面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました   作:濃厚とんこつ豚無双

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第三十話 それぞれの一日

八月十日。

ベルヴァーニュ首席弔問使節執務室に届いた電報は、格別に短かった。

"八月八日攻勢、サン=ブリウ東岸及びコルヴィエール高地前面において敵防御を突破し得ず。一定の前進を見たるも、敵反撃及び砲兵火力により攻勢継続困難。部隊再編のため一時停止。損害調査中。敵追撃なし。"

アルジュー侯は一度読んだ。

二度目は、途中で止めた。

「一時停止」

侯は低く言った。

「ずいぶん品のよい敗北だ」

副官は何も答えなかった。

答えれば、その瞬間にこの紙は敗報になる。

正式にそう呼ばれるまでは、まだただの報告でいられるからだ。

侯は紙を机に置いたというより、押さえつけた。

手袋の指先に、わずかに湿りがあった。

汗だ。

侯はそれに気づき、ゆっくり手袋を外した。

「後続の第七師団は」

 

「国境に待機中です」

副官が答えた。

「ですが線路が詰まっております。ヴァルモンまでの輸送路は、弾薬列車、負傷者後送、空車回送、それに復旧資材で容量が埋まっております」

「後続ではなく、障害物だな」

副官は答えなかった。

侯は窓の方を見た。

サン・ルネの空は高く晴れていた。

 

「負けるはずのない会戦だった」

侯は言った。

副官は動かなかった。

「少なくとも、負けてよい会戦ではなかった」

「モンフォールは何と」

「別電はまだ届いておりません。この電報が最速です」

侯は舌打ちこそしなかったが、その寸前の顔をした。

モンフォール将軍は有能だ。

有能な将軍が沈黙しているということは、まだ報告する形が整っていないということだった。

あるいは報告書の上で形を整えるのに時間が要るほど、都合の悪い負け方をしたとも言える。

「細報は、届き次第」

「後でよい」

副官が顔を上げた。

「閣下」

「後でよいと言った。何人死んだか、どの連隊が止まったか、砲兵が何時に弾を切らしたか。それは後で将軍どもに互いの失敗を押しつけさせる時に必要になる、今ではない」

侯は報告書の末尾へ視線を落とした。

 

敵追撃なし。

この一行は一見すれば救いのように見えた。

追撃されていない。壊滅していない。軍はまだある。

砲も、軍旗も、将軍も残っている。ならば戦争は続けられる。

しかし、今回の目的は戦争を続けることではなかった。

「ロガリアは」

「仲介使節の現地入りは八月十五日前後との見込みです」

「十五日前後」

侯はその数字を低く繰り返した。

八月十日。五日。いや、四日かもしれない。

間に合わない。

その結論があまりにも早く出たので、侯は腹を立てた。

「本国へは」

「第一報をそのまま送るべきかと」

「馬鹿を言え」

副官の肩がわずかに固くなった。

侯は声を荒げなかった。

だが、低く抑えた声の中に毒は混じっていた。

「そのまま送れば、戦争省は"再攻勢可能"という都合のよい一行だけを拾う。軍団司令部は敗けたのではない、部隊再編中だと読み、再編中なら急がせればよいと考える。列車が詰まっているという一文は読まない。読んでも、怒れば空くと思う」

「では」

「皇都向けには、攻勢継続困難を隠しすぎるな。ただし敗北とは書くな。戦線整理、部隊再編、弾薬補充、再攻勢準備。この四語でまとめろ。第七師団投入は可能だが、鉄路容量上、即時実施は困難と添える」

「は」

「公使団向けは別だ。王女殿下の安寧確保、王都秩序維持、ロガリア仲介への敬意。この順で書く。柔らかくしろ。柔らかすぎれば弱く見えるが、硬くすれば侵入に見える。そこはド・サン=クレールに見せろ」

 

副官が筆を走らせる。

「王女殿下へは」

その問いで侯の顔がわずかに変わった。

王都で最も弱く、同時に最も扱いにくい女。

最後まで沈黙を貫いた誇り高き王女。

王都へ軍が届き既成事実が成立していれば、彼女の沈黙など保護の慎みとして扱えた。

だがそれができなかった今、沈黙は別の意味を持つ。

「殿下へ余計な言葉を与えるな。西方にて交戦あり。王都への即時危険なし。聞かれたらそれだけだ」

「詳細を問われた場合は」

「戦況整理中と言え」

 

彼はそこで一度言葉を切り、報告書を見下ろした。

「ド・サン=クレールを呼べ」

「は」

「早くしろ。あの男なら、負けをどの程度まで細くできるか、まだ分かる」

副官が退出した後、アルジュー侯は一人で机の前に立っていた。

間に合わなかった、ならばどうするのか。

それだけを考えていた。

 

 

 

 

ド・サン=クレール少佐は北営舎の自室にいた。

 

彼のところにも同じ電報は来ていた。

ただし本国戦争省との直接回線ではなく、侯の執務室経由で一枚を渡された。

内容は同じである。読んだ時刻が少し遅いだけだ。

 

少佐はその紙を読んで、しばらく何も考えなかった。

正確に言えば、何も考えまいとしていた。

考え始めれば、最初に出てくるのは「なぜ」ではなく「では、次は」だと分かっていた。

そして「次」を考え始めたら、もう元の位置には戻れない。

彼は電報を折り、侯の執務室へ向かった。

 

部屋に入ると、アルジュー侯は椅子に深く凭れたまま、手袋を持て余していた。

片手は脱いでいる。もう片方はまだ嵌めたままだった。

「モンフォールの別電は」

「まだです」

 

侯はそこで不揃いの手袋に気づいたらしく、もう片方もゆっくり外した。

「負けたか」

質問ではなかった。

 

「攻勢は頓挫しました」

少佐は答えた。

侯の翻訳をそのまま受け取る気にはなれなかった。

 

攻勢が成功していれば、この四日はノルトマルクとの撤退交渉に使う予定だった。

ロガリアが到着した時には「もう戦線は我々の後ろにある」という景色を作る。

その絵は崩れた。

侯はそこで声を落とした。

 

「殿下のことだ」

少佐は黙った。

この話題が来ることは分かっていた。

 

「仲介の席に、あの方ご自身が出られるのか」

「殿下はロガリアの仲介席で自ら申し述べる意向です。それは以前お伝えした通りです」

「それは、我々が勝っている時の話だ」

侯は机の上の電報を、指先で押した。

「勝っている時なら、殿下が何を仰ろうと、こちらの旗の下で仰ったことにできる。王都は我々が守り、軍は我々が動かし、彼女はその中で言葉を選ぶことになる。だが今の状態で殿下が仲介の席へ出て、好きに口を開かれたらどうなる」

 

少佐は答えなかった。

答える前に、侯が続けた。

「……いっそ、本当に黙っていただくわけにはいかんか」

その語は、二つの意味を持ちえた。

発言を封じるという意味と、もう一つ。

侯はその境目をわざと曖昧にした。

 

少佐は即座に答えた。

「時間がありません。その手の工作をするには」

「アドル伯派、あるいはノルトマルクの手に見せる」

「……いえ、であれば時期を逸しています」

そして声を一段落とした。

「それに名目上警備をしているのは我々です。そこで殿下が消える、倒れる、あるいは口を閉ざす。どの形であれ、仲介の第一行が我々自身を埋めます」

「警備していたからこそ、襲われたと言える」

「言えます。しかし、信じられるかは別です。せめて勝った後なら、まだ混乱に紛れたかもしれません。王都の騒擾、敗残兵、急進派、ノルトマルクの謀略。書きようはいくらでもあった。ですが今の形でそれをやれば、我々は敗報の直後に王女殿下を害した者になります」

「害したとは言っておらん」

「では、"黙っていただく"の意味を限定なさいますか」

侯は答えなかった。

窓から差す光が、机上の電報に白く溜まっている。

やがて、侯は言った。

 

「せめて仲介の席に出ることだけを止める」

「嘘の上に、また嘘を重ねると」

「辻褄が合わなかったのだから仕方ない」

侯は吐き捨てるように言った。

少佐は、自分が二週間前に書いた起案を思い出していた。

 

"エレオノーラ王女殿下、ベルヴァーニュ本国の保護を請う"

 

あの一行は、まだ本国の机の上で生きている。

請願の証人名は空欄のまま。空欄のまま、しかし起案として紙は動いた。

あの嘘は攻勢が成功していれば、後から事実で塗り直すつもりだった。

 

「……しかし、現実的とは言えません」

少佐はそう言った。

言ってから、自分の声が少し乾いているのに気づいた。

「殿下を仲介の席から外す理由をこちらが作る必要があります。病気か、安全上の懸念か。王都内の混乱か。どれを使うにせよ、仲介側が直接確認を求めてくる可能性が高い。ロガリアもノルトマルクもその程度の手順は踏むでしょう」

 

侯は鼻を鳴らした。

「ロガリアはそこまで丁寧か」

「丁寧です。そして丁寧な仲介者ほど、嘘に対して容赦がありません」

侯は葉巻を手に取りかけて、やめた。

火を点ける気分ではないらしい。

 

「……だろうな。だが、このままルサントがノルトマルク側へ靡くのは困る」

「困ります」

少佐はそこだけは、即座に同意した。

ルサントがノルトマルク側へ靡く。

その表現は、少し上品すぎる。

実際には、国境沿いにある戦略地帯がそっくりノルトマルク側に取り込まれようとしている。

 

沈黙がしばらく続いた。

「殿下を動かすな」

侯がやがて言った。

「承知しました」

「ただし、動かさぬということと、自由にさせるということは同じではない」

「ええ」

「北翼の歩哨は現状維持。武装は見せるな。だが、出入りは絞れ」

「侍女は」

「古参は残せ。若い者は入れ替えろ。理由は疲労でよい」

「書簡は」

「控えを取れ。止めるな。止めれば証拠になる」

「医師と司祭は」

「送る。静養の形を厚くする」

 

「王女殿下の件は、保留だ」

侯が言った。

「保留、で宜しいのですか」

「保留だ。今すぐ口を塞ぐのも間に合わん。かといって逃がすわけにもいかん。ならば保留というのが正しい」

 

保留はまだ決断ではない。

決断でない限り、自分がその命令を受ける必要もまだない。

だが侯の目は、保留という語を選んだ人間の目ではなかった。

そして侯はようやく、少しだけ頷いた。

 

「公使団への文面を変えろ。"攻勢は作戦的に成功した区間を含むが、全般的な前進には至っていない"」

 

少佐は復唱しなかった。

復唱するほどの量ではなかったし、その一文がどういう嘘かは言われずとも分かった。

 

「もう一つ」

侯は立ち上がりかけて、少佐を見た。

「本国宛にこう書け。"ルサント情勢、仲介使節到着に鑑み、当面の態勢維持を要す。王女殿下の処遇については、追って協議を求む"」

 

少佐は、その語を紙に書き留めた。

処遇という語は、人間に対して使う時と書類に対して使う時で、重さがまったく違う。

侯はおそらく、両方の意味で使っている。

 

「以上だ」

少佐は一礼して退室した。

廊下へ出ると、朝の光が石壁に白く当たっていた。

 

少佐は自室へ戻る前に、副官を呼んだ。

 

「北翼の侍女名簿を出せ」

「は」

「マルトとリゼットは残す。古参で、殿下が顔を知っている。ほかの二名は今日から休ませろ。理由は過労でよい。代わりは宮内庶務から出すが、こちらで名を見てからだ」

副官は手帳を開いた。

「司祭は」

「昼過ぎに入れる。ただし室内ではなく、廊下で祈らせる。殿下が求めた場合だけ入室を許す。その時は立会いを付けろ」

「医師は」

「夕方に送る。診察ではなく静養確認だ。記録には"殿下、疲労あり"と書かせる。ただし、病名は作るな。病名を作ると、次にそれを説明しなければならなくなる」

「書簡は」

「止めるな。控えを取る。殿下の紙も、侍女の袖も、祈祷書も、すべて一度は目に入れろ」

少佐はそう言って、最後に付け加えた。

「北翼へ出入りする者の時刻を別葉で残せ。理由は警備確認。王女殿下の口を塞いだと書かれるより前に、我々は"守っていた"と書ける紙を持っていなければならない」

 

 

 

 

ヴィルマー中将が勝報を受け取ったのは、同じ八月十日の昼前だった。

 

電文は短かった。

 

"八月八日、サン=ブリウ及びコルヴィエール前面においてベルヴァーニュ軍攻勢を阻止。敵は攻勢を停止し再編中。追撃は実施せず。王都方面に対する即時脅威なし。詳細後報。"

 

副官は、読み終えた中将の表情を窺った。

勝報である。

少なくとも、普通ならそう呼ぶべき報だった。

だがヴィルマーは笑わなかった。椅子にもたれ、しばらく電文の末尾を見ていた。

 

「追撃は実施せず、か」

「はい。司令部は敵撃滅よりも防御線保持を優先したものと思われます」

「当然だ。追えばこちらが更なる戦火を運ぶことになる。勝った後に馬鹿になる必要はない」

ヴィルマーは電文を机に置いた。

「問題は、ベルヴァーニュがそれをどう取るかだ」

副官は一瞬、意味を測りかねたように黙った。

「勝報ではありませんか、これでルサントは連邦の勢力圏になります」

「こちらにとってはな」

 

ヴィルマーは地図を見た。

「王女殿下の周囲を見ろ」

 

副官が顔を上げた。

「救出でありますか」

「そんなわけがあるか」

ヴィルマーは即座に言った。

「今こちらが王女殿下を動かせば、ベルヴァーニュと同じだ。連邦が王女を奪ったと書かれる。ロガリアが来る前に、こちらから席を汚す必要はない」

「では、王女殿下が危険だと」

「危険になった」

ヴィルマーは短く答えた。

「勝っている間、殿下は体のいい名目だ。必要であれば黙らせられる。では、勝てなかったベルヴァーニュにとってはどうなる?」

副官は黙った。

ヴィルマーは窓の外を見た。

王都サン・ルネは、まだ静かだった。

鐘も鳴る。門も開く。商人も歩く。

 

「保全評議へ人を出せ」

「内容は」

「王宮北翼に関する警備確認を、評議会の名義で求めさせる。直接ではない。最初は宮内庶務へ照会だ。名目は王女殿下の静養に関わる確認でよい」

「かなり細かいですな」

「細かくなければ意味がない。大きな抗議は握り潰される。小さな照会は答えない方が不自然になる」

副官は頷いた。

「王女殿下ご本人への連絡は」

 

ヴィルマーは少しだけ考えた。

「直接は出すな」

「は」

「ただし、殿下の言葉が外へ出ようとした時、それを受ける口を用意しておけ。保全評議、聖堂、医師、宮内庶務、ロガリア使節。どの道へ出ても、途中で完全に消えぬようにする」

「つまり、紙の逃げ道を作るわけですか」

「そうだ」

 

「それと」

ヴィルマーは最後に、声を少し落とした。

「王女殿下の救出を唱える若い士官が出たら、すぐ私のところへ連れてこい。叱る。必要なら殴る。善意の馬鹿は、敵より速くこちらを破滅させることがある」

「は」

「どちらにせよ、裁定はもうすぐにやってくる」

 

副官が退室した。

間もなく、旧税関庁舎の廊下で人が動き始めた。

 

 

 

 

王宮北翼二階の部屋は、この数日ほとんど同じ景色を保っていた。

 

窓は高く、光は白く、壁布は淡い灰。

侍女が二人。香炉が一つ。祈祷書が一冊。

扉の外には、黒衣の歩哨が二名。

 

エレオノーラ第一王女殿下は、その日も窓辺に立っていた。

 

朝から誰も来ない。

 

それ自体は珍しいことではない。

だがこの数日、ド・サン=クレール少佐は二日に一度は顔を出していた。

アルジュー侯も、表敬と称して週に二度ほどは扉を叩いた。

彼らは丁重で用心深く、こちらが何を言うかを測っていた。

 

今日は、誰も来ない。

 

王女はそのことに、別の言葉を与えなかった。

不安とも疑念とも名づけなかった。

ただ、窓の外を見ていた。

 

鐘は鳴った。

十二時の鐘。聖堂の、いつもの鐘だ。

 

侍女のマルトが、窓辺に水を持ってきた。

「殿下、少しお召し上がりください」

 

王女は杯を受け取り、一口だけ含んだ。

 

「マルト」

「はい」

「今朝、廊下で何か聞こえた?」

 

侍女は少し考えてから答えた。

「歩哨の交代の時に、少し声がしておりました。いつもより早い時刻でしたが」

「それだけ?」

「はい。……ただ」

侍女は言い淀んだ。

「ただ?」

「副官の方が、一度この階へ上がっていらしたようです。扉の前までは来ませんでしたが」

 

それは確認に来たということだ。

中の人間に会いに来たのではなく、中の人間がまだそこにいることだけを確かめに来た。

王女は水を机に置いた。

指先が、少しだけ冷えていた。水のせいなのか、それとも別の理由なのかは分からなかった。

 

もう一人の侍女、リゼットは部屋の隅で繕い物をしている。

針の音だけが、しばらく続いた。

やがて、いつもの昼食係ではない女が盆を運んできた。

 

年は若く、手袋は新しく、王宮の廊下に慣れていない歩き方をしていた。

盆は扉の外で一度止められた。

歩哨の声が低く響き、それから別の女の声が「確認済みです」と答える。

 

入室した盆の上には、薄いスープと白パンと果物があった。

昨日と同じ献立に見える。

 

「あなたは」

若い女は深く礼をした。

「宮内庶務より、本日よりお給仕を補佐いたします、ルシールと申します。リゼット様がご疲労とのことで、増員を」

 

リゼットが驚いて顔を上げた。

「わたしが?」

ルシールは困ったように視線を伏せた。

「そのように伺っております」

王女はその短いやりとりを見ていた。

 

「リゼット」

「はい、殿下」

「あなたは疲れているの?」

リゼットの唇が震えた。

「いいえ。少なくとも、殿下のお側を離れねばならぬほどではありません」

「そう」

王女はルシールへ視線を戻した。

「では、今日は三人でいてちょうだい。疲れている者を急に廊下へ出すのは、もっと疲れますから」

ルシールは一瞬、答えに詰まった。

扉の外で、歩哨の靴音がわずかに動いた。

 

王女は昼食を一口だけ取った。

味はしなかった。

しばらく何も起きなかった。

窓の外では、光が少しずつ西へ傾いていく。

部屋の影が動く。針の音が続く。三人目の侍女だけが居場所を決めかねたまま、扉の近くに立っている。

 

夕刻になると司祭が来た。

ただし、入室はしなかった。

扉の外で祈りの言葉が聞こえた。いつものドレル司祭ではない。

発音が違う。祈りの文句は正しいが、父の好んだ節回しを知らない。

 

「ドレル司祭ではないのですね」

 

王女が言うと、マルトが扉の方を見た。

廊下の向こうからベルヴァーニュ側の係官らしい声がした。

 

「ドレル司祭は本日、聖堂参事会にて別件があり、代役を――」

「それを、わたくしの部屋の外で説明なさっているの?」

 

廊下が静まった。

王女は扉へ向かって、少し声を強めた。

 

「祈りに代役が必要なこともあるでしょう。ですが父の名を祈る者の名くらいは、中にいる娘へ先に知らせるのが礼ではなくて?」

 

返答はなかった。

ただ、外の若い司祭が祈りの文句を最初からもう一度唱え直した。

それは謝罪ではなかった。しかし謝罪に近いものではあった。

 

王女は窓辺に戻った。

 

仲介が来る。

あと何日かは知らないが、来ることだけは知っている。

仲介が来れば、自分は席で申し述べると言った。

だが来るまでの間にまだこの部屋にいられるかどうかは、自分では決められない。

 

王女は手袋を嵌め直した。

片方だけ外していたことに、今ごろ気づいた。

 

窓の外で、馬車の音がした。北営舎の方角だ。

馬車が一台、王宮の裏手を通って南へ向かっていく。

ベルヴァーニュ公使団への連絡車だろう、と王女は思った。

連絡車がこの時刻に動くのは、何か紙が動いたということだ。

新しい侍女はもういない。

 

「リゼット」

「はい、殿下」

「祈祷書を」

 

侍女は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに机の上の祈祷書を持ってきた。

王女はそれを開いた。

父の葬儀の日から、同じ頁に栞が挟まれている。祈りの文句はもう何度も目で追った。

 

「小さな紙片はあるかしら」

 

マルトがすぐに裁縫箱から薄い紙を出した。繕い物の型紙に使う小さな余りだった。

王女はそれを受け取り、机に向かった。

 

"わたくしは、ベルヴァーニュ軍に保護を請願していない。"

 

一枚目。

もう一枚に、さらに短く。

 

"ロガリア仲介の席において、自ら申し述べることを望む。"

 

三枚目には、しばらく考えてから書いた。

 

"もしわたくしが出席できぬ時は、その理由を確認されたい。"

 

指が震えた。

彼女は一度ペンを止め、息を整えた。

 

「これを、どうなさるのですか」

マルトが囁くように訊いた。

 

「一つは、あなたが持っていなさい。もう一つは祈祷書に挟みます。最後の一つは、いつもの縫い針の箱へ」

「危険です」

「危険ではないものが、この部屋にありますか」

 

マルトは答えなかった。

王女は残りの紙片を折り、それぞれの場所へ収めた。

祈祷書を閉じた。

 

紙片の一つは、祈祷書の父王の頁へ挟まれた。

一つは、縫い針の箱の底へ。

そして一つは、マルトの袖へ。

 

「殿下。お夕食の支度をいたしましょうか」

リゼットが顔を上げて言った。

「ええ」

 

王女は答えた。

ルサントの王女は、まだそこに立っていた。

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