面倒なので黙っていたら天才参謀と誤解されました 作:濃厚とんこつ豚無双
九月二十四日、午前十時前。
エルツェンの東十キロほどにある丘陵地帯の斜面を、ハイゼンベルク軍の歩兵が登っていた。
畑の境に沿って広がった散兵が、丘の上へ撃ちかけている。その後ろから中隊が続き、麓の道には次の連隊が入ってきていた。
隣の丘でも、街道沿いの村でも、銃煙が上がっていた。
砲声は、両軍ともに夜明けからほとんど途切れずに続いている。
アルブレヒト親王の第三軍とその南隣に展開するカールハイム大将の第五軍は、エルツェン東方の防御線へ攻勢をかけていた。
ノルトマルク軍は丘の斜面に壕を掘り、村や農家にも兵を入れて抵抗している。朝のうちに幾つもの前哨陣地が帝国軍の手へ落ちたが、市街へ通じる道はまだ開かれていなかった。
親王は双眼鏡を下ろした。
第三軍の前進指揮所は、古い石切場に置かれていた。
「殿下。北でケーゼル閣下の先鋒部隊が敵の第一線を突破しました。後続を入れ、さらに前進するとのことです」
「よろしい! ケーゼルには私から祝意を伝えろ。フライタークはどうだ。あの石垣にも、そろそろ我が軍の旗が見えてよい頃だが」
「先頭の大隊が押し返されました。丘の裏手から敵の予備が出てきたそうです。いま、別の大隊を上げております」
親王はもう一度、斜面へ双眼鏡を向けた。
登っていく歩兵の脇を、負傷者を抱えた兵が下ってきていた。
「先頭の大隊長は?」
「左腕を負傷して、裏の救護所へ運ばれました。自分で歩いて戻ったとのことです」
「ならば後で私が会おう。あの石垣の向こうを、こちらの誰よりよく見てきたはずだ」
親王は平屋へ入り、地図卓の前へ立った。
押し返された部隊は第三軍の南端を攻めていた。すぐ隣では第五軍も同じ丘へ取りついていたが、こちらも敵陣の手前で止まっている。二つの軍の間にこの陣地を残したまま、先へ出るわけにはいかなかった。
第五軍の連絡将校が書面を差し出した。
「カールハイム大将より、攻撃を揃えたいとの申し入れです。第三軍の再攻撃に合わせ、こちらも砲撃を集中すると」
「実に結構だ。こちらからも同じ申し入れをするつもりだった。第五軍と揃って登ろう。敵がどちらへ予備を出すか迷っている間に、両方の旗を上へ立ててやればよい」
親王は書面を参謀長へ渡し、砲兵参謀を呼んだ。
「歩兵は石垣まで届いている。その先で待っている敵を、今度は卿の砲にも引き受けてもらおう。丘の裏手を見通せる観測所はあるか」
「北の観測所からなら、西斜面を見通せます。ただし砲をこちらへ向ければ、ケーゼル閣下の攻撃を待たせることになります」
「では、少し待ってもらう。フライタークがここを抜けば、ケーゼルの正面にいる敵を南から攻められる。待たせた分は、そこで返そう」
参謀長が命令案へ書き込み、第五軍の連絡将校と攻撃時刻を確かめた。
砲兵参謀が伝令を呼ぶために出ていくと、親王も軍帽を取った。
「準備が整うまでに、大隊長の話を聞いてくる。何かあれば救護所へ使いを出せ。私の方もすぐに戻る」
◆
救護所に使われた倉庫には、石灰の粉と血の臭いが籠もっていた。
窓の下に座った大隊長は、左腕を胸の前で吊っていたが、親王を見ると腰を浮かせた。
「そのままでよい。ここでは軍医の指図に従ってくれ。私は敵の配置を聞きに来たのだ。地図を見てもらえるか」
副官が地図を広げた。
大隊長は右手で西斜面を辿った。
「この窪地です。見えただけで二個中隊ほどで、その後ろにも兵がおりました。石垣へ入った時には誰も見えなかったのですが、先頭を上へ出したところで撃たれました。後続をもっと早く上げていれば、あるいは――」
「よく分かった。次はそこへ砲撃を加える。北の観測所からも見させるから、場所をもう一度確かめてやってくれ」
大隊長は地図を自分の方へ寄せた。
副官は指の止まったところへ印をつけ、待っていた伝令へ持たせた。
「殿下。連隊には、次の攻撃までに戻ると伝えてあります。右手は使えますし、馬に乗せてもらえば指揮は執れます」
「その意気は嬉しい。だが、君の大隊は私の命令で下げた。今から戻られては、私の方が困るではないか」
「ですが、中隊長も二人倒れております! 私まで抜けては、残った者に申し訳が立ちません!」
親王は大隊長の脇へ置かれた軍帽を拾い、膝へ戻した。
「君が部下を案じるように、彼らも君の傷を案じているだろう。治るものを無理にこじらせては、皆が困る。連隊には、私が休めと命じたのだと伝えておく。君はその腕を治して、また彼らのところへ戻ってくれ」
奥で担架を待っていた兵たちも、二人の方を見ていた。
親王はそちらへ身体を向けた。
「諸君にも礼を言おう。朝からよく戦ってくれた。あの斜面を上がることも、負傷した仲間を連れて下ることも、容易な働きではなかったはずだ。石垣まで君たちの旗が進んだところは私も見ていた」
衛生兵が桶を持って通ったので、親王は壁へ身を寄せた。
「君たちの働きは、私から陛下へもお伝えする! 今日はもう十分に戦ってくれた。あとの攻撃は我々に任せて、ここでは身体を休めてくれ。病院へ送られる者にも、できる限りのことはさせよう」
軍医が大隊長の包帯へ指を入れ、締まり具合を確かめた。
大隊長は軍帽を右手で押さえ、今度は立とうとしなかった。
戸口へ向かった親王を、壁際の兵が呼び止めた。
「殿下、今夜の配給なんですが……病院へ送られた者にも、頂けるんでしょうか」
片脚へ添え木を当てられた若い兵だった。
親王は足を止め、顔を向けた。
「もちろんだとも! あれは君たちにした約束だ!」
それから軍医を振り返った。
「ただし、飲む時刻は軍医に決めてもらうがね。私よりもずっと君の身体のことをよく知っている。酒は取っておかせるから、安心して治してくれ」
外へ出ると、親王は副官に病院へも配給を回すよう伝え、石切場へ向かった。
◆
砲撃が丘の裏手へ移ると、それに合わせて第三軍と第五軍の歩兵が前進した。
先頭の散兵が背の低い木の間を抜け、その後ろから中隊が登っていく。
朝の攻撃で倒れた兵を避け、砕けた石に足を取られながらも、列は石垣へ近づいていた。
隣の斜面でも第五軍の旗が動き始めた。さらに遠く、街道沿いの村からも砲声が続いている。
石垣の手前で、ノルトマルク軍の射撃が戻った。
親王は双眼鏡を顔へ押しつけた。
歩兵が石垣へ取りつく。その先は双方の銃煙に隠れた。
「西斜面、敵兵が上がってきます!」
下士官の声で、親王は双眼鏡を動かした。
丘の向こうからノルトマルク兵が現れていた。先頭が稜線へ出たところで砲弾が落ち、続いてもう一発がその後ろへ落ちた。兵は斜面へ伏せ、後続も窪地の出口で止まった。
その間に、第五軍の歩兵が丘の上へ出た。
石垣で戦っていたノルトマルク兵がそちらへ銃を向ける。第三軍の一隊が横から石垣へ入り、後ろの中隊も続いた。
煙が流れた後にも、帝国軍の旗は丘の上に残っていた。
占領報告を持った伝令が来た時には、そこへ次の連隊が登り始めていた。
「高地を占領しました! 第五軍とも連絡がついております。フライターク閣下はなお前進可能と報告されております」
「見事だ! 先頭の師団には、約束どおり入城の先導を任せよう。ケーゼルにも知らせろ。待ってもらった分を、今から取り返す」
親王は報告書を参謀長へ渡した。
「フライタークを北西へ出し、ケーゼルの正面に残る敵を南から攻めさせろ。あの陣地まで破れれば、市街へ向かう道が開く。両軍団を揃えてエルツェンへ進ませる」
第五軍は中央街道へ下り、市街の南側と中央駅を目指す。
二つの軍の間に続く尾根にも、それぞれ一個大隊を進め、互いの連絡と側面を確保することになった。
「カールハイム大将にも礼を伝えてくれ。次にお会いするのはエルツェンで!――と。どちらの兵が先に入ったかは、その時にゆっくり伺おう」
連絡将校へ笑いかけた後、親王は両軍の進路を確かめた。
「各連隊にも境を伝えろ。追撃に夢中で味方の前へ出てはならん。第五軍が駅へ進む道も、こちらから塞がぬように」
坂道からは、砲車を呼ぶ声が上がっていた。
歩兵を通した工兵が車輪の入る場所へ土を入れ、砲兵たちも砲を押していた。
◆
丘陵線の一角が破れると、その両側でもノルトマルク軍は後退を始めた。
第三軍は正面と南側から敵陣へ入り、砲を引き出す部隊を追って西へ進んだ。
農家の塀から撃たれて止まり、砲を呼び、迂回した歩兵が隣の畑へ出ると、また前進する。次の丘にも敵はいたが、朝のように両脇の陣地と繋がってはいなかった。
昼を過ぎても、銃声は丘から丘へ移りながら続いた。
第三軍の歩兵が丘陵地帯を抜け始めた頃には、朝の戦場は弾薬車と負傷兵の列で埋まっていた。
親王も石切場を離れ、占領した農家へ指揮所を移していた。
納屋の前に机が運び出され、地図の端を石で押さえている。馬を繋ぐ柵が足りず、副官が連れてきた馬は林檎の木に繋がれていた。
午後の半ば、フライターク軍団から届いた報告には、初めて市街の家並みが記されていた。
「先頭連隊はエルツェン北東の果樹園へ進出。市街へ続く道路沿いで敵歩兵と交戦中です。ケーゼル軍団も、右手へ並びつつあります」
親王は地図へ顔を近づけた。
報告の位置から市街までは、もう丘陵線も村も挟まっていなかった。
「素晴らしい! これでエルツェンの屋根を、宿営図だけで眺めずに済む。砲兵はどこまで来た。先頭の連隊に、町の外で夕食を待たせたくはないが」
「軽砲の一部は到着しています。残る砲列も追っていますが、朝に取った陣地を越える道がまだ十分に広がっておりません」
「それは分かる。工兵も朝から働き詰めだろう。着いた砲から射撃に加え、二個軍団の歩兵を揃えて続かせろ。今、攻勢を緩めてはならん」
参謀長が命令を書き留める間に、第五軍からも通報が来た。
中央駅を望見し、先頭部隊が近づいていた。
親王がその通報を読むと、運輸参謀が駅の構内図を開いた。
「給水塔は、どうか撃たせませんように。転轍機もです。駅へ旗が上がりましても、そこが壊れれば明日の列車を入れられません」
「承知している。卿には駅を渡すと言ったのだ。駅だった場所を渡して、それで昨日の約束を果たしたことにするつもりはない」
親王は構内図へ手を置いた。
「第五軍にも砲撃制限を確認しろ。鉄道工兵は待機させておけ。駅に旗が上がったら、今度は卿の手腕を見せてもらおう」
「準備はできております。線路の破壊箇所が分かり次第、作業を始めます」
農家の前を、後続の歩兵が通っていった。
軍服は埃を被り、背嚢を吊る革帯の下だけが汗で黒くなっている。親王に気づいた将校が軍刀を上げると、列の中からも声が上がった。
親王は道の脇へ出て軍帽を取った。
「諸君、よく来てくれた! 前の連中には、もうエルツェンが見えているそうだ!」
兵の一人が帽子を掲げると、それが後ろの兵士たちにも繰り返された。
親王が机へ戻ると、参謀長が新しい報告を置いた。
「両軍の境を進んでいた部隊からです。西側に敵歩兵が集まっております。推定一個連隊。市街方向から来た新手と思われます」
地図上では、第三軍と第五軍の先頭がそれぞれ市街へ近づいていた。
「両軍の間か。嫌な位置だ。守備隊の弾薬は足りているか」
「補充済みです。ただ、両軍とも先へ進みましたので、守る範囲は広がっております」
「ではこちらも兵を加えよう。フライタークの後続から一個大隊を回し、第五軍にも増援を求めろ。今いる部隊には、高地を保持して待つように。所詮は連隊規模だ、両軍の兵が揃えば押し戻せる」
親王は砲兵参謀へも顔を向けた。
「砲兵も回してやれ。あの大隊は朝から戦い、ようやく守備へ回ったところだ。敵の反撃まで、自分たちだけで引き受けろとは言えまい」
「後続の一個中隊を向けます」
「急がせろ。守備隊にも、砲兵を向けたことまで伝えておけ」
参謀長が、市街への前進命令を取り上げた。
「こちらも予定どおり、両軍団へ発してよろしいですか」
親王は二通の報告を並べた。
「予定どおりでいい。ここで前の二個軍団まで止めれば、敵にも立て直す時間を与えることになる。両軍団長へ、攻撃続行を伝えろ」
◆
高地に入った大隊はここへ着いてから、まだ一時間も経っていなかった。
第三軍の主力が市街へ進む間、第五軍との連絡を保って側面を守るのが、大隊に与えられた仕事だった。
第一中隊長の大尉は石の隙間から西斜面を覗いた。
窪地から出てきた灰色の軍服が斜面へ散っている。
「さっき下がった連中でしょうか。もう戻ってくるとは、ずいぶん元気なものですが」
小隊長の少尉が言った。
「別の部隊かもしれん。どちらにせよ、昼飯の続きは後だな。左の小隊を少し寄せてくれ。あそこだけ石垣が低い。顔を出して待つなと、よく言っておけ」
石垣はところどころ崩れていた。
兵は近くの石を積み足していたが、敵が斜面へ出ると手を止め、銃を取り上げた。大尉は差し出された水筒から一口飲み、持ち主へ返した。
「増援が来るそうだ。今度はこちらが上にいる。追いかけて下りなければ、朝よりはましに戦える。弾は十分あるな」
薬盒を叩いて答えた兵が、その手で鼻の下を拭った。
敵の散兵が、二百歩ほど先で伏せた。
大尉は第一小隊へ構えを命じた。石垣の上へ銃口が並ぶ。
「正面だ。慌てるな、よく狙え。――撃て!」
斉射が斜面を下った。
灰色の兵が何人か倒れ、続いていた兵も地面へ伏せた。大尉は第一小隊を下げ、隣の小隊へ射撃を命じた。
その途中で敵が撃ち返してきた。
石垣の上を弾が叩き、兵の一人が銃を抱えて後ろへ倒れる。隣の兵が腕を伸ばしたところへ、砕けた石が降った。
「装填を続けろ! 負傷者は後ろの者に任せておけ!」
最初に撃った兵たちは薬包を噛み切り、銃口へ火薬を注いでいた。
第二小隊が撃つ。その煙へ、斜面から次の射撃が返ってきた。
槊杖を抜いていた兵が肩を押さえて崩れ、軍曹が襟を掴んで引き寄せた。
大尉も石垣へ身を寄せ、隙間から敵を見た。
灰色の兵は伏せたままだった。
銃を肩から外している者はいたが、銃口を立てる者も、弾を押し込むために身を起こす者も見えなかった。
その正面で、また火が光った。
「中隊長殿! 左が撃たれています! 予備をこちらへ回していただけませんか!」
「予備を左へ回せ! 立たせるなよ! 第一小隊、装填のできた者から撃て!」
すぐ隣で、古参兵がようやく槊杖を戻した。
銃を持ち上げ、撃鉄へ親指を掛ける。その銃口が石垣を越えるより先に、斜面から敵の二度目の斉射が叩きつけられた。