた手を強く握り合わせた。俯いた横顔には、先ほど三つ目を選んだときにはなかった硬さが戻っている。
「ドルリス様を前にして、わたくし自身で条件を申し上げるのは難しいです。せっかく方法をお示しいただいたのに、申し訳ございません」
謝罪の言葉まで聞けば、リーゼロッテが迷うことはなかった。選択肢を示すのは、すべてを選ばせるためではなく、本人が自分に合わない方法を退けるためでもある。ここでためらわせるより、次に進めた方がよい。
「選べる方法を提示して、その中からあなたに選んでいただくための相談です。あなたがお決めになることですから、謝る必要はありません。私的な話し合いが難しいのであれば、正式に学園へ申し立てましょう」
ジェーンは顔を上げたものの、強く握っていた手まではすぐに緩まなかった。私的な協議を外せたことへの安堵は見えるが、ドルリスを前にして自分で話さなければならない不安までは消えていない。正式な調停なら、その負担を別の形にできる。
「正式な手続では、ご本人に代わって主張を述べる者を立てることができます。誰に依頼するかは、あなたがお決めになれます。わたくしでも構いませんし、ほかの役員を希望なさるのであれば、わたくしから依頼します」
ジェーンはすぐには答えなかった。契約書に目を落とし、次いで父の手紙へ視線を移す。二つの紙を見比べていた目がやがて止まり、先ほどまで引き結ばれていた口元も少しずつ緩んだ。最後に顔を上げたときには、リーゼロッテから目を逸らさなかった。
「わたしは、父が結んだ契約を否定したいわけでも、テンダレス伯爵家とわが家との交流を失わせたいわけでもありません。けれど、ドルリス様との交流に困っていることを新たに別の方に伝える自信がございません。殿下には、もうそこまでお聞きいただいております。ですから、差し支えなければ、殿下にお願いできますでしょうか」
父について語った内容のすべてを、そのまま本心だと決める必要はない。それでも、父に責任を負わせたくないこと、テンダレス伯爵家との交流そのものは残したいこと、その上で現在の状態を変えたいことは、三つの主張を選ぶ間にも崩れなかった。代理人として守るべき範囲は、十分に見えている。
「それならば調停では、ご両家の契約も交流そのものも否定せず、在学中に負う役務の範囲を明確にするよう求めます。ただし、相手から示された条件を受け入れるかどうかは、最後にあなたがお決めください。それを前提に、代理をお引き受けします」
ジェーンの口元にわずかな安堵が浮かび、強く重ねていた両手もようやく緩んだ。それでも椅子の背には身を預けず、姿勢はまだ固い。代理人に言葉を任せられることと、ドルリスと同じ部屋にいることへの恐れは、別に残っているらしい。
「代理人を立てた場合、あなたご自身がドルリス様との交渉に立ち会う必要はありません。当事者が相手との同席を難しいと申し出た場合には、別室から話し合いの内容を確認する扱いがあります。わたくしが何を申し上げ、相手が何を返したのかを聞いた上で、最後の判断をしていただけます」
「そのような扱いまで認められているのでございますか。わたくしが席に着かないまま、自分について決める話を聞いていてもよろしいのでしょうか」
ジェーンは目を大きく見開いたまま、リーゼロッテから視線を逸らさなかった。驚きは明らかだが、席を外せることへの安堵だけではない。自分がその場にいなくても判断には残れるのかと確かめる目だった。
「代理人は発言を代わる者であって、本人に代わって結果を受け入れるわけではありません。相手と同席できないからといって、自分に課される条件を知らないまま承知させることはできませんから、別室から内容を確認することもできます。一般向けの冊子には載せておりませんし、相手方にもあなたが別室で聞いていることは知らせません。ただし、これには守秘義務が生じて、秘密を守る同意書の提出が必要となります」
これは、品位を至上とする王国において、対等な交渉を可能にするための措置である。それゆえ、今回についてこの制度を伝えることを迷う理由はなかった。
それを聞いたジェーンは張っていた息をゆっくり吐き、ようやく椅子の背へ身体を預けた。それでも視線は伏せず、確かめるように一度だけ頷いてから、再びリーゼロッテを見る。
「ドルリス様の前でお話しすることは難しいですけれど、何が話されているのかは、自分で聞いておきたいと思います。ですから、その形でお願いいたします」
「それなら、そのように進めていきます。今後、ドルリス様が代理人を立てるかはわかりませんが、相手方との交渉により調停の日程を決めることになります。日取りが決まりましたら、こちらからお知らせします」
ジェーンは椅子から立つと、深く頭を下げた。入室したときと礼の深さは変わらないが、顔を上げたあとの表情には、相談を始めたときの怯えよりも疲れの方が強く出ていた。
「ここまで一つずつお話を聞いていただけるとは、思っておりませんでした。本日は、長いお時間をいただき、ありがとうございました」
もう一度礼をしたジェーンが退室すると、廊下を遠ざかる足音は、ここへ来たときよりもわずかに速かった。問題が解決したわけではないが、振り返ることなく廊下を進んでいった。
扉が閉じると、リーゼロッテは相談中に取っていた記録を一度読み返した。ジェーンの言葉を残すための相談記録と、これから外へ伝えるべき情報は同じではない。記録は綴りへ戻し、脇に置いていた小さな紙へ必要なことだけを書きつけた。
ドルリスはテンダレス伯爵家の嫡子であるだけではなく、第一王子の近衛でもある。その者について学園へ調停が申し立てられる以上、第一王子の側が何も知らないまま表沙汰になるのは望ましくない。
相談記録に比べれば、伝達用の紙は数行で足りた。相談記録の閲覧は、生徒会役員であればできるので、エドワルドに知らせるのは、ドルリスについて正式な調停が起こるという事実まででよい。リーゼロッテは書き終えた紙を折り、同じ室内で控えていたユスティナへ差し出した。
「ティナ。これをエドワルド様へ届けてください。テンダレス様について、学園へ正式な調停が申し立てられることになったと、お伝えすれば分かります。あとは、あちらでご判断になるでしょう」
相談の一部始終を同じ部屋で聞いていたユスティナに、なぜ第一王子の側へ先に知らせるのかまで説明する必要はなかった。紙を受け取った彼女も、内容を尋ね返すことはしなかった。
「承知いたしました。直接お渡ししてまいります。殿下は、わたくしが戻るまで新しい相談者をこの部屋へお入れにならないでくださいませ。もし男子生徒がお一人で参りましたら、殿下もお一人で応対なさることになります。相談であれば扉を開けたままにもできませんから、戻るまでは施錠してお待ちください」
「うふふ、わかりました。その間は施錠して誰も相談室へ入れないこととします」
そこまで聞いて、ユスティナは小さく一礼すると、伝達用の紙を手に扉を開ける。窓の外では日はすでに西へ傾き、東翼の奥まで届いていた光も失われていた。この刻限から新たな相談者が来る可能性は高くない。それでも、そう口にすれば、ユスティナは万一を理由に、自分が戻るまで廊下へ人を置くことまで考えるだろう。
そこまで案じなくてもよいでしょうに、と胸の内だけで思いながら、リーゼロッテは約束どおり扉を施錠した。