メジロアルダンがトレーナーに膝枕するお話。
甘々とはかけ離れてるのでご注意下さい。

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メジロ家の寝具

 

 

 書類の端が、乾いた指先に軽く引っかかる。

 

 放課後のトレーナー室。デスクには未処理の紙束が地層のように積まれていた。トレーニング計画の見直し、過去レースの分析、体調管理の記録。どれも急ぎではないが、放置していい類いのものでもない。蛍光灯の無機質な白刃が紙面を均一に切り取り、ペン先が滑る擦過音と打鍵音だけが、静寂の海へと落ちていく。

 

 時計を見る習慣は、いつの間にかなくなっていた。時間を気にしたところで、終わる量ではないと分かっているからだ。

 

 ふと、手を止める。

 視界の端に、人の気配があった。

 デスクのすぐ隣。椅子には座らず、少し距離を取った位置で――ただ静かに、俺の作業を眺めている存在がいる。

 

 メジロアルダンだった。

 

 オフシーズンに入り、トレーニングの密度は落ちている。それでも彼女はこうして時折トレーナー室に顔を出し、特に何をするでもなく、ただそこに居ることがあった。邪魔をするでもなく、話しかけるでもなく、ただ静かに。

 

 その視線は、ひどく落ち着いている。

 

 監視というほど鋭くはないが、単なる見守りとも少し違う。こちらの内側のすり減り具合をミリ単位で測るような、静謐な観察眼。

 ずっと気付いていたのに、あえて触れないでいたその視線が、じわじわと意識の表面に浮かび上がってくる。

 

「…………」

 

 ついさっきまで響いていたはずの作業音が消え、不自然な沈黙が鼓膜を打つ。

 

 俺は再開するきっかけを見失ったまま、手元のディスプレイにだけ視線を落とし続ける。見なくても分かる。あの静かな眼差しが、ずっとこちらを捉えたままだということが。

 

 喉の奥が、わずかに乾く。

 何か会話をするべきか。それとも、このままやり過ごすか。逡巡が一拍、二拍と間延びし――気まずさがとうとう臨界点に達しようとした、その瞬間。

 

「…………あのっ」

 

 張り詰めた空気を、羽毛で撫でるような柔らかい声だった。

 

「トレーナーさん……最近、お疲れですよね?」

「……え?」

 

 不意に落とされた彼女の問いに、俺は小さく息を吐き出し、止まっていた手をキーボードから離した。

 思っていたよりもずっと素朴な問いに、肩に入っていた力がわずかに抜ける。

 

 ……どうやら俺は、勝手に構えていたらしい。踏み込まれるか、取り繕いを剥がされるか。そんなことを考えていた自分に、少しだけ苦笑する。

 

「……まぁ、確かに疲れ気味かもな」

 

 軽く肩を竦めて返すと、アルダンは一度だけ長い睫毛を伏せた。

 

「……最近、遅くまで灯りがついていることが多くて」

 

 そこで言葉を切る。わずかな間。

 

「その……ちゃんと、休めていますか?」

 

 やんわりとした問いだった。責める響きはない。けれど、真綿でくるむように退路を塞いでくる声音。

 

「休めてるっていうか……まあ、要領よくやってるよ」

 

 曖昧に笑ってみせる。実態をぼかすにはこれくらいで十分だろう。

 

「……“要領よく”ですか」

 

 繰り返す声音が、ほんのわずかだけ低い。静かなまま、しかし確実に一歩、こちらの領域へ踏み込んでくる。

 

 (あ、これ誤魔化せてないな)

 

 直感する。アルダンの視線が一切の逃げ場を許してくれない。仕方なく、後頭部を掻いた。

 

「いや……その、帰ってはいるぞ。一応な」

「一応……?」

 

 間髪入れずに返される。短い相槌なのに、やけに鋭く刺さる。

 

「ほら、タイミングの問題というか」

「……では、最後に帰られたのはいつですか?」

 

 微笑みを浮かべたまま、核心だけを正確に突いてくる。

 

 観念して、視線を泳がせた。

 

「―――3ヶ月ぐらい前、かな?」

 

「ひぇっ……」

 

 息を呑むような小さい悲鳴。咄嗟に両手で口元を覆うアルダン。

 

(……可愛い)

 

 そう思ったのも束の間。

 指の隙間から覗くその瞳は、先ほどまでの態度が嘘のように冷ややかだった。何か醜いものでも眺めるかような、極寒のジト目。

 

(……待ってくれ。そんな目で見ないでくれ。お前のために、こんな社畜生活を送っているんだぞ俺は)

 

 必死の内心の弁解もむなしく――

 

「……っ」

 

 アルダンの喉が、小さく鳴った。息を整えようとしているのか、口元に当てた指先がほんのわずかに震えている。

 

「……こほん、っ」

 

 不格好な咳払い。動揺を隠しきれていないまま、それでもどうにか体裁を取り繕おうとする健気な仕草。何か強烈な感情を必死に堪え、喉の奥へと飲み込もうとしているようなその様子に、俺は少しの罪悪感を刺激される。深呼吸をひとつ挟んで、ようやくアルダンの表情が元の凪を取り戻した。

 

「ということは、トレーナー室に住み込み状態なのですね」

 

 彼女は顎に指を添え、改めて雑然とした室内を見回してから、再び言葉を紡ぐ。

 

「……あまり、休息に適した環境とは言えませんね」

 

 たちまち、その視線が部屋の隅にあるソファへと移る。一瞬だけそこを見やり、それから何かと比較するように視線を泳がせた。

 

「デスクの上にこれほど書類が積まれていては埃も立ちやすいですし、お部屋全体の空気がひどく淀んでしまっています」

「…………」

 

「それに、空調の管理も十分とは言えません。夜間は特に冷え込みますし、お身体に障ります」

「……………」

 

「そして何より……そのソファ。枕もありませんし、どう見ても身体を休めるための造りではありません。そんなところで毎日寝起きしていては、いつか限界が来ます」

「………………」

 

 そこまで理詰めでこられると、さすがに言葉に詰まる。反論の余地がないというより、見事なまでに図星だからだ。自分よりずっと年端もゆかない、制服姿の少女に正しいことしか言われないというのは、思いの外じわじわと胃にくる。

 

「まぁ、そりゃあ――」

 

 俺の内に、ちっぽけな反骨心が湧いた。

 

「『メジロ家の寝具』に比べたら質素だろうな」

「…………っ」

 

 特に悪気なく放った一言。その直後、アルダンが小さく俯いた。前髪の隙間に、ふっと深い影が落ちる。

 

(え……? 今の、地雷だったか……?)

 

 一瞬だけ、背筋に冷たいものが走る。

 けれど、アルダンは怒っているわけでは――多分、なかった。視線を床に落としたまま、指先だけをわずかに動かしている。

 

 数秒の後。

 

 すっと顔を上げたその瞳は、先ほどまでの動揺が嘘のように澄み切っていた。

 

「トレーナーさんに……メジロ家の寝具、プレゼントしてあげましょうか?」

「…………くれるの?」

「はい。今すぐにでも」

 

 その表情にはやはり怒りの色はなく、ただ澄んだ決意だけがある。思わず安堵の息が漏れた。どうやら地雷は免れたらしい。

 

(良かった………)

 

 ほっと胸を撫で下ろした次の瞬間。

 ふと、強烈な違和感がよぎる。

 

 『今すぐにでも』

 

 ……今すぐ?

 ……ここで?

 ……寝具を?

 

 思考が、空回りする。俺がフリーズしている間に、アルダンはすでに次の行動に移っていた。迷いのない流れるような動作でソファへと腰を下ろし、

 

 俺の視界に映ったのは―――

 

 自らの太ももを、ぽんぽんと軽く叩きながら、こちらに手招きするメジロアルダンの姿だった。

 

(……は?)

 

 何をしている。何をしているんだお前は。

 理解したくない。というより、ただ単純に脳の処理が追いついていない。

 

 アルダンは首をかしげるでもなく、静かにこちらを見つめ返している。その瞳からは、冗談の気配も、一切の迷いも感じ取れない。あるのはただ、“当然の提案をしている”という、純度100%のズレた『確信』だけ。

 

「どうされたんですか? メジロ家の寝具ですよ?」

 

 鈍感な俺の脳髄でも、流石に導き出さざるを得なかった。違和感の正体が、最悪の形で組み上がる。

 

 アルダンの言う『メジロ家の寝具』とは。

 つまり、彼女自身(メジロアルダン)の膝枕のことだったのだ。

 

「………いやいやいや待て待て待て」

 

 納得するよりも先に、口が勝手に動いていた。

 

「それは違うだろ。寝具っていうのは、こう……もっとこう、ちゃんとしたやつで――」

 

 大袈裟な手振りまで添えて、必死に『常識』という防壁を組み立てる。

 

「はい。ですから」

 

 しかし、アルダンの決意は一切ブレない。

 ぽん、と。もう一度、自分の太ももを軽く叩く。

 

「こちらで」

「“こちらで”じゃないんだよ」

 

 口では即座に否定する。しかし目線だけは、勝手に『ソレ』を見ていた。

 

 透き通るような白磁の肌に包まれたそこは、アスリートとしてのしなやかな張りを秘めながらも、女性特有のなだらかな起伏と吸い付くような絹の柔らかさを残している。ぽんと叩かれた瞬間に微かに波打った、あの絶妙な弾力。

 

 だが、それ以上に俺の理性をかき乱すのは、その脚がひどく脆く繊細な『ガラス』であるという事実だ。日々のトレーニングでもほんの少しの負荷すら恐れ、腫れ物を触るように守り抜いてきた絶対不可侵の領域。

 あろうことか、その場所に俺の重たくて鈍った頭を預け、遠慮なく体重をかけて沈み込ませるなどという、身の毛のよだつような――それでいて、疲弊した理性を泥のように溶かし去っていく、得体の知れない引力。

 

 アイシングでその脚に触れている俺には分かる。狂おしいほど容易く、その感触が想像出来てしまう。

 

「トレーナーさん、身体を痛めてしまいますので」

「それはそうなんだけど……」

「硬い場所での睡眠は、疲労回復の効率も落ちます」

「そんな正論で詰めないでくれ……」

「ですから、最適な環境を」

 

 すっと、アルダンの手が伸びてくる。

 立ったままの俺の袖口が、彼女の細い指先にひょいと摘ままれた。

 

 冗談めかして腕を引こうとした瞬間――

 

「……っ?」

 

 予想外の強い引きに、俺は思わず息を呑んで動きを止めてしまった。

 

 逃げ場が、完全になくなる。

 

「……あのな?」

「はい」

「流石に膝枕は……ほら。色々とまずいだろ?」

「……まずい、とは?」

 

 小首をかしげる。

 一点の曇りもない、純度100%の疑問符。

 

「俺は一応トレーナーで、アルダンは担当で――」

「はい」

「だから……距離感というか」

「距離感、ですか」

 

 一瞬だけ考える素振り。

 

 そして――

 

「では、このくらいの方が」

 

 くいっ、と。

 掴まれた袖口を、下方向へと引かれた。

 

 その拍子に、ぐらりと視界が揺れる。

 さっきからずっと立ちっぱなしだったことを、今さら思い出す。長時間のデスクワークと、3ヶ月の住み込み生活で限界を迎えていた身体は、彼女の軽い引きだけであっさりとバランスを崩した。

 

「……トレーナーさん?」

 

 倒れ込む身体を、ふわりと優しく支えられる感覚。

 そのまま、視界がゆっくりと下がって――。

 

 抗う間もなかった。

 俺の頭は、アルダンの膝へと寸分の狂いなく誘導され。

 

 柔らかいものに、触れた。

 

 (――あ、これ。やばい)

 

 頭を上げようとした瞬間、ずぶずぶと沈んだ。理性が。意識が。

 

「……っ、おい、ちょっと待て、これは――」

 

 抗議の声を上げようとして、言葉が続かない。

 ひどく良い匂いがする。妙に落ち着く。変に力が抜けていく。脳みそが、蜘蛛の巣に絡め取られたように動かない。

 

「……どうですか?」

 

 頭上から降ってくる声は、いつも通り透き通っていて。

 逃げ道を用意してくれる気配は、ただの一切合切、存在しなかった。

 

「……いや、その……」

 

 何か言おうとする。

 

 する、が。

 

 まぶたが、鉛のように重い。思考が、心地よい熱に溶かされて鈍っていく。

 

(少しだけ……本当に、少しだけなら)

 

「……………五ふんだけ」

「はいっ」

 

 間髪入れない肯定。

 まるで、この瞬間をずっと待ちわびていたような、ひどく甘く、満ち足りた響き。鼓膜をくすぐる心地のいい声音。すべてを許容し、包み込んでしまう極上の感触。

 

(………もういいか)

 

「おやすみなさい、トレーナーさん」

 

 暗転する視界の最期、俺を覗き込むアルダンの澄み切った瞳が、歪に、狂おしいほど甘く歪んだのを――俺は、疲労のせいだと片付けることさえ、できなかった。

 

 

 

 

「…………いい子ですね」

 

 抵抗を諦め、完全に力の抜けた頭の重みが、規則正しい温かい寝息とともに私の膝へと沈み込んでくる。

 

 今までアイシングや診察で触れられることはあっても、こんな風に誰かの安らぎのために重みを預けられたことなどない特別な場所。そこに今、彼の無防備な頭が乗っている。薄い布地越しにじわじわと浸透してくる体温が、やけに熱くて、心臓の奥がどくどくと煩い。

 

 思えば、私の世界はいつだってひどく壊れやすかった。

 『ガラスの脚』――そう呼ばれる私の身体。誰もが腫れ物に触るように慎重に扱い、私自身もいつ砕け散るか分からない恐怖と隣り合わせで生きてきた。幼い頃から病弱で、狭い窓枠から外を眺めるだけだった私にとって、勝負の世界は美しくも手が届かない場所だった。

 

 でも、彼だけは違った。

 私の脆さを誰よりも理解しながら、決して悲観せず、私が焦がれる『刹那の輝き』を一緒に追い求めてくれた。勝てない時期も、暗闇の中で迷う日も。彼の温かい肩は、いつでも私が羽ばたくための『止まり木』でいてくれた。放課後の他愛ないお喋りも、寄り道した先の景色も、彼が全部教えてくれた。

 

 だから、惹かれるのは必然だった。

 いつしかその温もりを、私だけのものにしたいと焦がれるようになったのは。幽霊が抱くような、死してなおこの世に残る重たい『情念』――それに似た強烈な執着が、私の奥底で静かに、けれど確かに育っていったのは。

 

 ここ数週間、彼の身体は明らかに限界だった。

 ひどく落ち窪んだ目元。カサカサに乾いた唇。私の夢を叶えるために、こんなにボロボロになってしまうなんて。誰よりも近くにいるのに……ただの『担当ウマ娘』という肩書きがひどく邪魔をして、彼の私生活にどこまで踏み込んでいいのか分からず、ずっと唇を噛んで耐えるしかなかった。

 

 分を弁えて見守るべきか、それとも。苦悩の狭間で揺れていた今日。

 

 言葉で諭すのではなく、まさか『膝枕で物理的に寝かしつける』などという、実力行使に出ることになるとは自分でも思っていなかった。でも、限界ギリギリで今にも倒れそうな彼を見ていたら、頭の奥で何かがプツンと切れてしまって。気がつけば、強引に袖を引いて自分の膝に組み敷いていた。

 

 予想外の手段だったし、やっぱり少し乱暴だったかもしれない。嫌われちゃったかな、と一瞬だけ不安になったけれど――結果として、彼はこうして私の膝という鳥籠の中で、大人しく羽を休めている。

やり方はどうあれ、何とか上手くやれたのだ。

 

 指先を、そっと髪に滑らせる。

 起こさないように。この時間を、壊さないように。

 

 (本当は。貴方の方から、来て欲しかったんです)

 

 限界を迎える前に、『疲れた』と、『休みたい』と。他の誰でもない、この私に縋り付いて甘えてほしかった。そう言ってくれさえすれば、背伸びをしてでもその背中を強く抱きしめて、赤子のようにすべてを許して甘やかしてあげたのに。

 

 視線を落としたまま、もう一度だけ撫でる。ピクリとも反応はない。完全に熟睡している。

 

(あれほど必死に抵抗していたのに。……ふふっ、今の無防備な寝顔は、本当に赤ん坊のようですね)

 

 わずかに、唇が歪な弧を描く。

 いじらしさへの可笑しさと、それから――背筋がぞくりと粟立つような、ひどく甘い征服感。

 

 胸の奥底で黒々と渦を巻き始めたそれを、明確な言葉にすることはしない。そうしないと、きっと――取り返しのつかない方向に、踏み外してしまうから。

 

 だから。今は『願い事』に留めておきます。

 

 

   ――ね。トレーナーさん?

 

 

 

 

 それから、数週間。

 時折、彼が不自然に私へ視線を向ける時間が増えた。

 

 何か言いたげに口を開きかけては、やめる。首元をさすりながら、どこか落ち着かない様子でため息をつく。

 ――まるで、あの日の温度を忘れられずにいるかのように。

 

 あの日、膝の上で静かに眠る彼の髪を撫でた感触は、当然ながらいまだに私の指先にこびりついている。忘れられるはずがない。彼にだって、忘れさせるつもりはない。

 

「…………アルダン、少しいいか?」

 

 ある日の放課後。呼び止める声は、どこかバツが悪そうで――以前のような明確な『一線』が、わずかに揺らいでいるのが分かった。

 

 心臓が、跳ねる。

 私は手元の本を閉じ、何も知らないような顔で小首をかしげてみせる。

 

「どうかされましたか?」

 

 彼は一拍だけ、迷うように視線を泳がせた。言いづらそうに視線を落とし、何度か唇を噛む。その不自然な沈黙が、私には堪らなく愛おしかった。

 

 やがて、彼は深い息を吐いた。

 

「……いや、その……俺から言うのもおかしな話なんだけどさ。……最近、なんだ……どうにも、寝つきが悪くて…………」

 

 そこで、また少しだけ間が空いた。

 そして――

 

「膝枕、頼んでもいいかな……?」

 

 

 

 

 

 ――あぁっ。

 

 その瞬間。

 肺の奥の空気が、甘く熱く、すべてほどけて溶けた。

 

 ええ、もちろん。いくらでも。いつでも。貴方が望むなら、何度でも。永遠に。

 

 決壊しそうになる歓喜の叫びを、喉の奥で必死に飲み込む。

 

 だめ、落ち着きなさい、私。ここで欲張った顔を見せたら、彼が怯えて逃げてしまう。せっかく彼からこの甘い泥沼に足を踏み入れてくれたのに。

 

 分かっているのに。

 頬が、勝手にだらしなく緩もうとする。抑えようとするほどに、頭の芯が痺れて熱が這い上がってくる。

 

「……ふふっ」

 

 熱っぽい吐息が、抑えきれずに零れた。しまった、と我に返る。慌てて口元を両手で覆い、視線を落とした。

 

 嬉しい。嬉しい嬉しい嬉しい。

 彼が。自分から。私を求めてくれた。

 

 あの日、私が密かに願ってしまったものが。いま、自ら首輪を差し出すように手の届く場所まで降りてきている。その事実が、どうしても理性を甘く塗り潰していく。

 

「……ええ、もちろんです。喜んで」

 

 ようやく紡いだ声は、抑えきれない歓喜でかすかに上擦って震えていた。

 それがどんなに重たくて歪な意味を帯びた震えなのか――お人好しな彼には、きっと微塵も伝わっていないだろう。

 

「どうぞ、こちらへ」

 

 ソファを示す指先が、わずかに揺れる。けれど、その震えを止めようとは思わなかった。

 

 ゆっくりと横たわる身体。

 彼が再び、私だけの『特等席』に頭を預けた——その瞬間。

 

 内側で何かが、小さく、けれど決定的な音を立てて弾けた。

 

 あたたかい。あの日と同じ、愛おしい重みと同じ温度。指先に、記憶が鮮明に蘇る。彼もまた、心地よさそうに小さく息を吐き、あっさりと無防備な姿を晒した。

 

 そっと、硬い髪に指を滑らせる。

 

「おやすみなさい、トレーナーさん」

 

 私を導いてくれる優秀な頭脳も、誰かのために背負い込む重圧も、もうここには必要ありません。

 

 ――あぁ、いっそ。

 

 私がこの手で甘やかさなければ、一人ではまともに呼吸すらできないほどに理性が溶け落ちて、生涯私という止まり木に縋って生きるしかない、哀れで愛おしいだけの存在に成り果ててしまいますように。

 

 ここで甘く、私に溺れたまま。

 狂おしいほどの愛を込めて、そう微笑みながら――

『願い事』をひとつ増やした。

 


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