ハリエット・ポッターの不思議な冒険 作:新参なめ子
ハティが慌ててドミトリーの窓を開けると、双子は軽やかに部屋の中へと転がり込んだ。外は猛吹雪で急いで窓を閉じている間に、双子は外套の雪を払い、部屋の中央で轟々と燃えるストーブに猫の様にするりと身を寄せた。
「あー! 寒かった! なあ、相棒!」
「外は猛吹雪だしな! 妹とハティに気付いてもらえないかと思ったぜ」
『危うく、凍え死ぬかと思った!』
双子が同時に言い放ち、けらけらと笑った。
ロニーは暫くの間、ポカンと口を開いて呆然と双子を見ていたが次第に兄二人の行いが飲み込めたのか、みるみるうちに顔を赤くして怒りの形相になった。
「あたし、いっつも言ってるじゃん! レディの部屋に無断で入るなって!」
「勝手じゃないぜ? ちゃんとレディ・ポッターにお招きしてもらったし」
「むしろ、レディ・ポッターが我々を部屋に入れてくださったわけだ」
詭弁である。
ハティもまさか双子が窓から飛び込んでくるとは思わなかったので唖然としていた。グリフィンドール寮は男子の女子寮の侵入を禁止している。入学当初、シェーマスが女子寮の階段に足をかけた時瞬く間に階段は坂へと変わり、シェーマスを弾き出したのは有名な話である。勿論、上級生たちがグリフィンドールの女子寮の防犯機能を知らない筈がなく、入学直後の恒例行事だと腹を抱えて笑っていた。そんなわけだから、双子たちは女子寮にかけられた侵入防止の魔法を知らない筈がない。
階段からはどうあっても女子寮に侵入できないので、逆手にとって窓からやってきたのだ。
ロニーはいつものことなのか溜息をつくと「それで?」と双子を睨みつけた。
「なにしにきたの、そのレディの部屋に」
「お姫様とそのメイドを昼餐会にエスコートしようと思ってね」
「大広間で優雅なランチといこうぜ。勿論、ドレスコードもある。そのエメラルドグリーンのセーターさ」
そう言って、双子はウインクをした。
クリスマスの華やかな昼食の席に集まった生徒は数えるほどしかいなかった。グリフィンドールはウィーズリー兄妹とハティ、それに七年生の女子生徒。レイヴンクローは、ハティと同学年のステファン・コーンフット、ハッフルパフは五年生の男子生徒、そしてスリザリンはルビー・ダンクワースが城に残っていた。双子の言う通り、まさに昼餐会のようでテーブルにずらりと並んだ料理は入学式のような豪華さであった。
前菜にスモークサーモンとディルソースに、
ダーズリー家では、プラスチック製の玩具や薄くペラペラな紙帽子が入ったクラッカーをペチュニアが用意し、ローストビーフやクリスマスプディングが並んでいた。そしてランチが終わると、テレビをつけて女王陛下のスピーチを聴くのがダーズリー家でのクリスマスだった。
しかし、ここにはダーズリー一家はいないし、テレビもない。女王陛下のスピーチを聴くことができないのは残念だったが、代わりにダンブルドアのスピーチがあった。
「この人数に、大きなテーブルは不要じゃの」
そう言って、ダンブルドアは指揮棒のように杖を一振りした。すると、テーブルの上の料理はふんわりと宙に舞い上がり四つのテーブルはそれぞれ壁際へと追いやられた。代わりに綺羅星のような魔法の燐光と共に大きな丸テーブルと椅子が大広間の中央に現れ、料理は全て丸テーブルへと集まった。
「今日は所属寮関係なくクリスマスを楽しむとしよう」
ダンブルドアの杖が踊り、奏者のいない楽器がひとりでにクリスマスキャロルを奏で始める。弦をひくヴァイオリンやチェロ、パイプオルガンを眺めながら、ハティはなんて素晴らしいのだろう。と思った。ハティにはまだこのレベルの魔法を使うことができない。けれども、学校を卒業した時に使えるようになるかといえば、そう思えなかった。
どの席に座るか他の生徒がうかがうような視線をそれぞれ交わす中、ウィーズリー家の双子はパーシーを引きずりさっさと席を確保していた。兄たちに呼ばれるまでもなくロニーがジョージの隣に座り、ハティも普段のようにロニーの隣に座ろうとした。そして、所在なく佇んでいるルビーに気付いた。
今日のルビー・ダンクワースは教授同様、クリスマスらしく盛装をしている。白いレースの裾を引きずるガウンに、胸には真珠の十字架をかけ、緩くおさげにした髪には真珠をちりばめている。皮膚は象牙のようになめらかに白く、相変わらず大きな瞳は不安げに潤んでいた。
ハティは入学式当日のホグワーツ急行で、コンパートメントを追い出されてしまった。と泣きながらマンディたちをたずねていたルビーを思い出した。まるでその時のように、ルビーは悲し気に見えた。
「ねえ、ルビー。良かったら一緒に座らない?」
「え?」
ルビーは驚いたように目を丸くして、こちらを見た。
「ダンブルドアが今日は所属寮関係なく座りなさいって言ってたでしょ。ここには、わたしとロニー以外にあなたと同い年の女の子はいないし。一緒にご飯を食べましょう。それとも、わたしと一緒じゃ嫌?」
「ううん、別に嫌じゃない」
ルビーは、一拍おいてから答えた。「私なんかで、本当によかったら」
ハティは思わず声をたてて笑った。
「わたしなんかって……あなたはすごくかわいいじゃない。フィルもマンディもあなたが好きだわ。きっと、フィルはわたしがあなたと一緒にいるって知ったら羨ましがると思う」
ルビーはまばたきしてハティを見返した。さりげない調子でハティは続けた。
「もし、他のスリザリンの子たちに知られるのが嫌ならそう言って。全然、平気よ。わたしはスリザリンのことについて詳しくないから、あなたにとって都合が悪くなるなら断って」
大人しいルビーの大きな瞳が、少し揺らいだ。口ごもりながら、ルビーは答えた。
「私があなたとランチを一緒にしても、きっと何も言われないと思う。あの子たちは、私にそれほど関心がないの。私は空気のような存在だもの。それにフィルとマンディは、入学前ほど私のことを好きじゃないと思うわ……むしろ、フィルは今、きっと貴方に夢中よ」
「それは寮が一緒だからよ」
ハティは軽やかに笑ってルビーを引っ張っていった。
ロニーは少し首をかしげてルビーを見たが、何も言わなかった。代わりにクラッカーを寄越してくれて、ハティはルビーと一緒にクラッカーのヒモを引っ張った。マグルの製品とは違い、紐はひどく力が必要だった。ようやく二人して成功すると、大砲のような音をたててクラッカーは爆発し、青い煙がもくもくとまわりに立ち込めた。そして、中からは生きたハツカネズミと、魔女のとんがり帽子が飛び出した。ハティは機嫌よくルビーに帽子をかぶせた。
教授たちの上座のテーブルでは、ハグリッドが既にホットワインを四杯おかわりしていた。頭にはハティがプレゼントで贈った大きな毛皮の帽子を被っており、ハグリッドは目が合うとハティにサムズアップをして機嫌よく笑いながらマクゴナガルの頬にキスをした。ハティはハグリッドに手を振り返しながらも、その隣のマクゴナガルからは目を逸らした。クリスマスプレゼントのお返しに、マクゴナガルが好きなシュガープラム菓子店の焼き菓子の詰め合わせとクリスマスカードを贈った。しかし、ダーズリー一家とまともな関係性を築いてこなかったハティには、こんな時どうやって仲直りをすればいいのか分からなかった。
ハティが鬱々としているにも関わらず、マクゴナガルは三角帽子がずれるのも構わずハグリッドのキスを受け入れ、くすくすと笑っていた。それを見てハティは自分が考えているよりも、マクゴナガルは気にしていないかもしれないと思った。
メインのローストターキーでお腹が膨れた頃、ブランデーでフランペしたクリスマスプディングが出てきた。青い炎に包まれたプディングはまたたくまに大広間を幻想的な雰囲気に包みこんだ。ハティはカスタードクリーム、ロニーはバニラアイス、ルビーはフレッシュベリーをそえてプディングを味わった。パーシーがとった一切れにはシックル銀貨が入っていて、ウィーズリー兄妹は「金持ちになるぞ!」と歓声をあげていたが、パーシーはあやうく歯を折るところだったので苦々しい顔をしていた。
ルビーはサファイアの指輪を引き当てていた。そして、その次にハティが引き当てたのは指ぬきであった。結婚を暗示する指輪に対し、ハティが独身を暗示する指ぬきを引き当てたことでルビーは気まずそうな顔をしていた。
「わたし、一生独身ってこと?」
「安心しなよ。あたしのプディングには何も入ってなかったよ」
食事を終えると、ハティは腕いっぱいにクラッカーから出たおまけを抱えていた。上級生は魔法使いのクリスマスに慣れているので、クラッカーから出た玩具の殆どを快くハティに分け与えてくれた。その中にはチェスセットがあったので、ロニーは「これでいつでもチェスができるね!」と喜んでいた。ハティは毎回、ロニーに惨敗しているのであまり嬉しくなかった。
昼過ぎ、ハティたちはウィーズリー兄妹や他の生徒と猛烈な雪合戦を楽しんだ。数は多い方が良いだろうと他の生徒に声をかけると、試験勉強を理由に断ったグリフィンドールの七年生以外は喜んで雪合戦に参加した。ステファンやハティは一年生なので、魔法なしにマグル式だったが、びしょ濡れになりながら楽しんだ。
途中で疲れ果てたハッフルパフの五年生が簡易的な焚火を魔法で用意してくれたので、休憩をかねて焚火にあたっているとルビーも息を弾ませながら焚火へと近づいてきた。
「こんなに楽しいクリスマスは初めてかもしれないわ。あのフレッドとジョージって、面白い人ね!」
「そう、すごく面白いのよ。だから、あの二人はかなりの人気者よ。多分、グリフィンドール以外にも友達がいるんじゃないかしら?」
「あの人たちはいつも人だかりの中心にいるものね……ああ、ハティ、髪が頬に張り付いているわよ」
「ありがとう」
ルビーはハティの頬から髪をはらうと、小さく微笑んだ。
「スリザリンではこんな風に気やすく遊べないわ。他の純血の女の子が怪我をしないように注意を払わなければならないもの。私もフィルみたいにグリフィンドールに入ればよかった……」
ルビーは焚火を眺めながらぽつりと呟いた。
「父はスリザリン出身なの。だから、私もそうすべきだと思った。だけど、実際にスリザリンに入ったら聞いていることと何もかも違ったわ」
「どう、違うの」
ハティは慎重に訊ねた。
「スリザリンは純血の魔法使いが多いでしょう? だけど、全員がそうじゃないの。中には混血もいるし、マグル生まれもいる。マグル生まれは魔法界で後ろ盾がないから、それを得るために純血の同窓生に仕える召使という制度があるの。寮を一歩出れば、表向き分け隔てされないし、授業だって平等に受けられる。それでも、監督生になれる年次になった頃には、支配する者とされる者の差が歴然と生まれるの。知ってる? スリザリンのマグル生まれは、大抵は監督生になれないの」
「どうして?」
「マグル生まれに純血の者が従わないから。だから、スリザリンの監督生の殆どは成績や人格ではなく、血統や家格で選ばれるの」
「そうだったの……」
ハティは驚きと同時に納得もしていた。
知性の欠片も感じられないパンジーや、ぼうっとしたリリーが一年生のリーダーと目されているのはそういった理由があったのだ。パンジーもリリーもダフネも血統と家格で選ばれた、生まれながらの支配する者なのだ。
「私、あなたやフィルが羨ましい。私があなたやフィルの立場なら、スリザリンでもっとうまくやれたのに」
「そうかしら? わたしがスリザリンに入っていたら、きっと沢山問題を起こして喧嘩ばかりしてたと思う。それに、フィルなら……フィルなら上手くやれたかもね。だって、あの子は魅力的だもの。確かに、フィルは美人で華やかよ。だけど、あの子と一緒にいる時に好きだなって思うのは、フィルが純血だとかお嬢様だからじゃなくて、愛すべき性格をしているからよ」
ルビーは暫く黙り込んだ。足元に視線を落として、そして自分に言い聞かせるように言った。
「そうね、そうだと思うわ。だから、ディランもフィルが好きなんだわ」
雪合戦は接戦を極め、相手チームの勝利に終わった。ハティたちは敗退したが、清々しい気持ちでグリフィンドール寮へと戻り暖炉で冷えた体を温め、ロニーと髪を乾かし合った。それからしばらく体を休めた後は手に入れたばかりのチェスセットを使ったデビュー戦で、ロニーにまた惨敗をした。パーシーが先輩風を吹かせて後ろからハティにアドバイスを飛ばしたが、そもそもパーシーはここ数年、ロニー相手に負け続きなので彼のアドバイスで勝てる筈がなかった。
夕食も昼食同様豪華だった。満腹になるまで御馳走を堪能して天蓋のベッドに入り、ハティはうとうととした。人生の中で一番楽しいクリスマスだったが、心の中にひっかかる気がかりがあった。マクゴナガルのことだ。今日一日、他の教授とのティータイムを邪魔することなく、他の生徒の順番を待つ必要もなくマクゴナガルと話をする機会があった。それなのに、あえて見て見ぬふりをした。
それにヤックスリーだ。ハティの命を狙い、マクゴナガルとの関係がこじれる原因を作った男がのうのうと家族とクリスマスを過ごしていると思うと、ハティはむしゃくしゃした。フィルはヤックスリーの尻尾を掴んで見せると請け負ってくれたが、それは難しいだろうということは容易に想像ができた。ヤックスリーはハティたちよりも六も年上だったし、何より狡猾に企みを隠す手段をいくらでも知っていただろうから。
とにかくあいつをどうにかしてやっつけないと。ハティはまんじりとサイドテーブルの上の時計を睨みつけ、時計の針が真夜中の二時をさすと掛布団と毛布を跳ね除けて天蓋付きのベッドを降りた。ポシェットを肩からかけてベッドの下にしまい込んだ衣装ケースを引っ張り出すと、そこから透明マントを取り出した。監督生が帰省していて普段の見回りはないし、フィルチもとうに夢の世界に旅立っていることだろう。しかし、城の中には無数の肖像画があるのでハティが夜の散歩をしていると教授に告げ口するかもしれない。
そんな時にこの透明マントの存在はうってつけである。透明人間にしてくれるからだ。ハティはポシェットの中に透明マントを突っ込むと箒を手にドミトリーの扉を開け放った。グリフィンドールの門番を務める太ったレディも今頃、深い眠りに落ちているだろう。窓から出入りするのが最も安全で、誰にも気付かれない。
夜の刺すような冷たい空気が部屋になだれ込んで、ストーブで暖められていた部屋が一気に冷え込む。ハティは深呼吸をした。肺いっぱいに冬の空気を吸い込んだせいか、体の芯から寒気がした。ぶるりと犬の様に体を震わせてハティは窓の框に足をかけると箒にまたがりそのまま外へと躍り出た。
そのまま上へと舞い上がると、ハティはいくつかの尖塔を旋回して天文台に舞い降りた。箒を背中に背負って梯子を下りるとするりと城内に忍び込むことが出来た。城内は薄暗かった。壁に松明が焚かれているが、普段歩きなれた筈の廊下がまるで初めて見る景色のように雰囲気を変えていた。
壁に投げかけられた松明の火をたよりに廊下を曲がり、階段を降りるもなかなか図書館に辿り着けない。日中であれば親切な肖像画に道を聞くことができるのに、幸か不幸か肖像画たちは鼾をかいて眠りこけていた。このままでは図書館でヤックスリーを呪い殺すための魔法を見つけるどころか遭難しそうだ、とあてもなくうろうろしていると薄っすらと石造りの壁に月の光が差し込んでいるのが見えた。
目を凝らすとドアが薄っすらと開いている。フィルチが施錠を忘れたのか、と考えながら通り過ぎようとすると遠くより「にゃあん」と猫の鳴き声が聞こえた。生徒たちが帰省した今、城内で猫を放し飼いにしているのはフィルチの飼い猫のミセス・ノリスしかいない。フィルチはミセス・ノリスの言葉が分かるのか、ミセス・ノリスにたびたび城内の警護をさせていた。
ハティは血の気のひく思いがした。真夜中であれば誰も巡回していないと思ったのに、こんな時間にミセス・ノリスが徘徊しているなんて。息を押し殺して足をとめると、遠くからフィルチの声が反響してきた。
「確かに見たんですよ、教授。誰かが箒に空を飛んでいるのを。天文台の上に降り立ちました」
「大きな鳥でも見たのではないですか」
フィルチのねっとりしたような声に対して、怪訝そうなマクゴナガルの声が続く。次第に足音が近づいてくる気配に、ハティはその場に釘付けになった。透明マントで姿を隠すことはできても、足音や息遣い、匂いまでは消し去ることはできない。ミセス・ノリスであればハティの存在に気付くかもしれない。マントを剥がれては一巻の終わりだ。
ハティは呼吸をとめて、できるだけゆっくりとドアの方に後退った。隙間からこっそりと中に入り込み、その場にずるずると座り込む。少しして二人分の足音と声が丁度すぐそばで響いた。
「まったく、あの双子には手を焼きますよ」
フィルチの声だった。「この前もクソ爆弾を廊下に沢山投げるもんですから、後の始末が大変だったんです。教授」
「あの二人を制御できる人間がいるならば、わたくしが知りたいくらいです。もし、今宵、寮を抜け出したのがウィーズリー家の双子ならばわたくしたちが一睡もせずに城中を駆けずり回っても見つかりませんよ」
ため息交じりのマクゴナガルの声が間近で聞こえた。段々と遠ざかっていく足音が、完全に聞こえなくなってハティはふーっと大きく溜息をついた。まさに危機一髪だった。この部屋の扉が開いていなければ、今頃フィルチとマクゴナガルに気付かれていたに違いない。こんな必死の思いで隠れるくらいならば、脱走するのではなかった。とハティは後悔しながら、ゆっくりと振り向いた。そして、思わず悲鳴をあげそうになった。
部屋の壁全面にはタペストリーが掛けられていた。そこに織り込まれていたのは、太陽と太陽に牙をたてる緑色の獅子だ。太陽からしとどに溢れる血が生々しい。これほど残酷なタペストリーや肖像画は城内で見たことがなかった。愕然としたハティの視線に気づいたように獅子はじろりとこちらを鋭く睥睨した。
ハティは思わず悲鳴をあげた。まるで獅子がそのままタペストリーから抜け出して襲い掛かるのではないか、という恐怖に思わずその場でうつ伏せになり逃げるべく床を這った。そして気が動転するなか、無我夢中でタペストリーから逃れようとし、頭頂部に鈍痛が走った。あまりの激痛に蹲って呻き声をあげる。鏡にぶつかったのだと気付いたのは、顔を上げた時だった。
それは天井まで届くような背の高い豪奢な鏡だった。黄金で枠が装飾されており、二本のかぎづめ状の脚がついえちる。枠の上には文字が彫ってあった。床を這ったままハティは文字を読み上げた。
「すつうを みずの のろここ のたなあ くはなで おか のたなあ はしたわ」
小さな声で呟いて、ハティは首を傾げた。アルファベッドではあるが、英文ではない。暫く考え込んでも文章が理解できず、恐る恐る薄目で鏡を覗き込んだ。一瞬、あのタペストリーが映りこむかと思ったが鏡に映っていたのはタペストリーではなく見知らぬ一人の女だった。
年の頃は二十代そこそこだろうか。革張りの肘掛け椅子に腰掛けている。ジェットブラックの豊かな髪を結い上げ、すっきりとした首元にはいつもペチュニアが身に着けている有名ブランドのネックレス。均等の取れた細身の体を白いスーツで身を包み、すらりとした脚を組んだ女は傲然と足元を見下ろしていた。彼女の足元には、みすぼらしいスウェットを身に着け、窶れはてた顔をした男女が三人。
それはよく見ると、今よりも二十以上年を取ったダーズリー夫妻とダリアだった。相当、苦労をしたのか頬はこけ、あのヴァーノンでさえガリガリにやせ細っていた。愕然とするハティの目の前で、女は形良い赤い唇に嘲笑を浮かべるとハイヒールでヴァーノンの頭をふみつけた。そして縋るようなペチュニアの手を蹴り上げ、手で三人を追い払うような仕草をすると、くるりと背を向けた。その時、ハティは女の目がエメラルドグリーンだと気付いた。
ハティは愕然とした。そこに映っていたのは、傲慢で暴力的な女だ。立派な大人であるというのに、とても知性や品格を伴っているようには見えない。けれどもそれは間違いなく、未来のハティだった。
確かにダーズリー一家のことは、この世で一番嫌いだ。物心つく前から何度も虐げられてきた。何度もダーズリー一家が破滅すればいいと思っていた。けれど、いざダーズリー一家が逆の立場になった姿を見ると胸がすくような思いと同時に、ショックだった。
「わ、わたし? こんなのが未来のわたしなの?」
こんなのが自分の未来だとは思わなかった。あまりにも衝撃的で、ハティは気付くと部屋から逃げ出していた。